長谷川ゆき(「うみべの文庫」代表) ・”絵本”が結んだ 小さな奇跡の物語(初回:2016/6/13)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/06/blog-post_13.htmlをご覧ください。
長谷川ゆき(「うみべの文庫」代表) ・”絵本”が結んだ 小さな奇跡の物語(初回:2016/6/13)
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勝木俊雄(森林総合研究所九州支所主任研究員)・「朗読で味わう桜の春~前編」
森林総合研究所、昔の林業試験場です。 森林に関わるありとあらゆることを研究する研究期間と言うことになります。 DN Aを解析して桜のルーツを探る分類、最近は樹木医と言う制度にもかかわっています。 赤瀬川原平さんの「仙人の桜、俗人の桜」と言う作品。 赤瀬川原平さんは1937年のまれ美術家であり、作家であり、一時漫画も書いていました。 2014年に亡くなりました。
「仙人の桜、俗人の桜」
「日本は桜の国だ。 春になると南から桜前線が攻め込んでくる。・・・みんな弁当を作りござを用意し、酒ももちろん買い込んで仲間と連絡し合い集結地点を確認する。 ・・・先行隊が場所を確認して本隊が来る・・・桜前線が北上してくるとほとんど日本中が戦争状態に突入する。・・・歳をとると、どうしても日本人になって来てしまって、気がついたら満開の桜の下で酒を飲んでいる。・・・。私もそうだった。・・・私は理屈の方から桜に近づいたんだ。馬肉のことを桜肉と言う。露店で客のふりをして騙すのも桜と言う。
・・・正面からドーンと吉野の桜を見に行こうと言うことになったのだ。・・・私のお花見体験は幼稚園の頃だった。九州の大分にて護国寺神社のお花見だ。・・・大人たちはビールをうれしそうに飲んでいた大人の会話ばかりで面白くはない。・・・吉野の桜と言うのは、吉野山の下の方から下千本、中千本、上千本、奥千本とあって、下からだんだん1ヵ月ぐらいかかって上まで咲いてるらしい。・・・全貌の見渡せる現場へ出て行った。これが吉野桜川と言う感慨を持って見とれてしまった。・・・向こうから見せられると言うより、こちらがその美しさを見つけることでその見つける喜びを味わせてくれる。
その帰り電車に寄って大阪に帰る。大阪には造幣局があり、その中に桜並木がある。満開時にはその桜があまりにも綺麗なので、やむを得ずその並木道だけを一般公開する。俗に言う造幣局の通り抜けだ。・・・造幣局の八重桜なのだ。・・・枝にも所々短冊が下がっている。見ると、市民の寄せた俳句らしい。「念願のあなたと共に通り抜け」「嫁ぐ日を間近に控え通り抜け」とかろいろあって飽きない。・・・どことなく吉野のお花見と似ているんだと思った。・・・1つ共通点がある。どちらも酒を飲む人がいない。宴会の桜ではないのだ。・・・片方は仙人の桜で、片方は俗人の桜、それが酒抜きで似ているのが妙である。・・・俗人の俗が、なぜ人偏に谷なのだ。・・・反対は何だろうと考えた。俗人の反対仙人である。・・・字をよく見ると、山の人だ。俗人とは、谷の人なのだ。・・今回私は仙人のお花見をして降りて、俗人の桜を通り抜ける。・・・」
吉野の桜は、平安時代からの有名な桜の名所と言うことになります
生物学的に見たときには、日本にはわずか10種しかありません。 吉野の桜は基本的に山桜です。 霞桜、江戸彼岸と言うのもあります。 最近ですとソメイヨシノも植えられています。 ソメイヨシノ河津桜などは、ほとんど栽培品種で人が作り上げたものです
馬場あき子さんの「神代桜」
馬場あき子さんは、1928年の生まれ、歌人で文芸評論などでも知られる方です。
「山梨の県西、武川村には日本一の老寿の桜があるとかねてから聞いていた。土地の人は樹齢2000年と言ってるがひょっとすると日本以前から立っていたことになるわけである。 ・・・開闢以来だから神代桜と言うんですとこともなげに言って、たちまち案内してもらう約束が成立した。・・・甲斐の神代桜が生きた時代も多分「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」や「木花知流比売(このはなのちるひめ」があゆみ佇むにふさわしい農耕大地の広がりが豊穣への期待感がともにある。
