水澤心吾(俳優) 一人芝居で伝えたい、外交官・杉原千畝の心(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/blog-post_13.htmlをご覧ください。
2014年9月30日火曜日
2014年9月29日月曜日
パックンマックン(お笑いタレント) ・萩本欽一の人間塾
パックンマックン(お笑いタレント) 萩本欽一の人間塾
最近感動したこと。
(パックンマックン)2年前子供と一緒にウオーキングをしていたら、お爺さんが一人でラジオを持って、一人でラジオ体操をしていたが、久しぶりに行ったら、いつの間にか100人になっていた。
お爺さんは使命感を感じて、休めなくなった。
(萩本)お地蔵さんが綺麗に掃除されていて、おばあさんが30年掃除しているとのことで、「父ちゃんが戦争にいって、あのお地蔵さんに父ちゃん帰してくれ、父ちゃん帰してくれ」と言っていて、お願いだけだと悪いと思って、掃除をしたんだって、そうしたら父ちゃんが帰ってきたとの事で、本当は止めたかったんだけど、そうもいかないし、止まらなくなって、今もやっているそうですが、でも不思議なもんで、あんなに待っていた父ちゃんは直ぐに死んでしまったとの事。
でも今もやっているとの事。
(萩本) 子供にギャグを言うものではない。 小学校の1年の子供に通信簿が酷かったので「勉強しないと間抜けな顔になっちゃうよ」と言ったら、ある時お客さんが来て、他の二人は「いらっしゃい」といって迎えたが、その子だけが行かないので、どうしていかないのか聞いたら「俺、人様に見せる顔ではないからな」と言って気にしている。
アメリカの好きなところ。
(パックンマックン)ハグするのが羨ましい。
アメリカでは親孝行は義務付けられているというか、お母さんが一番大事。神様の次に偉い。
一番酷い言葉はおかあさんをけなすこと。
母親を大事にする文化。
欽ちゃんに聞きたいこと
座右の銘 大好きな言葉
(お客さん) 「一生懸命」 「プラス思考」
(萩本) 「自然」 悩むは自然ではない 時の流れに、のような 悩まない
足を踏まれて「痛い」とは言わずに「踏んじゃいましたね」といって、我慢したから小さい運が来るだろうと、そうして小さい運が積み重なるのではと思う。
悩むと素敵な人が誰も出てこない、悩まないと素敵な人が出てくる。
アドリブのきく人
(パックンマックン)酒を飲んだ帰り、カレー店にいって、叔母さんにご飯半分にしてくださいと言って、半分にしてもらったが、友だちがその半分のご飯を下さいと言って、皿に半分盛ってもらい、友だちが「カレーうまそうだな」と言ったら、叔母さんがその皿にカレーを盛ってくれた。 粋なおばさんだった。
(萩本)相棒とネタを打ち合わせる、夢を語ると、喧嘩をするので夢を語らない、二郎さんとは話をしない、付き合わない、だからずーっと仲良し。
(萩本)コントで台本は無い。 書いたら出来ない。 二郎さんにマラソンと言って、私はコーチ、あんたは選手、じゃあと言ったら終わっている。 そうじゃないとできない。
本を書くと活字が頭に浮かんできて、活字を追っかけているだけで中味がおかしくならない。
活字が無いと、お客さんを何とか可笑しくしようと、そのことだけ考えてやれば、おかしくなる。
55号は同じネタを二度やらないと言っていたんだけれど、同じコントを二度やれない。
二郎さんは30年付き合ってどういう人間だか分らなかったが、亡くなる寸前、最高だなと思ったとき、気が付いた時にもういなかった。
(マックン) パックンのいいところは、ネタを全然覚えない。
アドリブが物凄い、お客さんに受ける。
(萩本)お客さんをどうやって楽しくさせるのかが一番で、その次ネタを思いだすこと。
(パックン) 相い方がアメリカ人というこの危険な状態に挑戦したマックンは素晴らしい、凄いと思う。
いつ帰国してもおかしくない、しかもハーバード卒業だし、日本の芸能界で長くやるはずがないじゃないですか、そんな危ない怪しい僕と組んだマックンが素晴らしい、マックンが僕を愛してくれていると思う。
(萩本)夫婦で素敵だなあと思ったのは、お父さんが亡くなってしまって、葬式であーら欽ちゃんて笑っているので、坊さんが何かあったんですか、といったら、なんも不安もない人で100%幸せで此の人から泣くという事が私にはないんですといったら、失礼な質問をしましたとお坊さんが言ったとの事。
亡くなる時に、お母さんがお父さんのおでこに、「お父さん 凄い幸せだったわよ」と言ってパンと叩いたという事だった。 最高に幸せを頂くと、泣くのではなくて、有難うと、そういうのはいいなあと思った。
最近感動したこと。
(パックンマックン)2年前子供と一緒にウオーキングをしていたら、お爺さんが一人でラジオを持って、一人でラジオ体操をしていたが、久しぶりに行ったら、いつの間にか100人になっていた。
お爺さんは使命感を感じて、休めなくなった。
(萩本)お地蔵さんが綺麗に掃除されていて、おばあさんが30年掃除しているとのことで、「父ちゃんが戦争にいって、あのお地蔵さんに父ちゃん帰してくれ、父ちゃん帰してくれ」と言っていて、お願いだけだと悪いと思って、掃除をしたんだって、そうしたら父ちゃんが帰ってきたとの事で、本当は止めたかったんだけど、そうもいかないし、止まらなくなって、今もやっているそうですが、でも不思議なもんで、あんなに待っていた父ちゃんは直ぐに死んでしまったとの事。
でも今もやっているとの事。
