2016年8月7日日曜日

リオ・オリンピック放送の為しばらく休みます。

リオ・オリンピック放送の為、ラジオ深夜便「明日への言葉」は放送されていません。
放送が再開されるまで、しばらく休みます。

2016年8月6日土曜日

玉本英子(ジャーナリスト)    ・「戦火の中東 取材報告」(H27/10/3放送)

玉本英子(ジャーナリスト)    ・「戦火の中東 取材報告」(H27/10/3放送)
第23回坂田記念ジャーナリズム賞 特別賞受賞作品
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/10/blog-post_3.htmlをご覧ください。

2016年8月5日金曜日

葉佐井博巳(広島大学名誉教授) ・被爆体験どう語り継ぐ

葉佐井博巳(広島大学名誉教授) ・被爆体験どう語り継ぐ
85歳  原爆が投下された翌日の8月7日、広島市の中心部に入って被爆した入市被爆者です。
広島大学工学部を卒業した葉佐井さんは、大学で原子核物理学の研究を続けました。
被爆者が浴びた被爆線量を推定する、新しい推定方式を作りだしました。
葉佐井さんは大学の研究者時代は、自らの被爆体験を公の場で語ることはありませんでしたが、大学を退いた、2005年からその体験を語り始めました。
葉佐井さんが被爆体験を語り始めた理由は何か、その体験を次の世代にどう語り継ごうとしているのか、伺いました。

メインは広島市から依頼されて、資料館に修学旅行で来る生徒さん達に語っています。
県外の人ですと、全てが珍しい話の様です。
1931年広島生まれ。{満州事変)
軍人になる様に教育されました。
学徒動員で軍事工場にもいきました。(原爆が落とされる1週間前から動員がかかる)
家から直接軍事工場に行き、機関銃の弾を製作する事でした。(実際には作るまで行かなかった)
8月6日 爆心地から15km離れた場所で、工場で準備体操をしていたら、強くピカッと光って、何が起きたか判らなかったが、しばらくしてからガラス窓がガタガタいいだしたので、工場が狙われたと思った。
山に逃げたが、なにも判りませんでした。
戻ると、朝の10時頃に大勢の人が市内から郊外に汚い埃を被って汚い顔をして歩いてきました。
皆自分の家に落ちたと言っていたが、合点が行かなかった。
昼過ぎにトラックで負傷者が運ばれてきて、本当にびっくりしました。
人間の顔が溶けている、身体の皮膚も溶けて流れているようだった。
負傷者をおろす事が仕事だったが、物凄いショックだった。
触っても痛いとは言わず、重症の人は触っても痛くなかったのかなあと思いました。

8月7日広島の中心部に向かう。
どこへ行ったのかは覚えていない。
帰ろうとしたが、建物が無く道が判らないので、路面電車の橋などを渡って自分の家に帰りました。
家は無くて綺麗に焼けていました。
父は単身赴任でいませんでしたが、母と妹二人がいたが、上の妹は集団疎開でしたので、母と妹に会う事が出来ました。
広島の周囲の風景を見てきていたので、死んでしまったと覚悟はしていましたが。
私は入市被爆者です、後で爆心地から2km以内の広島市に入った人です。
これが戦場かなと思いました。
やがて自分も死ぬのかなあと思いました、不思議な感覚でした。
どうしても仇を討つぞと、そういう思いでした。

終戦の時に家は無くて、田舎にいて学校は破壊され始まってなくて、妹が日本は戦争に負けたと言ってきた。
天皇自ら負けたと言う事で、本当かなあと思いました。
一人になるまで戦え、決して降伏してはいけない、捕虜になるなら自決死しろと言われていたのに、簡単に止めることができるのなら何故止めなかったのかと、それが私の本当に一番のショックでした。
学校が始まって、行って見ると何カ月もたっていないのに、戦争で死んで来いといった先生が、平和主義をいうわけです、吃驚しました。
鬼畜米英と言っていたのが、米英に習えという。
先生に質問しました、「どうして変わったですか」と言ったら、「仕方なかったんだ」と言われた。
「仕方なかったんだ」という言葉だけは使ってはいけないと思った。
私は全て大人にだまされた、特に先生に騙された。
戦争に行くときに親が死んで帰りなさいという、こんなバカな話は無く、でもそれが当たり前だった。
「仕方がない」世界を作ったらもういけないという気があり、以来自分が体験して自分が確認しなければ人の言う事は信じないという事になってしまいました。
自分の目で正確に確かめたい、そのためには正しい情報がたくさんいるが。

