2014年4月14日月曜日

西岡久寿樹(総合研究所所長)   ・患者に学ぶ医のこころ

西岡久寿樹(東京医科大学医学総合研究所所長)  患者に学ぶ医のこころ
昭和18年三重県に生まれ 三重大学医学部卒業 カルフォルニア大学のリュウマチ科に学び、帰国してからは、東京女子医大、聖マリアンナ医科大学教授を歴任して、一貫して関節リュウマチ、痛風など痛みを取り除く道を歩まれました。
1973年には、日本人にはないと言われていた、痛風が発症する事を学会で発表して併せて痛風の治療法に尽力されました。
現在は四六時中、痛みが続く線維筋痛症の究明と治療法の確立に取り組まれています。

診療、リュウマチ膠原病の研究、若い先生のトレーニング等をやっている。
免疫学、血液学、骨関節の諸道をやってきたので、リュウマチ膠原病、痛み 興味を持って患者さんを見たり研究を進めている。
線維筋痛症、 骨粗鬆症もいろんな痛みがある。 
線維筋痛症の場合は頭のてっぺんから、つま先まで全部が痛くなってしまう病気。
実家の医者は150年の歴史がある。  志摩市で開業している。 
そこも関連していて土日はそちらに行く。
痛みは身体の痛みと心の痛みと二つあり、両方見ないといけないと最近痛切に感ずる。
どう考えているのか、どうしようとしているのか、短い時間で患者の心を、目の動き、一つ一つの言葉から読み取る様にしている。

線維筋痛症 30代、40代の女性に多い。 
中枢神経に問題があり、様々な原因で中枢神経が痛みを普通では感じない痛みを拾ってしまう。
気圧の変化で痛むとか、精神的なストレスがあっただけで痛むとか、痛みに対する感受性が非常に高まってしまっている。
1990年代アメリカで患者を見ていたが、日本ではないと言われていたが、日本でもあるといったら、全国から問い合わせがあって、行政面でも何とか作らなければいけないと、実態調査を行ったら、推定患者数200万人と言われて吃驚した。
高齢者では骨粗鬆症、多発性筋肉リュウマチ(元気なおじいさんがかかるリュウマチ、ある日突然体中が痛んで寝たきりになってしまう)
治療法は明確で1週間で直ぐに治るが線維筋痛症は原因が解らない。
痛みの受容体が脳下垂体で、それを標的として治療薬が開発してきて、痛みはかなり軽減できるようになってきた。

原因、物質レベルまで捉えてないといけないが、その部分は不明確。
診断できる医者もほとんどいなかったという事もある。
痛風 今はだれでも知っているが、当時は日本ではないと言われていたが、でも実際は研修医として当時見ると全国からちょろちょろ来ていた。
血液中の尿酸値を調べたら、推定0.3% 30~40万人の指定患者がいることが解った。
初めて日本人も痛風になると、国際会議で発表したら、東洋人でもなるのかと大反響で、白人の富裕層の病気でと考えられていた。
ベルツ博士が日本人に痛風無しと明治中期に言った。
新しものに対する興味があって、追っかけではなく立証しようと思った。

線維筋痛症、すこしずつ光明が見えてきた。 心の痛みが結構この痛みをおこす。
子供の頃いじめられたとか、離婚、交通事故、様々なストレスがかかるようなことがあって、それからしばらくしてから起こる。
心の痛みが身体の痛みを招き、身体の痛みが心の痛みを招く、両方からこの病気をコントロールしていかなくてはいけない。
精神科の医師と心療内科の医師、神経内科の医師、リューマチの医師がチームでやらないと駄目。
初診料、一人にかかっても、4人に掛かっても同じ料金になる。

患者さんとの対話は常に上から目線では絶対駄目、水平でも駄目、自分たちが下にいると言う事が大事なんです。
取材と同じ、上から目線では本音を絶対に言わない。
ある親しくしていたジャーナリストから言われた言葉だが、取材対象が向こうから来てくれるし、座っているだけでいいと、向こうからいろんな情報を提供してくれるからと言われて、そういう見方があるのかと、私の心の中に残った。
患者さんの本音の部分をどうやって引きだすか、そういうところが非常に医師として要求される時代になってくると思う。
伊勢では地元の言葉を使ってやる。(フランクになる)
踏ん反りかえっている時代はもうとうに過ぎていると思う。
患者さんの情報が勉強になり、血と成り肉と成って次のアイデアが出てくる。

患者を見ないで、パソコンを見る、若い医師が多いが、これをやっていたら情報を得るためには集中できない。  これでは駄目です。
患者さんとの関係が希薄になってしまうと、私たちの仕事と言うものは終わりなんですよ。
患者さんだけでなく、家族も一緒にいれて話す様にすると情報が増えるし、家族も理解する。
家族に理解してもらうと言う事は非常に大事です。
インターンは無くなり、研修医となりその第一号だった。
トータルに患者さんを見ることが大事だと思い、いろんなところを回ったが、それが大きな財産になった。(4年間の総合診療が凄く貴重な体験だった)
人間の体は一つなので、パーツではないので、タイヤだけを取りかえればいいというものではない。

