2025年12月25日木曜日

岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

 岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

岡本さんは京都大学卒業後NHKに入り、番組開発やBSでデジタル放送の立ち上げなどに携わります。 特に若いクリエーターを発掘する「デジタルスタジアム」を立ち上げ、さらにその番組の入選者の作品を紹介するデジタルアートフェスティバル東京では総合プロデューサ―を務めました。 NHK退職後は東京芸術大学大学院映像研究科教授へ転身、2017年からは副学長も務めました。 芸大教員となってからもEテレ0655&2355』のプロデューサーを初めとして、番組の開発と後進の育成に努めています。 小学校時代の放送部の活動でメディアの世界に興味を持ち、映像による物作りへの魅力を感じてテレビの世界に入ったという岡本さんに、映像による物作り、人作りへの思いを伺いました。

6年生の時に転校して、人がいないので放送部をやれと言われて、指導者がいない中で試行錯誤の毎日でした。  アナウンサー、ディレクターをやり段々慣れてくるとしゃべるのに歓びに目覚めていきました。  NHKに入りたいと思っていました。  シルクロード、漫画アニメなどを毎日見るのが日課でした。  中学の時にスターウォーズを見て、自分は作りたいんだと初めて思いました。 NHKに入ってディレクターとしても いろいろ勉強させていただきました。 NHKではプロデューサーとしての作品の方が多いです。 私が作った番組でデジタル・スタジアム』と言う番組が、私の人生を大きく変えた番組です。  2000年ごろでパソコンが普及し始めた頃でした。  若い人たちがそれを使って、自分の作品を作るようになりました。  その作品が面白くて、若いクリエーターたちの作品を如何に世の中に紹介できるか、という事が私の目標になりました。 テレビが一番紹介する場所ではないかと思いました。 そこから若いクリエーターたちが育っていきました。  番組は10年近く続きました。  

2008年にNHKを退職して東京藝術大学大学院映像研究科教授へ転身することになりました。 私はアニメーション専攻と言うところにいますが、最近は半分ぐらいが留学生です。    韓国、中国、アジア圏が多いです。  2012年から放送されているテクネ 映像の教室のプロデューサーを務めてます。  独学で勉強する人が多いので、テキスト替わりになるような番組が出来ないかなと思いました。  発注型の映画製作も番組のなかでやって見ました。   2020年からは「日本アニメーション教育ネットワーク」の代表理事もやっています。  アニメーション関係の教育機関、教育者もまだまだ少ないです。  日本映画産業全体から言うとこれまではトップ100に入るのが稀でした。 今後ビジネスとしても産業としても成り立つような形にしていかなければいけないと思っていて、今年はその元年だと私は捉えています。

「鬼滅の刃」の劇場編が、全世界の収入が1000億円と言われています。(日本では初めて1000億円稼ぐ作品。)  この作品は世界のトップ5に入っています。  世界を対象にしたビジネスが成り立つんだという事が改めて知ることができた作品です。 コロナを機に世界的にリビングルームで観られるようになり、爆発的にアニメファンが増えます。 日本のアニメ産業を活性化して海外に売ればいいじゃないかと考えますが、本数を増やしてもどうしても頭打ちになってしまう。 一番大きいのはアニメのスタジオの人員不足です。  少人数でやってるスタジオが多い。(少数精鋭)   増やしたくても増やせない。  日本のアニメ産業に必要なのは人材です。  

国の援助が望まれますが、海外と比べると少ない状況です。 アニメーターの見習い期間の給料だけでも補助してあげれば、日本のアニメーションスタジオはどんなに助かるかしれません。 基礎研修を公けの機関がやってあげるという事も大事です。 人材育成の補助は公共機関の役割かなと思います。 海外から学びに来る学生は凄く優秀です。 そういった人たちが日本で仕事ができるようになるのは負担も大きので、そういったところにも補助があると、人材確保になると思います。  

私は人材育成の方で貢献をしようと考えています。  卒業生が活躍して評価されるのは10年ぐらいは掛かりますので、せめて10年、20年の単位で人材育成を考えて行ったらいいのではないかと考えています。  日本の基幹産業の一つとして行くためには母数を増やしていかないといけないと思います。  プロデューサーの人材も枯渇しているので、これが最大の課題で、研究中です。  お薦めの一点は片渕 須直監督のアニメーション「マイマイ新子と千年の魔法」です。 

















































2025年12月24日水曜日

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)     ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)  ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

椿はもともと日本に自生していた花で、縄文時代からあっただろうということです。 文字上で現れてくるのは奈良時代からだそうで、以来日本人に愛されていきたと思っていましたが、小泉さんにお聞きすると、椿にももてはやされた時代も受難の時代があって、それにはいろいろな理由があったようです。  「椿ブームを調べてみると」、日本ツバキ協会 副会長小泉不二男さんにお聞きしました。

