2014年8月7日木曜日

朝長万佐男(診療所長)    ・医師親子2代、被爆者に寄り添う(1)

朝長万佐男(診療所長)     医師親子2代、被爆者に寄り添う(1)
恵の丘 長崎原爆ホーム診療所
長崎で親子 2代 60年にわたって被爆者と白血病の関係を研究してこられた医師で、自らも被爆者の朝長万佐男さん(71歳)にお話を伺います。
一回目は永井博士の最後を看取った父
朝長万佐男の父、正充さんは「長崎の鐘」などで有名な永井隆博士の主治医で、その最後を看取った人。
白血病に取り組む永井博士の話を父から聞き、父の後を追う様に長崎大学医学部を卒業後、父正充さんが教授を務める部門、原研内科に入局、同じ道を進むようになりました。
父、正充さんが亡くなった後も、被爆者の治療や原爆放射線の人体への影響を研究してこられ、今年 日本赤十字社長崎原爆病院長から恵の丘 長崎原爆ホーム診療所長に就任されました。

ホームでは40年前から皆さんの面倒を見ている。
大学を昭和43年に卒業して、それ以来、診療を週に1回やっている。
被爆者の平均の年齢が79歳になってきている。
毎年何十人が亡くなってきている。  癌が多い。
白血病  第二の白血病と呼んでいる骨髄異形成症候群(MDS)がある。
最近被爆者の中に増えてきている。
2km以内の近距離被爆者は3倍ぐらい増えている。

2歳の時に被爆。 記憶はない、母親からの受け継ぎになる。 2.7kmの距離だった。
家は瞬間的に全壊している。 火災が起こって、梁に挟まっていなかったので、2階にいた私を母親が助け出して、近くの神社に避難したと言うのが、我々親子の原爆体験です。
2.7km、そのまま放射線が直線的に来ていれば、20ミリシーベルトを受けていることになる。
中学から高校時代に被爆を意識したが、そのころには白血病が同年齢の人から出ていた。
自分も可能性があるのではないかと不安にはなった。
医学部に入学して、6年間の中でかなり白血病の勉強はした。

父は白血病の専門家だった。
父が主催していた原爆の研究所の内科に入局した。
是が現在まで続くライフワークになった。
父は軍医になって、ビルマ、ベトナム、台湾に来て、そこで長崎に原爆が落とされたことを知る。
1年後日本に帰ってきて、大学病院の医者として復帰する。
父は永井隆博士の主治医だった。
永井博士は医学部の学生の頃バスケットボールをやっていて、中学生だった父は指導を受けた。
永井博士は白血病になっていて、広島、長崎でも白血病が出てきていた。
永井博士はレントゲンが専門で、放射線を浴びてしまっていたのではないか。
父が戻ってきたときに永井博士が闘病生活に入っていたことを知る。

永井博士は原爆爆発時の放射線科の助教授だったが、大学病院のなかで被爆して、緊急手術で命を取り留めて、3日3晩不眠不休で、被爆者の救護に当たる。
自宅まで帰ったら、台所で白骨になっている奥さんを発見する。
首にかけていたロザリオが骨の中に埋まっていたので本人だと判る、そのことが「長崎の鐘」の中に書かれている。
その骨を手ですくったけれども、その骨はさらさらと崩れたと言う。


永井先生は優しい人だった。
「長崎の鐘」 「ロザリオの鎖」などの本 17冊を書かれたが、先生は慢性白血病だったがその間、治療して支えていたのが父だった。
自分のライフワークに原爆研究をして行こうとしたのは、永井先生、父の影響は大きかったし、自分自身が被爆して、放射線は浴びていることがあったので、白血病を心配したと言う事はある。
白血病が減ってきて、高齢者の中に骨髄異形成症候群(MDS)が増えてきた。
当時子供たちが広島、長崎に多かったのが特徴。(産めよ増やせよの時代)
その子供たちが被爆者の中心になっている。 
被爆者の体の中で一生涯かかって、白血病を起こしている。  同時に臓器のがんも多い。
瞬間的に被爆しただけなのに、その人の体の中には生涯続く癌、白血病を起こす遺伝子の損傷し、そこから癌になる細胞が発生してくる。
放射線の影響は生涯続くと言う事が最近の一つの大きなトピックスだと思う。

核兵器が非人道的兵器だと言う事の一つであると言う事の医学的な証明になる。
国際会議とかいろんな場で主張している。
原爆が投下されてから2,3カ月後から永井先生などがデータを取り始めて、その後ずーっと続いている。
長崎医科大学は世界で唯一の原爆を受けた大学なので、大学の使命になっていて、其れが現在まで続いていて、私は第三世代になる。
市丸道人先生は私の父の直接の弟子であり、ずーっと続いてきた。
1857年に長崎の小島に初めての西洋式の病院ができる。(井伊大老の時代)
ポンペ先生(オランダ)が精力的に教育を行い、西洋式の病院を江戸幕府が作って、これが私どもの病院のオリジンなんです。 もう150年になる。

シーボルト先生が来ているが、シーボルト先生がヴュルツブルク大学を卒業しているが、1895年にX線をレントゲン博士が発見した大学なんですね。
その後原子学、原子物理学が発展して、キューリー夫人のラジウム発見、中性子発見と続いていって、原爆が製造されると言うところまで行ったのが、1900年~1945年の原爆までの歴史です。
シーボルト先生が長崎にいたと言うのも因縁めいたものがある。
X線が発見されてから50年後に原爆が出来ている。
原子力による核兵器、原子力による発電所 核の時代が1945年に開始されて今も続いている。
核廃絶運動をやっているが。
永井先生が闘病生活をしながらやった研究は、放射線を大量に浴びたときに、人間がどうなるかこの時初めて分かった。 急性放射線被ばくで臓器がやられて、骨髄が破壊されて血液細胞を作ることができなくなる。
貧血とか、又白血球が減ると、ばい菌の感染に弱くなるとか、そういう研究をされた。