とかく専門志向ですが、総合診療をきちんとやってくるのが本質、土台の無いビルディングみたいなもので、総合診療は建築でいえば土台の部分です。
総合診療を充実させることが、医療費をコストダウンさせる一番大事なところですが、今の日本医学界で判っている人が少ない。
医療とは高度医療だけではなくて、患者さんを元の生活に戻してやることだ。
病気になった患者さんを一生懸命第一戦に戻してやることが国に取って、税金、収入が国に入る。
日本は難病対策、医療費補助にかなり回る。 
難病の患者さんを如何に少なくするかが大事で、治療薬をきちんと開発する環境を作ってあげることが非常に大事です。
難病を減らす、その為にはきちんと薬を開発する。
製薬会社の倉庫には途中であきらめた薬がいっぱいある。
IPS細胞で最終医療、超先端医療と、製薬会社で眠っている薬を安全性は終わっているわけです、それを患者さんに巧く適用拡大する、この二本柱が絶対必要です。
新しい薬を作るために患者さんから情報を得なくてはいけない。

目の病気と関節の病気(ベーチェット) 合併症 ある先端医療に使っている薬を使うと両方とも綺麗になってしまう時があるので、そういう視点で難病を捉えてほしいと思っている。
患者ありきの僕たちの仕事ですから。
行政に対して、日本の医療が世界のモデルとなるような、システムを作るのに役立てば私の仕事は終わったと思っているのですが。
線維筋痛症も病気のメカニズムもかなり分かってきたので、それに対する治療はできるわけなので明るい見通しになってきた。
学会を作ってガイドラインを出して、一番大事なのが国家試験に線維筋痛症 出題項目として取りいれられたので、勉強しなくてはいけなくなったので、勉強した医師はこれからは経験を積んでいく事でしょう。
学んだ物をどうやって次の世代にバトンタッチしてゆくか、患者さんから教えてもらった情報を次の世代に教えてゆく事、情報、家族のケアの仕方、心の問題 色々ある。





























































2014年4月13日日曜日

山本玲子(石川啄木研究家)    ・新たに羽ばたき、啄木の魅力を伝える

山本玲子(石川啄木研究家)        新たに羽ばたき、啄木の魅力を伝える
岩手県、八幡平市出身、東北福祉大学を卒業した後、岩手県立博物館を経て、1990年1月から、石川啄木記念館に勤務しました。
およそ24年間学芸員として、独自の視点から石川啄木の作品と人間性を研究し、紹介してきました。
著書に、「花と香りと女の暮らし」、「啄木歌ごよみ」、「拝啓啄木さま」等があります。
法人法の改正に依って、財団法人石川啄木記念館が解散し、記念館の運営が盛岡市に、移管したのを機に、2013年11月30日に記念館を退職しました。
今は啄木ソムリエと成って、自由な立場で啄木の魅力と感動を伝えたいと全国を舞台に活動を続けています。

4月13日は啄木忌  啄木を偲ぶ会などが開催される。
函館、啄木のお墓が立待岬にあり、地蔵堂で、啄木の法要がある。
盛岡の宝徳寺でも啄木の法要が行われる。 
東京でも啄木終焉の地にお花をささげると言う事もしている。
頼る人は函館にいたので、啄木が亡くなってから節子さんは函館にいって、啄木の骨を函館に持って行った。
啄木は小樽にいて、そのころに借りていた部屋の隣に、易者さんがいて、占い、催眠術に興味を持つ人だった。
自身の占いもしてもらっていて、55歳で亡くなると言う占いで有った。
実際は26歳と2カ月で亡くなる。

石川啄木記念館に24年務める。
啄木の資料、手紙などから離れると言う事が出来ない様な気がしたが、物に拘らない事にしたら、心が自由になった。
小学校の5,6年生の頃、兄が湯呑茶碗を買ってきて、それに啄木の歌が書いてあった。
「故郷の 山に向かいて 言う事なし 故郷の山はありがたきかな」
兄は文学青年だったので、兄の影響がある
生活の中に啄木の歌があって、知らず知らずに目にしていた。
東北福祉大学を卒業後、岩手県立博物館に就職。
昔の人はどいう言う風に幸せと感じてきたのか、調べてみたいと思った。
民俗学を勉強したいと思った。 門屋光昭さんと出会って、民俗調査をした。
人々の衣食住について、調べた。

博物館は10年勤務、展示の案内をするのが仕事だった。
石川啄木記念館の学芸員が欠員になったと言う事で希望して、学芸員として24年間務めた。
企画事業に追われていた。
6月に啄木祭、啄木学級、短歌甲子園 故郷で啄木学級、誕生日には啄木生誕かるた大会などの対応、等をやっていた。
啄木没後100年記念事業、大震災の年が重なって、心の復興にならないかと、陸前高田に歌碑を新たに立てることをした。
「ほにつとう なみだのごわず いちやくのすなを しめししひとを わすれず」
石川真一さん(啄木のひ孫)が字を書いてくださった。

