2025年12月16日火曜日

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

秋野太作(俳優)              ・つらいことがあればやり過ごす秋野流生き方

 秋野さんは1943年東京都生まれ。 大学在学中の1963年に俳優座養成所第15期生として入所。  1967年テレビドラマ木下恵介劇場「記念樹」で俳優デビューします。 その後テレビドラマの「男はつらいよ」「天下御免」「必殺仕掛人」など人気ドラマに出演、1975年から一年間放送されたテレビドラマ俺たちの旅』が話題となり、その後も10年おきにドラマ化されます。      1976年津坂 匡章から芸名を秋野太作に変更します。 現在も俳優として活躍中。 今年ドラマ「俺たちの旅」が50周年を迎え、鎌田敏夫さんの脚本、中村雅俊さんが監督し、「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されます。

テレビドラマ俺たちの旅』は大学生を対象にして、これから世に出る直前の3人を主人公にして、風変わりな作品でした。 終わってから何度も再放送することになり、名作扱いとなりました。 時代が移りこんで、若者がもがいていました。  ドラマを見てマネする若者が出て来ました。  「五十年目の俺たちの旅」と言う映画が2026年1月に公開されることになりました。  

母親が早く亡くなって父子家庭でした。  昭和18年生まれで、2歳の時に空襲で大分の方に疎開しました。  母は再婚で、家は前の旦那の家なんです。 義理の兄さんが2人いました。 母親は肺病になってしまって病院に入ってしまって会いたくても会えませんでした。    先夫の家で死なす訳には行けないという事で、父が母と私を連れて戦後の東京に引っ越しました。 狭い長屋で母親は直ぐに亡くなります。 近所のおばさんが「お母さんは亡くなったの。」と聞かれて、初めてあれは母親だったんだと判りました。 小学校1年から3年生までは学校は給食を食べに行くところで、一切勉強はしませんでした。  授業の時にはぼーっとしていました。  父親は銀行員でしたが、独立して印刷屋を始めますが、長屋は巣鴨にあってて、週末だけ父親が迎えにきて印刷屋のほうにいって、土曜日の夜だけ一緒に寝ていました。父親から小遣いをもらって、日曜日には一人で2本の映画を見るのが物凄く楽しかった。 夕方にはまた巣鴨の長屋に帰って行きました。 後から秋野君は寂しそうな子だったよねと友達から言われました。

大分にいた頃に弟が出来ていて、小学校1年生になる時には引き取らなくてはいけなくなって、母親の親友(永田さん?)が弟を東京に連れてきてくれました。(2泊3日)  酷い状況なので、親友(永田さん?)が半年ぐらい必死になって、私の面倒をいろいろ見てくれました。  身の廻りのもの、勉強も教えてくれて、それで奇跡的に助かった。  父は婚活をして2度目の母親が子連れでした。(同じ歳の女の子)  小学校で何故か級長に選ばれました。(女の子にもてた。) 成績が良くないことを先生が知っていたので、級長にはなれなかった。 2学期には級長になり何とか務められました。  5年、6年では学校に行くのが楽しみでした。(人気者) 

中学生のころになると、2度目の母親は可哀そうな人で、教養が無くて人柄にいろいろ問題があり、私へのいじめが始まります。 学校では相変わらず人気者で、勉強も出来ていたが、家に帰ると散々でした。  公立の高校に入り、相変わらず母親とのバトルがあり、家出のことしか考えていなかった。  日本大学法学部に入って、3年間で全部単位を取って、司法試験を受けるクラスがあってそこに入って、1年で挫折しました。 進路をどうするか考えました。

俳優座養成所第15期生として入所しました。(20歳) 仲代達也さんに影響されました。   養成所以降はバラ色でした。 養成所は3年間で、その後俳優座に入りました。 栗原小巻さんと原田芳雄と私でした。    いい先生にも巡り会えました。 

