2026年9月17日木曜日

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」 

味噌や醤油、日本酒、納豆と日本の発酵文化の魅力を伝え続け、発酵という言葉を広く世の中に浸透させました。 小泉さんは東京農業大学名誉教授農学博士です。発酵学、醸造学、食文化論の第一人者として長年研究に携わりました。 世界50以上の国と地域を歩き、発酵食品や珍味を尋ね歩いたことから、発酵仮面、鋼鉄の胃袋などの異名でも知られています。 昨年は、長年にわたる発酵研究と、日本の食文化への貢献が評価され、文化庁長官表彰を受賞しました。 現在83歳小泉さんの発酵とともに生きる思いを伺いました。

福島県で生まれて、小さい時から、酒の匂いを嗅いで育ってみたいなものです。   6人兄弟の末っ子です。生まれた時から、発酵食品に囲まれて育ちました。囲炉裏の火傷を防ぐために右手に身欠きニシン、左手に味噌を持たせると泣き止み、それらをしゃぶっている間は大人しかったといいます。 山にはいろんな食べ物がありました。  小さい頃から何ごとにも好奇心持ってました。 動物性たんぱく質は、赤ガエルをよく食べました。 青大将、やまかがし、シマヘビなども食べたことがあります。 

私の父は酒屋の長男で戦争で兵隊に徴収されました。 部下と共に中国からベトナムに行きました。 母親に稲の種と大豆の種をベトナムに送るように手紙が来て送ったそうです。 それを現地の人とともに米作りを始め味噌汁も作ったそうです。 昆布の味噌漬けは本当においしかったです。 母は醤油屋の娘で、そこから酒屋に嫁いできました。 文学少女でした。小学校4

年生の時に母を亡くしてしまいました。 寂しいだろうと言うことで、父が私専用の台所を作って、そこで自分で料理して作って食べました。 

父から教わった事は、日本人になりきれということでした。  毎日ご飯と味噌汁と漬物を食べてきました。 味噌汁と漬物と言う2つの発酵食品がありました。  クジラの肉は安くて本当によく食べました。 日本食を食べてきたので、83歳まで元気でこられたと思います。 東北大学の学部に行きたいと思っていました。   発生生物学と言う学問があって、それをやりたかったです。 しかし、酒屋の統合という国からの命令があり、発酵技師が必要になって東京に行くことになりました。 

東京農業大学に入学しました。 大学の1年から酒造りの授業をやることができました。 個人に顕微鏡が与えられ、酵母が発生するのは、全部目で見えるわけです。それから発酵学、醸造学が好きになりました。 その後世界を旅することになりました。 訪れた国は、世界50、 60箇所以上で600種類以上の発酵食品を食べてきました。 その中で1番珍しい食べ物は実は日本なんです。 それはふぐの卵巣のぬか漬けです。 (石川県)ふぐにはテトロドトキシンという青酸カリの約700倍の毒が入ってます。 ふぐをぬかみその中に付けて、長年おいておとくと毒がなくなってしまうわけです。 世界のどこでもこんな猛毒を食べてしまう、発酵してすごいものだと思いました。 日本人と言うのはものすごい好奇心がありました。 江戸時代からこんなことをやっていたと言うのはすごいなぁと思いました。

ボリビアと言う国がありますが、そこの民族は今でも口に穀物を入れて噛んで吐き出して、それで酒を作ってるんです。  口噛みの酒といいますが、日本では既に奈良時代に作ってるんです。  巫女たちが蒸した米を口にいれ踊りながら噛んで容器に吐き貯めて酒を造ってその酒を神にささげたと古事記にちゃんと載ってます。 唾液の中に米のデンプンを分解するアミラーゼと言うデンプン分解酵素があるから、噛んでるうちにデンプンがブドウ糖になってしまいます。 それを吐き出して、口の中に酵母があって、それが酒になっていくわけです。 日本でもペルーでも口噛み酒を作るのは女性です。それは現在調査中です。神様との関係があるのかもしれません。

播磨の国風土記に、神棚にコワメシを供えたら、そのうちカビができて、それをカビ立ちと言ってましたが、語源が変化して麹になりました。 実は麹菌は日本にしかいません。 醸造に使われる麹菌は日本にいません。 701年に大宝律令ができましたが、その中に4種類の醤油を作っていたと言う風に書かれています。  1つは穀物で醤油を作る穀醤、お魚で醤油を作る、それを魚醤、お肉で醤油を作る肉醤、野菜で醤油を作る、それを草醤、 4つに作り分けていました。 日本人の発酵と言うものに関しての考え方。応用は本当にすごいです。 発酵食品が日本の民族を育ててきたといえます。 麹菌がユネスコの無形文化遺産にまでくっついちゃったものですから素晴らしいことです。 