父親はその後急性放射線被爆で亡くならなかった方たちが、癌、白血病を発病する事に遭遇した。
私は父が遭遇した白血病の研究を途中から引き継いだ。
白血病の発生は被爆者からは見られなくなると思ったが、あにはからんや、現在まで続いている、これが私の白血病の研究が生涯続いた一番の原因ですから。
何故被爆者の体の中で、白血病、癌になる事が一生涯植えつけられる事が、遺伝子のレベルで研究されつつある。
遺伝子の傷が拭い去られない結果、条件付けがされてしまっている。
通常爆弾とは全く異なる、非人道性を持つ一つの証拠になる。

福島で100万人が被爆している。
私が浴びた20ミリシーベルトぐらいが最高レベルの被爆、多くの人は数ミリシーベルト。
チェルノブイリ で被爆 25年間に7000人の子供たちが甲状腺癌になっている。
福島では30万人の子供が被爆しているが、危惧されているが、数十人が甲状腺癌がしんだんされているが、事故の影響なのか、結論は出ていないが、今後10年はかかるのではないか。
原爆、ビキニ、チェルノブイリ、福島があり、被爆した人にとって、白血病などがいつも心配になっている。
父親の研究下に入って、父は急に癌になってしまって、白血病の研究は大事だよ、とは言っていた。
永井先生 報告書 被爆者がいかに放射線で苦しんだかを纏めている。
あまりおおっぴらには報告できなかった。(占領軍との関係)
永井先生の御臨終の言葉はあまりなかった。
先生は曼性白血病 1960年代 染色体の異常が発見 1980年代 遺伝子の異常が発見
遺伝子の異常で作られる、異常なタンパク質が白血球をめちゃくちゃ増やす、これが白血病になると言う事が判る。  
たんぱく質を攻撃する薬が開発された。 1990年ぐらい
物凄い有効な抗がん剤と成る。  ほぼ治る病気になった。(9割ぐらい)
骨髄異形成症候群(MDS)は治療が難しい白血病  3割ぐらいの人は治療は厳しい。














2014年8月6日水曜日

三登浩成(胎内被爆者)     ・被爆を語り継ぐ

三登浩成(胎内被爆者)     被爆を語り継ぐ
三登さんは68歳 、母親のおなかの中で被爆した胎内被ばく者です。
高校で英語の教師をしてきた三登さんは、平和運動にかかわった経験はありませんでしたが、50歳の時に被爆の語り部の話を聞いたことが転機になりました。
58歳で教師を退職した後、原爆ドームの前に立ち、雨の日以外はボランティアで、訪れる人たちに原爆について語り始めました。
是までに三登さんの話を聞いた人は22万人だそうです。
三登さんは英語でも語るため158の国と地域、3万人の外国人も三登さんの話を聞きました。
被爆について三登さんは何故語り続けるのでしょうか、伝えようとしていることは何でしょうか。

ガイドを始めて、一番目的とするところは何かと言うと、世界中の多くの人が広島で実際に何が起こったかと言う事を知ることが、核廃絶の一番確かな道だと思うんです。
世論を変えてゆく、本当のことを知ってほしいと、云う事が一番ある。
朝9時前から5時頃までやっている。 雨の日以外はほぼ毎日やっています。
ファイルブックの中に、写真、イラスト、図表が入っていて、其れを見せながら説明する。
言葉だけではどうしても判らない。
モットー 事実を正確に 判り易く、心に響く様に。
被爆者健康手帳は最初に見せるので、ぼろぼろになってしまっている。
妊娠4カ月の母親が、爆心地から7kmに疎開していた。
3日後に自分の家が心配で見に帰った。(被曝する)
被爆者健康手帳を貰ったのが20歳の時、その時気が付いた。

母は被爆状況については一切言わなかった。
小さい時から病気ばっかりしていた。 小学校の間は1年間のうちの1カ月は休んでいた。
長生きはできないだろると思っていた。
父も被爆したが、父は93歳まで生きたが、母同様被爆時の見た状況は一切話さなかった。
医者になりたかったが、挫折して、父も親戚も教師だったので、英語の教師になった。
英語を使って広島のことを伝えられるので、結果的に良かった。
英語教育については、英語の語源とか、文化的背景とか、興味を持てるように教えていた。
50歳を越えたころに、被爆者の人の話を聞いた。
ショックだったのは、原爆の実相を、如何に知らないかということ、被爆者が言ったことが、歳だからそろそろ外の公園を回りながら日めぐりをするのが、体力的に難しいと、私の出番が来るのではないかと直感した。

58歳で退職。 教師を続けることが精神的に辛かった。
公募でガイドをしませんかと、新聞にあって、その時に入ってやり始めたが、修学旅行は春と秋にしかないので、説明したくても出来なくて、原爆資料館のボランティアにはいったが、1週間に一回しかできない。
ドームのそばで話しかけるしかないと、60歳の時から本格的に始める。
最初、1年間に2000人ぐらいだった。 
もっと大勢の人に伝える方法はないかと、いろいろ改善しながらやり始めた。
試行錯誤で今のスタイルになった。
一通り説明し、興味のある人は討論したり、疑問に答える様な形式で行った。
修学旅行生 年間70校やっている。  評価が直ぐ返ってくる。
授業と違って一回しかできない。  一期一会 緊張感もある。

本を買って読んだり写真集とか、200冊ぐらいはある。
新しい情報を得ながら、話に加える。
母の父親は悲惨な亡くなり方をしたことは、母から僅かに聞いた。
家族に起こったことをキチン話せなくてはいけないと思って、手記を書いてくれと頼んだが、けんかをしたりしながら1年掛かった。
日本語版が出来て、次に英語にしてほしいという要求が外国人からあり、(オーストラリア)世界中に広めたいと、母の手記をブログに載せたいと言う事で、知り合いのイギリス人にたすけてもらって展開した。
わたし自身4年前に日本語のブログを立ち上げ、手記を掲載、最近英語でも作った。