天気の悪い日は頭を沈めて、無理に表に出ないで、抵抗しないで、雨雲が去ってゆくのを待った方がいいと思います。 天が味方する時期があるんですね。

外の世界へ出るとそれはそれで面白かった。 新劇の世界の枠から違う視点で考えられるから。 テレビドラマはいろんな雑多な世界から集まって他流試合をする場所なんですよ。    ワクワクして本当に勉強になりました。  僕は渥美清さんの大フアンだったので喜んで出ました。  それから幅広く芝居が出来るようになりました。   外の世界をもっとやりたいという思いが劇団を辞める原因の一つにもなりました。   「天下御免」は自由にやっていました。 渥美さんとは非常に馬が合いました。  「必殺仕掛人」もやりました。 「五十年目の俺たちの旅」もビックリです。

父からは「金と女と健康には気を付けろ。」と言われています。 父は女運にも悪かったし、金も戦中戦後苦しい時を生きてきているし、歳をとった来ると健康も壊していたので。  健康は自分のせいですね。 健康が一番ですね。 舞台をやりたい、本当は演出もしたい。




























2025年12月15日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編

伊集院光(タレント)          ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 後編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

僕が落語を廃業するときにも、直接には落語を辞めるなとは言いませんでした。 「じゃあ 頑張れよ。」と言うだけでした。  大師匠のところに行くのは勇気が要りました。  「辞めるというのには誰も止はしなよ。  一つのことを続けられない人間が、上手くいくわけないっけどね」と言うようなことは言われました。  一か月後に空いている日に大師匠の家に集まるようになっていましたが、兄弟子から聞いた話ですが「最近落第が来ないけど何かあったのか。」といったそうです。  大師匠は瞬間に怒るけど直ぐに優しくなる人でした。

楽太郎の弟子だというようなことは、相手側から言われるまでは辞めようと思っていました。 師匠とは全く交流がなかったです。  困らせて困ったところを応援したいという番組があって、女性の下着をつけてしゃべっているところへ、うちの師匠が突然現れるというものでした。  ラジオでしどろもどろになったのはあの時だけですね。  終わった後に、自分の立場がはっきりしていないので「今の状態は破門という事ですか。」と聞いたら、「お前が今でも尊敬しているのならば、師弟関係だよ。」と言ってくれました。  その後クイズ番組などでご一緒したりするようになりました。 ラジオの競演もしてもらえました。  

コロナが流行ってゲストが呼べない時期があり、或る番組に対して師匠がゲストに呼んで欲しいと言ってきました。(ゲストを呼べない時期で困っているのを察してのことです。) そこで対談があってアシスタントのアナウンサーが最後のころに、「伊集院さんは落語をやってはいけないのですか。」といったら師匠が「やろうぜ。」と言いだして、二人会をやることがトントン拍子でやることになりました。(2020年)  師匠が体調を崩していたりする時には、師匠のラジオ番組に出演したりする様になりました。  師匠の弟子として一番充実していたのは、二人会が決まってやって終わって、その期間は短かったが楽しかったですね。  二人会は一回だけの予定でしたが、 舞台上で後3回やろうと言ったんです。 自分では完全燃焼したつもりでした。  「死神」をやることになり自分でも工夫してやろうとしていたら、師匠がそれは「トリ」にやってもらおうという事で「トリ」を務めました。 その時の師匠は入院するほどではないんですが、完全回復ではないが大熱演しました。  疲れたから帰ると言ったんですが、私の話の後迄いて、楽屋のソファーで横になっていました。  「寝ちゃったな、聞いてはいたけど。」と言いましたが、「 見て聞いていて寝たふりをしているだけです。」と、一門の弟弟子たちは「一生懸命に見ていました。」と言っていました。 

「お前らは先人たちが削って削って綺麗な古典にしたのに、足し過ぎだ。 そんなに説明しなくてもいいんだよ。 落語は理屈じゃあないんだから、ここからどれぐらい削るかと言う作業なんだよ。 削って下さい。」と言われました。  落語のなかで「結局」と言うのに古い表現だと「とどのつまり」と言うのがあります。  「とどのつまり」を使ってもかみさんにはわからないといったら、師匠が「うーん まあな」でどうだと言ったんです。 「結局」と「とどのつまり」の両方の意味で使えることにぞっとしました。

