2026年1月12日月曜日

ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

 ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

トランプが口の中から滝のように出てくるマジックでおなじみのふじいあきらさん、全国的に名前が知られるよいうになる前は、マジック第一人者 Mr.マリックさんのアシスタントを務めていました。  Mr.マリックさんとふぃじいあきらさん、どんな関係だったんでしぃうか。

Mr.マリックさんのアシスタントを4年ちょっと務めていました。 裏方とかばん持ち的な事をしていました。 

Mr.マリックさんの本名は松尾 昭さん。 1949年岐阜市で3人兄弟の長男として生まれました。  中学時代手品の魅力に目覚めたMr.マリックさんさんは、高校生になると休みのたびに名古屋のデパートに通い、手品の実演販売を食い入る様に観て、商品の種類や使い方を覚えました。  高校卒業後一旦は就職しましたが半年で退社、昼はマジックショップで実演販売、夜はキャバレーのマジックショーに出て腕を磨きます。 

昭和41年21歳で手品の全国大会に出場、その場で世界的なマジシャンチャーリー・ミラーさんに見出されて、ハワイで開催された世界大会に出場し、見事日本人初のチャンピオンに輝きます。 しかし別の会場で行われていた豪華絢爛なマジックショーを目の当たりにして、スケールの違いにショックを受け、上京して独学で修業、1988年テレビ番組ではじめて披露したのが反響を呼んだのをきっかけに、民放のゴールデンタイムに次々とスペシャル番組が組まれていきます。 「来てます」、「ハンドパワー」の決めセリフと共にMr.マリックの超魔術は社会現象を巻き起こしました。 70代の後半に入ります。 テレビで有名になって40年近く、今もなお第一人者としてマジック界を牽引しているMr.マリックさんです。 

1989年のゴールデンタイムのスペシャル番組で、それを見た時に自分の知っているものは一つも出てこないんです。 衝撃でした。 21歳の時上京し、プログラマーとして会社に勤務しました。(子供のころからやっていたマジックからは離れる。)  入社2年目ぐらいの89年の番組を見て、マジックの事がよみがえって、本屋で専門書を買って一晩で読み切りました。  著者に会いに行き、いろいろと教わりました。  Dr.ZUMAと言う兄弟子と3年ぐらいのお付き合いがあり、 Mr.マリックさんと出会うことができました。   Mr.マリックさんと或るBS番組に出ることになりました。  接するにつけ凄い人だなと思いました。 

マジックの仕事がいろいろありましたが、全部断って事務所で働かせてもらうように交渉しました。   その後Mr.マリックさんのアシスタントとして活動するようになりました。(30歳)  当時の芸名は「元神」でした。  「人生と言うのは思い出作りだと、 いい思い出も悪い思い出も思い出には変わりはない。 玉入れのようなもので、思い出を作るかごがあってそこに皆玉を入れているはずなんだ。  最後に自分の仕事が終わって隠居した時に、みんなで話題を話しする時に、かごに入った玉を数えるわけだが、最後まで玉がある人が勝ちなんだ。」と言ったんです。  だから辛くても頑張らなくてはいけないと思いました。 後「褒められるところにいってはいけない。」と言われました。 (修行の時点で褒められるところにいては駄目。) 「チャンスが有ったら手を抜くな。」とも言われました。 (その時に一番いいと思われるものをやり切る。)  「マジックで飯を食うんじゃないんだよ。 マジックをするために飯を食うんだよ。」と言われました。 (マジックをするために稼ぐ。 マジックが中心)

2001年に事務所を辞めました。(仕事量が半端ではなく1か月ぐらいほとんど寝ないよう激務になっていた。)  辞めることに対してマリック言えなかった。  しばらくしてら Mr.マリックさんから急に番組のオファーがあり、吃驚しました。  番組の前に Mr.マリックさんとの挨拶をしようと思ったが挨拶なく、ぶっつけの本番となってしまいました。  対決マジックと言う内容でした。   Mr.マリックさんと同じ番組に出るというのは目標でした。   事務所を辞めるにあたっては不義理もあったので、和解出来ました。  時々番組には呼んででいただいたりします。  

