2025年9月17日水曜日

渡辺司(プロゴルファー)         ・〔スポーツ明日への伝言〕 ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 後編

渡辺司(プロゴルファー)         ・〔スポーツ明日への伝言〕 ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 後編

 渡辺さんは日本のゴルフツアーの安定した実力派プレーヤーとして19シーズンに渡って、シード権を維持しながら2勝、更に50歳以上のシニア―ツアーではメジャー大会の日本シニア―オープンなどを含む5勝を挙げてきました。 ところが2023年11月左ひざ半月板の手術を受ける際の血液検査から多発性骨髄腫と診断されました。  多発性骨髄腫とは、血液細胞の一種である形質細胞ががん化し、症状がひどくなると骨の破壊や腎障害を起こす恐れがあるとされます。 それでも10か月の治療とリハビリの結果ゴルフを再開できるようになって、今年は開幕からツアーに復帰しています。 

勝つことと二位であることにわけてきたのは、「足して二で割る。」と言うゴルフを長年やってきましたが、そのなかで僕も優勝したいという気持ちがない訳ではない。  一つの大きなテーマ、家のローンが終わるまで(56歳ごろ)はと言うものがありました。 シニアーになって2年間で12試合3年目で8試合しかない。  この3年間(20試合)で僕は3回優勝しました。  20年やって2回しか優勝しなかった人間でしたが。  シニアーになったら「足して二で割る。」ゴルフを辞める勇気が湧いた。  順位を落としてでも上を狙うのが競技者かもしれませんが。   ここは攻めるのか、刻んで安全に行くのか、ゴルフのどんな場面でも頭にあります。  

49歳で肩を痛めました、(50肩)  試合をしながら治療をするのは効果が薄いので1年間治療に専念して、50歳でシニア―ツアーに出る時には肩の痛みを感じないでゴルフができるようになりました。  多発性骨髄腫を見つけてくれたのは整形外科の先生でした。  半月板の手術を受ける際の血液検査で積極的な検査をして頂きました。  多発性骨髄腫と診断されました。  膝の手術は2023年1月に行いました。  多発性骨髄腫に関しては、急に治療をしなくてはいけないのかどうか聞いたら、直ぐにやらなくても定期的な検査を受けて1年経って12月に検査を受けた時には何ともありませんでした。  その間試合にも出ていました。 自覚症状は一切ありませんでした。  腕が痛くなって先生のところに行ったら腕の骨がぐずぐずになっていました。  そこから多発性骨髄腫の治療が始まりました。(2024年1月から)   肩の部分を切って骨の中に髄内釘?という金属を入れて固定して、手術が終わって、抗がん剤の治療を始めました。  それから1年8か月ぐらい経ちましたが、先生からは普通に暮らしていいという風に言われました。  ゴルフはやっていますが、免疫力が落ちているので、過度に疲れないようにとは言われています。

最初バンカーショットでは思っているところにクラブが降りないんです。  半年はかかりました。  ドライバーの方が簡単でしたが、250ヤード飛んでいたのが180~200ぐらいしか飛ばないんです。  試合復帰は2024年9月の大会でしたが、試合に出ると言うよりゴルフ場にリハビリに行くというような感じでした。  

2009年シニアーオープン優勝。   初日73,2日目68,3日目66で9アンダーで単独トップ、2位と一打差。  一緒に回る筈だった腹痛で参加しなくなり、代わりの人(アマチュアのクラブチャンピオン)と一緒にまわることになったが前半その人が35で回って、僕は36でその人に負けてしまって、絶対この人には負けたくないと思って回ったら、30でした。  最終日は後半は凄い雨になりました。  最終ホールのグリーンは歩くとぴしゃぴしゃするような感じで、ボールは転がらないだろうなと思って打ったら、意外と転がって1m50近く残りました。  このパットが外れると4人のプレーオフになるので、このパットが入らないと僕の負けなんだと思って最後打ちました。  入ることが出来ました。