・・・日本一の桜は、本堂の左手奥に、どっしりとわだまかる巨体を臥竜のように横たえていた。幹があまりにも太いので横たわったように見えるのである。・・・周辺から伸びた枝えだは、支柱に支えながらも枝先まで隙間なく花をつけている。色は、やや白っぽいが 七分咲きの花はまだ気力のある艶を漂わせ、想像を超える年月耐えてきた落着が、おのずから風格をなして、誠に静かに自然であった。・・・神代桜は、そんなことには一切関わりなく、ただしみるような静かさでたたずんでいた。私は巨大な老樹の花びらが、折々、ひんやり冷たく、顔に散りかかる下に立って、この桜の年月が今日まで何の由来も歴史も持たず過ごしてきたことに、いっそう清らかな感銘を受けた。・・・
甲斐の神代桜には、ただこの山あいにしっかりと生きた膨大な年月があるだけだ。その年月を人間の側から見るのではなく、桜の命の側から見たなら、そこには多分並々でない激しい戦いや生のドラマがあったに違いない。・・・恐ろしいまでの生の時間は、もはや人間の生の時間との比較を超えてしまっていて、なまなか感想を許さない力を持って、我々の前に立ちはだかっているのであった。」
近くで見ると、樹木と言うよりもゴツゴツしたい岩があると言うそんな感じです。
桜前線は正確に言うと、沖縄では寒緋桜、北海道札幌より北では大山桜、鹿児島から札幌の間はソメイヨシノで観測しています。 ソメイは現在の巣鴨のあたりに染井と言う村がありました。 江戸時代に園芸の里でした。経緯はよくわかりませんが、ここからソメイヨシノが広がったということです。
木内昇さんの「染井の桜」
「(侍から)、植木屋になってから、徳造が最も精を出したのが儲けることでも店を広げることでもなく、これまで誰も作ったことのないような変わり咲きを生み出すことだった。・・・桜ばかりにこだわった。・・・庭ではなく景色を作りたいと思ってね。彼は暇を見つけてはほうぼうの山桜を見て歩き、よさそうな品種を見極め、その枝を持ち帰って継ぎや挿し木にした。・・・すべてを桜につぎ込んだ。・・・早いとこいい桜が見つかるといいんだがと静かな笑みを浮かべた。良い姿メッケルんだよ。・・・
徳造が江戸彼岸と大島桜を掛け合わせた変わり咲きの桜を見っけることを成し遂げたのは、それからさらに5年が過ぎた頃のことだ。 葉が出るより先に泡雪に似た花が枝をほぐすようにして咲き乱れる桜を見た仲間たちは、一様に息を飲んだ。徳造の桜は吉野桜と言って呼ばれ、すぐに評判となった。移ろうからはかないから美しい。一斉に咲いて見事に散る様が際立っているその桜を、江戸の人は、自らの生き方になぞらえて、めでた。 ひとひらひとひらが風になって、吹雪に似た風情を作ることも、人々を魅了してやまなかった。」
ソメイヨシノの種類としては、江戸彼岸と大島桜の種間雑種と言う事ははっきりしています。人が人工交配したものではないと私は思います。江戸時代は人工交配の技術は日本にはまだないです。 あったものを人が接ぎ木で増殖している。ここに明らかに人為的な様子があります。
五木寛之(作家) ・五木寛之のラジオ千夜一話
30年近く前、五木さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本を「最終章」と題して綴り話題となっています。 今朝はご自身の最近の健康や生き方について語っていただきます。
「大河の一滴」がもう30年近くになります。 今93歳ですから考えてみると随分昔ですね。 今回は「最終章」と言うタイトルをつけました。 この「最終章」と言う本に対しては読者カードがたくさん来ています。 読んでいて感動しました。 はがき1枚の中にびっしりと感想とか自分の体験を書き込んでいます。 それだけ生きるということがそういう問題に対して、ある種の切迫感というか、何か思い出が深いんじゃないかなぁと思います。
今回は大河の流れに逆らう事があってもいいんじゃないかと言うことが書かれていますが、最初は自分の一生と言うものを大河の流れに例えて、再生の海へ流れていくと言う身を任せるという感じの内容だったと思います。 今度は割り合いそうじゃなくて、生きることに執着するというか、ちょうど書いてた時に体に異変があって放っておこうかなと思ったんですが、やっぱりちゃんと生きようと、人は1日でも2日でも生きようとする、そういうことに執着しなければいけないと言う、そういう気がして、逆らってと言うよりは、安易に身を任せないと言う、そういう時は或るときには逆流し、ときには渦巻いて、迂回していくと言うことがあったとしても、大きな流れで言えば、人間の一生と言うのは、大河の流れのように再生の海へ向けて流れ込んでいくと言う、それは変わらないんですけれども、身をまかせせてしまってと言う様にはいかない、というのがこの本のきっかけです。
