2014年4月7日月曜日

臼井二美男(義肢装具士)     ・血が通う義足を作りたい

臼井二美男(義肢装具士)  血が通う義足を作りたい
障害を持つ人の為に義足を作り続けている臼井さんは58歳、サポートしているのは、東京オリンピック、パラリンピックの招致の際、最終プレゼンテーションでスピーチをした佐藤真海さんを始め400人に及びます。
大学を中退したあと、フリーター生活を経て、28歳の時に当時の財団法人鉄道交済会東京身体障害者福祉センターに就職、義足の作り方をいちから学び、国家資格である義肢装具士を取得しました。
1989年からは、通常の義足に加えスポーツ義足の製作もはじめ、義足を装着してのスポーツも指導してきました。
どんな気持ちを込めて義足作りに当たっているのか、障害のある人たちに力を発揮してもらうためにどんなサポートをしているのかを聞きします。

佐藤真海さんとの出会いは11年前、ある日大学生の女性が訪ねてきた。
杖をついて足を引きずるような様子だった。
走りたいけれども私でも大丈夫でしょうかと言ってきた。
歩くのも上手ではなかったが、真剣な訴える目つきが違っていた。
普通にあるいても痛くない義足の製作から始まった。
私はトラックの運転手を始め、バーテン、ガードマンやったりいろんなアルバイトをやった。
自分に有った手に職を付けたいと、職業訓練校があって、そこに義肢科があって、小学校の6年生の時に担任の女性の先生が悪性の腫瘍になってしまって、膝からうえで足を切断して義足になったという事を思い出したんです。
そのことをふっと思って義足を作る仕事にチャレンジしてみようかと思って、学校の門を叩いたのが最初です。
実際に働いている製作現場を見学に行った。(鉄道交済会東京身体障害者福祉センター)
そうしたら一人欠員があり、入らないかとの話になり、やってみようという事になり、学校には行かないで今の職場に入ることになった。

本を読んでも判らない事が多くて、先輩から指示された事を一個一個やってゆく事の繰り返しだった。
人間、同じ人はいなくて、足の長さ、皮膚の硬さ、骨の長さ、表面の皮膚の状態、千差万別なので一人一人に合わせて作るのがなかなか難しい。
自分ではうまくできたと思ってはいて頂いたら、きつくてはけないとか叱られて、義足を床に投げられたこともあり、其時はショックだった。
一人一人の感性もあり、きちっとしたのがいい人もいれば、緩めの方が好む人もいる。
日本人は感覚が豊かなので、障害を持ったことでナイーブな方がいるので総合的に理解して一緒に作っていくみたいなことがないとなかなか受け入れてもらえない。

義足は全体重をうけ止めるところなので、ソケットに全体重がかかる。
走ると200kgぐらいかかるので、ソケットが適合していないと、必ずどこかに傷ができたりあざができたり、トラブルになってしまう。
スポーツをやる選手は筋肉がついてくるので、そういったことを想定しながらやらないと、長く使えない。(半年先を考えながら作らないといけない)
はいているのを忘れてしまうまで行けばいいが、そこまではそう簡単にはいかない。
出来ればその義足を使って、スポーツをするとか、行けなかった旅行に行くとか、新たな事ができる様な義足作りができればと思っている。
合わなくなると最初から、足の切断面を石膏で型を取り、修正をやって、仮のソケットを作る。
よかったらそれを仕上げて、本ソケットを作る。
担当している人が400人ぐらいいる、その人たちとずーっと付き合ってゆく。

30年間やっていると長い付き合いと成る。
人生の節目節目に立ち会うこともある。 結婚式に立ち会うとか、就職とか。
ハワイで水にはいりたいのだけれども、とか 温泉の大浴場に入りたいとか、要望があるとどうすればいいかとかいろいろ考える。
ネジが多いと故障の原因になるので出来るだけシンプルの方がいい。
今はカーボンファイバーでスキーの板の様になっている。
体重をかけると板がたわんで反発を利用して、跳んだり、走ったりする。
佐藤真海さんは膝からしたの切断なので、大きくは3つの構成部品、足を入れるところ、パイプみたいなもの、地面を踏みしめるところ、と成る
ひざより上の切断の場合は、人工の膝がついている。(丈夫に出来ている)
動きの加減を油圧、空圧で再現するという風に高度になってきている。

