大平長子(着ぐるみプロダクション代表) 着ぐるみがくれた俳優人生
台風情報の為、中止です。
2014年10月14日火曜日
2014年10月13日月曜日
材木正巳(ネジメーカー社長) ・世界一のネジを目指して
材木正巳(ネジメーカー社長) 世界一のネジを目指して
去年、社員1300人余りのネジ会社の社長に就任した材木さん、携帯電話、カメラ、パソコン等に使われている直径0.6mmのネジ作りに携わり、完成させた喜びは今でも忘れないとおっしゃいます。
ネジから学んだ多くのものが会社経営、生き方にも参考になったと言う材木さんに伺います。
ジャンボジェット機に300万本近いネジが使われている。(小さいものから大きなものまで含めて)
うちの会社のネジは内装に小さいネジとして使われている。
0.6mmのネジは圧転造と言ってワイヤーから作るが、材料は0.4mmしかない。
線材から頭を叩いて、頭部を作る、ネジ部を転造から作る。
頭には十字がついている。 時計等に使う。
ドイツ、スイスとかが主流で切削でネジを作っていた。
転造でネジを作ったのは当社が世界で初めて。
大量に作るには切削では限界がある。
切削では頭の大きさと同じ径ものを使うので、削りかすが出るが、我々の成形は削りかすが出ないので、無駄が無い、安定した品質のものが出来る。
私が入った時にネジを担当した。
金型、作る機械も全部社内でやっていたので出来た。
頭部の十字のところは0.6mmならば厚みは0.03mmぐらいしかない。
金型と金型の精度が出来ていなかったら頭部が破壊したりする。
当時は1.2mmしか作っていなかったが、0.6mmを作れるようになった。
身の回りのほとんどにネジが使われている。
基本的にはオーダーメイドで作るのがほとんどです。
ネジの価格は銭の単位ではなく厘の単位まである。 薄利多売と言う事になる。
グループで年間 300億本ぐらい作っています。
ほとんどのものにネジが無いと成りたたない。
無くてはならないのですが、縁の下の力持ち的な製品と言うのがこのネジと言うものであると思っています。
昭和46年に入社しました。
ネジの開発をして、月に100件ぐらいを新規分野のマーケットに出す。(奥の深いもの)
ネジは6つの構成で成っている
①廻す駆動部 ②頭部の形状 ③頭部の裏の座面の形状 ④ネジ部の首下の形状 ⑤ネジ部
⑥ネジ部先端の形状
一つ一つに10種類以上あるので、組み換えで100万通りのネジができる。
全部当社内でやる事によって、お客さんの信頼を得ている。
当社の責任は大きい、責任は大きいからお客さんの信頼も得られる。
当社では現在7万種類ぐらいを作っている。
ネジ締め機、ドライバーも当社でやっている。
市場で家庭工作でのネジとの違いは?
ネジの後ろにある技術で保障された保障力が違う。
この製品はと言われたら、どの工程で、どの材料を使って、どの機械を使って誰がいつ出荷したか、すべてトレーサビリティーが取れる。
市場でのネジはそういったものが取れていない。
材料、熱処理、メッキも世の中の信頼できるだけの要素で造りこんだものなので、お客さんがお使いになる時に事故、トラブルはまず皆無です。
当社の製品はセルフタップネジと言って、ネジの締結は、昔ですとタップを切ってそこに小ネジを入れるやり方でしたが、今はコストを踏まえて、下穴があいているところに、メネジを整形しながらやるので、これが主流になっている。
今の製品の主流は丸ではなく、三角のおにぎり型になっている。
大量生産をするには三角のネジを使わないといけない。
塑性変形してメネジを成形するので、薄くてもしっかりした締めつけができるので効果がある。
丸い穴に丸いネジを使ったら切り粉がでる、三角ですと、三角の頂点がずれることで、押したり引いたりしながら、相手材を変形するので、チップレス、切り粉がでない、そういう事によって相手が強くなる、切り粉が出ない、薄くても閉まるネジになり、三角の頂点のほうがトルクが低いので自動機むけに良いネジになる。
パテントはスイスが開発して、日本に導入した。
TV、冷蔵庫、洗濯機が伸び盛りのころにこういうネジが要求された。
当時スイスでは三角のネジは三角の材料から生産されていた。(非常に難しい製法だった)
当社で間違えて丸い材料を入れてしまって、結果巧く三角のネジが出来た、それが大量生産するきっかけになった。
ネジは締めて緩めることができる。
小さいネジは締めつけが難しいので、締めつけ機も当社で作るので、お客さんが採用できる。
時計、デジカメなどもそうです。
当社では本を出した「人生のネジを巻く77の教え」 或る出版社から言われたが、40年に渡って従業員の教育用の資料を纏めただけのもの。
多くの方からおほめの言葉を頂いた。
縁の下的な役割で会社にいますが、この本で立派にあなたがいなかったらこれは成り立たない、そういう重要な役割をしているのですと、この本に書いてあるので、表に出ている人は一部の人、一般の人は目立たない存在だが頑張っている、あなたの役割りは立派な事ですよと、この本は書いてあるので、多くの読んだ方から非常によかったと言う手紙を頂いた。
一人一人が大事な存在ですよ、と言う風に書いてあるわけです。
人と人とのつながりができるが、相手と自分とのスタンスを考えて対応すると言う事で一つのものが出来上がるので、相手の立場を考えて行動すると言う事は、押したり引いたりする事と、ネジを締めたりゆるめたりすると言うものもそうですし、たまには息抜きで緩めないと持たない時もあるし、それを、人生をネジにたとえて、話を書いているわけです。
その場に適したネジを作るということは、いいところは皆持っているので、いいところを褒め合っていい結果を出す方がいいと思うので、材料によって締める力が違うのでそれなりに調整しないといけない、適材適所を考える。
野球で、同じチームに9人いたとしたら、どう配置したら勝つか勝たないか、建前でやったらいけない。
(若い監督が私を4番にして、戦ってぼろ負けした事を会社の月刊誌で紹介した。)
適材適所で、部下をしっかり知って最適な配置をすることが大事。
京都の綾部市 ここで戦前からネジを作っていた。
蚕(かいこ)で女性が多く働くところだったが、男性の働く場を作るということで、雇用して地域の発展をするというのが当社の創業精神です。(創業は昭和13年)
海外展開もしているが、日本人は理詰めでしっかりものを考えるが、海外ではアバウトですね。
日本は性能、外観とか規格にあっているかとか、真面目だが、欧米では多少規格は外れても性能が良ければよいと言う様な考え方。
去年、社員1300人余りのネジ会社の社長に就任した材木さん、携帯電話、カメラ、パソコン等に使われている直径0.6mmのネジ作りに携わり、完成させた喜びは今でも忘れないとおっしゃいます。
ネジから学んだ多くのものが会社経営、生き方にも参考になったと言う材木さんに伺います。
ジャンボジェット機に300万本近いネジが使われている。(小さいものから大きなものまで含めて)
うちの会社のネジは内装に小さいネジとして使われている。
0.6mmのネジは圧転造と言ってワイヤーから作るが、材料は0.4mmしかない。
線材から頭を叩いて、頭部を作る、ネジ部を転造から作る。
頭には十字がついている。 時計等に使う。
ドイツ、スイスとかが主流で切削でネジを作っていた。
転造でネジを作ったのは当社が世界で初めて。
大量に作るには切削では限界がある。
切削では頭の大きさと同じ径ものを使うので、削りかすが出るが、我々の成形は削りかすが出ないので、無駄が無い、安定した品質のものが出来る。
私が入った時にネジを担当した。
金型、作る機械も全部社内でやっていたので出来た。
頭部の十字のところは0.6mmならば厚みは0.03mmぐらいしかない。
金型と金型の精度が出来ていなかったら頭部が破壊したりする。
当時は1.2mmしか作っていなかったが、0.6mmを作れるようになった。
身の回りのほとんどにネジが使われている。
基本的にはオーダーメイドで作るのがほとんどです。
ネジの価格は銭の単位ではなく厘の単位まである。 薄利多売と言う事になる。
グループで年間 300億本ぐらい作っています。
ほとんどのものにネジが無いと成りたたない。
無くてはならないのですが、縁の下の力持ち的な製品と言うのがこのネジと言うものであると思っています。
昭和46年に入社しました。
ネジの開発をして、月に100件ぐらいを新規分野のマーケットに出す。(奥の深いもの)
ネジは6つの構成で成っている
①廻す駆動部 ②頭部の形状 ③頭部の裏の座面の形状 ④ネジ部の首下の形状 ⑤ネジ部
⑥ネジ部先端の形状
一つ一つに10種類以上あるので、組み換えで100万通りのネジができる。
全部当社内でやる事によって、お客さんの信頼を得ている。
当社の責任は大きい、責任は大きいからお客さんの信頼も得られる。
当社では現在7万種類ぐらいを作っている。
ネジ締め機、ドライバーも当社でやっている。
市場で家庭工作でのネジとの違いは?