「長く生きられなかった人のために生きていく。」(本の中の一文章) 人は何で生きるのかと言う、生きなければならないのか、生きることに執着するから生きるんではあるけれども、今の世界を見ていろんな思いがありますね。 世の中には1日1日を元気に生きようと思いつつも、もそれができない人がたくさんいるじゃないですか。 そういう人たちのことを考えると、ちょっとした病気でもまぁいいかと言うような安易な感じで身をまかせると言うのができないと言う気がして、生きるための努力と言うのはしなければいけないんじゃないかと思って、「大河の流れに逆らって」と言う見出しが出てきたわけです。
生きんと欲しつつ、生きんと切実に望みつつ、それあたわざる人々のために安易に自分の生を放棄してはいけない。 ある程度は生きると言うことにこだわらなければいけないんじゃないかなと思います。 30年前近くに書いた「大河の一滴」とはそこがちょっと違います。 母親は九州の田舎の山村出身ですが、福岡の女子師範学校を出て、教師になって、小学校の教師を長く勤めながら戦後の混乱の中でなくなりました。彼女の夢は今から思うと笑えるような話ですが、一遍でいいから東京にいってみたいとう思いでした。
歳を取るに従って、運命に身を任せると言う気持ちになってくるじゃないかと思うんですが。 歳をとっても生きることに執着しなければと言うふうに今は思ってます。 何のためにではなく、誰かのために生きると言うことが、この歳になって浮かんできました。 人々の果たしざりし夢を自分が背負っているという様な実感がしたものですから。
ロケで訪れたガンジス川に母親の遺髪を流しました。 僕のセンチメンタルな思いです。 たくさんの人が沐浴とか、いろいろやっていて川濁ってるんですね。 上流に行くと青々として美しくてびっくりしました。 母親の葬式は正式にしなかった、出来なかったので、遺髪をお寺に収めようとは思っていました。 「燃える秋」と言う小説、場所がイランです。 古い都を舞台にしたストーリーです。イランはペルシャ語です ペルシャ絨毯に魅せられて尋ねていく女性と、若い商社員の恋人、男性がいて、その男性は手織りの絨毯のデザインをコピーして、機械で大量生産するようなアイディアを持ってきたと言うことがわかって、恋が壊れると言う話です
*「燃える秋」 作詞:五木寛之、作曲:武満徹、編曲:田辺信一、唄:Hi-Fi Set
日本でいうと京都、奈良のような古い都が燃え上がるという、何十年か前のイメージが現実のなるとは夢にも思っていなかったですから。
80代の半ばまではほとんど病院に行きませんでした。 80代後半を過ぎてあちこちが悪くなって、最近ではちょくちょく大学病院に行くようになりました。 2年ほど前に咽頭癌の気配が出て来て、放射線治療によって半年位ですごく良くなりました。 再発の恐れがあると言うことで、何ヶ月にいっぺんぐらいは行くことになります。 左足が変形性膝関節症にもなって、杖をついて歩くようになってきました。 連載とか8本ぐらい抱えてます。 それを毎日こなしながらやっています。
*「鳩のいない村」
ベトナ戦争のことで、平和を願う歌。
ここの所一日も休まず仕事をしています。 文章を書くことが大事ですけれども、生きた人間の会話、人間の本音が出るようなそういう対談を大事にしています。 活字になった対談だけで650位になりました。 全部で1000人ぐらいの人と対談してると思います。 人と本音で語り合うと言う事は大事なことだと思います。
関根勤(タレント) ・「古希を超えても果敢に挑戦!」
関根勤さんは1953年東京都出身。 大学3年生の時、民放テレビ番組の素人コメディアン道場で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンになり芸能界デビューしました。 その後数々の舞台やバラエティー番組で活躍します。
