2026年1月1日木曜日

小野恒夫(氷彫刻師)            ・透き通る氷の美を追い求め

小野恒夫(氷彫刻師)            ・透き通る氷の美を追い求め

 小野恒夫さんは東京都大田区出身。(76歳) 20代の西洋料理のコック時代、料理を引き立たせる氷彫刻の美しさに魅せられて、以来半世紀にわたり透き通る氷の美しさを追い求めてきました。 他の芸術作品と違って溶けてしまう儚い芸術の氷彫刻ですが、様々なイベントやパーティー会場などで長年磨き上げた技術を披露して見る人たちを楽しめませてきました。  氷彫刻の第一人者として教室や講習会などで技術指導した生徒が3000人を越えます。 現代の名工氷彫刻師の小野恒夫さんにお話を伺いました。

氷彫刻が現代の名工に選ばれたのは初めてです。 東京の方からもマイスターを頂き、これも第一号でした。  西洋料理の中に一部分と言う氷彫刻の扱いでしたが、氷彫刻が一つの分野として頂いたというのが、他の方々の励みにはなると思います。  調理をやっていた人たち全員が氷彫刻をやっていたので、やらざるを得ないというところから始まりました。  パーティー会場に飾って、そこからのめり込み始めました。  氷彫刻の教室をやると言う人がいて一緒にやることを決断しました。  教室は34年間いたので3000人以上は教えました。 (全国から来る。)   15年目ぐらいにアメリカなどから習いに来た人が居ました。  

今までで一番大きいのが8mぐらいのものです。(ヨーロッパの有名な建物) その会場では氷は135kgのものを2050本ぐらい使っています。  日本のものだと平等院と池で、池には鯉がいるところまで作ています。  姫路城も作っています。  一番大きいものですと23日間かかっています。  東日本大震災の復興セレモニーがあり、交通費は出せないが、支援のために氷彫刻を作るために全国へ呼びかけて、15チームが集まって、夜から朝までかかって作成して皆さんはそのまま帰って行きました。  

使う道具はチェインソー、電動ドリル、ノミを十何種類か使います。  いかに綺麗に仕上げるかと言うのが一番です。  ノミの切れ味が作品に出て来ます。  光の入り方まで計算してやります。  指定の時間までは持たせる様な方法でやっています。  北海道では氷祭りを何か所かでやりますので、回りながら彫って行っています。  寒い時にはマイナス18℃ぐらになりますが、風が無ければ大丈夫です。  東京では1月17日から18日に明治神宮で氷の大会をやります。(30基以上)  今年で50回目になります。  昨年11月2日に渋谷区民祭で翼を作成して、子供さんが前に立つと丁度翼がはえて様にして、写真を撮ってもらったりしています。 (20年以上関わっている。)

1980年代のバブル期には会社のパーティーなど盛大でした。  その後は何とか耐え忍びました。  テレビのコマーシャルなどにも作品が流れるようになりました。  果物、野菜なども手掛けています。  素材として石鹸でも作成しています。  街の氷屋さんが少なくなってきているので、探すのと氷の値段も高くなってきています。 ノミとかの道具も 高くなってきたこともありなかなかできない時代にはなって来ました。 高齢化してきましたが、いま20代の人が入ってきてくれるようになりました。  氷を安く提供できるようにするとか、サポートできる範囲でやってあげようとしています。  見た瞬間の綺麗さにわっと思ってくれるというのは、皆さんのどこかには残るので、それを思い出してくれるのが一番うれしい事ではあります。  若い人に今持っている技術とかを与えたいと思うので、飛び込んできてくれる若い人には最大限のサポートをしてあげたいと思います。




































2025年12月31日水曜日

別所哲也(俳優)              ・俳優とは行動する人

別所哲也(俳優)              ・俳優とは行動する人 

別所さんは1965年静岡県の生まれ。 1987年慶応大学法学部に在学中にミュージカル『ファンタスティックス』で俳優デビュー。  1990年 - 日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。 一躍注目を集めました。 その後はテレビドラマや映画で活躍、1999年 - 日本発の国際短編映画祭『アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバルを主宰し、2004年にはアメリカアカデミー賞公認の映画祭に認定され、現在も毎年主催、開催されています。  又舞台、特にミュージカルで活躍し、「レ・ミゼラブル」、「ミス・サイゴン」をはじめ多くのミュージカルに出演しています。 今年還暦を迎えて、益々円熟味を増した別所さんに伺いました。

