森 公美子(歌手) 萩本欽一の人間塾
私は欽ちゃんに育てられました。
欽ちゃんのバラエティー番組に初めて出て、そこからドンドンと、出はじめたということです。
23歳の時です。当時は今より20kgぐらい少ない状態だった。
いろんなダイエットをやってきた。
卵ダイエット ゆで卵だけを食べるが、ガスが出て箱根の大涌谷を越えてしまって、凄い臭いで辞めてしまった。
パイナップルの時は、口の中が酸でかなりただれて、駄目だった。
はやったものには食いついてきた。 バナナの時もやった。
帝劇でやった時は、8kg増えてしまった。(萩本→舞台をやると痩せる 10kgとか)
笑いの最高を知ってしまうと、お客さまに申し訳ないと思う。(ただいるだけでいいと言ってもそうはいかない)
朝、普通はヨーグルトとバナナだけ。(森)
朝は、うどんかそば 夜は納豆、海苔でご飯 夜、肉が出てくるとがっかりする。肉は1年に2回ぐらい。(萩本)
肉を地方から送られてくると、若いものを呼んで食べてもらい、その汁で食べる。(萩本)
しゃけ缶にはソース(萩本) しゃけ缶には マヨネーズに醤油でしょう。
小学生の時にちょっとだけ英語ができた。 同時通訳になりたかった。
外国に行って、好きなものを食べるには、酔っぱらって指差す、そうすると全部持ってくる。
(酔っ払いとは関わりたくないから 萩本)
イタリア、アメリカ留学しているが、判らない時には、大きな声でうなるか、日本語で怒る。(森)
朝、ウオーキングしているが、追い抜きおじさんがいる。(気になる人)
結構私を待っている。
カレーウドン 風邪をひいていて、欽ちゃんが、この子にカレーウドンを食べさせてあげてと言われて、カレーウドンを食べて、汗が出てきて、風邪が治った。
私は風邪薬ではなく、カレーウドンをを食べる。 汗をかけばいい。(萩本)
40歳まではカレーウドンで風邪は治していた。 歳をとると、治らなくなる。
お腹が痛かったりするときには、痛い場所にマジックで☓印をつけて病院にゆくと、対応が速やか。
生まれ変わったら、女で、美人に生まれたい。(森)
今の時代に生まれ変わるなら、女性。
生まれ変わったら、人間が終わったので、草か、動物か。 木か花になりたい。(萩本)
最近、草木と仲良くしている。
弱点 褒められない事、皆が褒めてくれない。
一生懸命やったのに、出来て当然みたいに思われる。
3.11で津波で持って行かれた友だちがいて、結構大変な役で2時ぐらいまで歌詞を見たりして、がんばっていて、寝ていたら、夢で「がんばって、見てるからね」と言われて、朝起きた時に、そのことで涙が出てきてしまった。
彼女は中学校の先生だったが、私が代りに出来ることを考えて、私が行って授業するのがいいと思って、出掛けて、音楽は楽しいよという、授業した。
ぐっすり眠ってしまって、夢を見ない。(萩本)
2014年6月30日月曜日
2014年6月29日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(愛知県)
五木寛之 歌の旅人(愛知県)
ノーベル賞受賞者が多い。 利根川進、小柴昌俊、益川俊英、
日本の歴史の中で愛知県は伝統のある場所。
詩 漢詩 詩吟の道場がたくさんある。 森 春濤。
学問、文化の伝統の街。
音楽でも沢山の人たちがいる。 作曲家、作詞家、歌手、 小説家
ザ ピーナツ 1965年にモスクワに行ったが、ザ ピーナツの歌がレストランとかで凄く演奏されていた。
「ウナセダディ 東京」 ハーモニーの美しさ モダンな感覚を注ぎ込んだ。
山口洋子 渡辺俊幸
作家 城山三郎 宮城谷昌光 新美南吉 (中京の宮澤賢治) 坪内逍遥 二葉亭四迷
尾崎四朗 大沢在昌
黒川紀章(建築家) 浅井慎平(写真家) 加納典明(写真家)
古い伝統にとらわれずに、新しい自分のオリジナリティーを打ち出す。
尾張(是と思ったっらまっすぐ付き進むエネルギーがある)、三河(愚直にして頑固に近い、真面目で嘘つかず実践)、 文化が違うところがある。
舟木一夫 「高校三年生」
