遠藤美恵子(民宿経営) ・南三陸町で亡き娘と生きる
宮城県南三陸町 東日本大震災で遠藤さんの長女、未希さんは、南三陸町の危機管理課職員として、津波が押し寄せる中、防災行政無線で非難を呼び掛け続け多くの職員と一緒に亡くなりました。
24歳でした。
娘を亡くした喪失感に悩まされながら、美恵子さんは去年津波の恐ろしさを伝える民宿をオープンしました。
民宿は長女未希さんの名前を取って「未希の家」と言います。
震災1年目から3年目まで、3月を迎えるのが辛かった。
いまは民宿を始めてから、娘の姿は見えないが、一緒に過ごしている様な感覚になる時が有るので、共に生きるというのに向かって進んで行っている感じなので、3年目とは違ったいまの生活があります。
民宿が始まってからはいろんなお客さんとも接して、いまを生きるのが一番自分のためになるのかなあと、そのためにはどうすべきか、考えながら生きていこうと思った時に、大変だが前に進めてきたので去年とは違います。
皆が故郷と思えるような家を造ろうと思って、民泊用に自宅を修復しようと思った。
すでに娘の名前を付けようと思ったが、そこは危険区域に指定されて、そこではできない。
漁業だけの生活をしている事が虚しいだけに過ぎない様に思えて、残りの人生を虚しさだけで生きるという事をして居いたら、あの時に生きた かったひとたちに申し訳ないと思い、自宅のすぐ上に小さな土地もあったので、思い切って始めました。
窓から海が見えるが、海の景色は恐ろしい津波が嘘の様です。
海と共存していかなくてはいけない。
又いつか来るかもわからないが、その時にはいち早く逃げるという事を、伝える範囲で伝えていこうと思っている。
被災した方は海が見えない方が多い。
養殖漁業なので夫と二人で、わかめ、ホタテ、ほや等漁業で生計を立てていました。
舟は2艘、倉庫は2つ流され、自宅は2階まで津波が来たが何とか残りました。
娘だけ生きて貰えれば何とか復興に頑張ろうと思えたが、当時は虚しさ、悔しさ、辛さで周りから早く家をかたずけるように言われたが何も手がつかなかった。
とりあえず瓦礫の仕事をするようになる。
周りの楽しい話を聞いているのがつらかった。
瓦礫の跡だけを見ていると、又心が折れそうになる。
ラジオで放送が有り、ストレスケアの話があり、問い合わせをしたら、歳は関係ないという事で面接に行ったら、ストレスケアをするのには自分が元気で無いといけないという事で3ヶ月間一日6時間一生懸命勉強しました。
そこからものの考えが変わる、きっかけになった。
そこから3人(お婆さんと夫と)で何とか生きていかなくてはと考えるようになった。
勉強が始まった時に、何をしたいか10個書けと言われたが、その時に大変な生活をしながら何も出てこない。
何年後でもいいからと言われて、3年後に民宿したいと書いた。
実現できて幸せなんだなあと思います。
娘が見つかってない時に、電気もないので暗い中で一人で声をあげて泣いていました。
最初死にたいと思っていた、娘に追いつけるのではないかと。
4月23日自衛隊のヘリコプターで娘を見つけることができました。
今まだ南三陸町で200人ぐらい行方不明ですが、苦しい思いを引きずっている人がいますから、
帰って来てくれたという事は、嬉しかったです。
娘は生まれた時から手のかからない子供でした。
介護の専門学校を卒業後、南三陸町の市役所に勤務する事になる。
3年税務で4年目に危機管理課に行って、あの3月でした。
私は最初の放送しか聞いていない。
避難の放送をしていたのは44回でした。
多分怖かったと思います。10mの時に声が一瞬詰まっていた。
何か察しているなあと思いました。
2日前に震度4の地震が有って、津波が50cmきましたが普通に放送していた。
その時に私たちは沖合で舟に乗って、仕事をしていたので全然わからなかった。
その夜に娘が電話をよこして、大丈夫だったかと言われたが、海にいて全然気付かなかったといった。
多分お母さん、お父さんに声が届く様にいってたんじゃないかと言われました。
私たちを助けてくれるために発していたとすれば、何時も泣いてばっかりで生きるのでは申し訳ないと、娘のところに行ったときには、一杯話ができるような生き方をしようとお父さんといまを生きています。
いろんな方との出会いで助けられました。
娘に申し訳ないとの思いが強かったが、「お母さん頑張って」と娘がいろんな人に会わせてくれたと、後で感じ取って、それならお母さん元気になってもいいみたいな繰り返しの中で、立ち上がりのきっかけの一番目はストレスケアです。
落ち込んでいる時にものを書くという事で、娘と向き合わなくてはいけないと思った。
1年過ぎた時に娘が遠のいていく様な気がして、娘に手紙を書く様な感じで日記を書こうとして書き始めました。
書いた時の夜に夢に娘が現れて、書けば娘に夢で会えるような気がした。
娘の遺品を整理しようと、アルバムを広げようとするとくっついてしまって広げられない。
二十歳のメッセージカードが見つかり、中を開けたら私への感謝の言葉だった。
辛い時、悲しい時、苦しい時、心に浮かぶのは「お母さん、私を生んでくれて有難う」という言葉でした。 そこでまた救われました。
2年目を迎えると、正月が明けて段々落ちついて、2月を迎えると体が反応してくる。
2年目で3回忌を迎えるが、それをすることが嫌だった。
薬師寺から写経を書く事をお坊さんが来てやっていて、3回書きましたが納める事になり、私もおもいきっていきました。
娘のために法要しなくてはいけないと思って、3回忌の法要をしました。
結婚式に集まる様な人達でした。
大震災の年の9月に結婚式をする予定だった。
皆さんから娘の思い出を語ってもらって、娘と一緒に2時間ぐらいを過ごしました。
2年半ぐらいで娘の存在は何かなと思い始めて、又苦しくなった。
その時に野良猫がやって来て、すごく人なつこくって、私を見ると寄ってきて、飼う事になり、泣いていると涙をなめてくれたりして、猫に癒されています。
猫は一人でも頑張っているのに私は家もあるのだし、独りではないしと、自分に置き換えて頑張らなくてはいけないと奮い立たされた。
昨年7月に民宿を始める。
遠くから色々な人が来ます。
いろんなことを話して楽しめる。
私たちなりに伝える事、又お客さんの悩みなどを話して、私たちは元気を貰っている様な気持です。
腫れ物を触る様な接し方であったり、逆に踏み込んでくるような事もあり、最初はへこんでいるが繰り返したりするうちに普通に喋れるようになってきたと言う感じです。
泣きたいときには泣かないといけないが、泣けない様な、身体が受け付けないようになってしまう時もある。
時間が解決してくれるという事が有るが、それは無いだろうと思っていた。
やっぱり時間が少しは気持ちの変化が出てくる。
1年目、2年目は本当に大変でしたが、そこから何かを感じとって行くと、誰かが手助けをしてくれることもあるし、或る方から(子供を事故で無くした方)電話が来たりしました。
自分が経験したことをこうして見たらと言ったりする。
最初の震災から思ったら、一日3回食事ができるだけでも幸せだと思います。
それが積み重なっていくのかなあと思います。
未希さんになんてしゃべりたいですか?
娘を思って本を出しましたが、「本当に家族になってくれてありがとう、お母さんのもとに生まれてきてくれて本当ありがとう、そしてまた家族になりましょう。」