青木さんに練習ではこんなにうまくいくのに本番では全然うまくいかない、どうしてか聞いた時に、青木さんは「練習で100回やって100回成功する事が、たった一回の本番で失敗するのは当たり前なんだ。」と言いました。  「練習は地面の上に敷いた30cmの幅の板だと、試合と言うのはこの地面の板が状況によって10mにも20mにも50m、100mにあがってゆく。  足を踏み外した落ちてしまう。  地面で足を踏みはずしても何も起きないだろう。  自分にとって失敗に対する恐怖心が手を動かなくさせる、身体を固くする、地面の上を1万回歩いても身に付かない。  本番で板の高さが高くなるという事は自分の進歩なんだ。  マイナスではない。  ビビるということは進歩なんだ。  そこを歩く様にするためには這ってでもいいからそこで前に進むしかない。」 と言われました。   よく平常心を保てと言いますが、緊張状態から平常心に戻るのではなくて、緊張状態の上に興奮状態があるんです、この興奮状態が僕の思うゾーンなんだと思います。  戻ろうとするとこのゾーンには入れないんじゃないかと思います。 青木さんと言う偉大なる目標が僕の道の前を歩いているので、追いかけたいなあと思います。











2025年9月16日火曜日

小野武彦(俳優)             ・石原裕次郎さんに憧れて            

 小野武彦(俳優)             ・石原裕次郎さんに憧れて

小野さんは1942年東京都生まれ。 俳優座養成所(15期生)を卒業後文学座に入団し、舞台を中心に活動、1960年代後半から映像の世界でも活動を始め、数々の映画やドラマに出演、特に倉本聰さんの作品に数多く出演しています。 その後1997年に出演した「踊る大走査線」が大人気となり欠かせない存在となります。  名脇役として活動する中で2023年映画「シェアの法則」で初主演、話題になりました。 

83歳になりました。  「大都会」は33歳でパート1でレギュラーで入りました。  倉本聰先生がメインライターで地味なもので刑事ものと言うよりは、組織の人間の末端を書いたようなものでした。 刑事ものを31本やりました。 それから刑事ものが50年途切れませんでした。  最近はおじいさん役が多いです。 

12歳のころに狛江市に住んでましたが、近くに東欧一の真っ白なかまぼこ型の日活の撮影所が出来ました。 見にいっているうちに裕次郎さんに憧れてしまいました。  学業の合間にエキストラとして撮影所に通う日々を送った。  映画も見るようになり、しっかり演技をする人たちを調べてみると新劇の人たちでした。  俳優座養成所へ行きたいと思って受けることにしました。(3年間 15期)  養成所の後は映画、舞台、ミュージカルなどいろいろな方面に行く人たちがいました。  その後文学座に行きました。  4月に入って稽古をして5月には抜擢されて出れました。  文学座は大所帯だったんですが、分裂して特に男優が少なかったので出れたのはラッキーでした。  文学座には4年間いました。  映像の方もやってみたいという思いがありました。  映像の世界でも俳優座の先輩の方がいて有難かったです。

2023年映画「シェアの法則」で初主演となりました。  地味ですが,観た方は感動してくださいます。  10月で2年になります。  奥さんがシェアハウスをやっている夫の役です。  妻が倒れたので替わりに面倒を見ることになる役です。  「冬へのパッサカリア」北海道を舞台にした3つの物語からなる、美しくて静かな余韻の残るオムニバス作品。 その中の2番目の「記憶とリゾート」に出ました。  幼いころに河童を観たという事で場所を訪ねるという話です。(実話)  北海道は河童伝説の多いところです。 

普通に平凡に生きて来た人間が、たんたんに生きているみたいな、これと言った事件も起こったりはしないけれど普通に生活している、でも生きているっていいなと思ってもらえるようなものをやってみたい。(それでもドラマはある。)  皆さんにも共通するようなものを表現できるような映画をやりたいと思います。















 

2025年9月15日月曜日

江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

 江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

江上さんは小説「非情銀行」でデビューし、銀行員から小説家に転身しましたが、江上さんが師と仰ぐのは「山椒魚」「黒い雨」で知られる昭和の文豪井伏鱒二です。 井伏鱒二と江上剛さんとはどんな関係だったんでしょうか。 

「屋根の上のサワン」というエッセイみたいな小説ですが、教科書に載っていてそれを読んだ時に、田舎で育ったんですが、青春時代に時代の閉そく感みたいなものを感じて、そういったところから旅立ちたいとう思いが、先生の小説と共感するものがあったんだと思います。 