2018年に初期の肺がんを師匠が公表しました。  手術をして翌年高座に復帰、2022年脳梗塞で再び入院。  肺がんの話はショックでしたが、また倒れたという事もショックでした。  5月に退院して、8月の国立演芸場中席でトリを務める。  9月30日旅立ちました。  師匠は一切泣き言を言わない人でした。(錦糸町で写真週刊誌に撮られた時も動じませんでした。)  お墓は群馬県前橋市の釈迦尊寺にありますが、火事になって大きなダメージを受けました。  いろいろ迷った時に、師匠だったらどういうだろうか、と言う時にお墓は必要なんです。    時間を忘れて夢中になったぐらい好きになったことに、社会性を持たしてしゃべりなさい、そうすればくいっぱぐれる事は無いというんです。 例えば野球が好きならば、社会性を持たせるという事は、野球を全く知らない人にも届く様に、面白さが判る様にしゃべるという事。 

師匠への手紙

「師匠 ここの所小言を言ってくれませんね。 ・・・60歳近くになると小言を言ってくれる人がいませんから、小言無しは寂しいものです。 ・・・三回落語会をしようと言われ、戸惑ったもののいろんな演目についてアドバイスを頂く日々は、長く不義理をしてしまった不肖の弟子としては修行生活のなかでとても充実した日々でした。・・・僕の朝毎日やっていたラジオ番組が終わってしまい、凹みに凹んで、毎日のラジオ番組なんてこりごりですと強がった時に、師匠が「これで芝浜もうまくなるかも知れねえな。」と「朝起きて魚屋の仕事を行かない気持と久しぶりに魚屋やりてえなあと思う気持ちがいつか判るんじゃあねえか。」と言うアドバイスです。・・・ 「宮本武蔵」みたいなもんだと言われて、後で宮本武蔵」の本を読んで、やっと意味が分かりました。 芝浜をやる事は無くなったけれど、今僕は昼のラジオをまたやっていると、たまにこの言葉を思い出します。 ・・・僕は師匠の言葉を胸にもう少し頑張ってみようと思います。」



















2025年12月14日日曜日

バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

 バトバヤル・エンフマンダハ(モンゴルの視覚障害児支援センター )・母国で視覚障害児の光に~日本の学びに支えられて

エンフマンダハさんは37歳、幼い頃の事故がもとで13歳の時に失明しました。 モンゴルの大学で日本語を学び、2009年に来日、猛勉強の末に日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の3つの国家資格を取得しました。 2013年にはモンゴルで初となる視覚障害児を支援する団体、「オユンラグセンター」を設立、首都ウランバートルでマッサージ店を営みながら、地方に暮らす視覚障害児の修学支援を続けています。 

今回15人で日本行きました。  モンゴルにある唯一の盲学校の校長先生と3人の先生、モンゴル科学大学の特別教育部の主任の先生、盲学校の生徒たち3人親二人、幼稚部の先生とオユンラグセンターの事務局長。  日本に来た目的は日本での特別教育を聞くよりも見たほうが確実で、実際マネが出来るのではないかと思ってきました。  障害者スポーツセンター、筑波大学、筑波大学付属視覚特別支援学校の見学をしたりしています。  先生方が教える教材を工夫して作っているところが大変参考になりました。 私も日本に来て初めて白杖を持ったし、モンゴルでは今でも白杖をもって歩くのは難しい。 点字ブロックもありますが、途中で切れて居たり、電柱が有ったりして、逆に危ないかもしれない。  一人で行くことはなかなかできないです。

5歳のころに外で遊んでいた時にブランコから落ちて網膜剥離を起こしてしまい、段々悪化していって全く見えなくなったのが13歳ぐらいです。  学校は高校まで盲学校に通っていました。  視覚障害児は3千何百人いると言われますが、今盲学校には108人だけです。  日本の按摩、マッサージ、指圧師、鍼師、灸師の資格を取った先生から話を聞いて、自分も資格を取りたいと思いました。  大学で日本語を勉強しました。 点字の教科書など何もない状況でした。  大学も視覚障害者の受け入れは初めてなので、視覚障害への理解がなかなか得られませんでした。  いろいろな壁を乗り越えてきました。 