漬物だけで日本には1500種類以上あると思います。 タクワン漬けだけで日本には70種類あります。 新潟新潟市西蒲区角田浜地区に行くと、「なまぐさごうこ」というのがあって、江戸時代から作られていて、そこの村から出ませんでした。 イワシを3年ぐらい塩浸けしておくとイワシの醤油ができるわけです。 それをこして、大根をイワシの魚の醤油につけてそれから2年おきます。 浸けた大根を焼いて食べます。 大根だけれどもイワシの味です。 

70代で大病を経験しました。 心臓を患って手術をしましたが、その後はピタッと良くなりました。  発酵食品のおかげだと思います。 東京農業大学のほかに全国各地の大学の客員教授をして、発酵食品の素晴らしさ、発酵は人を作るんだと言う事、街づくりもできるんだと言うことを話しております。 発酵食品は自分で作れると言う事、それが自信になって食生活が豊かになります。 発酵の輪ができていきます。





2026年9月16日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」(後編)

馬場あき子(歌人)      ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ.。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)に在学中に短歌結社「まひる野」に入会しました。 昭和の歌人の代表の1人である窪田空穂の長男一郎とその元に集まった若い歌人たちによって創刊された「まひる野」では、短歌の創作だけではなく、後に夫となる岩田正と知り合うなど充実した日々を過ごしました。 大学卒業後は教員となり、組合活動にも従事し、多忙な日々を送る中 1955年に第一歌集「早笛」、1959年に第二歌集「地下にともる灯」を発表し、女流歌人として注目を集めました。  その後戯曲、評論など執筆の場を広げ、1977年に 29年に及んだ教員生活をにピリオドを打ち、夫の岩田正と「かりんの会」立ち上げ、新たな歩みを始めます。 2021年にはそれまでに発表した27の歌集およそ1万首を網羅した「馬場あき子全歌集」を完成、今年新しい歌集「アスパラの芽立するころ」を発表しました。 馬場さんの短歌創作の歩みや今思うことなどをお聞きします。

伝わらなくてもいいと思っていて、自分が言いたいことを言ってそれ人が享受してくれれば幸いです。 享受されなくてもいいです。 最初は自己満足そこから始まります。 大学ノートは37冊目になります。 小学校の4年生の時に日中戦争が始まりました。  女学校の夏休みの宿題に短歌を作り始めました。  テーマもだんだん広がっていきました。 だんだん人の歌を読むようになります。  古典和歌、古典俳句などを読んで感動する事は多いです。  

友達が薄い歌集を二冊買ってきました。  「あららぎ」と「まひる野」でした。 「まひる野」に入会することになりました。 (昭和21年) 近代短歌で歌っていくのは私の出発でした。 私は中学校の先生になりました。 お能にも心酔して稽古を始めました。 私は中学生を中心にした彼らの生き生きした世界を歌いました。(第一歌集)  組合ができて、左翼の勉強もさせられました。 いろんなデモに加わっていくうちに一端の左翼になっていきました。 それが第二歌集。 

寺山修二と塚本邦雄が出てきて、鮮やかな歌を読んでそういった言葉が欲しいと言うふうに思い出しました。 私自身短歌をまとめることができなくて10年かかってしまいました。  第三歌集「無限花序」10年の後に出しました。 60年安保とかデモに毎回出かけるようになり、教育界からにまれるようになりました。    ある時、落ち武者ばっかりが集まるようなグループに加わることになりました。 寺山、塚本を対象にした勉強を始めるようになりました。 寺山、塚本と知り合うようになり、だんだん歌壇の中央部に入っていきました。 

最新の歌集「アスパラの芽立するころ」は、コロナ禍で友達との交流が絶えてしまいました。 友達を作ろうと思って、それがかたつむりだったりカメムシだったり虫でした。  ゴキブリの歌も30首作りました。  自分だけ生きてればいいと思っている非情な人間というのを歌っています。  6人家族でしたが次々に死んでいて私1人が残りました。  ある年1人の正月を迎えます。  お正月に1人でたった1個の餅を食べるわけです。それはまさに仮想空間ではないかと言う風に思いました。

