2025年7月31日木曜日

澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

 澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

1996年の夏の甲子園の決勝、愛媛県の松山商業対熊本工業の試合。  同点で延長戦となり、絶体絶命のピンチとなった10回の裏を奇跡のバックホームと言われた好プレーでしのいだ松山商業が延長11回に勝ち越して熊本工業を破り27年振り5回目の夏の甲子園優勝を飾りました。  この時の松山商業の監督が澤田勝彦さん(68歳)です。  澤田さんは愛媛県松山市の出身で、松山商業、駒沢大学で活躍し、1980年に母校松山商業のコーチに就任、1986年夏の甲子園準優勝を経験した後、1988年9月に監督に就任しました。  監督としては春夏併せて6回甲子園に出場し、96年夏の甲子園で優勝、2001年の夏の甲子園ではベスト4進出を果たしました。  その後愛媛県の北条高校を定年まで勤め、松山商業野球部OB会の顧問として部を支えています。

1996年の夏の甲子園の夏の優勝から来年で30年になりますが、あっという間でした。  奇跡のバックホームと言われるが、いろんな要素が含まれていると思います。  起用に彼が答えてくれた事には監督と選手との信頼関係があったとか、彼の練習を実証してくれたとか、様々なことを表してくれた、そしてその後の後輩に対してもいい教訓を与えてくれたことを含めて色々な要素があるバックホームになったと思います。 

私の高校時代は全国制覇を成し遂げた一色俊作監督、大学時代も全国制覇を成し遂げた太田誠監督と言う名将から指導を受けました。  学んだことを一言でいうと人間力だと思います。  野球をする以前に人としてどうあるべきかと言う事を叩きこんでいただいたと思います。  「目標は全国制覇、目的は人間形成」と言うスローガンを監督となってから掲げました。   ワンプレイごとに必ず人間性が出てくると思いますから、人間性を磨いておかなければ、特に土壇場の境地におかれた時には、人間力、人間性と言うものが如実に表れます。   信頼関係は一日二日で出来るものではありません、一日一日の積み重ねです。   

雪が降る真冬に上半身裸になってノックをやったという時もありました。  二人でノックをやっている時にショートのキャプテンの水口(後年近鉄に行く)が、急に上半身を脱いで「こいや」と叫んだら、内野の選手からボール拾いの選手まで全員が上半身を脱ぎました。 あの光景はいまだに忘れません。  彼の統率力が出ました。  当時の監督と私の目が合って自分らも脱がなければ駄目だと思って上半身を脱いで熱く盛り上がりました。

96年の夏の甲子園に出場、10年振りの決勝進出を果たす。  東海大三高さんに一回戦で8-0と勝てたことが、すべてのプレッシャーから解き放たれたと思います。  2期連続一回戦敗退と言う事でしたから。  決勝では熊本工業で初回に3点を取ることが出来ました。(押し出しが2点)   2回、8回に一点ずつ返される。  9回裏2アウトランナー無しと言うところで、沢村選手に同点ホームランを打たれる。  相手は10回裏に2ベースヒットを打って、この場面でピッチャーをエースの新田投手から渡辺投手に変える。

送りバントで1アウトランナー3塁、1番バッター、1番バッターを敬遠して満塁策を取る。  ピッチャーの後ライトに回っていた新田選手から矢野選手をライトに変える。  次が3番の左打ちの好打者だったのでライトが気になった。   後のピッチャーのことをことを考えるとどうしようかなどと頭がぐるぐると廻ったが、直ぐ決断をした。(矢野選手をライトに変える事)  打たれた瞬間に終わったと思いました。  矢野選手はフライ(逆風で失速)をキャッチしてダイレクトでホームに返球した。  

矢野選手は普段からバックホームが苦手な選手でした。(チームメートからも信頼を置かれないような選手だった。)   判定はアウトになり難を逃れる。   矢野選手は同級生から土下座されて辞めてくれと言われて(私は彼らの卒業後に知った。)、こたえたと思います。  自分への不甲斐なさの葛藤もあったと思います。 全てがあの一投に出たと思います。  矢野選手が11回の表に2ベースヒットを打って、そこから3点を取って6-3で松山商業が27年振り5回目の優勝を飾る。 

「勝機一瞬」勝ちに結びつけるためには一瞬を大事にする。  どう取り組んで、どういう生活をして行かなければいけないのか、磨かれた人間力が成績に現れたことと思います。   高校野球はひたむきさだと思います。










   

2025年7月30日水曜日

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない 

志の春さんは大阪の出身。  父親の転勤で8歳から3年間アメリカニューヨークで過ごし、帰国後千葉の高校からアメリカのイエール大学に留学、卒業後商社で鉄鉱石を扱う部門で働きます。  2001年に偶然立川志の輔さんの落語を聞いて衝撃を受け、商社を辞めて落語家の道を歩む事になります。  26歳で志の輔さんに入門して、2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  古典、新作とどちらも見事にこなす今注目の落語家です。  また英語で落語をする英語落語で海外の人たちにも喜んでもらうなど、新しい試みを行っています。

昭和51年生まれ、48歳です。  師匠は二刀流なので新作もやるように言われています。   新作を自分で作ってみると古典がどれだけうまくできているかと言うのを、再確認できます。  手持ちは古典が120ぐらい、新作が50ぐらいです。  新作は一回やった後、練り上げてゆく事が必要ですね。  子供の頃は相撲が好きでお相撲さんになりたかった。  スポーツは好きでした。  父親の仕事の関係で8歳の時にニューヨークに行きました。  順番にクラスの仲間から英語を習って、聞く方は半年、1年で出来るようなりました。 

帰国後、千葉県柏市で育つ。 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校と楽しく過ごしました。     イェール大学に留学しました。 (親は猛反対でした。)   イェール大学に行くことは、英語が全く話せない8歳の時の恐怖の時の方が大きかったです。  大学では中国史を選択しました。  日本のことをもっと知りたい、経験したいという思いがありました。   日本通の友達から日本映画のことなどについて衝撃を受けました。  帰国後三井物産に入りました。  鉄鉱石を扱う部門に配属されました。  2年後に立川志の輔の落語と出会いました。落語ってこんなに面白いものだという事に度肝を抜かれました。(25歳)  その後落語一色の日々になりました。  

立川志の輔師匠に履歴書をもって会いに行くことになりました。  会社勤めを続けながらアマチュアとして落語を楽しむ方が、一番幸せではないのかと断られました。  会社を退職して再度会いに行きました。  弟子ではなく見習いと言う立場でスタートしました。  今やっておかないと後悔をするという確信はありました。  3番弟子となったのが26歳。 2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  カルチャーショックでした。 アメリカでは褒めてのばすようなやり方に対して真反対でした。  気を遣うという事はむずかしかったです。  13回も破門されるようなことがありました。 

英語落語をやっています。  基本は海外に行ってやると言う事ですが、日本でも日本人と外国人が混ざったような会場で行います。  基本的には古典落語を訳してやっています。   げらげら笑うし、泣く時にはワーワー泣いているし落語の力を感じます。  AIで訳した古典落語を見せてもらったことがありますが、結構いい線いっているんです。  落語家になることに反対していた両親もよく見に来てくれています。  弟は大学卒業(オックスフォード大学数学科)後、劇団四季に6年ぐらい在籍して、今はミュージカルのプロデュースをしています。  子供の頃に新しい環境に入ることがそんなに怖くないという免疫が付いていた、それが今に繋がっていると思います。  出来るだけたくさんの古典落語を訳して、普遍性が備わっているからこそ、どの国の人が聞いても面白いし、人種、宗教観、とかがもろもろの人たちが同じ場で笑えるのが落語の笑いだと思うので、やって行きたい。  新作も普遍性が供えているものを作れるというのも一つの目標です。 







2025年7月29日火曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

 永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

永田さんは1947年生まれ、千葉県出身。  湯川秀樹博士に憧れて京都大学に進学し、同時に入会した京大短歌会で後に妻となる歌人河野裕子さんと出会いました。  短歌と科学の2足の草鞋を履き続け39歳で京都大学の教授となります。  短歌では迢空賞、現代短歌大賞を受賞、又研究では日本人として初めてハンス・ノイラート科学賞を受賞するなど、どちらの世界でも第一線で活躍して来ました。  現在は宮中歌会始の詠進歌や新聞歌壇の選者、宮内庁御用掛、JT生命誌研究館館長を務めています。 2010年に妻の河野裕子さんが亡くなってからは二人の思い出を作品として発表し、ドラマ化もされました。  永田さんは今年の春、エッセイと短歌で綴る「人生の後半にこそ読みたい秀歌」を出版しました。   河野さんを亡くして15年ご自身後期高齢者となり、老いを迎えるための人生観を古今の短歌に探りました。

細胞生物学者と言うのは、細胞は一番小さな生命の最小単位ですが、細胞が生きて行くためには、細胞のなかにはタンパク質だけでも10万種類ぐらいのタンパク質がそれぞれの役目を果たしながら細胞の命を支えているわけです。   それぞれのタンパク質がどのような働きをして、細胞が生きて行くためのこの部分にこんな仕事をしているというのを研究しているわけです。  コラーゲンが作られるためには作るのに別のタンパク質が必要で、私が見つけた分子シャペロン(分子介添え役 さまざまな物質で混み合った細胞内で、フォールディング途上の不安定な中間体や熱で変性したタンパク質が凝集にならないようフォールディングを助けているタンパク質が存在します。) はアメリカ留学中に見つけました。  この研究を長くやっていました。   

タンパク質はアミノ酸が連なったものですが、間違って不良品のタンパク質が出来ます。  そのままにしておくといろいろな障害が起きます。  例えばアルツファイマー病、パーキンソン病とかいろいろな神経変性疾患を起こす。  間違って作られた不良品のタンパク質を如何に除いてやるか、元に戻してやるかという事がとても大事で、これをタンパク質の品質管理と言います。  間違って作ったら直そうとしますが、どうしても直せなかったら分解してい仕舞う、こういう品質管理の機構が働いています。 それに関わる新しい遺伝子をいくつか見つけました。  サイエンスの面白いのは一つ答えが出た、やったと思うと必ず別の問いが出てくるんです。 

歌の方で言うと、或るものを見た時に自分だったらこんなふうに感じるだという、自分だけしか感じられない思いが出てくる。  それを言葉にして表現できるのが非常に楽しいです。2つのことをやるというのは、後ろめたさ以外なかったですね。 