72歳になりました。 芸能生活去年で50周年を迎えました。 後輩から挑戦するように言われて、落語がいいかなぁとちょっと思いました。 春風亭小朝師匠の弟子の蝶花楼 桃花さんと言う師匠に仮の弟子入りしました。 人情話をやろうかなぁと思いました。 「徂徠豆腐」と言うものでした。 江戸中期の荻生徂徠と言う学者の若き日の苦労話です。 去年の正月に稽古をつけてもらって、親子会をやると言うので、師匠とやることになりました。 新作落語も自分で作ると言うことを考えました。 頻尿での苦労話についてつくりました。 フィクションは1割位です。 親子会の親は桃花さんです。名前も「かんこん亭きん太」とつけてもらいました。
5週抜きの番組では、一生懸命がんばりました。 大体3分ですが、ネタを作ってがんばりました。 芸能界でやる気ないかと言う誘いがありました。 プロで通用する事はないと言いました。 消防署員になるつもりでいました。 コント55号を育てた浅井が君の才能を保証すると言われました。 大学3年生だったので、1年余裕があると思ってとりあえず入ってみました。 学生時代は目黒5人衆ということでやっていまして、そのうちの1人が柳家小ゑんさんです。
小学校の頃から明るい少年でした。 周りにも面白い人がいっぱいいました。 萩本欽一さんの事務所で6年ぐらい経った頃、小堺一樹君と組んで、まずはテレビとか出る前に小さい劇場で修行しなさいと萩本欽一さんから言われました。 下北沢にスーパーマーケットと言うライブハウスがあって、そこでは夜の10時から12時までただでと言うことで、毎週金曜日にビットナイトコンサートをやってました。 まずはテレビであんまり出てない小堺から使おうと言うことになって「欽ちゃんのどこまでやるの」に出ました。
欽ちゃんがアドリブ言った時に、上がってしまって小堺君が落ち込んでました。 その時に萩本さんが「俺はねー上がらないやつは信用しない。いいんだ。」と言いした。 でもまた上がったりしましたが「いつまで上がってるんだ。」って言うふうに言われました。 黒子の役があってそれが受けました。 僕は新わらべの時に入りました。 高校1年生の役、ラビット関根から関根勤に名前を変更して、小坂くんと黒子の役をやりました。 そこで以前はカマキリ男の役であまりイメージが良くありませんでしたが、ガラッと変わりました。 それで一般の方にも受け入れられるようになりました。
35歳の時に、カンコンキンシアター 、クレイジー・キャッツが好きでした。 シアターアップルでやっていましてシアターアップルが壊れるまでやっていました。 元気でずっとやってこられたのは好きだったからじゃないですかね。 ラジオも40年位やってます。 舞台もやってますけれど、舞台もやっぱり楽しいです。 健康法はゴルフは好きで毎週1回ぐらいやってます。タバコは吸いませんし、お酒は飲めません。体質です。
62歳の時に小坂くんのレギュラーの番組があって、医療関係のことをやっている番組でした。 2人が心臓に特化した検査機関があって、心臓だけを検査する病院がありました。 そこにリポートできました。 検査結果は本番で発表することになりました。 翌日私はゴルフ行きました。 そうしたら再検査をお願いしますと言う電話がかかってきました。 造影剤を入れてより詳しく検査することになりました。 62歳の男性を無作為に100人選んだ中で、上から4番目に悪いですと言われました。冠状大動脈が細くなっていると言われました。精密検査で7割は詰まってると言われました。
即手術をやることになりまして、ステントと言う金属の輪を入れることになりました。 1日入院で終了しました。 翌日はもう仕事をしてました。 そのまま手術もしないでいたら2年に以内に何かがありましたよと言われました。(最悪は死に至ると言う。) その後、食事などに気をつけるようになりました。 血糖値が高くて3ヶ月に病院に行くようにもなりました。カンコンキンも37回目でとりあえず40まではやろうと思っています。 そこで元気だったらまた80までやろうかと思ってます。
対馬千賀子(料理家) ・「師に学んだ日々の食事は、命の源」