「拝啓啄木様」 啄木の日記、エッセーとか、啄木のメッセージがあり、それに対する私の返事と言う様な感じで書きました。
膨大な資料から取っている。
私の短歌ベスト3
「いのちなき すなのかなしさよ さらさらと 握れば 指の間よりおつ」
(かなし と言う言葉をほとんどひらがなで書いている。 私は愛するの 愛をかなしと読む。
命のない砂は 何と興味深いのであろうかと、そうすることで啄木は生きていると言う事を実感している。 命の無い砂が何と興味深いという風な意味で捉えるといいなと思っている)
「わかれきて ふとまたたけば ゆくりなく 冷たきものの ほほを伝えり」
(南道行さん? 移動で東京に行かれたが、 震災後に復興の様子を見てきた人で、愛情と平和を持っている人だと思っていた。 南さんが移動になると言う事で浮かんできた歌)
「あたらしき こころ求めて 名も知らぬ 街など今日も さまよいてきぬ」
(私ガフリーになった心境ですが、新しい気持ちになると言う事は心が弾む、新しい出会いがある)

100年前から私たちに、向けて様々なメッセージを送っている。
哲学があるし、啄木を知ることに依って、人間を知ることになるし、自分自身を知ることになる。
「人間は自己にある欠点を 他に認めた時、その欠点を酷く憎むものである」
啄木を嫌いだと言う人がいるが、啄木の中に自身の欠点を見ているのではないかと思う。
石川啄木の生き方には批判的な見方もある。
啄木は文学と言うものを高級なものにしないで、庶民に近ずけたと言う風に思っている。
歌は、日常の生活の中では漬物の様なものだと言っている。
大逆事件 評論が残っている。
啄木はしっかりと見つめようとした。
思想を調べてキチンとものを言おうと思った訳です。
言論の自由を啄木は訴えたかったと思う。
時代閉塞の現状は、今の時代にも重なる。
明治の時代の問題点を挙げているが、現代にも重なる。 (教育、就職難)

必要と言う事、が私たちが最も向かうべき理想であると言っている。
必要なことをしましょう。 何故明日が必要か、と言う事を考えましょうと言っている。
代用教員時代、学校のストライキにかかわって、放免されたりした。
盛岡中学時代、 労働運動が始まって、労働者たちの運動があって、社会に対して訴えるという新しいやり方に興味を持つようになって、先輩たちがストライキをするが、それに啄木が参加する。
代用教員時代、教育に不満を持っていて、子供たちと共に授業をボイコットする。
故郷を離れることが自分の身を切られるような思いで去ってゆくが、辛い思いもあるが、自分の味方になってくれた人もいるし、山河があり故郷をとっても愛していた。
心の中に磁石があり、いつも故郷の方向を向いていて全てを受け入れていた。

これからはフリーの立場で、活動をしてゆこうと思う。
仙台文学館では15周年記念で啄木展を開催しているので、全面的に協力している。
函館文学館 啄木講座があり、呼ばれている。
全国を回りたいと思っている。
啄木の魅力と感動を全国に皆さまにお伝えしたいと思っている。









































2014年4月12日土曜日

2014年4月11日金曜日

佐藤通雅(歌人)         ・慟哭(ドウコク) 震災を言葉に

佐藤通雅(歌人)      慟哭(ドウコク) 震災を言葉に
佐藤さんは1943年昭和18年に岩手県遠野で生まれました。
東北大学教育学部を卒業後、宮城県内の高等学校に勤務し、2003年平成15年に定年退職しました、。
2012年平成 24年に歌集「こはじも」で第27回詩歌文学館賞、短歌部門賞を受賞しています。
2013年平成25年11月に歌集 「むがすこ」を出版して、大震災から3年後詠んでおられます。

昔話 ではなくて「むがすこ」と読む。
これから100年後、200年後、以下の震災と言うものがそのうち皆から忘れられて、物語としてつとしてゆくのではないかと、「むがす、むがす らずもねいこと あったじも むがすことなるときをはよこよ」 と言う事から取った。 
むがす=昔  らずもねいこと=とんでもないと  あったじも=あったそうな
苦しみが早く終わって、昔話として語られる時が早くきてほしいと、祈りを込めて作った、そのような題だったんです。
遠野物語はいつも傍らにありました。
3.11に震災が起きた時に、震災はやがて来るだろうと思っていた。
8割の確率でかなり大きな地震が予告されていた。 しかしいつ来るかわからない。
直後はどれほど広いものだとは判らなかった。

町内会の人と巡回を始めた。 食料、交通、通信手段を確認しながらいったが、規模の大きさを知ったのは持っていた携帯ラジオだった。
津波警報をずーっというものですから、これはとんでもないことになったんだなあと思いました。
携帯ラジオを一晩中聞いていた。 
荒浜では200名から300名の遺体が見つかったとあった。
アナウンサーがそれをいいながら慟哭し始めた。
石巻、気仙沼で大火災が発生したとか、大震災だと気付いた。
何とか早く浄化してほしいという気持ちがわいてきて、其時に浮かんだのが「むがす 
むがす・・・」と言う事だった。
「背足も冷えて眠れず ヘルプ ヘルプ 答えくるるは、余震のみにて」
「冷凍のしし(肉)のごとくに、冷え切りし 肩に手のひら あてて明け待つ」
外がようやく明るくなった時に一つの不安が終わったなあと思った。