朝の生のラジオ放送を19年やっています。  ラジオはテレビとは違った繋がり方があると思っています。  大学に入ってから英語劇に接して、これが面白くて(大先輩に中村雅俊さん)俳優の道を目指すことになりました。  中高はバレーをやっていました。(186cm)  ミュージカル『ファンタスティックス』で俳優デビューしました。 僕は紀伊国屋で「少年マット」の募集があり、大学4年の時のオーディションを受けました。 「レ・ミゼラブル」などのミュージカルを見にいって感動しました。 30代になってキャストが変る時に、ジャンバルジャンの主人公をやらせていただくことになります。  日米合作映画『クライシス2050』でNHKのオーディションを受けてデビューしました。(2年間アメリカにいていい勉強になりました。)  契約書も自分でサインしました。 米国映画俳優組合(SAG)の会員にもなりました。  今はハリウッドはAIですね。でも映画などの感情に揺らぎみたいなものは、スクリーンで生身で観たいという事はありますね。  感情があふれてしまって、セリフが止まったり、うまく言葉がつないで出てこれないという様な、人間描写がどこまでAIが出来るのか、と言う様な事はあると思います。

アメリカに行ったりする時に、ショートフィルムのスクリーニングに誘われて、ある時に短くても感動したり、ホロっと来たりして興味を持つようになりました。 ロバード・レッドフォードのユタ州の映画祭ではショートフィルムのカテゴリーもあって、観に行きました。(1998年)  そこで凄く感動しました。  日本に戻って、自分でやってしまおうと思ってやっちゃいました。  「アクターとは行動する人」という事をアメリカで教えてもらいました。               日本発の国際短編映画祭『アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル』をやることで、世界中から新しい俳優さん、監督さん、プロデューサーの方とのであいが刺激になり勉強になりました。  27年やっていますが、全然飽きないです。 

ミュージカルの面白さは、感情の起伏の中に音楽があって、その音楽がその人の心を表現して居たり、3重奏、4重奏、5重奏でキャラクターたちがいっぺんに歌っても、すべての歌詞、意味みたいなものが一緒に同時に理解できるってなかなかない構成ではないかと思います。  ミュージカルは構成がしっかりしていて、ナチュラルに見えても立ち位置とか4小節でセリフを言いきって気持ちも乗せてゆくとか、決められた中できちんと演技構成をしなければいけない。 2月に韓国ミュージカル「ラパチーニの園」(19世紀アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの短編小説「ラパチーニの娘」を原作とした、韓国発のオリジナルミュージカル)   出演者が5人で、僕はラパチーニ役をやります。 チラシには「その愛は毒と共に育つ。」となっています。  僕はその愛を阻む父親ですが。 























2025年12月30日火曜日

北村節子(ジャーナリスト         ・〔わが心の人〕 「田部井淳子」

 北村節子(ジャーナリスト         ・〔わが心の人〕 「田部井淳子

田部井さんは1939年福島県田村郡三春町出身。 1975年世界ではじめて女性としてエベレストの登頂に成功しました。  92年には世界7大陸最高峰の登頂者となり、多くの人に登山の魅力を伝え続けました。 2016年10月亡くなりました。 (77歳)

北村さんはエベレスト登山をきっかけに、田部井さんと親しくなり親交を深めてきました。

田部井さんの人生を描いた映画もこの秋出来て、田部井さんの役は吉永小百合さんが演じています。  北村さんの役は天海祐希さんが演じています。

田部井さんは声が通って明るく語尾がしっかりしている。 初めて会ってから53,4年になります。 田部井さんに直談判してエベレストのメンバーに加えていただきました。 メンバーは15人で一人はドクターで14人が実際に山に登りました。(山岳同人の組織)  メンバーはあちこちから参加する形でした。  田部井さんがエベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、女性で世界初の世界最高峰エベレスト8848m(ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ)登頂することになります。 田部井さんは相手の神経に触らずきちんと話すのが上手だと思っています。 

