2014年10月21日火曜日

橋本正樹(大衆演劇評論家)     ・大衆演劇の追っかけ男

橋本正樹(大衆演劇評論家)  大衆演劇の追っかけ男
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。

昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。  紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。

一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。

藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)

こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。

「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。  努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。








2014年10月20日月曜日

山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで

山崎まゆみ(ノンフィクションライター)   ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。

温泉エッセイスト  今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。

ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者  
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。

長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。

嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。

当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃  
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。 
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)

花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。

2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。

日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。

世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。












2014年10月19日日曜日

鎌倉幸子(国際ボランティア会)   ・移動図書館、被災地を走る

鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会) 移動図書館、被災地を走る
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。

2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。

シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。

友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。

大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援  最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。

気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。

段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。

最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。  手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉  本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。

「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。

本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。






2014年10月18日土曜日

山下正樹(歩き遍路の会会長)   ・私のお遍路みち

山下正樹(公認先達 歩き遍路の会会長) 私のお遍路みち
弘法大師空海ゆかりの霊場をめぐる人達はお遍路さんと呼ばれています。
山下さんは70歳 これまでに四国88の霊場を全て巡る結願を10回果たし、お遍路の指導者としての役割を担う先達にもなっています。
山下さんがお遍路を始めたのが57歳の時、以来すべての行程を歩いて巡る、歩き遍路を続けています。
ひたすら歩く事で何が見えてきたのか、伺います。

88の札所を一巡りすると1200kmぐらい。
歩く醍醐味もあります。
最初の第一歩がなかなか踏ん切りがつかない、大変だろうとか、しんどいやろうとか、でも最初の一歩が踏み出さない限りは何も始めらない。
私はゆっくり歩くので50日かかります。
「もうちょっと頑張ったらお寺に着く」 「あわてないでいい」とか お大師様の声が聞こえる。
頑張っているから声が聞こえるのではないかと思っている。
ひたすら歩く事で常に自分自身と向き合う事になります。
(人生そのものに通じると山下さんは考えています。)
お遍路文化に触れられると言う事が一番嬉しいです。 地域の人が支えている文化。

①札所寺院 ②お寺とお寺の間を結ぶ遍路道 ③遍路道を支えている地域の方  
④遍路道を歩くお遍路さん 
この四つの要素で成り立っているが、一番大きなものが地域の方がお遍路さんを支えるお接待と言う文化を引き継いでいると言う事。
お接待 無償の行為、お茶を一杯差し上げる、励ましの声をかける。
なじみになって、泊っていきなさいとか言われる。(一般の家なのに)
お爺さんお婆さん、先代を見習って、お遍路さんを接待する、生活の一部になっている、すごい文化だと思う。
心が一緒にお接待として付いている。

12年の前に夏に初めてお遍路しました。(本格的に始めた12年前の時?)
10日間は梅雨の大雨の中で、梅雨が明けてカンカン照りで、高知県焼坂峠から下りて、添蚯蚓(そえみみず)を上がってゆくが(高低差400m)、その前に焼坂峠で全て水を飲みつくしてしまう。 困っていたときに農家のお婆ちゃんが呼んでいる。
死にとうぐらい喉が渇いており水を分けてもらおうかと思っていたら、お婆ちゃんが水を用意して待っていてくれた、本当においしかったですねえ。
一気に飲んだら、怒られる、急に飲んだら身体に悪いと。
家に帰って次の水を持ってきてくれた。
人対人がお遍路道の中につながりができる。(お接待)
人の優しさが身に沁みる。 結願したときには涙がボロボロでました。
「お陰さまで」と言う言葉が本当の意味で感じました。