日本の山に自然に生えているもので、ヤブツバキとか山椿と呼ばれる一重の花ですが、北海小津にはないが多様の個体差はあります。  記録的に見ると奈良時代以降という事になってきます。  和歌などにも出て来ます。  花として見る以外に、油が貴重なものだったので、税として集められていた。 (椿油)  万葉集には椿を歌った歌が9首あります。  

「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ白妙(しろたえ)によしこの山の春の野」

「椿」と言うのは日本人が作った漢字なんですね。 ヤブツバキは日本と朝鮮半島の南の方だけです。  日本書紀にも記述があります。 白椿が突然変異で生まれたものを、目出度いものとして天皇家に献上したという記録が日本書紀に載っています。  お正月に茶道で白い椿を飾るという事は今でも続いている事です。 平安時代、鎌倉時代にはあまり登場しません。  推測ですが、当時他の物に関心が行っていた。 例えば梅(中国から入っている。)など外来の物に気を取られていたのではなかろうかと言われている。  室山時代の最後に安土桃山時代がありますが、茶の湯が熱狂的に流行する。   そこに茶花が必要になって来る。 椿が再び注目を浴びたと考えられれます。

戦乱が続いた後、江戸時代になるとようやく落ち着いて、お花を見ることができるようになった。  園芸をするゆとりが出来た。 その先駆けが椿であったと言われる。 徳川二代将軍の秀忠が当時の文献で花癖であった、花が好きで特に椿が好きだったといわれる。  それを知った大名が献上合戦のように行われた。 家光時代に作られた江戸城の屏風があるが、そこにお花畑が描かれていて、椿が植えられていることが判ります。  色々な変化のある椿を支えたのは北陸と言われます。  北陸にはヤブツバキとは違う別種のユキツバキがあります。 山の上の方のユキツバキとふもとの方のヤブツバキと自然交配すると99.999%以上が素朴な花になります。  中には一本変ったものが出来ます。 例えば八重よりももっと数が多いものとか、おしべの棒のところに花びらがあるように見えるものが出来たりバリエーションがでます。   それを見つけて農家の庭に植えられていた。 それが江戸、京都に運ばれて広がって行った。  元和寛永の椿ブームで図鑑、巻物が作られた。  そのころの多くの物は現在はなくなってしまっている。  

今でもいかに椿を残していくかと言う事は大きな問題です。  人が守ろうとしないと木でもなくなってしまう。  江戸の園芸ブームで新しく「わびすけ」(茶花で有名、ひそやかに開く)が生まれましたが、はっきりしたことは判っていない。  金閣寺に「胡蝶わびすけ」というものがあります。 後水尾天皇(家光時代)がお手植えしたというのが、現在も残っています。  京都のお寺には古いものが残っていて非常に貴重です。 「肥後椿」は肥後藩の武士たちが品種改良して、一本の木であっても赤いはずなのにピンクの花、白い花が咲いたり、してそれぞれを育てるといろいろな品種が出来てくる。 太い芯を選抜して、芯を見るというものもあります。  今はイタリアなどで人気になっています。

尾張藩ではお茶席で初釜(1月)、野開き(秋)のために合わせた花の咲く時期のものを求めた。 (つぼみがふっくらとしている。)  現在も「御殿椿」として伝わっています。 江戸時代には400,500と言われていましたが、江戸の最後に資料があって、江戸の最後に出たものは今に伝わっています。  染井村の植木屋さんが明治になってカタログを作って、今我々が目にするものと一致しています。  花形の変化、花色(椿は複色になりやすい性質を持っている。)、赤に白いものが入っている、その大きさによってもいろいろな品種が生まれてくる。 絞りといってピンクであればより濃い線状が入り線の太さもいろいろのものがある。

倹約令が出て、園芸植物の人気が下がってしまう。  飢饉の時代も関心がなくなる。  明治になるともっと大きな逆風が来て、ヨーロッパ、アメリカから新しい園芸植物が入って来る。 椿は明治以降忘れられてゆく。   染井村の植木屋さんもいなくなってゆく。 埼玉のさいたま、川口、上尾に新しい植木屋の里が出来る。 染井村から苗を貰ったり挿し木にして保護、育てた人がいます。(皆川さん?) 戦争で食糧難になって園芸から農産物への指導があったが皆川さん?は椿畑を残したそうで、それが無かったらかなりの数の椿を失ったと考えられます。化

日本の椿が中国経由でヨーロッパに広がり、日本の文化も紹介されて、19世紀に「東洋のバラ」として、ヨーロッパで大ブームになる。 (貴重なもので貴族の花)  ヨーロッパからアメリカに移って大ブームとなる。 (カルフォルニアなど気候が合う。 19世紀終わりから20世紀に広がる。)  コンテストもあり品種改良が進み、大輪華麗な椿に変身する。  戦後になってアメリカで大評判になっている人気の花という事で日本に伝えてくるが、それが日本の椿だった。  戦後に里帰りが起こった。(洋種椿)   日本ツバキ協会が昭和28年に出来る。 神代植物公園に皆川さんから譲ってもらって、椿園にしています。