田部井さんはいろんなことに挑戦する人でした。 小学校の時から習字には熱中、お琴、ピアノにも手を染めました。  目標設定してまい進することが好きな方でとことんやっちゃう方だと思います。  家事なども頭のなかで整理できているんですね。 段取りが上手で無駄がないんです。 これは登山でも重要な事です。  エベレスト登山には家を半年留守にしています。  ゆっくり体を高度順化するために、普通軽飛行機で飛ぶルートをずっと歩き通しました。  ご主人もクライマーですが、いろいろなサポートに対して当時の日本の男には出来ない事だったと思います。  

田部井さんは54歳でマラソンの経験がないのにマラソンに挑戦。  小学校か中学校か、男子だけのマラソンに参加させてほしいという事で彼女だけ一緒に走ったそうです。  エベレストに参加することで悩んでいた時に、絵本のたとえ話をしてくれて、心配ばっかりしていると人生終わると言われました。 後々まで私が何かを決断するときには、印象深いエピソードとして残っています。  何故みんな難しいと言うのかと、じゃあどうすれば出来るか何故考えないんだろうと、本にも書いています。  やってみないと判らないという風でした。   登山では特にそうですが、誰に照準を合わせるかと言うと、一番体調に困っている人に照準を合わせるが、一番体調に困っている人に負担のないように上手にカバーしていました。(心遣いが出来る。)   田部井さんとは10歳違いますが、気安く付き合ってもらったと思います。 

田部井さんは世界7大陸最高峰の登頂者となりましたが、そのうちの4つに一緒に登りました。  60歳で大学院に通い始める。  山の環境をきちっと勉強しようとする姿勢の表れだと思います。  音楽も好きで60歳半ばからシャンソンのステージに立った。     2012年深刻ながんであると宣告される。  まず抗癌剤治療を行う事になる。 副作用が厳しくなって、太ももが上がらなくなり階段も壁に寄りかかってずり上がるようにしないと上がれない様な状況の時もあったが、無理もない範囲で山歩きも再開。  「病気にはなるけど病人にはならない。」、というポジティブシンキングで乗り切ろうという気持ちはありありでした。  好奇心のある方でした。

東日本大震災で被災した高校生と一緒に富士山に登ろうという事を、2012年から始めています。  そのために募金活動もしました。  亡くなる3か月前、高校生たちと富士山に300mぐらいまで一緒に登る。  息子さんが後をついで現在も続けています。























2025年12月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

頭木弘樹(文学紹介者)           ・〔絶望名言〕 アンデルセン

今年はアンデルセン生誕220年、没後150年に当たります。 アンデルセンはデンマークのオーデンセで貧しい靴屋の息子として産まれました。 幼いころに父親からアラビアンナイトなどの物語を聞いて育ち、14歳で俳優を目指しましたが、夢はかなわずその後戯曲や詩で評価され、小説「即興詩人」で作家としての地位を確立しました。 

「人魚には涙というものが無いのです。 それだけに一層苦しい思いをするのでした。」    アンデルセン

代表作には「人魚姫」、「みにくいアヒルの子」、「マッチ売りの少女」、「雪の女王」などがあります。   アンデルセンが生まれたのは1805年、亡くなったのは1875年。

アンデルセンは貧しい家庭に生まれ、旅に出て色々な経験をして、有名な童話作家になって国王や王子様と親しくなり、亡くなった時には国葬がおこなわれた。 アンデルセンの童話はアンデルセン自身を反映している童話が多いです。 アンデルセンにも悲しいことが沢山あったという事です。 

人魚は海のなかにいるから涙はいらないが、悲しい時に泣くことが出来ないと余計に辛いですね。 アンデルセンは悲しみを知っていた人ですね。 

「人間と言うものは一遍の優しい心さえあれば、物事を別の見方で観ることができるような場合にも、とかく他人に対して軽々しく厳しい判断を下しがちである。」 アンデルセン

「マッチ売りの少女」は自分のお母さんをモデルに書いたと言われる。  貧しい家庭に生まれて、靴直しの職人と結婚するが、貧しい暮らしが続いた。 夫は33歳で亡くなってしまう。その後再婚するがその人も4年後に亡くなってしまう。  その後お母さんは洗濯・?になる。 川の流れに立って(寒さのなか)洗濯をする。 