「人生の後半にこそ読みたい秀歌」  人生後半、老後と言うのはどんどん面白くない人生になってゆくようなイメージを持ちます。  後半の方がいろんなバラエティーがあって、年齢、時間に裏打ちされた感じ方の深さがあって、この一冊にしてみて自分で発見でした。

動物は性の成熟年齢と言うものがあって、子供が生めるようになる、子供が生めるような年齢から最大寿命は大体5~6倍とだいたい決まっている。  人間だけがそれよりもはるかに長く生きる。  生命にとって一番のミッションを解かれたあとの生の時間をどんなふうに生きるかという事は、最近になってようやく直面した問題でもあるわけです。  人生後半になって詠んだ歌を読んでゆくというのは、とても大きな示唆、ヒントを与えてくれる。

「人は皆慣れぬ齢を生きているゆりかもめ飛ぶまるき?曇天」  私の娘の歌

皆初めての齢を生きているという事に気が付いた歌。 人生の後半もいろんな後半があるんだよという事を紹介したい。  共感と自分にないことに対しる驚きと言うのは歌を読んでいくと色々あります。  

「明かる過ぎる秋の真昼間百円の老眼鏡をあちこち置く」  共感できる。

「銀行の監視カメラにお辞儀して嬉しくおろす初の年金」 

「老衰をわがするまでにかかるという数千万円を悲しく思う」  稼ぎつつ老いて行かなければならない。  どんなふうに人生設計しなければいけないのだろうか、と言った歌。

この20年気が付いた歌に介護のジャンルの歌が大きな割合を占めるようになった。

「浅き眠りの父をかたえに?読みふける介護の歌なき万葉集」  言われてみるまで考えたことがなかった。

「初めてのおむつをした日母が泣いた私も泣いた春の晴れた日」  こういう時代になったんだなとよくわかります。  こういった経験をした人は多いと思います。

妻が亡くなりましたが、ありえないことが起きたという感じでした。  がんの歌を作ると妻が死ぬという事をどっかで思い浮かべながら作ることが多いので、作らなかったんですが、再発してからはそうも言っていられなくなり、

「歌は残り歌に私は泣くだろういつか来る日をいつかを恐る」?  普段の言葉では言えないが、私の歌を読んで気持ちを一番よくわかってくれただろうと思います。

「お父さん頼みましたよわが髪を撫でつつこらえ残せし言葉」  亡くなる2,3日前の歌です。  

娘の言った言葉に、「歌を一首つくると時間におもりが付く。」と言いました。  一首作るとその時の時間がありありと思い出される。  歌がなかったら思い出なんてどんどん少なくなっていって、限られた思いでしか残らない。  他人の歌なのだけれども、自分の思い出としてよみがえって来るという歌がいくつもあります。  

「逝きし夫(つま)のバックの中に残りし二つ穴空くテレホンカード」                  今亡くなろうとしている人に「ありがとう」と言う言葉を伝えるくらい難しいことはないですね。  言ってしまったら別れを告げるに等しい。  

市川康夫?先生の所へ亡くなる前の日に行ったことがあります。  先生にはご厄介になったので「ありがとう」の一言が言いたくて行ったんですが、ついに「ありがとう」は言えませんでした。  「また来ます。」と言って病室を出たら、先生が「永田君 ありがとう。」と叫んだんですね。  私からも「ありがとうございます。」と言ったつもりでしたが、嗚咽の方が酷くて伝わったかどうかわかりません。  その夜に亡くなりました。 先生の「ありがとう」がその後の私を支えてくれたと思います。

人生後半、気を付けないと自分の生活圏がどんどん狭くなってしまう。  刺激が少なくなって、喜怒哀楽が少なくなって面白味のない人生になってゆく。  いろんなものに共感するという事がとても大事です。   共感力を如何に高めて行くかという事が人生の後半でとても大事な事だと思います。   私は酒が好きなので酒の歌を結構作っています。  若山牧水は酒が好きで一日一升飲んでいた。   僕もそのくらい飲んじゃいます。  

「足音を忍ばせて行けば台所に我が酒の瓶は立って待ちおる」

寂しがり方が15年経つと段々違ってきます。  初め大きな欠落感がありました。

「あほやなあと笑いのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない」  笑い出すと止まらない妻でした。  今の自分を観てくれているひとがいない、その寂しさが大きいです。  私は外で食べるという事が出来なくて、買ってきたもので食事を作ります。  作ることはできなかったので、妻が料理の仕方を教える取ったんですが、拒否しました。 それは妻の死を認めるという事になってしまうので。  独りになって段々作れるようになってきました。  今の自分を観て欲しいし、褒めて欲しい。  褒めてくれる人がいないという事は悲しい事です。  

宮内庁御用掛  3代前には直接皇居に行って、お会いして指導されていたようです。     以降はファックスになりました。  私の代からはメールが主になりました。   皇族の方々はメールで歌を送ってこられます。 

美智子様は現代に百人の歌人のなかにいれた方です。  未発表のものを私の方で選んで「ゆふすげ」と言う歌集になりました。  

「まなこ閉じひたすら楽ししたのし君のリンゴ食みいます音をききつつ」  皇太子のころにリンゴを食べている、美智子様が目を閉じて音だけを聞いている、それだけで楽し楽し。 

ヒントを差し上げるというスタイルで行っています。

二足の草鞋を履くという事には後ろめたさがあって、両方進めてゆくためには睡眠時間を削るしかないですね。  今でも朝4時ぐらいまで起きています。








2025年7月27日日曜日

中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山さんは1967年生まれの57歳。  5歳の時に当時大人気だったフィンガーファイブに憧れて芸能界を目指します。  1985年お笑いコンビ「ABブラザース」としてデビュー」その後ソロとして活動を続け今年芸能生活40周年となりました。  数々のピンチをチャンスに変えて来た芸能生活について、又今年カンヌ映画祭で作品展を開催したライフワークの書道について伺います。

15歳で上京、今年で40周年。  今年カンヌ映画祭に書道家として御招待頂きました。   去年個展を群馬県でやりました。  去年の暮れに電話がありました。  デジタルアートをやっている赤松裕介君からでした。  彼は40年前、僕の家に下宿していたんです。  カンヌでコラボやりましょうという事でした。(詐欺かと思いましたよ。)  書道を始めたのは小学校1年生です。  小学校2年生で県に出展したら大きな賞を頂きました。  小学校、中学校と大きな賞を頂きました。  上京して以降時間がなかなか取れなくなってきて余りやっていませんでした。  子供には書道を習わせようと思って、そのついでに自分でも習い始めました。  毎日書道展で入選しました。  書道は自分の中では芯ですね。  個展をやらなかったらカンヌもなかったわけで、今やりたいと思う事はやろうと思いました。  40周年で自分の青写真をパンパンに埋めた感じです。

5月に「気くばりのススメ」と言う本を出版しました。  1か月で3万1000部突破しました。  まずは本気で相手の意見を聞いて、柳のようにしなやかに最後に自分の意見を言う。  徳光さんは話術、技術が凄いのは当たり前ですが、気配りの面で言うと、歌の特別番組で歌手の人は60名ぐらい出るわけです。  「中山秀ちゃんご丁寧にありがとう。」と言うんです。  どうしてかと思ったら徳光さんがゲストの方に手紙を書いていて、 僕の名前と竹下さんの名前が連名なんです。  手書きで書かれていて、凄いなあと思いました。

志村けんさんと出会ったのは30歳前でした。  良い言葉を一杯貰いました。  「いつまでも馬鹿でいろよ。」と言う言葉で「お前は司会をやったり情報番組などをやってゆくと思うが、知識が入って勘違いしてゆく。  そうすると人からみて上から目線になってゆく、上から目線になったら絶対駄目だから気を付けろ。」と言われました。  司会者はかっこよくやりたいという思いがどうしてもある。  

「週刊金曜日」と言う萩本欣一さんの番組があり風見慎吾さんがバンドを勇退することになり、新メンバーを水面下で募集することになりました。  僕が16歳の時でした。  今週のゲストは聖子ちゃんなので、トランペットで「赤いスイートピー」吹いてくれる?と言われました。  トランペットは吹いたことはなかったんですが、夜までには吹けるようになりました。  金ちゃん番組?と書いてありました。  意味が分からなかった。  「実は風見さんが戻るという事になりました。」と言われました。 (脱退無し。)  ピンチに落ち込むことはあると思いますが、しょうがないと思って、面白い方に振ってみる。  自分で深みにはまらないようにしているのかもしれません。 

ピンチをチャンスにその①  呼ばれてもいないのに上京して栄養失調になった16歳。  フィンガーファイブに憧れ、中学2年で劇団にはいります。  3か月でテレビに出ることが出来ました。  行けそうだと思って上京したが、その後は受からなかった。  栄養失調になってしまいました。  倒れて病院に行ったら栄養失調と言われました。  オーディション雑誌から片っ端から受けて、その一つが大手の渡辺プロダクションでした。  

ピンチをチャンスにその②  歌も芝居もイマイチで、バラエティー班にぎりぎり引き取ってもらう。  譜面も読めないし楽器も出来ないし、芝居の方がいいのではないかと言われました。  芝居をやり出したら芝居もイマイチだなあと言われてしまいました。  バラエティーは最後の砦でした。  高校から帰ってくるとレッスンを毎日やりました。  そのなかには作家志望の三谷幸喜さんもいました。  1985年、同プロダクションの松野大介さん(現在は小説家)とコンビ『ABブラザーズ』を結成しました。  

渡辺プロダクションの社長が亡くなってから、変って行きました。  社員も辞めてゆく人たちが居ました。  先輩たちも辞めていきました。  クレージーキャッツは残って、俺と松本明子だけになってしまった状態でした。(20歳)    チーフの塩崎さんが、ここをチャンスにしようじゃないかと言う考え方でした。   それ以降渡プロの形が随分変わって行きました。   今では一番大きいのはバラエティー班です。  

ピンチをチャンスにその③   お笑い第3世代の波に飲まれて負けを認めた。  第3世代は「ダウンタウン」「ウッチャンナンチャン」 などでした。  連中は小さい時から志が一つで来ている、もうやらなくていいよと言われました。  ただ一人としてはこれからが勝負だと言われました。  自分の戦い方を見つけようと思いました。  歌、ドイラマなどをトライしました。  辞めたいと思ったことは一回もないですね。   テレビでは一人ではできなくていろいろな人が時間をかけて作ってきたものを僕たちは演じているわけで、丁寧に表現してあげたいと思っています。  書道も個展をやろうと思っています。










 








2025年7月25日金曜日

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)     ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは?