日本の都市が空襲で壊滅状態だったので、復興するには工業の力が要ると思って、工学部が一番役に立つだろうと思って電気工学部に入りました。
就職の為に診断書を貰いに病院に行ったら、結核だと言われて、2年遅れて卒業したが、就職口が無くて、研究生として残っていた。
原子核物理をやる様に言われる。
アメリカは原爆を濃縮するのにサイクロトロンという機械で作ったんで、サイクロトロンが原子核の研究には一番最先端の道具だった。
原爆を作られるといけないという事で、全部捨てられてしまって、実験は道具が無いので、10年遅れた。
原子核研究は膨大な装置が必要で、田無に原子核研究所が出来、筑波に高エネルギー研究所が出来、外国人と一緒に研究するようになり、アメリカに行くことになる。
ロスアラモス、アメリカが原爆開発した処で、原爆を作ったことが自慢で、広島から来たことを言うとトーンが変わってくるが、異和感を感じた。

放射線があるという事は判っていたが、測定器がチャチではっきりしなかった。
中性子爆弾をアメリカが作ろうとした時に、広島の放射線の中性子が少なかった。
少なくてあの様な被害がでたというのは、危ないという事です。
広島の土地でどの程度放射線が有ったかという事を、広島の土地で計らなければ行けないが、計ったのはあるが非常にデータの数が少なく当てにならない。
しっかりやろうという事で始まりました。
残留放射能を計れるものがほとんどないので、建物の石の中にある元素が非常に少なく、石を溶かして抽出して、計るという、残留放射能から推定する。
緻密なデータがそろいました。
今は1~1.1kmぐらいまではほぼ完壁になったと思います。

訴訟問題が起きており、厚生省は訴訟に有利な様な研究をしてくれないかと言ってきたが断りました。
被爆者も被爆者の有利になる様にという風に思うもので、どっちにも味方しないつもりでやりました。
皆さんに知っていることをしっかり伝えておきたいと思って、ピースボランティア、伝承者に物理的なことに関してはこうですと、出来るだけ正確にお話しています。
正確に伝える人を養成しておかないといけないと思います。
しっかり記録を大事にしていってほしいと思います。
核兵器は非人道的で、使ってはいけないという事を皆が自覚する様に広げていきたい。




















2016年8月4日木曜日

森 重昭(原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない

森 重昭(広島原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない
御自身も被爆者でありながら、原爆が投下された8月6日広島で亡くなった12人の米軍捕虜の身元を調べそれぞれの家族に伝えてきた森さん79で歳です。
今年5月27日、歴史的とも言われたオバマ大統領の広島訪問、原爆慰霊碑への献花と所信表明演説、そのあと、大統領から優しく抱擁された森さんの姿は印象深く記憶されています。
森さんは戦争犠牲者に敵味方は無いと、黙々と精魂傾けて広島市民だけでなく、米軍兵の最後をも調べ家族に伝えました。
そのことは日本だけでなく世界の人も初めて知ることとなりました。

まさか自分が大統領にお会いできる機会があるとは思いもよらなかったです。
広島に大統領がおいでになると発表された時は本当に吃驚しました。
まさか私が献花式に登れるなんて、天地がひっくりかえるぐらい吃驚しました。
アメリカとの付き合いは長い長い付き合いです。
アメリカ人が広島で被爆死しているという事はアメリカの遺族も知りません。
ましてや日本人はもっと知る機会はなかった。
私が米兵が留置されていた中国憲兵隊司令部のとなり、爆心地から400~500mにあった陸軍の学校(国民学校)に行っていたからです。
米兵は3か所に留置されていて、中国憲兵隊司令部に留置されていて全員が亡くなりました。
一人ひとり、どの人がどのように最期を遂げたかということを、ありとあらゆる資料を使って、アメリカの英文の記録類を徹底的に調べて、古くて読めない文字、読めない言葉も綴られていて、推測を交えながら調べました。