井伏鱒二は1898年(明治31年)広島県福山市で生まれる。 本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。  上京し早稲田大学に進学しましたが、退学し同人誌で作家修行を開始、関東大震災の後一旦は帰郷したものの再び東京に戻り杉並区の荻窪に自宅を構えます。 井伏鱒二を師と仰いだ太宰治はこの家で結婚式を挙げてます。  「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞を受賞したのは昭和13年、戦時中は陸軍に徴用されて南方に派遣された時期もありましたが、47歳で終戦を迎えます。  戦後も作品を発表し続けて、昭和31年日本芸術院賞を受賞、原爆を題材とした対策「黒い雨」を発表した翌年昭和41年には文化勲章も受賞しました。  この「黒い雨」は今村昌平監督により映画化されカンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞を受賞したほか、20を越える言語に翻訳され今も世界中で読まれています。東京杉並荻窪の自宅近くの病院でなくなったのは1993年(平成5年)7月10日、95年の生涯でした。

早稲田大学に入った昭和47年、当時連合赤軍の事件、榛名山のリンチ殺人事件があったり、学生運動が内ゲバの時代になっていました。  早稲田大学も荒れていました。 井伏鱒二論を書こうと思って、「黒い雨」などを読んでいました。  先生に会おうと思い、公衆電話で先生に電話をしました。  そうしたら簡単に「来なさい。」と言ってくれて自宅まで行きました。  家は平屋の簡素な家で、表札が名刺の後ろで画鋲で止めて「井伏」と書いてあったんです。(一番びっくりした。)  ウナギ屋さんからウナギを取ってくれて、ジョニ黒のウイスキーを出してくれました。  早稲田の学生が来たのは太宰以来だと言ってくれました。 ざっくばらんにいろいろな話をしてくれました。 (原稿料が上がらないと言った話まで。)

太宰の話が多かったです。  文学とはと言うような大上段に構えたテーマになると、太宰は崩していた足を正座して聞いたとか、原稿用紙をピンクのリボンで綴って持ってきたとか、そんな話を聞きました。  古典を読みなさいと言われて、ロシア文学、ドフトエフスキーとか、プーシキン、ツルゲーネフとか古典を読みなさいと言われました。 「黒い雨」は静馬(重松静馬)さんと言う姪の方の日記がベースになっている。(本のなかでは「閑間重松」」となっている。)  先生は「あれは小説ではない。」とおっしゃっていました。  「小説では書けなかった。」と。  何とか姪を結婚させようと原爆症にはかかってないよと、黒い雨は浴びてないよと、何とか証明しようとしたが、それが無駄になってゆき、最後は鯉が遡上してゆくシーンで終わるが。 我々から見ると小説の極みと思うが。  

「非情銀行」で作家デビューしたのが2002年、井伏鱒二邸を初めて訪れてから30年後のころになる。  小説家になりたいなんて言う事は先生には一度も言った事は無いです。  ドフトエフスキーとかずーっと読んでいました。  先生のところにブラっと訪ねてゆくのが楽しみでした。  「小説家と言うものは文体を確立することに苦労する。」とおっしゃっていました。  飲むのは良く二人でした。(文豪と18歳ぐらいの青年  年齢差56歳)   よくフラッと訪ねて行きました。  丹波の田舎から親が松茸を送ってきたので、先生のところに持っていきました。  先生が「一緒に食べよう。」とおっしゃったんですが、「留年している身であるし、一緒には食べられない。」と言うと、「お前がまともになるまでこれを預かっておく。」と言うんです。  「佃煮にしておく。」とおっしゃったんです。 まともに就職が決まったりしたらご報告にまいります。」と言って家を後にしました。  1977年第一勧業銀行に決まりました。  報告に行きました。  奥さんが小さな器に入った黒い煮しめを出しました。  先生が「これは去年君が持ってきてくれた松茸だよ。」 とおっしゃったんです。 涙があふれました。   「兎に角小説はいつでも書けるから、大阪は商売人の街だから商売をしっかり覚えておきなさい。」、と言って革靴を二足買って下さいました。 その靴を履いて銀行員として頑張りました。  銀行員の忙しい時代は訪ねるのは少なかったです。  手紙のやりとりはしていました。 