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)  ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは? 

鴻巣さんは1979年生まれ。  一橋大学大学院を修了後、ソーシャルワーカーとして精神科医療機関に勤務、東日本大震災の被災者、避難者支援を経て2015年福島県白河市に非営利団体「KAKEKOMI」を立ち上げ、地域に暮らす生きづらさを抱えた人たちの支援の携わっていましたが、鴻巣さんは人間関係のトラブルやもやもやの多くは、自分と相手との間にある心の境界線、バウンダリーを侵害したりされたりすることで生じると語ります。  自分や相手のバウンダリーを守るのにはどうしたらいいのか、子供と良好な関係を築くため気を付けたいことなどについて伺いました。

非営利団体「KAKEKOMI」 ミッションとしては社会的な孤立と言うものを防止しようという事です。  活動としては大きく分けて2つあります。  ①子供食堂 週に一回子供、大人を含めて一緒に食べましょうと居場所を作る事業。  ②貧困、暴力などから抜け出したいが難しい人たち(女性)を対象としたシェルターを運営しています。 2015年に子供食堂を作りました。  私自身子供の頃いじめを経験し母親(外国人)にも相談できずに、居場所がありませんでした。   困難から遠ざかることが出来なかった。  食へのいろいろな困難さがあったので、作ったわけです。  私は料理は大好きですが、私自身は余り作らず子供が作ったご飯を、大人がお金を出して食べるという、変った子供食堂です。 高校生のスタッフたちが中心になって料理をして、小さい子が絡んできたりします。 

子育て中の母親にも気楽になれる場所があってもいいと思います。  良いことをする前に、害になることを辞める。  その子の容姿、体形などに一切コメントをしない。  許可なく身体に触らない。  性別で役割を押し付けない。 勝手に予定やルールを決めないなど。   小学生でダイエットをしたいとか、整形したいとかと言う声が珍しくないです。  身近な人たちから体形、容姿をからかわれるとかがきっけけになることがあります。  SNSとか広告が強く影響していると思います。   

バウンダリーは自分と他者との間にひく、お互いを守るために越えてはならない存在する境界線のことです。 (心の境界線)   赤ちゃんが生まれてから段々と親との境界線が育まれて行きます。  それが段々広がって行き、それぞれとの中に境界線が少しづつ構築されて行きます。  バウンダリーの太さ、強度は一定ではないです。  バインダリーの調節機能が壊れてしまうと、自分に対して嫌な事いじわるなことを言ってきても、境界線が緩くなってしまうと、その人の言っていることを全部受け入れてしまい、自分は駄目なんだと落ち込んでしまう。  反論も出来なく、厭なこと受け入れてしまう。  

無意識のうちに親が子供のバウンダリーを侵害していることは結構有ります。  大人の考える美醜の基準でジャッジしたり、子供の趣味を否定したり、意見を押し付けたり、子供に失敗を責めたり、いろいろあります。  つい心配から口出ししてしまう事は多いと思います。  親が道をしっかり整えた上を子供が順調に歩けたとしても、果たして子供自身は自分自身の力で歩って来たのか、誇れる様になるかどうか。  子供には躓いて欲しくないという思いは当然持っていますが、そのことばっかり力を注いだら、世の中の傾向が強まるだけで、変な世の中になってしまうので、その大人のエネルギーを何度躓いてもいいから、何度でもやり直しが出来るような世のなかにするにはどうしたらいいんだろうと、ちょっとそのエネルギーを持って行った方がみんながハッピーになれるのではないかと思います。 

子供が秘密を持つことに対して、親が過度に不安になる時は子供との間に話してもらえないという溝が出来てしまっている。  その溝はたいていは大人の側に何かしらがある。  私の願い、私の不安、とかまずは別々のお皿に出すことから始める。  テーブルに並べてみんなで見る。  それが対話かなと思います。 子供の声を聞く。  最善の答えをみんなが探してゆく。  時間をかけてゆく。  夏休み明けは子供が心と身体の健康を崩すいろいろなリスクを持っています。  夏休みはきっかけで有り原因ではない。  

















2025年7月23日水曜日

2025年7月20日日曜日

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること 

現在58歳になる佐藤さんは、海中を動きまわる動物たちに小型の記録計をつけるという新しい手法で海の動物の研究を行っています。  その研究から重さ90トンのシロナガスクジラから500gの海鳥迄餌をとる時には、ほぼ同じ速度で泳いでいることを発見しました。  他にもアザラシやマッコウクジラはどのぐらいの深さまで餌を取りに行くのかなど、知られざる海の中の生き物たちの暮らしを次々に明らかにするる研究を行っています。 

動物の泳ぐ速さを測る装置をそれぞれの動物の身体に付けて調べたので間違いないと思っています。  餌を取る瞬間はダッシュしたり、動物ごとに変わりますが、呼吸をする水面と餌のある深さを往復するときの速度は同じでした。  時速4,0km~8.0kmです。 人間が早歩きする速度です。 一番少ないエネルギーで移動できる速さだったという事が判って来ました。  その手法をバイオロギング(陸上や海中の野生動物に行動記録用の電子端末「データロガー」を装着し、その生態を観察するサイエンスの分野または技術)と言う名前を付けました。  手法は1980年代から始まりました。  

野生動物を捕まえて身体にその装置を付けて、海に放してやります。 もう一回捕まえて回収する作業が必要ですが、2回捕まえることは難しい。  しかし、南極だと警戒心がゼロなんです。  南極が一番やりやすい場所でした。  水の中に入った瞬間に電波は使えないので、記録するという手法に頼らざるを得ない。  南極のウェッデルアザラシは一日中寝ていて、時々水のなかに入りますが、判らなかった。  バイオロギングで調査したら300mの深さまで潜っていたことが判りました。

私は1998年から2000年にかけて南極で調査を行いました。   夏の間はペンギンの調査、秋から春まではアザラシに新型カメラを取り付けて調査するのがミッションでした。 プラスチックのバンドで取り付けるんですが、寒さでポキポキ折れてしまうんです。  ステンレス製のホースバンドを使うとか、いろいろ工夫をしました。  春に子連れの母親に付けました。  回収したら5m~10mぐらいしか潜っていませんでした。 (300mぐらい潜る筈だと思っていたが)  親子のアザラシに深度記録計を付けてみました。  親子のデータが一致していました。  母親に後ろ向きにカメラを取り付けたら、一緒に後から泳いでくる赤ちゃんアザラシが撮影できました。  子供に泳ぎを教えるための潜水でした。  予想外の結果でした。  お母さんアザラシは子供を産んだ最初の授乳期間はでぶでぶに太っています。  400kgぐらい。  段々痩せてきて腹が減ってきたら、300m迄潜り始めました。  前向きにカメラを取り付けて、314mのところでいわしのような魚をパクっと食べる瞬間をとらえることが出来ました。  最初は浅いところで魚を捉えるが、あっという間に喰いつくされてしまって、深く潜らないと餌がない状態になるようです。 

国立極地研究所から2004年に東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター(岩手県)に移籍しました。  ウミガメと海鳥の研究をはじめました。  ウミガメは産卵は千葉県より南の太平洋側の砂浜に産卵します。   網にたまにウミガメが捕獲されるといことを漁師さんから聞きました。  翌年女性の助手がきて、漁師さんにウミガメが取れたら彼女のところに連絡するようにしたら、毎朝連絡が来るようになりました。  ウミガメをもらい受けて色々な調査をして、放流するときにバイオロギングの装置を付けて放流しました。  詳しい動き方、カメラに映る様子、1年間に及ぶ海洋経路を調べる研究を2005年からずっとやっています。(20年近く)   

どんな餌をどうやって食べているのかが判りました。  産卵期の雌のウミガメは餌を食べていなくて、事前に蓄積した脂肪で代謝を賄っていた。  アカウミガメは嚙む力が非常に強くて二枚貝、アワビなどを食べるのが通説として言われていた。 青年期のウミガメ(甲羅が50~60cm)に装置を取り付けて調査をしたら、ひたすらクラゲを食べていた。  大人になると甲羅が90cmぐらいになります。  

それぞれの動物がどういう経路で回遊しているかが、大分判って来ました。  思っていた以上に広範囲を泳ぎ回っています。  ピンポイントで同じ島に戻ってくることも判りました。 ウミガメ、サメ、ペンギン、アザラシ、クジラに共通な行動が見られました。  同じところでくるくると何十回も回るんです。 (餌取とは違くようだ。)   クジラは上にあがる時にらせん状にくるくる回っていた。   地磁気を精密測定したい人たちは、船、潜水艦などを使って潜水艦などはらせん状にくるくる回りながら、繰り返し測定をするという話を聞いて、それぞれの動物たちが精密な地磁気を測定している行動ではないのかと、今考えています。   犬も糞をする前にくるくる回るんですよね。   糞をしている方向を統計的に調べてみると、東西方向に偏っている。  南北方向に地磁気が走っているが、直交する方向に身体を向ける。  くるくる回って自分が行きたい方向に対して地磁気を使っているのではないかと思っています。  興味深い不思議な行動です。 

子供の頃から動物が好きでした。  小学校3年生から釣りにはまりました。  水産学科が釣りに一番深そうだと判りました。  京都大学農学部水産学科に入学しました。  卒論でウミガメに装置をセットして調査するという事が、自分で描いていた研究に近かったので、そのままこの道に入って行きました。  卒論は、四国の徳島の蒲生田岬の先端にウミガメが上がる浜があり、二頭のウミガメに取りつけましたが、一頭は5日後に網にかかってしまって、もう一頭は帰ってこなくて失敗しました。  そのまま大学院に行きました。  甲羅の4か所に穴をあけて取り付けていましたが、接着剤を利用する痛くない方法にしました。  4頭に取り付けたら4頭とも帰って来ました。  はまってしまって博士課程まで行ってウミガメで学位を取りました。  大学ではひたすら体育系のサッカーで身体を鍛えていました。  フィールドバイオロジーの分野ではこの体力はとてつもなくアドバンテージなるんだと実感しました。  帰って来るウミガメはどこに戻って来るのか判らないので、捜すために砂浜を一晩中合計10kmぐらい歩くんです。  その後南極へと向かいます。