30代なかばに銀座の椿展があり、そこで観た白い椿の花に凄く感動しました。 椿を調べれば調べる程興味が湧きました。 今でも毎年のように新しい発見があります。 これからは本当の椿の時代になる可能性があるかなと思っています。








 




2025年12月22日月曜日

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

山﨑徹(歌舞伎附け打ち)         ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

附け打ちは多くは歌舞伎で使われるものですが、登場人物の動きや 演技に音を付けます。      舞台で打っている姿も見ていますが、気は付いていない方が多いかもしれません。      附け板と言う板があり、けやきの一枚板で出来ています。  厚さは七分ぐらい。  打ちながら削ってゆくので消耗品です。   附け木は樫木で出来ています。   2本あり真直ぐになっています。 手前がちょっと丸味がある。 軽く握る。  左が先で打って右で終わる。 丸味のところを先に打って次に真っすぐなところで打つ。  力強い人、子供、女形が出てきたりするので、それによって緩急をつけてゆく。  立ち回りもいろいろと間合いを取る。  センスにゆだねられるところがあります。狂言では使われていないが、狂言に附け打ちをやってみる。

山崎さんは1969年2月生まれ。 岡山県倉敷市出身。 高校卒業後テレビや舞台を制作する会社に入り、舞台に関わる仕事をスタート。 20歳で上京して歌舞伎の大道具に携わるようになる。 附け打ちの世界に入る。1992年23歳の時に、新春浅草歌舞伎で初舞台、以来国内外の歌舞伎公演に出演するほか、附け打ちのワークショップも積極的に行っています。 今月は劇団新感線の井上歌舞伎爆烈忠臣蔵に参加中。普通の現代劇にも嵌めたもの。 普通の歌舞伎公演の10倍20倍の稽古をしました。   時間も長くて3時間半ありました。  

附け打ちに入るきっかけは舞台の裏方の仕事をしていて、こういったお芝居の世界がるんだという事を知って、東京に出て行きました。  歌舞伎の世界にも入って行って、附け打ちを知ることになりました。  現在附け打ちの専門職として12人います。 

歌舞伎では見せ場が出て来ますが、舞台から花道を入ってゆく事なんですが、附けを派手に入れて打ち込んでゆく。  勧進帳で弁慶が花道を引っ込むときに、役者と附け打ちが一対一でお客さんから見えているのは二人だけで、その時には緊迫感がります。

日本の音とは、附け木など命を頂いているもの、そこから生まれた音と言う事だと思います。(先輩から教わりました。)  命を吹き込むように我々が打ってゆく。 日本の伝統芸能で使われているものはすべてそうじゃないかと思います。 「芯」」の有る音を出しなさいと言われます。  芝居に合わせた音、役者の心情を組んで打って行かなけらばいけない。 役者の気を感じて打ってゆくという事が大事です。 体験をしてもらうようにワークショップをやっていて今年で10年目になりす。 













2025年12月21日日曜日

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ②

藤井礼子(手描きジャワ更紗工房主宰)    ・着物の魅力を伝えたい ② 

藤井礼子さんは1958年長崎県生まれ。  短大卒業後石油会社に勤務、社内結婚した夫の赴任に同行して20年余り海外生活を送りました。  4か国目のインドネシアで特産品であるジャワ更紗(バティック)に魅せられ、産地を訪れるようになりましたが、インドネシアでも経済発展の陰で伝統産業を担う人が減っている事態を目の当たりにします。 どうしたら職人たちの暮らしを支えられるのかを考える中で、日本向けにデザインしたジャワ更紗の帯の販売を始めることにしました。  現在は年間70本を目標に製作しています。

実際の工房はインドネシアにあります。 福井県の仕事場ではデザインを考えたり、インターネットでインドネシアのスタッフとデザイン、色の説明したりしています。 ジャワ更紗は1800年代から作られていたという伝統の布です。 ろうけつ染めです。  私がやっているのは手書きです。 ろうが付いているところには染料が付かないので、染めたくないところにろうを付けます。 腕のいい職人さんでないと出来ない、髪の毛ぐらいの細さのチャンティン(蝋噴出ペン使用の手書きと、cap(チャプ)と呼ばれる銅製のスタンプ押し)でろう付けする事は出来ます。 細いチャンティンを使うのでろう付けには時間が掛かって、帯を作るのに早くて6か月ぐらい、長いものでは1年以上かかるものもあります。日本の日の光とか風土に合うものを、日本の人が素敵だと思てもらえるような色と柄を使ったものを作ってみたいと思いました。 