ネジの後ろにある技術で保障された保障力が違う。
この製品はと言われたら、どの工程で、どの材料を使って、どの機械を使って誰がいつ出荷したか、すべてトレーサビリティーが取れる。
市場でのネジはそういったものが取れていない。
材料、熱処理、メッキも世の中の信頼できるだけの要素で造りこんだものなので、お客さんがお使いになる時に事故、トラブルはまず皆無です。
当社の製品はセルフタップネジと言って、ネジの締結は、昔ですとタップを切ってそこに小ネジを入れるやり方でしたが、今はコストを踏まえて、下穴があいているところに、メネジを整形しながらやるので、これが主流になっている。
今の製品の主流は丸ではなく、三角のおにぎり型になっている。
大量生産をするには三角のネジを使わないといけない。
塑性変形してメネジを成形するので、薄くてもしっかりした締めつけができるので効果がある。
丸い穴に丸いネジを使ったら切り粉がでる、三角ですと、三角の頂点がずれることで、押したり引いたりしながら、相手材を変形するので、チップレス、切り粉がでない、そういう事によって相手が強くなる、切り粉が出ない、薄くても閉まるネジになり、三角の頂点のほうがトルクが低いので自動機むけに良いネジになる。
パテントはスイスが開発して、日本に導入した。
TV、冷蔵庫、洗濯機が伸び盛りのころにこういうネジが要求された。
当時スイスでは三角のネジは三角の材料から生産されていた。(非常に難しい製法だった)
当社で間違えて丸い材料を入れてしまって、結果巧く三角のネジが出来た、それが大量生産するきっかけになった。
ネジは締めて緩めることができる。
小さいネジは締めつけが難しいので、締めつけ機も当社で作るので、お客さんが採用できる。
時計、デジカメなどもそうです。
当社では本を出した「人生のネジを巻く77の教え」 或る出版社から言われたが、40年に渡って従業員の教育用の資料を纏めただけのもの。
多くの方からおほめの言葉を頂いた。
縁の下的な役割で会社にいますが、この本で立派にあなたがいなかったらこれは成り立たない、そういう重要な役割をしているのですと、この本に書いてあるので、表に出ている人は一部の人、一般の人は目立たない存在だが頑張っている、あなたの役割りは立派な事ですよと、この本は書いてあるので、多くの読んだ方から非常によかったと言う手紙を頂いた。
一人一人が大事な存在ですよ、と言う風に書いてあるわけです。
人と人とのつながりができるが、相手と自分とのスタンスを考えて対応すると言う事で一つのものが出来上がるので、相手の立場を考えて行動すると言う事は、押したり引いたりする事と、ネジを締めたりゆるめたりすると言うものもそうですし、たまには息抜きで緩めないと持たない時もあるし、それを、人生をネジにたとえて、話を書いているわけです。
その場に適したネジを作るということは、いいところは皆持っているので、いいところを褒め合っていい結果を出す方がいいと思うので、材料によって締める力が違うのでそれなりに調整しないといけない、適材適所を考える。
野球で、同じチームに9人いたとしたら、どう配置したら勝つか勝たないか、建前でやったらいけない。
(若い監督が私を4番にして、戦ってぼろ負けした事を会社の月刊誌で紹介した。)
適材適所で、部下をしっかり知って最適な配置をすることが大事。
京都の綾部市 ここで戦前からネジを作っていた。
蚕(かいこ)で女性が多く働くところだったが、男性の働く場を作るということで、雇用して地域の発展をするというのが当社の創業精神です。(創業は昭和13年)
海外展開もしているが、日本人は理詰めでしっかりものを考えるが、海外ではアバウトですね。
日本は性能、外観とか規格にあっているかとか、真面目だが、欧米では多少規格は外れても性能が良ければよいと言う様な考え方。
2014年10月12日日曜日
杉岡幸徳(作家) ・読書会が私を変えた
杉岡幸徳(作家) 読書会が私を変えた
東京外語大学ドイツ語学科の修士課程を修了した後、世界を放浪する旅に出ました。
その後全国各地の独特の習俗を持った祭り、奇祭に焦点をあてた本を出版するなどノンフィクションを中心に、執筆活動を続けてきました。
その杉岡さんが主催しているのが、東京読者会です。
この読書会、月に一回東京都内で行われているもので、参加者は事前に作品を読み込み、それぞれの感性で議論を繰り広げています。
杉岡さんは読書会で取り上げた本や、読書会のメンバーとのやり取りに啓発され、今本格的な小説を初めて執筆しています。
杉岡さんが3年間の読書会で掴んだものは何か、作家としてそれをどのように展開しようとしているのか伺いました。
文章に対する目が肥えました。 自分に対して、他人に対しての文章の在り方に、ついてちょっと厳しくなった。
大学ではドイツ語文学を専攻しました。
オーストリアの20世紀初めの詩人 ゲオルク・トラークル 27歳で亡くなった詩人が好きで、是非ドイツ語で読んでみたいと思ったので、ドイツ語を選んだ。
修士課程、ほとんどゼミで、中には話の脱線する教授がいて面白くて、それが読書会の原点になっているのかなと思っています。
ゲオルク・トラークルに関する修士論文を書く。 オペラみたいな作り方で自信作だった。
博士課程に提出したら、これは論文とは言えないと落とされてしまった。
博士課程に行く予定だったが、呆然としてしまって、アルバイト、海外旅行に行ったりした。
その後にものを書こうかと思った。
売り込みは苦手なので、ホームページを作って宣伝したので、売り込みの手間は省けたと思う。
レストランの紹介などの記事をやっていたが、クリエーティブではないので、面白くなかった。
直ぐに撤退した。
あるところから祭りの連載をやってくれないかとの話があり、私の文章は主観的な文章なので、勝手に書いた。
大学時代ロシアに旅行した。
新潟(飛行機)→ハバロフスク(シベリア鉄道 1週間)→モスクワ
一日動いても風景は変わらず単調で、一日一時間の時差があるので、5日目に感覚がおかしくなって、このまま永久に列車から逃れられないのではと思い始めた。
一週間目に到達したときには涙が出てきた。
赤の広場(美しい広場と言う意味) 足元からエネルギーがはいあがってくる様な感覚があった。
それまでは堅苦しい、真面目な生徒だったが、ロシアに行った後、9月には学校に行く格好が従来スーツにネクタイだったが、汚いジーンズ、汚いTシャツ、サンダルで学校に行き始めた、自分の中で何かが消えたんでしょうね。
ライナー・マリア・リルケ、詩人 彼は若いころは凡様な普通の詩を書いていたが、ロシアに行って精神的な変動を覚えて、帰ってからは革新的な詩を書く様になったと言われ、同様な経験をしたのかなと思っている。
格式、形式とかは、気にするのは止めました。(ロシアの大地によって解き放たれた。)
祭り 奇祭と言うがそんなに面白くなかった。
私は面白かった部分だけを自分なりの考えで、主観的に加工して作品として提示する。
宮古島のパーントゥ(現地語で怪物) 全身を泥で塗りたくって不気味な仮面をかぶったパーントゥが三匹出てくる。
それが住民を追いかけまわして泥を塗る。 それは面白かった。
客観的に書いたのではまったく面白くないので、私なりに考えてデフォルメして書いた。
如何に現実を傷つけずに、致命傷を負わせずに、こっちの主観で作品を作り上げるか、その狭間で苦しんで書いている。
2011年6月に読書会を始めた。
もう一度昔読んだ文学作品をもう一度読みたくて、一人ではなく読んだ人達と意見交換をしたかった。
ブログを作って古典的な名作をテーマとして決めて、読んできて、何月何日に喫茶店に集まってくださいと参加者を募って、当日その本について話し合う。
最初4~5名で10名ぐらいで安定していたが、1年前から20人にしています。
年齢は13歳~60歳ぐらいです。 男女比は半々ぐらい、サラリーマン、OL、主婦などです。
月1回で38冊ぐらいになる。 フランツ・カフカの「変身」
何を意味しているのか判らないし、皆さん悩んでいました。
いろんな感性の持ち主がいる。
阿部公房の「砂の女」
半分ぐらいはこの男の様に逃げないという意見の人がいた。(女性の方が多かった)
我々の実生活を誇長して表現しているだけだと思う。
私が司会をしますが意見は否定はしない。
いろんな意見が混在したまま進んでゆく、終わってゆく方が面白いと思う。
2時間で行う。
地位が人格を作る。 リーダーとして話を纏める、盛り上げる方向に変わってきた。