バイオロギングを使うことによって、自分が思っていたよりもはるかに重要なことをデータが教えてくれるという事が良くあります。   意外な発見をするたびに、動物に教えられているような気がしてきます。   いま海洋プラスチックごみは大問題になっています。  カメは海洋プラスチックごみを食べても死んではいません。  日本全国の海岸に死んだカメが打ち上げられてその死因を調べる人たちがいますが、腸にプラスチックごみが詰まって死んでいる事例はほとんどないと言っています。  アカウミガメはプラスチックごみを見分けて食べませんが、アカウミガメは減少してきています。  アカウミガメに対してはプラスチックごみ以外の別の脅威があるという事です。  これは調べなければいけないことだと思っています。  プラスチックごみを食べてしまうアオウミガメは数を増やしています。  動物にとって何が良くて、何が良くないのかは、我々は判っていない。 

画像データは専門的知識が無くても面白いんです。  これを一般の方たちに観てもらうためのデータベースを作って、一般に公開するという事をやっていますが、まだ足りない。  水族館、博物館などにバイオロギングの成果を観てもらいたいので、データを展示するようなことを一生懸命やろうと思っています。


















2025年7月19日土曜日

小椋聡(デザイナー)           ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

 小椋聡(デザイナー)       ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

107人が亡くなり562人がけがをしたJR福知山線の脱線事故から今年で20年、この日は遺族や負傷者、JR西日本社員などが現場を訪れ犠牲者を追悼しました。  この2005年の脱線事故で最も多くの犠牲者が出た2両目、この車両に乗っていて大けがをしたデザイナーの小椋聡さん(55歳)が、このほど事故の体験や多くの人との交流を一冊の本にまとめました。  小椋さんに記憶を語り、記録を残した20年と言うテーマでお話を伺います。

物凄い力で投げ飛ばされたとうような感じでした。  車体がメリメリ潰れて行きました。   空間をすっと潜り抜けたと言う所までは覚えているんですが、気が付いた時には右足が人の積み重なった山の下に挟まれていていました。 青い空が見えていたというのが印象的でした。  人の山の上の方に生きている方から動かないと下の人は動けませんでした。  「痛い、痛い」と言う声はずっと記憶の中に残り続けました。  自分の足が抜けたのは多分10~15分後だったと思います。  隣にいた女の人から「子供がいるので探してください。」と言われて、僕の上に乗っていた人がどきはじめて、子供を抱えている手が見えて、それを僕が受け取りましたが、たまたまそのお母さんの子供(4歳)だったんです。  泣いていましたが無傷でした。  

仰向けの状態で顔だけが見えた若い女性がいました。 「助けて下さい。」と声を掛けられました。  その上には沢山の人が乗っていました。  たどり着ける様な状態ではなかった。   「頑張って下さい。」としか言いようがなかった。  この人は助からないと思いました。   107人が亡くなりましたと言う風な数字ではなく、電車のなかで人が亡くなるという事は一体どういうことなのかと言うのを、きちんと伝える必要があるのではないかと思いました。  

1時間半ほど救助したりして、その後ワンボックスカーで近くの病院に運ばれました。   野戦病院の様な状態でした。  「歩いてください。」と言われて、歩けたので消毒して、ガーゼを貼って、もういいですと言われました。  タクシーを捜して帰ることになりました。  後日精密な検査を受けると、右の足首の部分の骨が折れている事が判りました。  数日後無くなっていたカバンが見つかったという連絡を受け、受け取りに行きました。  メディアスクラムと言うのに初めて会いました。  いろいろ話をして、それがきっかけとなり20年に渡りメディアの人と付き合うようになりました。

激突して遠心力で人が外にばらまかれた状態で、線路の上での沢山の人が亡くなりました。  事故から2か月ほど経って、遺族、怪我をした人たちが中心になり、「4.25ネットワーク」と言う会が出来ました。  (小椋さんは妻と共に参加するようになります。)  2回目の会合に参加しました。   生き残った自分たちの記憶が、本当に必要としている人たちにとって物凄く大事な情報なんじゃないかという事に気付きました。 

「4.25ネットワーク」の分科会として乗車客?を見つける活動をやりましょうと言う事で始まりました。  提供された写真から、自分の夫がそこに寝かされていたという写真を見つけました。  新聞記事から情報を拾い、メディア、JRに協力してもらって、負傷者からの情報と遺族とを繋ぐ「情報交換会」を開くことになりました。  捜していた10組の遺族の人は全員乗車車両が判りました。 2人に関してはどこに座っていたかまで判りました。   4回目の時に車椅子で来た女性の話と僕の記憶が同じで、下敷きになって「助けて」と言っていた女性だと判りました。 あの人は生きていたんだと思いました。 

事故から6年になろうとしていた2011年3月東日本大震災が起きました。  事故にとらわれていた自分がこれでいいのかと思いました。  示談と言う問題がありますが、JRとの対峙は6年目で終わらせることになりました。  事故から8年、2013年西宮市から兵庫県中部の多可町?に転居します。  多くの関係者が来て交流は続きました。  そのなかにJR西日本社員の小椋さん担当の高本克也?さんがいました。  引っ越しの手伝いをさせて欲しいと言う事で4人来てくださいました。  食器を一緒に片付けている姿を見て、この人たちは本当に加害者なのかなとふっと思いました。  

2015年4月に東京のギャラリーで絵の展覧会を行いました。  木村奈央?さんからいきなりメールが来ました。  事故の絵とかいろいろと東京の方にも見て貰いたいという事でした。  大変反響がありました。  

2024年東日本大震災で被災した只野哲也?さんとのつながりが出来ました。  震災時は小学校5年生でした。  多くの児童が命を落とした大川小学校で生き残った児童のひとりでした。  私も55歳にもなり、自分の口で事故のことを語り続けることがいつまでできるんだろうと考えるようになりました。   只野哲也?さんの記事に共感を覚えました。 

2024年秋に、東京日比谷ホールで講演会と対談を開きました。  只野?さん、脱線事故で1両目に乗っていた福田優子さん?、木村奈央?さんテーマは「私たちはどう生きるか。」でした。  語りつくせないとは思っていました。  補う意味で書籍を作るという考えがありました。  「行ってらっしゃい」と言って送り出した人を、「お帰り」と言って出迎えてあげられることは、実はとても幸せな事、「ただいま」と言って帰ってくれる人に、「私はあなたのことを大切に思っている。」と是非知らせてほしいと記しています。 

風化と言う言葉は使った事は無いです。  脱線事故でしか学び得なかったこと、教訓などは必ず残ってゆくと思います。  新たな人との出会いの中から、自分が語る大川小学校は意味があると思っています。  彼が語る脱線事故も意味があると思います。  語り継がれる中には風化はないと思っています。













































 

2025年7月18日金曜日

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱 

結城さんは1843年東京生まれ。 父親の結城司郎次外交官だった関係から7歳から16歳までスウェーデン、セイロン(現スリランカ)、トルコ、イギリスなどで海外生活を送る。 バレリーナを目指してイギリスのロイヤルバレエ学校に学んだあと、俳優になるために帰国、1961年俳優座養成所第13期生として入所、卒業後はアメリカ留学を経て劇団「雲」に入団、舞台はもちろん、「肝っ玉かあさん」「女と味噌汁」などのホームドラマや「俺たちの旅」俺たちの朝 」「御宿かわせみ」などテレビドラマに出演しました。 1984年ごろから陶芸を始めて、現在は陶芸家としても活躍しています。

陶芸は動物のオブジェとか子供、人のオブジェ、仮面などを作っています。  小学1年生を日本で中退してほとんど海外でした。  毎回言葉が違うので、授業を受けてもちんぷんかんぷんでした。  昭和27,8年ごろで、当時は日本人はほとんどいなくて、いじめられたりもしました。  スウェーデンは4年生まで居ました。  英語は出来る様になりました。  悲しかったり怖い目にも会いましたが、楽しい良い経験もしました。  スウェーデンの森の中には妖精がいます。  そういったものが作品に反映しています。  イギリスのロイヤルバレエ学校には12歳で入りました。  スタイルが全然違うのでバレエは諦めて役者を目指そうと思って帰国しました。  

俳優座養成所に4年間通いました。  同期は石立鉄男さん細川俊之さん佐藤友美さんなどです。  俳優として活躍していましたが、陶芸の道にも進みました。  或る時に紙粘土で山岡さん等の全身像を作りました。  喜ばれて差し上げました。  それからどんどん作るようになりました。  紙粘土から土の粘土に変えました。  100%乾いていないうちに窯に入れるとヒビが入ったりします。  素焼きにして釉薬を付けてまた本焼きして、2,3回窯に入れます。  窯から出てくる時にはドキドキします。  

最初のころは自分の子供の2,3歳のころから思春期のころとかのものを作りました。     いろんな表情のものを作りました。   夢中で作って持って行こうとしたらドアから出られない作品もありました。  3つぐらいに切って持ち出して又くっつけるという事をしました。  動物のオブジェなどもあります。  表情と動きがあるのが特徴です。  小さい頃それぞれの国の美術館に連れて行ってもらいました。  時にイギリスではみんなで行って、自分の好きな作品を見つけてそこでランチを食べましょうと言うんです。  許可を美術館から先生が貰うんです。  私はピカソの青の時代にものが好きです。  

今の興味は生身の生きたままのリアルなお面を作るよりも、自分の感性とか、感情とかから出たものを作ってみたいと思います。  酒蔵会社からの依頼で龍をいろいろ作っています。   1m以上あるものを何体も作りました。  葉っぱに顔があるお面なども作っています。    モチーフは自然のものが多くなりました。  そこにはみんな顔があります。  役者をやっていたことがあるからかもしれません。   芥川比呂志さんのリア王の有る場面の表情は、凄かったです。  役者をやっていると身近で相手役の表情を見ることができるので、いい刺激になります。  健康の為に太極拳もやっています。  












 

2025年7月16日水曜日

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して 

ボール、リボン、フープ、クラブなどを手に持って演技して芸術性を競う新体操。  女子の個人総合が1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用されました。  その最初のオリンピックでの日本代表のひとりであり、続く1988年のソウル大会にも出場、新しい華麗なスポーツとして注目を浴びた新体操の女王、日本のエースとして活躍したのが秋山エリカさんでした。 