万葉集の防人の歌がありますけれども、何故か東国から九州まで防人を連れて行くわけです。 九州までの行きも帰りも費用は自分持ちです。 大和王権がいかに強かったかと言うことです。  地域の中でもお金持ちの村長、副村長クラスの人たちを徴発していきます。  帰りは現地解散ですが、お金がないから帰れないので現地の妻と結婚して土着して九州人になったりするわけです。 出発の日が行き別れの日になるわけです。 

私って一体なんだろうと考えますけれども、どんなふうに生きてきて今に至ったのか考えますが、自分と言うのはなんていい加減な生きた生き方をしてきたんだろうかと思うばかりです。 自分で1人で生きなければならなかった。 親子とか人間と人間の情と言うのは大切にしてきたつもりです。 けれども、そんなものは役に立たない。 だから、1人で生きるほかない。  蝉のように死にたいといつも思っています。  セミは力がある限りは鳴いて鳴いて鳴き叫んで最後に飛べなくなってぽろっと落っこちるあれがいいと思います。  だから私は死ぬまで元気にしていたいと思います。死ぬ時が来たら蝉たいに落ちてぽろっと死ねばいいと思います。 虫は友であり先生です。




2026年9月11日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」

阿刀田高(作家)          ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」 

ご両親を早くなされて、20代は1人で生きざるを得なかった時期があり、その中で文学への道切り開かれていった話から始まります。 そして30歳で結婚、妻の慶子さんと人生を共に歩まれてきますが、2020年、慶子さんはレビー小体型の認知症を発症します。 阿刀田さんは介護を続けながら寄り添い、去年2025年慶子さんを見送られました。

もともと独りだと思っていました。 妻もいたし子供もいたし、もともと独りではないんでしょうけれども、どっか人間は皆独りですよ。 独りであることを享受しなければ人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 一時的に私は独りでした。 早く両親に死なれてしまったものですから。 15歳になるまでは豊かな家庭で大事に育てられまいた。 私は子供の頃はのんきに自由に身勝手に繋がれたものです。 20歳を過ぎて10年間ぐらいはそれなりの苦労はしました。      父が亡くなったのは高校2年の時でした。 大学は奨学金等アルバイトで生活しました。 大学のときには肺結核を患って1年半療養生活をしました。

新聞記者になろうと思ってましたが、国会図書館に勤務しました。『ブラックユーモア入門』と言う本を出版したら、それがベストセラーになってしまいました。   決心して退職してミステリーなら書けると思っていました。  ロアルド・ダールの作品を見て、こんな世界がある、これだったら書けるかもしれないと言うのがデビューにつながっていきました。 「冷蔵庫より愛をこめて」の中に収められている短編「幸福」が1つの転機になりました。 ユニークな作品です。 編集長のところに原稿を持っていったら、こういったものを待っていたということで、まだ雑誌に乗らないうちに原稿料を支払ってもらいました。  いきなり直木賞候補になりました。 2冊目『ナポレオン狂』で直木賞をいただきデビューしました。

1年半の闘病生活があったので、ほんのちょっといいことがあればいいなぁと言う悟りみたいなものはありました。 今もそうです。 ほんの少し良いことがあればいいなぁ位の気持ちで過ごしています。 妻が2024年に亡くなりました。  その3年位前から妻の介護をしていました。  70 80パーセントケアしないと生活ができない状況になっていきました。  危機的な状況になっていると言われて、このまま行くと、あと3ヶ月であなたはダメになると言われました。 子供たちとも相談して施設に入れることになりました。 10日位前に手を握り合って、「おじいちゃん大好き。」と言いました。 それがちゃんとした言葉を吐いた最後でした。 「ありがとう」と言う意味合いがあったと思って勝手に解釈しました。

エッセイの中で「死は無である。」と言うことを書いています。 神様とか宗教と言うものは人類が考え出した偉大なるフィクションだと思います。  このフィクションは人類にいっぱい良いことをもたらしていると私は思います。 偉大なるフィクションに対して否定するわけでは無いですが、私自身は死は無に帰ってくることだと思ってます。 死んだ妻に対しても、あの世で何を考えているかなんて言う事は全く考える必要ないんです。 いいことだけ思い出してよかったよかったと思います。 子供の頃そういった考えを持ってましたが、もし死後の世界があるとするならば、それは他の動物にもあるはずだと思います。  動物にない世界が人間でもある筈がないと思います。 どうせ無なんですから、死の世界を考えなくてもいいんです。 かなり本気でそう思ってます。