かつては挙母(ころも)市 町全体がトヨタ 大家族と言う様な感じ
1959年に豊田市になった。 豊田佐吉
尾張の商法 勤務の余暇を利用して、家庭で営む副業を職芸として推奨していた。
ロボット生産も日本一
焼き物 織物 お茶 刷毛 もくぎょう 金魚 ・・・。
作詞、作曲家 竜 真知子、 チェリッシュ
「あずさ2号」 「白いギター」
御園座
愛知県 はでなイメージがあるが、質素で実利的なところ。
今陽子 小鳩くるみ アミン 八神純子、小坂一也、北原ミレイ、
「水色の雨」 「待つわ」
浅田真央、安藤美姫 伊藤みどり 鈴木明子
吉田秀彦、谷本歩実、室伏 広治
先進的気風のあるところ。
ノーベル賞受賞者が多い。 利根川進、小柴昌俊、益川俊英、
日本の歴史の中で愛知県は伝統のある場所。
詩 漢詩 詩吟の道場がたくさんある。 森 春濤。
学問、文化の伝統の街。
音楽でも沢山の人たちがいる。 作曲家、作詞家、歌手、 小説家
ザ ピーナツ 1965年にモスクワに行ったが、ザ ピーナツの歌がレストランとかで凄く演奏されていた。
「ウナセダディ 東京」 ハーモニーの美しさ モダンな感覚を注ぎ込んだ。
山口洋子 渡辺俊幸
作家 城山三郎 宮城谷昌光 新美南吉 (中京の宮澤賢治) 坪内逍遥 二葉亭四迷
尾崎四朗 大沢在昌
黒川紀章(建築家) 浅井慎平(写真家) 加納典明(写真家)
古い伝統にとらわれずに、新しい自分のオリジナリティーを打ち出す。
尾張(是と思ったっらまっすぐ付き進むエネルギーがある)、三河(愚直にして頑固に近い、真面目で嘘つかず実践)、 文化が違うところがある。
舟木一夫 「高校三年生」
かつては挙母(ころも)市 町全体がトヨタ 大家族と言う様な感じ
1959年に豊田市になった。 豊田佐吉
尾張の商法 勤務の余暇を利用して、家庭で営む副業を職芸として推奨していた。
ロボット生産も日本一
焼き物 織物 お茶 刷毛 もくぎょう 金魚 ・・・。
作詞、作曲家 竜 真知子、 チェリッシュ
「あずさ2号」 「白いギター」
御園座
愛知県 はでなイメージがあるが、質素で実利的なところ。
今陽子 小鳩くるみ アミン 八神純子、小坂一也、北原ミレイ、
「水色の雨」 「待つわ」
浅田真央、安藤美姫 伊藤みどり 鈴木明子
吉田秀彦、谷本歩実、室伏 広治
先進的気風のあるところ。
2014年6月28日土曜日
佐伯チズ(美・生活アドバイザー) ・願えばかなう
佐伯チズ(美・生活アドバイザー) 願えばかなう
60歳定年まで頑張ってきた。 おじいさんから前で手を合わせる人間になってくれと言われた。
後ろから手を合わせる人間にはなってほしくないと言われた。
甲賀市は薬の街、 軒先にげんのしょうこう、十薬、オトギリソウ、おおばこが下がっていて、お腹が痛いとかいうと、之を飲んでおきなさいと言われて、医者にいくことがあんまりなかった。
味噌蔵があったので発酵食品を食べて、鰹節、お味噌やら、おつけ物が何よりです。
アメリカに髪の毛を分析するところがあり、あなたは日本人にはない酵素が多い、と言われた。
食べるものはいかに大切かと思う。
71歳になる。 手術、ピアスは一切していない。
毛穴があるから、油、水分、汗が出てきてくれるから、自然のクリームがあるから綺麗でいられる。
お金を掛けないで綺麗になりましょうと、60歳の時から言い続けた。
つやつやな顔をしていれば、欠点が見えない。
99歳でおばあさんは亡くなったが、一番食べたのはイワシ、ジャコ、煮干し、 鳥のささみは誤魔化して食べさせたが。
絶対に人に迷惑をかけぬように、と言う想いがあり、小学生の時から、人に迷惑をかけないで、喜んでもらえるように、一人で自分を始末して、あー良かった好い人生、って生きたいと言う想いでここまで来ました。
まず健康でいなかったら、人生は始まらない。
どこの健康が必要かと言ったら、心なんです。 心の持ちようで健康に生きられる。
①先ず、しっかりと食べる。 好きな食べ物、旬の食べ物。