対馬さんは1972年生まれ北海道東北部の江差町出身。 高校卒業後料理家への道を進み、高い技術が求められるフレンチのシェフとして5年ほど修行の日々を送ります。 その後対馬さんは次に学びたいと選んだのは家庭料理でした。 手塩にかけた家庭料理の数々やスープの魅力を伝えていた、料理家の辰巳芳子さんとの出会いが大きな転機となったといいます。 対馬さんは30歳の時に辰巳さんの内弟子になり、17年間生活を共にしながら、日々の料理と向き合い続けました。 辰巳さんの思いを受け継ぎ、料理の真髄を伝え続ける対馬さんの人生を伺いました。
スープ教室に習いに来る方は、中高年の女性の方が多いです。少ないですが、若い男性の方も来ます。 辰巳さんのスープは、命のスープと呼ばれ、嚥下障害を持つ方や終末期の患者に食の喜びを伝えたいと言う思いで考案してます。 生きる力を引き出すとして各地の緩和ケア病棟でも採用されています。 辰巳先生の味は基本的に優しい味がします。 素材の味を生かしたスープなので、なるべく新鮮な良い状態のものを使って作ると言う事はまず第一です。
私の生まれは、北海道の江差町で牛の数の方が住んでいる人間よりもはるかに多いところです。 4人兄弟の末子です。 小学校の時に担任の先生が家に呼んでくれて1泊すると言うことがありました。 そこで米を研いだ記憶があって、それからです。 家に帰っても米を研ぐことをずっとしてました。 中学を高校の頃は、ケーキをよく作って親に食べさせたりしました。
高校卒業後、料理の専門学校へ進みながら、ホテルの調理のアルバイトをしました。 高校卒業後、就職を希望したのが、札幌の有名なフレンチ店でした。 世界の料理コンクールで金賞受賞したカリスマシェフがいました。 そこを希望しましたが、ダメでした。 札幌のホテルに就職しました。 この一皿を1番良い状態でお客さんに出したいと言う事を考えて料理してるので、本当に気が抜けませんでした。 基本のことを何でもない日常のものが美味しく作れる人になりたいと言う希望だったんですが、仕事が忙しすぎて、そういったことができませんでした。5年で路線変更をしました。
辰巳先生との出会いはありましたが、その時先生は77歳でした。 辰巳先生の本にも衝撃を受けました。 基本がしっかりしているところだと思います。 先生の「白和え」は、白和えのもとを作って、馬毛のこしで2回こします。 最後は絹目のこしでこします。 出来上がりはクリームのようにとろとろです。
先生の紹介で、最初の2年間は大分の旅館で勉強しました。 月に1回辰巳先生の鎌倉の教室があって、そこに大分から通いました。 辰巳先生が79歳私が30歳の頃に内弟子となりました。 内弟子としての日々について、2025年に「あるべきように辰巳芳子の長寿の食卓」と言う本を出版しました。 辰巳先生の食べた一年間の記録と季節ごとの旬の食財を使ったレシピ、自分の17年間学んだこと、心に残った言葉などが書かれています。 普段の辰巳先生とはこういう人ですという事を書いておきたいなと思って書いた、はじめての本です。 私から見た辰巳先生というのをこの本に書いておきたいなと思いました。
先生は本当によく人のことを観察する人でした。 心理学を学んでいた時に観察、記録し、分析する。 人だけではなくて、食材にも向かいました。 向こうがおいしいよって言ってるのを目で見ると、それがわかると言っていました。 その人のために怒れると言うのは、逆に言うとすごいことだと私は思います。 先生は常々愛すると言う事は、その対象に対してより良くことを願うこと、と言うふうに話してます。 料理に言えば、食材についても同じことで、そのものはより良くなるように手をかけよ、と言うことと一緒だと思います。
人の言葉や行動は、その人そのものをまとっている。 私も好きな言葉です。 気づきのある人になれると、生きていきやすい、人が生きる上でいろんなことがありますけれども、それを乗り越えるたびに気づきのある人と言う事は、常々先生が言われてる言葉です。 料理をしていると考える力が育つと思います。 色々段取りを考えないといけない。 違う事でも想像できる。 辰巳先生は、料理を通して皆さんに伝え続けていたんではないかと思います。
特に出汁は先生は大切にしてました。 日本料理の中の基本中の基本だと思います。 手間ひまをかけると言うことを考えると大変になってしまいます。 手間ひまをかけると言うよりは、そうしなければいけない。 そうしたら美味しくできると言うふうに自分の考え方を変えた方がいいじゃないかと思います。 そうすると体に良いしおいしいものができます。 そう思ってやることが大切だと思います。 段取りを自分の中に作ってしまうと、実は出汁ってそんなに大変ではないです。