(萩本) 子供にギャグを言うものではない。 小学校の1年の子供に通信簿が酷かったので「勉強しないと間抜けな顔になっちゃうよ」と言ったら、ある時お客さんが来て、他の二人は「いらっしゃい」といって迎えたが、その子だけが行かないので、どうしていかないのか聞いたら「俺、人様に見せる顔ではないからな」と言って気にしている。
アメリカの好きなところ。
(パックンマックン)ハグするのが羨ましい。
アメリカでは親孝行は義務付けられているというか、お母さんが一番大事。神様の次に偉い。
一番酷い言葉はおかあさんをけなすこと。
母親を大事にする文化。
欽ちゃんに聞きたいこと
座右の銘 大好きな言葉
(お客さん) 「一生懸命」 「プラス思考」
(萩本) 「自然」 悩むは自然ではない 時の流れに、のような 悩まない
足を踏まれて「痛い」とは言わずに「踏んじゃいましたね」といって、我慢したから小さい運が来るだろうと、そうして小さい運が積み重なるのではと思う。
悩むと素敵な人が誰も出てこない、悩まないと素敵な人が出てくる。
アドリブのきく人
(パックンマックン)酒を飲んだ帰り、カレー店にいって、叔母さんにご飯半分にしてくださいと言って、半分にしてもらったが、友だちがその半分のご飯を下さいと言って、皿に半分盛ってもらい、友だちが「カレーうまそうだな」と言ったら、叔母さんがその皿にカレーを盛ってくれた。 粋なおばさんだった。
(萩本)相棒とネタを打ち合わせる、夢を語ると、喧嘩をするので夢を語らない、二郎さんとは話をしない、付き合わない、だからずーっと仲良し。
(萩本)コントで台本は無い。 書いたら出来ない。 二郎さんにマラソンと言って、私はコーチ、あんたは選手、じゃあと言ったら終わっている。 そうじゃないとできない。
本を書くと活字が頭に浮かんできて、活字を追っかけているだけで中味がおかしくならない。
活字が無いと、お客さんを何とか可笑しくしようと、そのことだけ考えてやれば、おかしくなる。
55号は同じネタを二度やらないと言っていたんだけれど、同じコントを二度やれない。
二郎さんは30年付き合ってどういう人間だか分らなかったが、亡くなる寸前、最高だなと思ったとき、気が付いた時にもういなかった。
(マックン) パックンのいいところは、ネタを全然覚えない。
アドリブが物凄い、お客さんに受ける。
(萩本)お客さんをどうやって楽しくさせるのかが一番で、その次ネタを思いだすこと。
(パックン) 相い方がアメリカ人というこの危険な状態に挑戦したマックンは素晴らしい、凄いと思う。
いつ帰国してもおかしくない、しかもハーバード卒業だし、日本の芸能界で長くやるはずがないじゃないですか、そんな危ない怪しい僕と組んだマックンが素晴らしい、マックンが僕を愛してくれていると思う。
(萩本)夫婦で素敵だなあと思ったのは、お父さんが亡くなってしまって、葬式であーら欽ちゃんて笑っているので、坊さんが何かあったんですか、といったら、なんも不安もない人で100%幸せで此の人から泣くという事が私にはないんですといったら、失礼な質問をしましたとお坊さんが言ったとの事。
亡くなる時に、お母さんがお父さんのおでこに、「お父さん 凄い幸せだったわよ」と言ってパンと叩いたという事だった。 最高に幸せを頂くと、泣くのではなくて、有難うと、そういうのはいいなあと思った。
2014年9月28日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(奈良県)
五木寛之 歌の旅人(奈良県)
「風の王国」著書 で奈良県にはよく通った。
学者の方とかお付き合いがあり、古墳、お寺とか、普通のぞけないような所を見ることができた。
二上山 (にじょうさん、ふたかみやまともいう。)
当麻寺、法隆寺 東大寺 室生寺・・・など沢山。
日本の歴史の発祥の地であり、心のふるさとの様な感じ。
国宝の木彫の半数以上が奈良県にある。
正倉院 シルクロードから渡来した楽器などいろんなものがある。
1年通っても見切れないほど、いろんなものがある、宝物の山みたいなのが奈良。
薬師寺 東塔(奈良時代のもの、国宝)、西塔 再建された棟ははではでしいが、1000年経てば味が出てくる。
奈良は華やかな都だった。
「燃える秋」 作詞 五木寛之 歌 山本純子 ハイファイセット
アジアに開かれた国際的な都市だった。
仏教伝来して、奈良に大きなお寺ができた。
光明皇后が蒸し風呂(サウナ)を作って、病んだ人を介護された、というところがそのまま残っている。
修二会 お水とり。
教えとしての仏教だけでなく、音楽、ページェントと一体の時代が連想される。
和辻哲郎 古寺巡礼
戦争以前は さびさびとして、荒廃していたが、戦後政府が力を入れたりして立派に再建された。
奈良を舞台に様々な作品が生まれている。
唐招提寺 鑑真
堂本剛、田中政治、青山テルマ 俳優新珠三千代、尾野真千子 、 松下奈緒、吹石一恵、
城島 茂、明石家さんま・・・。
「ガラスの少年」 歌 堂本剛
万葉集。
万葉賞、国際的に日本研究を続けている研究者たちの中で、注目すべき仕事をした方たちに奈良県から送る賞。 中西進、ドナルド・キーン・・・。
奈良の自然 飛鳥、一木一草にまで古代の物語とか、エピソードが沁みついている土地だから、人々が集まるんだんなあと思います。
仏教の文化と神道の文化が混在して、一つの独特の自然観、宗教観を形作ってきたというところがある。
源信 「往生要集」 極楽浄土、地獄のあり様を如実に描き出して、平安時代から日本人の中での地獄極楽の観念が定着してゆく。