文章に対する目が肥えてきた、より美しい文章に目を開くようになってきた。
小説を書こうと思っている。
突然或る構想が浮かんで、絶対に形にしないといけないと言う衝動に襲われまして、現在書いているが8割近くになる。
文学賞に応募して新しい道を開こうと思っている。
人物に名前もないし、場所もわからない、と言うシュールな作品です。
私はオスカー・ワイルドが好きで「芸術は芸術のための芸術、芸術は何も言わなくていい、美しければいい。」といっている。
テーマは無い方がいい、あったとしても著者は言わないほうがいいと言うのが私の考え方です。
展覧会、音楽会にいって、感想を話し合うと言う事もやっていきたいと思っている。
東京外語大学ドイツ語学科の修士課程を修了した後、世界を放浪する旅に出ました。
その後全国各地の独特の習俗を持った祭り、奇祭に焦点をあてた本を出版するなどノンフィクションを中心に、執筆活動を続けてきました。
その杉岡さんが主催しているのが、東京読者会です。
この読書会、月に一回東京都内で行われているもので、参加者は事前に作品を読み込み、それぞれの感性で議論を繰り広げています。
杉岡さんは読書会で取り上げた本や、読書会のメンバーとのやり取りに啓発され、今本格的な小説を初めて執筆しています。
杉岡さんが3年間の読書会で掴んだものは何か、作家としてそれをどのように展開しようとしているのか伺いました。
文章に対する目が肥えました。 自分に対して、他人に対しての文章の在り方に、ついてちょっと厳しくなった。
大学ではドイツ語文学を専攻しました。
オーストリアの20世紀初めの詩人 ゲオルク・トラークル 27歳で亡くなった詩人が好きで、是非ドイツ語で読んでみたいと思ったので、ドイツ語を選んだ。
修士課程、ほとんどゼミで、中には話の脱線する教授がいて面白くて、それが読書会の原点になっているのかなと思っています。
ゲオルク・トラークルに関する修士論文を書く。 オペラみたいな作り方で自信作だった。
博士課程に提出したら、これは論文とは言えないと落とされてしまった。
博士課程に行く予定だったが、呆然としてしまって、アルバイト、海外旅行に行ったりした。
その後にものを書こうかと思った。
売り込みは苦手なので、ホームページを作って宣伝したので、売り込みの手間は省けたと思う。
レストランの紹介などの記事をやっていたが、クリエーティブではないので、面白くなかった。
直ぐに撤退した。
あるところから祭りの連載をやってくれないかとの話があり、私の文章は主観的な文章なので、勝手に書いた。
大学時代ロシアに旅行した。
新潟(飛行機)→ハバロフスク(シベリア鉄道 1週間)→モスクワ
一日動いても風景は変わらず単調で、一日一時間の時差があるので、5日目に感覚がおかしくなって、このまま永久に列車から逃れられないのではと思い始めた。
一週間目に到達したときには涙が出てきた。
赤の広場(美しい広場と言う意味) 足元からエネルギーがはいあがってくる様な感覚があった。
それまでは堅苦しい、真面目な生徒だったが、ロシアに行った後、9月には学校に行く格好が従来スーツにネクタイだったが、汚いジーンズ、汚いTシャツ、サンダルで学校に行き始めた、自分の中で何かが消えたんでしょうね。
ライナー・マリア・リルケ、詩人 彼は若いころは凡様な普通の詩を書いていたが、ロシアに行って精神的な変動を覚えて、帰ってからは革新的な詩を書く様になったと言われ、同様な経験をしたのかなと思っている。
格式、形式とかは、気にするのは止めました。(ロシアの大地によって解き放たれた。)
祭り 奇祭と言うがそんなに面白くなかった。
私は面白かった部分だけを自分なりの考えで、主観的に加工して作品として提示する。
宮古島のパーントゥ(現地語で怪物) 全身を泥で塗りたくって不気味な仮面をかぶったパーントゥが三匹出てくる。
それが住民を追いかけまわして泥を塗る。 それは面白かった。
客観的に書いたのではまったく面白くないので、私なりに考えてデフォルメして書いた。
如何に現実を傷つけずに、致命傷を負わせずに、こっちの主観で作品を作り上げるか、その狭間で苦しんで書いている。
2011年6月に読書会を始めた。
もう一度昔読んだ文学作品をもう一度読みたくて、一人ではなく読んだ人達と意見交換をしたかった。
ブログを作って古典的な名作をテーマとして決めて、読んできて、何月何日に喫茶店に集まってくださいと参加者を募って、当日その本について話し合う。
最初4~5名で10名ぐらいで安定していたが、1年前から20人にしています。
年齢は13歳~60歳ぐらいです。 男女比は半々ぐらい、サラリーマン、OL、主婦などです。
月1回で38冊ぐらいになる。 フランツ・カフカの「変身」
何を意味しているのか判らないし、皆さん悩んでいました。
いろんな感性の持ち主がいる。
阿部公房の「砂の女」
半分ぐらいはこの男の様に逃げないという意見の人がいた。(女性の方が多かった)
我々の実生活を誇長して表現しているだけだと思う。
私が司会をしますが意見は否定はしない。
いろんな意見が混在したまま進んでゆく、終わってゆく方が面白いと思う。
2時間で行う。
地位が人格を作る。 リーダーとして話を纏める、盛り上げる方向に変わってきた。
文章に対する目が肥えてきた、より美しい文章に目を開くようになってきた。
小説を書こうと思っている。
突然或る構想が浮かんで、絶対に形にしないといけないと言う衝動に襲われまして、現在書いているが8割近くになる。
文学賞に応募して新しい道を開こうと思っている。
人物に名前もないし、場所もわからない、と言うシュールな作品です。
私はオスカー・ワイルドが好きで「芸術は芸術のための芸術、芸術は何も言わなくていい、美しければいい。」といっている。
テーマは無い方がいい、あったとしても著者は言わないほうがいいと言うのが私の考え方です。
展覧会、音楽会にいって、感想を話し合うと言う事もやっていきたいと思っている。
2014年10月11日土曜日
水谷和郎(記念病院医科長) ・震災20年を語り継ぐ、あの日を知ることが出発点
水谷和郎(神戸100年記念病院医科長) 震災20年を語り継ぐ あの日を知ることが出発点
水谷さんは震災当時、震源地に近い淡路島の洲本市に在る兵庫県立淡路病院に勤務する若手の内科医でした。
16万人が暮らす島の災害拠点病院、震災の日の朝その病院の当直勤務でした。
1995年1月17日午前5時46分、淡路島は直下型の激しい揺れに見舞われます。
しかし島の南に在った病院は水道や電気が止まることなく、救急医療の機能は保たれました。
島の北部の激震地から多くのけが人が殺到し、救急外来は大きな混乱に陥ります。
水谷さんはその時の体験を医療関係者に語る活動をしています。
たまたま病院関係者が震災当日の記録ビデオを元に学会やセミナーで講演し、医師や看護師、救急隊員、医学部、看護学部の学生などに、あの日の体験を追体験してもらおうと言う事です。
自分ならどう動くかを考えること、それが次の災害に備える力になる、そう訴える水谷さんに伺います。
あの朝、当直の医師は3人だった。
私は3年目の内科、外科の1年目の先生、整形の5年目の先生でした。
ゴーッと言う音があり、縦揺れが来て、それから横揺れが来た。
TVしか情報が無くて、大変だと思っていたら、全国の震度がでだしたころに、神戸と淡路の震度が出てこなくておかしいなと思いながら、消防所に電話したときに、生き埋めが何人かいるとか、救急要請が11件有ることが判る。
はじめ大変なことになるという思いはあまりなかった。
6時ごろ、手を怪我したと言うのが最初の患者だった。
ビデオを撮りだしたのは7時頃だった。(外科医長)
ひっきりなしに救急車が来るようになる。
処置をする場所が無い状況になる。(8時頃)
心臓マッサージを30分ぐらいした患者さんがいた。(蘇生が不可能だと言う判断があるが、あの時ジャッジができなかった。)
心臓マッサージの患者で通路が埋まっていた様な状況
次の人を助けなくてはいけないので、マッサージは止めなさいという指示が出た。
トリアージ 助けられる人を助ける。 トリアージについて救急医療をやっていた先生しか知らなかった。
何とかしてあげたいという思いはあるが、心臓マッサージをしながら病院に辿り着いた方は6名いたが、今の感覚では6名とも助かる状況にはなかった。
外科外来、整形外来、脳外科外来を救急外来ではなく、軽傷者として扱うとして、救急外来に対して楽になった。
