2014年1月16日木曜日

石倉泰三(パン店経営)      ・寅さんに助けられた神戸のベーカリー

石倉泰三(パン店経営)  寅さんに助けられた神戸のベーカリー
石倉さん61歳は脱サラして、平成 6年に神戸市長田区の山きち市場にパン屋さんを開きました。 (妻、悦子さん)
夜店は知的障害を持つ仲間5人が働く共同ベーカリーで、いつも仲間の笑顔と笑声があふれる店でした。
ところが開店9カ月で阪神淡路大震災に見舞われ、ベーカリーは大きな被害を受けました。
平成8年に公開された「男はつらいよ」シリーズの最終作「寅次郎紅の花」は寅次郎が被災地で支援のボランティア活動をする話です。
その映画に石倉夫妻は勇気付けられました。
石倉さんはこの春でベーカリーを始めて20年になります。
道程は決して平坦ではなくその度に寅さんに助けられてきました。
障害者が働く共同作業所を続けて来られた、石倉さんの20年の歩みを2回に渡り伺います。

寅さんに力を借りてパン屋を再開させた経緯を伺います。
震災から始まるが、大震災に遭遇して、作業所が被害を受けたが、何とか立ち上げる状況にはなったが、男はつらいよは大好きで、もし寅さんがきたらどういう風に接してくれるだろうかとワイワイ盛り上がっていた。
不安をすこしでも取り除きたいと寅さんの事を言っていた。
神戸でロケがあるので、妻が手紙を書きたいと思って、このようなことをする妻ではないのだが、手紙を出した、それからが御縁のはじまりです。
何故か今から思えば判らないが、来てほしいなあと言う想いがあって、書きたいという気持ちになった。
明るくなるんじゃないかなあとの想いはあったが、来てくださいというような言葉は書いてなかった。

一週間経たないうちに葉書が来た。 
どこの山田さんだろうと思ったが、返事がっきたので本当に吃驚した。
内容は「さぞかし大変な思いをされたでしょう。 パン屋さんの事は覚えておきます」ほとんどそれだけだったんです。
その葉書がいまも宝物になっています。
ロケは10月25日から始まる。 
前日に知り合いになった新聞社の方が監督とお会いして、くららベーカリーがモデルになるとの事を聞いて、そこで初めて知って吃驚した。
なんかの間違いではないかと思って、行ったら、セットがあって白い看板(石倉ベーカリーの看板)を観たら、吃驚したというか愚じゃ愚じゃになった気持ちだった。
エキストラの募集の声があり、すかさず手を挙げました。
ロケが済んだ後に看板を処分するという事なので、それをもらいうけることにした。
この看板の前に立つと、元気を貰うというか、こういう事があったんだから頑張れる、という事が沢山あった。

40歳からパン屋を始めるが、それまではサラリーマンだった。
私は(妻)障害のある人と一緒に仕事をしたいと思っていたので、(妹は知的障害あがあって)
むしろ私の方がしてみたいと思っていたので、嬉しかった。
長女も障害をもって生まれてきて、養護学校まではいいが、学校の先が行き場がないという想いがあり、それならば作ればいいと思った。
障害を持つ兄弟姉妹の会にかかわっていたので、利用者の中から行くところがないという声を聞いたので、集まれば何かできるのではないかと思って、その思いを温めていた。
くららを作ることになって行った。
神戸はパンのメッカであるが、非常に厳しい。
会社務めが終わってから、車にパンを積んで、納品をしながら家に帰っていた事を7~8年やっていた。
パンだったら食べるものだろうから、途切れは無いだろうと、パンにたどりついた。
そこの事業所と協力しながら、やっていけるだろうと思ったので、決めた。
くららベーカリーの名前の由来 くらら 倉ちゃんと言われていたので 「ら」は我らのら、皆のら
「くらら」 とした 最後のらは大きな文字にした。
5人 全員男性 一人は夜間高校に行っていた。 昼間はずーっと家の中にいたのでメンバーにしたかった。
福祉事務所の紹介とか、養護学校の卒業生が来ることになる。(18,19、30代)
やまきち市場 活動している仲間の人が店をそこに構えていて、その人は娘さんが2人障害を持っていて、空き店舗があって、ここでやらないかとの声がかかってそこでやることになる。

障害を持つ子の店を開く事に対しての市場の反応は、遠い感じで見ていた。
障害を持った子が作ったパンなどは食べられないとの声は出だしはあった。
地場産業のパートさんとかが買い物に来て増えてきた。
1個 100円 どの種類でも同じにして、計算がしやすいようにした。 最初は10種類ぐらい。
最初は一日 120~150個ぐらい作っていた。
9か月が過ぎて平成7年 阪神淡路大震災が起こった。
やまきち市場のちかくは火災が発生、水が出なくて、豆腐、こんにゃくを投げたりして火を止めようとしていた。
燃える寸前に風向きがかわって、寸前で市場は残った。
店自体は全壊に近い状態だった。 市場は44店舗あったが、木造の古い建物で、木造は全部全壊だったし、鉄骨も全、半壊の状態だった。

電車が動いていない中、友人がリュック背負って歩いてきた。 
「石倉さん まずパンを焼こうな」と 言ってくれた。 この言葉が凄く励みになった。
焼く様になったが、お客さんがいなかった。 自分たちは何ができるだろうと思っていたら、炊き出しをやっていたので、パンしかないので、仲間にも声をかけて炊き出しをやった。
焼きたてのパンをテーブルに並べて、道行く人に声をかけて食べてもらった。
年配の人が泣きながら食べてくれて、「美味しい、有難う」と言ってくれて、人の役に立てたという想いがあった。
障害をもった当事者が被災者を支援したことができたという事が自信につながって、そういう事をこれからしていかなければいけないと思い始めた。
市場で17市として、被災された人々を支援してゆく、仲間と助け合いながら再建してゆくというのがいいのではないかと思ってきて、バザー的な皆が寄って、はじめていった。
11月17日にもっと声をかけて、17市の拡大版をやった。 15から16団体が集まった。
(今は40~60団体)
再建の足がかりを作った。 

後半になったら市場全体が17市の時には、市場全体が入ってやってくれた。
炊き出しをした時に市場の人にも声をかけて、炊き出しの資金とか、材料の購入は市場の中の店から買って調達して、それから段々と仲間として見てくれるようになって、17市の時には安否確認したり、バザーで喜んで買っていってもらって、温かい感じの市場、受け入れてもらえたんだなあと思った。
「寅次郎紅の花」 寅さんの存在が我々には凄い大きい。 
寅さんの映画にかかわらしてもらったのが凄い励みになった。
かかわり合いを大事にして行かなければいけないなあと思った。
山田監督とも1年に一度、2年に一度 いまだにつながりがある。