日本人の精神史の上で、万葉の時代から奈良は非常に大きな土台を作り上げたところだと思います。
「平城山(ならやま)」 歌 立川 清登
産物 書道の墨、 割り箸(国産の割りばしの70%)
高田 好胤 一緒に食事をした時に、ふところからマイ割り箸を取り出して、もったいないからと言って食事をしたのを思い出す。
水平社運動が最初に始まった土地 西光万吉 水平宣言を書いて、西光寺にお参りにいった。
基本的人権が奈良から光が日本全国に広まっていったことは忘れてはならない大事なことだと思います。
ノーベル化学賞 福井 謙一 考古学者 網干 善教 樋口 清之
ソゴウ創設者、十合伊兵衛 武田薬品創業者、武田長兵衛 陶芸家富本 憲吉 画家 上村 松園
作家住井すゑ 漫画家楳図かずお 映画監督 井筒 和幸 河瀬 直美
スポーツ サッカーの楢崎正剛 野球 江夏豊 柔道 野村忠宏 ボクシング村田 諒太
正光寺 住職が若いころNHKの放送記者をやっていて、高松塚古墳の時は大活躍をした。
奈良は裏に回ると民家が沢山あるが、路地などは、ふぜいがある。
作曲家 松村 又一 中村 泰士
「愛は傷つきやすく」 作曲 中村 泰士 歌 ヒデとロザンナ
奈良漬け
平城京の跡地から、かす漬けうりと印された木簡が発掘された、奈良漬けの様なものが古くから食されていた。
シルクロード経由でいろんなものが一杯もたらされた。
学問だけでなく、植物、食物、衣服、建築など外国の文物が入ってきて、国際都市として、豪華絢爛たる風景が広がっていたのが奈良。
高野山が女人禁制で途中までしか入れなかった時期に、室生寺だけが女性を受け入れた「女人高野」という別名がついた話に感動して、女人高野を書きました。
「女人高野」 作詞 五木寛之 歌 田川 寿美
「風の王国」著書 で奈良県にはよく通った。
学者の方とかお付き合いがあり、古墳、お寺とか、普通のぞけないような所を見ることができた。
二上山 (にじょうさん、ふたかみやまともいう。)
当麻寺、法隆寺 東大寺 室生寺・・・など沢山。
日本の歴史の発祥の地であり、心のふるさとの様な感じ。
国宝の木彫の半数以上が奈良県にある。
正倉院 シルクロードから渡来した楽器などいろんなものがある。
1年通っても見切れないほど、いろんなものがある、宝物の山みたいなのが奈良。
薬師寺 東塔(奈良時代のもの、国宝)、西塔 再建された棟ははではでしいが、1000年経てば味が出てくる。
奈良は華やかな都だった。
「燃える秋」 作詞 五木寛之 歌 山本純子 ハイファイセット
アジアに開かれた国際的な都市だった。
仏教伝来して、奈良に大きなお寺ができた。
光明皇后が蒸し風呂(サウナ)を作って、病んだ人を介護された、というところがそのまま残っている。
修二会 お水とり。
教えとしての仏教だけでなく、音楽、ページェントと一体の時代が連想される。
和辻哲郎 古寺巡礼
戦争以前は さびさびとして、荒廃していたが、戦後政府が力を入れたりして立派に再建された。
奈良を舞台に様々な作品が生まれている。
唐招提寺 鑑真
堂本剛、田中政治、青山テルマ 俳優新珠三千代、尾野真千子 、 松下奈緒、吹石一恵、
城島 茂、明石家さんま・・・。
「ガラスの少年」 歌 堂本剛
万葉集。
万葉賞、国際的に日本研究を続けている研究者たちの中で、注目すべき仕事をした方たちに奈良県から送る賞。 中西進、ドナルド・キーン・・・。
奈良の自然 飛鳥、一木一草にまで古代の物語とか、エピソードが沁みついている土地だから、人々が集まるんだんなあと思います。
仏教の文化と神道の文化が混在して、一つの独特の自然観、宗教観を形作ってきたというところがある。
源信 「往生要集」 極楽浄土、地獄のあり様を如実に描き出して、平安時代から日本人の中での地獄極楽の観念が定着してゆく。
日本人の精神史の上で、万葉の時代から奈良は非常に大きな土台を作り上げたところだと思います。
「平城山(ならやま)」 歌 立川 清登
産物 書道の墨、 割り箸(国産の割りばしの70%)
高田 好胤 一緒に食事をした時に、ふところからマイ割り箸を取り出して、もったいないからと言って食事をしたのを思い出す。
水平社運動が最初に始まった土地 西光万吉 水平宣言を書いて、西光寺にお参りにいった。
基本的人権が奈良から光が日本全国に広まっていったことは忘れてはならない大事なことだと思います。
ノーベル化学賞 福井 謙一 考古学者 網干 善教 樋口 清之
ソゴウ創設者、十合伊兵衛 武田薬品創業者、武田長兵衛 陶芸家富本 憲吉 画家 上村 松園
作家住井すゑ 漫画家楳図かずお 映画監督 井筒 和幸 河瀬 直美
スポーツ サッカーの楢崎正剛 野球 江夏豊 柔道 野村忠宏 ボクシング村田 諒太
正光寺 住職が若いころNHKの放送記者をやっていて、高松塚古墳の時は大活躍をした。
奈良は裏に回ると民家が沢山あるが、路地などは、ふぜいがある。
作曲家 松村 又一 中村 泰士
「愛は傷つきやすく」 作曲 中村 泰士 歌 ヒデとロザンナ
奈良漬け
平城京の跡地から、かす漬けうりと印された木簡が発掘された、奈良漬けの様なものが古くから食されていた。
シルクロード経由でいろんなものが一杯もたらされた。
学問だけでなく、植物、食物、衣服、建築など外国の文物が入ってきて、国際都市として、豪華絢爛たる風景が広がっていたのが奈良。
高野山が女人禁制で途中までしか入れなかった時期に、室生寺だけが女性を受け入れた「女人高野」という別名がついた話に感動して、女人高野を書きました。