原爆体験記も読んだり、原爆体験記を書いた人は2000人を超えています。
広島原爆戦災史があり(公の歴史本)、1~5卷まで有り、全部で4000ページを徹底的に読んだら、意外なことが判ってきました。
NHK、各新聞社など全てが記事を書いたもの、後で、それが正しいかどうか検証する手掛かりにしていた本です。
色んな資料を徹底的に研究してきた私にとっては、間違いがいっぱいありました。
違いを具体的に指摘していったが、市役所の人が言うには、色々他の方からも指摘があり、改訂版を出そうと思っているとの事だった。
貴方にぜひお願いしたい、手伝ってほしいと言われました。
その後も自分持ちの費用でいろいろ調べました。

1945年8月6日 8時15分 原爆投下。
その時私は街の橋の上にいました。(8歳)
集団疎開、縁故疎開があり、ほかに分散授業があり、私は3人で分散授業に行くところでした。
爆心地に近い方に二人がいて、その陰になっていて、私だけがやけどをしていない、怪我もしなくて、爆風で押され川に落ちました。
爆風は真上から来るんです。(600m上空で爆発)
2人は大やけどをして亡くなったらしいという事を聞きました。
キノコ雲の端っこの中にいましたが、10cm先が見えず、しばらくじっとしていました。
川から土手を這いあがったら、20歳代の女性がふらふらしながら私に近づいてきました。
身体が血だらけで、胸が裂けている、病院はどこかと消え入るような声で言いました。

上空で爆音がして、必死で逃げたが、道という道には人が横たわっていて、家も倒壊していて助けてほしいという声が聞こえてきましたが、必死で逃げました。
「坊や、ここにおいで」という声が聞こえて、防空壕に引っ張り込まれました。
黒い雨にあい、痛いんです、コールタールの塊みたいで体中真黒になり、衣類は捨てました。
新聞紙を身体に結わえ付けました。
3日間水もなくご飯も食べず、水が飲みたくて、水たまりに行って、黒い雨が降っているので、それを除いて飲みました。(今考えると、放射能の塊の様なものを飲みました。)
最後はアメリカの調査を始めるわけです。
周りからの協力は全然なくて、非難されるようなことを言われました。
話をするのに国際電電に申し込んだら、一回3500円、オペレーターに頼んだら、500円で話を通訳もしてくれることになる。
プライバシーの壁には大変苦労しました。
12人が判明。
遺族の方とは全部手紙のやり取りをしました。
去年初めて日本に遺族が2人来ました。
心をこめて御礼を言ってもらいました、辛い思いをしたけどやってよかったなあと思いました。
私が登録した遺影を一緒にいて観ましたが、15分ぐらい観ていて、次のところに行きませんかといたら、このままにしていてほしいと言われて、後から考えると2時間は観ていました。

オバマさんと一緒に高校生も来ましたが、どうしてアメリカ人の兵隊を調べたのかの質問があったが、自分もアメリカ人と同じような運命をたどったかもしれない、とそういう風に思ったからです。
校長先生が8月5日に第二次疎開で三次に付き添って行ったが、翌日学校が全滅して、生徒、先生が真っ黒な遺体になって、学校に横たわっていたそうです。
同時にアメリカ人の遺体が一人横たわっていたそうですが、(学校の記念史に書かれていた)これはアメリカ人ではないぞ、自分だと、アメリカ人と同じ様な運命になった可能性はあると。
日本人の慰霊碑は沢山あるが、アメリカ人の慰霊碑は無く作ってあげたいと思って、アメリカ人の為に一生懸命やっていたら、随分嫌がらせもありましたが、だったらもっと立派なものを作ってやろうと思いました。

