森 浩一(もり こういち、1928年7月17日-
)は、考古学者。同志社大学名誉教授。専門は日本考古学 、日本文化史学 考古学研究の第一人者 |
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魏志倭人伝のなかの 対馬、壱岐の事についての歴史情報の紹介 および卑弥呼が自殺或は責任 を取らされて亡くなったとの説を支持(松本清張が早くから唱える) |
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帯方郡(中国の出先機関がある場所)が当時日本に対して重要な支配する場所であった | |||||||||
子供の頃川へ遊びに行ったら、土器の破片を見つける 他の人に聞いても分からず、自分で調べたことによって興味がわいたことが良かった |
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魏志倭人伝は中国人が書いた歴史書 3世紀の終わり 「陳寿」が書いた(日本に来たことはない) 日本を書いた最初の歴史書 2013文字 |
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びっしりと書いてるので、内容的には2~3倍ある 魏志というのは最初から丁寧に読まなければ ならない |
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倭へ来て 倭の国 対馬、壱岐について丁寧に書いてある (朝鮮半島の国はミックスジュースのように 書いてあるが) |
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対馬は離島であり、大陸に近い 60~70km | |||||||||
日本ほど周辺の島の面白いところはない 離島は中国、朝鮮にも近い(対馬等)、ロシアにも近い (礼文、利尻) |
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九州北部 福岡、佐賀、熊本界隈のところを書いてある | |||||||||
大学4年の時 朝鮮戦争が始まる→大陸に行けなくなる→対馬に行く | |||||||||
宮本常一 民俗学者 農民が集まってくる 農業技術を伝達する | |||||||||
山口麻太郎 民俗学者に泊めてもらう | |||||||||
倭人伝というのは紀行文であるなと実感した(活字だけではで目 実際に行ってないと研究にならない) | |||||||||
朝鮮半島の一番南 釜山の横にキンカイというところがありその辺りから船で出る「 海千里程渡ると 対馬の国に至った |
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帯方郡 東南の大海の中に在り 」 | |||||||||
帯方郡:現在のピョンヤンとソウルの真ん中ぐらい 中国の出先機関 新しく出来た触民地支配の役所 (いろいろと日本を支配する役所) |
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国々には都がある | |||||||||
朝鮮半島で作ったと思われる珍しい青銅器が一杯対馬から出る(九州の島ではあまり発見されない 珍しい物は対馬の人が手に入れている) | |||||||||
対馬の人の動く範囲は広い(朝鮮~九州、五島列島) |
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伊都国 一番多く書かれている | |||||||||
壱岐 対馬より田んぼが多い 春の辻遺跡 遺跡が最近おおく発掘されている 国ユウ(大都市) |
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クジラの骨を使った道具が多く出る 捕鯨の壁画がある 鹿の骨 占いに用いる | |||||||||
カラカミ遺跡 弥生時代の終わり 都市としてにぎわった | |||||||||
壱岐寺 重要な寺であったらしいがどこにあるかわからない | |||||||||
対馬 私貿易が盛ん 「南北にシテキ(商業貿易)する」 | |||||||||
奈良時代に対馬、壱岐の人達を連れて中国に行く(だから文化の通過点ではなく重要な都市であったことが伺える) |
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ヒロサキ銅矛(祭り用)の大半が対馬から出る 142本 壱岐には出ない | |||||||||
永富久恵氏 東アジア的眼配りを持った人 「対馬国史3巻」を出版した人 | |||||||||
伊都国、那国当りでヒロサキ銅鉾の鋳型が出てくる(しかし銅鉾そのものは出ていない) | |||||||||
「倭人伝を読み直す」出版 →丁寧に倭人伝に則して読んでゆく | |||||||||
北部九州と中央九州(後の熊襲)の対立の図式を解いで、それの役割を果たしたのが、帯方郡から 派遣された「張政」という役人 |
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張政が長い間滞在して 彼が狗奴国(クナ)と女王国との和解に努力した | |||||||||
倭人伝有名な個所 「卑弥呼 もって死す」 松本清張が早くから指摘していた事故があって責任を 取らされて死んだ場合あるいは自殺した場合 |
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に使われる | |||||||||
岡本健一 中国の歴史書から何百と使用例に対して拾い集めたが同様な使用であった |