1989年からスポーツ義足の製作を始める。
就職して5年後に、アメリカの義肢の雑誌があり、パラリンピックで義足で走っている写真があり、自分の周りを見ると義足で跳んだり、走っている人がいなかった。
聞いても走ったっことがないという。
義足の機能が走ったりできないんだと、アメリカ製で丈夫な部品を研究費で買っていただいて、走れるかどうか、実験的なことをやって、病院では教えてくれなかった。
やってみるとぎこちないが1日目で走れてしまう。 その時に涙を流した。
諦めていた事に対する感動、泣いた姿をみて、継続してゆく価値があると思って今に至っている。
一般の義足は見るからに足の形をしていてふくらはぎがあり、柔らかい素材がついている。
スポーツ用は機能重視なので、板の様になっていたりする。
生活が出来て、スポーツが出来て、という様な事は出来ない。
後50年もすれば、万能の義足ができるようになるかもしれないが、今は万能ではない。
障害者のスポーツセンターがあり、月に1回集まって基本的な走りなどを一緒にやって、徐々に走るためのサポートを一緒にやる。
一緒にやることが励みになる、安心する。
2000年 シドニーで、鈴木徹君が日本で最初に義足でパラリンピックで走った。
ロンドンの時には義足の選手が7人参加、新しい人たちが出てきている。

佐藤真海さんは走り幅跳びの選手 アーチェリーに義足の選手がいたり、義足を使った選手のサポートという事で行かせてもらっている。
欧米は義足の歴史が古いので、海外の選手の義足を見てくることは非常に勉強になる。
日本選手にすこしでもいいところを取り入れていきたい。
日本に6万人義足を使ってる人がいるが、スポーツ義足を使っている人数%だと思う。
佐藤真海さん等が活躍する姿を見ると、スポーツをやっていない人でも励みになる。
パラリンピックとかが持っている、人をたくましくさせるきっかけ作りになるイベントだと思っている。
週に5回ぐらい会社を終わった後に練習をしている姿を見ると、涙が出てくる。

選手の育成、若い選手を育てる、最初からスポーツをやりたいという人は少なくて難しくて、
スポーツの効能は大きいので出来るだけ誘おうとしている。
職場の技術者、一緒に歩んで行ける様な人の育成、 その二つが必要です。
基本は、病院で悲しみのどん底にいて、その人たちを少しでも早く、気持ちだけでなく身体を含めて社会に戻してあげる、自信を付けさせる、笑顔に早くさせる、そういう基本的な活動を続けてゆく、その上に、スポーツがあったり、仕事があったりするので、それだけはまだまだ変わらない形で続けてゆきたい。
サポートするのが、天職みたいな感じになっているので、義足で溌剌としている人達を一人でも増やしたいと、そんな気持ちでまだまだいたい。



















































2014年4月6日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)   ・ 特集・昭和史を味わう

保阪正康(ノンフィクション作家・評論家)     特集・昭和史を味わう
36回シリーズで3年かけて昭和の全時代を味わってゆく予定。
「何故今昭和史なのか」
昭和と言う時代にはいろいろなことがあり、色々なことに出会った人はどういう思いで生きてきたのか、それをきちんと調べて次の時代に伝えていきたいと思った。
昭和と言う時代は人類史の見本市である、兎に角人類が体験してきたことをほとんど全部詰まっている。
戦争、占領、テロ、クーデター、革命騒動、貧しさ、議会政治、飽食の時代、軍事指導から民主主義、いろんなものが詰まっている、謙虚に見直すことが必要、国民的遺産であると思う。

一つに日本人が変わったのが、明治維新でいきなり国際社会に出ていった。
二回目の変わり方は、明治以後の政治体制が壊れて、民主主義の形で国際社会に入ってゆく、ここで又日本人は変わったと思う。
元号で見るという事は、いろんな意味で民心の一新、として考える。
元号で見るのは主観的歴史、西暦で見るのは客観的歴史。
昭和天皇の存在、天皇の性格がある意味時代を作っているという事もあるし、時代が天皇の性格を作っているというか、相互の関係性がある様に思う。
元号で見ることに依って判ってくると思う。
昭和は3つの顔を持っていると思う。
昭和20年9月2日が境目、 ミズリー号上で降伏文書に調印 8月15日ポツダム宣言受諾
連合国に占領される。 6年8カ月続く 昭和27年4月28日に独立が回復する。
国家主権を失っている。  どこの国にも大使館、領事館をおけない。  昭和中期
昭和27年4月29日~昭和64年1月7日 昭和後期 と考えている。

昭和の歴史はほとんどラジオの歴史でもあり
ラジオの放送開始 大正14年3月22日(放送記念日)
日本放送協会が設立したのが大正15年8月20日
大正天皇崩御 大正15年12月25日 
戦中、戦意高揚などにも使われた。

ラジオ音声 3つ
昭和初期は昭和天皇の即位式典       昭和3年11月6日  実況中継
昭和中期は出陣学徒の壮行会         昭和18年10月21日 神宮外苑競技場
昭和後期は東京オリンピックの開会式    昭和39年10月10日  日本選手団入場

