2014年1月10日金曜日

石沢久夫(画家)         ・地域に根差して画業60年

石沢久夫(画家)     地域に根差して画業60年
1932年群馬県高崎市生まれ 1946年県立高崎工業高校で建築科に入り、建築を学びました。
在学中から絵画の魅力にひかれ、画家を志すようになって、高校卒業後も5年間会社に務めながらがら絵の勉強を続け、美術展に出展しました。
1957年、地元経済人で美術にも詳しい井上房一郎の紹介で、世界的な建築家、アントニン・レーモンドを知って 翌年からレーモンドが設計する建築の壁画などの製作に携わりました。
1961年製作の群馬音楽センターのフレスコ壁画は石沢さんの仕事の中でも最も代表的なものです。
其他JR高崎駅の階段ホールの壁画や、高崎市内の長松寺の襖絵の製作 、群馬の美術1941~2009展への出品など地域に根差した美術活動を続けてきました。
今年2月8日~3月23日まで、高崎市美術館での石沢さんのこれまでの活動の集大成ともいえる「自然へのかたらい石沢久夫の仕事展」が開かれます。

1999年開館 幽玄派美術館  以前は演芸場の場所だった処。 田舎風の物に仕上げた。
約300点はある。  百人一首がテーマになっている作品が100点あり、並んでいる。
日本人100人の心象和歌展に大体出した。
「自然への語らい石沢久夫の仕事展」 私の絵が具象でもなく、抽象でもない。
108回展の時に、元情報新聞の社長さんをやっていたかが、気にいってくれて、高崎市の市長にプッシュして決まってきて進んでいる。
どこにもない絵を作りなさいと言われて、自分の気持ちが勝手に出てくる絵は一般の方には難しいが、最近はぼつぼつ共鳴される方が多くなってきた。
15歳ぐらいからの作品数点、を含めて アントニン・レーモンドの関係資料、等も展示される。
終戦直後、焼け野原で建築を勉強。  山口薫画伯が疎開で来ていた。
学校に非常勤講師でこられた。
中村節也さんなども来られた。 絵の時間が週に6時間有った。
「風をかきなさいとか、匂いをかきなさい」とか、感じたままを書いても絵になるからと、楽しさを覚えて深く書く様になった。

クラスの展覧会をやって、鑑賞に井上さんがこられて、選抜で10数名井上邸に呼ばれた。
次の週は数名、最後には私だけが残った。
サラリーマン生活をしながら、モダンアート協会 出品 10数年出していた。  
昼夜勤があるので、絵を書く時間ができた。
アントニン・レーモンドとの出会い  井上さんのところに毎週行って絵の指導を受けていた。
井上さんは群馬交響楽団の理事もやっていて、音楽堂をつくろうという事になって、レ-モンドさんにお願いに行った。
その流れで、私が事務所に行くことになる。   私の絵を数点持って行った。
気にいってもらって、即決だった。     フレスコ壁画を担当する事になる。
事務所は60名程度の人数   最初はイラン大使館の壁画を任される。
日本画でやる事になる。 (洋画を勉強していたが、本を読んで何とかできるだろうと思った) 
これはテストの様だった。 (25歳から行った。 レーモンドさんは当時70歳ぐらいだった。)

音楽堂、私が日本の楽器をスケッチして、レーモンドのアレンジと一緒に原画を作った。
レーモンドのデザインと言われるが、そういう感じで進んでいった。
JR新幹線高崎駅の階段ホールの壁画、長松寺の襖絵、高崎市新庁舎の壁画など。
福沢一郎 絵描きさんが西口、東口に作ることはきまっていたが、地元の人も参加した方がいいという事で、「昼の群像」と言うテーマで描いた。
高崎市新庁舎の壁画、市制100周年として「我ら高崎市民」というテーマで、101名の人物像を描く。
100名は100周年を意味して、1名は未来の人をイメージ
長松寺襖絵、色が無い方が見る方が自分で色を作ってみてくれる。
一番小さな筆で持って、細かく書き込んでゆく。
絵は塗るものではなくて、描く事だと思うので、見る方に深みのある空間が感じ取れると思う。
完成までに11年掛かった。

公共のいろんなところに大きなものを展示してあげれば、自然のうちに目に入ってくると思う。
そうすると毎日の生活に必ずプラスになってゆくと思う。
高崎は生れたところなので愛着はある。
物を写す、描写だけではなかなか出ないので、絵画は作るものだから、自分で感じているままを表現していけば、自然の営み、それが伝達できるんだと思います。
自然から来る教えを、大きく表現してゆく様な作品を作っていきたい。
イサム・ノグチさんが言われたが、「20年経って正しくないものは芸術ではない。」
良いところを学んで手の動く限り、描き続けていきたいと思う。