それなりに対応できる体制になった。
2日目の朝、ゆっくり目に行ったら、昨日よりも混乱してしまっていた。
ガス配管が漏れたための事故で、救急外来が押し寄せてきた。
地震が夜中だったり、昼間だったりした場合にはもっと大変な状況になってしまったのではないかと思う。
震災から3年までは、結構話ができたり、TVの震災のことがあったりしても積極的にみることができたが、3年経った後はTVを見ていてボロボロ泣けてしまうし、阪神淡路の話になると、チャンネルを変えてしまって見れなくなってしまった。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとの思いがどっかにあっての後悔と、淡路にいて自分の生まれ育った神戸に対して何もできなかった、その後悔のためなのか、10年ぐらいまで話が出来なかった。
10年経って姫路も大変だったろうと思ったが、当時働いていたスタッフから揺れたけれど、大変ではなかったと聞いて、あーそんなもんだったかと言う思いと、私が淡路病院の話をしていたら、看護師がうちの病院は地震になっても誰もこうしないと言ったので、それはあかんと違うのと思い非常に危機感を感じた。
外科医長の撮ったビデオを頂いていたが、見るなんてことはそれまで有り得なかったが、淡路病院のあの映像を見てもらったら、ちょっとは阪神淡路大震災が、現場がいかに大変かが、判ってもらえるかなと思って、院内で見ることになったのが最初でした。
医療関係の学会や、勉強会などで淡路病院での体験を話す様になりました。
ビデオを交えて話しました。
災害時の映像、心臓マッサージをやっている時に先生がもうやめてくれと言った時に、命を諦めることはショッキングでした。等の感想を得た。
伝わってほしいのは災害の時には大混乱になりますよ、慣れている淡路病院でもそうなので、知識を持って訓練をして、どんな状況で有っても対応できるような、頭作りをしてくださいね、と言う事が伝わってほしい。
淡路病院が動けたのは被災地の端っこの病院で、一つでも欠けていたら多分あんな動きにはならなかったろうなと思います。
どんな被災になるかは分からない。 想像力を如何にたくましくさせるか、マニュアルをどう応用できるか、自分が何をすべきか、災害医療に必ず求められることだと思います。
もうちょっと何とかできたのではないかと、20年経っても変わらないですね。
水谷さんは震災当時、震源地に近い淡路島の洲本市に在る兵庫県立淡路病院に勤務する若手の内科医でした。
16万人が暮らす島の災害拠点病院、震災の日の朝その病院の当直勤務でした。
1995年1月17日午前5時46分、淡路島は直下型の激しい揺れに見舞われます。
しかし島の南に在った病院は水道や電気が止まることなく、救急医療の機能は保たれました。
島の北部の激震地から多くのけが人が殺到し、救急外来は大きな混乱に陥ります。
水谷さんはその時の体験を医療関係者に語る活動をしています。
たまたま病院関係者が震災当日の記録ビデオを元に学会やセミナーで講演し、医師や看護師、救急隊員、医学部、看護学部の学生などに、あの日の体験を追体験してもらおうと言う事です。
自分ならどう動くかを考えること、それが次の災害に備える力になる、そう訴える水谷さんに伺います。
あの朝、当直の医師は3人だった。
私は3年目の内科、外科の1年目の先生、整形の5年目の先生でした。
ゴーッと言う音があり、縦揺れが来て、それから横揺れが来た。
TVしか情報が無くて、大変だと思っていたら、全国の震度がでだしたころに、神戸と淡路の震度が出てこなくておかしいなと思いながら、消防所に電話したときに、生き埋めが何人かいるとか、救急要請が11件有ることが判る。
はじめ大変なことになるという思いはあまりなかった。
6時ごろ、手を怪我したと言うのが最初の患者だった。
ビデオを撮りだしたのは7時頃だった。(外科医長)
ひっきりなしに救急車が来るようになる。
処置をする場所が無い状況になる。(8時頃)
心臓マッサージを30分ぐらいした患者さんがいた。(蘇生が不可能だと言う判断があるが、あの時ジャッジができなかった。)
心臓マッサージの患者で通路が埋まっていた様な状況
次の人を助けなくてはいけないので、マッサージは止めなさいという指示が出た。
トリアージ 助けられる人を助ける。 トリアージについて救急医療をやっていた先生しか知らなかった。
何とかしてあげたいという思いはあるが、心臓マッサージをしながら病院に辿り着いた方は6名いたが、今の感覚では6名とも助かる状況にはなかった。
外科外来、整形外来、脳外科外来を救急外来ではなく、軽傷者として扱うとして、救急外来に対して楽になった。
それなりに対応できる体制になった。
2日目の朝、ゆっくり目に行ったら、昨日よりも混乱してしまっていた。
ガス配管が漏れたための事故で、救急外来が押し寄せてきた。
地震が夜中だったり、昼間だったりした場合にはもっと大変な状況になってしまったのではないかと思う。
震災から3年までは、結構話ができたり、TVの震災のことがあったりしても積極的にみることができたが、3年経った後はTVを見ていてボロボロ泣けてしまうし、阪神淡路の話になると、チャンネルを変えてしまって見れなくなってしまった。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとの思いがどっかにあっての後悔と、淡路にいて自分の生まれ育った神戸に対して何もできなかった、その後悔のためなのか、10年ぐらいまで話が出来なかった。
10年経って姫路も大変だったろうと思ったが、当時働いていたスタッフから揺れたけれど、大変ではなかったと聞いて、あーそんなもんだったかと言う思いと、私が淡路病院の話をしていたら、看護師がうちの病院は地震になっても誰もこうしないと言ったので、それはあかんと違うのと思い非常に危機感を感じた。
外科医長の撮ったビデオを頂いていたが、見るなんてことはそれまで有り得なかったが、淡路病院のあの映像を見てもらったら、ちょっとは阪神淡路大震災が、現場がいかに大変かが、判ってもらえるかなと思って、院内で見ることになったのが最初でした。
医療関係の学会や、勉強会などで淡路病院での体験を話す様になりました。
ビデオを交えて話しました。
災害時の映像、心臓マッサージをやっている時に先生がもうやめてくれと言った時に、命を諦めることはショッキングでした。等の感想を得た。
伝わってほしいのは災害の時には大混乱になりますよ、慣れている淡路病院でもそうなので、知識を持って訓練をして、どんな状況で有っても対応できるような、頭作りをしてくださいね、と言う事が伝わってほしい。
淡路病院が動けたのは被災地の端っこの病院で、一つでも欠けていたら多分あんな動きにはならなかったろうなと思います。
どんな被災になるかは分からない。 想像力を如何にたくましくさせるか、マニュアルをどう応用できるか、自分が何をすべきか、災害医療に必ず求められることだと思います。
もうちょっと何とかできたのではないかと、20年経っても変わらないですね。
2014年10月10日金曜日
奥田敦也(古典尺八奏者) ・禅の音を求め、手作りの尺八を吹く
奥田敦也(古典尺八奏者) 禅の音を求め、手作りの尺八を吹く
昭和20年 愛知県生まれ 69歳 国分寺市在住 若いころからジャズのトランペッターとしてプロの活動をしていましたが、思うところがあって、40歳の頃古典的な尺八の世界に身を転じました。
奥田さんの吹く尺八は「地なし延べ管」と呼ばれる、古い形式のもので、自らの手で山から竹を切りだし永い歳月をかけて、作り上げた古典的な尺八です。
法竹と呼ばれ、仏法の真理を追究する道具だったと言います。
今ここに30本以上ある。 短いものは30cmぐらい。(1尺1寸)
節が一つしかなくて一節切り(ひとよぎり)と言われているが、室町時代に吹かれた尺八。
長いと1m以上ある。(3尺5寸) 腕を一杯の伸ばさないと穴の位置まで届かない。
聞こえてくる音 遠音(とおね)と言われる。 手作り。
微調整は門人にはできないので、私がやっています。
今の尺八は中に砥の粉、石膏、漆などを塗って調制する「地あり中継管」と言って、調律がとれる。
真中から二つに切断されている。 調律しやすくなっている。
「地なし延べ管」は継ぎ目が無くて、一本の竹のままで内部に加工がしていない。
