2014年3月11日火曜日

菅原文太(俳優)         ・ 大震災から3年 被災地東北への思い

菅原文太(俳優)          大震災から3年 被災地東北への思い
仙台市出身の俳優 少年時代の生活や被災地東北への想いを伺いました。
80歳 戦争中は宮城県北西部、現在の栗原市で疎開生活を経験しました。
戦後は新制の宮城県仙台一校を卒業して、早稲田大学に進み、その後映画俳優として、仁義なき戦いや、トラック野郎シリーズなどで活躍してきました。

宮城県栗原では昔は50~100cmの雪が降ってきていて、雪駄で学校に通っていた。
最近は若い人が仙台弁を使わなくなってしまって残念ですが。
東松島市は65%が浸水した。 宮城県の中で一番震災率が高い。
私は山育ちなので海は関係なかった。田んぼばっかりで、川が3本ある。
気仙沼の大島に一週間ぐらいキャンプに行ったことがある。
大雨でテントに入れなくて、農家の家に泊めてもらいたいと思ってその家にいき、70円で何日か泊めてもらった。
そこで馬を借りて、裸馬で大島中を回ったのが印象的だった。
船も借りて、沖に出ていって小さな島に上陸したりしていた。

築館中学 に通っていたが、全県下一斉の試験があり、志望校として一番が仙台一高だった。
先生はお前の実力では無理だと言われたが、むらむらと来て、仙台一高をうけたら、受かってしまった。
自主性を尊ぶ学校だった。 生徒の事に関しては一切関与しない様なやり方だった。
新聞部があり、全国で優勝したことがある。 私も入ったが、一回も文章を書いた事はなかった。
後輩は井上ひさしが一年下にいるが、一度も見た事がなかった。
当時は娯楽がなかった時代だったので、映画館に行っていた。 200円で3本立て。
しょっちゅう学校をさぼって見に行っていた。
どうしても東京に行くのなら、仕送りはできないと親から言われたが、東北大学を受けたが落第して、一浪して早稲田大学に行く事になる。

俳優になろうと言う様な気持は全然なかった。
喫茶店で仲間といたが、映画会社の人が来て、撮影所にきませんかと言われて、訪ねていったら監督に合わされて、映画やりませんかと言われて、いくらくれるのかと言ったら、少ないが1万円と言われた。
アルバイトで日給120~180円だったので、直ぐやりますと応じた。
今は山梨県の農業耕作放棄地代表?。  
いつまでも発展はないと思って、自分の食べ物は自分で賄わなければだめだと話しの中で説教した。
知事がそのあとに来て、御尤もです、ここで百姓をやって下さいよと言うんです。
せっかくなので、ここでやることにした。
(場所は宮城、福島など、探していたりしていたが、声が掛かりここになった)
無農薬でやっている。  
3年間は駄目だった。 綺麗な土になるのには5年ぐらいかかるよと言われた。
有機農業の連合体を作りましょうと、長野、静岡などの知事に会って話している。
売ることも一緒に考えている。

故郷が大震災の影響を受けて、 福島がどうしても最初に来る。
故郷は宮城県人だが東北全体は同じだと思っているから。
一人一人の市民として暮らしている皆さんにとっては、自分の家があとかたもなく無くなったり、大きな船が山の上にのっかったり、ビルが山の方に持って行かれたことがないので、実感としてないのが普通なのかもしれないけれど、日本という島の1/3から1/4が大きな被害を受けたわけで安閑としているわけにはいかない。
浪江町、双葉町とかいろいろな街に入って話をしたが、もう惨状というか、言葉がない。
復興のつち落ちが聞こえて居ればいいのだが、つち音なんか聞こえてこない。
直後にくらべれば、瓦礫も半分から1/3に減ったが、それ以外の惨状はほとんど手つかずで出来たのはコンクリートの堤防だけだ。
それで復興が始まったとか、ちゃんちゃらおかしいよね。