仙台文学館でシンポジュームがありました。 「大震災と詩歌 被災県から発信 パート3」
1回目は短歌の集い 会場は溢れんばかりに来ました。
これまでにない優れた歌を作った。 何かしなけらればと言う様なつよいおもいがあったと思う。
2回目が俳句、 3回目が詩と俳句と短歌 3つの部門でやった。
始めの震災直後は、兎に角全体が被災者だという感じだったが、時間がたつに従って、震災の絆の一人ひとりの心に入ってきて、一人ひとりが背負ってゆくほかないんだという様な気持ちが強くなってきた。
被災は時間と共に、世の中では忘れられてゆくが、しかし一人ひとりが傷として中に持っている。
2年経ったあたりから、やっと何かいわなければならないと短歌などで出てきた。
東北地方は一種の植民地のような形なので、震災が起きた時に、かなり同情が集まったのは確かなんですが、しかし忘れさられてゆくスピードも予想以上に早かった。
オリンピックがきまった後の忘却の速さはこちらが驚くばかりだった。

福島、家を追われるという事、具体的な感覚が解ってもらえない。
故郷を失うと言う気持ちは、映像化できない、言葉にもしにくい、一気に全てを失うという事の辛さをが全体に広まってゆかないで、3年で忘れ去られてゆく、という気持ちが出てきた。
いつか関心外になるだろうと思っていたので、一人ひとりが傷を負った時から文学は始まるんだと覚悟していたので、やっと出発点かなという気がしています。
全国的な目で見ると三陸は一つの地域でしかない。
私たちが傷ついたのは、日本でもう原発は売れないから、海外にいって売ろうと、セールスが始まったのは非常に傷ついた。
日本がだめなら海外に行って売ろうという発想は私たちは全く考えなかった。 唖然です。

平成元年から河北新報の歌壇の選者をやってるので、ずーっと拝見してきたが、今回の3・11以降の一般の方たちの創作意欲はこちらが驚くほどだった。
河北新報は5月1日からようやく再開したが、どーっと来て真に迫るものだった。
被災の状況に依り3つの段階にわかれると思った。  
第一は直接の被害者  第二が家族を失ったり、家を失ったり直接被害受けた人 第三は直接ではないけれど何らかの形で被害を受けている人
一杯作って送ってくださったのは第三の人々。
1カ月、2カ月たつうちに第二のグループの方たち  亡くなった方たちの代弁を何とかしようとの想い、言葉として残してあげたい、との想い。
今まで歌を作っていなかった人が、短歌、俳句があるなと考えて、何人も投稿してくださった。

自分の幼い子供を失った人は、今も作っていない。
言葉にするという事はそう簡単なものではない。  10年以上かかるのではないかと思う。
心身にひずみが来ると、10年はかかるのではないかと思う。
短歌の世界では震災の後に、当事者、非当事者か と言う事が問題になった。
当事者でもないのに作っていいのかと、歌人の苦しみがあった。
神戸の震災の時にも、どっと出来たが、その時の反省で、ただ同情して作ったとか、自分は被災していないのにTVを見て作ったとか、そういう問題が反省された。
今回気付いた事は、神戸の場合と、今の場合が違ってきたことに気付いた。
携帯、パソコンの違いだと思った。  
神戸の場合は一人ひとりがぱちぱちと撮るようなことはなかった。
今回はかなりギリギリまで撮って、それが日本ばかりでなく、世界に広がってゆく。
現実と非現実の世界がほとんど境界線が無くなったと思った。
映像=非現実 非現実でみて作られるのも同じだなあと思って、この人は圏内、この人は圏外と言う事は止めた。

大川小学校を訪ねた時に詠んだ歌。「裏山へ」
「裏山へ なぜ逃げなかった 問ふて問ふて問ふてすべなきことをまた問ふ」
校舎のすぐ裏手は山なので、誰もが思う。
高校の先生をやってきて、一人も亡くさなかった事にホッとしている。
一人一人の教員の無念さも判る。
大川小学校を見るときには複眼で見ていかないといけないと思う。
「何もかも かたずけられてゆく  消されてゆく 待ってください 声がするんです」
親の立場で作っている。  私は文語体だが、口語調でなければいけないと思った
震災の表現は今から始まると思っている。
震災にあった人は、一人一人が自分で背負って生きていくしかない。
たまたま自分が生き残ったと言う気持ちがどうしても抜けない。
「生き残る ものの不浄よ ぬか(額)たれて 安らかに と低く言う ほかはなく」
生きるか死ぬかは偶然でしかなかった。
死者の想いも引きうけて、前に進むしかない。
  



































































