2025年6月2日月曜日

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている 

俵さんは1963年大阪出身。  早稲田大学在学中に歌人の佐佐木幸綱さんに師事、短歌を作り始めます。  1987年発表の第一歌集「サラダ記念日」は社会現象を起こす」だべストセラーとなり、口語短歌の大一人者として多くの歌集やエッセイを発表してきました。  又ホスト歌会、アイドル歌会の選者を務めるなど短歌にとどまらない活躍を続け、これまでに迢空賞(ちょうくうしょう)、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞しています。  この春出版された「生きる言葉」は現代社会における言葉の力について、ご自身の子育てや体験を踏まえて考察していて幅広い 読者を獲得しています。 

「生きる言葉」はエッセイではなく論評、論法となっています。  言葉についてじっくり考えてみたいなあと言う気持ちが自分の中で高まって来ました。  ネットでは顔に知らない人とやり取りをしなくてはいけない時代になって来ました。  言葉の比重が大きくなってきていると思います。  ネットなど便利な反面、誤解も生じやすい。  自分が言葉を書くという事に関して、注意深く楽しむようにしたいと思います。   ネット社会について高速道路に例えると、さきにインフラが整ってしまって、運転するルール、マナーがとかがまだ途中と言うままみんなが運転して仕舞っているという様なイメージですね。  なので事故も起こりやすい。  

ちょっとした一言で、自分が傷ついたり、人を傷つけたりという事は、日常会話の中でも起こっているわけです。  何故言ってしまったのかを考えるとことによって、次への処方箋になるような、楽しんで観察できるような気持で居たいと思います。  正しい言葉と言うのは無くて、お互いの関係性、文脈で正しくもなれば間違った事にもなる。   子育てを通して、自分が考えた言葉と言う風にもこの本は読めます。   言葉に対するまっさらな目を自分でも取り戻しながら楽しんでいたような気がします。   息子がラップが好きで日常的にいろいろ聞いています。  短歌に近いなあと思ったりもします。   言葉の語彙を増やすのにはしりとりは良いと思います。  息子は大学生になり国語学を勉強しています。  

佐佐木幸綱先生からはエネルギッシュな文学論と言う感じで、短歌だけではなく幅広い文学論でした。  先生の歌集に出会って、今を生きる表現手段だと知ることが出来ました。   先生の授業の感想、書いたものの感想とか、手紙で送っています。  短歌を作るのが楽しかったです。  ラップも短歌もリズム感があって、耳から届くという意味では共通するものがあります。   短歌を作るときには音の響きはとっても大事です。  濁音はちょっと耳障りな感じがします。   心の真実を伝える言葉で有ったら、嘘をついてもいいのかなあと思います。  短歌、俳句を作ってくれるAIは有りますが、私たちが短歌を作る醍醐味は、心の揺れを立ち止まって見つめ直して、そこから言葉を選んで形にしてゆく、その過程を含めて歌なんです。  AIにはその過程がありません。   私たちは心から言葉を紡ぐ。 

迢空賞(ちょうくうしょう)を取ったら楽になりました。  もうそれ以上ないし。    50代は色々なことがありました。  子育てが一段落すると親が高齢になり、自分でも病気をしたりしました。   入院も一つの経験になりました。  その中から歌も生まれました。 歌を詠むことで、自分の人生を振り返り、言葉にすることで辛い経験を乗り越えたんだなと言う、達成感があります。   

「作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること」   俵万智

私自身も歌を通していろいろな出会いがあります。   言葉のかけらをメモしておいて、もうちょっと育てて行こうかとか、同じようなことが二度三度あった時に初めて歌になるとか、そういう事もあります。   