戦争の痛手から立ち直って、高度経済成長へと時代が突き進むことになる。
昭和天皇の実録が出される。
明治天皇の実録は昭和43年 明治100年のときにだされた。
大正天皇の実録は墨塗りにしてあるところがあり、資料として読みこなすには大変で十分に読みこなす事はされていない。
昭和天皇は20卷ぐらいと言われる(明治天皇の1.5倍と言われる)
在位期間が長いのと、資料がたくさんあるので、其資料がどういう風に使いこなしてゆくか、興味が持たれる。

昭和と言う時代は、人類史の見本市で、日本人の国民性は100年200年後にどのように感じたのか、きちんとしたデータを残してゆくのが大事だと思う。
一人一人がどうやって生きたのか、きちんと記録として残さなければいけないと思う。
時代の歌、
①東京行進曲(昭和初期 佐藤千夜子)  
②麦と兵隊(昭和中期  東海林太郎)  
③青い山脈(昭和後期  藤山一郎

昭和史は記憶を父とし、記録を母として、教訓と言う子供が生まれるのではないかと思う。
過去の教訓を生かして、学んで未来に託す。
































2014年4月5日土曜日

坂口勝春(アジア図書館事務局長)  ・ 市民が作るアジア図書館

坂口勝春(アジア図書館事務局長)     市民が作るアジア図書館
民間の図書館で坂口さんを含めて3人の人達のボランティアで運営しています。
蔵書は50万冊、そのうち5万冊を常にを展示し、貸し出しもしています。
アジアについて日本で出版された本はもちろん、アジア各国で出版さた本も数多く所蔵しています。
オープンしたのは32年前の昭和57年で、平成23年に一般財団法人になりました。
何故アジア図書館を作ったのか、どんな図書館を目指しているのか、お聞きしました。

70坪の2階建て 築30年以上になる。  手作りの本棚もある。
表題は「中国古代服飾研究」 中をあけると中国語で書いてある本。
図書資料は日本語、中国語、韓国語、タイ語、インドネシア語・・・・多数ある。
美術全集とか個人では手に入れられないものを社会的に図書館がやらなければならない
独自性と意義がある。
アジアユネスコ文化センターが各国に共通な絵本を出そうと出版活動を行い、非常に広がってきていて、アジア図書館の良さにして行きたい。
ジャンルは問わずに本が集まっている。
90%は図書館の蔵書として、10分ぐらいのところに書庫として蓄えている。
最初の頃は自分たちで出し合って買ってきたり、貰ったりしてきた。
段々年数がたってくると、本を出版したのであげますとか、父が亡くなったので、引き取ってほしいとか、学校が統合したので引き取ることになったり、図書館に収めたいとか、本が増えていった。

民族言語を勉強する場でもある。 
60歳で定年になって、勉強する人たちもいる。
ボランティアで予算が組めない。 ローテーションを組んでやっている。
ボランティアは平日は3~5人、20人は登録している。 イベントの場合は40人ぐらい集められる。
会社で15人ボランティアで3回目になり、韓国からも来て第4次の交流で高校生が10名、手伝いに来たりしている。
関係が良くなくても、民間交流、文化交流こそ、こうやって私たちの出番だと思っている。
40年ぐらい前に10年務めてきた会社を辞めて、リュックを担いでインドを回ったこともある。
物ではないという事、物に溢れて又次々に物を求めてゆくという事が本当に喜びになるのか、幸せになるのかと、ハッとさせられた。
文化、芸術も上から目線で見てきた日本の学校教育だとか、いいのかと思った。
民族の固有な伝統的なものがそこにあ有り、村の人が演奏して踊ってくれて、歌ってくれる。
文化、伝統芸能で狂言なども秋祭りには奉納して、300年受け継いだお祭りがあって20歳になれば舞台に上がるという事をしていた。
それと重なるんですね。

明治から140年間が欧米がテキスト、教えてもらう先生だった。
それに向かって日本は走ってきた。 アジアはごっそり抜けてゆく。
アジアの文化、芸術、思想、哲学、歴史、を大事にする、物ではない、道具ではない、そこにこそ私たちは一生懸命勉強してゆこうと図書館作りを始めた。
本はいつでも自分が好きな時に教えてもらえる。 そこに本の力がある。
勉強会をスタートさせて、日本を海の外から見て、アジアを鏡にしてゆくと、自分たちを見つめてゆくまなこが二つある。
日本の中だけで見ていたら、500年前1000年前を見るのも一つの鏡、海の外からも見てゆくという事、2つを持って勉強してきたのがアジア研究会だった。
ガレージを借りて、そこに本を集めて、一生懸命勉強会を重ねながら、本を貸出しようと拡大してきた。
拡大するうちにいろんな趣味の人がいますから、手伝う人が増えてきて、本も増えてくる、勉強の場も増えてきて、文化講座をしましょうとにぎやかになってきました。