アンデルセンの母親は川の冷たさに耐えるために、酒を飲むようになる。 そのせいでアルコール中毒になって、二番目の夫を亡くした10年後に亡くなる。

「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。         私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 アンデルセン 

母親がまだ生きているころにアンデルセンはデンマークの首都のコペンハーゲンに行きます。 コペンハーゲンまでは160kmもあります。 (14歳)  当てもなくお金もあまりない。  母親は止めようよしたが止めきれなかった理由があった。 アンデルセンの父親は優秀な子であって、 お金持ちが学校に行く金を出してあげようと言ったが、その両親は貧しかったので早く息子に稼いでほしかったので断って、靴直しの職人にした。  父親は自分の望む人生を生きられなかった。  自分の気の進まない道を無理に選んではいけないよ、本当に自分がなりたいと思うものになるんだよと言い聞かしていた。アンデルセンの父親は妻には「この子がしたいことが有ったら、それがどんなにばかげたことに見えようとも、望みを叶えてやってくれ。」と言ってあるわけです。 それで母親は止めきれなかった。

アンデルセンは芝居が好きで、王立劇場の舞台に立ちたいと思っていた。  願いはかなわず途方に暮れてしまう。 「沈んだ私の心を奮い立たせてくれる人も、優しく慰めてくれる人も誰一人いなかった。 私は全く見放されてしまった。 真剣に私は自殺のことを考えた。」 とアンデルセン絶望してしまう。  しかし諦めずにいろいろな人のところに訪ねて行って、支援してくれる人に出会う。 

「かくこなる?友人までが、私には童話を書く才能がないといって、断固として看視する始末だった。」 アンデルセン

支援してもらったアンデルセンは学校にも行って、外国旅行にも行かせてもらった。  イタリアで自分の人生と重ね合わせた「即興詩人」(森鴎外 翻訳)を書いた。 これが評価されて作家として認められるようになる。  「即興詩人」を書いている途中から童話も書き始めている。  最初の「童話集」は評価されなかった。  一人だけ物理学者が評価して『「即興詩人」は君を有名にしたが、童話は君の名を不滅にするだろう。』と言ったんです。

*メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

「でも王様 裸だよ。 突然小さな子供が王様に向かって言いました。  人伝いに子供が言った言葉がどんどんひそひそと伝わって行きました。 王様は裸だぞ。 ついに一人残らずこう叫ぶようになってしまいました。  王様は大弱りでした。 王様だってみんなの言うことが正しいと思ったからだ。 でも今さら行進パレードを辞めるわけにはいかないと思ったので、そのまま今迄以上にもったいぶって歩きました。 召使いは仕方なくありもしない裾を持ち続けて王様の後を歩いていきましたとさ。」    アンデルセン

「裸の王様」の最後の部分。  馬鹿な人には見えない布で作ったという服を高く売りつけられた王様は、それを着てパレードをすることですが、みんな馬鹿と思われたくないので、服が見えるふりをする。 その時子供だけが、「王様は裸だよ。」と言うんです。 それで終わりかと思ったら続きがあって、裸だと判った後も王様は行進パレードを辞めるわけにはいかなくて、いっそうもったいぶって歩く。 家来たちもありもしない・・・?を続いて歩いてゆく。 これは怖いですよね。 間違いに気付いたけれどそれを正すことが出来ず、押し通そうとする。

「親指姫は綺麗だったのです。  親指姫を連れて来たコガネムシもそう思ったんですが、他のものがみんなみっともない、みっともないというものですから、そうこう自分も思うようになって、手元に置きたくなくなりました。 どこへでも好きなところへ行くがいい。」   アンデルセン

親指姫はチューリプから生まれた親指ほどの女の子です。 親指姫を連れて来たコガネムシは親指姫を綺麗だと思った。  周りがみっともないと言うと自分もそんな気がしてきてしまう。自分の最初の気持ちを大事にした方がいい。  

「アントンさんは掛け布団をぐっと上まで引き上げ、ナイトキャップをを目の上まで降ろしました。  すると昼間の商売や苦労が頭を去りましたが、それで気持ちがのんびりしたわけではありません。  今度は古い記憶がやって来て幕ををあけるのです。  記憶の中には・・針が入っていて、指を刺されることがあります。 痛いと言った時にはその針は血の通っている肉を刺してちくちく痛み涙が目に出てくる。 年寄りのアントンさんもたびたびそんな目に遭って熱い涙がキラキラ光る真珠のようにこぼれます。」   アンデルセン