尺八は中国からきている。 聖徳太子の時代から尺八と言う言葉が有る。「地なし延べ管」だった。
虚鐸 江戸時代寛政年間に虚鐸伝記告示会があって虚無僧が作った名称が虚鐸という名称。
鈴の古い言葉を鐸と言う。
銅で作った鐸が銅鐸 鉄で作った鐸の事を大和言葉で「さなき」と言って霊的な力がある。
鈴をたくさんつけて、お祈りをしたりする。
この世とあの世をつなぐような霊的な響きがあるという事が鐸、後に鈴になったわけです。
尺八は虚鐸、あるいは法竹(ふっちく)と言う言い方もされる。
法は仏教的な意味合いからすると真理 真理を求めるための道具に竹を使うという事から法竹ともいう。 仏具と考えられていた。
尺八の魅力は江戸時代に吹かれた独奏の調べ 尺八の本曲です。
本曲を吹く事を「吹禅」と言います。
坐禅と同じように禅の理念の呼吸を使う。 呼吸を気ととらえて、息を竹の中に入れた時に、気の流れが音に変換する、それを気の表れとして、それがいわゆる本曲だと思っています。
呼吸を吐ききることが大事、吸う息よりも吐く息が大事。
普通の尺八は買う事が出来るが、「地なし延べ管」は自分で作るしかなかった。
「本手の調べ」の曲(吹禅する)
自然の音と融合する。
日本の楽器の音と西洋の楽器の音の違いは、「さわり」 西洋の楽器には「さわり」がない。
さわりが無いと本当のいい音は出ない。 さわりは雑音
竹やぶの朽ちた竹に風が吹き込む音、至上の音、理想の音と言われている。
さわりは日本人の音の感性から言うと非常に大事。
純音と雑音を平等に扱う。
若いころはプロのトランペッターだった。 ジャズが好きだった。
モダンダンスをやっている叔母がいて(奥田敏子) 父が亡くなった時に追悼公演で、踊りの素材の音に武満 徹作曲の「エクリプス」と言う曲を使って横山勝也さんが吹いていた。
それを聞いた時に吃驚した。
物凄いカルチャーショックを受けて、虜になった。
縁あって横山勝也さんに師事しました。
横山勝也さんはノヴェンバー・ステップスを (尺八、琵琶、オーケストラ)をニューヨークフィルと一緒に演奏された。
30年前にトランペットを捨てて、尺八に自分の全てをかけたいと思ったが、トランペットを捨てると生活ができなくなるので、「禅茶房」という名の喫茶店を開いて、尺八を研究していこうと思った。
お客さんの求められるままに演奏する様になって、そのうちお客さんから自分も習いたいと言う人が現れて、ドンドン増えてきて、喫茶店よりも尺八の稽古場の様になってしまった。
外国人も増えてきて、そういう人たちが国に帰って、プロになっていて、「禅茶房」流と名乗っているらしい。
デンマークの女性が11年間ぐらい私のところで稽古をしたあとに、国に帰って、後にロンドン大学にゆき、現在博士号まで取ってしまった。
生徒は130~140人が来ていました。
自分で山に行って取ることから始まるので、竹取の会を催して、毎年秋には山に取り行っています。
昨年で24年続いています。
尺八を作る会を次の年の春に行っております。
最初の頃は群馬県の方にいっていたが、長野県に移って現在に至っています。
演奏活動はリサイタルをしません。
私の音を聞きたいと言う方は禅茶房サロンに来ていただくのがベストだと思う。
国分寺市の文化祭が秋にあり、勉強会と言ったらいいのか、そんな形でやっています。
10年ぐらい前、禅のCDを出したところ外国から声がかかり、チューリッヒ大学、ウイーン大学、バンクーバー大学、オークランド大学、ロンドン大学等に行って演出している。
「鶴のすごもり」を演奏する。 冬寒い時期に食べものが無くなるとひなが先に弱ってしまう。
ひなに親の鶴が自分の肉を引き裂いて、食べさせる。
親が心身を砕きつくして、子を育てる、という巣篭因縁経という伝承にもとずく曲と言われています。
迫力のある音 尺八で一番難技巧と言われているのが「鶴のすごもり」で技巧的に難しいものがある。
2尺2寸の尺八で演奏した。 一般に普通もっと短い竹で吹いている。
(尺八の事を奥田さんは竹と呼んでいる)
竹の音は鈴の音、鐸 霊的な音 恐らくこれに近いものがあると昔の人は感じたのではないか。
私も感じています。
竹と言うものは、今の尺八の様に楽器にしてしまったら、そういう魅力は無くなるのではないかと思います。
楽器にすれば、多くの音が出るし、音量も上げられますが、竹の持っている音と言うのは、自然の竹の音は小さな音、小さな音や音色は物凄く豊かだと思っています。
小さな音、豊かな音色を出したいために山にいって竹と出会い竹を取る、出会いこれも縁だと思う。
竹と対話して、お前はどういう性格だとか、竹の持っている個性をいかに引き出すか、そういう個性を引き出す息の入れ方がしゅうわ?(調和?聞き取れず)だと思います。
そこに面白みを感じています。
10本竹があれば10本の個性がある、全部音色が違う、人間と同じ。
竹の個性を引き出すために、息を探してゆくわけです、それを吹禅の境地だと思っています。
人間が自然に対して謙虚であると言う事が一番大事なことだと思います。
竹はゆっくり心を静めて、息をゆっくり吐き出す、これは健康に一番いいと思います。
昭和20年 愛知県生まれ 69歳 国分寺市在住 若いころからジャズのトランペッターとしてプロの活動をしていましたが、思うところがあって、40歳の頃古典的な尺八の世界に身を転じました。
奥田さんの吹く尺八は「地なし延べ管」と呼ばれる、古い形式のもので、自らの手で山から竹を切りだし永い歳月をかけて、作り上げた古典的な尺八です。
法竹と呼ばれ、仏法の真理を追究する道具だったと言います。
今ここに30本以上ある。 短いものは30cmぐらい。(1尺1寸)
節が一つしかなくて一節切り(ひとよぎり)と言われているが、室町時代に吹かれた尺八。
長いと1m以上ある。(3尺5寸) 腕を一杯の伸ばさないと穴の位置まで届かない。
聞こえてくる音 遠音(とおね)と言われる。 手作り。
微調整は門人にはできないので、私がやっています。
今の尺八は中に砥の粉、石膏、漆などを塗って調制する「地あり中継管」と言って、調律がとれる。
真中から二つに切断されている。 調律しやすくなっている。
「地なし延べ管」は継ぎ目が無くて、一本の竹のままで内部に加工がしていない。
尺八は中国からきている。 聖徳太子の時代から尺八と言う言葉が有る。「地なし延べ管」だった。
虚鐸 江戸時代寛政年間に虚鐸伝記告示会があって虚無僧が作った名称が虚鐸という名称。
鈴の古い言葉を鐸と言う。
銅で作った鐸が銅鐸 鉄で作った鐸の事を大和言葉で「さなき」と言って霊的な力がある。
鈴をたくさんつけて、お祈りをしたりする。
この世とあの世をつなぐような霊的な響きがあるという事が鐸、後に鈴になったわけです。
尺八は虚鐸、あるいは法竹(ふっちく)と言う言い方もされる。
法は仏教的な意味合いからすると真理 真理を求めるための道具に竹を使うという事から法竹ともいう。 仏具と考えられていた。
尺八の魅力は江戸時代に吹かれた独奏の調べ 尺八の本曲です。
本曲を吹く事を「吹禅」と言います。
坐禅と同じように禅の理念の呼吸を使う。 呼吸を気ととらえて、息を竹の中に入れた時に、気の流れが音に変換する、それを気の表れとして、それがいわゆる本曲だと思っています。
呼吸を吐ききることが大事、吸う息よりも吐く息が大事。
普通の尺八は買う事が出来るが、「地なし延べ管」は自分で作るしかなかった。
「本手の調べ」の曲(吹禅する)
自然の音と融合する。
日本の楽器の音と西洋の楽器の音の違いは、「さわり」 西洋の楽器には「さわり」がない。
さわりが無いと本当のいい音は出ない。 さわりは雑音
竹やぶの朽ちた竹に風が吹き込む音、至上の音、理想の音と言われている。
さわりは日本人の音の感性から言うと非常に大事。
純音と雑音を平等に扱う。
若いころはプロのトランペッターだった。 ジャズが好きだった。
モダンダンスをやっている叔母がいて(奥田敏子) 父が亡くなった時に追悼公演で、踊りの素材の音に武満 徹作曲の「エクリプス」と言う曲を使って横山勝也さんが吹いていた。
それを聞いた時に吃驚した。
物凄いカルチャーショックを受けて、虜になった。
縁あって横山勝也さんに師事しました。
横山勝也さんはノヴェンバー・ステップスを (尺八、琵琶、オーケストラ)をニューヨークフィルと一緒に演奏された。
30年前にトランペットを捨てて、尺八に自分の全てをかけたいと思ったが、トランペットを捨てると生活ができなくなるので、「禅茶房」という名の喫茶店を開いて、尺八を研究していこうと思った。
