田嶋陽子(英文学研究者・女性学研究者) ・私の人生手帖(ちょう)
1941年生まれ、幼少期から高校まで静岡県沼津市で育ちます。 元法政大学教授で1990年代から様々なメディアで発信を続けます。 著書「愛という名の支配」は2019年に復され、2022年には韓国版2024年には中国版が出版され、フェミニズムの先駆者として再評価の機運が高まっています。 田嶋さんの研究の原点には母親との葛藤がありました。 苦しみ続けた日々の中で自身を取り戻し、その苦悩が世界中の女性を苦しめている問題でもあると言う観点から、女性学の道を切り開いてきました。 現在ではシャンソンの歌手としての顔も持つ田島さん、まずはその歌声からお聞きください。
*オリジナル曲「揺蕩い(たゆたい)」 歌:田嶋陽子
私は60過ぎて国会議員になって国会議員は合わないと思っていました。 軽井沢待ち起こしのために歌でも歌ってもらえませんかと頼まれました。 歌を習いに行った先生がシャンソンでした。 シャンソンを歌うことになりました。 コンサートやったら270人来てくれました。(半年後) そろそろ20年近くなります。
中学生の頃、歌とか書道、絵などは中途半端でしたけれども、歳をとって自由になってやり直したいと思いました。 最初は「笑っていいとも」に10回出て、その後たけしさんの番組を13年間やりました。 当時いろいろなことを言ったけど、嫌われましたね。 再評価されるようになりましたが、時代が追いついたそれだけのことだと思います。 日本の社会が変わるんではないかと期待してます。
父は仕事をしながら、脊髄カリエスになった母の看病をしてました。 結核菌が骨にはいってしまったので、母自身死ぬものと思っていました。 死ぬ前に、私を一人前の人間にしたいと思ったと思います。 勉強の事とか非常に母は厳しかったです。 あと女らしくしなさいと言われました。 母からのしつけ、愚痴で子供時代は苦しみました。 いい薬ができて、母は元気になってきました。 私は女子校に入って勉強しないで、図書館に行って本ばっかり読んでいました。 自由に生きた女の人たちが殺されたりして死んでいくと言うことを本で知り自分なりに纏めていきました。 津田塾大学の大学院で修士課程を終了し、イギリスのケンブリッジ校に1年間留学しました。
ベルギー人の伯爵の人と知り合って、招待されて休みを過ごすことになりました。伯爵家の奥様お嬢さんたちも結局専用主婦になります。 5年ぐらい待つと言ってくれましたが、結局別れることになりました。イギリスに二回目の留学に行き、英文学の研究でイギリスに行っている間に、今までやっていた男性の研究者たちが見てきた見方を学んで、そこから私が出れないでいました。 英文学の研究を現地でするようになって、それまでの研究の考え方を脱して、島田陽子なりの英文学の獲得していきました。
フェミニズムと言う視点から英文学を見るようになって、私にとってはそれが画期的なものでした。 今もその延長線上にあります。 フェミニズムと言うのは人権なんです。 「雪国」と言うあんな退屈な小説はないと思っていましたが、それをフェミリズムの視点で見たら、実に面白いです。 視点を変えることによって、作品が全く違う生き方をすると言うことを発見しました。 登場する駒子?と陽子?は同一人物だと思っていまして、そうするとすごく面白くなって、内面みたいなものを表してしていると言う解釈をしました。 そうしたら作品がすごく深くなりました。映画も自身の視点で見直して書いてます。
母は男社会の代弁者で、母は良妻賢母になろうとしていました。 良妻賢母には自分がないんです。 だからあんなに強くなれる。 しかし、母は、自分の人生をこれは違うと思ってたわけです。 母はフェミニストでした。 46歳になるまで、母にはN0と言えませんでした。 やっと私のことだから、私に決めさせてくれと言って、ここから私の人生となりました。 母から解放されたと言う事は、男社会からも解放されたと言う意味にもなりました。
私が法政大学に就職したときに、駒尺 喜美さんが、フェミニズムの視点で日本文学を読んでいて、自分なりの世界を作っていた方です。 テレビに出ていろいろ批判されましたけれども、彼女から励まされました。 自分のやってきた事は間違ってはいなかったと思います。 今まで自由になるために、私は戦ってきました。 子供時代が1番悲しくて、1番辛くてやっぱり地獄でした。 母親との関係が1番辛かったです。 私はフェミズムと言う事は学ばなかったけれども、自分から全部紡ぎ出したと言う気持ちはあります。(自分の苦しい体験、悲しい体験) 韓国語、中国語英語圏でも翻訳されて出ると言う話もあります。 原動力となったのは、人間として自由になりたいと言う気持ちです。