2014年10月7日火曜日

沢 竜二(俳優)          ・一座を率いて60年

沢 竜二(俳優)       一座を率いて60年
1935年 福岡市生まれ 両親は各地を回って芝居をする旅役者、沢さんは4歳で初舞台を踏み、16歳で座長と成って一座をひきいて、芝居を意欲的に取り組みました。
今ではいわゆる大衆演劇の舞台ばかりではなく、映画やTVなどにも出演して、幅広い役柄をこなして高い評価を得ています。
沢さんは大衆演劇を歌舞伎や新劇に負けないジャンルにしようと、侍ミュージカルと銘うって、アメリカでの公演をするなど、日本の芝居の魅力を世界に発信しようとしています。
母の旅公演中に芝居小屋で生まれたという、沢さんの話を伺います。

6月に福島、南相馬で5か所、寸劇と踊りと歌とをやってきて、皆を笑わしてきました。(3年ぶり笑ったと言っていました)
4歳で初舞台を踏んでいる。 子役で出された。 忠臣蔵の子との別れの場面に登場した。
演劇をやるのに田んぼの中に舞台だけを作り、むしろで囲って、下にむしろ、ござを敷いて開幕は夜の7時からと成る。
新国劇の澤田 正二郞先生から母は名前を頂いた。
先生の人気が上がると女沢正と名乗る人が8人いた。 母も女沢正と名乗っていたが、8人もいるのはまずいという事で、先生がこっそり見て、母が8人いた中から選ばれた。
8人兄弟で、忙しくて母は九州から離れられなかった。
一番辛かったのは、夜遅くまで起きていて、コックリコックリしていると、母があやしてくれるが、おしろいがついてしまい、学校に行くとそれを周りからからかわれて、いじめの対象になった。
3日~5日で次のところに行くので、学校も転校になってしまう。
小学校2年生の時に、父が劇場を買ったので、それからは落ちついて学校に行けるようになった。

劇場が中学2年の時に燃えて、久留米に移転するが、万能選手だったので元の中学から呼ばれ、朝早くから通った。(走って通う様になる)
高校に通う様になるが、仕送りが少なくなり、3カ月滞納したものは退学という張り出しがあり、それを見て学校は止めた。
役者になることにする。  段々人気が上がり、男座長の方が客が入るという事で、沢幸次郎と言う名前で16歳で座長になる。
沢幸次郎として凄い人気になる。 関西にも行くようになり、関西でも人気になる。
昼間は時間が空いているので、ウエストサイド物語の映画を見て、凄いと感動して、どうしたらいいのか3日間芝居を休んで寝込んだ。

アメリカにゆき、日本のものをやるべきかと考えたが、そのためにはまず東京と考えた。
船村 徹先生に手紙を出して、先生に会う事になる。
40人の座員を置いて一人で東京に来れるのかと、言われたが行く事を決心する。
29歳で東京に出てくる。
考えた5倍、10倍の苦労だった。 家賃が払えず、キャバレー回り、内職などをする。(親子3人暮らし)
父が死んで、全部質屋に入れて、飛行機代がでて、死に目に会えた。
もう先が見えなくて、先生にもう帰りますと、言ったら、先生が5000円をくれた。
不運が随分続くが、逆境に強い人間になった。

稲垣 浩監督が 無法松の一生 主役 阪東 妻三郎 、三船敏郎  2本とも稲垣監督製作
3本目を考えているが、三本目の主役はお前だと言われて、1か月後にクランクインするから頑張れと言われて、監督は死んでしまった。
芸人研究所を作って80人集まる。
再び一座に戻って再生する。
大江美智子と半年間熱海で演劇をやり、「人生劇場」の水槽を使った大立ち回りをやったが、それを見ていたアメリカのプロデューサーが俺たちにやらしてくれと言うよな話もあり、アメリカ公演が増えてゆく事になる。
色々なところで開催をして、ラスベガスで3カ月のロングランをやった。
言葉は日本語でやるが、役者が喜怒哀楽を出せれば、通じることが判った。
宮本武蔵をやるが、一乗谷の決闘 一場面で最後に6歳の子供が白装束で相手としているが、子供を突く場面があるがブーイングで客が立ちあがるが、 立ち廻りをやると座ってきて、最後で二刀流でやる様になると拍手が来るようなる、最後の場面で、振り返ると殺した子供が立っていて、生きていると思って子供を抱くとやっぱり死んでいたかと、慟哭すると客が大拍手でした。

武蔵の格好をしたまま最後に「マイウェイ」を歌う。 日本語
プログラムにだけは英語で紹介してほしいといった。
「子供のころからスターではない、父母も旅役者だった。私も旅役者。 夢が一つ壊れたら夢が一つ消えたら、もうひとつ夢を見ればいい、命は一つでおしまいだけど、夢が消えても死にません。夢は必ずどっかに落ちています。 お互いにそれを拾って生きていきましょう」
ニューヨークタイムスの一面に、沢は武蔵の格好をして歌う「マイウェイ」はフランクシナトラを彷彿とさせる、という記事がでた。
これ以上の絶賛は無いので、ここで止めなかったら、客が入らなくなったりしたらみじめだと思ってアメリカ行きはここらがいい潮時だと思った。

アメリカの客は九州のお客と似ていると思う。 即身体と声で返ってくる。
昔日本では喧嘩をするにも、どこまでやればいいと言う事は解っていたが、今は判らないから命がけでやってしまう。
踊りは自我流でやっていたが、国立劇場でやってもやりだしたら度胸がついてしまった。
蜷川さんの舞台にも呼ばれて出ているが、僕には絶対文句は言わないが、あの人にはかなわない。
健康の秘訣 ストレスを溜めない。 芝居をやっているとストレスは溜まらない。