32年前は図書館の卵が誕生して、貸してほしいという人が多くなって、駅の近くにもうひとつ民間のビルを借りて1部屋、2部屋と広げて、次に引っ越していって10万冊、20万冊と成って、3回目に引っ越して50万冊になった。
お金のことを気にしていたら、きりがないので、自分たちで智慧を出して、本を集めるための仕事には場所が必要で、趣旨に賛成してくれる会員を皆さんが支えてくれる。
全国から応援してくれる。 今は1200人が支えての会費を払ってくれる。
催しをして参加されて会費を払ってくれる方、いらなくなった本をリサイクルバザーとかで運営のたしにする。
市民が作って市民が運営して、市民が支える。
公立図書館がいっぱいあるが、私たちの場合は予算がなくても自分たちで本を集めて、運営資金を何とか集めて、読みたい本をそこに揃えてゆく、アジアを理解するための特徴を持った
図書館にしてゆく、言葉も学べ、人も集まってきて、文化も学べる。総合的にできる。
そしてアジアに特化する場所は行政ではなかなかできにくい。

多様な民族、多様な文化 それを理解してゆく為には、日本に来ている人がいるので、口コミで教えてあげましょうとか、いってきてくださる人がいる。
本を通じて、20カ国以上と付き合いたいが、現在5カ国、6カ国 と交流。
本をドンドン送っている。インドにも2万冊送った。 
日本語教室を作りたいとかプロジェクトの呼びかけもある。
海外からも呼び寄せて、催しをやったりしている。 7年連続してやったこともある。
本に触って見ようという風にしなければいけない。
その入り口はなんでもいい、写真集、音楽、料理教室、そういう事が入り口で、次には本を読んでみようと、間口を広げて、敷居を低くして、誰もが近寄れる場所にしたい。

本が集まって、人が集まって、次に資金を集める事に挑戦している。
全部合わせて皆が利用できるようにしたいが、そのためにはもっと多くの人に応援してもらいたいと思っている。
これからの50年 100年は否応なしにアジアの人と付き合っていかなくてはいけないので、アジア図書館を施設として、皆が勉強できる場を作りたいので、100万冊並べて、その為の資金を集めてゆきたい。
先につながる図書館にしてゆきたい。
先ずは廃校になった小学校に移していきたいと思っているので、宣伝している最中です。

自分の為に自分の人生はあると、いう風な考え方はでき上っていて当たり前かもしれないが、それだけでいいのかとの想いはある。
自分も支えられているし、今の社会に感謝しながら何か役になる事をやらなければいけない。
一人で生きている訳でもないし、助けられている、次にバトンを渡してゆかなくてはいけない。
飲む水は次の、次の世代、 アジア図書館と言う井戸はドンドン汲んでも汲んでも湧きががってくる井戸にしたい。
直ぐには目に見える効果はなくても、湧いてくるところまで作っておけば、社会教育としての井戸を一つでも二つでも作っていきたいと思っている。
アジアの足元を見ることに依って、気が付くはずなので、市民が市民に依る出来ることをやれば、意外や意外出来るじゃないかと言う事です。
バトンタッチするためにはあと10年、は一生懸命身体を動かしてアジア図書館のレールを敷いて、後にバトンタッチしてゆきたい。

付き合えば必ず友だちはできるので、草の根の文化交流で友だちが沢山出来れば、100万人、200万人友だちを作れば、戦争などはやろうという事がなくなる。
皆が智慧を出しあい、持ち寄って、本が集まってきて、それが社会の文化のインフラだと思っている。
































2014年4月4日金曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発(1)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   自分にもできることからの出発(1)
石川県輪島市の生まれ 69歳 中学校を卒業後、タンスなど和家具を作る仕事に就きましたが、思うところあって、20歳のころに漆工芸の道に進路を変え、輪島塗の師匠の弟子と成りました。
地元に設立された漆芸技術研修所で、人間国宝松田権六さんを始め、優れた指導者の教えを受け漆工芸の作家を志す様になりました。
しかし作家への道は厳しく登竜門とされる公募展に6回連続して落選し、鳴かず飛ばずの苦しい生活が続きました。
そうした苦境を小森さんは独自の道を切り開く作品で乗り越え、漆の道に進んで、およそ40年後の
2006年漆塗り技の重要無形文化財保持者に認定され、人間国宝と成りました。