お客さんの求められるままに演奏する様になって、そのうちお客さんから自分も習いたいと言う人が現れて、ドンドン増えてきて、喫茶店よりも尺八の稽古場の様になってしまった。
外国人も増えてきて、そういう人たちが国に帰って、プロになっていて、「禅茶房」流と名乗っているらしい。
デンマークの女性が11年間ぐらい私のところで稽古をしたあとに、国に帰って、後にロンドン大学にゆき、現在博士号まで取ってしまった。
生徒は130~140人が来ていました。
自分で山に行って取ることから始まるので、竹取の会を催して、毎年秋には山に取り行っています。
昨年で24年続いています。
尺八を作る会を次の年の春に行っております。
最初の頃は群馬県の方にいっていたが、長野県に移って現在に至っています。
演奏活動はリサイタルをしません。
私の音を聞きたいと言う方は禅茶房サロンに来ていただくのがベストだと思う。
国分寺市の文化祭が秋にあり、勉強会と言ったらいいのか、そんな形でやっています。
10年ぐらい前、禅のCDを出したところ外国から声がかかり、チューリッヒ大学、ウイーン大学、バンクーバー大学、オークランド大学、ロンドン大学等に行って演出している。
「鶴のすごもり」を演奏する。 冬寒い時期に食べものが無くなるとひなが先に弱ってしまう。
ひなに親の鶴が自分の肉を引き裂いて、食べさせる。
親が心身を砕きつくして、子を育てる、という巣篭因縁経という伝承にもとずく曲と言われています。
迫力のある音 尺八で一番難技巧と言われているのが「鶴のすごもり」で技巧的に難しいものがある。
2尺2寸の尺八で演奏した。 一般に普通もっと短い竹で吹いている。
(尺八の事を奥田さんは竹と呼んでいる)
竹の音は鈴の音、鐸 霊的な音 恐らくこれに近いものがあると昔の人は感じたのではないか。
私も感じています。
竹と言うものは、今の尺八の様に楽器にしてしまったら、そういう魅力は無くなるのではないかと思います。
楽器にすれば、多くの音が出るし、音量も上げられますが、竹の持っている音と言うのは、自然の竹の音は小さな音、小さな音や音色は物凄く豊かだと思っています。
小さな音、豊かな音色を出したいために山にいって竹と出会い竹を取る、出会いこれも縁だと思う。
竹と対話して、お前はどういう性格だとか、竹の持っている個性をいかに引き出すか、そういう個性を引き出す息の入れ方がしゅうわ?(調和?聞き取れず)だと思います。
そこに面白みを感じています。
10本竹があれば10本の個性がある、全部音色が違う、人間と同じ。
竹の個性を引き出すために、息を探してゆくわけです、それを吹禅の境地だと思っています。
人間が自然に対して謙虚であると言う事が一番大事なことだと思います。
竹はゆっくり心を静めて、息をゆっくり吐き出す、これは健康に一番いいと思います。
2014年10月9日木曜日
保坂正康(作家) ・昭和史を味わう 第8回
保坂正康(作家) 昭和史を味わう 第8回 ”昭和天皇実録”を読む(2)
その時、昭和天皇はどう考え・どう行動したか
40件新しい資料が有る。 侍従長であった百武三郎の日記。
昭和11年から19年まで侍従長、軍人であった。日本の昭和史が戦争の時代。
昭和11年2月26日 2・26事件 形としてはクーデターの様な形を起こした。
26日~29日の4日間 国家の中枢を制圧していたが、一貫して天皇は反対していた。
本庄 繁 侍従武官長の本庄日記でも、判っていたが、それよりもさらに怒りが激しかったのを今回の日記から判明する。
不祥事件が起こることを想定していた節がある。
昭和10年8月に陸軍省軍務局長、永田 鉄山が相沢三郎に殺害される。(相沢事件)
裁判で被告のやったことを青年将校が悪いことではないと弁護するが、それを新聞に掲載されるが、天皇はその記事をよく読んでいた。
本庄に質問する。
軍法会議は本来秘密でやるべきで、証人を立てて弁護する裁判するではないはずだと、行政が司法とは違うじゃないかと、それなのにこの裁判は何かと聞いている。
天皇は青年将校の不穏な動きをこの裁判を通じて報道の中から、感じていた。
本庄を信用していないんだなあと思う事がある。
昭和11年1月の実録のところに出てくる。
本庄の娘婿山口一太郎陸軍大尉( 二・二六事件で無期禁固) 青年将校と気脈が通じている。
本庄は山口一太郎の弁護する。
山口が新兵が入隊するときに挨拶するが、政治を徹底的に批判するが、其れが新聞にでるが、本庄にきくが、申し訳ありませんと答えるが、天皇は明らかに不穏な動きを察知していて、本庄を信用していなかった様だ。
天皇は26日から3日間、本庄を41回呼んでいる。 (自分のそばから離さなかった)
どうしてこう言う風になったのか、軍はなにをやっているのかと叱責も有ったと思うが、本庄も青年将校に味方をするようなことで動いているのではないかと、監視したのではないかと私は解釈をした。
昭和16年9月6日
御前会議 昭和天皇が明治天皇の和歌を読んで、平和の意志を明らかにした。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
これを読んで外交交渉で解決しろと言う事を明らかにした。
定説だが今回でも明らかになる。
近衛内閣は軍部に押されて、(東条英機陸軍大臣) 決着がつかない。
天皇は外交が弱い、これは戦争のための決定ではないかと近衛にいう。
天皇は戦争に傾斜してゆく国策決定者に懸念を持っていた。
9月6日の御前会議、10月17,18日近衛内閣が辞めて東条内閣が成立して、この頃はどちらかと言うと受け身に書れている。
従来、内大臣木戸幸一と天皇との間で話がついて、東条を重臣会議で決定すると理解されていたが、今度の実録では重臣会議、木戸幸一達が動いて、東条英機を推挙するという事に実録ではなっている。(東条は主戦派だが考えを改めさせれば、軍を抑えるだろうという考え。)
11月3日 海軍の軍令部総長・永野 修身に戦争をするとすれば、どういう風にやるのか、いつ戦争をするのかと天皇が聞いていることを実録に書かれている。
11月5日 御前会議 外交を進めるけれども戦争の準備をする方向になる。
11月26日 ハルノートが突きつけられるが、外交交渉は駄目と言う事になり、戦争が決まる。
ハルノート以後はちょっと前面にでる。
天皇制(皇統)を守ることが大事だということで、動いてきたのではないかと私は思う。
大権を賦与している者が戦争をしなければこの国は潰れますよ、この国はどうなるか判りませんよと、言って報告してくる、とするならば、皇統を守る為に戦争と言うのもあり得るのかと、仕方が無いかと思ったのではないだろうか。
東条をはじめ軍人たちが物のけにつれたように、戦争だ戦争だと走ってきたので、天皇にそのことばっかり説明したので、大権を賦与したものがそこまで言うのであれば、しかたがないかなとの想いが有ったのではないか。
16年12月8日 日米開戦
昭和20年8月15日 終戦
8月15日に至る道は天皇はかなり積極的に平和にしたい、戦争を修めたいという気持ちは早くから持っている。
システムが戦争の体制になっていたので、意志をどう著わしてゆくか、それが実録の山です。
いつから和平の感じをもったか、私は昭和19年ごろには持っていたと思うが、形として著わしてゆくのは昭和20年2月に重臣を呼んで、いろんな意見を聞く、5月に鈴木貫太郎内閣作る、6月に大きな柱になる。
6月8日に御前会議、本土決戦を決めながら、ソ連を仲介に和平交渉をやるという形になる。
昭和天皇は実録を読むと、日本の政治の判断が軍事に踊らされている状況で、段々天皇の意志が固まって、鈴木内閣、阿南 惟幾陸将を説得して行く形で戦争をおさめる方向にいく。
8月6日広島に原爆が投下。 ソ連が対日宣戦布告 9日 御前会議
正式な情報が天皇に伝わらないが、天皇は海外の短波放送を聞いて戦況を調べている。
海軍の軍事力を長谷川清に6,7,8月 3カ月かけて調べさせている。
海軍力、防備体制等不備など本土決戦等は出来ないことを理解する。
昭和20年9月27日 マッカーサー元帥との第一回目の会見 11回会見している。
「日本の戦争責任は全部私にあります。 私がその責任を負うつもりであなたの前に立ちました」と言うが、感激したことをマッカーサーの回想記には書かれている。
2回目以降は書かれていない。(政治的な発言もしているのではないかと思われるが?)