「女人高野」 作詞 五木寛之 歌 田川 寿美
2014年9月27日土曜日
神居文彰(平等院住職) ・修理は何をあらわしたのか
神居文彰(平等院住職) 修理は何をあらわしたのか
56年ぶりの大規模な修復作業を経て、よみがえったばかりの平等院鳳凰堂についての話です。
日本の古代建築は約150年に一度修理をしてゆく事が出来れば、継続する事が出来ると言われています。
平等院鳳凰堂はデザイン、美しさを追求したため、その半分、60~70年に一度中規模修理が必要で、130~140年に一度大規模修理が必要だといわれる。
昭和26~31年にかけて行った昭和修理、大規模修理。
今回は中規模修理。折り返し点。
日本は木の文化なので痛みが早い。 必ずメンテナンスが必要。
今回の修理は
①鳳凰堂の外装の色、塗装(枯れている色が無くなった元の鳳凰堂の方が美しいのではないかとの議論があったが、新しくする)
鳳凰堂が赤く塗られたら落ちついた色で、議論が無かったかのようだった。
②瓦 平安時代の瓦が現代まで使われていることが判った。
5万点のうち1500点が平安時代の瓦
一番状態が良くなかったのが昭和の時代のもの、割れている瓦は非常に成分、粒度が均一。
平安時代のは石ころ、大きい粒、小さい粒があり不均一、その方が丈夫だった事が判った。
③金工品等
常見 永久にそのままだという事
断見 全てが断絶する、無くなってしまうと考える。
様々な結びつきによって、現れたもの、両方に偏ることなく、連綿と続いてゆく事。
顔には約6兆個細胞が有るが、細胞は分裂を繰り返してゆくが、一つの細胞が50回分裂を繰り返すと、その細胞の命が終わる。
20時間ぐらい細胞分裂が繰り返され、50回、60兆(身体全体で60兆) 60兆の細胞が入れ換わるのに約1月。
一月前と今の顔は違うのか? 変わっていかない。
世界遺産 2つの考え方
①オーセンティシティー(authenticity 真正性) 間違いなく正しくそのものが伝わり続けているか?
②インティグリティー (integrity 真実性) 本当のものなのか?
古代建築を見た役員が1400年前と言うけど、或るところは江戸時代、明治、 どこが1400年前なのか?
例え、部材が変わっても、調達法、削り方、技法、理念それは変わることなく今まで続いている。
非常に豊かな真正性の考え方だという事で日本でも世界遺産の登録が進んできた。
修理の時 鳳凰堂の周りに丸太と番線だけで、鳳凰堂を覆った。(1000年の歴史で初めて)
修理の場所だけ足場などを作っていた。
鳳凰堂は4つ 中堂、翼廊(左右)、尾廊 で出来ている。
丸太の数 鳳凰堂を覆うのに、5000本、 1本300kg 建物を覆い修理をする。
鳳凰堂は東を向いている。 夕方には真背中に太陽が沈んで行く。
鳳凰堂の背後にはかつて、おおきな小倉池があったが、水蒸気が上がるので、空気中に沢山の水分が入り、青い光を吸収するので真っ赤な夕日を見ることができる。
日想観 3~4世紀 中央アジアで此の考え方が非常に強く思想化されてゆく。 当時仏を見たい。
見るための方法を模索されてゆく。
沈んでゆく夕日、その姿をいつまでも見ることができる、そんなメディテーション(Meditation、瞑想)
これが仏の極楽浄土(?よく聞き取れず)を見るための最初にすることだといわれる。
必ず迎えなくてはいけない、誰も避けることのできない、いつ来るかわからない、その時間。
日想観 日本では日が沈んでゆく時、眠る時、眠っている時も、私を守ってくださいという、一息、一息が救済を願う声だという思想が出てきたり、眠っている時も必ず守ってくださっているという時間の表れだとされる。
眠る時「お休みなさい」・・・これは安らかに、安のんで、穏やかな時間を、という 声を出して確認しあう。
鳳凰堂は真東を向いている、沈む夕日、真っ赤に燃えてゆくそこに映える鳳凰。
鳳凰のつま先まで金色をしていることが判った。
鳳凰は青銅で出来ている。 屋根の上に、鳳凰が降り立つと云う事を思ってこの鳳凰を据えた。
鳳凰堂は大切な命の先の命が生きる場所の御堂を再現したものであるという事を、改めて感じていただけるのではないかと思います。
来光図が描いてある。 お迎えの瞬間。 男の人が横たわって、周りに祈る人ケアをする人、泣いている人が描かれている。 別の部屋には普通に談笑している姿も描かれている。
古文書に書いてあるが、病んでいる時、唇が渇くから綺麗な水でうるおしてあげなさい、亡くなった後の儀礼ではなく、病んでいる時の繊細な配慮。
看取ってあげなさい、だから私たちかけつけようとするでしょう、間に合わなくても、最も近しい人がその時間を共有出来るように、そばにいこうとする。
鳳凰堂の中にはそのような絵が書いてあります。
西側の扉の絵が日想観の絵。 左側がほとんど水(海)、そこに沈む夕日。
平等院の庭は浄土庭園の完成でもある。(日本の原風景を落とし込んでいる)
沢山のハスが描かれているが、銀箔で描かれていることが判った。
白蓮華 写実的に描かれているものだった。
螺でんで 蝶が描かれている。
昔は古い塗装の上に塗っていたので、古い塗装が内部に残っていて、酸化鉄系、鉄を焼いて鉄が混じった土を焼いて赤くしたもの。
焼き方によっていろんな赤が出る。
鉄系の顔料は非常に持ちがいいので色がなかなか変わらない。
扉には四季の絵が表現されている。
変化してゆくものを受け止めて、その時その時、そしてこの生きざまに振り向けてゆく、四季の捉え方、それを鳳凰堂が表現してあった。