母は洋裁和裁が得意な人でした。  小さいころから結婚するまで母が作ったものをずっと身に付けていました。  成人式の振袖も母が縫ってくれました。布好きでした。  結婚して海外で暮らす様になりました。 現地の言葉で話すという事が仲良くなるためには大切な事と思います。  最初はアラブ首長国連邦のアブダビに来ました。(イスラム圏)  インドネシアは4番目の駐在国でした。  行った時にはインドネシア語は全然話せなくて、家にいる時にはテレビでインドネシア語を流して聞いて、近所で話せる機会のある人たちと出来るだけ話すように心がけました。  

インドネシアは布の宝庫と言われる国です。(行ってから知った。)  ある店に行った時に美しい布で作った服を着ていて、バティックはいいなあと魅せられました。 「花更紗の神様」という工房で作られたもので、オーダーしてから3年後にようやく手にいることが出来るという事でした。  治安も悪くジャカルタから11時間ぐらいかかるところなので、行くことに最初な反対されましたが、なんとか説得しているうちに行けることになりました。 最初はその距離の半分ぐらいのところの工房にいくことにしました。 段々いろんな村に行きました。  腕のいい職人さんが段々辞めていきました。  腕のいい職人さんのものは高くてなかなか売れないために、腕のいい職人さんほど仕事がないということが起こっていました。  危機感を感じました。  

自分の洋服用に依頼はしていました。  一時期日本に戻った時に着ていたら、洋裁店の方の目に留まって、うちに置いてみないかと言われました。  それがきっかけになって仕事を始めました。  私は最初からシルクで作っていました。  或るお客様からシルクだから帯にも出来ますねと言われて、帯を作ってみようと思いました。 ただ帯にするのには強度とか問題があるのではないかと思いました。 作ることになりましたが、布、ろうけつ染めの職人さんは頑固なところがあり、新しいことに対して、抵抗がありました。 何とか説得して、作ってもらえるよぅになりました。 下絵師さんにもいろいろ説明して納得してもらえるようにしていきました。 (実際に帯を締めて柄の位置とか形とか説明)  

口コミで段々広がっていきました。  工房の職人は34人います。  二つの村に分けて分担しています。 下絵の職人が男性でそれ以外は女性です。  下絵師の人は気難しい人ですが、彼の技術が素晴らしくて、違うものも作れるという思いがあります。  ここ5,6年行っていませんが、インターネットの普及で情報のやり取りができるようになって、行かなくても対応できるようになりました。  私が思っていたよりもいい感じで染まっていることが多いです。  私は日本向けに合う色で染めたいと思っています。 2009年、世界遺産にバティックが選ばれました。  インドネシアではバティックを見直す機運が高まっていると思います。 帯を作るようになって着物も着るようになって、着付けも習ってお茶もやる様になりました。 























2025年12月20日土曜日

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング

丹羽薫(プロトレイルランナー)        ・私を変えたトレイルランニング 

トレイルとは未舗装の道のことです。  山や平原、森林など自然の中のおもに未舗装の小道が設定されて、走り抜けるものです。 時に酸素の薄い山岳地帯そして木の根や石が転がるような悪路も走ります。 距離は大会によって幅がありますが、初心者も参加できる10km、20kmの短い距離から100kmを越え、中には400kmを越えるとてつもなく長い距離を競うレースもあり、これがトレイルランニングです。 こういった長い距離の場合は数日に渡って走り続けることもあるという過酷な競技です。 丹羽さんはおよそ160kmを越えるような超長距離と言われるレースを得意としています。 身長152cmと小柄で細身、ショートカットの髪をなびかせ大きなリュックサックを背負って山を駆け抜けます。 これまで世界の多くの大会に出場、幾度も表彰台に立っている日本のトレイルランニング界女性ランナーの第一人者です。 トレイルランニングのキャリアーはおよそ15年、現在50歳と言う丹羽さんです。 ことしは5月にインドネシアで開かれたおよそ160kmのレース、9月にイタリアで開かれたおよそ450kmの距離の大会、11月に南アフリカで開催されたおよそ160kmのレースに挑戦しました。 今年の春左足のじん帯を痛めた丹羽さん、一つ目と、二つ目のレースは途中でリタイアです。 しっかり治療して臨んだ南アフリカの大会では完走して上位の十位でレースを終えています。 丹羽さんにトレイルランイングの魅力、50代を迎えてのレースの向き合い方を伺いました。

南アフリカの大会では33時間28分4秒、世界中から実力のあるランナーが集って、男女合計150人が参加。  女性ランナーが25人で6位に入りました。 レベルが上がていて30時間を切らないとトップ5に入れなかった。  自分としてはいいレースが出来たと思います。 いいレースをした後は回復も早いです。(3日後には走れるようになった。)  