 Mr.マリックさんへの手紙

「・・・できればマリックさんにこの番組を聞いて欲しくないなあという事でした。もう何年も経ってしまったのに一方的な気持ちを伝えるのは少し抵抗があるからです。 ・・・ Mr.マリックさんを認識した社会人2年目から36年経ちました。 そしてあの日間違いなく僕の人生は変わりました。 ・・・今でも本当に感謝しています。・・・ お世話になった時にショービジネスのパイオニアとして未開のマジック界を切り開いてゆく姿を見せていただいたことは、今でも僕の財産です。 ・・・何とかマジシャンとしてやっていけるようになりました。 お世話になっていたのに突然いなくなるような不義理をしてしまったのは今でも後悔しています。・・・天才 Mr.マリックから受け継いだ金言は今でも僕のマジックに対するプライドを作っています。  最後に一つだけお願いしたいのはそろそろ夢で僕にプレッシャーをかけるのを辞めてください。」 (涙をぬぐいながら読んでいただきました。)















2026年1月11日日曜日

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる  ~なつかしの60年代クラシック・ロック~

音楽には私たちの暮らしを豊かにする力があります。  「歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる」と題して、音楽をより楽しむためのヒントをお伝えします。 大島さんの専門はポピュラー音楽研究です。 

私は日本の近現代音楽史に関心を持っていたので、大衆、民衆のための音楽の歴史をたどるという事をライフワークにしています。  音楽鑑賞はどういう風に形成されてきたのか、という事を掘り下げて研究しています。  音楽鑑賞の重要なポイントになったのは、レコードの普及があります。  大正から昭和初期にかけて、音楽産業に再編が起きます。 この時に洋楽のレコードが広まっていきます。  大学生層を中心にレコードで音楽を聴いて、音楽評論を読んで音楽鑑賞を趣味にする人たちが沢山あらわれます。  

音楽評論家の先がけとしては野村胡堂と言う人です。 (銭形平次捕物控』の作者として知られる。) レコード会社と音楽評論家との相互関係はこの時期に始まります。  戦後になるとLP(アルバム版)とEP(ドーナツ版 シングル版)が出来上がる。 「レコード芸術」「スイングジャアーナル」はLP版の鑑賞ようのものでクラシックとジャズを真面目に鑑賞したいという人向けの雑誌でした。  戦後にはクラシックだけではなくジャズ、ロック、南米の音楽などにも広がっていきます。インターネットの時代になって、音楽の語り方、場所など、大きく変わりました。 音楽雑誌は大きく影響を受けています。  

私の音楽の原点は1960年代のロックです。 (最近ではクラシックロックとい言われる。) ビートルズなどの音楽に夢中になって行きました。  

*「抱きしめたい」  ビートルズ 1963年発表。

世界的な名声を得る突破口になった曲。  イギリスの若者のバンドブームに火を付けた。  ロックの出発点になった。  アメリカなどの若い女性のアイドルだった。 日本での公演は1966年 日本武道館が会場。  日本でもグループサウンズが沢山出来る。  同時期にフォークが流行る。 ボブ・ディランなど。 フォークソング(民謡)は古い歌だけではなく、公民権運動、ベトナム反戦などの運動とつながって、古い歌を作り替えながら、現代にメッセージを届けて行こうという運動が60年代に凄く盛り上がりを見せます。  

1965,6年にロックとフォークはまじりあってゆく。  フォークソングの集会でわざわざボブ・ディランがエレキギターをもって、ロックバンドを引き連れて演奏を弾き始め、情勢が変わって来る。  政治的な運動とロックが結びついてゆく。 フォークの運動は衰退してゆく。 

*「ミスター・タンブリン・マン」 ボブ・ディランが作詞・作曲 1965年に発表した楽曲。歌:ザ・バーズ  ロックとフォークのミックスした曲

従来のようにメッセージを発して、政治変革を促そうというような運動から、既存の価値観に基づかない生き方をする、ドロップアウト、自分たちで新しいライフスタイルを提示していこうみたいな、動きが出始める。(ヒッピーとか)  

立川市で、「懐かしの60年代クラシックロック」講座を開きました。  参加者は70代が中心でした。  アナログレコードを持って行って鑑賞しました。  雑誌とかが重要な資料になります。  その時代の日本の熱狂的なファンが何でこの音楽をどういう文脈で楽しんでいたのかと言ったことが見えて来て、聞き手だけではなく、レコード会社の戦略とか含めて、総合的に捉えなおしてみたいというのが音楽研究者の関心でもあります。