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」  俵万智

今一番多くのお母さんが好きと言って下さる歌です。  重ねぬりの度合いの厚みがある時には抽象的な歌でも成立するという事はあります。 

年齢年齢によって見える景色は変わってくると思うので、「アボカドの種」と言う一番新しい歌集では30年振りに会った元彼の話が出てきますが、30年後の恋は20代の人には詠めないぞと思ったりしています。  年齢を重ねることで見えてくる景色などを捕まえて行けたらなと思います。  「アボカドの種」には黒い歌も結構入っています。  良い面を捉えて歌にしたいと言う白い歌を心掛けてきましたが、黒い歌も出来てきて歌集に入れてもいいのかなあと思いましたが、共感して頂いて黒い歌も人を励ますという事があるんだなあと思いました。  言葉にするという事は自分を客観的に見るという事に繋がるので、そういう意味でもいいと思います。   

「人生を楽しむための治療ゆえ今日は休んで大阪へ行く」   俵万智

放射線治療をしている時でしたが、どうしても行きたくて行きました。 

「優しさに一つ気が付くバツでなく丸で必ず終わる日本語」  俵万智

特に中高年の人から共感を得ました。 「マルハラ」マルハラが生まれた背景には、世代間のギャップがあると考えられます。 世代によって、コミュニケーションの目的やゴールが異なる点に、マルハラの発生原因があると考えられます。  仕組み、状況をきちんと理解して、知るという事は凄く大事な事です。  道具なので道具に使われたらおしまいで、道具を楽しいんで便利に使えるという事が大事だと思います。  言葉はなんで生まれて来たかと言うと、伝えたい事、共有したいことがあるから言葉は生まれてきたわけですから、人と人とが繋がるものとして言葉を使っていけたらいいなあと思います。 





 






 






2025年5月30日金曜日

沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子さんは1949年北海道の出身。  地元の高校を卒業後、単身上京して国立音楽大学入学、1973年シングルレコード 『アザミの花』で歌手デビューしました。  その後舞台、映画、テレビ、ドラマ、バラエティー番組の司会など多岐にわたって活躍しています。

芸能生活昨年で50周年を迎えました。  笑顔でいろいろな人に話し掛けて50年過ごしてきました。  大学の教育課程の時の高校生に教えるのが怖いと思ってしまいました。   自分で働こうと思って、都内のホテルのジャズクラブでピアノの弾き語りのバイトを始めました。(22,3歳)   20歳という事でデビューしましたがばれちゃいました。  ピアノは小学生の頃に習い始めました。  父は国鉄の職員で母は農業をやっていました。  兄弟3人の長女です。  3人とも大学を出させてくれました。  いろいろなことをやってきて、一番合っているのはもしかしたら芸能界かもしれないと思いました。  

学校を中退することは事後報告でした。  生活は責任を持つから自立させてくださいと言いました。(24歳)   声楽でクラシックをやっていても流行歌の歌手としてはかなわないと思いました。  森光子さんのドラマに出る機会があり、「ちゃんと歌っているけれども歌は違うのよ、伝えるのは言葉よ、貴方の心よ。」とおっしゃいました。  「それは芝居の世界にも通じて、自分の心を自分の身体を通して、人に伝える事、表現する事が大事かという事を一から勉強しなさい。」と言われました。  「じゃがいも」と言うドラマでした。 

演劇の個人授業を始めました。  森さんからやっといいと言って貰えたのは30年、40年経ってからです。  1979年、『ルックルックこんにちは』の司会を担当。  司会者は目立たないようにしゃべらない方がいいという事を言われました。  オーディヨンではほとんどしゃべりませんでした。  担当していろいろ失敗をしました。  5年半番組の司会をやっていました。(生放送)    

その後女優の道を選ぶことになります。  自分が飛び込んでみて、感じることが私を作ってゆくんだろうなあと言う気がします。  しなくていい苦労もしたかもしれませんが、今考えると無駄な苦労はなかったと思います。   音楽への思いがどこかにあって50周年でCDを作ろうと思って、CDを発売することになって、話題にもなりました。  車にCDを積んで首都圏を回りました。  SNSにて自己PRをしました。   CDはあまり売れませんが、頭の活性化にもなるし、若者の人たちとのいろいろな交流がありました。  自分の生き甲斐を見つけた感じです。  






  