そういった思いがアメリカに伝わって、慰霊碑の除幕式の時にアメリカ人の記者がそっと聞きました。
費用はどうしたのかと聞かれ、お金が無いのでアルバイトをしましたと言ったら、物凄く評価してくれました、嬉しかった。(涙を流しながら話す)
日本人はだれも褒めてくれなかったが、アメリカ人はそうして褒めてくれたことに対して嬉しかった。
日本人とアメリカ人と、こうして遺影と名前を登録して判ったが、日本人は随分被爆死した人にたいして追悼の想いでいつも8月6日が来ると、記念式典に参加したりして亡くなった人に追悼しているが、アメリカ人も一緒、だからどうして亡くなったか知らしてあげなければいけないし、自分でそれをやってあげようと思ってやりました。
ゴルフを辞め、バス代も節約して、アルバイトもしてお金を工面しましたが、私が何をやっても誰も認めてくれなかったが、だけど今回はアメリカ側のトップの招待者だった。
大統領のスピーチの早い段階で、私のやったことをそのままおっしゃって、嬉しくて・・・(涙声)やっと評価してもらえたと、・・・大統領有難うございました。
私の後ろには12名の米兵が、大統領を待っていましたよ、71年間待っていましたよ。
日本の14万人亡くなった人が、きっと大統領良くおいで下さいましたと言ったに違いないと、私は確信をもちました。
原爆で亡くなった全ての人が大統領を歓迎したに違いないと、私は感じました。
アメリカの遺族の方々に、手紙に貴方がたの大統領は素晴らしい人だと、スピーチをDVDにしたもの、私の被爆体験もほんの一部も入っているので是非観てほしいと書いているところです。
平和というものは押しつけられるものではなく、自分で作り出すものです、それが私の願いです。













2016年8月3日水曜日

岩崎恭子(五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト

岩崎恭子(バルセロナ五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト
7月24日 NHK放送博物館で行われたトークイベント、ゲストはバルセロナ五輪競泳女子200m平泳ぎで優勝した岩崎恭子。
38歳になったばかりの岩崎さんが当時の裏話などを語ってくださいました。

今、子供は幼稚園の年長さんになりました。
主人はラグビーの選手、日本の代表にもなりました。
私は5歳の時に、沼津市にある小さなスイミングスクールで泳ぎ始めました。
3歳上に姉がいて、2歳下に妹がいて、姉妹全員水泳とか他の習いごともしていました。
姉は高校1年生のインターハイで優勝しました。
初めて姉を抜いたのは中学1年生です。(オリンピックに行く1年前)
選考会で粕谷恭子さんがNO1でいました、私はNO2でした。
練習は1日3000~4000mしか泳がなかったが、代表選手になると8000mぐらい泳ぐことになります、兎に角やるしかなかった。
当時千葉さん、林さんにマスコミが注目していた。
稲田法子さん、春名美佳さん、と私で中学生トリオと言われていました。
彼女らがいなかったら、乗り越えられなかったと思います。

バルセロナに入ってから、セックスチェックをして、又マジョルカ島で最終調整をして、そこで誕生日をしてもらいました。
粕谷恭子さんからは2~3(3~4m)秒離されていたが、試合が近づくにつれて勝てる様になってきた。
7月27日のレース当日、予選が5組、上位8人が決勝に参加する。
予選第5組でアニタ・ノール(世界記録をもっている2歳年上)が隣にいて、2分31秒程度だったのが、大接戦する、最後のタッチで0.01秒負けて2位だった。(相手は流していると思った)
鈴木陽二先生(鈴木大地のコーチ)から良い泳ぎで良かったと言われて、「もう一回泳ぐんだぞ」と言われて、クールダウン(疲れを取る為の泳ぎ)する泳ぎに入った。
鈴木陽二先生としては「もう一回泳ぐんだぞ」といったことは、これで満足するんじゃないぞという意味を与えたつもりだった。
お昼の時におにぎりを4つ食べてしまいました。(通常は2つぐらい)
鈴木大地さんからは勢いがあるとの事だった。(アナウンサーが聞いた事)

決勝で、アニタ・ノールは私の後から入ってくるはずが先に歩いていて、緊張しているのかなあと思いました。
私は後半スピードが上がって行くタイプですが、アニタ・ノールは最初からどんどん行くタイプなのでそこにくっつき過ぎると、オーバーペースになるので、それだけは阻止しようと思った。
自分のペースを守りながら泳ごうと思っていました。
ゴールした時には優勝だとは気がつきませんでした。
帰ったら金メダルフィーバーだった。
成田に着いて、最後に降りるように言われて、別行動することにたいして心苦しかった。
淋しさも段々感じてきたりしました。
アトランタを目指してゆく4年間、注目されることによって、違った生活になって、注目されすぎて苦しかった。(家族を含めて)
速くなければ良いんじゃないかと思う自分がいて、唯泳いでいるだけだった。
気持ちの入っていないトレーニングをこなすだけだった。
広島のアジア大会には代表には成れなかった。