(昭和19年広島生まれ 高校卒業後、大手都市銀行に就職、支店長を目指して日々励んでいたが、大きな転機が訪れたのは45歳の時でした。 
関連会社への出向、出世の道から外されたこと、慣れない職場でのストレスから50歳の時に尿管結石で1か月入院、この時歩きお遍路の事を知る。)
歩き遍路の体験記の本があった。 
だらだら生きるよりは新しい自分を探さないといけないと思った。
支店長に成れなかったのも、結果的に自分に実力が無かったのだと思った、それまでは人ばっかり恨んでいた。
平成14年6月、57歳で会社を早期退職、お遍路の旅に出る。
会社や仕事中心の生き方とは違う、新しい人生の価値が見つかった。

帰ってきた時に、もっと自分を生かせるところがあるはずだと、納得した仕事ができること、地位とか名誉ではなく、一番大事なのは会社人間は視野が狭いこと。
社会人間になろうとしたら、お互い平等の考え方がいるわけです。
お接待を受けた温かい心が私にそういう風に感じさせたと思います。
旅は甘くはなかった。 道に迷うし、トラブルがあり、足が痛くなったりしたが、その時に出会った地域の方々の温かい励ましの言葉、お接待で自分は生きているのではなく、生かされていると言う事が実感するわけです、それが自分にとって大きな収穫でした。
88番札所で結願して、一番思ったのはもうこれで遍路道を歩かなくていいと言う思いでした。
宿に帰って、朝起きると歩けないと言う寂しさが出てくる、これは不思議な気持ちでした。
お四国病 お遍路の魅力に取り付かれた病気 薬が無くてお遍路に行く事、心が落ち着く。

いろんな方が廻っていて、40~50日で廻っていて頭がクリアになる、一歩離れて自分を見つめることができる。
根底は自分の足で歩くしか解決しない、生かされてると感じた時は、自分も何かでお返ししなければいけない、物ではなく心で、だから私は出来ることで世の中にお返しをしようと思っています。
最初のお遍路を36日間で結願、高知県の島で環境保全、地域振興のNPO法人事務局長を務めることになる。
大月町 柏島 遍路道の資料を見つける。 復元しなさいということかと、直感した。
1200kmの内、土の道は100kmぐらいしかない。  土の道は足が喜ぶ。
地元の人と共に遍路道の復元をして、毎年地元の人が草刈りをしてくれている。
保存会の会長に翌年出会い、お年寄りが元気になったと言う事でした。
お遍路さんのお接待でいろんな話ができて、話題が増えて、元気になった。

今5つ目の古道の復元作業に入っている。
阿南市の山の中に在る道を地元の方と一緒にやっている。
21番札所太龍寺から山の中を抜けて22番札所平等寺に抜ける道6km。
江戸時代の道しるべが残っている。
太龍寺に上がる道、日本最古の遍路道 600年前の南北朝時代の年号の入ったしるべ石がある。
平成22年に遍路道で初めて国の史跡になる。

平成24年から子供達にお遍路の文化を伝えようと、お遍路授業を行っている。
一番嬉しいのは大きくなったら、私もお遍路に行きたいと言ったことです。
おさめ札 自分はどこから来たのかと書いた札を渡す。
旧庄屋(お遍路さんを泊めていた) 屋根裏の俵に1万5000枚のおさめ札が入っていた。
1番から順に廻る順うち 88番から逆に廻る逆うち 2つの廻り方がある。
平成16年 逆うちのお遍路に初めて出会う。
いつまでたってもお大師様にあえないので、反対に回ったらお大師様に会えると言う事で廻る。
反対に回ると全部のお遍路さんに会えることができる。
620人のお遍路さんに会えた。  

今治に59番札所伊予国分寺 58番札所仙遊寺がある。
仙遊寺にむかう逆うちをしていた時、5歳の女の子からわざわざ家から出て来て道が違うよと声をかけてくれた。
説明して納得してもらった、お礼にお接待で貰った飴を「お接待ですよ」と渡した。 
子供も喜んでくれたが私もわざわざ声を掛けてくれた事に感動した。
歩き遍路の魅力を広く伝えることをがライフワークとなる。
平成17年から毎年春に歩き遍路の入門講座を開き、参加者は250人余りになる。
お遍路によって今の自分がある。
文化遺産も沢山あるが、お寺とお寺を結ぶ遍路道、地域の方々 これが歩きお遍路さんを支えていると思います。
その一番大きなものが繋がり、ふれあい、心のやり取り もっと沢山の人に知ってもらいたい。
「お遍路では名刺と時計を置いてきなさい」と言われる。
目標としては88歳までは歩き遍路をしようと思っている。