人生の道標として思ってきたのは、自分の与えられた条件の中で、ほんの少しでも良いものを求めて行こうと思い、ほんの少し努力することとです。 自分の幸福は自分で作るより他にないと思ってます。  ほんの少しでもいいですから、それを重ねていくと、少しは良い人生があるんではないかと思います。 「掌より愛をこめて」は多様な作品がぎゅぎゅっと詰まってます。 友人、知人、同じ世代の人がどんどんなくなっていくので、そういう年齢になったんだと言う事はつくづく感じますが、どうせまた無に帰ってゆくわけですから。


2026年9月9日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

 馬場あき子(歌人)   ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ。  日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)卒業後、中学や高校の教師を務めながら短歌歌誌「かりん」を創設、以来多数の歌集を発表しています。 歌壇を代表する馬場あき子さんの原点は太平洋戦争の戦争体験です。 戦争当時馬場さんは女学校に通っていて、学徒動員で東京武蔵野市にあった中島飛行機の軍需工場で働き、空襲では東京高田馬場の自宅を失いました。 終戦を迎えた1945815日、馬場さんは17歳、女学生の時から短歌を作っていたと言う馬場さんは、戦争中何を体験し、どう感じどう考えたのか伺いました。

焼け跡を耕して畑にしていました。 サツマイモの蔓先を摘んでおひたしにして食べるんです。 集まってラジオを聴きました。 玉音放送です。 父がどうやら戦争が終わったらしいですよと言いました。  私はどうなるんだろうと思ってました。  焼け残った家の2階からギターを弾いた男がいました。 私は戦争が終わったんだと思いました。 どっかから「馬鹿野郎」と言う声がして、「日本は負けたんだぞ。  なんで音楽などやるんだ。」と言う声が聞こえて、その人は音楽を止めました。  周りを見ると、明かりがつけるようになりました。 家でも60ワットの電灯をつけて黒い遮蔽幕を取ったらすごく明るく感じました。 何の感想、何の考えも浮かばなかったです。 呆然としていました。

太平洋戦争が始まったときには、世界地図を見て、こんな小さい日本がとてもアメリカに勝てると思いませんでした。 11畳半位の女子寮の部屋に入れられて、そこから工場に通いました。  6尺旋盤で飛行機のエンジンの台座を作ってました。 何も考えず、ただただ一生懸命作っていました。  14回ぐらい空襲警報がありました。 夜も3回位ありました。 

私は1番悲しかったのは、山梨のほうに疎開していた女子高の生徒が入ってた棟に爆弾が落ちて、女子生徒がいっぱい死んで、大八車にいっぱい積んで、埋めに行くと言う話を聞きました。 男子の中学生の級長が伝令に行くために防空壕を出た途端に爆弾が落ちて、顔の皮がベロンと剥けて、一瞬自分では剥けたことがわからなくて、「行ってくる。」と言って、後ろを向いたら顔の皮がぶら下がっていたと言う。そういう話も聞きました。 その男を診療所に連れて行ったら、そこは修羅の巷だったと話を聞きました。 

右胸に白い木綿の布に墨汁で、名前と住所と血液型を書いてみんな貼ってました。  怪我をしたら、血液型わかるようにとか、死んだときにはどこの班かって言うことがわかるように書いてたんだろう思い出しました。 我々に教えてくれた工員さん(大学の学生が来ていた。)はだんだんいなくなっていきます。 戦地への招集令状が来ます。 員さんと恋をしてはいけません。  戦死するかもしれない方なので、生きて帰るかわからないので未亡人になりますよと言われました。 恋はご法度だった。

学校の宿題で短歌を作るとか、日記を出すか、作文を出すかということで、私は短歌を選びました。 ノートなどはなくて、白い紙の裏に書いてました。  戦争が終わって大学ノートが買えるようになってからそれを写して持っています。 人に披露できるようなものではないでした。 自分の存在を言葉に残したいと言う思いはありました。  夜中の12時に旋盤を回している時など、一体人生って何だと思い出します。  絶望的になって永久にこのまま機械みたいに虚無的になります。 

軍歌ばっかり歌って、女の歌のない時代でした。  露営の歌 酷い歌だと思います。 勝ってくるぞと勇ましく  誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波)

死骸を見ても感情は動かない。  戦争って生きているとか、死んじゃうとか、死んでるとか、そういう感覚が麻痺してしまいます。 ウクライナの瓦礫の映像を見た時には同じだと思いました。 戦争と言うのは人間の神経を麻痺させてしまう。死んでいる人の死骸と言うのは終わったものとしか見ていなかったです。 戦争の意味なんてなにも考えませんでした。 早く終わったらいいという思いでした。