高校時代は柔道部、大学はヨット部、就職してからは馬に乗ったりスキーをしたりしていました。  35歳の時にトレイルランニングと出会い、20km程度の短いレースに参加しました。  トレイルランニングはずっと走り続けなくてもいいので、登山の延長の様な感じで自然の中を走るので五感を刺激して、自分にあってると思いました。 マラソンは出た事は無いです。  練習は基本的にはロードとか山道を3,40kmをほぼ毎日走っています。 筋トレもしています。  レースの前になると一日7,8時間走っています。 一人で走るのは辛いので犬と一緒に走っています。  完走するというのは強い心を持って諦めなければ、多くの人ができることだと思います。  海外のレースなどは可能な限り早く現地に入ってコースを辿ってチェックしておきます。  試走して、食べるもの、水分の量などを決めます。

毎年クラウドファンディングをして海外遠征費を皆さんに支援してもらっています。    走っている時には戦略的な事とか補給のタイミングなどを考えながら走っています。    360kmのスイスのレースに出た時に、男性が財布を落としたと思ってみたら唯の石で、そういった幻覚を見ました。  他にも幻覚を見ています。 睡眠不足で認知機能が低下しているようです。  そのペースで走ると遅くなるので、5分ぐらい寝るというのも一つの戦略です。 2023年 イギリスのウエールズで開催された時には、最後の頃も身体が動いていて、順位を上げて行って、ラストの4kmぐらいで一人抜いて4位に入賞したことがあります。 興奮状態でそれまで感じていた足の痛み身体の痛みが全部吹っ飛びました。

超長距離になると経験がものを言うレースかと思います。  身体にいろいろなトラブルが起きるので、経験が多いとトラブルシューティングの引き出しが増えて行きます。  後半になってペースを上げることは怖いです。  そのテクニックも経験の多い方が対応が出来ます。 これから後何年続けられるか判らないですが、、毎日コンスタントに練習が続けられる限りは、頑張りたいと思っています。  目が衰えて来て、夜走る時には苦労します。又デジタルの時計では最近色々な情報が入って来るタイプだと見にくくなってきましたが、最新式のものは明るくて便利です。 

関西には100マイルレースが少なくて、周回レースも面白くなくて、関西でも作りたいと思って、始めました。(5年前から)  人気のレースになってきています。  女性も30%ぐらいいます。(普通10%程度)  3県にまたがるコースなのでいろいろなところに許可を貰ったりするのに、一回目はほとんど自分でやったので大変でした。 今は実行委員会があって運営を分担してやっています。  世界でも女子が3人ぐらいしか完走していないレースがインドネシアであり、完走して表彰台に乗りたいです。 あと今年棄権した450kmレースで表彰台に立ちたいと思ってます。























2025年12月19日金曜日

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に

向谷地生良(ソーシャルワーカー)      ・生きづらさが希望に 

向谷地さんは1984年北海道浦河町に精神障害者の活動拠点「べてるの家」を設立して、現在は理事長を務めています。 2001年「べてるの家」のメンバーと一緒に当事者研究をはじめました。 不登校や精神障害など様々な生きずらさを抱える人たちが集まって対話をする当事者研究は近年注目されています。 当事者研究と言うのは仲間との対話を通して自分自身のことをよりよく知ろうとする実践です。 当事者研究が始まって今年で25年、向谷地さんは大腸がんと闘いながら当事者研究の普及を目指して全国を回っています。 当事者研究はどのようにして生まれたのか、又当事者研究を通して向谷地さんはどのように感じているのか、伺いました。

今年始めに大腸がんが見つかり闘病中です。 3月に手術をしてまだいろいろな段階があり8割までは来ました。  あと一回二回手術をして来年3月に仕上げという事になります。    当事者研究は25年を迎えて、準備期間でこれからさらに盛り上がってゆくのかなあと思います。   こちらに来る患者さんの背景にはいろんな人との対立やトラブルがあるんです。  そういう人たちに私が一番学んできたというか、そういう人たちに一番教えられたという意味では、私が一番当事者であると言う実感が常に出発点になっているという感じです。     

当事者研究は2001年に始まりました。 ソーシャルワーカーとして48年が経ちます。   親子関係、教育現場、職場とか社会全体がこの人たちに学ぶという、この循環をどう起こしていけばいいのか、例えば嘘を言っただけで・・・?がえる人たちがいる、隠し事をしただけでも不安で、気持ちが不安定になる人がいる。  あの人が嫌いだと気持ちの中にわだかまりを抱えただけで、バランスを崩して早くその人たちと仲直りしたりして、人に打ち明けないとままならない、そういいう弱さ、脆弱性を持った人たちがいます。 私たちは嘘を言っても人を憎んでもそれはそれとして普段仕事をしたり生活したりして別に影響を与える事は無い。逆にどっちが病気なんだろうと、現場のなかにいて反転して私たちは学ばなければならないことはいっぱい出てくるんです。 