辰巳先生の弟子なって25年になります。 自分自身を支えるのは食べることと言う意識が根底から変えられました。 今、教室をいろんなところで行っているので、先生のスープは病気の方から小さなお子さんまで飲むことができる貴重なスープなので、それを絶やすことなく、私が習ったままの形で皆さんに伝えていくと言うことを続けていきたいと思ってます。 辰巳先生は、私にとっては、偉大な尊敬する方で、今後も長く私たちを見守ってほしいと思っています
林康夫(陶芸家) ・「98歳 陶芸家が作品で伝える戦争と311」
林さんは、戦後京都で結成された前衛陶芸集団「四耕会」の創立メンバーの1人で日本の前衛陶芸の第一人者です。 この前衛陶芸と言うのは皿や器、花瓶といった実用的な陶器ではなく、オブジェを作ると言う新しい表現です。 林さんの作品は海外の展覧会で、数々のグランプリを受賞するなど高い評価を得ました。 イギリス大英博物館にも所蔵され、現在開催中の展覧会にも出展されています。 林さんは太平洋戦争で海軍航空隊に入隊、特攻隊に志願しましたが、出撃前に終戦を迎えました。 作品には戦争や思考体験が反映されいるといいます。 そして2011年の東日本大震災が創作活動に大きな影響を与えました。 その記憶を後世に伝えるべく、新たな作品を生み出した林さん、作品で伝えたいものは何か、人生と合わせてその思いを聞きました。
自分で生きてきたと言う感じはなくて、生かされてるいるんだなぁという感じがしてきます。 同級生はもうほとんどいません。 友達に電話をかける場所がありません。 パソコンでメールのやりとりをやってます。 昭和3年に陶器を作っている家に生まれました。 父は林沐雨と言って、京焼職人で伝統技術保持者、焼き物で成功していた人です。 焼き物は概念から嫌いでした。 絵描きになりたいと思ってました。 小学5年生の時に担任の先生が入院しました。 お見舞いに行こうと言うことになって、父に言ったら枝に小鳥が止まっている置物を持ってきました。これを持ってくように言われました。初めてうちは陶器屋なのかと思いました。
美術工芸学校で日本画を学びました。 目標は横山大観とかそういう方向でした。小学校3年生の始まりの時に、父が陸軍幼年学校の入学試験の願書持ってきました。 陸軍の訓練の状況を見ているので嫌でした。 ミッドウェイ海戦で海軍が半分なくなってしまいました。 美術学校にグライダー部を作ると言うことになりました。加山又蔵もグライダー部に入りました。 グライダーの面白さを体感しました。軍国主義の時代でした。 海軍航空隊の余暇練に入って、操縦を学んで特攻の志願兵として応募して受かることができました。毎日編隊飛行始まりました。 250キロの爆弾を機体に溶接します。 特攻隊としての準備をしていたら、終戦を迎えることになりました。 絵描きになるしか生きる道はないと思いました。
父は焼き物で手榴弾を作る会社に行っていましたが、失業してしまいました。 私は絵の学校に行きましたけれども、お金が続かないので、辞めざるを得ませんでした。父は焼き物もやるから手伝えと言うことになりました。 積極的に焼き物もやるようになりました。 どんなしんどい仕事でも海軍よりはマシだと思いました。 1年ぐらいしたら展覧会が始まりました。 2年先輩の人から「四耕会」に入らないかと誘われました。 1匹狼の集まりみたいなところでした。 自分のやりたいことをやろうという感じです。
前衛絵画をやっている人がオブジェの概念を教えてくれたのが面白かったです。 当時は実用的なものは作るけれども、訴えるものはありませんでした。 1948年雲を作りました。 正面から見ると黒い入道雲に見えるけれども、横から見ると女性の人体でした。 1950年に日本の陶芸展がパリへ行きます。 70数点の作品がパリに行きました。 フランスでの評価は、日本の焼き物は技術は確かだけれども、しかし固い、固いという意味はアート性にかけると言うことです。 その雑誌が翌年日本に届きますけれども、保守的な人は激高しますが、その雑誌に4人の名前が挙げられて、その4人の中の1人が私でした。(22歳)
