2017年10月31日火曜日

桑原衛(NPOふうど代表)        ・自然のエネルギーで暮らしを作る

桑原衛(NPOふうど代表)    ・自然のエネルギーで暮らしを作る
埼玉県小川町で自然エネルギーを利用して循環型農業を実施しているグループ。
家庭から出る生ごみをバイオガス技術で液体肥料とガスを作り、液体肥料で有機農業をおこないガスで発電しています。
生ごみを提供する町民には地域通貨を渡し、季節の野菜を購入すると言う地域内の経済サイクルも行われています。
桑原さんは60歳、東大工学部で水資源の開発や利用法を学び、ODA政府開発援助や、JICA (国際協力機構)等で発展途上国の水資源開発に関わってきました。
この活動を続けるうちに、桑原さんはネパールでバイオガス技術による自然エネルギーを利用した生活に触れ、同時にその土地の風土を生かした暮らし作りを進める、地理学者三沢勝衛の理論にも出会い、バイオガス技術を利用し、地域に合った暮らしを小川町で始めました。
「ぶくぶく農園」と名付けた桑原さんの経営は米、野菜、果樹、養鶏、養蜂など沢山の作物を作ります。
この循環型農業に賛同して小川町に移り住む若い人が増え、NPAふうどの会員は40人を越えました。

家はできるだけ農業資材を使わないで作ると言う農業を目指しているので、なんでこれで虫が付かないのだろうと不思議がるが、色々秘密があります。、
無農薬、化学肥料を使わない。
「ぶくぶく農園」 私は元々土木技術者でバイオガス技術に引かれて色々な活動が始まっています。
ベースになっているのが微生物です。
微生物がぶくぶく元気に育っている様にと言うことで「ぶくぶく農園」になっています。
バイオバス技術は原料はそこにある有機物を有効に利用しようと言う技術です。
学校給食、家庭の残飯を集めてガスを発酵させてガスを作ります。
農家がメインで集まって、農業の肥料を作る、地域で使えなくなったものを街作りに生かしていこうと言う活動をしていて、中心になっているのがバイオガス技術です。
1990年ごろにバイオガスプラントを作って作ってそれを生かして町と連携して生ごみを肥料にしてエネルルギーにしようとしています。
小川町の役場が事務局になって有志が40人集まり議論して、その分科会が生ごみを生かして行こうと言うことで15年、ようやく今の形が出来て来ました。

米がメイン、野菜全般、養鶏、養蜂(娘が全部やっています)などをやっています。
3ヘクタール位を借りてやっています。(私、妻、娘)
畑で鶏の餌を作って残渣を畑にすき込んで、養鶏で鶏糞を畑に入れて、肥料は買わないです。
自然循環型農業、循環を成り立たせるためには色んな人の協力、困難さが色んなところに隠れているとつくづく思います。(理想だとは思っていない)
小川町自然エネルギー研究会を有志と一緒に立ち上げました。
1998年に自然エネルギー学校を立ち上げました。(日本で最初)
農家がメインでほぼ有機農家、町民の生ごみ、学校給食から出てくる残飯。
運ばれてきた残飯をバイオガス技術を使って資源化する。
農家にとっては肥料が得られる、役場では焼却処分しないで済む、処理コストが安いので税の節約、もったいなさが救われる。
バイオガス技術は日本各地にあるが、施設が立派で施設コストもかかるし、運転経費もかかる。
設計は自分たちでやって、建設は地元の大工さん、運転は農家がやる、維持管理はNPOがやって日本でもっとも経済性のいいプラントにした。

生ゴミ提供家庭には年間3000円相当のものを渡すと言うことにしました。
「ふうど」と言う地域通貨を作って、それを使うと小川の野菜が買えると言うことにしました。
見学する方が多いですが、たんぼのなかにぽつんと建っているだけです。
小川町を選んだ理由
①一番上の娘が気管支が悪くて早く東京から離れて空気のいいところに行きたかった。
②1987年ジャイカでネパールに行っていたときに、バイオガス技術に出会って非常に感動しました。
牛の糞でガスを作って肥料を作っていた。
それがきっかけで1990年四川省にバイオガス研究センターで勉強して、帰ってきてバイオガスをやらないかとアナウンスして、その時に声がかかったのが小川町でした。
自分が図面を書いて、皆で穴を掘ったりしながら手作りで全部作りましたが、それがとても面白かった。
バイオガスキャラバンを始めました。
ボランティアでバイオガスの建設に協力してもらう、学ぶために、自分のために、人のために 3回協力してもらう。(建設コストはかからない)
資材の基地が小川町でした。

大学で水門学を勉強しました、雨が降って一部が川、地下、蒸発してぐるぐる回っている。
安心して使える水の量、大雨が降った時に堤防の高さをどのぐらいにしたらいいかとか、
水をめぐる色々なことを勉強するのが水門学です。
三沢勝衛の風土に合った暮らしがあると言う説に出会った。
「風土産業論」を書いた人で、外にものを探すのではなくて地域にあるものを如何に活用するか、それが地域を豊かにして行く。
地域にあるものをいかに読み切るかと言うことを、もっと勉強する必要があると言うことが全体を通してのメッセージです。
これがもとになり自分の方向が見えて来ました。(30代なかば)
小川町に来て色々な人に出会って良かったと思います。
いつも問題にぶつかりながら対応して来ていて、今も続いています。
どうやって後継者を育てていくかと言うことがすごく大事で、自分に反発してくる後継者が育ってくれる必要があると思います。
教えてしまうと失敗が出来ない、失敗をする機会を失ってしまう。
自由に色々やってもらうことで、町のいい後継者を作ることだと思いますが難しいことで、忍耐力が必要だと思います。
大震災が2011年にあって、人が変わったように思います。
家族とは、どういうふうにして自分の暮らしを守って行くのかとか、立ち止まって考え直したのではないかと、日本中で起こっているのではないかと感じています。
4年前ベトナムに行く機会があったが、或る村の村長が35歳で、村を動かしている人たちはみな30代で、60代の人たちは悠々自適でやっていて、30代、40代の人たちがどんどん表に出て行く形、問題があった時には我々が助言が必要であれば助言する、そういう町であってほしい、そう言う有機農業のグループであって欲しい。