2014年4月10日木曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発(2)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)    自分にもできることからの出発(2)
輪島塗で知られる、石川県輪島市生まれ、69歳、
中学を卒業後、和家具を作る仕事についましたが、20歳の頃これなれらできると、思った漆工芸の道に進路を変えて、輪島塗の師匠の弟子と成りました。
地元の漆芸技術研修所で、人間国宝松田権六さんをはじめ優れた指導者たちの指導を受けて、漆芸作家を志し、其登竜門とされる、工芸展に6回連続して落選しながらも、苦境を乗り越えて、漆塗りの技の独自の道を切り開いていきました。
平成18年、漆塗りの技の重要無形文化財保持者、人間国宝に認定されました。
美しい漆器作りに精魂を傾け、お弟子さんの育成にも励む小森さんに伺いました。

小森さんの漆器は一般的な素材とは違う素材を使って作っている。(編んだ竹、曲げ輪とか)
漆器の美しさ 漆の世界に入った時は沈金という文様を付ける仕事に入ったが、途中から自分の作品を作るために自分の生地を作る世界に入ってくると、上の加色よりも漆の本来の美しさ
と言うものをずーっと追及したくなって、漆独特の艶が凄く魅力的だなあと思った。
漆の木は植林して12,3年経つと漆を取れるようになって、一本一本の性格もあって、一つの畑から良く似た性質の漆が取れる。
本来の美しい漆は、唯つややかだけではなくて、深い鈍い光を放ちてくる。
その美しさに取りつかれてしまって、本当に魅力的だなと思う。
漆の本来持っている美しさにひかれていった。
漆を取ってから2,3年寝かせ其漆の性質を見て、何年か前の漆とブレンドする事に依って、艶も変わってくる、漆の醍醐味みたいなものがある。

「底艶」 表面的に艶があるだけではなくて、中塗り、上塗りを経て、薄い層の底の方から艶がにじんでくる。
ブレンドする事によって、自分の好みの柔らかさ、硬さ、塗りやすさ、に調整する事に依って出てくることと、漆が持っている質にもよる。
ヘラ、はけ 古い道具  ヘラは能登に入口に桂浜があって発掘していたときに私が使っているヘラの材質、ヘラの形が全く同じ物が漆が付いているが故に腐食しないで出てきた。
ずーっと昔から変わらない道具を使っていたという気がする。(縄文時代~)
ヘラは 下地、 輪島の場合は米のりに「生漆」を混ぜてそこに「じのこ」と言うのを入れて、それをお椀に塗ったり、器物に塗ったりするが、その時の道具(あての木が素材 石川県の県木 ひばの仲間) 道具は自分の手に合う様に自分で作る。
見た目には形は同じだが、腰のしなり、先の柔らかさはそれぞれ違うと思う。
自分の道具でないと仕事はできない。
私は弟子のヘラは使えない、弟子は私のヘラは使えると思うが。

はけ 物を塗るという状態が起きた時に、古代の方は草の芯、繊維を固めて物を塗ったと思う。
その後、動物の毛を束ねて、はけ状にして塗ったと思う。
今私が使っているのは、人間の髪の毛を漆で固めて、それをほぐしながら使っている。
髪の毛が12,3cm伸びるとハケができる。
孫娘が差し出してくれた髪を使って、はけ屋さんに作ってもらったが、もったいなくて使いきっていない。
女性の弟子は、一本か二本は自分の髪で自分のはけを作っています。
塗るところは短いが、其はけのなかにずーっと長いまま入っている。(鉛筆を想定してもらうといい)
教え子でイギリスの方がいるが、あるとき、黄色いはけを持ってきた事がある。(娘の髪を使用)
漆を塗るときに、樹液の中とか、塗っている最中に浮遊しているごみがつくが、それを「ふしがつく」というが、ふしを取る道具を「ふしあげ棒」という。
職人さん、それぞれ素材が違う。  かや、竹を細くしたもの、歯科医師が神経を取るときに使う器具、とかいろいろ使うが、私の場合は鳶の羽を拾ってきて、毛の部分を綺麗に取って、根元にしなりをつけて使っている。

弟子は現在5人いる。 
一番弟子は10年になる。 去年に入った子、2年、3年、5年経った子がいる。(男性3、女性2)
研修所でも教えている。 8時15分から5時15分までが私の仕事場の時間です。
漆器 1年目は丸いもの、 2年目は角いもの、3年目は融合したもの、竹を割って竹を編んで物を作ることを教えている。 4年たったら年季あけと言う式をやって卒業してゆく。
昔より年季明け式は簡略化されてきている。  
年季明けする人の友だち、ご両親を呼んで、私の友だちとか、うちの家族集まって、親子盃をやって、親子の縁を結んだよと言う事をやって、記念品を渡して、宴会を行う。
輪島の後継者が育たない、後継者が少ない、業界が若い人たちを取らない(不景気もある)
即戦力がどこでも欲しいと思うが、基本的なことを教えていって、自分のところで一人前にしてそこからまたと言う事はなかなかやらない。(弟子をしっかり育てていこうという時代では無くなってきているのでは)
教えると言うのは授業料を欲しいぐらいなのに、手当を出しながら教えてゆくと言う、その辺の難しさは業界としては問題があるんでしょうね。