鳳凰堂の表現は、自然の中に在り、自然を表現し、命のありようを考える。
自然と一体化している、自然に解放された空間ではないかと思っている。
鳳凰、社会が幸せになると降り立つ鳥です、喜びの鳥。
(わたし自身あまり内容を理解できず、散漫な表現になってしまいました事をお詫びします。)
56年ぶりの大規模な修復作業を経て、よみがえったばかりの平等院鳳凰堂についての話です。
日本の古代建築は約150年に一度修理をしてゆく事が出来れば、継続する事が出来ると言われています。
平等院鳳凰堂はデザイン、美しさを追求したため、その半分、60~70年に一度中規模修理が必要で、130~140年に一度大規模修理が必要だといわれる。
昭和26~31年にかけて行った昭和修理、大規模修理。
今回は中規模修理。折り返し点。
日本は木の文化なので痛みが早い。 必ずメンテナンスが必要。
今回の修理は
①鳳凰堂の外装の色、塗装(枯れている色が無くなった元の鳳凰堂の方が美しいのではないかとの議論があったが、新しくする)
鳳凰堂が赤く塗られたら落ちついた色で、議論が無かったかのようだった。
②瓦 平安時代の瓦が現代まで使われていることが判った。
5万点のうち1500点が平安時代の瓦
一番状態が良くなかったのが昭和の時代のもの、割れている瓦は非常に成分、粒度が均一。
平安時代のは石ころ、大きい粒、小さい粒があり不均一、その方が丈夫だった事が判った。
③金工品等
常見 永久にそのままだという事
断見 全てが断絶する、無くなってしまうと考える。
様々な結びつきによって、現れたもの、両方に偏ることなく、連綿と続いてゆく事。
顔には約6兆個細胞が有るが、細胞は分裂を繰り返してゆくが、一つの細胞が50回分裂を繰り返すと、その細胞の命が終わる。
20時間ぐらい細胞分裂が繰り返され、50回、60兆(身体全体で60兆) 60兆の細胞が入れ換わるのに約1月。
一月前と今の顔は違うのか? 変わっていかない。
世界遺産 2つの考え方
①オーセンティシティー(authenticity 真正性) 間違いなく正しくそのものが伝わり続けているか?
②インティグリティー (integrity 真実性) 本当のものなのか?
古代建築を見た役員が1400年前と言うけど、或るところは江戸時代、明治、 どこが1400年前なのか?
例え、部材が変わっても、調達法、削り方、技法、理念それは変わることなく今まで続いている。
非常に豊かな真正性の考え方だという事で日本でも世界遺産の登録が進んできた。
修理の時 鳳凰堂の周りに丸太と番線だけで、鳳凰堂を覆った。(1000年の歴史で初めて)
修理の場所だけ足場などを作っていた。
鳳凰堂は4つ 中堂、翼廊(左右)、尾廊 で出来ている。
丸太の数 鳳凰堂を覆うのに、5000本、 1本300kg 建物を覆い修理をする。
鳳凰堂は東を向いている。 夕方には真背中に太陽が沈んで行く。
鳳凰堂の背後にはかつて、おおきな小倉池があったが、水蒸気が上がるので、空気中に沢山の水分が入り、青い光を吸収するので真っ赤な夕日を見ることができる。
日想観 3~4世紀 中央アジアで此の考え方が非常に強く思想化されてゆく。 当時仏を見たい。
見るための方法を模索されてゆく。
沈んでゆく夕日、その姿をいつまでも見ることができる、そんなメディテーション(Meditation、瞑想)
これが仏の極楽浄土(?よく聞き取れず)を見るための最初にすることだといわれる。
必ず迎えなくてはいけない、誰も避けることのできない、いつ来るかわからない、その時間。
日想観 日本では日が沈んでゆく時、眠る時、眠っている時も、私を守ってくださいという、一息、一息が救済を願う声だという思想が出てきたり、眠っている時も必ず守ってくださっているという時間の表れだとされる。
眠る時「お休みなさい」・・・これは安らかに、安のんで、穏やかな時間を、という 声を出して確認しあう。
鳳凰堂は真東を向いている、沈む夕日、真っ赤に燃えてゆくそこに映える鳳凰。
鳳凰のつま先まで金色をしていることが判った。
鳳凰は青銅で出来ている。 屋根の上に、鳳凰が降り立つと云う事を思ってこの鳳凰を据えた。
鳳凰堂は大切な命の先の命が生きる場所の御堂を再現したものであるという事を、改めて感じていただけるのではないかと思います。
来光図が描いてある。 お迎えの瞬間。 男の人が横たわって、周りに祈る人ケアをする人、泣いている人が描かれている。 別の部屋には普通に談笑している姿も描かれている。
古文書に書いてあるが、病んでいる時、唇が渇くから綺麗な水でうるおしてあげなさい、亡くなった後の儀礼ではなく、病んでいる時の繊細な配慮。
看取ってあげなさい、だから私たちかけつけようとするでしょう、間に合わなくても、最も近しい人がその時間を共有出来るように、そばにいこうとする。
鳳凰堂の中にはそのような絵が書いてあります。
西側の扉の絵が日想観の絵。 左側がほとんど水(海)、そこに沈む夕日。
平等院の庭は浄土庭園の完成でもある。(日本の原風景を落とし込んでいる)
沢山のハスが描かれているが、銀箔で描かれていることが判った。
白蓮華 写実的に描かれているものだった。
螺でんで 蝶が描かれている。
昔は古い塗装の上に塗っていたので、古い塗装が内部に残っていて、酸化鉄系、鉄を焼いて鉄が混じった土を焼いて赤くしたもの。
焼き方によっていろんな赤が出る。
鉄系の顔料は非常に持ちがいいので色がなかなか変わらない。