先生の訃報を聞いた時には、もうこれで会えなくなったのかと、本当にさみしさがありました。  残念で残念で泣きました。  「小説は頭ではなく胸三寸で訴えるものを書くんだぞ。」とおっしゃっていました。  今でも古典を読んでヒントを得たり、自分考えを正したりすることは多いです。  先生の作品は心に沁み込んでくるよいうな作品が多いですね。 詩集にはすごく影響を受けました。   自分の人生の生き方で影響を受けたのは多いですね。 にっちもさっちもいかなくなった時に、あの詩のように廊下を靴音高く、靴ひもをしっかり締めて廊下を前向いて歩けばいいんだという事をいつも思いました。 

井伏鱒二への手紙

「井伏先生、・・・何故井伏先生は貴方を受け入れたのか、私はどう答えていいかわかりませんでした。 先生に初めてお会いしたのは、1972年 のことです。 ・・・・・先生のファンだと言って公衆電話から電話をしました。 ・・・電話口に出られた先生は「直ぐ来なさい。」と一言、嬉しかったのを覚えています。・・・何よりも表札が名刺の裏でしたね。 先生は表札を取ってゆくものがいるんだよ、受験のお守りかね、僕の表札なんかお守りにならないのにと笑っておられましたね。私は小説家希望だとは一言も言いませんでした。 原稿もお見せしたこともありません。 それなのに先生は古典を読め、小説は胸三寸で書け、小説はいつでも書けるなどと、小説家としての心構えを話してくださいました。あれは私の中に将来小説家になる兆しめいたものを見つけてくださっていたからでしょうか。・・・どうかいつまでもお守りください。」











2025年9月14日日曜日

宮川純(ブラインドダンスチーム代表)   ・広がれ!ブラインドダンスの可能性

宮川純(ブラインドダンスチーム代表)   ・広がれ!ブラインドダンスの可能性 

ブラインドダンスは視覚に障害のある人が行う社交ダンスで、日本が世界に先駆けて2006年から競技大会を開催、今年も今月23日に東京で全日本選手権大会が開かれることになっています。 宮川さんは東京都出身の47歳、30歳の時に糖尿病が原因で視力を失いました。   10年ほど前グラインドダンスに出会って以来、その魅力を伝えようと普及活動に取り組んでいます。 今年の2月には耳の聞こえないパートナーとペアを組んで華麗なステップを披露し、話題になりました。 

ブラインドダンスは視覚障害者の方と目の見える方がペアを組んで踊る社交ダンスになります。 リーダー役が視覚障害者のペアと、パートナーが視覚障害者に分かれるリーダー部門、パートナー部門に分かれて踊る社交ダンスをブラインドダンスと呼んでいます。  2006年に公益社団法人日本ダンス議会(JDC)の当時の会長がゴルフのコンペに行った際に、視覚障害の方がゴルフをやっていたのを見て、社交ダンスにも視覚障害者がやっている人がるのではないかというのがきっかけで、全国的に調査をしたところかなりの人数がやっていることが判って、やろうという事になりました。(2006年)  ブラインドダンスはワルツ、タンゴ、チャチャチャ、ルンバの4種目で競技会が行われます。  

生まれた時には未熟児でした。  母が心配して1歳でベビースイムをやらされて、中学途中まではずっと水泳の選手でした。  水泳、野球、ラグビー、サッカー、ゴルフなどやりました。  小学校6年生の時には180cmあり、その後は伸びていません。  30歳のころに飲食店をやっていて、以前から糖尿病があり、30歳の時に足に大やけどをして血糖値のコントロールが狂ってしまって失明してしまいました。  10か月で全盲の世界になりました。  見えなくてもきっと新しい扉が開けるのではないかと思いました。  白杖、スマホ、パソコンの使い方などを勉強しました。  友達からの協力もありました。  入院中の方がメンタル的にはきつかったです。 その間に20回ぐらい手術もしました。 

東京都盲人福祉協会に訓練部があり、まずは白杖を手に入れる事から始めて、歩行訓練をしました。  中途失明の人は早くても2年ぐらいは掛かると言われますが、僕は2,3か月であちこち歩きまわりました。 バリアーフリーと言う言葉は知っていましたが、自分でなってみると、こんなことも社会はしてくれないのとか、こんな状況なのかという事を感じました。 東京都盲人福祉協会の役員になって、視覚障害者の役に立つようにやっています。 理不尽なことも経験しました。  飲食店は一緒にやっていた仲間に渡しました。 