竹材 表面はあまり必要ではなくて、節の長いのがほしい。(45~50cm) 節の部分は使わない。
裏山から取ってきて、油抜きの工程を経て、井桁に組んで乾燥させる。
秋にきりだす。 ひと夏越したものを順々に使う。
漆 漆をかく職人が少なくなってきて、私は岩手県浄法寺町でかいてもらっている。
ほかに茨城県大子、 飛騨の高山、岡山県の奥の方で漆が取れる。
97%は外国品(中国が多い)  昨年から価格が1.5倍になってきている。
弟子を取るようになったのは50歳代の後半からだと思う。
研修所でどうしても習いたいという事で、成り行きで取ったが、赤の他人と言う事で妻にとっては厳しかったと思う。
人間国宝になると、技術伝承 後世に残してゆくのが必要と成るが、認定される前から弟子を取っていたので、あんまり考えたことはない。

弟子の教育、一人一人に対する考え方、見方をするようになって、人間としての成長が自分自身有るように思う。
素姓の違う子たちを、どういう風に仕付けながら育ててゆくかと言う事は、仕事を教える以上に難しいものがある。
研修所での教育と言うものは教えるだけなので簡単だが、仕事場の弟子は教えてその子たちが、どう育ってゆくかをしっかり見ていかないといけない。
世の中で生きていけるように、仕事場にいるうちから生きざまを教えていかなければいけないのではないかと思っている。
弟子を育てる信条、人間性と言うものではないか、芸は人なり。 
でき上ったものから人間を想像できるようなものを作ってほしいと思う。
技術も大事ですが人柄が大事だと思う。

松田権六先生から図案日誌を書きなさいと言われて、自分の作品のアイデアをメモする。
アイデアスケッチを一杯書きなさいと言われた。
若いころのデザインと、今のデザインは違うが、体力的にも、技術的にも衰えてきているが、どういう風に融合しながら、どういう風に表現するかというのが、これからの私の課題だと思っている。
それをしっかり見極めて製作に生かしたいと思っている。
70歳になったらつややかな漆が美しいと思うのと、70歳なったら70歳になった漆を自分で探さなければいけないのかと思う。
素材をどう活かしてゆくかが大事だと思う。
漆と言うものは、樹液を取るのに6月から9月にかくが、養生かき と言うのは1年でその木をかききらない、3分ぐらいかいて、何年か先にもう一度かく。
もうひとつは木からその年に出る漆を全部かきとり、切り倒してしまう。
一本の木からの生命、人間でいえば血液、大切な樹液を使わせてもらっているので、尊い物を自分の仕事に生かしてゆく有難さを、大切にして行かなければいけないのではないかと思う。
































2014年4月9日水曜日

鶴岡真弓(多摩美・人類学研究所・所長) ・渦巻文様に魅せられて40年

鶴岡真弓(多摩美術大学芸術人類学研究所・所長)  渦巻文様に魅せられて40年
19歳の時に、横浜からソビエト船でナホトカに渡り、単身アイルランドまで旅をして渦巻きの形をしたケルト文様に魅せられました。
文字を持たなかったケルトの人達の想いは独特の文様に表現され、やがて鶴岡さんはケルト文様のうず巻きや組み紐文様は日本人が描いてきた文様とよく似ていることに気がつきます。
ケルト文化研究の先駆けになった鶴岡さんに伺います。

人間が三半規管で平行な状態を保っていると思っていても、不意をつかれるところに人生のダイナミズムがある。   
カルマン渦 障害物が異物があるからこそ、水の流れがそこで踊ってみようと思う。
ラーメンにナルトがあるが、あれが決定的な素晴らしい渦のデザインだった。
何故ナルト巻きが日本からなくなってゆくのか、怒りを感じています。
神社の神文、でんでん太鼓(パワーを赤ちゃんに与える) 西園寺家 家紋左三つ巴にもある。
神聖なものだといわれてきた。
渦は日本のものだと思い込んでいた。 ブリテン島(イギリス) アイルランド ケルト人がいた。
その人たちの美術に学生の時に、突然であって、羊の皮とかに装飾されたお経に不思議な渦巻き模様があり、それがでんでん太鼓の三つどもえ、ナルト巻きのコイル状のものが、アイルランドの国宝のケルズの書、今から1200年前にアイルランドの島の修道士たちが書いたお経の三つどもえがそっくりだった。

非常に驚いて、毎日毎日通いました。
何で日本から来て、毎日来るのかと聞かれた。
ミクロコスモス(小宇宙)、マクロコスモス(大宇宙) ケルトのお坊さんたちはミクロの中に入ってゆくほど、そこに宇宙が開ける (壺の中の大宇宙)  ひっくり返った世界。
小さき者の中にこそ、それを見つめれば見つめるほど、そこに大宇宙が開けるよという、メッセージを渦巻き紋様と言う、三つ巴、というケルトのまったき文様に込めて、当時の大変高価な子牛皮紙に、手に入らない顔料で渦巻きを書いていった。
私たちとは何か、宇宙自然と言ううごめきとはこういうエネルギーに満ちているのではないかと、この羊皮紙のうず巻きに託して、表現したと思う。
大自然、宇宙、生命は渦巻きだと言うのが一つ。
物の中にも アニマ、 魂の活動があり、渦巻く様に動いている。(アニミズム)