大学2年の時に日本の国際視覚障害者援護協会の日本語の試験に合格し、日本に来ました。(2009年) 筑波大学付属視覚特別支援学校に入学しました。(19歳)  魚が食べられなかったし、野菜も嫌いでしたので、食べものには困りました。  カレーなどを食べていました。 漢字、医学用語も大変でしたが、先生はじめ回りから助けられました。  今でもその方たちとの付き合いがあります。  家族の私への期待、応援もあって頑張ってこれました。      

帰国して「オユンラグセンター」を立ち上げたのは2013年です。 経済的な理由でモンゴルで唯一の視覚障害者の学校を辞めて行ってしまう事に対して、残念に思っていました。  日本での作文コンクールがあって3位に入ってその賞金(5万円)を「オユンラグセンター」設立に使いました。 オユンラグ=知恵と言う意味です。  今は10人ぐらいの生徒を学校に行せています。  学校へ行くための生活資金、交通費などを支給することをしています。  視覚障害の子を見つけ出して、説得して学校に行かせるようにすること自体が、大変という事もあります。 

今は10人ぐらいの生徒がいますが、親に置いておかれて孤児になってしまった子が3,4人います。  2014年に出会って小学1年生に入学した男の子が今回一緒に来ています。   やって来てよかったし、今後も続けたいと思っています。  「宝の家」と言う施設を日本人のお母さんが作ってくれて、そこを利用してサマースクールを開いています。(7年目)    生活訓練などもしています。  保護者に対しても、危険だからやらせないという様な、考え方を改めてもらうようにしています。  私も結婚して子供が出来て、1歳1か月で大変です。 来年は「宝の家」の施設を冬でもできるようにしようと思っています。  勉強したり経験できることは全て日本の支援の皆様のお陰なので、これからの人生を明るく生きる子が多いので、感謝の気持ちで一杯です。 
















2025年12月13日土曜日

2025年12月12日金曜日

大橋弘一(野鳥写真家)           ・〔人生のみちしるべ〕 “鳥屋”として生きる

大橋弘一(野鳥写真家)           ・〔人生のみちしるべ〕 “鳥屋”として生きる 

大橋さんは1954年生まれ(71歳) 北海道札幌市を拠点に野鳥写真家として活躍しています。 今年の3月まで7年間深夜便科学部鳥の雑学ノートのコーナーを担当しました。 鳥にまつわる様々な話題を楽しく伝えていました。 今年の10月に野鳥の写真の本ではなく、鳥にまつわる日本史の本を出版しました。 深夜便の鳥の雑学ノートのコーナーが大きく広がって到達した一冊とのこと。  

深夜便の鳥の雑学ノートのコーナーではラジオなので、写真を見ていただけないので、言葉の力も含めてどう鳥を伝えるか、という事が凄く勉強になりました。  鳥を知らない方にも、その鳥って魅力的だなあと思ってもらえるような内容、題材、言葉の力は凄く大事だと思います。 今年は本を3冊出版しました。  最初に写真集を1999年に出しました。 平均すると1年に一冊のペースでした。  ビジュアル図鑑「北海道の鳥」870点の写真が使われています。 272種の鳥。  子供のころから図鑑が好きで、特に鳥の図鑑が好きでした。   日本鳥類目録が2024年に新しくなりました。(明治時代から作られている日本の鳥の全部の鳥のリスト)  分類が違ってくるといろいろなものが変って来る。  それで新しい図鑑としてビジュアル図鑑「北海道の鳥」を出しました。  