2005年12月に視覚障害者の女性から社交ダンスの見学に行きたいという事で一緒に行きました。 視覚障害に仲間を社会参加させるきっかけになるのではないかと感じました。(コミュニティーの場)  社交ダンスを指導する先生と一緒に作り上げていきました。 入院中は68kg迄体重はおちて、その後105kgまで増えてしまって、ダンスを始めた当初は100kgぐらいありました。  ダンスを初めて半年で87kgまで減り、今は84kgです 

5名でスタートして、2025年8がつで 51名いて半分が視覚障害者、半分がボランティアだったりします。  バリアーフリーで一番大切なことはそのバリアーを知る、学ぶという事だと思います。  ブラインドダンスは共生社会の縮図みたいなもので、障害のある人とない人が手を組んで一緒に一つのものを達成されているところだと思います。  ダンス以外の周りの時間も大事です。  一般の競技会に出て頑張っている人もいます。  それぞれの障害を持っている方がもっと連携できると世の中がもっと変わるのではないかなと思います。 ここに風穴を開けたいと思っています。  ブラインドダンスとデフダンス(聴覚障害)に挑戦を始めました。 僕が彼女の耳の役、彼女が僕の目の役(互いに補いながら踊る。) 僕のダンスのパートナーの清水が手話通訳が出来るので、手話でのコミュニケーションで爆発的にダンスのスピード感が上がりました。  今年の2月に国際的な大きな大会があり、そこでブラインドダンスとデフダンスをやらせていただきました。  

今年の6月にブラインドダンスをテーマにした電子コミックが出ました。 私も登場しています。 吃驚しています。 宮田君と言う準主役で登場します。  パラリンピックの種目になればうれしいと思っています。  7歳の時に母が他界していて、父も仕事の関係で海外に行っていることが多くて、周りの方に支えられて生きてきました。  回りの同じ境遇の仲間も助けられたらなあとか、そういった気持ちはあります。







  















 





2025年9月13日土曜日

秋尾沙戸子(ノンフィクション作家)    ・GHQと京都 ~進駐軍の記録と記憶を探して~

 秋尾沙戸子(ノンフィクション作家)    ・GHQと京都 ~進駐軍の記録と記憶を探して~

秋尾さんは30年余り前にNHK総合テレビで放送された「ナイトジャーナル」や民放のニュース番組でキャスターやコメンテーターを務めました。  民主の進む東欧やアジア各国を自ら取材、2000年インドネシア初の女性大統領メガワティ氏の半生を描いた著書『運命の長女: スカルノの娘メガワティの半生』でアジア太平洋賞特別賞、2009年には『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』で日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。  占領下と民主化の研究をライフワークとしている秋尾さんが次に関心を持ったのは、GHQの西日本全体を統括する第6軍司令部のおかれた京都市で何があったのかでした。 秋尾さんは2013年に京都に移住、10年かけて体験者の証言を集め、去年12月著書『京都占領:1945年の真実』にまとめました。 京都で何があったのか伺いました。

ワシントンハイツと言うのは、戦後すぐに東京原宿駅の近くに誕生したアメリカ村のことです。  827個の木造住宅と学校や教会、野球のグラウンドなどが出来ました。 本国と同じような暮らしができるアメリカ村として建設されました。  元々は日本帝国陸軍の練兵場でした。  日本人が入れない禁断の地として20年近くありました。  そこを主役にして戦後の日本人が何故アメリカを好きになったのか、庶民の衣食住がアメリカ化されて大量消費社会に向かって行ったかを、日本とアメリカの資料、証言を集めて検証した本です。(『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』)

今回は続編の京都版。  死ぬまでに日本人としての軸を作りたいという思いと、歴史、地名などに疎い自分がありました。 母が63歳の時に動脈瘤破裂で急に亡くなり、祖母が選んだ素敵な着物がいっぱいあって、着こなすことで母とつながるかなあという思いがありました。 東京では着物は非日常的で、以上のような理由で京都に行きました。