アトランタ代表には成るが、NO2でアトランタに行く事になり、決勝には残れなかった。(10位)
アナウンサーからインタビューを受けて、「良くやったね、恭子ちゃん」と言われた時に号泣してしまいました。
大学2年の時に引退。
大学で水泳を続けていればオリンピックという目標が持てると思っていたが、1年、2年終えても思えなかった。
鈴木先生からは「命をかけてやるものだ」とおっしゃったので、流石にもうそういう気持ちには成れないと思って、田中雅美ちゃんもアトランタに一緒に行って、彼女のレースを見た時にくやしいとは思わず頑張れと思って、ライバルにたいして頑張れと思ったらもう競技はできないと思いました。
教えることの大変さ、水に顔を浸けられない子をどうやったら顔を浸けて浮かしてあげられるか、沢山応援してもらった分をそういったことで返してゆくことが必要なんじゃないのかと思った時に、水泳と関わりながら、子供達を教えたり、底辺の拡大、水泳の研究をしてゆく事が自分に合っていると思いました。
そしてそういった活動をしてきました。











2016年8月2日火曜日

2016年8月1日月曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・高度経済成長の始まり(第32回)

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・高度経済成長の始まり(第32回)
日本が経済大国になってゆくプロセスを見てゆく。
政治の季節から経済の季節に見事に変わってゆく。
政策プランナーが状況を良く分析していた感じがする。
岸の後任に池田隼人がバトンタッチする。

特徴
①デモなどで荒れた空気になっており、忍耐と寛容という言葉を口にして社会全体に落ち着きを取り戻そうとした。
②女性閣僚の登用、中山マサさんを厚生大臣に入閣する。
高度経済成長政策
「貴方の給料を2倍にします」
「私は嘘を申しません」
具体的に口にした。
所得倍増計画は短期間に(10年)2倍にする、国民の一人ひとりの富をおおきくしてゆく。
根幹は公定歩合の引き下げで、企業が設備投資をする、それによって製品を大量生産してゆく、大量消費の時代に向かってゆく。

昭和35年度、国民所得が12万円を45年度には24万円にする、という目標を立てた。
見事に成功する。
ブレイン 下村治の経済理論が、池田政策とマッチング。
伊藤昌哉(池田首相の秘書)  政治の季節のエネルギーを経済に向けたら、凄い国を作るんじゃないかと、デモを見ながら思ったと言っている。
財界四天王 小林中 水野成夫、永野重雄、櫻田武といった経済指導者が池田首相の経済政策に協力して行った。
昭和39年に東京オリンピックがあり、観光施設、新幹線の新設などを行う、判りやすい目標になった。
産業基盤が急速に整備されるが、珍しいぐらいのスピードだったと思う。
民の活力を徹底的に刺激していった。
岡山の水島コンビナート(三菱化成)、山口の徳山コンビナート(出光興産)など、大きなものを作る。 (その後北海道から九州まで出来てくる)
関西電力の黒四ダム、映画にもなる。(昭和38年に完成している)
7年の歳月、500億円の建設費、25.8万KW 163人の犠牲者。     

労働力不足での集団就職、昭和38年がピークで7万8000人が地方から都会に就職する。
貿易、資本の自由化が高度経済成長の中で進む。
ソニーのトランジスターラジオ、本田のオートバイ、トヨタの自動車、石川島播磨重工の造船、家電製品は松下、シャープ、サンヨー、日立、東芝、三菱など沢山製品を開発して、海外にでてゆく。
草創期にはその人の能力、技術、人間性で企業が発展することがある。
(井深大、盛田昭夫、松下幸之助、本田宗一郎などなど)
年に物価が4~8%の消費者物価が進む。
社会全体が輝いていた元気な時代だった。

昭和35年10月12日、社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺される。(日比谷公会堂)
昭和36年1月20日 ケネディー大統領の就任。(43歳)
ケネディー大統領の有名な演説
「・・・そして同胞であるアメリカ市民の皆さん、国が貴方の為に何をしてくれるかではなく、貴方が国の為に何ができるか考えようではありませんか。 同胞である、世界市民の皆さん、アメリカが貴方の為に何をしてくれるかではなく、人類の自由の為に共に何が出来るかを考えようではありませんか。」
キューバ危機、ケネディー大統領暗殺。