扉には四季の絵が表現されている。
変化してゆくものを受け止めて、その時その時、そしてこの生きざまに振り向けてゆく、四季の捉え方、それを鳳凰堂が表現してあった。
鳳凰堂の表現は、自然の中に在り、自然を表現し、命のありようを考える。
自然と一体化している、自然に解放された空間ではないかと思っている。
鳳凰、社会が幸せになると降り立つ鳥です、喜びの鳥。
(わたし自身あまり内容を理解できず、散漫な表現になってしまいました事をお詫びします。)
2014年9月26日金曜日
2014年9月25日木曜日
雨宮剛(名誉教授) ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)(再放送)
雨宮剛(青山学院大学名誉教授) 我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/blog-post_11.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/08/blog-post_11.htmlをご覧ください。
2014年9月24日水曜日
柿沼康二(書家) ・書も生き方も俺流で
柿沼康二(書家) 書も生き方も俺流で
44歳 金髪でひげと言う書家らしからぬ姿で、迫力ある文字を書く事で知られる柿沼さんは、お父様の書家、柿沼翠流さんの指導で5歳から筆を持ち、若い時から毎日書道展や独立書展などで多くの賞を受賞しています。
東京学芸大学教育学部芸術科を卒業、2007年にはNHK大河ドラマ「風林火山」の題字を書くほか、2012年にはNHKの趣味道楽で講師として出演しました。
王 羲之や空海などの古典を模写する事を臨書と言いますが、この臨書がとても大事だと言います。
柿沼さんは吸って吐いて自由な書をモットーとしています。
これは自分の眼と心で古典から書の美を吸収し、純粋な気持ちで自分の書を吐き出すという事です。
いつも新しい表現をして、独自のスタイルを築きあげている柿沼さん、書を現代アート迄昇華させたと国内外で高い評価を得ています。
生活全般が書と言う表現に結びついているので、筆を持っていなくても、作品や作品の一部だと思っているので、自分の字を自分の表現を良くするために、筆を持つ以外の仕事もやっているというところがあります。
金髪姿、最も誤解される書家かもしれない。
海外でパフォーマンスをやってほしいと言われた時に、日本ブームがはやり始めたときで、和服に髪型も金髪にしたが、受けた。
固定概念を崩すヒントになった。
「風林火山」 うまく料理出来たら伝説になると思ったが、出来なかったら笑い物になると思った。
36歳の時だった。
映画の題字も多かったが、NHKの趣味道楽、今までの書道講座とは雰囲気が違うものだった。
最初は字を書く行為、字を書く行為の中から、自分の心を入れてゆく。
書の世界に絶対不可欠なのは、臨書、弘法大師、王 羲之等の書き残した歴史的に残されてきたものをテキストとして模写する作業が凄く大切で、わたしは1日で5時間から10時間やったりする。
臨書をやって、そこで勉強したものがもろに、作品に出てきてしまう。
臨書をやったことの無い人の書いた字は型なしの字になってしまう。
書は型がある。 型なしと型破りは違う。
字は怖い、アルファベットと違って、漢字一つ一つに魂がある、神様がいるんですよ。
「風林火山」題字は何百枚も書いた。
風林火山の概念とは何ぞやと考えながら、筆を紙に叩きこんでいった。
昭和45年生まれ、44歳 栃木県矢板市生まれ 父が書家。
3兄弟の末っ子 上二人の方が全然巧かったが、辞めてしまった。
中学校3年で新聞社の県内での特賞(No1)を取った。 (小学校から高校生が対象だった。)
父親が「生きる」と言う字をほうき見たいな30cmの毛の長さで、汗だくで書いていて、なんで字を書くのに父はこんなに叫びながら書いているんだろうと、思っていた。
字、書 は一般の方は形ありきになっていると思うが、父親譲りだとは思うんですが、動きが形を作りだすという事に私はおもしろさを感じた。
ダンスのような動きで、書いていって、軌跡が残っている、残った軌跡が作品。
父親譲りでアートとしての書をやっていた。
形を追うと動きが甘くなる、動きを追うと形が甘くなるが、ほとんどの方が形でしょうね、結果を見ちゃう、私は動きなんです。
こうやるんだと気持ちがピュアであるほど、やりがいがある。
結果が違うところに辿りついてしまっても、美しいと思う。(心を打ってくる)
形を主にした字は私の中では失敗作です。 自分の思いが入りきれていない。
それは何かに左右されている、自分以外のもの、お金、人目、評価なのか。
東京学芸大学教育学部芸術科に入学 書道の専門家を育ててゆく所、皆さん上手でした。
16歳の時に手島右卿 昭和の3筆の一人で、半年間だけ師事する事が出来た。(亡くなってしまう) ずっと弟子を取っていなくて最後の弟子だった。
父が手紙を書いて、会ってもらえうように段取りをして、会う事が出来た。
1時間の稽古の間に、ずーっと冷や汗が止まらないぐらい、緊張した。
次から何か書いて持って来いと言われて、弟子入りが許されたようだった。
そのころもぐれていて、心配した父が動いてくれたようだった。
本物に合わせた瞬間に私は驚いたし、見えない「気」見たいものが出ていて、それが私にとっては事件でした。
やばい、適当に書道はできないと、そこからスイッチが入った。