ベルリンの壁が崩壊して、美しい涙を浮かべていたが、共産圏のことをよく知りませんでした。  東欧に向かいました。  共産党の一党独裁が崩れて何が起きるかという事を調べめした。 その後アジアを歩いて、インドネシアでは32年続いたスハルト政権の崩壊の場に立ち会ったりしました。  それを見てくると背後にアメリカの存在があるんです。 アメリカ目線で世界を観てみようと思って、アメリカのジョージタウン大学ワシントンD.C.)に行って外交を学びました。(2003年)  イラクにアメリカが侵攻した年でした。  占領が上手くいかなくて、私に何故戦後の日本の占領は上手く行ったのか、教授や周りから突き付けられました。  よくわかっていなくて、占領のことをきっちり調べようと思いました。  日本の占領期のことが民主化の成功例となって、アメリカは世界中の民主化に推進してゆくという感じです。 

『京都で、きもの修行 55歳から女ひとり住んでみて』は日本の伝統文化を判りたくて京都にやって来ましたが、京都の年中行事に着物で見学したりすると、現地の人と会話が始まります。 いろいろ勉強になりました。  行事では邪気払いが多いですね。  根本は人間は生かされれているという風に感謝しています。  神、仏、ご先祖、魑魅魍魎全部含めて見えないものに対するリスペクトがあるという事が物凄く勉強になりました。 

京都市にGHQの西日本全体を統括する第6軍司令部がおかれました。  大阪の伊丹空港が軍事的には重要拠点で大阪に置きたかったが、焼け野原になっていたので空襲が少なかった京都にと、海がなくて空港がないので攻められにくいという考え方もあったようです。 全国に40万人来ました。  安全が確認できると25万人になり、そのうち京都府は8000人で京都市には5500人がやってきています。  1945年9月4日に外務省からの要請で京都府庁の中に終戦事務連絡委員会、進駐軍受け入れ実行本部が配置されます。

9月25日に米軍がわっと入って来ます。  凱旋パレードをやりました。  何をやるのかわあkらないので怖くて女学校は休校になりました。  日本軍の第16師団が伏見界隈にあるのでまず接収しました。  四条烏丸の大建ビル?に司令部の執務室、北の方で暮らし始めています。  洋館が接収のねらい目になりました。  兵士の宿舎、病院、ダンスホール、クリーニング工場などになったりしました。  神道はお取りつぶしが凄く怖かった。  国家神道として戦争を支えてしまったので。  氏神信仰は悪くないという事で神社は残るが、政教分離で政治がスポンサーになってはいけないことになる。  京都には根強い噂が二つあって、①接収に関して、米軍は京都御所を狙っていた、②一人の官僚が京都御所を守った。

二点について調べ始めて、候補地はいっぱいあったが、最後に3つになります。  ①京都の競馬場、②府立植物園、③京都御苑(京都御所の周りにある、いまは公園になっている場所)京都御苑が取られないように右往左往している時に、私は凄い文章を見つけてしまいました。  宮内大臣の松平さんが「どうぞ御苑を使ってください。」というサインが入った文章が英語と日本語で出て来たんです。  宮内庁に行ってどうにかしてほしいという事で、課長さんたちが行って交渉したがそうはひっくりがえらないので、吉田総理大臣の名前で御苑の代わりに、植物園を勧める文書を出して、事なきを得た。 ワシントンハイツに比べると規模は小さかったという事です。 

上賀茂神社、戦前は一般の人は二の鳥居の中には入れず、皇室に近い神社だった。(聖域指定)  突然行政からゴルフ場にするという話が入ってきた。  御神木が切り倒された。    京都にはシェフィールドと言う軍政管が、知事と同じようなポストでいたが、彼が死ぬほどゴルフが好きで、ゴルフをするのには5時間かけて宝塚まで行かなければいけなくて、京都に作ってしまえばいいという事で、伐採にやって来る。  その場所は葵祭の重要な神事をやる場所がその中に含まれていた。  抵抗が出来なかったが、10か月して中止命令が来た。 予算が2億7000万円という事で、吉田総理がGHQに文句をつけて中止になったという風に記録が残っています。 大蔵大臣の石橋湛山が地方の占領軍は金食い虫だ、このままでは日本の経済が持たないという事で国会で訴えた。  GHQ本部からではなく地方で勝手に動いたという事でシェフィールドは後に軍法会議にかけられて降格させられる。  シェフィールドは執念深く動いて、第3セクターが動いて3000万円でゴルフ場を作ることになる。