聞いた人は22万人、外国人3万人 毎日やっていたらそうなった。
ごく最近 アメリカ人が私のことを知ってほしいと言う事で、夫婦で核廃絶のドキュメンタリーを(20分間)作って、日本の大学とアメリカの大学で上映活動をやっている。(資金は寄付で賄う)
中国人の留学生が、中国の人にも読ませたいと、半年前中国語にして、作ってくれた。
チェコの人もチェコ語に現在翻訳中です。
外国人が知りたいこと 
①残留放射線がいつまで残ったか。 
②本当のアメリカの核を使った意図、目的、何故広島か。   
③アメリカ、アメリカ人に対して日本人、広島の人、被爆者、私がどういう感情を持っているか。
外国人の質問は鋭い、かなり勉強しないと、説得できない。

噂を聞いたりして、今10人になる。 最近若い人が入ってきて嬉しい。
フラインス人の留学生も参加してきている。
前よりも元気になったと言われる。
100%私の考えで出来るので、ストレスは無いし。
同じ内容でも、自分で読んで理解するのと、体験者、被爆者の生の声で聞くのは全然違う、心に響く、文字だけ読んだのでは心には響かない。
高い望みを掲げるとしんどい、できること、やりたいことを無理なくやるのが、長続きする。
義務感はそんなにない。 自分がやりたいことをやっている。 無理があると長続きしない。











2014年8月5日火曜日

実松克義(立教大学名誉教授) ・中米、南米の古代文明に魅かれて(2)

実松克義(立教大学名誉教授)  中米、南米の古代文明に魅かれて(2)
今日は、南米、アマゾン流域に残された文明の話です。
マヤ文明と距離的に近いと言う事もあるし、マヤ文明の調査が一段落したあたりから、次の目標として、アンデス地域に行ってみようと1997年の終わりごろに思いました。 
アンデス地域のシャーマンはどんな風なんだろうと、世界観、伝統、そういうものを知りたいと思いました。
アマゾン川、調べたところ、源流がペルーの南のミスミ山であることが判り、そこから起算すると6800kmぐらいになり、ナイル川より100kmぐらい長いと言う事が最近わかった。
(今まではナイル川が世界最長となっていた)
河川流域の広さは700万平方km弱、アメリカ合衆国と同じぐらいの広さになる。
ジャングルに覆われていて、よくわからないところがあるが、調査が進行しつつあり、かつてはこの地域はかなり高い人口密度を持つ地域だと言う事が判りつつある。
調査に依ることと、開発が進むとそれまでジャングルに覆われていたが、下に隠れていた模様が衛星写真で見つかったりして、人工的な模様ではないかと言う事になり、徐々に判ってきた。

一番有名なのがテラプレタ (ポルトガル語で黒い土)人工の土壌が存在する地域がかなりある。 
アマゾン流域の10%~15%は人工の土壌 テラプレタ  黒い、褐色の土壌 肥沃な土壌をつくって、其れを増やした形跡があり、そこで農業をやっていた。
(もともとは酸性土で赤い土で農業には不適)
いろんなものを混ぜて意図的に作った形跡があります。(科学的な方法)
ブラジルを中心に分布している。 ブラジル、アメリカで研究が進んでいる。
テラプレタ 2種類ある ①テラプレタ 真黒な土 ②テラムラータ やや褐色の土 
堆肥的なもの、排泄物、残飯を土にまいて、土壌が肥沃になってゆく。
本格的に広い地域に渡って、人工土壌を造ろうと、人工的に森を焼いて、炭を作って、熱帯の栄養価の低い処にまいて、肥沃にした。(テラムラータ)
アマゾン全域にわたって分布している。

アマゾン文明 13世紀~14世紀に滅びてゆく。
熱帯雨林だけではなくて、それと同じぐらいの面積の農耕地が存在していた可能性が高い。
衰退と共に農耕地が放棄されて、あっという間にジャングルに覆われてしまう。
マヤでも同じで、今はジャングルの中にしかない。
日本ボリビア合同学術調査プロジェクト 2005年から実際に始まって、2009年に終了した。
モホス古代文化 ボリビアの北東部 アマゾンの上流域 モホス大平原 南米で3番目に広く、ひろさが25万平方km 日本の本州と同じぐらい。 緩やかな扇状地。
古代文化の痕跡が残されていて、そこの一部を調査した。
2000年にこの文化があることを知った。
準備等があり、実際には2005年に調査を開始した。
建造物は無く、全ては土と水によって作られている。

テラプレン ナスカの地上絵に似たところがあるが、堤防、道の跡、水を制御するためのもの。
高さ2~3mぐらいでまっすぐで、長いものだと10数kmのものも発見されている。
全長は恐らく1万kmぐらいになるのではないかと思う。
それ以外に運河網  物凄い数の運河網 全長が1万km以上  
毛細血管の様に張り巡らされている。
運河は実際に交通網として使うのと、灌漑する施設として利用する。
定期的に氾濫するので、巨大な氾濫湖が出来てしまうので、運河と、高められた耕地が交互に在って、一つの模様を造っている。
高められたところに農作物を栽培して、その横に掘り下げた運河、灌漑用水、排水路が存在して、独特な工夫で古代モホス人が農業をやっていたようだ。
モホスだけで、少なくとも数100万人、1000万人の人口があった可能性がある。