新体操はボール、リボン、フープ、クラブそしてジュニアにはロープと言う種目もあります。  手具と言います。  日本では新体操と言いますが、ヨーロッパでは芸術体操という事もあります。  音楽と合わせてそれを表現するという事、それに手具が備わるという事でいろいろな面で芸術に近づけなければいけないというのが新体操だと思います。  13m✕13mの四角いフロアーのなかで個人では1分30秒、団体では2分30秒のなかで表現します。  一番重要なのが音楽の持っている性質をどのように表現するかという事と、自分の内面からでる感情表現、この二つが重要です。  

私は高校1年生から始めました。  いまの学生たちは幼稚園、小学生からスタートしている人が多いです。  1964年福岡に生まれました。  小さいころは病弱な子でした。   家は美容室で親が美容師でした。  小学校に入る直前に、自転車の後ろに乗っていて左足を車輪に挟んでしまって左足を骨折してしまいました。  治ったのですが歩き方がおかしくて母がクラシックバレエを習わしました。  身体も強くなりました。 小中、9年間クラシックバレエをやりました。  高校に入ったら新体操部があり、入る事になりました。  運動音痴だったので1か月ぐらいで辞めようと思いましたが、それも言えずにずるずるとやっていました。  試合にも出ましたが失敗ばかりしていました。 あだ名がミス秋山でした。 高校最後の試合だけはミスをしないようにと必死で練習をしました。  フープを投げましたが、遠くに飛んで私の手には戻って来ませんでした。  

或る日突然一生に一度でいいからノンミスの試合をしたいと思いました。  東京女子体育大学を選びました。  部員は130名以上いました。  オリンピック強化選手、国体チャンピオンなどが軒並みいました。  1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用される事になりました。  その前年に入学しました。  クラシックバレエをやっていたおかげで選手に選考されました。  基本から教えてもらって、初めて新体操が面白いと思いました。  1983年の大学選手権で優勝しました。 全日本選手権では3位になりました。ミスをしないようにという思いだけで試合をやっていました。  世界選手権の予選に出ることが出来て、山崎さんの次の2位になりました。  フランスの世界選手権に出場して、日本人の最高順位で山崎さんよりも上になりました。  オリンピックの切符が掛かっていることを知りませんでした。   怪我をしたこととミスをしたことには、如何に自分にとってありがたかったのか、今でも感謝しかないです。

1984年のロサンゼルス大会は19歳の時でした。  萎縮をしてしまって自分らしい演技は出来ませんでした。  山崎さんが引退して、新体操の女王と言われましたが、自分の中ではこれでいいのかという思いでした。  (1984年から1989年まで全日本選手権で6連覇を達成する。)  厳しい練習条件の中でブラジルの選手の思い切り楽しく演技している場面を見て自分で衝撃を感じました。  自分の持っている力を全部発揮するとか、は全員に与えられたチャンスなんだと気付きました。  そこから自分の考え方が変わりました。  自分にできることは何だろうと考えた時に、自分の演技をパーフェクトにやることだと思いました。  それまでは新体操は孤独なスポーツだと思っていました。  みんなのお陰でここに立てると思うようになりました。 

日本人であることをきちんと表現したいと思いました。  それまでは背が低い、足が短いとコンプレックスを持っていましたが。  オリジナルにこだわるようになりました。 現役引退が1990年です。  海外でのコーチ研修などを経て、後進の指導にあたっています。   選手が何をしたいのか、どこに向かいたいのか、 どんな演技者になりたいのか、どんな人になりたいのかという事が一番重要だと思います。    そこに向かってどういう風に計画してゆくのかという事を伝えられればいいと思います。   何度も失敗をして修正してを繰り返しながら精度をあげてゆく。 「パーフェクトを目指しなさい。 ミスは許される。」といつも言っています。   78名部員がいますが、全員をスターにしようと思っています。    それぞれに凄くいい特徴を持っています。  自分を深くよく知るという事、それを表現に結び付けることが大変重要と思います。  いつも選手は心が揺れてしまいますが、本当のやりたいことはパーフェクトにやりたい、そこだけを見つめて進むという意志の強さと言うものを選手に伝えたいと思います。 





















2025年7月15日火曜日

青木辰司(東洋大学名誉教授)       ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

青木辰司(東洋大学名誉教授)     ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

 令和2年7月豪雨では熊本県南部を流れる球磨川の氾濫で熊本県の人吉球磨地方は大きな被害を受けました。   この災害から立ち上がろうとする人たちの苦悩を、人吉市出身の俳優中原丈雄さんの主演で描いた映画「囁きの河」が完成し、各地で上映されています。  この作品のエグゼクティブプロデューサーを務めたのは日本のグリーンツーリズムのけん引役東洋大学名誉教授の青木辰司さんです。  20年を越える人吉球磨地方とのふれあいで積み上げてきたものが、災害からの復興を応援するエネルギーになりました。 

映画「囁きの河」、映画の舞台は熊本県の人吉球磨地方です。 日本3大急流の一つ球磨川は令和2年7月豪雨で氾濫、多くの人命が奪われ住民は住宅や店舗、施設、道路、鉄道など生活の基盤を失いました。  この映画は今もなお水害の爪痕で苦しむ人吉球磨地方で復興への道を必死に歩み続ける人々の生きざまを描いた作品です。 主人公は一度故郷を捨てた船頭を演じる地元人吉市出身の中原丈雄さん他に清水美砂さん、三浦浩一さんほか。  自然災害の恐ろしさ、親子の関係、地域の人たちとの人間関係を含め、復興への道は厳しく平坦ではありません。  監督脚本は元NHKプロデューサーの大木一史さんが担当しました。 

熊本県人吉市、熊本市で先行上映しましたが、想定外の入りでした。  これから全国興行します。  グリーンツーリズム、ヨーロッパでは農村でのツーリズムを言われていた。    1980年代から自然を生かした農業、自然を生かした景観、文化、とかトータルで言うとグリーンな文化、グリーンなライフスタイル、グリーンな食とか、意図的にグリーンをルーラルツーリズムの中に意味付けしてきたのが、グリーンツーリズムのヨーロッパの始まりでした。  

日本でも、もう一度農村を活性化するという意味でグリーンツーリズムをまずは東北の皆さんに呼び掛けました。  何よりも農家の女性の反応が鈍かったです。  副収入、女性の直接的な収入に繋げていきたかった。  岩手県の遠野で研修会をやりました。  70人ぐらい集まり盛り上がりました。  東北6県を回りました。  九州でも声がかかり全国的に展開しようという事で、NPOを立ち上げ第一回の大会を2004年に熊本県の水俣でやりました。    人吉でもグリーンツーリズムを立ち上げたいという事で繋がることになりました。  人吉は絶好の場所だと思いました。  2004年から84回の付き合いになりました。  他の市町村も一緒にやろうという事で全市町村にグリーンツーリズム研究会を立ち上げてもらいました。  広域連携型グリーンツーリズムと言うのは日本では人吉しかないです。  実は水害の時にもこれが大きな力になりました。   球磨川の一市、二か村が集中的にやられました。(人吉市、山江村、球磨村)  上流の人たちが支援しました。  グリーンツーリズムで培った絆ですね。  今も凄いです。  

調査によってその地域を変えてゆく、実践型社会調査をずっとやってきました。  地元の人たちは東洋大学の学生たちに感謝してくれました。  学生と祭の再生の企画を行いました。 都会にない農村の価値に学生が気付いた時にいいところだという事が初めて判る。  何が一番外から来た人たちの思いが、地元の人たちに取って感謝になるか、考えましょうと、これは復興支援にも言える事です。  本当に地元の人たちに取って有難い支援になっているかどうか、こういったことがグリーンツーリズムの基本の理念になります。  

「かわがあふれた!まちが沈んだ日 生きる力をくれたキジ馬くん」(人吉球磨の水害をテーマにした絵本)  キジ馬は子供の成長を願う人吉の郷土玩具。  700~800kgのキジ馬くんが置いてあったが、水害の時にさらわれた。  八代海に浮かんでいることが判り、生還した。  是非このことを絵本にしてほしいと頼まれて、絵本作家に相談して描いていただきました。  この絵本がきっかけとなり、映画製作に繋がって行きました。

文明の発達と水害は表裏一体であるという認識を深めないといけない。  我々の身の廻りにある自然、地球の変化と言うものに疎くなっている我々が、災害被害をどうやったら最小化できるか、と言うテーマがあるなと思いました。  我々が自然とどう向き合い、自然をどいう風に保全してゆくか、と言うテーマを是非この映画を通して、考えていただく或る意味防災の教材でもあるし、環境保全のテーマでもありうる。  フィールドワークも地元に還元するものでなければいけないと思います。  私がお返しとしてできたのかなあと思うのは、人を繋ぐという事だと思います。  
































2025年7月14日月曜日

大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

 大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

大川栄作さんは昭和を代表する作曲家古賀政男さんの最後の内弟子でした。  今も古賀メロディーとして歌い継がれる名曲の数々を残した師匠古賀政男さんについて伺いました。

古賀政男さんは明治37年福岡県大川市で、8人兄弟の6番目として生まれました。 5歳で父を亡くし、母と姉、弟と一緒に一番上の兄のいた朝鮮半島に渡ります。  4番目の兄からマンドリンが届いたのは13歳の時、このころから音楽家への道を志す様になりました。 大正12年日本に帰国し、明治大学予科に入学した古賀さんは仲間と共にマンドリンクラブを創設、卒業後はプロの作曲家として歩み始め、20代の若さで「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などヒット曲を世に送り出しました。  

その後も「東京ラプソディー」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「目ン無い千鳥」「湯の街エレジー」「無法松の一生」「東京五輪音頭」など戦中戦後の歌謡史に残る名曲の数々を生み出しました。  1959年には日本作曲家協会の初代会長として日本レコード大賞を創設、6年後「柔」で自身のレコード大賞を受賞します。  又作曲活動の傍ら、音楽親善大使として世界各地を回り、1974年には広島平和音楽祭を開催、音楽で平和を訴えた古賀政男さん最後のレコードは第4回の広島平和音楽祭に当たって、島倉千代子さんのために作曲した「広島の母」でした。  古賀政男さんは古賀メロディーとして、今も歌い継がれる数々の名曲を残し、1978年(昭和53年)73年の生涯を閉じました。  国民栄誉賞が贈られました。