2014年10月17日金曜日

中澤嗣子(元大相撲女将)     ・力士を目指す若者と暮らして

中澤嗣子(元大相撲中村部屋女将) 力士を目指す若者と暮らして
1951年愛知県生まれ 金城学院大学を卒業後、1年余りで富士櫻関と出会いました。
医者の家庭に育ち、相撲界とは縁も無く周囲からは反対されましたが、富士櫻の明るい性格と楽しい話し方に魅かれ結婚しました。
当時 富士櫻関は前頭や小結として土俵を沸かせていましたが、結婚生活はマンション暮らしで2人の子育てをする普通の暮らしだったと言います。
10年後富士櫻関が引退し、中村部屋を創設し、以来相撲部屋の女将さんとして力士を目指す若者の世話をすることになります。
中澤さんは強い力士を育てようと、別の部屋の師匠や力士にアンケート調査をしたり、自ら大学院で力士の養成法を研究したりとそれまで相撲界には見られなかったことに挑戦しました。
昨年中村親方が定年退職した為、26年間に渡る相撲部屋の女将さん生活を閉じました。

武蔵川部屋が使っている稽古場が元中村部屋の稽古場だった。
関取のおかみさんになって、部屋の女将さんになって36年間。
退職まで元気で過ごせたことは良かったと思うし、若い目標を持った力士と同じ屋根の下で暮らして、私にとっても、支えになったし力になったのでいい人生だったと思います。
何をしていいかわからないところから始まって、力士の役に立つ事はないかなあと思った時に、心理学とか力士の養成、と言う事で大学院に行く事が始まった。

仲良くしていた家族が相撲好きだった。
たまたま力士が遊びに来ているから来ないかと言われて、母と行ったのが、出会いの始まりだった。
今までにないタイプで、性格も明るいのでこういう人と結婚してもいいかなあと、あまり考えないで結婚した。 
全然別の世界だった。
マンション生活をしたが、1年の半分以上はいなかった。
結構、きっちり生活サイクルは決まっていた。
子供は二人いました。普通の生活が丸10年続きました。

中村部屋を創設
土地探し、銀行とのやり取りなど大変だった。
土俵のある建物を持つ事と、弟子が3人以上という規定があった。
26年間中村部屋をやってきて、120人ぐらいくるが、1カ月で帰ってしまう人もいて、その中から十両以上は4名だったが、十両以上はいなかった。
うちの場合は中学出を沢山取ったので、大学出、海外らは無いので、関取になる確率は少なかったように思う。
若い人を預かるので、さまざまな社会勉強もやらなければならない。
相撲社会は番付けが全てだが、年上に対しても或る程度尊敬しなくてはいけないし、地位が上で有ればちゃんとした振る舞いをしなくてはいけない。

歳を取ってゆくが強く成れない人は大変。 実力社会
団体生活 体罰、いじめなどは目に見えないところで起きているので、難しいが、伝統的教育の中にいじめに近い様な指導の方法が昔からあった。
やらせてから駄目だったら注意する事が基本なので、普段やっていることを見ていないと判らないが、今の子は説明を受けてからやるので、なかなかそういう指導の方法に慣れるには時間がかかるので、教える方もいらいらしたり、教えられる方もそんなことを言ったて、と言う気持ちがあるので噛みあうのが難しい問題がある。
厳しさは大事なので、規則とか、自分で気付く様にした。

五訓
①掃除は綺麗にすること
②自分の事は自分ですること
③時間を守ること
④挨拶は大きい声ですること
⑤返事は大きい声ですること
親方が作って毎日弟子たちに稽古が終るとやっていました。
出来ないと、兄弟子たちから言われる。
寝場所が変わったりした時には何かがあったことが判るので、様子を見たりする。