父は男が仕事をやるなら、日本一になれるような仕事をしなさいと、言っていたので、書ならばいけるのではないかなあと思って、大学もそっちを狙おうと行きました。
父親には感謝です。
上松一條先生 臨書の虫と言われたたぐらいに、手島先生よりも上松先生の方がやっていたのではないかと思う。
手島先生は天才、上松先生は努力の人、上松先生に16年間徹底的に臨書の勉強法を叩きこまれた。
創作を持って行ったら怒られた。 古典の勉強していないのは書家ではないと。
大学4年間も上松先生の稽古に行くのが主で学校はさぼっていた。(学校に行く時間が無かった)
1日15時間ぐらい書いていた。
20歳で独立書展で特選、毎日展でも入選、毎日賞を25歳で取る。
受賞したころには、表現したい作品ではないと気付いた、賞を頂く様な作品は本当のアートではないと思いました。 賞取りレースに合わせた作品。
25人いる審査員に出来るだけ手を挙げてもらわないと賞は取れないので、自分の表現したい物を100%やったら絶対手が上がらない。
60~70%での方向を見いだしたら、ぴったりあった。
自分がやっているのは芸術ではないと思った。
このままやっていれば書道界では出世するとは思ったが、芸術は置き去りになるので、このままではいけないと思って海外に行った。
ニューヨークにはアートに関する秘密が何かあるだろうと思って、ニューヨークに行った。
失敗か成功かと言われたら失敗でしょうね。
なにか個展をやって帰りたかった。
個展をやろうとしていろいろトラブルがあり、個展も開催できず、お金でも苦労したし、言葉でも苦労してアパートに引きこもりになってしまった。
最後になんとか展示会をやって帰ってきた。(当時はもうぼろぼろになって帰ってきたという感じ)
それがあっていまだに続く海外の展開にもつながっている。
地元の母校で先生をする。
書道=古臭い を払しょくしたかった。
NHKが,ユニークな先生がいるという事で、45分のドキュメント番組をする。
学校に朝から晩まで電話がかかってきて、迷惑になると思って学校をやめた。
アートではどんな事をやってもつかまらないから、紙の中で暴れろ(頭を使って、想像して字をモチーフにして自分らしいものを表現する)と言った。
1時間目は臨書をやらせる。(吸収する) 2時間目はお手本が無くて、1時間目に勉強したことを言葉、漢字に書く。 (吐き出す)
日常生活から色々なものを吸収して、見たり、栄養を取って、それを使って話したり、動いているので、バランスが崩れると良くない、病気になっちゃう。
楽しんで吸いこまないといけない、栄養にならない。
弘法大師の「はね」の部分を一つの画として書いてるんだ、弘法大師ははねないと、はねない表現をする。 子供達にそういった書道の面白さを伝える。
弘法大師は筆使いは360度使って書くが、筆の一面しか使わない。
弘法大師は自由自在に手首を動かして書いていたよ、と言う風にいうと子供達は楽しんでやる。
筆を一番理想的に動かせるのは、右45度に傾けるところから、ひらがなができてきたので、360度使って書くという事は衝撃的だったかもしれない。
アートとして成立する書を極めてゆくしかないと思う、
管理の行き届いた美術館に作品を預かってもらって、自分の作品が何百年後まで残せるのか、きっと忘れられたくない、そういった作品を作っていきたい。
44歳 金髪でひげと言う書家らしからぬ姿で、迫力ある文字を書く事で知られる柿沼さんは、お父様の書家、柿沼翠流さんの指導で5歳から筆を持ち、若い時から毎日書道展や独立書展などで多くの賞を受賞しています。
東京学芸大学教育学部芸術科を卒業、2007年にはNHK大河ドラマ「風林火山」の題字を書くほか、2012年にはNHKの趣味道楽で講師として出演しました。
王 羲之や空海などの古典を模写する事を臨書と言いますが、この臨書がとても大事だと言います。
柿沼さんは吸って吐いて自由な書をモットーとしています。
これは自分の眼と心で古典から書の美を吸収し、純粋な気持ちで自分の書を吐き出すという事です。
いつも新しい表現をして、独自のスタイルを築きあげている柿沼さん、書を現代アート迄昇華させたと国内外で高い評価を得ています。
生活全般が書と言う表現に結びついているので、筆を持っていなくても、作品や作品の一部だと思っているので、自分の字を自分の表現を良くするために、筆を持つ以外の仕事もやっているというところがあります。
金髪姿、最も誤解される書家かもしれない。
海外でパフォーマンスをやってほしいと言われた時に、日本ブームがはやり始めたときで、和服に髪型も金髪にしたが、受けた。
固定概念を崩すヒントになった。
「風林火山」 うまく料理出来たら伝説になると思ったが、出来なかったら笑い物になると思った。
36歳の時だった。
映画の題字も多かったが、NHKの趣味道楽、今までの書道講座とは雰囲気が違うものだった。
最初は字を書く行為、字を書く行為の中から、自分の心を入れてゆく。
書の世界に絶対不可欠なのは、臨書、弘法大師、王 羲之等の書き残した歴史的に残されてきたものをテキストとして模写する作業が凄く大切で、わたしは1日で5時間から10時間やったりする。
臨書をやって、そこで勉強したものがもろに、作品に出てきてしまう。
臨書をやったことの無い人の書いた字は型なしの字になってしまう。
書は型がある。 型なしと型破りは違う。
字は怖い、アルファベットと違って、漢字一つ一つに魂がある、神様がいるんですよ。
「風林火山」題字は何百枚も書いた。