憎たらしいと思った人と早く仲直りしてお互いがいい気持ちになれるようにしなければ生きて行けないという人たちがいるならば、むしろそのひとたちの側から社会を見た時に、和解できなくて対立したままさらに大きくなってゆくような、こじれるケースと言うのはいっぱいあるわけです。 仲直りしなければ生きていけない人達から、私たちはむしろ学ばなければならない。 正直になる事、人の目を気にするのではなくて、自分らしさを軸に生きてゆくとそういう人たちも生きる気になるという。  私たちは本来大切にしなければならないことを誤魔化しても生きていけるような体質を持った私たち、誤魔化しのきかない生きずらさを持った人たちを考えた時に、メンタルヘルスとしては、そういった人たちを病気を持った人たち、障害者としてくくってしまうわけです。  そうじゃないんじゃなっかと思うんです。

眠れなくなったり、一体何が起きているんだろうという事を一緒に対応化?しながら一緒に解き明かしていくと、子供の時の家族の中でのいろんな辛かった経験を封じ込めていたりとか、正直になれなかったりとか、仲直りをすることに凄く躊躇したりすることが、一緒に研究していると判ってきて、仲直りするにはどうしたらいいかという事をみんなの経験を生かしながら一緒に考えてゆく。  そして実践してゆく。 

今迄は貴方の思い込みだとか、専門家が答えを持っていてその正しさを伝えて導いてゆくという発想ではなくて、一緒に考えてゆくプロセスのなかで、自分の大切なものは何かを一緒に見出してゆく事が、これは皆にも使ってもらえるかもしれない、自分の経験が皆さんの役に立つかもしれない、自分にとっては大変だけれども大きなものであるという、そういう前向きさ、自信が湧いてくるわけです。  患者の清さん?と一緒に研究している私も、私を研究しているんです。

最初、清さんに対して凄く腹が立ちました。  約束を守らない、予定通りにものが進まない、素直ではない、トラブルばかり起こす。  彼だけには物凄く腹が立つわけです。 これは自分にいったい何が起きているんだろうと思いました。  こちらも厳しいことを言ったり辛くあたていたために、お互いが居ずらくなる、そしてこういったことが社会の中のあちこちで起きているという発見です。  お互いを研究者として眺めることによって、繋がり、連帯できるという関係が成り立つわけです。  二人だけではなく、似たような経験の人が来たりして、みんなが集まってきてワイワイしたりします。  その人たちからいろいろ経験を学ぶことによって、自分の抱えている大変さの意味が判ったり、むしろこのままでいいのかもい知れないという様な気付きが生まれたりします。

私たちは自分だからこそ見えない自分の領域が必ずあるなあと、私たちの実感です。 人から見える自分と自分から見える自分の差は凄く大きいと思います。 人は一人では生きていけないし、ひとは関係の中で人間として生きられる。  自分の判らない領域を積極的に発信して、多くの人、家族に支えられたと言う経験を通して、積極的に自分の足りなさ、助けて欲しいことを開いて行って周りの情報、経験を受け取りながら、今の自分の生活を開いてゆく。  「弱さの情報公開」と呼んでいます。  自分のなかだけでこっそり解決したり、蓋をするのではなく、無理のない範囲で相談、打ち明けてみることによって、周りも打ち明けてくれて参考になります。 上手くいかない経験の方が大事だと思っています。  自分の中で一番うまくいかない経験に自分が寄り添う。 自分に伴走する感覚を私は大事にしてきました。

浦河で最初にあった人は、30代の漁師でアルコール依存症で奥さん、4人の子供がいる人でした。 お酒を巡るトラブルの絶えない人でした。  説得して医療につなげ、アルコールを3か月間絶って、心理教育を受けて退院した後、断酒会に所属してミーティングを重ねながら立ち上がって行く、そのモデルがあるわけです。  それに乗るように日夜働きかけをする。 私たちのなかには生命的歯車がすでにそなえられていて、 それを意識して使ってゆく事が私たちのイメージする対話であり、その一部として当事者研究と言う活動を今しているという感じです。  対話については当たり前すぎて気付かないでいる。  対話的に備わった一つの営みを一つの社会的な仕組みとして積み上げてきたのが民主主義社会であります。 

当事者研究をはじめる前から「べてる」には、自分ではどうしようもないことを笑い飛ばす文化がありました。  子供の世界はそのまま遊びの世界です。  子供たちが学校に行こうと思ったら、どういうわけか行きにくいという現実を語って発信してゆく、これは問題ではなくて社会で起きている何か大切な一つのシグナルであると思います。  繋がり合う事で今の学校というシステムが本当に私たちに合っているのか、という事です。

去年1年間に自殺した子供は527人に上ります。(これまでで最も多い。)  心の病気で来る外来患者はここ20年で2倍以上に増えています。  生きずらさを感じている人が多い。 家族的な背景、社会的な背景、職場の環境とかが生きずらさを招くという問題意識がありますが、 もっと大事なのはそれらが全て解消されたとしても、なおかつ私たちは生きづらいという、根源的な生きづらさを持っているんだという、生きづらさと言う経験そのものの中から実は生きやすさが生まれるんだという、生きにくさにもっと発想を変える必要がある。