痕跡の広大さ、居住地 (ロマ) 高められている処 2万個ぐらいある。
直径が10数mから1kmの広さの巨大なものがある。  
高さは最大で23mのものが見つかっている。
1年目に試掘、2年目に場所を変えてロマ・チョコラタリトで 中規模のロマを3年かけて発屈した。
土器が一番出てくる。 人骨も出てくる。 
かめ棺(直径70~80cm 高さも同じぐらい)、直葬のもの。(土葬)
複数の人骨が入ってるので、一度どこかに放置して白骨化したものを入れたのではないか。
この文化が滅びたのは西暦1300年前後。
一番古いのは、西暦1年ぐらいのものが見られる。

古代モホス大平原 非常に人口の多い社会が存在して、かなり高度な文化を持っていた。
土器文化、宗教文化を作り上げていた。
アンデスからは距離が離れているが、そこにもアンデス文明の影響がみられる。
アンデスとアマゾンは繋がっていた可能性がある。(行き来していた可能性はある)
一番驚嘆するのは、人造湖だと思う。
2000個ぐらい存在する。 最大のものは20km、幅10km
北東、南西の同じ方向を向いている。(理由は判らない) 
その方向にオリオン座があるので農業との関係があるのかもしれない。
2007,2008年 雨期に大氾濫している。 深いところは10m テラプレン ロマも水没してしまった。

西暦1300年前後に突然姿を消してしまうが、旱魃、大洪水などが考えられるが、旱魃ではないかと思われて、ロマが放棄されて、依り良いところを求めて、移動せざるを得なかったのではないか?
文明の、あるパターンがあって、滅亡の直前に急激に規模が大きくなる。
マヤ、アンデスでも言えるし、アマゾンの場合でも恐らくそういう事が起きた可能性がある。
食料生産の技術が革新的に進む→大量食料の生産が可能→人口が増える→もろくなる、滅亡しやすくなる→大干ばつ 大量に死者が出る。 
疫病なども起き、悪循環が起きやすくなり、そういったことが起きた可能性はある。

現在のアンデス文化 シャーマニズムを調べると、古代アマゾンの影がある。
チチカカ湖の南のほう、ボリビア領 古代ティワナク文化の遺跡が残されている。
最初の発祥は紀元前1600年  段々大きくなっていって、最終的に滅亡するのは西暦1280年前後だが、大干ばつで滅亡する。
古代ティワナク文化はアマゾンの文明の影響を受けている。
土器に古代の王をかたどったものがあり。口にボタンみたいなものが、下唇に付けた物があるが、パラグアイのグアラニー族が存在するが、グアラニー族の習慣の中にも残されている。
アンデス地域とアマゾン地域の中間地帯の発掘をすると、土器が出てくるが、最初の層はスペインの植民地時代の土器、その下はインカ時代の土器、その下はティワナクの土器、一番下の層からはアマゾンの土器が出てくる。
行き来があったことを証明する様な物が残されている。
アンデス文化の起源はアマゾンではないだろうかと言う気がして、始めた。
エル・ドラード伝説 スペイン人は黄金を求めてインカを征服、アマゾンにも入り込んでいった。
インカの伝説の中にも古代アマゾンに存在した非常に大きな古代帝国の話がある。
そういう風にして繋がっている。

アマゾン流域では、一時期は毎年四国に相当する面積の熱帯雨林が破壊されてきた。
アクレ州 リオブランコの街の近辺で物凄い数の地上絵が見つかった。
土地改良に森林を焼いて炭で土地改良を行ったようだが、やり過ぎてしまった可能性はある。
マヤも狭い地域で、大きな人口密度を持つメガロポリスを作り上げていた。
周りの雨林は全部消滅してしまって、残るのは農耕地のみで有った可能性は高い、最後には大崩壊を起こして文明が崩落した可能性はある。
アンデス文明に関しては、自然の破壊をやり過ぎた為に文明が滅びたと言う事はないと思う。
厳しい気候環境なので、自然が人間の膨張に歯止めをかけていたと言う事はあると思う。
自然の恵みに対する感謝を忘れないという儀式を定期的にやっている様で、まともな文明で有り続けた。
アマゾン文化は、乱開発をし過ぎたために、文明が崩壊してしまったと言う事はあり得る。
人間の業の深さ、人間は一度何かを始めると、判っていても最後までやめられない、滅びるまでやってしまうという事は有り得る。



2014年8月4日月曜日

実松克義(立教大学名誉教授) ・中米、南米の古代文明に魅かれて(1)

実松克義(立教大学名誉教授)  中米、南米の古代文明に魅かれて(1)
日本大学文理学部地理学科を卒業後、カンザス大学大学院修士課程を修了しました。
立教大学異文化コミュニケーション学部の教授を経て、現在は名誉教授です。
専門は宗教人類学及び英語教育学で、ライフワークとして、中米のグアテマラを中心としたマヤ文明シャーマン、及び南米のアンデス、アマゾン地域の古代文明の研究のフィールドワークを行ってきました。
マヤ文明の伝統を受け継ぐ、現代のシャーマンとの対話を中心に伺います。

宗教人類学 基本的には文化人類学で宗教にフォーカスした学問領域です。
古代マヤ文明は、メキシコの南、ユカタン半島、グアテマラ、ベリーズ、中心がグアテマラ。
特にグアテマラの南西部高地にマヤ民族がたくさん住んでいて、昔からの伝統が守られている。
伝統の継承者、キチェー語(マヤ民族は全部で30ぐらいあるが、最大のマヤ民族がキチェー族と呼ばれ、そこで話される言葉)でシャーマンのことを、アッハキッヒという。 光の人、光を導く人といわれる。
最大の伝統がマヤのカレンダーです。
マヤ文明は先古典期、古典期、後古典期 3つに分けられるが、先古典期は紀元前2000年ぐらいには生じたのではないかと言われる。
西暦200年、250年ぐらいに一段落して、次の古典期、古典期マヤの時代になる。
古典期マヤが終わるのが西暦900年ぐらいです。(古典期マヤの崩壊と言われる)
マヤ文明はほとんど全滅に近い状態になるが、その後復活して後古典期と言う時代、最後の輝きを見せる。
最終的に滅びるのが16世紀の初め。  グアテマラでは1524年になる
スペイン人の征服、全面的に征服される。