60年代の後半はクラシックロックの本丸と言えます。  音楽が激変する。  

*「夢のカリフォルニア」 作詞、作曲ジョン・フィリップスミシェル・フィリップス    

音楽を愛し続けるという事は、一つの人間の価値であったり思想であると僕は思っていて、末永く音楽を楽しんでいただくというのが、とても大事な事だと思います。

















2026年1月10日土曜日

溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

 溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

溝井さんは世界の動物園を訪ね、その歴史と人間の動物館の変遷を研究しています。 動物園は家族で楽しむ娯楽の場、子供の教育、自然や命の大切さや理解を深める場ですが、近年の動物園の役割はそれだけではありません。 動物園はその誕生から今日まで、時代と共に姿も役割も変えてきました。 そして今も変わっています。  溝井さんは人は動物たちといかに向き合うべきか、まさに今ホットなテーマだといいます。 どういう事なのか、動物園の歴史を踏まえてお話を伺います。

子供のころから動物には興味はありました。  昔話には動物が良く出て来て、人と動物の関係が大事なことに気が付いて、授業のネタにも取り上げていました。  或る時に動物園の本を見て動物園の研究をしてみようと思いました。  動物園のデザインがどう変化してきたか、調べたりするとその時代時代に人間が動物のことをどう思っていたか、と言う事が判って来て、広い意味の文化史で、私は文化史をやっていてその範疇に入って来る。

メソポタミア文明は紀元前3000~4000年に成立しましたが、いろんな国が成立してゆく過程で、王様たちが珍しい動物、危険な動物とかを飼育するという事を始めました。   これが動物園の最初のきっかけです。 (冨と権力を示す。)  中世のヨーロッパでは同じような動機から皇帝、王様が動物を集めていました。  昔イギリスのロンドン島では動物を飼うスペースがあって、象、ライオンなどを飼育していました。  一般の人もそこに行けば見ることが出来た。(13~19世紀まで)   フランスのパリにあるジャルダンプラントという施設がありますが、もともとは植物園でした。 そこに動物が合流して動物園としても機能するようになりました。  ルイ14世も動物コレクションを持っていましたが、ベルサイユ宮殿にありました。 フランス革命が起きて、動物コレクションを解体しましょうと言う事になりました。  ジャルダンプラントという施設に動物を持っていきました。(世界で最初の動物園 zoological garden=動物学園) 「動物園」と最初に翻訳したのが福沢諭吉です。  フランスは他国と戦って他国の動物コレクションから珍しい動物を持ってきて飼育して、国としての力の象徴になったわけです。

日本で最初に出来た動物園は上野動物園です。(1882年)  ジャルダンプラントをモデルに作られました。  ヒグマほか地味な動物しかいなかった 。 外国からキリン、象などを購入して行くうちに段々と充実してゆく。 2番目が京都市動物園、3番目が大阪の天王寺動物園、段々日本中にできてくる。  いかに集客するか、面白いという事が重要となる。 動物に芸をさせる、遊園地を併設する。(娯楽路線)   本来の動物園は自然な動物の姿を見せる場所であるべきだとの批判が出てくる。   元々は動物を狭い檻に入れるという事が主流だったが、これに変化を持たせたいという事が現れます。 ドイツのハーゲンベック動物園の経営者は、動物は狭い檻の中で飼っているよりも広い空間で駆け回っているのを見た方が楽しいはずだろうし、動物にもいいだろうと考えて、20世紀の初頭(1907年)にオリジナルな動物園を開いた。  パノラマ展示、広くて檻がないが動物には越えられない堀が掘ってある。(新しい展示の幕開け)   種別に分けてほうががいいのではないかと言う様な批判もあり、新しい展示方法として、動物地理学的展示が考え出されます。 (多摩動物園などがこの展示方法)  その後いろいろな方法が考えられて車を利用したサファリパークがあります。(1950年代)  ランドスケープイマージョン展示、地形、岩、植物など徹底的にリアルに再現する。 その中に動物を入れるとその動物の振舞が非常に自然になる。 お客さんの側にも同様な景色になっているが、その間には堀があるが判らないようになっている。 動物たちの中に迷い込んだような錯覚になる。  