有難う、有難うと言って、しっかり噛みながら食べる。 消化も違ってくる。
歳を取ると、五感識が衰える。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、
触角は最後まで衰えない。(特に男性) ハグは愛情表現の中でも素晴らしいものが得られる。
②意識する事 意識を以って生きる。
③両手を使う事 老化しない一つの方法。
男洗い 顔を洗う時に行う。 下に力をいれない。 上に向けて洗う。
ドーパミンが(綺麗になろうと)出てくる。
④ただの美容液 温めて、両頬、額、顎につけて、好きな人を思いながら、TVの俳優を思いなが ら、行う。
⑤続けること。 三日坊主では駄目。
美容論は予防論
「頂きます」
おじいさんが、お前が生きているのは、食べるものを頂いているから、生かしてもらっているだよ。
「ご馳走様」
このものの命を頂いて、今日も生かしていただきました、だからご馳走様でした、と言いに行く。
主人は52歳で肺がんで、天国に行ってしまいました。
中学校1年の時に、オードリーヘップバーンにあこがれて、野球から卓球に変更、努力してそばかすが8年で無くなった。 二重にもなった。
主人の看病、私が42歳の時に主人が亡くなって、老婆の様な顔になって、髪の毛が黄色くなって、
これではいけないと、努力して水分を補給して元に戻って行って、45歳で外資系の会社に復活した。
主人にお金をつぎ込んで、その時はもう文なしだった。
3回、肩を叩かれたが、60歳までは自分の力でやりました。
人と比較する事はない。自分がやりたいと思う方法を見つけて、ステップ バイ ステップでやっていけばいいと思う。
綺麗も健康もおなじことだとおもう。
顔は心の証明であり、健康のカルテで有り、生きてきた人生の看板であると、顔を見ると心のありよう、健康状況等が皆判る。
60歳定年まで頑張ってきた。 おじいさんから前で手を合わせる人間になってくれと言われた。
後ろから手を合わせる人間にはなってほしくないと言われた。
甲賀市は薬の街、 軒先にげんのしょうこう、十薬、オトギリソウ、おおばこが下がっていて、お腹が痛いとかいうと、之を飲んでおきなさいと言われて、医者にいくことがあんまりなかった。
味噌蔵があったので発酵食品を食べて、鰹節、お味噌やら、おつけ物が何よりです。
アメリカに髪の毛を分析するところがあり、あなたは日本人にはない酵素が多い、と言われた。
食べるものはいかに大切かと思う。
71歳になる。 手術、ピアスは一切していない。
毛穴があるから、油、水分、汗が出てきてくれるから、自然のクリームがあるから綺麗でいられる。
お金を掛けないで綺麗になりましょうと、60歳の時から言い続けた。
つやつやな顔をしていれば、欠点が見えない。
99歳でおばあさんは亡くなったが、一番食べたのはイワシ、ジャコ、煮干し、 鳥のささみは誤魔化して食べさせたが。
絶対に人に迷惑をかけぬように、と言う想いがあり、小学生の時から、人に迷惑をかけないで、喜んでもらえるように、一人で自分を始末して、あー良かった好い人生、って生きたいと言う想いでここまで来ました。
まず健康でいなかったら、人生は始まらない。
どこの健康が必要かと言ったら、心なんです。 心の持ちようで健康に生きられる。
①先ず、しっかりと食べる。 好きな食べ物、旬の食べ物。
有難う、有難うと言って、しっかり噛みながら食べる。 消化も違ってくる。
歳を取ると、五感識が衰える。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、
触角は最後まで衰えない。(特に男性) ハグは愛情表現の中でも素晴らしいものが得られる。
②意識する事 意識を以って生きる。
③両手を使う事 老化しない一つの方法。
男洗い 顔を洗う時に行う。 下に力をいれない。 上に向けて洗う。
ドーパミンが(綺麗になろうと)出てくる。
④ただの美容液 温めて、両頬、額、顎につけて、好きな人を思いながら、TVの俳優を思いなが ら、行う。
