2013年12月19日木曜日

渡邊章一郎(版画店店主)     ・日本の版画を世界へ

渡邊章一郎(版画店店主)    日本の版画を世界へ
昭和33年東京都銀座の老舗版画店の三代目として生れました。
幼いころから北斎歌麿の浮世絵などに囲まれて育ち、知らず知らずのうちに本物を見る目を養ってきました。
大学卒業後、百貨店に勤めた後に、家業を継ぎ、現在は3代目として、木版画の海外への普及活動や浮世絵の鑑定、現代作家達の作品のプロデユースなどをしています。

銀座は完全に住居兼お店は無くなってしまって、大きなビルになってしまった。
最近では外国の店が多くなった。
一番古い記憶、祖父(渡邊庄三郎)、四角い額縁の様な中に空があり、雲が浮かんでいる、額縁の上の方からおじいさんの顔があり、話しかけている。そんな夢見ており、どぶ臭い、潮の匂いにもする。
私の祖父は、汐留川の運河があり、其周りを乳母車で散歩するのが日課になっており、私に時々話しかけていた。

明治42年に祖父が創業して、最初京橋で商売していた。
木版画を外国に売ってゆくという商売で、関東大震災があって全部焼けてしまって、再開するに当たって銀座に移ってきた。
前の家は3階が住居と木版画の製作の場所でもあったので、子供の時から職人さんに囲まれていたので、ずーっと見ていた。
自分は覚えていないが、判るわけの無い私に、北斎、歌麿、写楽等の名品を見せて、作品を説明していたらしい。(祖父は3,4歳の頃亡くなる)

理解も出来なかったと思うが、すごく大事なことだったと思う。
子供の時に判らなくてもいいから、記憶に叩きこむという事は大事なことだったんだと、今から思います。
美人画を並べられ見ても、20年ずつ違う作品を見ても同じ顔に見える。
同じ時代は皆同じ顔になる。 ある作家が当たると皆同じ顔になる。
今から思うと本当に英才教育をしてもらったと思う。
就職をしたが、就職先の百貨店の浮世絵の展覧会があって、担当の方がタイトルと名前が一致しないので、私が呼ばれて言ったら、ぴたりぴたりと当たった。
大学では商学部に入って、浮世絵、美術は教わってなかった。

「ウッドカット プリント」 と書かれている。 外国に美術品を売るという仕事をビジネスとして始めたので、外国に売るというのが中心になっている。
最近ではインターネットで全世界から注文を頂いている。
アメリカとヨーロッパは微妙に違う。
アメリカは大きくてダイナミックな構図で、色が鮮やかなものが好き。
ヨーロッパは日本と比較的近くて、繊細で微妙なタッチのもの、物凄く手が込んでいて、凄く時間と手間がかかっているなと言う事が判る作品が好まれる。
日本で好まれないのに外国で好まれ評価が高いものは日本で仕入れ外国に売る、日本では好まれ値段が高いものは外国では評価の低い作品を外国で仕入れて、日本で売るという事で
そういった作品を上手に購入して、儲けが出たと言っていた。
段々情報が世界で共通になってきて儲けは無くなってきた。
最近は瞬時でオークションの結果は判るので、無くなってきてる。

祖父の時代ではそういった差をいかにつかむかが、商売の上手くいくいかないの分岐点だった。
祖父は明治18年の生まれだが、海外に強い関心があった。
茨木から出てきて、小学校卒業ぐらいで質屋に入るが、英語を周りは学んでいて、世界地図を見て、貿易が一番日本に向いていることを教わった。
主人にお願いして英語を学んだ。
14,5歳の時に貿易商に入り、手掛けた仕事が美術品の輸出だった。
興味、知識がなかったが、外国人が日本では二足三文だったものを非常に高く評価して買ってゆくのに驚きを感じた。
審美眼、商売のこつをならって、20歳そこそこで独立して、外国に輸出する事を始めた。