2026年8月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「マーク・トウェイン」

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マーク・トウェイン

マーク・トウェインは、「トムソーヤーの冒険」、「ハックルベリー・フィンの冒険」などの物語でよく知られていますが、今年は「トム・ソーヤーの冒険」の出版150年に当たります。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」 マーク・トウェイン

「トム・ソーヤーの冒険」が発行されたのは、1876年なので、今年は出版150周年に当たります。 生まれは1835年で江戸時代天保6年です。 74歳で亡くなっています。 7歳までは病気がちで、かなりいたずらっ子だったようです。 マーク・トウェインは、大人になってもユーモアたっぷりな人ですが、面白いだけではなくて、いつもかなり鋭い皮肉が効いている。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」 これは「ハックルベリー・フィンの冒険」の中の言葉です。 物語の中では、ハックの父親が現れて、ハックを虐待してるわけです。 殴ったりムチで叩いたり、差別的な暴言を吐き散らして、ハックのことをジャックナイフで刺そうとするわけです。 児童文学でここまで書くのかなあと思いました。 ハックはそのままでは危ないので、父親から逃れるために父親の留守を見計らって、自分が誰かに殺されたと見せかけて逃げ出すわけです。  逃げだしたハックと黒人の奴隷のジムも逃げ出してきて、2人が一緒に筏に乗って雄大なミシシッピー川を下っていきます。 

2人の間にはいろいろ違いがあるが、一緒に川を下っていく中で、違いを乗り越えて友情が育まれていきます。  当時は逃亡した奴隷をそのまま見過ごすと言う事は法律的にも良くなく、良識にも反する、宗教的にも許されないことでした。  ジムを見逃せば神様に地獄に落とされてしまう。 それでハックは悩みます。   ついにハックはあるときに密告の手紙を書きます。そうすると気持ちはすっと軽くなる。 ジムを思い出すと手も震えてきて、この言葉が言うわけです。

「じゃあよろしい。僕は地獄に行こう。」と言って、密告の手紙を破り捨てるわけです。 大江健三郎さんも、この1節に感動して、僕の人生観のすべての根本がそこにあるとまで語っています。 ヘミングウェイが、今日のアメリカ文学はすべて「ハックルベリー・フィンの冒険」と言う1冊の本から生まれていると、そこまで言ってます。

「私自身、人殺しにならないとは限らないのだ。」  マーク・トウェイン

ハックとジムが川を下っているときに難破船を見つけます。 難破船に上がってみると、強盗らしい3人組がいて仲間割れして殺し合いになっていました。  ハックとジムは慌てて逃げようとするが筏が流されてしまっている。 強盗3人組のボートを見つけて、それに乗って逃げ出す。 ほっとしたときに、ハックはこういう風に思うわけです。 強盗の3人組は、ボートがなくなってしまったから、難破船から逃げられない。 強盗の3人組のことを心配になりだす

「たとえ、人殺しどうもでも、こんな羽目に追い込まれたら、どんなに恐ろしいことだろうと考え始めた。 私自身、いつか人殺しにならないとは限らないのだ。  こんなときに、こんな羽目に合わされたらどうだろう。」

こういう風に思ってる人の方が、かえって人殺しにはならないんじゃないかと思います。 逆に自分は決して人殺しはしないと思っている人はかえって危ないかもしれない。

「私の少年時代、私と父は常に最も遠い関係にあった。 いわば武装中立のような状態だった。 時折その中立が破られ苦しみが生じた。 正確に言うと破ることと苦しむ事は厳密にちゃんと分けられていた。 破ったのは父で苦しんだのは私だった。 マーク・トウェイン

父とはあまり良い関係ではなかった。 父は弁護士の資格を持っていて、判事の人で雑貨商も営んでいた。 家には数人の黒人奴隷がいた。 その子供たちとマーク・トウェインは遊んでいた。 父親は破産してしまうが、ある時20キロの道を帰るときに、みぞれ混じりのひどい嵐に会いながら、ようやく家に立つりついたが、すっかり冷えて肺炎になって死んでしまう。(父は48歳、マーク・トウェイン11歳の時)

一家はまた貧困に陥って、マーク・トウェインは学校辞めて働き始める。 印刷所の見習い工になり、その後ミシシッピー川の定期船の水先案内人にもなる。   それで川を下っていく話もかけたわけです。 弟のヘンリーにも船の仕事を世話をしたが、船のボイラーの爆発が起きて、弟は亡くなってしまう。(19歳)