デズニーワールドのアニマルキングダム(20世紀終わりに作られる。) サファリパークの様になっていて車で探検が出来る。  ストーリーと組み合わせて動物を見る体験を提供している。(テーマパーク的な動物園)  いろいろコンビネーションを組むという事もやっていいます。  アメリカでは古くから存在している雄大な景色が誇りであると感じると云う様になって、出来るだけアメリカの景観を保護しようとか、動物園でも絶滅しかけている様な、ヨーロッパバイソンとかを繁殖して育てるというふうなことも取り組んできました。  動物を輸入に頼らないで,動物園で飼っている動物は自分たちで繁殖させるよいうなシステム作りをて推し進めてきています。  日本の動物園もこの流れに従ったいます。  娯楽のほかにも教育、研究、保全活動の大切さ、をしっかり伝えてゆく事が動物園には求められています。  地元の自然環境が再現されていて、地元の動物を見てもらうという取り組みも見られます。 

























2026年1月9日金曜日

2026年1月8日木曜日

田海哲也(新潟県立海洋高校 相撲部総監督)  ・横綱・大の里の原点を語る

田海哲也(新潟県立海洋高校 相撲部総監督)  ・横綱・大の里の原点を語る 

幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世した横綱・大の里関は3場所連続の優勝がかかった去年納めの九州場所千秋楽を左肩のけがのため優勝争いをしながら休場しなければなりませんでした。  久しぶりの日本出身の大型の横綱として期待のかかる大の里関ですが、石川県出身ながら中学校、高校と相撲の強化のため新潟県で過ごしました。 新潟県立海洋高校 相撲部総監督を務める田海哲也さんと妻の悦子さんが親代わりとなり、糸魚川市の旅館を寮にして公私両面に渡って指導し、支えてきました。 田海さんは1960年新潟県糸魚川市の出身で65歳、高校から相撲を始め、能水産高校から日本体育大学に進み、奥さんの悦子さんの実家の旅館を継ぎながら、相撲の新潟県チームの監督を務め、旅館を相撲部の合宿所にして強化を図って来ました。 これまで角界に11人の人材を送り出してきました。    その中のに横綱大の里関(中村 泰輝)との出会いがありました。  田海さんにとって相撲との関りや横綱大の里関との出会い、その原点について聞きました。

安青錦との対戦で負傷した様です。  琴桜戦は力がでなかった様です。  横綱と言う地位ですが、正しい判断だったと思います。  幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世。   デビューの時には怪我をせずに一つ一つ積み上げていって欲しいと思っていました。    初土俵から7場所で幕内優勝、史上最速で横綱になる。 5回優勝。   優勝して大関になった時に優勝者のラッピング電車を走らせようとか、イベントもあり大変な騒ぎで私も感動しました。  高校ではキャプテンとしてしっかりまとめて、大学でも進化をして頑張り、プロにはいってもデビューから見ていても、成長、進化して堂々としていて、横綱になると責任もあり思っていた以上に制約もあると思いますが、日本中から愛される横綱になって貰えればと思います。

私は高校2年生から相撲を始めました。 野球が好きでずっと野球をやっていて相撲を薦められて両立しました。  相撲は個人競技ですが、野球をやっていたおかげで、相撲でのチームワークとかチームを纏めるとか、指導するうえで野球を生かせられました。  日本体育大学に進み学校の先生になろうと思っていました。  相撲部に入りましたが、監督からマネージャーをやるように言われました。  2年生で後輩に教えるのですがなかなか聞く耳を持たず、レギュラーからは聞いていました。 矢張り強くならないと駄目なんだと思って、3年生では準レギュラーになり4年生ではレギュラーになりました。 マネージャーからレギュラーになったのは日体大創部以来私だけです。  マネージャーの仕事は指導者になってから生かされました。  

1983年に日体大を卒業、高校の教員になって相撲の指導も始める。 9年間相撲部の指導をしていました。  結婚を機に相撲から離れることにしました。 教員も辞めて妻の実家の家業を継ぐことにしていました。  カニ漁、カニの船の運営、カニ販売、旅館の経営となりました。 こちらの経験も勉強になり今に繋がっています。  2009年に新潟国体があるので協力してほしいとの要請がありました。  中学、高校の一環強化が行われました。(1年間分の時間の寸断がなくなる。)  12歳から18歳と言うと体力差、技術力等で差があるので段階枝的な指導方法を取って、これが凄く効果がありました。 