⑤続けること。 三日坊主では駄目。
美容論は予防論
「頂きます」
おじいさんが、お前が生きているのは、食べるものを頂いているから、生かしてもらっているだよ。
「ご馳走様」
このものの命を頂いて、今日も生かしていただきました、だからご馳走様でした、と言いに行く。
主人は52歳で肺がんで、天国に行ってしまいました。
中学校1年の時に、オードリーヘップバーンにあこがれて、野球から卓球に変更、努力してそばかすが8年で無くなった。 二重にもなった。
主人の看病、私が42歳の時に主人が亡くなって、老婆の様な顔になって、髪の毛が黄色くなって、
これではいけないと、努力して水分を補給して元に戻って行って、45歳で外資系の会社に復活した。
主人にお金をつぎ込んで、その時はもう文なしだった。
3回、肩を叩かれたが、60歳までは自分の力でやりました。
人と比較する事はない。自分がやりたいと思う方法を見つけて、ステップ バイ ステップでやっていけばいいと思う。
綺麗も健康もおなじことだとおもう。
顔は心の証明であり、健康のカルテで有り、生きてきた人生の看板であると、顔を見ると心のありよう、健康状況等が皆判る。
2014年6月27日金曜日
堀田健一(オーダ自転車製造業) ・生き方を変えられる自転車作り35年
堀田健一(オーダ自転車製造業) 生き方を変えられる自転車作り35年
堀田さん69歳は東京足立区の小さな工場で、体の不自由な人のための自転車を作って35年になります。
一般的な自転車に乗れない、手や足が不自由な人達から注文を受けて、一台ずつ手作りする堀田さんは全国で只一人の製造者です。
これまでに完成させた自転車は,障害に合わせて手でペダルを押す手動式のもの、足で方向操作ができるものなど、その人だけの乗り物、形も二輪、三輪、四輪、と色々です。
利用する人達も全国に広がって,3歳の幼児から90歳まで年齢も性別も様々ですが、堀田さんの自転車で利用者は,行動範囲が広がるだけでなく、日々の暮らしも変化してきています。
一人でも多くの手や足が不自由な人に、生活を楽しんでほしいとオリジナル自転車で、日々研鑚を重ねる堀田さんに、自転車作りへの想いを伺います。
50歳ぐらいの人からの注文で、家の周りだけに限らず、電車で遠くまで用事をしたいと言う人、買い物もしたいと、モーターも使うので坂道も登れる、行動力のある自転車。
35年間で造った数は2400台になる。 2000人の人に利用してもらっている。
一人で数台を利用している方もいる。
障害がある方々の乗り物なので、どこがどういう風にしなければいけないか、その時まで判らない、合わせて作ってゆく。
ペダルがいろんな役割をする。 両手がなくても使う事が出来る。
モーターを付けたり、エンジンを付けたりするので、警察との問題もある。
生まれは茨城県霞ケ浦の淵 高校の頃は水上自転車等を作って楽しんでいた。
本田技研に入った。 組み立て、溶接、旋盤だとかやらされたが、私の好きな水上オートバイを提案したが、そこまでは本多技研はやらなかった。
20年たってから水上オートバイを他の会社が作った。
3年で会社を辞めてから、別の会社(梱包関係)で10年近くやった。
その時に自転車作りの縁ができる。
学校では自転車には乗ってはいけないという事で、子供にせがまれて、3輪自転車なら子供も乗ってもいいとの事で、作った。(子供は小学校3年の時)
上下に踏み込むだけで、走る自転車だった。
障害のあるご婦人がその3輪車をみて、乗らせてくださいと言われて、乗って頂いて、すごい喜んでくれて私も吃驚した。
会社の隣りが鉄工所で溶接機などを貸してくれたので、作ることができた。
口コミで自転車を造ってほしいとの、要望が増えてきた。
自転車メーカーに作ってもらえるように連絡したが、作ってくれるという会社は無かった。
私が作るしかないと思った。(お客さまの熱意で)
最初駐車場でやっていたが、雨が降ったりすると駄目で、ある人が足立区にある工場を使わないかと言う人がいて、足立区に引っ越すことになる。