アイルランドのスケリッグ島 修道士の修行の島 
船で行くが渦巻く波にもまれながら行くが、恐怖と闘いながら、大いなる自然の渦のうごめきに自分を託す。
渦 始めも終わりもない形をしている、一個の命が終わった先端部で又次の生命が生まれて次々に展開してゆく、始めと終わりがないというのが生命なんだという事を、教えてくれている様に思えた。
死が終点ではなくて、時間が巡ってくれば又死からよみがえるという奇跡が起こるかもしれないと、それを祈るのがハロウィン。
近代人は生まれて死ぬという直線の中でしか、自分たちの人生を考えていないと思う。
死が訪れたら、多くの現代人は病院の中で終わることだと覚悟して思っていると思う。

今はスケリッグ島には修道士はいない。
何故修道士がスケリッグ島を選んだのかと言うと、わざわざ危険にさらされる処を選んだ。
死と隣り合わせで、苦行をやっている人たちが昔からいた。
ケルト人は紀元前1000年にヨーロッパを席巻して、その後ローマに追われて、アイルランドにいってしまう。
ユーラシアの両側に小さき島のアイルランドと日本がある。
自然の脅威と闘いながら、脅威があるという事は自然がおおいなる渦を作って常にうごめいている。
日本列島人とケルト人は合わせ鏡の様に思っている。
結び目 霊結び 男女が恋をして、其時に二人で心の底から魂の結び目を作って、それを実際に持ち合う。
死んだ人と、生きている我々がその魂が結び目を作る。
絆、結び目 を作るっことに依って、結ぶことに依って最初は別々だったあなたと私が強くなる、深くなる、絆ができる。
しめ縄、あざなえる縄の様に、2本、3本になって行った時に、そこになにか新しい命、意味、価値がそこに誕生する、というそれが渦巻きとか組み紐とかに表してきた、日本の、アジアの歴史がある。
結び目はまさに、終わりのエッジから放射状になって、また人々へ、幸運なら戻ってくる。
飾るというのは、幸運であれかしと祈りのうず、祈りの結び目。
自分の体に結び目をまとわせるという事が、人間に幸運を、健やかにという事を、祈りの衣、帯、
日本とケルトで響き合っている。

ちょうつがい 蝶が羽を広げて、光の象徴。 箪笥のなかには私たちの命を護ってくれる、薬、お金、着物、守り神としての蝶の文様。
青海波文様 扇を開いた様な形の波が重なる様にして、こちらにやってくる波です。
夏、かき氷屋さんにある旗、全く知らないかなたから、きっといいものが運んで来て呉れる者があるよ、それが波、青海波文様。
畳の縁、掛け軸の文様、装飾しているが、光そのもの。
飾り、余ったスペースと思われているが、一個の小さき文様でも、結び目でも、晴れの日、人生の節目節目でそこに込める様なものが、心をこめてたむける花の様に、生と死が飾られる。

お祭り、祈りの行事 そこにデザインはある。
祇園祭は疫病が夏になると、はやるので、清める。 
装飾の展覧会、動く織物、動く結び目、動くちょうつがい。
鐘を叩くが、美しい結び紐を垂らしていて、それが鐘を叩くたびに揺れる。
お祭りは人間の幸福を祈る。  又神々に見て頂いて喜んでいただく。
最高の手段が、飾ること。 
自分が誰かと誰かをつなぐもの、渦と渦、違う存在がそこで出会う、再開できる、そういう空間や時間を作ってゆく、という仕事、営みが飾る、装飾するという、営みだと思う。
川が合流するときには緩やかな渦ができる。 そこに何かのエネルギーが生じる。
人間が、生きる、死ぬは 合流するんだと思う様になった。
合流するという事を考えたら、生きている事が、そこで緩やかな渦になって合わさってゆく、そうすると生きるという営みはいつかやってくる、もうひとつのステージと合流するんだと、合流地点まで元気にいってみようと思いながら、ケルトのうず巻きもナルトのうず巻きも青海波文様も全部同じ、厳粛な装飾文様としてみている。









































2014年4月8日火曜日

加藤みどり(声優)        ・サザエさんの声で、45年

加藤みどり(声優) サザエさんの声で、45年
74歳 サザエさんの声で出演している「サザエさん」が最も長く放送されているTVアニメとして、ギネス世界記録に登録されました。
加藤さんがサザエさんの声で出演したのが、1969年、加藤さんの声がサザエさんの声にぴったりでTV曲からこの番組一本にしてほしいと説得されたと言います。
アニメ、サザエさんの家族と声優仲間の絆、加藤さんの元気のもとについて伺います。

「サザエさん」、45年になる。
波平、サラリーマンで趣味の広い人、釣りもやれば和歌もやる、何でもかんでもできるが、下手。
船、 日本の母と言う感じ。 優しい母
夫(ふぐたますお)、大阪の人で早稲田大学を出た人。28歳の設定
サザエ   24歳  
かつお、小学校5年生
わかめ、小学校3年生
たら、私の子供  2歳半