レギュラーになれない子について気を使ってフォローしています。(野球からの経験) 1年間のうちで全国で3位以内に入らなかったら指導者を辞める、入ったら翌年もやると、宣言しました。 (子供たちも本気度を受けて入れてくれました。)  大の里は皆の刺激になっています。  子供たちを指導するうえでは、 正しいことを継続する。(しこを踏むのにも正しい方法でなど)  

中村 泰輝君は小学校5年生の時に練習会に来ました。  6年生の時に高校の全国大会が金澤であり、一番前で見ていました。  その時に海洋高校全国優勝しました。 そして自分で決めて私のところに来ることになりました。  小学6年生で「何かを犠牲にしないと強くはなれない。」と言っていたそうです。  中学、高校、大学、二所ノ関親方のところ、全て自分で決めました。  身長体重に恵まれていて、いまは192cm、190kgぐらいで、均整がとれていて下半身にしっかり筋肉が付いている。  今後は怪我に注意をしてしっかりした体つくりをしてくれると思います。 

「中学、高校の厳しい6年間があったからこそ今の自分がある。」と言っていますが有難いです。 朝6時に起きて11時に寝るまで相撲浸けでした。  強くしたいという思いもありますが、その前に人間的にも成長する段階でもあるので、しっかりと根を張って卒業すればいつかはその根っこが花を咲かせてくれるだろうというのが、私の信条でもあるかもしれない。   なんと表現していいのか、感動、幸福感が私の中にずーっと続いているんです。  教え子から幸せを与えてもらっています。  前市長が中心になって、個人ではなく街出身の力士を応援する後援会を立ち上げました。







































2026年1月6日火曜日

藤井フミヤ(シンガーソングライター)   ・〔深夜便アーカイブス〕 【芸の道 輝きつづけて アンコール】

 藤井フミヤ(シンガーソングライター)   ・〔深夜便アーカイブス〕 【芸の道 輝きつづけて アンコール】

藤井フミヤさんは1962年福岡県久留米市出身。 高校2年の時にチェッカーズを結成、1983年チェッカーズのリードボーカルとしてデビュー。 数々のヒット曲をだしますが、1992年に解散、翌93年ソロ活動を開始します。 以後、ミリオンセラーとなったTRUE LOVE」「Another Orion」などが」幅広い世代から親しまれてきました。 弟の藤井尚之さんとF-BLOODとしても活動を続けています。 歌だけ出なくデザイン、プロデュースとかの方面に活動を続ける藤井フミヤさんに伺いました。

深夜便、「「手のなる方へ」 作詞:河口京吾・藤井フミヤ(共作)、作曲:河口京吾

バンドによる生演奏で、今時録音の仕方としては少なく、優しい音になっていると思います。初めてバンドを結成したのが中学1年の時でした。(文化祭用 ロックンロール、 キャロル) 高校1年の時に軽音楽部に入りました。 チェッカーズを組んだのは高校2年でした。 シャネルズの子供版と言った感じでした。 ジュニア部門グランプリを頂きました。 東京に住んでみたいという様な憧れがありました。  21歳で7人で東京に行きました。 チェックの衣装を着ることによってアイドルになったんでしょうね。 

31枚シングルを出して全てトップテン入り。(10年の活動)  1992年12月31日の紅白歌合戦を最後に解散しました。  生きてゆく方向性の違いがあり「チェッカーズ」としてのまとまりがなくなって来ました。 完全にフリーとなり模索しているような感じでした。1993年から音楽活動と並行し、時代に先駆けてパソコンで制作したCG画を発表したり、 FUMIYARTフミヤート)」名称で個展を開催したりしました。  元々美術は好きでした。 テレビドラマの主題歌を歌わないかとオファーがあって、レコーディングしてTRUE LOVE』がヒットしました。 アルバムも作ることになりました。  ツアーもやることになりソロ活動になって行きました。  曲を作って詩を書いてゆくパターンですね。  文字に対する好奇心が無いとすらすらとは書けません。(読書など)  ミック・ジャガーポール・マッカートニーらはロック、ポップスでは地球上で一番上なので、二人がどういうふうになって行くかという事をみんな見ていると思います。  ステージをやっていないと逆に直ぐに老人になってしまうんじゃないですか。  私も58歳になりました。  健康であればいつまでも歌うんだなと思いました。  