最初、20代の初めにある本を読んで、其れがきっかけになる。
1960年代の終わりから70年代に、カルロス・カスタネダが、当時のアメリカの若者を虜にした本を書くが、本の主人公がドン・ファン・マトゥスというネーティブアメリカンのシャーマンで、大変な智慧の持ち主、その本を読んで感銘して、シャーマンに会ってみたいと思った。
カンザス大学の文化人類学の学科に所属した。
(シャーマンに逢うきっかけがあるのではないかと思ったが、会う機会はなかった)
本の名前は 「ドンファンの教え」「分離された現実」「イクストランへの旅」 この三冊を日本で読んで、目からうろこが落ちるように感じた。(こういう世界があるのかと)
シャーマンの世界に対する驚愕。
1990年代 マヤ文明 の研究をする。
カンザス大学に入学し文化人類学の学科にはいったが、途中から魅力を感じなくなって、将来どうしようかと思って、別の道に進んで英語教育法でマスターを取って、日本に帰ってきて暫く英語を教えていた。
1990年4月に立教大学に赴任して、昔の興味が復活した。

セントトマス教会のなかで儀式をするシャーマン。
現在残されているマヤ最大の文書 ドキュメントがある。
ポポル・ヴフ」 聖なる時間の書  18紀の初めにこの教会に赴任したフランシスコ派の修道士、フランシスコ・ヒメネスと言う人がいて、あるときに偶然ポポル・ヴフの原稿を見せられて、内容を一読して、驚嘆してスペイン語に訳す。(キチェー語と対訳になっている)
複数のものが後で編纂された様な文章で、前半、後半に別れていて、前半は古代マヤの神話、創世神話、後半はマヤ、キチェー族の歴史を扱ったもので、二つが連続性のあるものとして、結びつけられていて、非常に複雑で読み解くのに大変な本です。
キチェー語をスペイン語に訳す時に間違いがあったようだ。

キチェー人が書いた物を、ヒメネスが見つけて訳したのではなく、間違いの多さ、その他のことを考えると、オリジナルが残っていないので、意図的に破棄したか、無くしたか、最初から存在しなかったのか、3つが考えられる。
長老的な人、生き字引的な人から、いろんなことを聞きだして、ヒメネスが纏めた可能性もある。(1701年から1702年)  神話として重大な神話になっている。

シャーマンは教会の中でも儀式をやっている。
シャーマンとの出会い、カトリックの教会なんだけれどもカトリックそのものではない、カトリック教会の床にろうそくが立てられていて、松の枝葉が敷き詰められていて、依頼人がいてシャーマンが祈りの言葉を捧げて儀式をやっているという、異様な雰囲気です。
依頼を受けて、目的に従って儀式をやるという事です。
依頼の内容は、病気を治すとか、幸福、安全を祈願するとか色々あるようです。
中南米のカトリックは純粋なカトリックではない。
ネーティブな伝統があり、それと渾然一体となっている。
(日本人に似ているところがある 日本では神棚、仏壇が渾然とある)

マヤの聖地 の洞窟の中で儀式を見せてもらったが、儀式が終わった後、(真夜中)
彼の特技、悪いものを身体のなかから、吸い出すことができる、吸い出したものを口の中で固形化して、ペッと吐き出す、それが髪の毛、馬の骨、コイン、ガラスのかけらだったりする。
吸うときに、患部にプラスチックの筒を当てて、口から吸う。
私も足の甲を痛めていて、やってもらって、2個ガラスの破片を口から出した。
心持良くなったのかな、と言う様な感じだった。  患部から出てくるが、体験をして驚いた。
依頼人が若い男女のカップルの場合 女性の体内から15,6個いろんなものが出てくる、さすがに驚いた。

印象に残っているシャーマン 穏やかな印象的なシャーマンに出会った。
マヤのカレンダーを使って、占いをする、神託を得る。  
キリスト教とのシンクレティズム 実力のある人でメキシコあたりから依頼人が来ていると言う事だった。
いろんな媒体を使うが、非常に印象的な人だった。
マヤ文明は16世紀にスペイン人によって滅ぼされるが、その時にマヤの伝統も変容した。
現在のこっている伝統は、かなりカトリックの影響を受けて歴史的に変わっていった伝統ですね。
でも変わらない部分があり、それがカレンダーです。
現在残されている伝統を頼りに時代をさかのぼっていって、オリジナルな意味でのマヤの伝統は何だったんだろうと、古代にさかのぼって行った。

マヤ人は優れた天文学者でした。  マヤ人は太陽の公転周期を365.2420日で計算しているが、現在は365.2422日で計算しているので、ほとんど同じ。
我々が使っているグレゴリオ暦よりも正確。
マヤ人は色々カレンダーを作っているが、一番重要なカレンダーが3つある。
①長期計算法  ②太陽暦  ③神聖暦(260日周期) マヤの宗教的な目的のために使われてきたカレンダー。
マヤ人はこの3つを複合的に使った形跡がある。
太陽暦、神聖歴(一番重要)は同時に使われていた。  20日×13サイクル=260日
20日 マヤ人は20進法を使った。 
人間の手足の指の合計が20  20は男性、13は女性を表している。
20×13=260 260日は女性の妊娠期間  人間そのものを表しているもの。
人間の生命の神秘を表したものと言われている。