10月には「鳥たちが彩る日本史」武将・文人と交わる8種類の鳥  この本は読み物で鳥の写真は10数点小さく載せましたが、読み物として作った本です。   鳥の語源について考えました。  「すずめ」 鳴き声が「ちゅんちゅん」ですが、昔の人は「しゅんしゅん」と聞いていたようです。  「しゅんしゅんめ」とめを付けていた。 「め」は鳥を意味する古い接尾語。  「しゅんしゅんめ」が段々変わって来て「すずめ」になったと言われる。

「うぐいす」は鳴き声を表している。 「ホーホケキョ」だと思いますが、昔の人は「うーぐいす」と聞いていたらしいという事が調べると判るわけです。                        「いかなれば春きたろごとうぐいすの己の名をばひとにつぐらん」と言う和歌があります。(大江 匡房 平安時代後期)  どうしてうぐいすは春になるたびに自分の名前をひとに告げているんだろう、と言う歌です。  うぐいすの鳴き声が「うーぐいす」だったという事になる。

調べてゆくと清少納言は「ほととぎす」が大好きだったことがわかり、鳥の語源だけではなく、人と鳥とのかかわりが判って来る。  深夜便の鳥の雑学ノートではそういったことをお話ししたつもりです。  その雑学の一つの到達点が「鳥たちが彩る日本史」と思って頂ければと思います。 鳥を説明するのに科学的な視点だけではなく、文系からも鳥を説明するということをずーっとやり続けてきています。 そうなると写真だけではなく、言葉も必ず必要になって来る。 

東京に住んでいましたが、昭和30年代は鳥が少なかった時代です。  高度成長期で自然環境があまり顧みられない時代でした。 水が汚れ、空気が汚れ公害の問題が発生しました。  子供心に野鳥なんかいないと決めつけていました。  でもスズメ、ヒヨドリ、オナガなどがいました。  オナガは関東の特産種であることを図鑑から判り衝撃を受けました。  早稲田大学法学部に進みましたが、鳥のことは全くやっていませんでした。(スキーに熱中)   ヤマハに就職しました。(スキーの板なども製作) しかし楽器がメインであることにがっかりしました。  札幌への転勤になり、音楽教室の業務を行っていました。 

スキーは続けていましたが、30歳ぐらいでスキーでトップになろうという思いは駄目だと悟りました。 網走に仕事で行っていた時に、「ノビタキ」と言う鳥を見つけて、写真を撮ってみました。  子供の時に鳥が好きだったことを思い出しました。 鳥を仕事にやろうと思いました。  超望遠レンズも買って写真を始めました。  38歳の時に溜め込んだ写真をもって出版社へ行きました。  シジュウカラの特集をするという事で雑誌に写真を提供しました。 アマチュアから集めた写真を一冊の写真集をつくっていて、 2点採用されました。            「チゴハヤブサ」の鳥の写真を、銀行の広告にその写真を使わせてほしいという連絡がありました。  3か月間毎週のように週刊誌の裏側にでかでかと写真が載りました。 他の写真も新聞にも頻繁に載るようになりました。  写真一枚で100万円もらえるので食っていけるかもしれないと思いました。 45歳で会社を退職しました。 

写真一枚で100万円の仕事は一回きりで、それ以来一つもありません。  食って行けるかどうかの辛い思いは何度もしてきました。  頂点を極めたいとの思いでやって来ました。  極めようという頂き、到達点が高ければ高いほど悩み苦しみもついて来るものなのではないかと思います。  プレッシャーみたいなものを常に感じます。  それを一つ一つ乗り越えるように励ましながらやっていこうと思います。  雑学を極めたい。 

3冊目は「鳥たちの素敵な名前の物語」 です。 5年間連載をしていたものを一冊にまとめた本です。  新しい要素も入れて、古典文献の解説も中に入れています。  いろんな切り口で鳥を知ってゆくと鳥の見方も変わってくると思います。 深く鳥のことを知ることができる。 鳥を通して古い文化、歴史、価値観と言ったもの知ると、我々の祖先が歩んできた道が見えてくるように思います。
