輪島市 能登半島の中ほどのところ  輪島塗として有名。
漆芸作家として漆器作りをしている。 
塗師 漆器のボディーがあってその上に布着せをして、下地を付けて、中塗りを付けて、上塗りをする、色々な過程を経て、最後の上塗りをするまでの工程を行う。
ほぼ30畳の工房、20年前にここに引っ越してきた。
下地を付けるとき、上塗りをするのにいい時期があるので、時期的なタイミングを合わせながら行う。
工房展にだす、中塗り、上塗りを現在はやっている。
日本伝統工芸展 それが一番大事な展覧会です。 
7月の終わりに展覧会の締め切りがあり、8月の前半に監査、審査があり、9月の20日前後に東京の百貨店で開催される。
自分の作品を見たり周りの人の作品をみて、帰ってくるときに、来年1年間の製作のスケジュールを自分の中で組み立てる。
日本伝統工芸展の審査委員も行っているが、毎年では無い。(審査委員、監査委員を担当)

気温が24度、湿度は65~70%ぐらいが、漆を塗るにはベストな状態です。
漆は湿度が低いと乾かなくて、湿度が高いと乾く。
漆を取ることを「かく」と言うが、かかれた時期、かいた木の性質によって乾きは微妙に違う。
一桶に集めるので、桶一個一個に依って、その乾き、艶、が微妙に違ってくる。
湿度が高すぎると乾きが早く乾きすぎてしまって、それはまた困る。
中が乾かないと「うむ」というがそれは又よくない。
時期、時期に合わせながら仕事をするのが大事。
10年ほど前に能登空港が出来て、東京に来るには凄く便利になった。
羽田~能登空港まで1時間 家から2時間で都内に行けるようになった。

挨拶状(一昨年の個展)
「20歳の頃、私にもできると思い、漆の道に入りました、30歳40歳私だから出来ると思い頑張り、50歳、私にしかできないという事を意識し、又目指してきました。
60歳、いまの私にしかできない仕事を、そして今の私の精一杯の仕事でございます。」
仕事の歩みと人生が凝縮されてもの。
中学校を卒業して大工になりたいと思っていたが、身体は小さくて、大工は諦めて家具屋さんに務めた。
身体は小さくて、長い板を削ったり、タンスを担いだりするのがきつくて、家具屋での仕事に一人前になったころから、体力的に長く続けられないと思い、自分で出来る仕事は無いかと探したら、漆の「沈金」という仕事なら出来るのではないかと、夜だけ1年間通ったのがきっかけでした。
「沈金」 仕上がった輪島塗の器物の上に「ちんきんとう」と言うのみで彫って、そこの上に漆を引いて、漆をあらかたふき取って、そこに金箔なり、金粉、顔料などをいてれ、余分な金粉なりを取ってしまう、彫ったところに金を沈めるという事です。

夜だけ樽見幸作という師匠のところにいくが、昼間も来て弟子にならないかと言われて、家具屋をやめて、3年間の修行奉公、1年間のお礼奉公をすることになる。
最初は商品には触らしてもらえなくて、まず朝から晩まで点を掘れるようにするのが第一の修行、お客さんへの対応も行う。(人にかわいがってもらう事は一番大事だと言われた)
さらに腕を磨く為、地元に新設された漆芸研修所に入る。
そこで松田権六先生との出会いがあった。  
輪島塗だけが塗りものではないよと言う事を色々な形で教えてくれた。
漆器と言う塗るものは器地があって、器地がいい形でいい骨格があって、その上に下地という漆を塗ることをやる、いい着物を着せる、最後に沈金なり、蒔絵でお化粧をする、それが漆器と言う塗りものだよと、教えてもらった。
お化粧だけではなく、大事なのは骨格、着物もちゃんと着ることだと教えてもらった。
器地のデザインをよく知って漆を塗る、それが輪島塗には欠けている世界ではないかと、40何年前に言っていた。

見方が変わってきて、分業化されていたが、自分のサインの入れられる物を作りたかった。
工芸展に6回連続して出品したが、入選しなかった。
7回目に落選したら、漆の仕事ができれば好いなと覚悟して出品したら、7回目で入選出来た。
当時、結婚して子供ができたりして、生活を支えるという意味では厳しかった。
彼女は研修所の後輩で、先に彼女が入選したが、私が2,3回入選したころから、彼女は漆の仕事からはスパッと止めて、専業主婦になった。  本当に貧乏だった。
昭和52年、32歳の時に日本伝統工芸展に初入選、その後10年にNHK会長賞を受賞 「曲輪造籃胎喰籠」曲輪造 という技法は「あての木」の原木を薄い2mm、3mmの厚みに製材した材木で、直径を計算して、両脇を三角に削って、三角をうまく合わせることに依って、同じ厚みの曲げた板ができる。
それを3重なり、4重なりに組みあわせて、器地を作る技法 赤地友哉先生に習う。
籃胎(らんたい) 竹を編んだボディー(太田儔先生に教えてもらう。) 
その二つを融合させ器地を作った。 
喰籠(じきろう) 器物の形 昔は食べ物をいれたが、今はお茶道具のお菓子を入れる器として使われている。