20は、20人の日の神(ナワール)  時間の神が日替わりで管理している。
交代で管理する事に依って、時間が前に進む、世界が動く、そういう発想のもとに作られている。
4000年ぐらい前に作られたと思うが、神聖歴は現在でも伝統の中に残されている。
1998年 13回に分けて講演会を行った。
その一つに招かれた。  テーマが環境問題だった。 日本の環境問題を話した。
先住民族の社会、文化の中に行くと、宗教は限りなく文化に近い。 
古代マヤの伝統の研究、「ポポル・ヴフ」(古代マヤの神話) に基ずいてマヤの古代伝統を再現して、現代に復活させようという意図で作られた研究所での討論会。
政治、世界情勢、環境、宗教、教育など色々あり、13の異なったテーマの討論会。

魔術、呪術にはまっていて、本来の意味でのマヤの伝統を見失っていると主催者は嘆いていた。
本来のマヤの伝統は、呪術ではなくてマヤ科学であると、それを何とかして復元しようと努力している。




















2014年8月3日日曜日

保坂正康(作家)        ・昭和史を味わう(第5回)

保坂正康(作家) 昭和史を味わう(第5回) 
 昭和初期の子供達の暮らし 学校生活 夏休み
昭和一桁から昭和11年まで
都会の子供は、自分たちの住んでいる長屋、住環境の中で鬼ごっこをしたり、縄跳びしたり、郊外に出て行って、自然と触れていた。
紙芝居がこの頃はやってくる。 黄金バット、とかのらくろ とか文化に触れた。
田舎では本当に自然と触れることができた。  
川遊び、水遊び、動物と共生するとか、自然と触れ合う機会があった。
老人と昔話を聞くと言う、事が行われた。
昭和6年9月 満州事変  少しずつ戦争の影がはいってくる。  戦争ごっこが入ってくる。

昭和10年ごろ ラジオ番組 「のぞきメガネ」 ヨーロッパの風景が見えてきたりする。
雨の音など 効果音として作られていた。
童話、空想物語 作文、綴り方  「赤い鳥」 鈴木三重吉が作った雑誌(大正~)
新しい綴り方を通しての人間教育を進めた。
夏目漱石の門下生も協力した、レベルの高い雑誌だった。
綴り方を読むとそれぞれの中に光っている表現がある、其れは大人ができない子供の表現、其れを大事にしていかなければいけない。 人間としての広がりを持ってゆく。(鈴木談)

豊田正子さんは「赤い鳥」の綴り方で特選に度々なるが、後に作家になる。
鈴木三重吉も絶唱している。
豊田さんは職人の多い葛飾区に住んでいた。
父はブリキ職人、2人の弟と暮らしていた。
「火事」という題名の綴り方 特選になる。(小学6年生の時)  
表現が素晴らしい。 文章の写生。 描写の凄さ。
鋭い感性を持った人。
「うさぎ」、「赤い鳥」の綴り方で初入選した綴り方 (小学4年生の時)
キョロキョロ、モグモグとか擬態語が効果的に使いこなされている。
物を見る目が確か。 舞台になったり、映画化されたりしている。

昭和8年国定教科書の改定  
大正デモクラシーで、個人、人間と言うものはどういう人生を過ごすのか、人間、個人を見つめるような教育、昭和8年国定教科書の改定で国家が個人の上に立つ、国家に忠誠を誓う個人に傾斜してゆく。
作文は子供の世界では、ちょっと違っていた。(自由な雰囲気)
段々軍事が前面に出てくる。
陸軍省が文部省などに、軍事の事について教えてくれと、強い要望を出している。
教科書が軍事的に傾いてゆく。
昭和11年8月 ベルリンオリンピック  ヒットラーの時代  開会宣言もヒットラーが行う。
女子200m 平泳ぎ  「前畑頑張れ」実況放送  「頑張れ」が35回 「勝った」が15回 連呼。
男子200m 平泳ぎ  葉室鐵夫選手がやはり金メダルを取っている。

歌「ペチカ」、「二人は若い」、「小さな喫茶店」
昭和8年 防空演習 昭和9年 昭和維新  昭和10年 国体明徴  昭和11年 準戦時体制
と言う言葉がはやるようになる。
軍事がすこしずつ生活に入ってくる時代。









2014年8月2日土曜日

竹宮恵子(漫画家)       ・マンガと歩み、マンガの未来をつくる

竹宮恵子(漫画家、京都精華大学学長)  マンガと歩み、マンガの未来をつくる
64歳 徳島市生まれ 17歳で少女漫画雑誌の新人賞に佳作入選し、デビュー、SF、ファンタジー歴史大作、コメディーと多彩なジャンルで活躍、未来の地球の環境破壊とコンピューターによる、管理社会を描いた地球へ…(テライ) 小年の同性愛を描いた風と木の詩を昭和50年代に発表するなど常に時代を先取りした作品を発表してきました。
平成12年には日本で最初の漫画学科が、京都精華大学に開設され、専任教授として招かれました。
漫画学科から、漫画学部になって、学部長になり、今春プロの漫画家として、全国で初めて学長に就任しました。
ご自身の漫画の製作をほとんど休んでまで教育に打ち込んでいる竹宮さんに、半生を振り返っていただくとともに、世界から注目されるまでになった、日本の漫画の担い手をどう育てていこうとしているのか伺いました。

京都精華大学に5つの学部があり、その中に漫画学部がある。 漫画学部全体で800名
漫画学科、アニメーション学科があり、漫画プロデュース学科がある。(編集者むけ)
今も基本概論の講義はやっている。 漫画学部のベースになっている。
漫画家になってしまうと、当然の様に判っている大事なことは分かっているが、皆共通している。
皆同じことを言うので、ダブらないようにしてくれたら、もっといいことがいっぱい聞けるのではないかと、交通整理を始めて、カリキュラムを作ることが始まった。

母は子供にかまけない人だったので、ほったらかされて、一人で育つ時間が多くて、そこで出会ったのが漫画だった。
貸本屋に入り浸っているような状態でした。
最初は絵をまねると言う事から始めて、別のことがしたくなって、キャラクターを見ないで書くようになって、自分一人で書くキャラクターを書けばいいと言う事で、小学生の高学年まで続けた。
動作が繋がることがわかって、次にストーリーの漫画を書き始めたのは、中学校。
自分の感情のままにぶつけて書いていることが恥ずかしいので、人には見せなかった。
自分の中身がそこに出てくるという事の大事な部分では無いかと思う。