自分の情けない経験、失敗した経験をどんどん前向きに発信していき、上手くいかなさ、不確かなことをみんなが堂々と発信し合える、そして生かしあえるる社会になったらいいなあと思います。

(説明が難しくて、上手く理解でいない部分がいくつかあります。)




















2025年12月18日木曜日

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

中林美恵子(早稲田大学教授)        ・トランプ2.0の衝撃

今年世界から大きな注目を集めているアメリカのトランプ大統領、アメリカ第一主義を掲げ各国に厳しい関税措置を打ち出すなど、国内外に多きな影響を与えている二期目のトランプ政権は、これから何を目指そうとしているのか、そしてアメリカ国民がトランプ大統領を支持する背景には何があるのか、中林美恵子さんに伺います。 中林さんはアメリカの大学院で学び、アメリカ合衆国連邦議会上院予算委員会で10年に渡り国家予算編成の実務を担うなど、政治の中枢で働いた経験がある、アメリカ政治の専門家です。 

二期目のトランプ政権は一期目と大分違う政権になっていると思います。 一期目は政治には素人であり、政治経験も軍隊の経験もないという事で、周りの意見を聞いた閣僚の選択などをしていました。 本人がちょっと変わったことをやろうと思っても、閣内に止める人が複数いた。  本人がやりたいことをやるために、反対する人を入れないために、本人の直接知っている人を選んだという事が特徴です。 一期目よりもトランプカラーが相当出る政権になっている。  移民に対するアメリカ人の脅威感というものを、二期目もしっかりと強硬な形で受け継いで実行している。  移民を強制送還するために、外から来た人を探し出し捕まえてゆくというようなことを強硬に行うようになりました。 そこに予算もたっぷり付けるというようなこともしています。  

関税については最初は中国にかなり関税をかけましたが、バイデン政権になっても取り外されませんでした。  日本も鉄鋼、アルミなどに関税をかけられて、バイデン政権になってから例外をたくさん作って、重い部分を回避してきたところがあります。 二期目になると思い切った関税をかけてきています。  物作りがアメリカになくなってしまったという事で、アメリカの一つの敗因として見ているわけです。  製造業をアメリカに取り戻したいという事です。  バラバラになった家族を作り、コミュニティーを作り、伝統的な価値感を継承してゆく大事な人間の営みだという考え方に基づいているんだと思います。

今はマネーゲーム、AI、デジタルとか,そういったものに移ってしまったことにより、昔ながらのスキルを活かすことが出来ない、取り残された人が出て来てしまった。  こういう人たちが麻薬性のある、とても安く手に入る薬に頼って、そこから抜け出せなくなって地域が荒廃し、自殺者も増え、アメリカの社会が荒んでゆく、これを直したいと言うのが製造業だという事が根底にある。 トランプ大統領を支持する人たちの中に、そういったアメリカ社会に対する危機と言うものが可成り積もり積もって、今迄の伝統的な主流派の、政治家、官僚に任せておいても今後も全然変わらないのではないかと言う気持ちが積もっていた。  そこに出てきたのがトランプ氏だった。  このぐらい変った人でないとアメリカの積もり積もったアメリカのエリート政治は直せないのではないかとおもって、かけてみた人が二期目にも出て来た。  それを生んでいるアメリカ社会を私たちが見て行かないと、このトランプ現象は、トランプ氏が退任してからも続く可能性はある。  彼は退任した後も発信するかもしれない。 

自分たちが追い詰められたという感覚持った人たちは、伝統的な主流派の政治を見えてこなかった人たちなんです。 そこに光を当てたというのがトランプさんの天才的なところで、ワシントンにいた人たちにはこれが目に入っていなかったんでしょうね。  現在のトランプさんのことを見ると、本当に極端なことを言うし、昨日言っている事と今日言っている事とひっくり返るし、いったいどんな人なんだろうと、私たちはかく乱されてしまうというところがあり、トランプ研究に走ってしまう。  トランプさんは今自分が何を考えているのか、次にどんな手を打つか、知られたくない人なんだそうです。  アメリカの或る方からやっていることをしっかり見ないと間違えますよと言われました。  長期的に見ると、何故トランプさんを選んだのか、有権者の方を見る必要があります。 