風林火山の概念とは何ぞやと考えながら、筆を紙に叩きこんでいった。
昭和45年生まれ、44歳 栃木県矢板市生まれ 父が書家。
3兄弟の末っ子 上二人の方が全然巧かったが、辞めてしまった。
中学校3年で新聞社の県内での特賞(No1)を取った。 (小学校から高校生が対象だった。)
父親が「生きる」と言う字をほうき見たいな30cmの毛の長さで、汗だくで書いていて、なんで字を書くのに父はこんなに叫びながら書いているんだろうと、思っていた。
字、書 は一般の方は形ありきになっていると思うが、父親譲りだとは思うんですが、動きが形を作りだすという事に私はおもしろさを感じた。
ダンスのような動きで、書いていって、軌跡が残っている、残った軌跡が作品。
父親譲りでアートとしての書をやっていた。
形を追うと動きが甘くなる、動きを追うと形が甘くなるが、ほとんどの方が形でしょうね、結果を見ちゃう、私は動きなんです。
こうやるんだと気持ちがピュアであるほど、やりがいがある。
結果が違うところに辿りついてしまっても、美しいと思う。(心を打ってくる)
形を主にした字は私の中では失敗作です。 自分の思いが入りきれていない。
それは何かに左右されている、自分以外のもの、お金、人目、評価なのか。
東京学芸大学教育学部芸術科に入学 書道の専門家を育ててゆく所、皆さん上手でした。
16歳の時に手島右卿 昭和の3筆の一人で、半年間だけ師事する事が出来た。(亡くなってしまう) ずっと弟子を取っていなくて最後の弟子だった。
父が手紙を書いて、会ってもらえうように段取りをして、会う事が出来た。
1時間の稽古の間に、ずーっと冷や汗が止まらないぐらい、緊張した。
次から何か書いて持って来いと言われて、弟子入りが許されたようだった。
そのころもぐれていて、心配した父が動いてくれたようだった。
本物に合わせた瞬間に私は驚いたし、見えない「気」見たいものが出ていて、それが私にとっては事件でした。
やばい、適当に書道はできないと、そこからスイッチが入った。
父は男が仕事をやるなら、日本一になれるような仕事をしなさいと、言っていたので、書ならばいけるのではないかなあと思って、大学もそっちを狙おうと行きました。
父親には感謝です。
上松一條先生 臨書の虫と言われたたぐらいに、手島先生よりも上松先生の方がやっていたのではないかと思う。
手島先生は天才、上松先生は努力の人、上松先生に16年間徹底的に臨書の勉強法を叩きこまれた。
創作を持って行ったら怒られた。 古典の勉強していないのは書家ではないと。
大学4年間も上松先生の稽古に行くのが主で学校はさぼっていた。(学校に行く時間が無かった)
1日15時間ぐらい書いていた。
20歳で独立書展で特選、毎日展でも入選、毎日賞を25歳で取る。
受賞したころには、表現したい作品ではないと気付いた、賞を頂く様な作品は本当のアートではないと思いました。 賞取りレースに合わせた作品。
25人いる審査員に出来るだけ手を挙げてもらわないと賞は取れないので、自分の表現したい物を100%やったら絶対手が上がらない。
60~70%での方向を見いだしたら、ぴったりあった。
自分がやっているのは芸術ではないと思った。
このままやっていれば書道界では出世するとは思ったが、芸術は置き去りになるので、このままではいけないと思って海外に行った。
ニューヨークにはアートに関する秘密が何かあるだろうと思って、ニューヨークに行った。
失敗か成功かと言われたら失敗でしょうね。
なにか個展をやって帰りたかった。
個展をやろうとしていろいろトラブルがあり、個展も開催できず、お金でも苦労したし、言葉でも苦労してアパートに引きこもりになってしまった。
最後になんとか展示会をやって帰ってきた。(当時はもうぼろぼろになって帰ってきたという感じ)
それがあっていまだに続く海外の展開にもつながっている。
地元の母校で先生をする。
書道=古臭い を払しょくしたかった。
NHKが,ユニークな先生がいるという事で、45分のドキュメント番組をする。
学校に朝から晩まで電話がかかってきて、迷惑になると思って学校をやめた。
アートではどんな事をやってもつかまらないから、紙の中で暴れろ(頭を使って、想像して字をモチーフにして自分らしいものを表現する)と言った。
1時間目は臨書をやらせる。(吸収する) 2時間目はお手本が無くて、1時間目に勉強したことを言葉、漢字に書く。 (吐き出す)
日常生活から色々なものを吸収して、見たり、栄養を取って、それを使って話したり、動いているので、バランスが崩れると良くない、病気になっちゃう。
楽しんで吸いこまないといけない、栄養にならない。
弘法大師の「はね」の部分を一つの画として書いてるんだ、弘法大師ははねないと、はねない表現をする。 子供達にそういった書道の面白さを伝える。
弘法大師は筆使いは360度使って書くが、筆の一面しか使わない。
弘法大師は自由自在に手首を動かして書いていたよ、と言う風にいうと子供達は楽しんでやる。
筆を一番理想的に動かせるのは、右45度に傾けるところから、ひらがなができてきたので、360度使って書くという事は衝撃的だったかもしれない。
アートとして成立する書を極めてゆくしかないと思う、
管理の行き届いた美術館に作品を預かってもらって、自分の作品が何百年後まで残せるのか、きっと忘れられたくない、そういった作品を作っていきたい。
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