主人富士櫻は途中首を悪くしたので、稽古場で稽古が出来ない時期もあり、首の筋力をつけるとか、トレーニングをして、弟子たちにもウェイトトレーニングをするように奨励した。
トレーニングセンターに行く事も最近は一般的になるが、成果は本人の気持ちなので、なかなか難しいところがありました。(成果の上がる人と上がらない人がいる)
通信制の高校に通わせた。
親方がスカウトに行った時に断られる理由として、高校ぐらいは出したいと言うのがあった。
大学院で知り合った方が通信教育の高校の秘書をしていて、話が進んで、始まった。
大学院で人はいくつになっても、学ぶと変わるんだなと実感したので、年齢に関係なく学びたい思いがあったら、きっと豊かになるのではないかと感じていた。

幕下まで行った人が身体を壊して、就職しようとするが、学歴が中学ではなかなか就職口が見つからないと言う事があったので、幕下迄行くと言う事は色々持っているので、ちゃんと評価して貰いたいと言う気持ちがあった。
辞めた人が大学を目指すと言う子がいてとっても嬉しかった。
部屋をやっていて嬉しい事は力士が入門してくる時と、十両に上がった時。
入ってきた時は特別な気持ちです。(当人の決断、片腕をもがれるようだという親の気持ちなど)
弟子が急にいなくなったり、重い病気になったりしたことがあったりするが、そういったことを含めて後になっていい思い出の方が多い様な気がします。
親方は、出ていったものは追わないが、頭を下げて戻ってきたものは受け入れるが親方は何にも云わない。

社会人の大学院には色々な方がいて、それぞれの立場からいろんな話題を提供するので、相撲界だけの中にいて考えるのではなく、違った目で客観的に見る事が出来るようになったことが凄く良かったと思う。
専攻は力士教育 修士まで行く。
修士論文 伝統的にやってきたことにも、きちんと人を育てる要素があるので、それも大事にしなくてはいけないのではないか、という結論ですが、そのまま今の若い人に持ってきても無理なところがあるので、親方の立場からその違いに歩みよるとか、今まで以上に時間をかけるとかだと思います。

今の子供の生活環境が全く変わってしまった。
核家族化とか、生活が便利になってしまっているので、工夫が少ない。
力士になる環境がガラッと変わってきてしまっている。
海外の力士にくらべてひ弱、だが大事に育っているので愛情をかけられた分だけ素直さがある。
環境が激変しているが、今まで大事にしてきたことを大事にしながらも、指導法などで何か変えていかないと、と言う風には感じる。
親方の世代が若くなってきているので、それなりに考えていると思う。
伝統の重みの中で、きちっとやってゆく事が相撲が生き残ってゆく道ではないかと思う。
(相撲の素晴らしさとは)
土俵の美しさ、勝負をする息気ごみは素晴らしいと思っています。




2014年10月16日木曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(2)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(2)
句碑が建っているが、東北大震災でこちらで出来ることはないかと言う事で、一般募集して、句碑を建てる事になった。
「円空見よ 不沈日本 いざと燃ゆ」
「被災地に 祈り届けと 鶯鳴く」
「円空の 祈り深まる  蝉の声」  等など。
円空の思いと、被災者の思いと、つながっている。
当時も津波の話は円空も聞いているし、貧しい状態で亡くなってゆく人達に円空は仏さんを彫ってあげた、そういう歩いた事に重ねて、300年以上のギャップはありますが、現代でも同じ気持ちなんだよ、と言う事かなあと思います。

一番最初に東北に行った時は、避難所に行ってうちの家族が発見されてないと悲痛な声を聞いて、そのあと遺体安置所を廻りました。
沢山の棺が並んでいて、お経を丁寧に上げさせていただいて、吃驚したのは警察官、自衛隊の人も一緒に手を合わせて、おがむ姿があってこの人達も大変なんだなあと思いました。 
1カ月、2カ月して段々発見され、避難所を中心に廻らせていただいて、聞くだけですが、悲しみに寄り添ってゆく事だけしかできないのですが。
キリスト教、神道、仏教もいろんな宗派の人が来て、被災していないところを拠点にして活動しました。
キリスト教の教会が被災されキリスト教徒の人が、お寺に寄宿され一緒に活動して、その時宗教は関係ないなあと思いました。
合わせて40数回行ってきました。 沢山の方に出会いました。