毎日毎日戦いでした。 望んでたものを完成させると、最後にはお客さんが喜んでくださる。
必ず喜んでもらえるまで、それは執念でした。
市販の部品も使うが、フレーム、機構、ギア等は全部自分で考えて、全部手作りです。
最初は順調な時もあったが、停まってしまう時もあり、障害の施設に行って、試乗車を持っていって、乗ってもらって、何とか注文を取って、生活を何とかした。
福祉関係の展示会があり、見本を持って各地を廻った。
コミュニケーションが一番大事だと言う事が解った。
その方の今の現状に合わせて、自転車を合わせて作ると言う事は、リハビリをやっていくうちに、足に力も出てきたり、動く範囲が上がって来たりするので、後の事も考えてやる事が大事。
最初は言われるままにやっていた。
勝手にこちらでやってはいけないので、コミュニケーションを取ることによって、機能のレベルをある程度上げた様に、作ることにするようになる。(色々体験させてもらった。)
辛いのは、身体の具合が悪くなって、それに乗れなくなってしまうような時です。
商売と割り切っていたら、これまでの続けて来られなかったと思う。
堀田健一支援コンサートを文京区で、応援してあげようとやっていただいて、売上金を寄付してくださった。(20年前から実施、8回になる)
1台 15~6万円、モーター付けると30万円台。
最初7~8万円ぐらいだったが、それでは生活が成り立たない。
7~10日で1台 それでは生活ができないので夜中までやる。
昼間はアフターケアーとか試乗用を持って行ったりしているので。
従業員を雇えない状況です。
250ccのオートバイを妻が乗れるので、部品の調達、生活上の買い物等、妻もフル回転で、カタログの発送、お金の計算やら二人で精一杯頑張ってきたので、続けられたと言うのは事実ですね。
学校の給食費が遅れてしまうような場合があり、先生からいつになったら、払えるのかと言う様な事を子供に話すので、子供には辛い思いをさせた。
親に聞くのを忘れた、と言って誤魔化したこともあるようだ。(後に子供から聞いた)
始めて25年経った時に、「シチズンオブ ザ イヤー」 社会で貢献し、感動を与えた無名の良き市民に授与される賞を受けることになる。
突然電話がかかってきて、吃驚した、賞金が100万円 副賞ペアの時計。
嘘だろうと思って相手にしなかったが、又電話がかかってきたが、こちらから電話しますと、聞いて切った。
104で調べて電話したら、その人が出てきて、私はバツが悪かった。
騙されていると思ったが、表彰式の時に、時計が動いて、社長さんにもあって、之は本当だったと思えた。
そこから社会が変わったと思う、そういう自転車は大事なものなのかと、その方にとっては役に立つんじゃないかと、見て頂けたと思います。
3歳の生まれつき小児まひのお子さん、自転車が届いた瞬間に乗り出して、おばあさんは大喜び、母親も吃驚していた。
自転車を作らなかったら、車椅子になっていたと思う。
足が使えるのに足を使わない車椅子になってしまう事は、是は考えなくてはいけない問題だと思う。
足が使えるのなら、手が使えるのなら、そういう身体を使って生活してゆく事がどれほど大事か、
是はお金の問題ではなくて、身体が力が付いてくるので、力が付いた身体で生活をして行くのと、力があるのにそれを使わないで生活してゆくのでは、先々ドンドン変わってゆくと思います。
その人にとって役にたっていることは確かだと思う。
3歳の子は、高校、大学そして社会人になっても、愛用してくださっている。
物を造るのは苦労とは思わなかったが、其れに没頭させてもらえなかったこともある。
是は考えなくてはいけない苦労でした。
足の力が弱いので、坂道を買い物に行けないので、坂道を登るモーターを付けるのは当然の考え方ですが、モーターを付けると、原付だという規制が警察の方から、かけられる。
矛盾しているのではないかと、思う。
健常者 アシストモーターがついても、規制がないが、障害のある人がモーターを付けると、だめと。