「人の一生はある1つの主な目的のために悪意を持って仕組まれている。その目的とはあなたがやりたくないと思うことを全てやらせると言うことだ。」マーク・トウェイン(友人への手紙の1節)

「私は40回以上の船旅と数え切れないほどの陸路の旅をし、世界一周をしたことも1度ある。 これは過酷な運命と言うふうに思われる、思われるだけではなく、実際に過酷な運命だった。これらの旅はすべて行くしかなかった。心の中では行きたくないと思っていたし、苦々しい気持ちだった。」

マーク・トウェインは決して旅行嫌いではなかった。 むしろ好きで旅行記もたくさん書いています。 それが著作の1つの柱にもなっている。 なんで嫌がったかと言うと、借金の返済するための講演旅行をたくさんしなければいけなかった。  世界一周もそのためです。

「彼はグラハム・ベルと提携し電話と称する新発明への投資の勧誘をして歩いているのだった。 この電話と言うものには素晴らしい未来が約束されていると信じている青年は、私に何がしかの株を買って欲しいと言うのだったが、私は乗らなかった。    これ以上無謀な投機には手を出したくないのだと言った。 マーク・トウェイ(自伝の中の言葉)

マーク・トウェイは投資がことごとく失敗する。

自伝で、彼はこんなふうに書いている。

「自分の生涯を振り返ってみると、私ほど怪しいげな山師の良いカモにされた人間は少ない。 そういう連中がやってきて嘘をつき、私からふんだくってはどっかに行ってしまう。 するとまた次のやつがやってきて残ったものを書き集めにかかる。」

もう懲りたと思った頃に、ベルが電話を発明するわけです。 電話への投資の勧誘が来るわけです。 これに乗ってたら儲けですが、これを断ってしまう。

マーク・トウェイは出版社をやるが、しかし事業には失敗する。 それで破産して膨大な借金ができてしまう。 講演旅行したり、本を出版することで全額返済をしたと言うことです。

「私のために家族のためにいつも心遣いをしてくれたあの素晴らしい心が、この家から静かに去っていった。 私はまるで道を見失ってさまよっているようだ。   彼女は私たち家族の宝だった、全てだった。 でも彼女はもういない。 彼女がいたから、私たちは息ができた、彼女がいたから、私たちは生きてこられた。 今や私たちは抜け殻だ。」 マーク・トウェイン(友人への手紙の1節)

マーク・トウェインが妻のオリビアを58歳で病気で亡くしたときの手紙です。  先立たれて深く嘆いた。 2人には4人の子供がいて、1人の息子と3人の娘です。  ところが4人のうちの3人までが父親のマーク・トウェインが亡くなる前に亡くなってしまう。 いずれも病死で残ったのは次女のクララだけです。

長女のスージーが亡くなったときに次のように語っています。

「何の準備もできていないのに、雷で打たれたような衝撃を受け、それでもなお生きていられると言うのは、人間の本質的な謎の1つだ。 こう説明するしかないだろう。  衝撃で人生が麻痺し何を言われたかよくわからないのだ。  その本当の重みを理解する力が、慈悲深いことに奪われ、心にあるのはぼんやりとした大きな喪失感、ただそれだけだ。」

「もし80歳で生まれて、だんだん18歳に近づいていけるのだとしたら、人生は限りなく幸せなものになるだろう。」 マーク・トウェイン

高齢で生まれてだんだん若返って元気になっていく。 その方がずっといいんじゃないかなぁと思います。

マーク・トウェインが全人類全体について絶望している言葉を最後にお聞きください。

「私は毎朝新聞を読んでいる。 読めば、必ずいつもの堕落、下劣、欺瞞、残酷さを目にすることになる。  その日の残りの時間は人類の絶望を祈って過ごすことになる。 祈りはまだ叶っていないが、それでも私は絶望しない。」  マーク・トウェイン


2026年8月16日日曜日

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」 

オレオレ詐欺などの特殊詐欺は、インターネットやスマートフォンが普及した今、その形を変えて手口が功妙化しています。 詐欺グループは東南アジアを中心に大規模な拠点を設けていると見られ、警察当局は日本に実行役を送り込んでいると見られる、匿名流動型犯罪グループ「匿流」の取り締まりを強化していますが、被害は急増、拡大しています。 立正大学心理学部教授、西田公昭さんです。 西田さんはカルト宗教のマインドコントロール研究や詐欺、悪徳商法の心理学研究の第一人者です。 西田さんには最近の特殊詐欺の手口、騙されてしまう心のメカニズム、被害を防ぐための心得などを伺います。