「漫画家入門」 石の森章太郎の本が出て、其れを見て、自分が漫画が好きで、職業として成り立つのかと言う事を知った。
どうやって実現していくのかと言う、一つの例として、自分のことを書いていた。
「漫画家入門」の続遍が出て、仲間が全国に沢山いる事が判る。
自分でもできるのではないかと思って、石の森先生にファンレターを送った。
仲間がいないので、是非友人がほしいという事を伝えた。
同人の人が見るだけの、肉筆回覧誌 10人ぐらいの人がやっていた。
石の森先生がその人たちに手紙を渡して貰って、仲間に入れてもらった。
17歳の時にマーガレット新人賞佳作に入選、デビューと成る。
徳島大学教育学部美術学科に入学する。  美術の先生になろうとした。
漫画家が海のものとも山のものとも分からない時代だったので、母からもたしなまれて。
途中で出来るだけ早く、仕事ができる状態になれば東京で仕事をしなければ、という想いがあり、教育実習の前に何とかしようと思った。(人前でしゃべるのが嫌だった)

中途退学して、同じ漫画家の萩尾 望都さんと同居するようになる。
大島 弓子山岸 凉子さんたちが集まってきて、大泉サロンと言われるようになった。
昭和24年前後に生まれたメンバーなので、花の24年組と言われて、現代の少女漫画を確立してゆく事になる。
萩尾さんのペンフレンドだった増山法恵(私の親友になった人)との出会いもあり、3人で同居生活しないかとの話があり、「ときわ荘」みたいなものにできないかと、考えた。
そこから大泉サロンと言う名前を付けて、始めた。
20代で風と木の詩 少年の同性愛をえがいたもの。  昭和51年
寺山修二 河合隼雄さんらが絶賛した。
読者は受け入れる気持ちが出来ていた。
50ページぐらいはすでに書いてあり、連載が得られるまで時間を待った。(7年間かかった)

肉体的愛情と言うものを話すときには、悪い部分を書かないで、語るわけにはいかないので、其れを知らないで、大人になってしまうのは良くないと、わたし自身思ったので、其れを知ってもらいたかったから、悪いものも書くが理解してもらいたかったので、書くと言うつもりでいた。
受け入れられて、代表作になった。
昭和52年 地球へ…(テラエ)  環境破壊で住めなくなった地球をでて、宇宙に散った人類が、今度は地球に戻ってこようとする話。
二度と環境破壊をしないように、コンピューターが人間を管理する社会。
赤ちゃんは計画的に工場の様なところで、作られる、従順な大人になってゆく。
環境破壊が起きてゆくと、人間はそれを止められるかと言う事が、私の最初のイメージ。
人間は止められないだろうと思った。
人間の悪い部分、自分一人がリードしてるわけでないので、責任を持たない。(集合体)

誰も書いていないものを書く。
深いメッセージが込められている。
人間が、集団の中に入った時に、自分自身の考えで、その集団から抜け出すことが非常に至難の業だと言う事を強く感じていて、人間のコントロールができるとしたら、どういうところからだろうと考えた。
漫画を書く技術を学ぶことが、漫画を学ぶ事になるが、漫画で学ぶと言う事は、漫画を書かなければいけないので、他のことを学ばなくてはいけない。 深く追及してゆく事になる。

バブルが終わったころ、漫画界は隆盛で出せば売れる時代だったが、売れるものしか作らないという形についついなってしまっていて、編集者も売れるもの探しになって行って、漫画の編集のこころいきはどうなってしまったのか、と言う気持ちがあったし、教育的漫画を大事に育てた編集者もいっぱいいたが、どこか崩れていませんかと言うのが、疑問だった。
色々欠点とカを指導する編集者が沢山いたが、それがないと言う事を知って、利益に繋がらないことを教える処も必要なのではないかと、思っていたら、大学からの話があり、大学で教えてみようかなと思った。

集団的徒弟制、学生70名に対して教員8名でみる。
沢山の先生たちから、自分の作品について意見を聞ける。
同じテーマでも別の先生の意見を聞ける。
学生としてはいろんな意見を聞いた方がいい。
漫画家は違う価値観があることを知っているので、其れを学生たちに判らせなくてはいけない。
違う価値観の人がNOといっても、其れは気にする必要がないと言う事です。
本人が何をしたいのか、を必ず聞きだす事、書きたいものを指導すると言うのは、教える側にとって最初迷いがあった、プロだからここを直せば良くなることは簡単に判るが、其れを教えてしまっては
その人の作品にはならないと言う事を感じるので、ここまでやっていいのかなあと感じる。
だから相手が何をしたいのか、によって指導した方がいい。
その人にとっても意味のあることになるので。

成功するためには、伝えたいことがあるかどうか、其れを持っているかどうか。
日本の漫画の魅力は?
絵自体が、云いたいことが伝えること、ができる。  伝えられた瞬間に、凄く相手が感動する、そこが見事だと感じる。
言葉が全く判らないのに、ストーリーが流れていることを知る、其れが日本的な作り方と、外国の人は評価してます。
漫画と言ったら日本流の書き方、アメリカなどのコミックとは違う。
絵だけを見ていても、動いている様に読み取れる。
海外の漫画は紙芝居的になっている。  セリフではなく、説明が入っている。  
その国の言葉に即して流れを造らなければだめだと教えている。
今後、世界で競争相手が増えるが、日本は勝って行ってほしい、と思っている。






