2015年3月4日水曜日

古居みずえ(映画監督)      ・ふるさとを失った女性たちを撮る

古居みずえ(映画監督)        ・ふるさとを失った女性たちを撮る
東日本大震災から間もなく4年、原発事故後の2011年5月に古居さんは福島県の飯館村に入りました。
ちょうどその日酪農家の女性たちが牛を処分するために、涙ながら見おくっていたそうです。
それを見てパレスチナの人々が65年前に故郷を追われ、いつかは帰れると家のカギを握りしめて着の身、着のままで難民になっている姿を見る思いがしたそうです。
いまだに村に帰ることができない飯館村の女性たちを取り続けて4年になる古居さんに伺います。

今現在は除染が進んでいて黒い袋があちらこちら村中にいたるところに見えるという感じです。
去年の夏ぐらいから本格的に除染が始まる。
村の人口が6000人だが、7000人の作業員が来てやっている。
昨年12月からは作業が止まっているので、静かな雪景色といったところです。
30km離れているがいちばん放射線量が高かった。
ジャーナリストとして被災地に行こうと思って3月4月は岩手、宮城を回っていた。
何をどうとらえていいかわからなかった。
4月の終りに、飯館村で全村避難のニュースが入ってきた。
以前、パレスチナ難民の人達のレポートをしていた。(25年間)
飯館村の人たちの姿と重なった。

65年前、イスラエルの建国によって故郷を追われておよそ70万人の人が難民になった。
そのことをずーっと追いかけてきていた。
家も家族も土地も捨ててゆく、飯館村の人々と重なった。
最初に行った時は、酪農家のおかあさんたちがずっと飼ってきた牛を、売りに出したり殺さなければいけないという日だった。
11家族いらっしゃった。 牛を順々に出していかれた。
家族と同様に飼っていた牛をトラックに積み込むが斜めの板のところで止まってしまっていて、牛が動かないで、座りこむ牛もいたが、どこへゆくか判っていたようだ。
飼い主は牛も涙を流すんですよと言っていた。
この様な状況を見続けようと思った。

仮設住宅はとても狭くて、声とか、音が筒抜けになりストレスのある生活が続いてきた。
仮設住宅はお年寄りが多くて、本来2年が期限だったが帰れなくて、ショックを受けた様です。
牛の世話はお母さんが長く接して来られて、「飯館村のかあちゃん達」という仮の題名を立てて50~60代のお母さんたちの酪農家の方数人と飯館村の文化、食文化を記録に残そうと、映画にしたいと思った。
飯館村は7割が山になっているので山の食材が豊富にある。
手の届くところにあるものが全て食べられなくなってしまった。
難民生活65年になるが、パレスチナの難民は故郷に帰りたいと希望は捨ててはいない様です。

人が住んでいない家は家が壊れてゆくし、人が住んでいない家は空気が冷たいという、家が死んでゆくという風に表現されている。
猿、猪、狸、鼠等が繁殖して、帰って掃除なども出来なく大変なので段々足が遠のいで行くという事が起こっています。
パレスチナのお母さんたちが望郷の歌を歌うが、故郷を思う気持ちは同じだと思う。
帰ることを諦めている人もいて、1/3が帰りたい、1/3は帰らない、残りの1/3は迷っているというな状況です。

故郷とは一番自分はほっと出来るところだと思います。
30代後半にリュウマチになって関節が痛くなって、動けなくなって、首が回らない様な経験をして、絶望して、いままで自分が動けなくなった時に、何にもやりたい事や、自分をかけてやったことが無かったと思った。
それまで流されて生きてきたが、病気になって切羽詰まって、病院で薬を飲んで過ごすうちに元気になって、治った時に何かやらなければいけないと思った。
カメラで撮ることにしたが、ある日「パレスチナの子供達」と言う写真展に出会って、そこで生きている子供達の顔が負けてはいなかった、そういう写真を撮りたいと思った。
現地に一人で行って、日本とメンタリティーが似ていて、義理人情が強くて、家族の想いも厚いし、しみじみと感じた。
戦争によって壊されていっている。 
高望みは無く、家族が無事で普通の生活がしたいと言っている。
飯館村も同じ、お金が欲しいとかではない、元の生活がほしい、それだけだと言っている。

パレスチナの映画を作った時にイメージはすでに悪かったが、普通の人を知っていただきたいために普通の女の人の生活を撮って映画にした。
イスラムは残虐だと思われたら、いままで何のためにやって来たのかと、本当に辛いです。
イスラム教徒の人は優しい良い人で、断食はお腹をすいた人達、貧しい人たちの気持ちを判るためにするんだというイスラムのいいところがもっと広がってほしい。
飯館村での厳しい中でも、生きている姿を見て頂けたらなあと思います。