2025年5月29日木曜日

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

 大森さんは1948年岡山県生まれ。   1972年にNHKにディレクターとして入社、その後ドラマ一筋、連続テレビ小説はじめ大河ドラマ、土曜ドラマ、銀河小説ドラマなど数々のドラマを手掛けました。  NHK退職後大森さんは立て続けに故郷岡山を舞台に映画を製作しています。  最新作は岡山県高梁市が舞台の「晴れの国」コロナや低予算という足かせのなかで、作品を上映してくれる映画館を一館一館探しながら公開にこぎつけました。  故郷岡山にこだわりつつ映画つくりに向き合う大森青児監督の映画観について伺いました。

小学校4年でテレビがうちに来て、父が新国劇、母が新派が好きでよく一緒に観ていました。 それが後々こっちに繋がったのかなと思います。  時代劇映画全盛の時代で父と時代劇を良く一緒に観ていました。  当時は入れ替えなしなので、友達と二人だけで観に行って夜になってしまってひどく怒られた事がありました。  その後舞台も好きになりました。 同志社大学も学生運動が盛んで学校が封鎖したりしました。  大学4年で封鎖が解けて戻ったら、周りの学生は就職活動に懸命になっていました。  NHKの試験に受けられて入ることが出来ました。  その3年後に大阪の芸能部を希望しました。  そこから私もドラマ人生が始まりました。(25歳)  最初は希望通りに行きませんでしたが、5年後に初めての演出が回ってきました。  連続テレビ小説「わたしは海」の3本やる事になりました。(30歳)  

「今この番組は上手くいっていないかもしれないが、死ぬ気でこの番組を支える奴は手をあげてくれ。」と言われてとっさに手をあげました。  「3人死ぬ気でやれるやつがいたら、番組は保てる。」と言われました。  その後の私の人生に大きな言葉だった様な気がしました。朝ドラは7本やりました。  水曜日にちっちゃなヤマを作れ、土曜日に大きなヤマを作れと言われました。  なるべくそのように作って行きました。  朝ドラは芝居に安定感が必要ですね。  最初の頃の朝ドラは、或る女の人ががんばってなにかをなし遂げてゆくというパターンがずっとありました。  途中から、社会が複雑になって、今度は男を主役にしようという時代がありました。  その後独りでは時代を表せないという事で二世代に渡って今をどう生きるかと言うテーマになって行きました。  四姉妹の作品もありました。 手掛けた作品は300本ぐらいになりました

2006年に辞めることになりました。  テレビドラマはやり切った感がありました。   それで舞台と映画に向かいました。  舞台ではいろいろ勉強になりました。  笑う時にはお客さんの呼吸が一緒になって、それがうねるんです。  舞台の魅力を感じました。     セリフが一緒なのに毎回違うんです、これも面白い。   演出もあるんですが、舞台は役者のものだと思いました。  

映画は二本撮りましたが、これもおもしろいです。  映画の一番の魅了は画面が大きいのと音量です。  映画もテレビと同じ様に撮っても問題ないと言われました。  一本目も舞台は岡山県の高梁市です。  都会から戻ってきて家族のきずなを取り戻してゆくというものです。二作目も「晴れの国」は高梁市が舞台になっています。  コロナ禍であったので、高梁市は人脈もあるし、低予算で出来るものを考えました。   ダブル主役の一人がコロナにかかってしまって10日間様子を見なければいけなくなりました。  10日間でとる予定だったので撤退することになりました。  一日に百何十万円かかってしまうので、改めて翌年の5月に撮りました。  私が映画館を一個一個訪ねて行って交渉しました。 

映画を撮ることはまず楽しいからです。  やりがいもあります。  映画は残るんで、今の人だけではなく30年、50年後に観た人が感動してもらえるような映画を作りたいと思っています。  具体的には孫が観て感動する映画を目指しています。  スタッフと役者が混然一体となって、同じ方向を目指して集中する快感と、テレビと違って長く楽しめる。