地方とGHQの攻防があった。 米軍から守った人とそこで儲けた人もいた。  戦争で亡くなったり、空襲で亡くなったりした家族は米軍憎しだが、被害に遭わなかった原宿エリアの人たちは、日本軍への不信感が半端ではなかった。  目の前にアメリカの豊かな暮らしを見せつけられると、アメリカのデモクラシーを受け入れた方が豊かな暮らしが待っているのではないかと言う風に考えて、素直に受け入れたという側面が一つあります。  アメリカ兵は子供たちとの交流が楽しかったようです。  「日本という国に恋をした。」と複数の人が言っていたようです。  京都が余りメリカ化が進んでいない。 それはGHQが植物園のなかにあったからよかったんだと思います。  余り接点がなかった。  京都に伝統文化が残ってるのは植物園の中に納まっていてくれたお陰ではないかと私は思っています。  とりあえず知っていることを書き留めようと思いました。














2025年9月12日金曜日

あまんきみこ(児童文学作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 子どもの私は、ずっと戦争の中にいた

 あまんきみこ(児童文学作家) ・〔人生のみちしるべ〕 子どもの私は、ずっと戦争の中にいた

あまんきみこさんは昭和6年旧満州で生まれ、敗戦の2年後15歳の時に中国大連から日本に引き上げてきました。  あまんさんは2人の子供を育てながら物語を創作するようになり、昭和43年37歳で車のいろは空のいろ」でデビュー、以来60年近く子供たちに向けた作品を書き続けてきました。  その中には教科書で知られるちいちゃんのかげおくり」をはじめ、「鳥よめ」、「あるひあるとき」など戦争を描いた作品もあります。  戦後80年となる今年、あまんさんは「さくらがさいた」と言う物語を絵本として刊行しました。 この絵本は旧満州中国の大連と言う街から、敗戦後日本に引き上げる家族と犬との別れを描いた物語です。 あまんさんの子供の頃の体験がもとになっています。  出版した「さくらがさいた」について、子供たちに伝えたい平和への思いについて伺いました。

「さくらがさいた」は作るのに30年掛かったとあとがきにも記しています。  大連から引き揚げる時には金魚とか小鳥などは貰ってもらえるんですが、犬だけは貰ってもらえない。  家には2匹の犬がいました。  「レオ」は私と同じ年でした。 「ロン」は私よりも若い犬でした。  「ロン」?は他人に貰ってもらいました。  泣いた覚えがあります。 「レオ」はそのままずっと家にいました。  引き上げる1週間前ほどで永眠しました。 お墓に埋めて、父が「これで思い残す事は無くなったなあ」と言ったんです。  その言葉が子供心に沁みました。  このことを書こうと思いました。  書きたかったことが書けた時にはホッとします。  

人と言うものは年輪のように幼年時代、子供時代があり少女時代がありそれに全部自分が抱え持っているんだなと気が付きました。(40代)  50歳の時にちいちゃんのかげおくり」、1999年に「おはじきの木」、2014年に「鳥よめ」、2020年には「あるひあるとき」、2025年に「さくらがさいた」を出版。 

私が生まれた時に満州事変が起こっています。  子供時代はずっと戦争の時代でした。   私は自分のことを書けないんです。  戦後教育が真っ逆さまになり、これは本当にショックでした。  私たちは平和のための戦争と習っていました。  満洲のことは知らなかったので国会図書館に行って調べました。  兵隊にとられて亡くなったり、集団自決が有ったり沢山の人が亡くなっています。  開拓団の人たち棄民のこととか、読めないで涙が出ました。  私が苦労したとかそういったことはないんです。  自分自身としては書けないが、自分が小さくなったら書けたんです。(幼少期)   

引き揚げてきて熱が出て、目が覚めてみたら広島の風景を観ました。  原爆と言う言葉は知らなくて「新型爆弾で広島はなくなった。」と父が言っていました。  93歳になり、もう亡くなった人も多くてお祈りするために生きていますと言っています。  物語に込める思いは、戦争だけはいけない。  殺される前に殺すというのが戦争の原則です。  戦争のない世界になって欲しいと思います。  

自分の中に思っていることが出てくる時、書けると言った感じです。  書きたいものはたくさんあるような気がするが、それが一つになる時と言うのはそんなにないんです。  子供の頃は身体が弱かったので本を読んでいました。  本を読むことによって扉を開けて向こうの世界へ行ったり戻ったりしていました。  戦争がない世界でないと一杯笑えない。 子どもが笑うという事が一番素敵です。  





  