色が大変素晴らしい 溜め塗りと言う技法 朱の漆を塗って、最後にすき漆という 透明度の高い漆を塗る。  
竹を編んだ網目の引っ込んだところに漆が余分に溜まる、そうすると網目に陰影が出てくる。
側面の曲げ輪の部分には朱の溜めから、うるみ色の溜めにグラディションに作って、その上にすき漆をかけると言うやり方をしている。
41歳の時にNHK会長賞を受賞。
自分のやりたいことが見えてきた時。 両方融合してやるのは当時私しかいなかった。
竹は伸び縮みが少ない材料で、狂わない。 
網目が表に出ない様に濃い漆で塗るが、受賞作品の場合は網目を塗りこめなかった、網目をデザインとして生かした。

私自身輪島の中にしかいなくて、一体世の中、どのような漆器が流通しているのか、昭和50年代、百貨店で漆器を売る時代になってきていて、百貨店では一体どういうものが並んでいて、どういうものが売れるのか、みたいと思った。
東京、名古屋、大阪、京都、神戸の百貨店を全部見て回った。
漆器は使ってもらって なんぼかと思っているので、毎日毎日使っていただける汁椀などは漆の大事な世界だと思っているので、そういうのを改めて確かめたかった。
作家という事よりも、塗師と言う生きざまも大事だと思っているので、手の中に入れて慈しんでもらえるもの、毎日毎日使ってもらうものはもっと大切だと思います。

目標は無かったという事ではないが、とりあえず自分のやりたいことが次々に見えてくる。
自分の今できることをやりながら、もう少し先の自分を見る目を持つ事が当時の私には大事でした。
一番になりたいとの考えはなかった。
自分のやりたいことだけをやってきた事が良かったと思う。 後悔はなかった。
自分を裏切らなかったという事でしょうか。
















2014年4月3日木曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   ・自分にもできることからの出発は津波情報の為中止

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)   自分にもできることからの出発(1)は津波情報の為に中止になりました。

2014年4月2日水曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)  ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)

おおつきちひろ(スペイン料理店オーナー&シェフ)”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)
スペインの人にとっての食への見方、先ず食べるぞ、しゃべるぞと思いきるしゃべる。
どんなに高級なレストランでも、大きな声でしゃべっている。
人生、食が有って、生きているぞ、と言う事ですね。
食べる量は昔から、たっぷり食べる。  5回食べている。
日本でのおやつに当たるところが軽食ぐらいになる。
①朝8時、②11時、次が③2時~4時(一番重い食事)、④6時ごろ、7時頃(同僚とビールと食事)、⑤10時~11時に家で夜のご飯
仕事よりも家族で一緒に美味しいものを食べる事が人生、一生の楽しみである。
週末、1週間必要なものを買い込む。  大きなカートに山盛りになるぐらい買い込む。
牛乳だったら1ダース、だいたいkg単位で購入する。

3回目の旅以降、ホームステーする。 
家族、生きる事とは何、と言う事に興味を持っていたが、スペインに行ったら、この人たちは時間と言うものをゆったりと十分に味わいつくす様に、なんて人間らしいんだろうと思った。
原点になる食はどんな風な作り方をして、作る時間を楽しんでいる彼等を見たいから、レストランの料理では見えないものがあるから、素朴で優しく、温かい料理を勉強したいと思った。
生活の一部始終を見せてもらうと、やりたいなと思った。
バスクに行く。、2回目の時に旅先で知り合った人(鉄鋼業の営業の人、美食家)の家に来てもいいと、言ってくれた。
旬なものを如何に簡単に美味しく食べるか、と言う料理がある。
バスクは環境が日本に似ている処。 海にも近い。
家に依ってそれなりの味を持っている。(家ごとに味を伝える)

バスクに400ぐらい、美食クラブがある。  作るのも、食べるのも好きな人たち。
食を通じて、街の人たちの結束も出来るし、いろんな料理をお互いに持ち寄って、残してゆく、淘汰してゆく、発展してゆくすばらしい文化だと思う。
おいしい料理を食べさせてもらって、歴史も教わった。
スペイン料理は地方性がある。  言葉も違うし、料理も違う。
パエリア バレンシアの小さな村から発生した料理。(米地帯)
湿地帯なので米を作る。 他のものはあまりとれない。 工夫して薄くすれば、出来てしまう。
サマセット・モーム 作家がいるが、パエリア  カタツムリとインゲン豆と鳥肉とがのった物が本来のものだが、観光用魚介の一杯乗ったものがあると、サマセット・モームが世界的に話したり、書いたので一躍有名になったが、実は貧乏料理だった。
今ではどこでも食べられるようになった。
お手伝いさんは木曜日が休みになるので、その日にパエリアであればだれでも食べれるので、木曜日はパエリアの日になっている。  