村田英雄さんがデビューしたのが昭和33年で、小学校3年生でしたがその歌を聴いて感動しました。  「無法松に一生」をしょっちゅう歌っていました。  古賀先生とは同郷で、昭和39年に父に連れだって古賀先生とお会いすることが出来、歌いました。  上京するように言われました。(高校1年生 卒業後に上京。)   古賀・・歌謡学院という音楽学校の初等科に入りました。  「古賀音会」と言うところには20人ぐらいがいましたが、その中に入れていただきました。  1年半ぐらいしてから内弟子生活に入りました。  「歌は声のお芝居だから、ストーリーと言うものがあるので、それにふさわしい表現の仕方をしてゆくんだよ。」と言われました。 

庭木の手入れ、車を洗ったりとかもしていました。  レッスンはたまにありました。  弟子入り2年後にデビューしました。  1969年「目ン無い千鳥」でレコードデビュー。  一時期放送禁止になりました。 (目の不自由な方に関する歌)  30年ぐらい歌わせてもらえなかったです。  大ヒットしました。  「筑後川エレジー」はその次でした。  デビュー当時は古賀先生から衣装を譲ってもらいました。  1978年に先生は旅立ちました。  晩年は病気がちですた。  訃報は僕が肝臓で退院したら電話がかかってきて、それが知らせでした。(7月25日)  亡くなる1週間前に、僕の入院先の枕もとに先生からの花が届きました。   4年後「さざんかの宿」で大ヒットする。 (180万枚)  歌手生活30年という事で、1998年「筑紫竜平」のペンネームで作曲しています。  作曲の難しさを身にしみて感じています。  

先生は「歌は水ものだ。」とおしゃいます。  「みずみずしさが一番大事で、詩に対しても声に対しても、日本人の感性、感じる気持ちをいつも大事にしろ。」とおっしゃいます。 「感動する気持ちをいつも再現できるのがプロだ。」という事が一番大事かと思います。

古賀先生への手紙

「・・・16歳の末、九州から上京し、・・・歌いたい,教わりたい。心の底から湧き出る気持ちを判って呉れる人にやっと出会えたという興奮を今でも昨日ことのように覚えています。  先生の存命中の20歳から10年間、歌手としての表現、技術を学びました。  なにより感銘を受けたのは音楽と向き合う師の姿こそが、古賀メロディーの創作の神髄であり、歌唱表現の手法なのではないでしょうか。 ・・・明日の英気を、活力を或るエネルギーに変えて、人々の心を慰め続けた古賀メロディー、華やかな音楽様式に裏打ちされ、人々の心に沁みわたるメロディーを、その時代の空気感に添えて、そのしなやかな感性でヒット曲を生み出し、大衆歌謡の父と言われた称号に弟子の一人として心から誇りに思います。 一方私人としての生活は一言でいえば、孤独との闘いの日々だったと思います。 「影を慕いて」のヒット曲の始まり、最晩年のヒット曲「悲しい酒」で幕を降ろしますが、二曲共に魂の叫びともいえる叶わぬ思いをスローワルツの甘美なリズムに乗せて、満たされぬ寂寥感とわが身の不幸を嘆く一人の人間像、その姿こそ人間古賀政男の日常に重なります。・・・物心つかぬ頃に父と死別し、8人の子供を抱えて苦労した母を偲んでの涙だったのではないかと思います。 ・・・母への愛をこめて紡ぎ出すメロディーが古賀メロディーの本質と思います。・・・戦前戦中戦後の多くの人々の心を慰め、寄り添い生きる勇気を与えた功績は計り知れません。・・・」















2025年7月13日日曜日

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作 

南こうせつさんは1949年大分県出身76歳。  1970年にソロ歌手としてデビューし、その直後にかぐや姫を結成、「神田川」「赤ちょうちん」「いもうと」などのヒット曲を発表、グループ解散後もソロ歌手として活動を続け、今年デビュー55周年を迎えています。 40年以上故郷大分県の国東半島にある杵築市の大自然のなかで暮らし、その環境を生かしながらシンガーソングライターとしての活動を続けています。  深夜便の歌の「愛こそすべて」の制作に込めた思いや、現在暮らしている故郷大分県での自然に囲まれた生活などについて伺いました。

デビュー55周年を迎えました。  来援3月までツアーがあります。  76歳ですが、1970年代、「神田川」がヒットしましたが、ほとんどの方が還暦を越えてゆくんです。 その方たちがお客さんで来ていただいています。  改めて聞くとこういう意味だったのかと、不思議な感じがすると、味わいが違ってくるというようなことを聞いています。  人生を深く味わいながらもありかなとコンサートを進めています。  「神田川」の歌との出会いが私の人生だったですね。  「神田川」喜多條忠さんからぎりぎりで出来たという電話があって、メモをして、2番を書きながら何となくメロディーが浮かんできました。 (喜多條忠さんが、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした。) 電話を切って3分後にはもう曲が完成していた。 

今回のツアーのテーマとしては55年間の自分と言うものをステージで再現してみようという事です。  ひょっとしたらこの町で歌えるのは最後かもしれないと思うと、切ない気持ちにもなります。  

深夜便の歌「愛こそすべて」、テーマとしては二つあって、今迄歌って来た人生を歌うか、夏の時期なので夏を歌うか、迷いました。  結果的には夏を歌う事にしましたが、いろいろな体験、誰かさんを好きになった思い出などを歌にしようと思いました。  

*「愛こそすべて」 作詞:渡辺なつみ  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

出会い、別れ、縁と言うのはちょっとしたことで変わってゆくんですね。  あの人はどうしているんだろうというのはどなたにもあると思います。  青春時代の思い出を思い出してもらえればいいと思います。  幸せを感じると思います。  

大分で暮らして43年になります。   波の音からメッセージを感ずることがあります。   新しい町の歌を作って欲しいという要望があり、「おかえり」の歌があり、この町にぴったりだと思いました。  星野先生の詩が素敵だと思いました(50年前に書いた詩)

*「おかえりの唄」  作詞:星野哲郎 作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

喉が続く限り自分の気持ちを歌っていきたい。  歌っている瞬間をお客さんと共有したいです。  

*「神田川」  作詞:喜多條忠  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ



 









2025年7月12日土曜日

眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

 眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

パンに塗ったりヨーグルトに掛けたりと食卓に欠かせない蜂蜜はケーキをはじめ洋菓子や料理にも広く使われてい居ます。  そんな蜂蜜を集めてくれるのは蜜蜂です。  蜜蜂には西洋から入ってきた西洋蜜蜂と在来種の日本蜜蜂がいますが、現在スーパーなどに並ぶ蜂蜜のほとんどは西洋蜜蜂の蜂蜜です。  一方近年趣味としての日本蜜蜂の養蜂がブームになっているという事です。 眞貝さんは和歌山県古座川町を中心に日本蜜蜂による伝統養蜂を調査研究し、情報を共有しようと日本蜜蜂養蜂文化ライブラリーと言うホームページで、その成果を発信しています。 

蜜蜂の群れには女王バチがいて働きバチは全員メスです。  オスは生殖の時働いて後は亡くなる。  働きバチの寿命は1か月ぐらいです。  女王バチは2年~4年とか状況によって違いがあります。  女王バチと働きバチのDNAは全く同じなんです。  王台という特別な部屋に産み付けられると、働きバチはこれは女王様になるハチだという事で、特別なエサを与えます。 (一生涯)  そのエサはロイヤルゼリーと言います。 働きバチが1か月生きると言いましたが、蜜を取る期間は最後の1週間ぐらいなんです。 その前は巣の掃除をしたり幼虫の世話をしたりします。  働きバチは1週間でスプーン1杯ぐらいの蜂蜜を取って来る。  花蜜を取ってきて、口移しで花蜜を渡して20%ぐらいの水分量に濃縮します。 口には酵素を持っているので成分が変ります、それが蜂蜜になります。  蜂蜜は餌でもあり越冬用の餌でもあります。  蜂蜜は常温保存が出来ます。  糖度が高くて微生物が繁殖できないので腐らない。  結晶するかどうかは蜂蜜の種類によります。   ブドウ糖が多い蜂蜜は結晶化しやすい。 

日本人の蜜蜂との関りは海外とは違うのではないかと思いました。  環境と食と蜜蜂のことを研究してみようと思いました。  主に日本蜜蜂の研究をしていて、和歌山県古座川町を中心に行っています。  熊野地域は養蜂の歴史が古くて江戸時代から特産でした。 祖母が古座川町の故郷です。  丸太を空洞にして巣箱を作っている家庭が多いです。  

日本蜜蜂は東洋蜜蜂の一亜種という事です。  1590年代朝鮮半島との文禄の役の時に熊野の或る人物が朝鮮半島から熊野に持ち帰って、広まったと言われています。 巣箱で飼うようになったのは江戸時代からです。  北海道と沖縄以外には居ます。  西洋蜜蜂が日本に入って来たのは明治10年と言われます。  アメリカから輸入しています。  採蜜量が日本蜜蜂に比べて数倍から10倍と言われています。  女王バチを人工的に育成することが出来ますから、群れを増やしたり分けたりすることが出来ます。  日本蜜蜂は非常に難しい。 西洋蜜蜂は日本蜜蜂よりも一回り大きいです。(12~14mm)  西洋蜜蜂は半径2~3km、日本蜜蜂では1~2kmの範囲になります。  西洋蜜蜂の方が働きバチの数も多くて2~4万匹ぐらいで、日本蜜蜂は数千~1万匹ぐらいです。   蜜蜂の輸入が93%で国産は少ない。  輸入の66%は中国からです。  日本蜜蜂は自家消費とかが多くて正確な量はわかっていません。  

西洋蜜蜂は飼い方が標準化されていて、スワップ式巣箱が使われています。  日本蜜蜂は中が空洞で自由に巣をつくるようなものです。  西洋蜜蜂は咲く花を追って移動が出来るが、日本蜜蜂の場合はそれが難しい。  珍しい蜂蜜5種類持参。  柿の蜂蜜、そばの蜂蜜、いろんな花が混じった蜂蜜、日本蜜蜂の古座川町の2種類。 (1種類は2回越冬させた蜂蜜熟成度が高い)  

昭和60年と令和2年の花の量の比較でレンゲ草では16%になってしまっている。  みかんでは24%ぐらい、アカシアで50%ぐらい、主要な蜜源が減っている。  暑いことも蜜蜂にとっては大変。  昆虫全体が減ってきている。  昆虫の総数が1年に2,5%ぐらい減ってしまっている。  農薬、都市化(緑が少なくなる。)、気候変動などいろいろな問題がある。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が減ってゆくと人間にとって大問題となる。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が日本のもたらしている利益(経済価値)を推定した値は2013年では約4700億円で、3300億円分は野生の送紛者による。  生物多様性が大事。