看護師の人が御主人を亡くされて、自分も1カ月後に片腕を事故で無くしてしまい、本当に大変な思いをして、仕事を辞めようかと思ったが周りの人の支援を受けてもう一回やり直そうと立ちあがって、右手を失ったけれど、ケアーマネージャーとして、今度は人のために一生懸命活動されている。
そういう姿を見ると、自分自身が大変な思いをしているのに、他者のために何かが出来る、利他的行動と言いますが、そういう人達が沢山います。 吃驚、感激するところです。
「実践的スピリチュアルケアー」 大下大圓著書 ナースの潜在力を高めるための本。
(それを読んで看護をする側が実は大変なんだなあと思いました。)
医療者の人たちは救ってあげるのは当たり前のようになってしまっている。
しかし一週間お風呂も入らず着替えもしないで患者さんのために一生懸命する。
或るドクターは自分のお母さんが流されていたのにもかかわらず、自分は病院の責任ある立場だったので医療現場を離れなかったが、自分のお母さんを亡くしてしまったことで後で非常に辛い思いをする。
ケアーをする人たちのケアーが必要だった。

高橋さんと出会って、内陸の人達とネットワークを組んで一番必要な活動をしようとする。
サイコロジカル ファースト エイド(Psychological First Aid 災害現場で心のケアをどうしたらいいか、と言うテキストみたいな本があるのですがそれを読んでいたので役に立ったのですが。
被災者に近づいて安全、安心を確保する、自分が出来ないことはしない、専門家に繋げてあげる。
ケアしてもケアしても返ってこないというエネルギー的に返ってこない所に自分たちのエネルギーが疲弊してゆく。
孤立してしまう、誰にも相談できなくなったり、追い込まれてしまう事がおおい、家庭介護の場合等
日本ではお嫁さんが一番大変で、介護するサービスもかなり出てきているので、そういったものを使いながら、自分だけで抱え込まないで、いろんな人たちの力を借りてゆく考え方が大事で、時には家族が休むために、施設に入ってもらって、息抜きをしてリフレッシュしてまた介護をやると言った、家族が休むような環境作りが大事だと思います。

常に一人だけであるとか、追い込まないこと。
自利利他(最澄伝教大師の言葉の心 自分を高めることが自利、自分のエネルギーを蓄えてゆく、利他はそのエネルギーを他者に使う、自分の影響力が他者に及んでゆくので、そこを考えながら、他者を生かしてゆくという考え方。
共利群生 共にお互いに利する、あらゆる地上界の生き物はお互いに依存し合っている。
依他起性(えたきしょう) お互いに依存し合って生きているので、それをよしとする。
基本的な曼荼羅の思想。
ナースの為に書いた本ですが、援助者全ての人へのメッセージで、人のことばっかりするのではなくて、自分を高める事もやりましょう、と言う事です。

その人が生きていると言う事はエネルギーを出していると言う事なので、他者に影響力を与えていると言う事ですから、常にその人が普通の人であっても援助者ではなくても、自利利他は通じること。
人生の中で自分の目的意識を誰でも持とうとしているが、それが自利につながってゆくので、そのための努力が自分を高めることです。
高めた能力が家族を高める事になり、会社の中で自分の能力を生かして会社の大きな力になることも利他、どこの世界にでもあてはめられる。
自覚するともっとパワーが出てくる。
その人その人が生きる場所があり、必ず足元を見れば何かが見つかる。
何でもあり、そこに目を付けるかどうか。(庭の草取り・・・)
お爺さんが余った灰を道路に撒いたが、それは灰を撒く事によって、道路の雪が早く溶けて他の人たちが歩きやすくなる。(自利利他)