2025年9月10日水曜日

上田渉(オーディオブック事業会社 会長) ・読書のバリアフリーがもたらすもの

 上田渉(オーディオブック事業会社 会長) ・読書のバリアフリーがもたらすもの

上田さんは1980生まれ、神奈川県出身。  教育を改革したいという志をもって、2浪して東京大学に入った在学中に、様々なNPOやIT企業を立ち上げましたが、緑内障で失明した祖父の影響で目の不自由な人のためになる仕事をやりたいと、2004年にオーディオブックの制作、配信を行う現在の会社を創業しました。  2022年に流行語大賞にノミネートされた「オーディオブック」は本や書籍の内容を音声で聞くこと事が出来るメディアのことで、目で読むのではなくナレーターが読む内容をパソコンやスマホを使って耳で聞く読書です。 現在日本国内で利用者は300万人以上、小説やビジネス書など幅広いジャンルでおよそ2万点が発行され、月に1万冊以上が購入されています。  2015年には大手出版社も参加して、本を耳で読むというライフスタイルを広げようと、日本オーディオブック協議会が設立されて、上田さんは常任理事を務めています。

祖父は60歳の時に緑内障で失明し20年間目の不自由な生活を送りました。  祖父はとても本の好きな人でしたが、読めなくなってしまいました。  大学入学1週間後に祖父は亡くなりました。 進学校に入学しましたが、先生は「勉強しないと大学に入れない、大学に入れないと就職できない、就職できないと食べていけない。」と言われました。 父はスノースポーツのカメラマンでした。  1年に一か月ぐらいしか家にいませんでした。  それでも食えて行けました。  高校では反発して勉強をしないで過ごして、中学1年の学力から一切伸びませんでした。  周りが東大に行きたいと言うので聞いてみました。(100名程度)  一番多かった回答がお小遣いが上がるからでした。  日本の教育が悪いのではないかと考えました。  教育を変えなければ日本は良くならないのではないかと思いました。  教育改革をする政治家になりたいと言う夢を持ちました。  文科省では東大卒がおおくて、東大に行かないと喧嘩にならないと思って、東大を目指すことにしました。  現役1年、2浪して東大に入りました。 

政治家になるために、大学では弁論部に入りました。  教育のNPOを設立したりしました。  教育改革に政治家は合わないのではという懸念が生じました。  夢をやめて、一旦就職して社会勉強しながら何か考えるという事にしました。  祖父のことを考えて、視覚障害者の方に何かできないかなと思って、スタートしました。  視覚障害者についていろいろ調査をしました。  視覚障害者の方へのサービスが必ずしも届いていないという事が判りました。  最初は朗読のCDを通勤の方に聞いてもらえないかと言ったことを考えました。(高校3年)  回りからは絶対うまくいかないと言われて、自分でやるしかないと思いました。  1980年代にカセットブックを出版社業界が手掛けたが、文庫本1冊300円の時に3000円を超えていて、ジャンルも狭かったためうまくいかなかった。

オーディオブックを始めるにあたっては色々調査をしました。  値段が同じかそれ以下だったらいいねと言われました。  大学3年生の時に会社を作りました。 2007年にサービスを開始。 通信環境のデバイスが進化していって、スマホが進化してゆき、ワイヤレスイヤホンが普及してゆく中で、手軽に聞けるデバイスを持つ時代が登場しました。 2017年に19万人だったのが2018年に30万人になり、どんどん増えて行って今は300万人を越えています。  

オーディオブック化したい作品をいろいろな方面から出て来て、出版社に相談をして決めます。  ナレーターを決めます。 1名なのか複数名なのかいろいろなパターンを検討します。 声優さんがきてひたすら読みます。  200ページぐらいのビジネスホンでも4時間ぐらい、文芸作品で300ページぐらいで6,7時間かかります。  製作期間は1,2、3か月のものがあります。  何かをしながら聞けるという事は便利です。  本を読むことが苦手な方でもそれを解消できます。  聞く速度も0.5倍から4倍まであります。  目で文章を追いながら耳で同文章を聞くことによって、複数の感覚器官が同時に情報が入った場合には記憶への定着率が高いんです。  オーディオブックはまだ始まったばかりの文化で、広げていきたいです。  ラインナップを増やすことにおいては必須だと思っています。  社員教育などに活用するサービスも始めています。