今増えているのは、偽警察官詐欺、ロマンス詐欺、SNSを使った投資の詐欺が増えています。  オレオレ詐欺還付金詐欺が減ってるわけではありません。 今の詐欺は全部非対面、インターネット、電話、その他メディアを通じて騙されます。  もう特殊と言うようには呼べなくなってしまっています。 最近は若い20代も騙されています。 

偽警察官詐欺と言うのは、スマホを使ってビデオで操作をすると言うやり方を進めてきます。 初めはびっくりします。 「あなたは逮捕されますよ。」と言うようなことを言われると、もしかしたら自分が知らないうちに犯罪に巻き込まれてるかもしれないと言う想像力は意外と多くの人ができると思います。 そうすると、警察の話をしっかり聞こうと言う姿勢ができてしまう。 ビデオ通話で警察官の制服を着て警察手帳を出してくるし、捜査令状、逮捕状まで用意されています。 数名で芝居をするように用意している。 詐欺なんか私ならば気づけるだろうと根拠のない自信を持っている。 

「溺れるものは、藁をも掴む」と言う諺がありますが、溺れさせてやれば藁をつかんでくれると言うことを知ってるわけです。 心理的な動揺によって溺れさせます。藁と言う偽物の救済策を出すわけです。 ロマンス詐欺も、もっと広い意味の孤独を癒すための人間の心理を利用されている詐欺です。 幸せになれるとか期待を与えるわけです。 高齢者になればなるほど、孤独と言うのは辛い悩みだったりするわけです。 SNSなどで簡単に関係が構築できる。  孤独を癒せると思って、登録したと言うと、紹介されてくる人も自分と同じような考えを持っている人だと錯覚してしまう。  

長い間に関係が続いて、癒したり、癒されることによっていい人だなと思ってきて、悩み事の相談をしたり、不安なことを聞いてみたりする。  すると、気持ちを受け止めてくれて、役に立ちそうなメッセージをくれるわけです。 いい人だと思って、相手が詐欺師だと言うと言うことに対しての感覚は、薄らいでいる。 親切で良い人であるにもかかわらず、疑うと言う事は自分を責めるわけです。 それを利用されるわけです。 複数の人が組織的に1人の人物を演じているわけです。 特定の人物になりすましてるわけです。 完全に信じ込ませてしまうと、今度は会いたい会わないと言う話になってきて、会いたいと言う気持ちがあっても会えないと言う現実を作っていく。  相手を失いたくないと言う心理が働いて、相手のためにできることというのはなんですかと言う気持ちになってくると相手はお金が必要なんだと言うような話になってくる。 投資に向かわせたり、ローンのために必要な費用が必要なのであなたも借りて欲しいと言うようなことになる。 

投資に関しても数字上は増えているように見せかける。 もっと行こうと言うことでお金を注ぎ込ませる。 しかし実際は儲かっているわけでもなく、偽物のアプリなのでお金を取られるだけです。 投資の会社とか証券会社になりすましたメールやホームページを用意してそこから入ってくるわけです。  

店の投資グループが用意されている。 そのグループの投資が成功しているかのように演出するわけです。 グループが儲かっているのに、自分が貢献しなければひんしゅくを買うのではないかと言うのは思いで、自分も投資するような形になっていく。 数字は儲かってるような形になっているが、実際に現金化しようとするまでわからない。 多額のお金が引き出されることによって、銀行員の方が不審に思うようになります。   銀行員は騙されていないか連絡するが、目が覚める人は少ない。 儲かっていると言う意識がある。  銀行側は強くは言えない。 現金化しようと思った時に、初めて気がつくわけです。 

匿名性の高い非対面の詐欺の時代は、なかなか逮捕できない。  自分で身を守るためには疑わざるを得なくなる。 大事な事はお金が絡んできたり、個人情報が絡んできた時だけはちょっと待てよと言うことです。 最近はネットで使用される時代になってきたので、どこからでもたくさんの仕掛けができるようになりました。AIの時代になって顔も作れるし、声もそっくりです。 企業レベルで騙されるっていることもあります。  AIの技術が悪用されると、そういったことができてしまう。  

自分も騙されるかもしれないと言う前提をまず持つこと、自分の考えが正しいかどうかと言うことを、柔軟に確認したり変化させたりすると言うことだと思います。お金がいるとか個人情報くださいと言う、この2点が1番わかりやすい手掛かりになると思います。 「さしすせそ」 「さ」はさっと警戒すると言う事 「し」はしっかりと調べる。 「す」は素早くスパっと相手の考えを見抜こう。 「せ」、精一杯、心の動揺抑えてください。 「そ」は即座に誰かに相談する。 自分のだけの考えで判断して危ないと言うことです。