大企業からは、借金して作ったカタログが、名前が似ていると言う事で、カタログを使うなと言う事で3万部ほど作ったものを、雨ざらしにした姿を見て辛かった。
東京の坂道は100~150w程度で登れる。
1馬力が750w 小さなモーターでも確認書を取らされる。
市長とか折衝して、両手のない方の原付バイク 1人だけ試験場でやって、通りましたが。
自転車を作る事以外の事、がいろいろ付いて回って是は厳しかった。
どなたも生活に必要で来れるので、断ることは無かった。
辞めようと言う気持ちは無いが、これでは食えないねと言う事は切実なことでした。
妻が昨年の10月に脳内出血で倒れたが、命は助かって、障害もなかった、ただ言葉が駄目で電話、お客様の対応はむずかしくなってしまった。
若いころ靴磨きをしていた足の悪い人が、私の自転車を乗ってから、後に詩を書いていて、
「わが身をば、守りて走るこの愛車 長く保てと 祈りまいらん」 自転車のかけがえの無さを歌ってくれて、私の励みでもありました。
最初は当人だけが喜ぶが、やがては家族の方々の笑顔が変わってくると言う事もあるし、家族のお付き合いなんですね。
私は楽しい人生を歩まさせていただいている。
こういう道をなんとか、消さないで行けないものかなあと、今は考えているのですが。
この道を応援したいという、若い人が出てきてくれた。
どうなるかわからないが、できる限り後進の人に協力していきたいと思う。
同じものを一つずつでは、絶対に利益は出ないが、何台ずつならば成りたつか、資本と見比べながら作ってゆくならば、成りたつと思う。
私の様に開発ばっかりしていたのでは駄目で、今後はある程度のものに絞って、量産してゆく事を前提すれば、商売として成り立って、もっともっといいものが届けてゆけるという、好い循環が出来てゆくのではないかと思う。
堀田さん69歳は東京足立区の小さな工場で、体の不自由な人のための自転車を作って35年になります。
一般的な自転車に乗れない、手や足が不自由な人達から注文を受けて、一台ずつ手作りする堀田さんは全国で只一人の製造者です。
これまでに完成させた自転車は,障害に合わせて手でペダルを押す手動式のもの、足で方向操作ができるものなど、その人だけの乗り物、形も二輪、三輪、四輪、と色々です。
利用する人達も全国に広がって,3歳の幼児から90歳まで年齢も性別も様々ですが、堀田さんの自転車で利用者は,行動範囲が広がるだけでなく、日々の暮らしも変化してきています。
一人でも多くの手や足が不自由な人に、生活を楽しんでほしいとオリジナル自転車で、日々研鑚を重ねる堀田さんに、自転車作りへの想いを伺います。
50歳ぐらいの人からの注文で、家の周りだけに限らず、電車で遠くまで用事をしたいと言う人、買い物もしたいと、モーターも使うので坂道も登れる、行動力のある自転車。
35年間で造った数は2400台になる。 2000人の人に利用してもらっている。
一人で数台を利用している方もいる。
障害がある方々の乗り物なので、どこがどういう風にしなければいけないか、その時まで判らない、合わせて作ってゆく。
ペダルがいろんな役割をする。 両手がなくても使う事が出来る。
モーターを付けたり、エンジンを付けたりするので、警察との問題もある。
生まれは茨城県霞ケ浦の淵 高校の頃は水上自転車等を作って楽しんでいた。
本田技研に入った。 組み立て、溶接、旋盤だとかやらされたが、私の好きな水上オートバイを提案したが、そこまでは本多技研はやらなかった。
20年たってから水上オートバイを他の会社が作った。
3年で会社を辞めてから、別の会社(梱包関係)で10年近くやった。
その時に自転車作りの縁ができる。
学校では自転車には乗ってはいけないという事で、子供にせがまれて、3輪自転車なら子供も乗ってもいいとの事で、作った。(子供は小学校3年の時)
上下に踏み込むだけで、走る自転車だった。
障害のあるご婦人がその3輪車をみて、乗らせてくださいと言われて、乗って頂いて、すごい喜んでくれて私も吃驚した。
