2014年3月2日日曜日

上中別府チエ(83歳)       ・卒業・野球も頑張った83歳の女子高生

上中別府チエ(83歳の元・女子高生球児)  卒業・野球も頑張った83歳の女子高生
川崎市立高津高校の定時制で、書道部と華道部のほかに、担任で野球部の監督の中島監督の勧めで野球部にも所属しました。
去年6月全国高校定時制、通信制軟式野球大会の神奈川県予選に出場してスタンドから大きな拍手を受けました。
上中別府さんは鹿児島県の農家に生まれ15歳で終戦をむかえました。
24歳で結婚し、現在子供が二人、孫が五人、ひ孫が四人います。
10年前に夫が亡くなり、娘さんから、少しは外に出てみたらと言われたのがきっかけで、76歳で夜間中学79歳で定時制高校に進みました。
高校生の中にいると、自分の年齢を忘れてしまい、夢中になってがんばってしまうというチエさん、多くの人に支えられて、大変に良い思い出ができたと話しています。
チエさんは3月1日に卒業式を迎えました。
高校生活や野球の活躍について伺います。

卒業が、これからいけなくなると思うと、寂しくていやだった。
今83歳、病気はしないので元気です。
受験したときにこの学校は、授業中寝転んだり、歌を歌っている人がいるので、大丈夫ですかと言われたが、入ってみると皆おとなしかった。(おとなしすぎる人もあった)
ある程度しゃべる様にして、コミュニケーションを取り、、仲よくなった。
親にも言えない様なことも言ってくれる様になる。
高校生活は私にしては何もかも新鮮だった。  周りは孫よりも小さい。
勉強は判らないところは女の人たちに聞くし、向こうも判らないところは聞いてくるし、楽しかった。
男の方は、なんていうか、かわいいですね。  男の子の方が色々聞いてきた。
高校時代、書道部、華道部に入っていた。  
野球は父がいるころから好きだった。 クラスに野球部の人が何人かいた。
パンを作って差し入れをしていたが、野球を見に来てくれと言われて、決勝を見に行く事にしたが、息子の嫁さんが病気になり、決勝を見に行くことができなくて、やぶれて仕舞った。
その後、中島先生が野球部に入らないかと、誘いがあった。
出来る訳ないと、言ったが先生がどうしても入ってほしいという。
どうしてもチームの為に入ってくれと言われて、ついにはいる様に決めた。
2012年10月25日のプロ野球のドラフト会議の日にあわせて入った。  (3年生の時)

ボールを拾ったりトンボをひいたりしていたが、皆が本当に優しく、みんな良い子で、楽しかった。
チームの潤滑油としていてほしいとの先生の想いであった、のではないかと思う。
やっていると出る事があるかもしれないと脅かされた。
1回戦の時、11対1の時に、9回レフトの守備を頼まれた。 
頭のなかでいろんななことがグルグル回った。
ボールが飛んでこなくてよかった。
昨日の試合でドキドキして3歳縮んでしまったと、先生に話した。

決勝に出る機会があった。  ピンチの時があり監督の伝令として私が走って行った。
「いつもの通り、落ちついていこうよ」 ピッチャーのお尻をポンポンとたたいた。
ひきつっていた皆がにこっと笑ってくれて普通の顔になって、役に立ったのかなと言う気がした。
試合は残念だが負れてしまった。
皆座り込んで悔し涙で泣いていたので、ピッチャーとキャッチャーのところに行って、「良い人生経験だったと思うよ」と言って、「さあ行こう」と、引き揚げてきた。
輪になって、一言ずついう事になったが、皆がしゃべれなかったので私から言いますと、
「敗れはしたけれど、でも敗れる気のしない本当にいいチームだったから、私はこのチームは日本一だと思っているくらい良いチームだった。皆いい人たちばっかりだし、
二位になることもあるから、今後の為に皆さんも就学するでも進学するでも、これを糧にがんばってください」と言った。

昭和5年生まれ 鹿児島の農家 学校に入ったころからそろばんがあったり、いろいろあったが、戦争になって、5、6年の時には竹槍の練習とか、家が燃えた時のバケツリレーの練習とか、だった。
15歳で終戦、貧しい時代だった、冬でも裸足で学校に行っていた。
6年の上に2年あり、その時が15歳で、女学校に行きたかった。(姉は行っていたので)
行けるような状況ではないので、父親に言えなかった。
弟、妹がいたので、ご飯を食べさせて弁当を作ってやり、一番下の子は蓆の上に置いて、姉等と学校に行っていた。
学校から帰ってくると、お風呂に水を入れたり、夕ご飯を作ったりしていた。
24歳で結婚(昭和29年)、 結婚8年後に東京に転勤する。 子供は二人いた。
子供が中学に入った時に、英語が始まった。 その時にもう負けた気がして、ドキッとした。
是はいけないと思って、本屋さんに行って英語の本を買ってきて勉強した。
どうやって書いたらいいかもわからず、一生懸命やったが駄目で、しばらく遠ざかっていた。
主人が亡くなり、英語の勉強をしようと70歳なかばで始めようとした。
でも私の頭の中では判らなかった。
落ち込んでしまって仏壇の前でお経ばっかり読んでいた。
娘がそういう事ばっかりしていてはいけないんじゃないのと言うので、英語の勉強をしようと思い、役所に行って中学校の夜間部があることが判り、電話して入学が決まった。

全部初めてのものばっかり、英語、数学。 
中学3年になって、中途半端だと思って、高校受験した。 面接の時に、入れる自信はあった。
2010年 79歳で高校生になる。  
自分で歳だ、歳だとは思わなかった。 門を入ると歳のことを考えない。
後から聞くといつまで続くのだろうと、周りは思っていたらしい。
難しくなるけれど、聞いた事のない地球、月、星を聞いて楽しくてしょうがなかった。
地図を教えてもらうと、それもカレンダーの後ろに世界地図を描きこんだ。
復習をやらないとついてはいけないので。
勉強を11時ぐらいから始めて1時ぐらいまでやる。
娘からまだやっているの、身体に良くないんじゃないのと、言われる。
娘が心配して部屋に見に来るので足音がすると、寝た振りをして、娘の目をかわしたりした。

中島先生の様な方はもう二度と会えないだろうと思う様な、どの子でも一生懸命になって相手をしてくれる先生だった。
弁論大会にも出ろと言われて、断ったんだけれども、やれと言われてやったんです。
或る程度反響を受けて、先生の言う事を聞いてやってよかったと思った。
バレンタインで野球部の人にプレゼントして、お返しに赤いグローブを貰った。凄く嬉しかった。
女子プロ野球の始球式に投げた。 学校で握り方をおしえてもらい投球練習をかなりやった。
ユニフォームを作ってもらって83番の背番号で、応援団が来てくれて、本当に嬉しかった。
今の若い人は何でも簡単にあきらめる癖があるから、なんでも諦めないで、目的を持って進んでほしいと思う。
野球部の人にはあの決勝戦の経験を思い出して、あれを思い出したら、絶対やりぬけるからやってって、と言いたいです。

もう少し字が上手くなりたいので、書道部の教室に通って、水墨画の練習をしようと思って道具を買いました。
絵手紙も書きたいし、身体を熱っしないといけないので、水泳を練習しようかなと思っています。