声優が変わってきている。
波平がここで変わって、変わっていないのが、私と舟さんとたらちゃんです。
始まった時は29歳だったが、今は74歳。
最初の頃は子供の様な声だったが、 西洋形の発声よりも、邦学の発声をやりなさいと言われて、小歌、清元、をやって、今は義太夫です。
もう一つの番組は6時間録音にかかるので、鍛錬、お稽古していないと出ない。
NHKの俳優養成所で取られて訓練して、放送劇団に入れてくれるのかと思ったら駄目で30人会を作ってそこでやった。
NHKがデビューだった。  1969年にサザエさんが始まった。
オーデションだった。 それまで受けたことがなかった。
一言二言でいいよと言われたので、あて馬だと思った。

松本みきさんがOKを出してくれた。 ノー天気の明るさがいいといわれた。
自由奔放なところがプロデューサーの目にとまったようだ。
他の番組は全部降りなさいと言われた時も「ハイ」と言った。
ギャラが安かったが、どうなるんですかと言ったら、お金のことを言ってはいけませんと言われて、あなたにはちゃんとした家庭があるので大丈夫ですねと言われて「ハイ」と言った。
必要な一本になったのは30年後です。
そんなに続くとは思わなかった。 収録が木曜日なので必ずいなさいと、休みはありません、あなたは全部の人に絡むからスタジオを出てはいけませんと言われた。 トイレも行けなかった。
君がそういう事を一生懸命やっているという事で、スタッフは君の為に一生懸命やってあげていますと言われて、その一言でやる気がでてくる。
だから、プロデューサーが亡くなった時にどうなるんだろうと、思った。
周りのスタッフから大丈夫ですよと言われて、何の心配もなくやってきた。

どうして評判がいいのかと言われるが私としては判らないが、演出家のいう事が直ぐにできる様な声優さんになって下さいとは言われました。
台本をその場でくれて、1回絵を見て、はい本番です、と言うんです。
(本来は台本をさきに渡して、何回か練習をやって、大丈夫そうならそれでは本番と言う形だが)
最初は永井 一郎さん(波平)、近石真介さん(ますお) 大山のぶ代さん(かつお) 山本嘉子さん(わかめ) トップランクの声優さんだった。  私が一番キャリアとしてはなかった。
私だけが心配で、他の人は出来るんです。 厳しかった。今では私より上の人がいませんが、
なんでそんなことをするんですかといったら、集中力の問題だと言われた。
何度もやっていると、狎れになってきて皆がだらしなくなってくるので、と言う事だった。

大山さんが高橋和枝さんに替ったが、この二人がいて私は巧く行った感じです。
色々あったにしても私は自然に楽しくやって、帰っておいでと言われているので。
永井一朗さんが1月に亡くなった。
亡くなる3日前に録音を取っている。  何が何だか判らなかった。
「波平」さんと言う形でお送りますと言われて、子供たちは出なさいと言われて、はーと言ったきりだった。
ファンの方たちがずらーっと並んだ。 この番組は凄いんだなあと思いました。
長谷川町子先生の原作が良かったのもありますが、アニメも45年という歳月を皆さんの力があったから続けられたわけで、これだけの方が後押しをしてくださったという事で、亡くなって1週間ぐらいたってしばらく気落ちしました。

どんなに人が変わってもアニメのサザエさんは変わらないんだと、いうそれが一般の家族と同じなんだと、そうなってきたんだという気がしますね。
昭和で、変わってほしくない事がありますね。
一番大事なのはコミュニケートの問題だと思います。
鼻濁音に関しては、プロデューサーからいかんと、流行語はいかん、かつおとは対等に遊んではいいけれど、どんなことがあっても汚い言葉、人を傷つける言葉は全部カットするといわれた。
挨拶はキチンとする。 いってらしゃい。おかえりなさい。 
昭和の家族の愛の言葉ですね。 心の豊かさ。
私は昭和の物の無い時代なので、合っている。
65歳以上の方にとっては懐かしい思いがあると思う。

私はもともとは弱いが、気力で持ってきて、65歳を過ぎてからあちこち悪いところが出てきて、病院へ行くと病気ではないんですよ、老化ですよと言われる。
笑い声がいいという事は、発声法から行くと非常にいいボディーを使った声だと言います。
健康のバロメーターでもあるのかなと思います。
音域が物凄くあったが、低い声で何時間でも朗読できる、逆になってきた。
声優になりたいのならドンドンやっていけばいいと思う。 門戸は開かれている。
その時その時に必要なものを自分で得ていけば、努力していけば、しっかりとした社会的な地位はあると思うので。
一昨年、園遊会で、元気な声を陛下に声をかける。
普通は陛下から声をかけるが、判らないかと思って「サザエでございます」と声をかけた。

スタッフの方が、とっても丁寧に一つ一つの台本を作ってくれるので忠実に、監督から言われたことは直ぐ治せるようなもので有りたい。
出来ればこの声でずーと続けて行きたい。