会社の隣りが鉄工所で溶接機などを貸してくれたので、作ることができた。
口コミで自転車を造ってほしいとの、要望が増えてきた。
自転車メーカーに作ってもらえるように連絡したが、作ってくれるという会社は無かった。
私が作るしかないと思った。(お客さまの熱意で)
最初駐車場でやっていたが、雨が降ったりすると駄目で、ある人が足立区にある工場を使わないかと言う人がいて、足立区に引っ越すことになる。
毎日毎日戦いでした。 望んでたものを完成させると、最後にはお客さんが喜んでくださる。
必ず喜んでもらえるまで、それは執念でした。
市販の部品も使うが、フレーム、機構、ギア等は全部自分で考えて、全部手作りです。
最初は順調な時もあったが、停まってしまう時もあり、障害の施設に行って、試乗車を持っていって、乗ってもらって、何とか注文を取って、生活を何とかした。
福祉関係の展示会があり、見本を持って各地を廻った。
コミュニケーションが一番大事だと言う事が解った。
その方の今の現状に合わせて、自転車を合わせて作ると言う事は、リハビリをやっていくうちに、足に力も出てきたり、動く範囲が上がって来たりするので、後の事も考えてやる事が大事。
最初は言われるままにやっていた。
勝手にこちらでやってはいけないので、コミュニケーションを取ることによって、機能のレベルをある程度上げた様に、作ることにするようになる。(色々体験させてもらった。)
辛いのは、身体の具合が悪くなって、それに乗れなくなってしまうような時です。
商売と割り切っていたら、これまでの続けて来られなかったと思う。
堀田健一支援コンサートを文京区で、応援してあげようとやっていただいて、売上金を寄付してくださった。(20年前から実施、8回になる)
1台 15~6万円、モーター付けると30万円台。
最初7~8万円ぐらいだったが、それでは生活が成り立たない。
7~10日で1台 それでは生活ができないので夜中までやる。
昼間はアフターケアーとか試乗用を持って行ったりしているので。
従業員を雇えない状況です。
250ccのオートバイを妻が乗れるので、部品の調達、生活上の買い物等、妻もフル回転で、カタログの発送、お金の計算やら二人で精一杯頑張ってきたので、続けられたと言うのは事実ですね。
学校の給食費が遅れてしまうような場合があり、先生からいつになったら、払えるのかと言う様な事を子供に話すので、子供には辛い思いをさせた。
親に聞くのを忘れた、と言って誤魔化したこともあるようだ。(後に子供から聞いた)
始めて25年経った時に、「シチズンオブ ザ イヤー」 社会で貢献し、感動を与えた無名の良き市民に授与される賞を受けることになる。
突然電話がかかってきて、吃驚した、賞金が100万円 副賞ペアの時計。
嘘だろうと思って相手にしなかったが、又電話がかかってきたが、こちらから電話しますと、聞いて切った。
104で調べて電話したら、その人が出てきて、私はバツが悪かった。
騙されていると思ったが、表彰式の時に、時計が動いて、社長さんにもあって、之は本当だったと思えた。
そこから社会が変わったと思う、そういう自転車は大事なものなのかと、その方にとっては役に立つんじゃないかと、見て頂けたと思います。
3歳の生まれつき小児まひのお子さん、自転車が届いた瞬間に乗り出して、おばあさんは大喜び、母親も吃驚していた。
自転車を作らなかったら、車椅子になっていたと思う。
足が使えるのに足を使わない車椅子になってしまう事は、是は考えなくてはいけない問題だと思う。
足が使えるのなら、手が使えるのなら、そういう身体を使って生活してゆく事がどれほど大事か、
是はお金の問題ではなくて、身体が力が付いてくるので、力が付いた身体で生活をして行くのと、力があるのにそれを使わないで生活してゆくのでは、先々ドンドン変わってゆくと思います。
その人にとって役にたっていることは確かだと思う。
3歳の子は、高校、大学そして社会人になっても、愛用してくださっている。
物を造るのは苦労とは思わなかったが、其れに没頭させてもらえなかったこともある。