日本人は自利利他の文化を持っていた。
今は自分のことだけしか、考えられなくなってしまって(利己主義)、ギスギスしてしまってきている。
感情部分がやり取りできるかどうか、そこに感覚が生まれてくると思う。
スピリチュアルケアは感情の行き来、スピリチュアリティーはもっと感情の奥に在るもの、魂性、根源的な命につながってゆくもの、人間の生きる意味を問う様な深いもの。
ケアをするというのは、 スピリチュアルな課題を抱えている方にケアと言う仕組みで関わってゆく、向こうも必要とすると言う事が前提になっている。
根源的な痛みに寄り添ってゆく、その人が立ち上がる力を応援する。

今年6月に気仙沼に行きましたが、看護師さんのケアと言う事で、お話、瞑想をやったり、又、川内村へ行って保健婦さんたちと連携して、住民の心のケアと言う事でお話をしたりしています。
最終的には日常をいかに作るか、日常のなかにケアがあると思っているので、もう一回日常を取り戻すというか、そこに安心感に繋がるものがあると思うので。
主に最近自利、自分を成長させる力を再発見してもらう、自分の力を再発見してもらうために、瞑想という方法論を使って、臨床瞑想法を4つに分けてトレーニングしている。
①緩める瞑想  ②見つめる瞑想  ③高める瞑想  ④ゆだねる瞑想
仏教だけではなく瞑想はイスラム、キリスト、ユダヤ教などにもある。

①力を蓄えるために先ずは緩める、これが出発点。(先ずはゆったりした感覚、自分の心を楽にす る)
②集中力が高まるので、自分の心を見つめる、観察、洞察ができる。
 洞察力で自分のあらゆる内面を見てゆく。
 例えば失敗した どうして失敗したのか原因までさかのぼって、修正する。
 行動が変わってくる。
③心身の機能を高める。 健康生成論 健康をいかに作り出すか、今の自分から未来に向かって  どういう生き方ができるかを、考えてゆく。 ビジョンを描く事 
 ユングはアクティブイマジネーション(能動的想像)が人間には大事だという。
④自分と神と繋げる 自分と仏と繋げる ヨーガ 宗教的な高次な瞑想法

2泊3日ぐらいのコースで臨床瞑想法を学んで貰っている。
瞑想は静かな人間力を養うメソード お金がかからず、どこでも瞑想できる、死ぬ寸前の末期の人でも出来る。
或る看護師さんが疲れてしまって毎日弁当を持って1日中いたが、4日でようやく解放された。
自然の中に身を置く事によって、素の自分に戻る、日常を忘れる。
それから自分がどう生きるかと言う事になって、1週間で立ち直りました。
人間の中には立ちあがってゆく力がある PTG(Posttraumatic Growth))と言いますが。

お遍路さんは歩く瞑想  ゆっくりゆっくり歩くのも瞑想
現代人は頭でっかちになっている(知識で解決しようとする)、身体の反応を感じ取る。
悩んだ時は歩いてみる。 苦しい時、悲しい時、辛い時歩いて、お祈りしながら(札所)歩む。
88番から1番に廻ってきてエンドレス、スパイラル状に向上してゆく。
円空は孤独だとは思わない、人生を楽しんでいたと思う。
自然に包まれているという感覚さえ生まれてくれば、決して孤独ではない。(法縁)
歩いて歩いて、時には人に出会う。
円空仏は自分の気持ちが投影される。












2014年10月15日水曜日

大下大圓(飛騨千光寺住職)   ・円空の思いを今こそ伝えたい(1)

大下大圓飛騨千光寺住職)円空の思いを今こそ伝えたい(1)
千光寺は戦国時代からの古刹で円空寺とも言われています。
江戸時代前期の放浪僧円空が、道に落ちている木を持ち寄って仏様を彫り、飢えや疫病災害に苦しむ民衆に配ったと言われ、千光寺にはお世話になったお礼にと64体の仏を寄進しました。 
現在千光寺で開かれる心の道場には、仕事に疲れた人達がじっと瞑想して自分と向き合い、円空仏で癒されて社会に復帰しています。