2025年12月11日木曜日

あご勇(コメディアン・“スペシャル添乗員”)  ・芸能生活50周年~還暦からバスツアー添乗員に~

 あご勇(コメディアン・“スペシャル添乗員”)・芸能生活50周年~還暦からバスツアー添乗員に~

あご勇さんは1957年千葉県出身。  1974年に民放テレビ番組の「素人コメディアン道場」で7代目チャンピオンの座を獲得。 同じ優勝者仲間たちとコミックグループ「ザ・ハンダース」を結成し、コミックソングハンダースの想い出の渚』は約30万枚を売り上げ、有線大賞新人賞を獲得。 数々のバラエティー番組で活躍しました。

「素人コメディアン道場」へ出場して5週勝ち抜いてチャンピオンになりました。 ドリフターズの若手をという事で、6人なので1ダースの半分なので「ハンダース」と言う名前になりました。  清水アキラさんとか、桜金造さん、中本賢さんとかがいました。 渡辺プロダクションには入れてもらえませんでした。 笑って!笑って!!60分』(TBS)などにレギュラー出演する。 漫才コンビ「アゴ&キンゾー」を結成お笑いスター誕生』に挑戦、ゴールデンルーキー賞から10週勝ち抜きグランプリにも輝きました。バセドー病になってしまって芸能界を辞めようかなと思いました。 収入も沢山になって、酒を飲んだりして遊んじゃいました。 今度は白内障になってしまって、桜金造さんとももめてしまって、芸能界を辞めてしまいました。 (実家の千葉に戻る。) 芸能界に戻ろうと思ったら、千昌夫さんが声をかけてくれて、桜金造さんとのコンビが復活しました。

清水あきらさんとも会って、仕事をさせて貰うようになりました。  清水あきらさんが出る、バス会社主催の大感謝祭が1年に一遍やっていました。(1500人ぐらい呼んで劇場でやっていた。)  バス会社の社長と知り合いになって、バスツアーをやろうという事になりました。  資格を取って還暦からバスツアーをやる様になりました。(8年前) トイレの問題など大変でした。  昼食を境にお客さんの雰囲気が変わって来ます。 最初のころは自分中心で面白いことを言ったりしていましたが、面白いことを言っていればいいわけではなく、謝らなければいけないようなことも、しなかったりしました。  段々要領を覚えていきました。   添乗員は1万歩ぐらい歩きます。  ディナーショーなどの司会もやっています。  バスの中では人数が少なかったりしていますが、人前でやることは絶対大丈夫だと思うようになりました。 

夢は一人芝居をやりたいなあと思っています。  大きな荷物を持った行商のおばあさんの一人芝居をやりたいです。  いろいろな人生が出て来て、笑いもあり、最後はグッとくるようなものをやりたいです。 






















2025年12月8日月曜日

亀山永子(切り絵・絵本作家)        ・平和への思いを“切り絵・絵本”に込めて

亀山永子(切り絵・絵本作家)        ・平和への思いを“切り絵・絵本”に込めて 

愛知県一宮市の亀山永子さんは13年前から地域の小学校や児童館で絵本の読み聞かせボランティアを続けています。  自分が生まれる前にグアム島から帰国した横井庄一さんの話に感動を覚え、子供たちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと、地元にある横井庄一記念館に通って、妻の美穂子さんから話を聞いたり、取材を続け手作りの切り絵絵本を完成させました。 様々な苦労を経て出版社から世に出たハードカバーのこの本は生前の横井美穂子さんとの約束通り、現在日本全国の図書館に置かれています。 亀山さんはその後も子供たちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと、様々な戦争体験の話を元に切り絵絵本を作り続けています。

13年前から二人の子供を育てながら、児童館で読み聞かせをしていたのが、絵本との出会いでした。 パステルで小さな絵を描いていました。  それを纏めて手作りの絵本を作って、娘たちに見せているうちに、自分が子供のころに本を書く人になりたかったことを思い出しました。  横井庄一さんに出会って、横井さんの絵本を作ろうと思ったことが、本格的な絵本を作るきっかけになりました。  独学で切り絵に挑戦しました。 自宅に近い名古屋市に横井庄一記念館があることを知りました。 館長を務めていたのが奥さんの美穂子さんでした。 1mぐらいの手織り機がおいてあって、自分で布を作って洋服を作っていたという事で吃驚しました。 自分で服を作り自分で食べ物を捜して、生きる姿に強く心打たれました。   