2014年8月1日金曜日

中村雅俊(俳優)        ・デビュー40年いつもベストを尽くしたい

中村雅俊(俳優)   デビュー40年いつもベストを尽くしたい
宮城県女川町出身 63歳 デビュー40周年を迎える。
慶応大学を卒業して、直ぐ、TVドラマ「我ら青春」で主役デビューし、その挿入歌の「ふれあい」も歌って大ヒットしました。
その後も俳優として、歌手として活躍を続けてきました。
3年前の東日本大震災では、親族3人が犠牲になり、故郷宮城県、東北各地が大きな被害を受けたことから、中村さんはその翌月から被災地を度々訪れて、歌や語りでの支援活動をしています。
デビューから40周年の今年は、7月に「ワスレナイ」という題のアルバムを出し、その中の一曲「君がいてくれたから」は深夜便の歌として今放送しています。
9月からは40周年記念ツアーも宮城県など全国各地で行う予定です。

女川町からいきなり慶応に入って、居心地の悪さを感じた。 
高校は質実剛健みたいな、男子校だった。
大学の3年くらいに俳優になろうと思った。
大学に入って外交官になろうと思って、英語をやらなければいけないと思って、英語で芝居をするドラマセクションに入った。
芝居をやっているうちに、興味を持ってきて、中途から日本語で芝居をしたいと言う気持ちになって、4年になる時に文学座の研究生の試験に受かって、4年の時はずーと文学座の研究生としてやっていた。
芝居だけやろうと思っていた。
TVの主役に抜擢される。
12月にオーディションがあって、学校の先生役だった。  其れが決まって、主役デビューとなった。

「ふれあい」の歌が売れて、1位になってしまって、急に歌番組に出ることになり、周りにブレインがいなくて、どういう格好で出たらいいかわからなくて、下駄をはいてそのままででたら受けてしまった。
俳優のむずかしさ?
数学みたいに答えが一つではないので、リアリティーがあればいいと、ずーっと戦いでした。
どういう表現をしても、リアリズムがあれば成立してしまう、しかし成立させるためには持って生まれた才能みたいなものがあったりして、いい役者さんは、生まれつき持っている雰囲気、しゃべり方、しぐさ、等が本当になにをやってもはなやか、そういう人がいるが、自分はそんなに持ってなかったと思った。
この道を選んでずーとやってゆく、と言う事に関して言うと、自分がどこら辺の才能を持って生まれているかわかるし、これは歌でも言えるし、戦いみたいなものはあった。
自分でもっとがんばらなければと、結果が出た喜びもあり、いろんなことで自分なりに成長できるところは成長してきたかなあと思います。

人に少なからず良くも悪くもいろんな影響を与えるなと、云う瞬間を垣間見て、自分がやっていることは素晴らしいことだと思う時、やってて良かったと思う。
芝居は本当に難しい、難しく考えると。
反省するときがあるが、根っから楽天的なんで、まあ次の時にやろうと切り替えが早い。
高校時代はフォークソング時代で、大学では時間があったので、ギターで曲を作ったりもした。
役者は役者で100%、歌手は歌手で100%と言う気持ちでやってきた。
ツアーをずーとやってきていて、1400回はやっている。
連続ドラマも33回主演をやっている。
小椋圭山崎ハコ・・・ 音楽的才能のある方達との交流があって、本当にそうそうたるアーティストの人達が曲を書いてくれるので、歌手としてのキャリアの中では凄く恵まれていると思う。

アメリカ映画に挑戦、BSで報道キャスター 新しい挑戦
奈良橋陽子さんが演出をやっていて、音楽的なブレインになってくれて付き合いが長かった。
7~8年前に、オーディションを受けてみないかと云われて、受けた。
ユタ州で撮影したが、通訳なしだった。
アメリカ人のスタッフに囲まれて、仕事をするというのも、いつになくエキサイティングな感じがしていいなあと思いました、いい刺激になりました。
英語自体も取り組み方が違うし、日常会話と違って通じればいいというわけではなくて、パーフェクトな英語をしゃべらないといけないので、結構大変です。  でも自分では楽しい。

報道キャスター  結構いろいろなところに行く。
頻繁に被災地には行かしてもらっている。  ひたすら政治と経済。
「被災地の未来」と言うテーマで被災地を堀り続ける、レポートし続けるという事をやらさせてもらっている。
甘利さんとか、小野寺防衛大臣が隣りでしゃべるので、勉強しなければいけなくて、結構大変です。
最近になって、経済のことも勉強するようになって、すこしずつ判る様になった。
東日本大震災 地震があった時は駅のホームでドラマの撮影をしていた。
親戚が3人亡くなった。  チリ地震では山に逃げて難を逃れたが、今回の地震、津波はその時とは全然違っている。
陸前高田、大槻町、女川は人口の1割近くが亡くなって、死亡率は高かった。
最初に7月に入った時は吃驚した、瓦礫だらけで、あんな景色は無くて、言葉もなかった。

義援金だとか、自分も行って、歌ったり、話をさせてもらったりした。
震災で、明日何が起こるかわからない、明日の事よりも、今、今日の事がどれだけ真剣に精一杯生きられるか、と言う事を強く考えるようになりました。
ベストを尽くす、と言う言葉が気になるようになった。
本当にベストを尽くすと言う事は大変なんだなあと思うし、昔よりは逆に努力するようになった。
15年ぶりにニューアルバム。(新しい曲を中心)
震災に対しての自分の支援活動、歌の部分でやってきたので、ここ3年半の自分の活動を纏めてみたいと言う様なところがあったので、うたは裏に震災のキーワードはある。
「ワスレナイ」 自分のテーマは忘れさせない。
「君がいてくれたから」 いろんな解釈をしてもらっていいと思う。 詩が先に出来ている曲。
60歳過ぎても意外と元気で、まだまだやることも一杯有るんだなあと思って、走り続けてきたけど継続して、遅くは成るかも知れないが、走り続けて行かなくてはいけないのかなあと思います。