是は考えなくてはいけない苦労でした。
足の力が弱いので、坂道を買い物に行けないので、坂道を登るモーターを付けるのは当然の考え方ですが、モーターを付けると、原付だという規制が警察の方から、かけられる。
矛盾しているのではないかと、思う。
健常者 アシストモーターがついても、規制がないが、障害のある人がモーターを付けると、だめと。
大企業からは、借金して作ったカタログが、名前が似ていると言う事で、カタログを使うなと言う事で3万部ほど作ったものを、雨ざらしにした姿を見て辛かった。
東京の坂道は100~150w程度で登れる。
1馬力が750w 小さなモーターでも確認書を取らされる。
市長とか折衝して、両手のない方の原付バイク 1人だけ試験場でやって、通りましたが。
自転車を作る事以外の事、がいろいろ付いて回って是は厳しかった。
どなたも生活に必要で来れるので、断ることは無かった。
辞めようと言う気持ちは無いが、これでは食えないねと言う事は切実なことでした。
妻が昨年の10月に脳内出血で倒れたが、命は助かって、障害もなかった、ただ言葉が駄目で電話、お客様の対応はむずかしくなってしまった。
若いころ靴磨きをしていた足の悪い人が、私の自転車を乗ってから、後に詩を書いていて、
「わが身をば、守りて走るこの愛車 長く保てと 祈りまいらん」 自転車のかけがえの無さを歌ってくれて、私の励みでもありました。
最初は当人だけが喜ぶが、やがては家族の方々の笑顔が変わってくると言う事もあるし、家族のお付き合いなんですね。
私は楽しい人生を歩まさせていただいている。
こういう道をなんとか、消さないで行けないものかなあと、今は考えているのですが。
この道を応援したいという、若い人が出てきてくれた。
どうなるかわからないが、できる限り後進の人に協力していきたいと思う。
同じものを一つずつでは、絶対に利益は出ないが、何台ずつならば成りたつか、資本と見比べながら作ってゆくならば、成りたつと思う。
私の様に開発ばっかりしていたのでは駄目で、今後はある程度のものに絞って、量産してゆく事を前提すれば、商売として成り立って、もっともっといいものが届けてゆけるという、好い循環が出来てゆくのではないかと思う。
2014年6月26日木曜日
宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長) ・日本酒を世界の”SAKE”に(再放送)
宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長) 日本酒を世界の”SAKE”に(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.htmlをご覧ください。
2014年6月25日水曜日
野口義弘(ガソリンスタンド経営) ・信じ続ければ応えてくれる(再放送)
野口義弘(ガソリンスタンド経営) 信じ続ければ応えてくれる(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_15.htmlをご覧ください。
6月25日、26日は小旅行為、休みます。
後追いで、行います。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_15.htmlをご覧ください。
6月25日、26日は小旅行為、休みます。
後追いで、行います。
2014年6月24日火曜日
森下辰衛(三浦綾子・特別研究員) ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)(再放送)
森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2_25.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2_25.htmlをご覧ください。
登録:
投稿 (Atom)