2014年5月24日土曜日

名和哲夫(博物館・館長)      ・昆虫翁 名和靖の執念    

名和哲夫(名和昆虫博物館・館長)  昆虫翁 名和靖の執念
名和靖は江戸末期から大正にかけて生きた昆虫研究の第一人者で、名和昆虫博物館を作った初代館長です。
ギフチョウの発見者として有名ですが、熱心に取り組んだのは昆虫採集だけではありません。
五代目館長 名和哲夫さん 岐阜大学大学院で昆虫について学んだあと、名和昆虫研究所に入られました、平成 15年に研究所の所長、名和昆虫博物館の館長に就任されました。

名和靖の後を継いだのは、長女たかの婿養子の名和梅吉、13歳のころから靖氏のもとで昆虫を勉強していろんな発見をして、岐阜蝶の幼虫が食べる草を見つけたいと靖が思っていた時に、梅吉少年が見つけた。
三代目は名和政夫(長男)  四代目は秀夫(婿養子) 五代目(私で婿養子) 六代目(婿養子)
孫が生まれて、女の子でした。
1919年 大正8年 日本でもっとも長い歴史を持つ昆虫博物館。 岐阜公園の近くにある。
建物も古くて、文化庁の登録有形文化財の岐阜県指定の第一号になっている。
靖は事業家としての側面があり、浅草 木馬館 明治40年に通俗教育昆虫館ができた。
標本など展示物は名和靖が提供、入場者が少なくて、撤退した。

江戸末期、庄屋の孫として生れた。 昆虫が大好きであったが、農家の為になる様な仕事に就きたいと思って、収量を上げるためにもなり、青年期になると、岐阜県農事講習所(岐阜県農林の前身)
に第1回生として20歳で入る。(寄宿生活) 害虫の研究をする。
靖が研究で飼っていた毛虫がはい出して、友人から物凄く叱られた。
校長、堀清太郎?が研究熱心さからの事であると言う事で取りなしてくれた。
名和圭樹?(靖の祖父)はバラを愛していた。 
バラにアブラムシが沢山付いていて、家に戻った時にアブラムシを取る。 
其繰り返しをしていたが、対応しきれず、アブラムシの生態を調べることになる。
1本のバラの木に沢山の昆虫がいることを知ることになる。(後に本になる)
岐阜県農事講習所が岐阜県農学校に改名して、その学校を卒業した。
県庁に入るなら20円、岐阜県農学校の教員になるなら10円 好きな研究も出来ると言う事で、学校の先生をやりながら、幻灯機を使って、農会へいって、害虫、益虫に関する教育を行った。

38歳で靖は先生の職を捨てて、私財を投入して、明治29年名和昆虫研究所を立てる。
民間からの寄付だけで何とか経営する事になる。
旧帝大の人達とも対等に付き合って、研究に励んだ。
名和の名前は外国の方が有名。
アメリカの万博、パリ万博で(明治20年代) 名和靖は自分で取った昆虫標本をセットしたものを万博に展示で発表している。

名和靖は名和昆虫研究所という民間で農事試験所の様な事をやって、先駆的に食料増産に貢献したと言う事が社会的に評価されていると言う風に思っているが、マニアとしては岐阜蝶の発見者として有名です。
靖が卒業1年後  学校の仕事で2週間、旅をする。明治16年4月24日 岐阜県かな山町で見慣れない蝶を取って、東京の大学の先生に見せる。 石川千代松、若手の学者 彼も判らない。
イギリス人プライヤーに聞いたところ、これは Luehdorfia puziloiだと言う事になる
靖が新種を発見したと言う事で、持ちきりになり、周辺から岐阜蝶を発見したそうだ、と言う事になり其名前が岐阜蝶と言う事になった。(ダンダラ蝶という話もあったが)

靖の発見から6年後 1889年にイギリス人の昆虫学者がリーチが Luehdorfia puziloiとは違うと言う事になり、 Luehdorfia japonicaとして新種となった。日本にのみ生息 和名は「岐阜蝶」
春先の2~3週間しか成虫の舞う姿を見せてくれないと言う事で、春の女神、春の舞姫と言って愛称を付けて、マニアが呼んでいた。
岐阜蝶 自然保護が叫ばれるようになってきて、眉をひそめる状況になる。
岐阜蝶がいると言う事は、こういう自然環境があるから、これを護ろう、維持してゆく、そういう努力をする。
里山には岐阜蝶がいる、蝶がいなくなったと言う事は里山が変わったと言う事。
自然を語るのに、ピラミッドの一番底辺をなぞる動物群を研究をおろそかにして自然を語ると見誤ってしまうので、先々人間が絶滅する、時間を縮めてしまう、早く絶滅の時間をたぐり寄せてしまうのではないかと言うのが、靖の教えではないかと思う。

名和昆虫博物館の存続に向けて頑張っています。
靖は自分のお父さん(正也?)は圭樹?から受け継いだ庄屋業をやりながら、息子のやっている昆虫のことをサポートして、事あるごとに網を持って、昆虫採集を死ぬまでやった。
靖は昆虫採集は身体にいいぞと言っていた。