まな板は小さいものしかない。 ニンニクなどを手に持ってみじん切りにする。  調理鋏。
無駄にしない、拘りながら細かくやったり、時間をかけたり、手をかけないところはラフに行う。
レシピ通りではなく、自分らしく作る料理を非常に感じる。
相手に食べさせたい料理とは、をいつも考えている。(誰に何を作ってあげるか?)
如何に美味しく食べようか、主婦の知恵、自分なりの工夫をすることが最も料理をすることで大切なことか、そういうところに私は引かれてゆく。  素材を大切にする。
マドリードの料理学校にも通う。  
どこの料理学校で習ったのかと言われたりして、権威主義みたいなものがあり、比較の意味でも通う事になる。(料理学校、レストラン)
料理教室もコックさんを目指す人たち、家庭の主婦向け、の両方に通う。
20年前に店を開く事になる。 料理教室をやっていたりしていたが、教えていた人たちが自分で作った料理がどうだったのか判らなくなてしまった、と言う方たちにアンテナショップになるという事もあったが、日本の人たちはすごく忙しいので、作れる人たちばかりではないので、スペインのお母さんたちがやっている家庭の様な場所を作りたいというのも有った。

スペイン料理、家庭料理はこんなにおいしいものなんだと、レストランを作ることにした。
レストラン料理は見た目も美しくインパクトがあり、料理の味も最初にどかんと美味しいと、来るようなものなのですが、私がスペインのお母さんたちから教わった料理はあつくて、温かくて、優しくて、明日の元気につながる料理だったんです。
それが私のコンセプトなので、基本にあるのは家庭料理の温かさ、明日の元気に繋がる料理です。
スペイン料理の魅力、食とは何なんだと、いう事をもう一度考えてほしいと思ったので、スペインの人たちの生き方などを背景に本を執筆した。
テーマ、例えば、ニンニクはスペインでは私が考えていた以上の手法がありその魅力が、他の国でもあるのではと思い、調べてみたら新たに魅せられて、もっと日本食にも使えるのではないかと、テーマに取り上げてやるようになった。
からさ、これにも魅力に取りつかれた。
スペイン料理は ニンイク、オリーブオイルを使ったもの。  
オリーブオイルなくしてスペイン料理は語れないので、オリーブオイルのソムリエになった。

醤油とオリーブオイルは相性がいい。  みそ汁の中に入れても相性がいい。
酢のものにオリーブオイルはかけなかったが、そこに一滴かけると、美味しいものができ上る。
日本の家庭の中にある和食に、オリーブオイルをうまく組み合わせて行った時に、新たな広がりが出てくるという事を、皆さんに紹介したいと思っている。
スペインの人達は自分に与えられた環境の中で、100%以上に生きているという感じがする。
時間と言うものも、急がずにゆっくりと体験したり、食べるだけでなく作るとか、素材を選ぶという事から楽しみながら一日を過ごしている。
そういう事を素朴な中で感じている。
今日と言う日をゆっくりと体験する事が、なくなってきていると思うので、自分の時間と言うものを、身をゆだねると言う事を教えてもらったし、彼等は自分と言うものを慈しんでいる。
私たちは、自分をけずっている様な気がして、膨らましていない。
スペイン人から教わったものは、自分と言うものを100%以上に生きることだったと思う。



























  

2014年4月1日火曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)  ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)

おおつきちひろ(スペイン料理店オーナー&シェフ) ”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)
東京、渋谷でスペイン料理店を経営する。 30年前子供と一緒に海外を旅したいと、スペインを訪れ、スペインの素朴で素材を活かした家庭料理のおいしさに魅せられました。
その後、マドリードなどの料理学校や、各地方の料理名人たちから直接学び、レパートリーを増やし、スペインを訪れた回数は130回と言います。
その腕を活かして20年ほど前にスペイン料理店を開きました。
スペイン料理のレシピや留学中のエピソードをまとめた本を数冊執筆してきました。
スペインの魅力を語っていただきます。