伝統的なことをやっていた人たちが私らを潰しにかかるわけです。 それから日本の陶芸家のリストには私の名前は入りませんでした。 2011年の東日本大震災がありました。 作品をどんなものにするかいろいろ悩んでいました。 津波の状況をテレビで見て、何も手がつかずになってしまいました。 その止まったままの作品を展覧会に出しました。 6年後に会津若松に行って作品を寄贈しました。 廃屋を見て小さな廃屋を作ろうと考えました。 2年とちょっとで売り上げが200万円位になりました。 このお金を浪江町に寄贈しました。 今生きていることをどう表現するかと言う事は、形式ではなくて精神ですから、精神をどういう形にして今風に、今風のやり方で表現するか、と言うことが作家の仕事ではないかと思います
坂本佳奈(料理研究家) ・〔人ありて、街は生き 〕 台所から始める防災術
地震だけでなく水害も多い災害大国と言われる日本、いつどこで災害起きてもおかしくないと言われています。 今日は日ごろからできる災害の備えについて、料理研究家の坂本佳奈さんのインタビューをお聞きいただきます。 坂本さんは18歳の時に阪神淡路大震災を神戸で経験しました。 料理研究だった佳奈さんの母廣子さんは、当時の経験から台所防災と称して、日用品や備蓄品の応用を提唱しました。その術を継承した坂本さんは今も無理せず、身近なところから始める防災を伝える活動しています。
1995年の阪神淡路大震災の時に高校3年生でした。 灘区で被災しました。 自宅はマンションの1階に住んでいて、家は無事でした。 寝ていたら地震が発生して本がどんどん落ちてきて窒息してしまいました。 そこから記憶がありませんでした。 母がたまたま呼吸蘇生法の講習を受けてまして対応したそうです。 頭で知っているだけでは駄目です。(体験が必要) 生活していて人が行き来しない街と言うのは、静かなんだと言うことを感じました。 家って簡単に壊れるもんだなぁとも思いました。
自宅での避難では、情報が届かない、ものも届かない。 母は料理研究家だったので、備蓄はありました。 水のお知らせが来たのも5日後位,配給があったのも5日ぐらい。(7日間ぐらいの備蓄が必要) 防災のときには、何もないときに備えておくと言うのが1番必要です。 災害に備えていると言うことを忘れていても、備えていられるような準備方法が大切だと思います。 明日の生活は大丈夫かと言うことを考えておく必要があります。 日常の中に取り入れられる備えについて、「台所防災術 がんばらなくても大丈夫 被災から普通の暮らしに戻るまで」と言う本をまとめました。(母とともに)
台所の中のものを使って台所のものを切らさないように置いておいておけたら、まぁまぁ大丈夫ですかじゃないですかと言う提案です。 ラップ、ポリ袋などは災害が起きたときにいろいろ使えます。 45リッターのポリ袋はバケツがない時に段ボールと一緒に使って水を運ぶことができます。 トイレの代用品にもなります。 トイレから逆流する水を防ぐのに、水を入れてからかぶせることによって逆流を捧防げます。 食品では乾物、缶詰、レトルト食品は必要です。 乾物のお勧めは切り干し大根、いろいろな利用方法がある。(出汁にも利用) 他に海苔、わかめなど。
ボトルに入ってるお茶を使って、ご飯も炊ける、味噌汁も作れます。 ジュースなども煮物に使えます。 救援物資としては主食は保障されています。(パン、ご飯、おにぎりなど) 食物繊維、タンパク質みたいなものは不足します。 スルメイカの炒め物、スルメイカを水で戻してチンゲンサイと炒めただけです。 カイロは食物を温めるのに利用できます。 カップ麺は水でも大丈夫です。(30分ぐらいかかる。)
熱源としては、電気が来るまではカセット式ガスコンロが必要です。 電気、ガス、水がないと言うキャンプ生活をしたことがあるので、それは結構役立ちました。 電気、ガスなどを使わないで、家でのキャンプ生活をすることでも役立ちます。 防災トイレセットも購入しておいたほうがいいです。 家の外で被災することがあるので、カバンの中などに一時避難の為の防災グッズとして入れておくことも必要です。 例えば私はポーチに爪切り、綿棒、絆創膏、マスク、ポリ袋、アルコール綿(消毒用)、ティッシュペーパー、ゴム、生理用品、タオル、常備薬を入れておきます。 他にペットボトルとおやつ(ちょっとした食べ物)が入ってます。 他に携帯電話の充電器など 。 生きるために何が出来るかと言う事を考えて欲しいと思っています。