家族のきずなと言うものは永遠のテーマだと思います。  他の人が幸せそうにしていると、なんか嬉しくなってくるんです。 ガンになって生死にかかわる経験をして、思うようになったと自覚しています。  3本目にとりかかろうとしています。 コロナの時にできなかったものです。   お薦めの一点はイタリア映画「ひまわり」です。  別れる時のマストロヤンニの表情、あれは芝居の原点プラス終着ではないかと思います。 表情を変えずにソフィア・ローレンをじっと見ているだけなんです。  何もしないのに心が思っているから伝わるんです。  


 






2025年5月26日月曜日

2025年5月24日土曜日

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子さんと言うとカラフルな色使いと軽やかな作品を思い出しますが、世界の文学作品などをモチーフにして数多くのアートを生み出す傍ら、エッセイや舞台衣装など美術以外の分野でも多彩なかと同を続けてきました。  1952年埼玉県のうまれ。  75年京都市立芸術大学4回生の時の個展以来、今年は銅版画をはじめて50年の節目の年をむかえています。  膨大な作品群には山本さんの内面のどのような思いが潜んでいるのか、パワーに源にあるのは何なのか、近年精力的に取り組んでいるホスピタルアートについても伺います。

23歳でデビューして73歳になるので、、よくも描き続けてきたというのが感慨です。   早稲田大学が図書館を作って、村上春樹ライブラリーと言う名で、 その場所で展覧会をさせてもらっています。   8か月もやらせてもらっています。   沢山の国籍の違う人のサインがノートにされています。   カポーティをテーマに27歳の時に作品を30点ぐらい描きました。(1979年)  カポーティは中編『ティファニーで朝食を』などを書いてています。  カポーティの作品展をした後7年後に村上春樹さんがカポーティに関する本を書いて、私の絵が取り入れられました。 去年また村上春樹さんとの新しい本が生まれました

銅画は線が命で、線に惚れて銅画をやっています。  細いのに強靭で、薄いのに強いという。  

昔から絵と共にやっているのは、本を読む事、音楽を聴くこと、旅に出る事です。  自分が豊かになることが栄養になっ行くはずなので、それは努力しています。  シェイクスピアのことを描くにしても、古い音楽を聴いたりするとその時代のことが頭に浮かんできて絵を描くための元になります。   国柄が表現できないといけないと思っているので、旅に出て体感します。   シェイクスピアのことを描くにしても、穴からのぞくような多様な視点を使って、154編やっと描けました。  

55歳ぐらいの時に大腸がんになって、仕掛り中の仕事があってそちらへの集中をしました。 がんのことは先生に任せて、その相乗効果で早く治ったと思います。  高校2年生で演劇部で、本を作る方が好きでした。   演劇をしたくてたまたま京都市立芸術大学へ一浪した入ることになりました。  銅画を知らなかったために、返って興味を持ちました。  

父は平成3年に亡くなりました。   集中治療室でずっと天井しか見れなくて、その天井が汚い天井でした。  父の視線、父の気持ちなどに寄り添ったりしていれば、天井をもっときれいにしたいとか、思ったはずですが。  一体だれのために発表しているのか、そこからちょっと変りました。  病院の先生に天井に絵を描かせて下さいと言っていました。  或る病院に描かせてもらいました。 その後ホスピタルアートの絵の勉強にスウェーデンに行きました。  絵は薬にならなければいけない。  子供の部屋には人気のあるキャラクターは置かない。  もし子供が亡くなったら、そのキャラクターを見るたびに、親は子供のことを思い出して悲しくなる。  

2013年に高松の病院の廊下を温かい雰囲気の廊下にしたいという事で、オレンジ色の温かい空気が流れるような、そんな感じにしました。  絵、文学、音楽から得たもの、その通底したものが一つの世界を作っていて、それを一枚の絵を通して見せられたり、重なり合った世界を見せて行けるようになればいいと思います。  祖母がずっと言い続けてきた「どっかで誰かが見ているよ。」と言う言葉が好きで、困ったりした時には思い出します。 

埼玉県立近代美術館に収蔵されている私の作品70点ぐらいを、50周年を記念して展示されます。(6/7~8/31迄)