昭和21年1月1日 人間宣言 天皇を神の末裔と信じる日本国民が、其れが故に世界を征服するという誤った考えなどは持ってはいけない、神であることの否定。
後年、明治天皇の五カ条の御誓文 あれは日本の民主主義の原点です。
日本にもあの様な民主主義が有ったんですという事を伝えたいと言ってます。
昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した日 国際社会に復帰。
吉田茂全権団を宮中に呼んで茶話会を開いたりしている。
退位の話が有ったようだが、今回の実録では触れていない。
主権者から象徴へ。
昭和34年4月10日 皇太子結婚 天皇は大変喜んだ。 和歌をいくつも作った。
昭和50年9月30日 アメリカ訪問 その4年前昭和46年8月欧州7カ国訪問。
イギリスの訪問の8月5日 実録では着いた日だけで14ページも書いてある。
皇太子としてきた時のことが思い浮かべたことと思われる。
アメリカでいろんなパーティーで話があるが「不幸なできごとがあった」ことを述べる。
占領期 日本の飢えと貧しさの中で、感謝の気持ちを言っている。
私たちも昭和の時代をこういう風に生きてきたという事を纏めることも大事なことだと思う。
その時、昭和天皇はどう考え・どう行動したか
40件新しい資料が有る。 侍従長であった百武三郎の日記。
昭和11年から19年まで侍従長、軍人であった。日本の昭和史が戦争の時代。
昭和11年2月26日 2・26事件 形としてはクーデターの様な形を起こした。
26日~29日の4日間 国家の中枢を制圧していたが、一貫して天皇は反対していた。
本庄 繁 侍従武官長の本庄日記でも、判っていたが、それよりもさらに怒りが激しかったのを今回の日記から判明する。
不祥事件が起こることを想定していた節がある。
昭和10年8月に陸軍省軍務局長、永田 鉄山が相沢三郎に殺害される。(相沢事件)
裁判で被告のやったことを青年将校が悪いことではないと弁護するが、それを新聞に掲載されるが、天皇はその記事をよく読んでいた。
本庄に質問する。
軍法会議は本来秘密でやるべきで、証人を立てて弁護する裁判するではないはずだと、行政が司法とは違うじゃないかと、それなのにこの裁判は何かと聞いている。
天皇は青年将校の不穏な動きをこの裁判を通じて報道の中から、感じていた。
本庄を信用していないんだなあと思う事がある。
昭和11年1月の実録のところに出てくる。
本庄の娘婿山口一太郎陸軍大尉( 二・二六事件で無期禁固) 青年将校と気脈が通じている。
本庄は山口一太郎の弁護する。
山口が新兵が入隊するときに挨拶するが、政治を徹底的に批判するが、其れが新聞にでるが、本庄にきくが、申し訳ありませんと答えるが、天皇は明らかに不穏な動きを察知していて、本庄を信用していなかった様だ。
天皇は26日から3日間、本庄を41回呼んでいる。 (自分のそばから離さなかった)
どうしてこう言う風になったのか、軍はなにをやっているのかと叱責も有ったと思うが、本庄も青年将校に味方をするようなことで動いているのではないかと、監視したのではないかと私は解釈をした。
昭和16年9月6日
御前会議 昭和天皇が明治天皇の和歌を読んで、平和の意志を明らかにした。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」
これを読んで外交交渉で解決しろと言う事を明らかにした。
定説だが今回でも明らかになる。
近衛内閣は軍部に押されて、(東条英機陸軍大臣) 決着がつかない。
天皇は外交が弱い、これは戦争のための決定ではないかと近衛にいう。
天皇は戦争に傾斜してゆく国策決定者に懸念を持っていた。
9月6日の御前会議、10月17,18日近衛内閣が辞めて東条内閣が成立して、この頃はどちらかと言うと受け身に書れている。
従来、内大臣木戸幸一と天皇との間で話がついて、東条を重臣会議で決定すると理解されていたが、今度の実録では重臣会議、木戸幸一達が動いて、東条英機を推挙するという事に実録ではなっている。(東条は主戦派だが考えを改めさせれば、軍を抑えるだろうという考え。)
11月3日 海軍の軍令部総長・永野 修身に戦争をするとすれば、どういう風にやるのか、いつ戦争をするのかと天皇が聞いていることを実録に書かれている。
11月5日 御前会議 外交を進めるけれども戦争の準備をする方向になる。
11月26日 ハルノートが突きつけられるが、外交交渉は駄目と言う事になり、戦争が決まる。
ハルノート以後はちょっと前面にでる。
天皇制(皇統)を守ることが大事だということで、動いてきたのではないかと私は思う。
大権を賦与している者が戦争をしなければこの国は潰れますよ、この国はどうなるか判りませんよと、言って報告してくる、とするならば、皇統を守る為に戦争と言うのもあり得るのかと、仕方が無いかと思ったのではないだろうか。
東条をはじめ軍人たちが物のけにつれたように、戦争だ戦争だと走ってきたので、天皇にそのことばっかり説明したので、大権を賦与したものがそこまで言うのであれば、しかたがないかなとの想いが有ったのではないか。
16年12月8日 日米開戦
昭和20年8月15日 終戦
8月15日に至る道は天皇はかなり積極的に平和にしたい、戦争を修めたいという気持ちは早くから持っている。
システムが戦争の体制になっていたので、意志をどう著わしてゆくか、それが実録の山です。
いつから和平の感じをもったか、私は昭和19年ごろには持っていたと思うが、形として著わしてゆくのは昭和20年2月に重臣を呼んで、いろんな意見を聞く、5月に鈴木貫太郎内閣作る、6月に大きな柱になる。
6月8日に御前会議、本土決戦を決めながら、ソ連を仲介に和平交渉をやるという形になる。
昭和天皇は実録を読むと、日本の政治の判断が軍事に踊らされている状況で、段々天皇の意志が固まって、鈴木内閣、阿南 惟幾陸将を説得して行く形で戦争をおさめる方向にいく。
8月6日広島に原爆が投下。 ソ連が対日宣戦布告 9日 御前会議
正式な情報が天皇に伝わらないが、天皇は海外の短波放送を聞いて戦況を調べている。
海軍の軍事力を長谷川清に6,7,8月 3カ月かけて調べさせている。
海軍力、防備体制等不備など本土決戦等は出来ないことを理解する。
昭和20年9月27日 マッカーサー元帥との第一回目の会見 11回会見している。
「日本の戦争責任は全部私にあります。 私がその責任を負うつもりであなたの前に立ちました」と言うが、感激したことをマッカーサーの回想記には書かれている。
2回目以降は書かれていない。(政治的な発言もしているのではないかと思われるが?)
昭和21年1月1日 人間宣言 天皇を神の末裔と信じる日本国民が、其れが故に世界を征服するという誤った考えなどは持ってはいけない、神であることの否定。
後年、明治天皇の五カ条の御誓文 あれは日本の民主主義の原点です。
日本にもあの様な民主主義が有ったんですという事を伝えたいと言ってます。
昭和27年4月28日 サンフランシスコ講和条約で日本の主権が回復した日 国際社会に復帰。
吉田茂全権団を宮中に呼んで茶話会を開いたりしている。
退位の話が有ったようだが、今回の実録では触れていない。
主権者から象徴へ。
昭和34年4月10日 皇太子結婚 天皇は大変喜んだ。 和歌をいくつも作った。
昭和50年9月30日 アメリカ訪問 その4年前昭和46年8月欧州7カ国訪問。
イギリスの訪問の8月5日 実録では着いた日だけで14ページも書いてある。
皇太子としてきた時のことが思い浮かべたことと思われる。
アメリカでいろんなパーティーで話があるが「不幸なできごとがあった」ことを述べる。
占領期 日本の飢えと貧しさの中で、感謝の気持ちを言っている。
私たちも昭和の時代をこういう風に生きてきたという事を纏めることも大事なことだと思う。
2014年10月8日水曜日
遠山昭雄(介護紙芝居研究者) ・現場から生まれた介護紙芝居
遠山昭雄(介護紙芝居研究者) 現場から生まれた介護紙芝居
埼玉県川越市 東京経済大学卒業後に、介護施設の職員になり、16年前に介護に紙芝居を生かそうと考えました。
当時は子供用の紙芝居が多かったために遠山さんは、高齢者や介護に適した紙芝居を求めて出版社等に粘り強く働きかけました。
その結果これまでに紙芝居18作品が出版され、今では介護の現場で幅広く使われていると言います。
紙芝居には遠山さんが介護の現場で33年間体験してきた思いや工夫が込められています。
現在、遠山さんは仕事は退職しましたが、お母様の介護の傍ら紙芝居のボランティア活動を続けています。
介護には興味はなかったが、友だちから人を求めているところがあると、そこ行く事が介護の世界に入ってゆく入口でした。
施設は身体障害者の養護施設で、ほとんどが脳性麻痺の人達でした。
今の介護とはかけ離れた仕事でした。
大学でゼミナールが心理学、卒論がホスピタリズムでした。
身体障害者の養護施設が閉鎖的で、当時精神医療では解放化が叫ばれていた。
夜勤の度に亡くなるという事にぶつかって、かなりショックでした。
人の生き死にに関係ない仕事をしたいと思った、自分が働きかけたものによってものが具体的に残る様な実感を得たかった。