ドイツのバイエルン州では蜜蜂を守るための条例を2019年に作りました。



2025年7月11日金曜日

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い

松本猛(美術・絵本評論家 作家)    ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い 

戦後80年の今年、改めて注目を集める絵本があります。  淡い色の水彩画で可愛らしい子供の絵をえがいた画家いわさきちひろさんが昭和48年に出版した「戦火の中のこどもたち」戦争に巻きこまれた子供たちの姿が詩のような文章と共に描かれた作品です。  当時いわさきちひろさんは東京芸術大学の学生で21歳の息子松本猛さんに、「この絵本を一緒に作ってみない。」、と初めて声を掛け母と子で制作に取り組みました。  絵本完成の翌年いわさきちひろさんは病気のため55歳で亡くなります。  松本猛さんはその3年後、世界で初めての絵本の美術館「いわさきちひろ美術館」を設立、その後50年余り絵本に携わって来ました。 松本猛さんは今年74歳、50年余りの研究の集大成として、「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」と言う本を今年出版しました。  半世紀前に母とともに作った最後の絵本、そこから引き継ぎ切り開いて来た人生について、美術評論家で作家の松本猛さんに伺いました。

東京に来るのは月に2,3回ぐらいです。  絵本がいま平和のことを語る絵本が凄く増えてきているので、そういうものの関連の仕事が増えてきています。  あちこちで紛争があり、戦争を描いている絵本も増えてきている。  1970年以降毎年のように必ずそういう絵本が出ています。  特にウクライナのことがあって増えてきているような気がします。 絵は共通言語で国境も越えられ、親と子が絵本を通して語り合えるんです。  子供の時から平和を知ってもらいたいという人たちが多くて、だから戦争の絵本が出てくるんだと思います。   どうしても戦争が地球上からなくならないからだと思います。 

ちひろは戦争が終わった年は26歳でしたが、その世代前後は、戦後スタートラインが皆同じだったんですね。  やっと戦争が終わって自由に表現できるようになった。  戦争抜きには表現が出来ない人たちだったと思います。  自分たちの創作の原点は多くの人が戦争だったんじゃないかと思います。  

「戦火の中のこどもたち」母と子の共同作業で作られたものです。  母にとってはある程度自由に話しあえる相手だとは思っていたと思います。  絵はそれぞれ独立した作品として描かれていました。  それが20、30点溜まった時に僕に声を掛けて、構成を考えてと言ったような感じでした。  何となくゆるやかな流れは作れそうな気がしました。  出版まで半年以上かかっています。  第二次世界大戦のことについていろいろ本を読んだり調べたりしました。   5月29日の山の手大空襲で家は被災しましたが、母からはあまり聞く事は無く、谷川俊太郎さんから詳しく聞くことが出来ました。  元々想像力の豊かな人で、原爆のことも資料館に入るつもりが、資料館に足が運べなくなっちゃって帰ってきてしまったりしました。  原爆の絵、戦争の絵はきつかったと思いますが、描かなければいけなかったんだと思います。 

僕は高校時代から芝居の脚本を書いたり、演出をやったりしていました。  芸術一般を勉強できる場所は無いのかなあと思っていました。  芸大の芸術画家に入りました。  大学の先生の話を聞くよりも母親から映画に関する事とかを聞くことの方が面白い事は結構ありました。  絵に関しては非常に厳しいところがありました。  

「戦火の中のこどもたち」

(女の子の後ろ姿が立っていて、背景にはシルエットで爆撃機が何機も描かれている。)    

「赤いシクラメンの花は去年も一昨年もその前の年も冬の私の仕事場の紅一点。 一つ一ついつとはなしに開いては、仕事中の私と瞳を交わす。 去年も一昨年もその前の年もベトナムの子供の頭の上に爆弾は限りなく降った。  赤いシクラメンのその透き通った花びらの中から死んでいったその子たちの瞳が囁く。  私たちの一生はずーっと戦争のなかだけだ。       (ほとんどモノクロですが、赤いシクラメンだけが色が付いている。 花びらの中から子供達の顔が浮かんできている。)

「貴方の弟が死んだのは去年の春。」                                    (うつむいた少女が小さな花びらをもっている。  弟を思い出しているシーン。)

「あの子は風のようにかけて行ったきり。」                                  (男の子の強い目線の少年が描かれている。)

「もうずっと昔に事と言えるのかしら。  東京の空襲があけた朝、親を捜していた小さな兄弟の思い出。」                                          (激しいタッチの黒い太い筆で周りを塗りつぶしているが、真ん中にあいた空間のところに、女の子が弟をおんぶして歩いている姿が描かれている。)

(つぎのぺージは言葉がない。 ボロボロの服を着た男の子がただ佇んでいるだけ。少年のことをいろいろ考えて欲しいということ。)

「母さんと一緒に燃えて行った小さな坊や」                          (凄く厳しい顔をしたお母さんと腕に抱かれた赤ちゃん。 赤ちゃんの瞳は可愛いが、お母さんの瞳は本当に厳しい瞳です。 戦争を起こしたものへの怒り、そういう表情にも見える。)

「兄ちゃん、昨日登った木は。」                              (3人の男の子が焼け焦げた木の方を眺めている。)

(つぎのシーンは表紙にもなった女の子 呆然としてどこを見つめているのか判らなよな表情。)

「暑い日 一人。」                                         (鉄条網が描かれていて、その下に裸の男の子が横を向いている。  当時ベトナムで一つの村を全部鉄条網で囲まれていた。  ゲリラと交流しないように。  その中の少年を描いている。)

「うちの兄ちゃん強いんだぞ。  私のお姉ちゃんだって強いんだから。」               (防空壕の中と言うような設定。) 

「B52 森 ファントム 原っぱ トカゲ 炎 ヤシの実」                    (ここは傷ついた男の子や女の子たちが描かれている。)

「雨が冷たくないかしら。  お腹もすいて来たでしょう。」                         (雨の中に座ってじっと横を見ている少女が描かれている。  ベトナム戦争の時代にはいろんな人がゲリラ戦に関わっていた。  この子はいろんな連絡を待っている子だったのかもしれない。)

「牛と遊んでいた暑い夏の日。」                                (水牛と一緒にいる子供達と少年のことが描かれている。  ベトナムの平和な時のイメージだと思います。)

「風 母さん」                                             (このころベトナムではお母さんが出勤するように戦いに出掛けて行ったという小説がありますが、帰ってきたのかなと思う女の子の表情が描かれている。)

「赤いシクラメンの花のなかに、いつも揺れていた私の小さなお友達。  赤いシクラメンの花が散ってしまってもやっぱり消えない私の心のお友達。」                       (大きなシクラメンとそこに少女の横顔が描かれている。  ここで終わりになります。)

戦争の中で子供はどうなってしまうのか、そういったことを絵を通して表現したかったもので、言葉は最小限にとどめました。  この本が出版されたのは昭和48年。 翌年ベトナム戦争は終わるが、終わるのを知らずに母は亡くなってしまった。  肝臓がんが判ってアッと言う間に亡くなってしまいました。 

絵本と言うものをきちんと位置付けたいという思いが、母にも私にもありました。  それには絵本の美術館を作るのがいいのかなあと思いました。  

「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」を出版。  7年かかりました。  自分が感動したものを子供に伝えれば、親も子供も両方その絵本の魅力を知ることになると思います。 大人こそ絵本の魅力を知ってほしい。   作ることの歓びみたいなものを追いかけ続けてきたような気がします。  強くないと優しくなれないんじゃないかと思います。 それを母から学んだような気がします。




 






                                            





2025年7月10日木曜日

植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

 植田まさし(漫画家)           ・ほのぼのが人気の秘密

現在4コマ漫画を中心に活躍している植田さん、1982年の4月から新聞の連載が始まった「コボちゃん」は今年の4月で1万5000回を越えました。  ほのぼのとした漫画で人気がある「コボちゃん」、ちょっとしたいたずら書きで始まった漫画家人生ですが、もう55年も続いています。 

2年ぐらい前に病気をしまして、その時までは夜の3時半に寝て10時半に起きて始めるという一日でした。  病気後は7時に起きて12時に寝るという事にしています。  読売新聞での「コボちゃん」の連載がことしの4月で1万5000回を越えました。  43年ぐらいですがあっという間でした。  その日その日を書いているうちのそうなっちゃったと言う感じです。  ネタは何かの目次とか、辞書、カタログ、新聞と言ったものから取っていました。 観てその場で選ぶと言う感じです。  雑誌だと4ページ貰って7本考えないといけないので、一日8時間ぐらい考えないと出ないです。  連載は40年間変わっていないのですが、枚数が減って、新聞と雑誌が3つです。  1年で600本ぐらいは考えないといけない。  ネタ帳に絵を描いてみる。  描いているうちにハッと見つかるんです。(見つからない時の方が多いが。)  まずは面白い事の落ちを考える。  前の3つを話にする。 

突飛なことはコボちゃんの場合に合わない。  私は新聞を取っていた時に「サザエさん」が連載されていて、夕刊が「クリちゃん」でその後にサトウサンペイさんの「フジ三太郎」で、漫画と言うとそれしか見ていないです。  一般家庭のリアルな感じの漫画でした。  コボちゃんは私が子供の頃呼ばれていた名前です。 

1947年生まれの78歳です。  3人兄弟の末っ子です。  母が絵が好きで、祖母も美術学校に行っていたらしいです。  親戚でも絵を描く人は多いです。  自分でも絵を描いていましたが、絵で行こうなどとは全然考えていませんでした。  近くに貸本屋があり小学校低学年のころよく読みました。  中学では野球、高校ではラグビーをやりました。  大学ではカメラマンになろうと思って、2年の時から夜間の写真学校に行きました。  大学紛争の時で4年間のうちの1年ぐらいしか大学にはいかなかったです。  新宿騒乱事件を撮りました。   渋谷音楽堂で決起集会をやっていて、そこに赤軍派と京浜安保系などがなだれ込んできて、全学連が排除されてしまいました。  それをみて学生運動はおしまいだと思いました。その日から学生運動を追いかけることを辞めました。  写真への興味もうすれてしまいました。 