ゴッホは浮世絵が大好きだとは知られているが、歌川広重の名所江戸百景のあたけの大橋、亀戸梅屋敷を升目に模写をして、油絵にもしている、このことは有名です。
幕末ごろにパリで万博があり、徳川幕府が1万点とも言われる浮世絵を出展した。
現地で売ってこいと言ってそれを旅費にあてて来いと言われて、それがもとで大変なブームになった。
その40年後に祖父は始める。
日本では還り見られなくて、捨ててしまうので、そういったものを集めて、外国に喜んでもらえる
金儲けも出来る、そんないい事はなかった。
文明開化以降、もともと浮世絵が持っていた報道性は新聞にはかなわない、写実性は写真にはかなわない、お土産についても絵はがき普及して浮世絵は駆逐されてしまった。
浮世絵師が明治になるといなくなってしまった。

祖父が創業したころは、かろうじて雑誌の口絵に多色刷りの浮世絵が使われた。
復刻版を作って、それはそれで売れるのではないかとか考えて、祖父は続けた。
作り方をマスターして、浮世絵のエッセンスを持った作品を現在の(祖父の時代)作品として売ったらどうなるかと考えて、外国人のお土産用に売ったら大変売れた。
どういう絵を書いたら、外国人に喜ばれるかが解ってきた。
太平洋航路などに依って、外国人がたくさん来るようになって、祖父と日本に来たオーストリアの外国人と意気投合して、作品を作る事になる。(大正4年)
其作品が15点残っている。  
イギリス人が2年間世界旅行をして最後に日本に来て、スケッチしたものを日本の木版画にしたいと言ってきた。(バートレットさん)
大英帝国全盛時で、大変な値段(10倍ぐらい)で取引ができ、職人も頑張って大変いい作品ができた。

今までの浮世絵には全くないような浮世絵が出来たりした。
家には数枚残っているのみ。
橋口五葉 浮世絵を作ってみようという事になり、2年近く研究しながら、大正5年に作品を作る。
「浴場の女」  100枚作って半分ずつにして、橋口は気にいらなくて全部捨ててしまった。
今では1枚1000万円するが。
鏑木清方を訪ねて行って、門下生の伊東 深水に興味をもったが、先生がいいといわないと版画を作れなかった。
了承してくれて、18歳の作品 たいきょうと言う名品が生まれた。
門下生が次々に作品を作ってくれるようになる。
伊東深水は日本画の押しも押されぬ巨匠になってゆく。
100数十点が私のところに残っている。
近江百景 川瀬巴水が風景画を希望、意見が一致して500数十点を作ってくれた。

日本では好まれていなくて、外国ではもっとも売れた。
昭和の広重と言われた。  
もともとあった日本の美しさ、名所旧跡ではなくちょっと違った角度からとらえる。
雨とか雪とか夕暮れ、月明かりの夜の景色に名品が多い。
ふわーっとした柔らかさがある。 
油絵を1年間学んでいるので、いろいろな画風を取り入れている。
日本のでも話題になってきている。
昭和32年に亡くなるが、しばらくは無名の作家であったが、ここ20年ぐらいで展覧会で展示されて一気に有名になった。
スティーブ・ジョブズが川瀬巴水の大ファンである。
(若い頃日本に来た時に店に立ち寄り、川瀬巴水の版画絵を沢山購入した)

生誕130年 日本国内でも世界中で展覧会をやっている。
昔は年配の方が多かったが、最近は若い方が非常に多い。
川瀬巴水の版画をみるとこれが日本の本当の景色ではないかと、逆に言うと日本が西洋化してしまったのではないかと半分残念な気がします。
関東大震災までは浮世絵でもうけたお金を全部川瀬巴水、伊東深水の新しい版画につぎ込んで実験的なことをやっていたが、無駄な金を使えなくなって、売れる作品を作っていかざるを得なかった。
売れ筋に方向転換したと言われるが、実際よく売れた。
世界恐慌の時代に大変外国によく売れた。 昭和初期
木版画が世界で愛好されていて、日本は木版画については世界で一番技術的にも優れた国だといわれているが、日本の方に伝わっていないのが残念です。
版画にもっと興味を持ってもらいたい。
外国に関しては手作業であるという事をもうちょっとアピールして、技が世界で日本しか優れた技術が残っていないという事強調したい。
海外の会場で実演してアピールする必要があると思う。

技術者は江戸時代は1000人はいたと思う、明治末 数100人  
現在は彫師は10人ぐらい、刷り師が60人ぐらい。
10年ぐらいでようやく一人前と言ったところでしょうか。 やりがいのある仕事だと思う。