オンラインライブの手ごたえは、テレビ番組のスタジオに似ています。(お客さんがいない。)  コメントをいれてもらう事によって盛り上がりました。  同じ時間を共有しているという感覚はあります。  2014年にオーケストラとの共演を行いました。  NHKで坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」をフルオーケストラで歌ったのが初めてです。 リハーサルも1,2回です。  不安しかないです。  バンドとは全然違います。 

*「君が僕を想う夜」 作詞:小竹正人,作曲:遠藤慎吾  歌:藤井フミヤ (フルオーケストラをバックに歌う。)












 







コージー冨田(ものまね芸人)        ・絶望しちゃいけない

コージー冨田(ものまね芸人)        ・絶望しちゃいけない 

コージー冨田さんは1967年愛知県出身。 高校卒業後、地元の自動車工場で勤務したあと上京し、物まね芸人として活動を始めます。 タモリさん、笑福亭鶴瓶さんなどの物まねで人気を博し、様々なバラエティー番組やイベントなどで活躍しています。 

12月半ばに芸能生活35周年で2時間の予定でしたが、笑福亭鶴瓶師匠が来てくれて、盛り上げていただいて結局3時間になりました。 1990年に東京に出て来て35年という事になります。 『笑っていいとも!』の夏休み期間に行われた企画「真夏のそっくり当てまショー」でタモリの前でタモリの物真似を披露。(23歳)  豊田市の自動車系の工場で働いていました。  東京でショーパブで日楽しいものマネが出来る、とそれだけで来ました。 

1994年ごろに糖尿病(数値が280)になってしまいました。 症状は何にもないわけです。(喉が渇く程度。) 放置しておいたら、体重が113kgあったのが、どんどん減っていきました。 (80kg)  お酒もどんどん飲んでいました。  目が悪くなってきて白内障もあったので一回手術をしたら一瞬見えましたが、すぐ悪くなっていきました。 現在はレジのビニール袋を被っている感じです。 白いなかに人がいると言った感じです。 ステージではリハーサルで確認しているので把握しています。 音には集中力が強くなりました。  目が悪くなった時にはもう終わりだと思いました。  透析もやるし、安楽死ってどうやってやるんだろうかとか、考えました。

看護師さんから、インシュリンを最初に打ったとこはどうでしたかと問われて、「厭だった。」と言ったら、最近はどうですかと言われて「何とも思わない。」と言ったら、「透析も同じです。 これが普通のライフスタイルになります。」と言われました。 「透析している間は映画は見放題です。」とも言われました。 ポジティブに言ってくれて、それが救われました。   受けたり拍手を貰ったりすると、ここが自分の生きている場所だなと言う感じがしました。  去年目が見えなくなってきていることを公表しました。   ステージをやる時に目も悪かったり、腎臓が悪かったり、糖尿病で苦しんでいる人がいっぱいいるわけですが、そんな中で「絶望しちゃあいけないよ。」と講演会みたいなことをやったらどうかと言ってくれた人がいて、「せっかく病気になったのだから、それを使ってなんかできることがあるんじゃない。」と言われてなるほどと思いました。  今はステージに出るだけで嬉しい、有難いです。 

若手芸人を育てるためにいろいろと指導をしています。  自分では気付かない可能性をアドバイスしてあげる。(新ネタの作り方など)  若手に言ったことがテレビなどに出て受けると、自分がやったのと同じ感じになるんです。  ショーパブで受けても、外に出ると何もできない自分に気付くんです。  お膳立てが出来ているところと、何にも知らない所でワーッと盛り上がっているところを浮かせて治めてこちらを向かせて、大変なんです。  歌を歌う前のおしゃべりが大事で、なんで歌うのかの理由付けが大事です。 

家の中は慣れているので大丈夫です。  そもそも自分を出したいのであれば、物真似芸人になってはいけないですね。  僕は物真似が大好きなので、物真似を追求したいです。 武田鉄矢さんと西田敏行さんは大好きです。  今後、物真似のステージをやらせて頂ければ、それだけで、特に大きな夢という事は無いです。  これがどんなにありがたいことかと言う事が判る様で判らないんですよ。 こんな素晴らしいことがあるんだという事が病気になって判りました。