炬燵に母と兄と私がいた時に、私が広告に漫画みたいな絵を描いて、それを兄が見て面白いじゃないかという事で、母も同様で、ちゃんと描いて出版社にでも持って行ったら、と言われました。  8本ぐらい描いて持っていったら、面白いから預かりますと言われました。  しばらくししてから又描いて持っていきました。   半年間ぐらいしたら初めて注文が来ました。4コマ漫画では食っていけないので、数ページのものを描いて欲しいと言われました。  自分ではやったことがないので、作っても面白くなかった。  4ページを全部4コマで埋めちゃえと思って、7本持っていったらこれで行こうよ、という事になりました。  あっという間に連載が始まりました。良い漫画家だと思うのは、長谷川町子さん(サザエさん)、根本進さん(クリちゃん)、サトウサンペイさん(フジ三太郎)、秋竜山さん(面白いと思って始めてみた漫画家)です。 

「ああ ちょんぼ」デビュー作 23歳(1970年)  月刊誌の連載を引き受けることになったが、4ページを描いてゆくのに、本当に1か月かかりました。  それが3,4か月続いた時にもう一本持ってくれませんかと言われました。  無理だと思ったが、月に2本になりました。  何とかこなしながらやっていたら、数か月して隔週誌をやらないかと言われました。  どんどん倍になって行きました。  次に週刊誌をやらないかと言われました。   他の週刊誌からも声がかかってきてしまって、どんどん増えていきました。  

普通の家庭、普通の人間のやる面白さ。  新聞は多くの人が読むので、いろんな人に判ってってもらえるようなものを心掛けています。  朝刊なので読んだ人が厭な気持になって出かけないような、そんな感じは最初から思っています。  1枚漫画は描いてみたいが、普通の生活の中の1コマ漫画を描くというのはあると思うが、発表の場がない。











2025年7月5日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝(落語家 六代)     ・落語家60年目にみる景色(前編) ~創作落語300本超え~

桂文枝さんは今年落語生活60年目を迎えました。  若手のころからテレビ、ラジオで超売れっ子となり多くのレギュラー番組を持つ一方、落語家としては300を越える創作落語を手掛けてきました。  60歳からは上方落語協会の会長として活躍、上方では60年振りとなる定席「天満天神繁昌亭」を開場するなど尽力し、文枝さんが入門した当時は数十人だった上方の落語も、今では250人を越えました。  長年上方落語を牽引してきた文枝さんの思い、今の落語界をどう見ているのかなどお話しいただきました。   

先代の文枝さんに入門したのが1966年、今年で入門60年目となります。  人数は少なかったけれどそうそうたるメンバーに出会えたことは良かったです。  先輩師匠方とお別れすることになって、先輩方から引き受けたものをこれからどうするのか、今考えています。  黒柳さんが現在91歳で100歳を目指していて、私は90歳を目指して元気に落語がやれるようにしたい。  私は歩いて舞台に行く、そして降りてゆく事が出来なくなったら最後だなあと思っています。 足腰を鍛えていつまでも高座に出られるようにしたいと思っています。

落語の中だけにいたら井の中の蛙になってしまうので、いろいろと勉強して、それを又落語に持ち帰って行くという事で、いろんなことにチャレンジしたいと思ってきました。  創作落語は350近いと思います。  創作落語は同じ名前は使わない。  昔やった創作落語をもう一度覚えるという事になると物凄くエネルギーが要るんです。  名前が全部違うし、80歳を過ぎると物忘れもするようになりました。   時代と共に昔のものができにくくなる。  昔は待ち合わせで行き違いがあってそれをネタにするようなものもありますが、今は携帯があるので行き違いはない。  次の時代に合う落語を作って、それをいろいろな方に覚えていただく。  古いものほど古くならないという感じはしますね。  

1982年作、坂本龍馬が近藤勇にゴルフの勝負を持ちかける、近藤勇がゴルフに夢中になって行くという展開。  これは作るのに凄く時間が掛かりました。  テーマ、時代背景も様々で、家族愛を描いたもの、日常のふっとした出来事、時代の世相、とか多種多彩です。 2003年作「妻の旅行」、 定年退職した夫の妻へのぼやきを息子とする。  「宿題」、では兄弟愛が必要なのではないかと問う様なものでした。  塾などに行って取材をしています。 事実があってそれが誇張されて、飛躍して又事実に戻るという、そういうのが無いと、やはり落語は市井の生活のなかから起こる笑いでないと同調できないところがある。  第一作は1964年「アイスクリーム屋」 「アルバイト幽霊」 学生時代いろいろなアルバイトをしたので役に立ちました。  

作風は最初のころとかなり変わってきたと思います。  笑いで客が中心でしたが、落語はもっと人間の深さ、想いを描かないと(親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情など)、そこに根底がないと面白いものは作れないというのが段々わかってきて、そこには笑いが無くても深さが大事だなあと思います。  深さがあるから又笑いが大きくなる。  現代の古典を作るというのはぴったりするような気がします。  「温故知新」古いものを温め直す、皆に伝わるように温め直す。   

目標を500作と大きなことを言ったものですから、それをやるのにはどうしても時間が掛かります。  90歳まで頑張らないと絶対作れない。  作った後に練り直して練り直して覚える作業が大変です。   若い弟子(30人ぐらい)に勉強して貰おうと思って、グループラインを使って毎日問題を出しています。   答えを観て順位をつけて、又問題を出します。  弟子にはきっちり教えていかないといけないと思っています。  

今年82歳なので、中継風景で「屋島の合戦」を伝える落語を、30~40年ぐらいやっていないのですが、チャレンジしようと思っています。 




 


2025年7月1日火曜日

小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

 小池真理子(作家)            ・〔わが心の人〕 「倉橋由美子」

倉橋由美子さんは昭和10年高知県生まれ。  大学在学中の昭和35年初の小説集「パルタイ」が芥川賞候補となりました。  その後は留学や海外生活をしながら、独自の作品世界を描きました。平成17年6月に亡くなりました。 (69歳)  今年は倉橋由美子さんの生誕90年、没後20年に当たります。  小池真理子さんは倉橋由美子さんのエッセイをまとめた本「精選女性随筆集」の選者を務めました。  

私の17歳年上の方になりますが、全く面識がありません。  1968年、69年(高校生)のころに倉橋さんの本に接していました。  『聖少女』は文学好きの文学青年、少女が全員読んでいた。  『聖少女』のテーマが近親相姦、父と娘、姉と弟。  なんて非道徳的なことを書くんだろうと非難を受けるようなことを、むしろ好んで書いていた方ですね。   その中の一つがインセスト(近親相姦)と言う大きな一つのテーマになっていました。    

『聖少女』では交通事故で記憶を失った少女(22歳)が出て来る。  彼女と出会った少年の目を通した箇所と、彼女が記憶を失う前にかいた日記がそのまま作品のなかにあります。  日記の出だし、「今血を流しているところなのよパパ。 何故、誰のために。 パパのために。 そしてパパを愛したためにです。」  衝撃的な出だし。  文体が冷たい。 正統的な日本文学も嫌い。 影響を受けたのはヨーロッパの近代文学、カフカカミュ、サルトルの影響を受けた。  いかにも自分自身のことを書いている様に思われる作品も多々あるけれど、それは自分の死体を自分で解剖するようなものだ、という風に書いています。  世界と自分を凄くわけていて、アウトサイダー的な位置で作家をやっていくという、深い信念のもとに書いていたという印象です。  本人は恥ずかしがり屋で人の多くいるところが苦手。 現実に興味がない。  タブーとされていることを言葉によって、事もなく破って見せるという事に興味がある。  

結婚して二人の娘さんがあるが、結婚制度には物凄く反発していた。  多くの人が望むロマンチックな局面を完全に追放したいという風に書いています。  人間世界の消滅を夢見ている、と言う風に断言している。  徹底したニヒリスト振りが倉橋由美子であり、当時の文学好きの読書好きの憧れを誘った。  女性であること自体を否定しようとしている。

その裏にあるものは何なんだろうと、私なりに出した結論としては、実にこの方は女性的なものを沢山持っていた方ではないかと思います。  その中で自己嫌悪みたいなものを感じる局面が多かったのではないかと思うんです。  倉橋さんの作品はどれを読んでも女の子なんですね。  女性を感じるんです。   いろいろなものの紆余曲折を経て、女性性を持つ自分自身に対する自己嫌悪が若い頃からかなり強かったのではないでしょうか。  彼女は昭和10年生まれで、普通であることに彼女は耐えられないところがあったのかもしれません。

私は三島由紀夫が好きで影響を受けました。  倉橋さんは、「もし私が男だったら盾の会に入りたい。」といったらしいんです。  新聞に掲載されて、それを読んだ三島由紀夫は感動したらしくて、「豊饒の海」シリーズの「暁の寺」をサイン入りで倉橋さんに贈ったそうです。 三島事件で思い知らされたのは、自分が男ではなかったという悲しい現実を突き付けられたと書いています。  自殺してしまわなければいけないぐらいの思想であるとか、想いの強さ、そういうものを女には持てない、女には三島さんのような行動は出来ない、と言うようなことも書いています。  男と女は根本的に違うとはっきりと言っています。 

倉橋さんの小説を書く心構えが箇条書きになっている。

主人公は道徳や世間の常識などに縛られずに行動する人物であること。           実在の人物をモデルにしない。  主人公の名前すら記号になっている。          内面を描くとか、精密な心理分析とか 、とりとめないことを延々と書いて読者に苦痛を強いたりしない。                                                                                                     

おしゃれな感覚を持っている人。  今後も出てこない作家だと思います。  晩年は体調が良くなかった。  69歳で亡くなる。  物語を嫌っていて、物語性が希薄です。  自分自身の生きた青春の一コマの中に倉橋由美子と言う作家がいたという、それだけで素晴らしいことだと思います。

私(小池真理子)は家に閉じこもっている方が好きで、運動もあまりしないです。  夫(藤田宣永 作家)を5年前に亡くしましたが、夫も私と同じで家を出ない人でした。  ぼんやりしているなから浮かんでくるものをキャッチしていきたいと思っています。  倉橋さんと類似しているところはあると思います。  推理小説から始まって、恋愛小説、最近は人間存在そのものに焦点を当てて書いています。  死ぬこと、生きる事、出会い、と言ったような事。  両親と夫を10年の間で看取ったので、書くテーマも違ってくるなと自分では思います。