11月4日に行われた地方選挙、ニューヨークの市長選挙がありました。 バージニア州、ニュージャージー州で知事さんが選ばれました。  どの選挙区でも民主党が勝ちました。  反トランプ政権の芽がふきだしたかのように見えますが、よく見るとちょっと違いが見えます。  ニューヨークの市長選挙で当選したマムダニ氏は34歳で、イスラム教徒、インド系の方ですが、ウガンダで生まれて幼い頃アメリカに来て、国籍を取った移民中の移民です。  ニューヨーク州や市などで、今迄光を当てられてこなかった問題がどんどん膨らんだという事に気が付かされるんです。  民主党の強いところですが、民主党の予備選挙で前のニューヨーク州の知事をしていたアンドリュー・クオモが戦ったが、予備選挙で負けました。   本選挙では民主党ではなく無所属として立候補しました。 でもマムダニ氏が勝ちました。 民主党の中にも反エリートの感覚が出て来てるのではないかと思います。 今迄の政治に怒る根拠を持っていた。 過去5年間の家賃の上がり具合を見ると、25%ぐらいあがっているが、給料は1%ぐらいしか上がっていない。  自分の家賃の半分ぐらいを家賃に費やさなけrばならない人たちも出て来ている。  24%ぐらいは貧困層だと言われる。

民主党の中で起こったニューヨークの市長選挙の構図と、トランプさんが共和党の中から芽が出て来た構図は、実は同じではないかという風に言われる。  マムダニ氏が言っていることは出来るかどうか、本当にわからない、(おそらくできることは相当多いと思うが)それでも投票してみようというのはよっぽど限界に来てるのかなと言うところはあります。 アメリカの政治風土のなかにぼちぼちトランプさんが唱えたような、反エリートの意識が出て来ていて、(エリートに対する失望)ニューヨークの市長選から左側からも見えて来た。

年収でもトップの0.01%ぐらいの人は、1979年をベースにゼロと考えれば今は800%ぐらいアップしています。  トップ1%だと600%アップ、下の20%はほとんど伸びていない。     格差がどんどん広がっているという事も、アメリカ社会の暗い部分、不満が大きくなる部分だと思います。  トランプ政権が起爆剤になった要因だと思いますが、これが混乱や分断の象徴と言われていますが、ヨーロッパには来ていますが、日本も来る可能性があります。 極右派の票がどんどん伸ばしています。  トランプさんの真似をする政治家が各地に出て来ているものと思います。 それが分断に繋がっていくという事があると思います。

保守とリベラルが分断と言う風に見がちでしたが、エリート支配と生活者主義、生活者が主導すべきだという考え方というものと、グローバリズム対地域主義というものが台頭してきているので、いまはその変遷期であるが故の混乱ではないかと私は考えています。  アメリカは変革を目指す事のできる、社会実験を出来る国なんです。 アメリカが第二次世界大戦後、グローバル社会のリーダーとして、民主主義のお手本としてかなりリーダーシップを発揮してきた。  アメリカに負担や責任が押し付けられているではないかと、同盟国として責任を果たしていないのではないかと、今迄のエリート政治家だと今までのまんまのことをするに決まっているので、落ちこぼれた人に変えてもらうしかないという気持ちになるまで、相当引きずりました。 オバマ大統領は世界の警察官ではないと言った。  バイデン大統領は同盟国と一緒になって、格子状の安全保障の体制を作ってみんなで抑止力を発揮すればいいのでないかと言う言い方に変って行った。  トランプさんになったらアメリカ第一主義となった。    他の国もそうしろと、9月の国連の演説で堂々と述べている。  世界秩序が変ってしまうかもしれないという時代に入ってきています。

アメリカは日本にとっても世界にとっても重要な国です。  トランプさんの言動だけにとらわれることなく、振り回されていたら、トランプさんさえいなくなれば、アメリカは元通りに戻るという間違った期待が出てくる可能性がある。  アメリア国民は大きな壁を感じてしまっているので、トランプさんが選らばれたと認識すれば、私たちの見方も変わらなければならない。  ヨーロッパも混乱しています。  今の日本は世界がうらやましがる状況にあると思います。  日本の社会の安全さ、人間同士のコミュニケーションのいいところが残っている。バランスを取りながら日本の良さを残したら、世界中の人がうらやましがる気がしました。  

私が生まれた家は渋沢栄一の産まれた家のすぐ近くなんです。  農家で泥まみれになって遊んでしました。  知らないことに対する興味は大きかったのかもしれません。  政治は混乱していますが、アメリカには素晴らしい個人個人がいっぱいいると思います。 横並びと言う意識はなく、頑張った人にはそれなりの報酬と光の当たるものが与えられて当たり前という事で、自分は自分と言う自由があります。 日本にいる時には周りを気にしていましたが、こんなに自由なんだ、何をやってもいいんだと感じました。 お互いに認め合うという事もありました。  

来年は1月に中間選挙があります。 もし下院だけでも民主党が取ってしまったら、おそらく弾劾裁判にかけられると思います。  上院は100人のうち1/3づつ2年毎の改選なので、政党がひっくり返るという事は厳しいが、下院は435人全員が改選になるので、民主党にもチャンスが回ってくるという事で重要な分岐点になると思います。  

若い人は自分の好きなことを捜してゆくという事はとっても大事だと思います。 好きなことは深く集中してできるので、好きなことを捜して思い切りやって欲しいと思います。