契約しているお弁当の注文があると起きるのは午前5時です。 9時ぐらいまで作業する。
原稿を書いたり、支払い、メールの処理、駅で販売始めたクロワッサンを焼きながらやっている。
午後は雑誌の撮影、TVの撮影、とか食材の仕入れ、、業者との打ち合わせ、出張講師、など日に依ってやっている。
夜の11時半ぐらいまでやっている。  
小さい頃は、楽天的、おてんばで自分の考えを全て行動に移すような性格だった。
女は勉強よりも、家庭的なことをやりなさいという様な状況だった。
結婚に因って解放された。  
何でも自分の思ったことは追求してもいいんだよと言うような人だった。
自由にしてやりたいことをする、それが生きていることだよ、と言う様な人だったので、全ての事から解放された。
出産の時に、胎児の状態が横になってしまっていて、最後は吸引分娩したが、駄目で、引っ張り出す様にしてだして、子供の方も泣かないような状態で、2日後に自分のところに来た。 8日間入院した。
家に帰ったが、もう一度病院に戻ってしまって、生死がどうかという様な状況だった。

子供が生まれた頃から、自分が世界から離れていってしまうという恐怖感があって、お母さん編集者募集の記事があり、電話をかけて会いに行った。
夫の同僚が結婚する事になり、島根に家族で初めての飛行機で行って、夫はすぐにとんぼかえりだったが、私は子供と二人で、すこしずつ東京に帰ろうと、旅をすることになる。
外に行くという事は、色々なものが見えてくると思った時でした。
5歳でも父親の代わりに支えになる様にすることもある。
その後の海外旅行をすることの原点だったと思う。
小学校の3年の時に、海外に行こうという事になる。(1970年代後半)
自分を試してみたいと思ったのと、子供の計画で旅行をしたことがあるので、海外に行きたいとの思いはあった。
行き先について友達に相談したら、あなたを見ているとスペイン的だと言われて、歴史、建物、食べ物、あなたの好奇心を満足させる物が全部あると言ってくれた。
スペインとの縁みたいなものの様に感じた。

スペインに向かおうかと思った。
スペイン語を習い始めたり、知り合いの兄が脱サラして暫くスペインに住むという事で、家を訪ねてきてくれた。
行く寸前になって止めようという事になり、(3人目の子供が出来たことが解り)、でも外国でも問題なく産めると後押しをして、その人はスペインに行ったが、やり取りをしている中で、手伝いに来てほしいとの要望があり、出産予定日が10月(2学期の真ん中)と言う事で、躊躇したが、子供が腕を骨折してしまって、夫が腕だったんだからスペインに行ったらと言われた。
子供の先生も同意してくれて、出掛ける事になる。
思ったよりも出産が早くて、自分たちの時間が3週間多く取ることができた。
アルハンブラ宮殿に行きたくて、グラナダに行った。(親子二人旅と成る)
息子は白ゴリラがみたいという事でバルセロナに行くこととになる。

二人の旅になった時に全てスペイン語、しかも私は緊張した顔をしているので、言葉もあまり通じないという事もあり、息子はパニック状態になる。
外に出たがらなかったり、食べものもあまり食べない。
息子を引っ張る様にして、いろいろなものを見て歩いた。
スペインは、実家に戻るような気持ちがあり、成田についた時、日本に戻ることが嫌な思いがした。
直ぐにスペインに行きたくなる。
又直ぐ行きたいと行ったら、姑からは烈火のごとく怒られた。
自分でためたお金とは言え、もう二度と行くんじゃありませんと言われた。
語学学校に夫に勧められて、夫に入会手続きもしてもらって、学生時代よりも真面目に勉強した。
しかし、落第したが、留学していた方とかがいろんな体験を話してくれて、とても楽しかった。
二度目の親子旅 小学校6年生の夏休みを利用して、駐在員の方からのお世話になり、一週間ほどいて、その後子供とセビリアで二人で暮らす事にしようという事になり、出掛けてゆく。

マンスリーホテルの様なところだった。
買い物も非常に珍しくて、作り方を見たりして、フラメンコの友人を紹介されていて、その人たちとプールに行ったり、家に招待されたりして、スペイン人の生活がどんどん見えてきた。
生ハムのスープ、細いスパゲティーみたいなものに凄く日本の味の様に、素朴で深みのある味だった。(味噌とか醤油などは一切使っていなかったが)
その料理法を教わった。 骨をことこと煮るだけ、ちょっとオリーブ油を加えるだけ、そこから出てくる味は非常にスペイン料理に興味を持った。
小学校のお母さんたちがスペイン料理を教えてほしいとの事で、料理を教えることから始まった。
1か月に一度ぐらいの割合で始まったが、教えてほしいとの要望があり、区の料理室が増えてきた時代で、それを借りに行こうという事で申し込みに行った。
区報にのってから、是非にとあちこちから話があって、一週間が全部予定が入ってしまう様な事になる。
1980年代の事 海外に料理の目が向いてゆく時代でもあった。

仕事を持つ事は、大反対を受ける義母たちへの名目が立つという事もあるし、どうせ学ぶのなら深く広くきちんと自分の中に手を入れたいと思って、是非仕事にしたいと思った。