横井さんの絵本を子供たちに読み聞かせしようと思ったのですが、一冊も見つかりませんでした。 自分で作ろうと思いました。  試作品を美穂子さんのところへ持っていったら喜んでもらえました。  どこから出版されるのかと言われました。  出版予定のないことを返事したらがっかりしていました。  手作りの本を結局800冊作って寄贈していました。  全国の図書館におくという美穂子さんとの約束は果たせないと思っていました。 POD出版 を知りました。(誰でも出版できる仕組みになっている。)  POD出版の最優秀賞を頂き、ハードカバーを付けて全国の図書館に置いてもらおうと思いました。  或る出版社に相談したら出しましょうという事になりました。 美穂子さんが凄く喜んでくれました。  図書館側が購入してくれるようになって、全国の図書館に置かれるようになり、美穂子さんとの約束を果たすことが出来ました。 2022年に美穂子さんはお亡くなりになりました。

横井庄一さんは28年間ジャングルで生活していて、ネズミ、カエル、デンデンムシなどを食べて生き延びてきたが、彼らの碑を建てたいと言っていて、亡くなった後に横井さんのお墓の脇に小動物の為の慰霊碑を建てています。(慈悲深い)  1万9000人ぐらいがグアム島で命を落としたそうです。  横井さんら3人になり、2人も亡くなり遺骨を日本に持って帰る約束をしたそうです。  1972年日本に帰国しました。(56歳) 「恥かしながら生きながらえて帰ってまいりました。」と言う言葉を述べました。  野菜作りとか陶芸に打ち込んでいたようです。 1997年82歳で亡くなりました。 

小動物の為の慰霊碑の横に辞世のような歌があります。  「この次は 戦なき世に生まれきて 父母子等と夕餉を囲まん」  白黒の切り絵だと、戦争の不気味さ、悲惨さ、残酷さを効果的に伝えていて、又温かみもあるという声を頂きました。 45ぺージになっていて長いのですが、子供たちも最後までよく聞いてくれています。

「きせきのやしのみ」 昭和50年島根県出雲市の稲佐の浜の近くで釣りをしていた人がヤシの実を見つけて拾い上げました。  乾いてくると文字が現れました。 「昭和19年7月19日所原陸軍伍長飯塚正一君と墨で書かれていた。 昭和20年7月にフィリピンで戦死した出雲市出身の山之内辰四郎さんが、フィリピンのマニラの港から流したものであることが判りました。  二人は故郷が同じだという事で親しくしていた様です。 亡くなる前に戦友の名を記して流したヤシの実が31年後に出雲市大社町の漁港に漂着し、妻の元に返ったという実話です。  「先の戦争でおよそ240万人もの日本人が海の向こうの戦場で命を落とし、そのうち遺骨となって日本に帰ってこられたのは僅か半数ほど、今でも100万人以上の人たちが日本に帰れないまま、真っ暗で冷たい土の中や、海の底に取り残されています。  その一人一人に帰りたかった故郷があり、待っている家族がありました。」         奇跡的にたどり着いたヤシの実から無念の思いが伝わってくる様です。  ご家族もヤシの実を見て、 山之内辰四郎さん自身が帰ってきたように思われたそうです。  この奇跡のヤシの実は靖国神社に納められました。  私の切り絵もヤシの実の脇に飾られています。  今年ヤシの実が流れ着いてから50年、終戦後80年になります。 

知れば知るほど戦争は、本当に悲惨で、だからこそ今の平和は大切なんだという事を切実に感じています。  横井さんが言っていた「負けるでないぞ。」と言う言葉に励まされながら生活しています。 美穂子さんからは「どんな小さな明かりでも、平和の明かりはともし続けなければならない。」と常々言っていました。