2026年8月14日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

 阿刀田(作家)           ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

91歳になった阿刀田さん、今年の5月小説集「掌より愛をこめて」を刊行しました。  昭和53年に「冷蔵庫より愛をこめて」でデビュー以来、900点を超える作品を世に送り出した阿刀田さんが、これが最後の小説集とおっしゃる創作人生の節目となる1冊です。 手放なす事、終わりを寂しさではなく、晴れやかさでと受け止める阿刀田さんに、一人暮らしをされている毎日のことや作品、執筆の舞台裏や10歳で迎えた昭和208月敗戦の記憶について伺いました。

鉛筆の方が消せるし、軽くて書きやすいので、今でも鉛筆で書いています。   昔はHBですが、最近は2 Bを使ってます。(筆圧の衰え) 頭の中にあるものを書き写してると言う感じです。 10枚から15枚の原稿だと頭にできているものを書き写すような感じです。 一人暮らしの日々を綴ったエッセイ「90歳男の一人暮らし」は、去年の9月に出版。 

110枚位のペースで書いています。 締め切りはよく守っています。 子供の頃から夏休みの宿題は7月には終えてました。 作品は自分で満足ができるのは1割位ではないですかね。 午前中は1、2時間ぐらい仕事をして、NHKのテレビなどを見ています。 報道する方は、割と冷静に静かにやって、喜びや悲しみや感動は見る方がどうだどうしたらいいかと言う性格のものであると思いますが、「あさイチ」などはちょっと笑いすぎではないかなと言う気がしないではないですが。リュックサックを背負って、買い物などにも出かけます。 眠れない時でもまぁいいやと思ってます。 

テレビは野球を見たり、サッカーを見たり、相撲などを見たりしています。 囲碁将棋なども見てます。 生活の中で常にどっかで作品の材料になるようなものがないかと思っているので、いろいろ考えていましたが、最近はアイディアがあまり出てこなくなりました。 ごっちゃになったものを見ているうちに、ふとアイディアが現れることもあります。 酒を飲んでる時などもどっかでアイディアを求めているんですね。 今受ける話はそれで小説は書けない。 妙なことを言うなと言う人の方が、かえって役に立ちます。 列車に乗って、ぼんやり外を見ている時などがアイディアがふっと浮かぶことがあります。

今回「掌より愛をこめて」と言う小説集を出しました。 短い小説を30数編まとめたわけです。 最近書いたのは、冒頭の10作品だけで、後は1番古いので30年前書いたものを引きずり出してまとめたものです。 小説集と言う形では、これが最後になると思います。 アイデアを思いつくことができなくなってきました。 子供が主人公のものはあれば、年老いて記憶が薄れていくような年代の主人公もあれば、くすっと笑うものはあれば、ぞっとするものもあって、多様な短編小説集36編です。その中の「本屋の魔法使い」 本がページを開きながら飛んでくるというもので、受けています。 その他いろいろ。

短い作品、ショートショートと言うジャンルは、少なくとも日本では星新一さんとともに誕生して、星新一さんの死とともにほとんど消えそうになってるジャンルのような気がします。 割と今の時代にちょっと合ってるところがあるんじゃないかと思いますが。 星さんは、独特の世界を築いて、今でも人気があるんじゃないかと思います。 

どっか人間はみんな1人ですよ。 1人であることを享受しなければ、人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 幸福になるのもみんな自分1人で考えていかならないんで、実質的に私は1人でした。 早く両親に亡くなられてしまって。 兄が1人、姉が3人末っ子として双子として生まれて、弟は1歳になる前に亡くなりました。 幼い頃から神妙な好奇心を持っている孤独だったと言うふうに思います。 戦争時代には、疎開先の長岡で大きな空襲を体験しました。(10歳の時の体験) 戦争体験は、終戦と同時にがらりと世の中が変わったと言う、そのことの印象の方が多かったですね。 急に民主主義と言うことになってしまって。     先生がこれから日本は戦争をしない国になるんだという、そう聞かされた時に痛切に良かったと思いました。  日本はどうなるんだろと姉に聞いたら、「みんな奴隷になる。」と姉が言うものだから、この川に飛び込んで死ななければ駄目だと思いながら、考えたりしたことがあります。