昔から町作りをする時に東北の位置に神社、お寺を配置して鬼門の位置、飛騨の安寧を祈る祈願所だった。
1600年前からのすごい古刹。
両面宿儺(りょうめんすくな)という飛騨の長(おさ)がいて、祈った場所と言われる。
12歳の時に千光寺に来て、毎日歩いて学校に通った。
冬は学校に行くのに2時間ぐらい掛けて、雪をかきわけて山道を通った覚えがある。
5本杉と言って1200~1500年の杉があり、1本の木から4mぐらいのところから5本に枝が分かれて、天を目指している、山の全ての歴史を知っている、国の天然記念物になっている。
仁王門が昨年の秋に完成 伽藍が450年前(永禄7年)、甲斐の武田の飛騨攻めがあって、その時に伽藍が全部焼けてしまって、千光寺もまだ復興の途中だった事に気付いて、門を作った。

円空 350年ぐらい前の人、晩年に登ってきて俊乗と言う住職と仲良くなって、飛騨を廻るベースキャンプの様な所になって、飛騨を廻っていろんな仏像を作った。
円空仏 全国には一杯あるが、寺には64体あります。
昨年国立博物館で円空展を開き、64体と飛騨にある仏像を含めて100体展示しました。
19万人(1~4月)来場者があった。
天台宗の坊さんになるが、自然と一緒に生きてきた、大地にへばりついてきた百姓、山の仕事をする人たちと交流する中で、仏像を彫りあげてゆく生き方は素晴らしいと思っています。
仏像を作る時は、経典とか規則みたいなものがあるが、円空は大胆に省略すると言うか、抽象的な表現しかない。
なんか見ていると仏性が伝わってくるような力強さがあります。

円空は幼い時に長良川の水害で母を亡くしたと言われる。
その時の心の傷が後に仏像を彫る、特に円空が歌った、
わが母の命に代る袈裟なれや 法のみかげは万代をへん
(坊さんになったのは母の菩提を祈るために出家したと言う事が歌の中に現れている)
最初自分の母のために彫り始めるが、諸国を行脚している時に、悲しい思いをしているのは自分だけではないと言う事に気付いて、他者の為に祈る仏を作り始める。
心をこめて作ったので、哀愁、優しさ、慈悲、生きる力があったりする。
寺のふもとの民家には円空に彫ってもらった仏像が仏壇に飾ってある。
東北、北海道にも足を運びアイヌの人に出会って又作風が変わる。

日本の宗教性と言うのは自然とのかかわりの中に非常に大きなものがある。(自然観的宗教観)
仏像はインド、中国ではほとんど石、鋳物であったりするがほとんど石ですが、日本に入ると木に彫られることが多くなる、それは日本人が木のなかにも仏が宿っていて、自然の中に神や仏を感じる国民性があり、木がもうひとつの命に代えて仏になる。
最初見たときには是は仏像と思ったが、段々円空の味みたいなものを感じた。
最初見た衝撃が変化してゆく。
何とも言えないほほ笑みが共感できる、素朴な自分の気持ちと繋がる。
仏様は高いところにいて、私たちを見降ろして温かく包んでくれると言う様な感じですが、円空の場合は共感。
どの宗派にも円空仏があるわけではなくて、密教的なお寺、禅宗系なところ、神社ですね。