職業訓練で木工の勉強をしたが、木工で食べてゆく道は厳しい事も判って、老人ケアに辿り着いた。
老人ケアに移ってからは、毎日のようにレクリエーションをしなければならず、メニューを考えた時に、街頭紙芝居を思い浮かべた。
街頭紙芝居は昭和5年に始まったことが判って、それに引きよせられたのは、私の世代より上の世代、今のお年寄りはほとんど紙芝居に吸い寄せられたのではないかと思って、レクリエーションの時間に紙芝居をやれば、盛り上がったりするのではないかと思った。
紙芝居をやってみて、がっかりするような結果だったと思う。
お年寄りを喜ばせる様な作品選び、演じ方がまだ出来ないのかなあと思いました。
作品を探し廻ることになったが、本屋さんに行っても無く、図書館には置いてある。
子供向けがほとんどで、それが壁だった。
紙芝居文化推進協議会があるが、そこの会員になったり、全国紙芝居まつりというイベントが一年おきにあるが、そこに参加したりしていた。
手作り作品の中から、大人が喜んでもらえるような作品を探して、製作者と交渉してコピーして出来れば出版できないかと、出版社に交渉を始めた。
認知症にきく紙芝居は出来ませんかと、作家の人には話したことがあるが、「えーっ」と言われた。
出版社もリスクがあり、出版社もなかなか踏み出してくれる、と言う事はなかった。
「始めよう老人ケアに紙芝居」と言う本を出してもらった。(私の監修で)
セミナーを開催して、現場で働いている介護職と、紙芝居関係者 半々ぐらい来てくれて、高齢者向け介護紙芝居というジャンルを何とかしたいという機運が生まれた。
或る程度売れないといけないので、リスクはあるが出してみようという事になる。
介護紙芝居は全作品18作品。
「金色夜叉」人気がある。 尾崎紅葉の代表作
(紙芝居で熱海の海岸の一場面を読んでもらう。)
「お茶にしましょう」→言葉遊び お茶 ちゃぶ台 大福 それをきっかけに会話になったりする。
「連れション」→3人の子供の神様が出てくる話。 おしっこの出具合。
介護紙芝居 作品の内容、演じた時に何らかの形で、ケア的な要素が有っていいかなあと思う。
遊び、楽しさがあって娯楽性に富んだ内容や演じ方であるという事が一番望まれる。
双方向の関係、やり取りが生じやすい作品が理想的かなと思います。
それが介護につながっていけたらと思っています。
盛り上がるときも有れば、そうでないときもある。
紙芝居関係者の区分の仕方、参加型と物語完結型があるが、ほんらいの紙芝居は物語をきちっと伝えることが本質的なものかもしれないが、介護現場では遊びの要素、双方向の関係、観ている人たちの横のつながりを作りだすうえでは、遊びの要素を取り入れた参加型の紙芝居を多く活用するという事になります。
認知症の人が多い場合は参加型、童謡とか唱歌が入っていて、皆で一緒に歌いながらストーリーが展開してゆく作品になっているので、そういう作品を多く利用する事でやっています。
「金色夜叉」など大衆演劇路線といっているが、若いころ記憶した内容をもう一度紙芝居で演じて、そのころを思い出してもらうのが有効かなあと思っています。
アイコンタクト取れるように、お年寄りと目を合わせるように工夫している。
紙芝居のボランティア活動をしている人達のサークルが出来てきて、介護施設にボランティアで入りこんで紙芝居を演じることが増えてきています。
堺 正一さん(元県立盲学校校長 6月に放送した「高齢者のケアに紙芝居」)も同じ思いをもっているということを知って吃驚していますが、情報交換をしています。
紙芝居イベントに参加すると、紙芝居友だちができてきて、自分が支えられている様な気がします。
紙芝居が今後ライフワークになるのではないかと、感じがしている。
出版以外でも演じるという事を通して楽しみを持続できる様な気がする。
絵は周りに描ける人がいるので、紙芝居の脚本が書ければいいなあと思います。
埼玉県川越市 東京経済大学卒業後に、介護施設の職員になり、16年前に介護に紙芝居を生かそうと考えました。
当時は子供用の紙芝居が多かったために遠山さんは、高齢者や介護に適した紙芝居を求めて出版社等に粘り強く働きかけました。
その結果これまでに紙芝居18作品が出版され、今では介護の現場で幅広く使われていると言います。
紙芝居には遠山さんが介護の現場で33年間体験してきた思いや工夫が込められています。
現在、遠山さんは仕事は退職しましたが、お母様の介護の傍ら紙芝居のボランティア活動を続けています。
介護には興味はなかったが、友だちから人を求めているところがあると、そこ行く事が介護の世界に入ってゆく入口でした。
施設は身体障害者の養護施設で、ほとんどが脳性麻痺の人達でした。
今の介護とはかけ離れた仕事でした。
大学でゼミナールが心理学、卒論がホスピタリズムでした。
身体障害者の養護施設が閉鎖的で、当時精神医療では解放化が叫ばれていた。
夜勤の度に亡くなるという事にぶつかって、かなりショックでした。
人の生き死にに関係ない仕事をしたいと思った、自分が働きかけたものによってものが具体的に残る様な実感を得たかった。
職業訓練で木工の勉強をしたが、木工で食べてゆく道は厳しい事も判って、老人ケアに辿り着いた。
老人ケアに移ってからは、毎日のようにレクリエーションをしなければならず、メニューを考えた時に、街頭紙芝居を思い浮かべた。
街頭紙芝居は昭和5年に始まったことが判って、それに引きよせられたのは、私の世代より上の世代、今のお年寄りはほとんど紙芝居に吸い寄せられたのではないかと思って、レクリエーションの時間に紙芝居をやれば、盛り上がったりするのではないかと思った。
紙芝居をやってみて、がっかりするような結果だったと思う。
お年寄りを喜ばせる様な作品選び、演じ方がまだ出来ないのかなあと思いました。
作品を探し廻ることになったが、本屋さんに行っても無く、図書館には置いてある。
子供向けがほとんどで、それが壁だった。
紙芝居文化推進協議会があるが、そこの会員になったり、全国紙芝居まつりというイベントが一年おきにあるが、そこに参加したりしていた。
手作り作品の中から、大人が喜んでもらえるような作品を探して、製作者と交渉してコピーして出来れば出版できないかと、出版社に交渉を始めた。
認知症にきく紙芝居は出来ませんかと、作家の人には話したことがあるが、「えーっ」と言われた。
出版社もリスクがあり、出版社もなかなか踏み出してくれる、と言う事はなかった。
「始めよう老人ケアに紙芝居」と言う本を出してもらった。(私の監修で)
セミナーを開催して、現場で働いている介護職と、紙芝居関係者 半々ぐらい来てくれて、高齢者向け介護紙芝居というジャンルを何とかしたいという機運が生まれた。
或る程度売れないといけないので、リスクはあるが出してみようという事になる。
介護紙芝居は全作品18作品。
「金色夜叉」人気がある。 尾崎紅葉の代表作
(紙芝居で熱海の海岸の一場面を読んでもらう。)
「お茶にしましょう」→言葉遊び お茶 ちゃぶ台 大福 それをきっかけに会話になったりする。
「連れション」→3人の子供の神様が出てくる話。 おしっこの出具合。
介護紙芝居 作品の内容、演じた時に何らかの形で、ケア的な要素が有っていいかなあと思う。
遊び、楽しさがあって娯楽性に富んだ内容や演じ方であるという事が一番望まれる。
双方向の関係、やり取りが生じやすい作品が理想的かなと思います。
それが介護につながっていけたらと思っています。
盛り上がるときも有れば、そうでないときもある。
紙芝居関係者の区分の仕方、参加型と物語完結型があるが、ほんらいの紙芝居は物語をきちっと伝えることが本質的なものかもしれないが、介護現場では遊びの要素、双方向の関係、観ている人たちの横のつながりを作りだすうえでは、遊びの要素を取り入れた参加型の紙芝居を多く活用するという事になります。
認知症の人が多い場合は参加型、童謡とか唱歌が入っていて、皆で一緒に歌いながらストーリーが展開してゆく作品になっているので、そういう作品を多く利用する事でやっています。
「金色夜叉」など大衆演劇路線といっているが、若いころ記憶した内容をもう一度紙芝居で演じて、そのころを思い出してもらうのが有効かなあと思っています。
アイコンタクト取れるように、お年寄りと目を合わせるように工夫している。
紙芝居のボランティア活動をしている人達のサークルが出来てきて、介護施設にボランティアで入りこんで紙芝居を演じることが増えてきています。
堺 正一さん(元県立盲学校校長 6月に放送した「高齢者のケアに紙芝居」)も同じ思いをもっているということを知って吃驚していますが、情報交換をしています。
紙芝居イベントに参加すると、紙芝居友だちができてきて、自分が支えられている様な気がします。
紙芝居が今後ライフワークになるのではないかと、感じがしている。
出版以外でも演じるという事を通して楽しみを持続できる様な気がする。
絵は周りに描ける人がいるので、紙芝居の脚本が書ければいいなあと思います。
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