中学1年の時に前の住職が癌で亡くなるが、大禅と言う名前で、私の「大」と円空の「圓」で「大圓」と言う名前を付けるので、寺の後を頼むという、強烈な体験をしてしまった。
亡くなった住職との約束があるから、後千光寺に残ると言ってしまったが、其れからが大変だった。
高野山で、8年間お寺で修業をする。 師匠が頑固一徹の人だった。
若い時の苦しみは耐えられるので、忍耐力、やる気、生きる力に繋がってゆく。
理屈でなく体で覚えてゆく日本の文化、そこではマニュアルが無い。
体得するまでの途中が大変だが、体得と言う意味が判るとこの感じだなと応用ができる、応用ができることが判ったら人生は非常に面白い。
スリランカに一人で行って、初期仏教をやりたかった。(お釈迦さんの原点をやりたかった)
瞑想を教えてもらって、人間の心の中を見ると言う、それから40年近く瞑想をやってきているが、それが私の今の生き方のベースになっている。

言葉は通じないが身振り手振りで、イギリスの植民地でもあったので英語を学んでいるので、どうしても通じない時は英語でやって、あとは生活をしてゆくのには言葉はいらない。
私物は持たないので、お布施していただくもので生きてゆくのでシンプル。
スリランカは戒律が厳しいので妻帯しない。
私は縁あって結婚する事になり、子供を持つという意味が理解できて、共通の話題が出せるようになり、こういうのも日本的な仏教の一つの在り方だなあと思いました。
結婚してから非常に家庭の事を相談する事が多くなりました。
人生すべてが学びですよね。 
人生全てが意味があると思いますし、苦労することはいいことだと思います。
江戸時代に檀家制度ができて、檀家の固有のお寺になってしまったが、お寺はもっとオープンに利用すべきだと思います。

こちらが回答を出そうと思うと難しい、回答はその人のなかに在るので、自灯明法灯明 と言う教えのなかにある、自分の中に灯明がある。
本人の中に自分が解決してゆくカウンセリングが主流になっている。
①指示型カウンセリング、②非指示型カウンセリング、③折衷型カウンセリング 大きくは3つにわかれる。
私は鏡になっていればいい、こっちは回答を持っている必要はない。
但し人生経験は必要、共感する態度はとても大事。
死の直前であろうが、死ぬのはその人なので、その人が今死のうとしてのなかでの悩み苦しみ
もその人のものなので、私が解決しようとする必要はない、その人の苦しさに寄り添ってゆく、最後の最後にその人自身が成長するのをサポートする、そういうスタンスなのです。

判断が必要な場合は、専門家に繋げてあげる、それぞれの人を紹介する。(ネットワーク、人間関係が大事)
「命のネットワーク」 一人では限界があるので、高野山で再教育するシステムを作ろうじゃないかと言う事で心の相談員、スピリチュアルケアーワーカーとか専門的なことを学んだお坊さんたちを養成してきました。
儀式、法事が中心だったのが、若いお坊さんが目覚めかけてきて、お寺が地域のかたの為になる
在り方を模索する人たちが沢山出てきた。
震災以降、東北大学が臨床宗教師という制度(養成コース)を作って、宗派、宗別を越えて宗教家が繋がろうと言うネトワークがあったり、宗教家が他の機関と繋がってゆくと言う勉強会が出てくるようになりました。

危機感かもしれない、都会では檀家離れが起きてきて、お葬式をしないで火葬してしまうとか、従来の檀家制度が崩壊してしまうと言う危機感があって、従来のお葬式、法事だけのやり方では存続できないと言う事が情報として入ってきている。
自分たちが社会に出て行っていろんな社会の人と出会って、世界が広がってゆくと言う事で、阪神大震災があって以降、宗教界で静かな動きが出来てきている。
お寺は長い歴史、伝統、経済、自然があり、これは時代が変わろうともこれはベースにする必要はあると思う。

20年前ぐらいからケアする人をケアする事を考えていて、その人たちは疲弊しはじめた。
コアになる人間の中心となるもの(スピリチュアルケアー)に栄養を与えないと枯渇してしまう。
それはゆっくりじっくり時間をかけないといけない。
「命のセミナー」 1泊2日、2泊3日でゆっくり考えて自分と向き合い、他の人と向き合い、自然と向き合い、宗教的な雰囲気(非日常的な雰囲気)に置く事によって、体験的に学習する事を始めて、1200人ぐらいがセミナーに参加していただいて、皆さんから喜ばれている。