独身のおじいさんが失恋を思い出す。 アンデルセン自身も失恋連続きで生涯独身で過ごす。 ヨーロッパを中心に旅に出て、長い旅だけでも30回以上あります。  旅をすることは生きる事と詩にも書いています。(当時としては旅は危険だった。)  勇気もあるが、しかし極度の心配症でもあった。  

アンデルセンの童話が毎年クリスマスに一冊づつ出て行った時がありました。  クリスマスについてアンデルセンの自伝に書いている言葉があります。

「その晩私は急に孤独の重苦しい気配を感じた。  それはクリスマスの前夜であった。 他の晩はともかく、この晩だけはお祝いの様子を見たり、クリスマスツリーのそばに立ったり、子供たちと喜びを共にしたり、両親が子供の気持ちにかえるのを見たりしたいと、常々願っていたので(ある。)? しかし私はただ一人こたび?一室に座って遥かに故郷の事を思い浮かべていたのだ。 私は窓を開いて、そこから星をちりばめた空を仰いでいた。  それが私のために点火されたクリスマスツリーだった。」 アンデルセン



























2025年12月27日土曜日

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆ(ワイン醸造家)          ・ブドウ畑の空に乾杯

斎藤まゆさんは1980年生まれ。 早稲田大学2年生の夏休みにブドウの収穫の研修旅行で訪れたフランスボルドーやコルシカ島のワインに感動し、日本から世界に通用するワインを作りたいという思いを抱き、大学を中退します。  ワイン作りを学ぶため単身アメリカカルフォルニア州の大学に渡り、その後もフランス、ブルゴーニュ地方の名門ワイナリーで修業します。    帰国後10年余り前に山梨県甲州市塩山に設立されたワイン工房で、醸造責任者としてワイン作りの中核を担っています。  また最近では耕作放棄地をワイン用ブドウ畑へと変えて行こうと、地元農業の活性化にも情熱を注いでいます。 

2025年のワインの出来は素晴らしい年でした。  今年は空梅雨と言われていて、雨の少ない年で病気にならずに健全なまま素晴らしいクオリティーのものが出来ました。 私たちが作ったワインが出て行くのは来年の春ぐらいです。  ブドウの種類は40種類ぐらい作っています。  社長はブドウ農家の3代目で、以前は60種類ぐらいのブドウを育てていたそうです。 ワイン用には5種類育てています。  ピノ・ノワールは愛好家の大好きな品種です。 ピノ・ノワールは育て方の難しい品種ではあります。  最初は緑色をした硬いブドウが段々と赤、黄色、ピンク、黒っぽい、とび玉(一房の中に飛ぶように色が付く)と言って黒く色付いてくる時は独特の美しさがあります。  

ピノ・ノワールの収穫は8月中旬ぐらいから始まります。  10月半ばから終わりぐらいで私たちのワイナリーは終わります。  ワイン用のブドウは甘さと酸っぱさがないといけない。 糖度が23度ぐらいあると12,5%ぐらいのアルコールが出来ます。 発酵中のワインはぷくぷくしゅわしゅわしています。  熱も出るので温度管理をしないといけない。  ワインの鑑定によって価格が付いてくるものもありますが、自分たちの作ってきた農産物の価値を上手に国を挙げて、上げて行ったと言いうその結果だと思っています。 そこにマーケットが反応してそれが売れるか売れないという世界になって来ると思います。

私たちは国際線のファーストクラスに乗せることが夢でした。  選考に何回も挑戦して落とされてきました。  2017年にイギリスの世界一ソムリエ、ワインの神様のジェラール・バッセが来日して、社長と共に私も食事の席に同席して、私たちのワインを飲んでいただいて気に入ってもらえました。  ツイッターに紹介してくれました。   スタッフ11名で5ヘクタールの畑で栽培しています。  2013年にワイナリーを立ち上げた時には子供を身ごもってて、ワインを飲むことが出来ないので、味の部分はブレインに頼んで意見を聞きました。 かおり、色あい、輝きその他数値で現れる品質などから判断していきました。  子供が出来たことで自分の持っているものをどんどん人に伝えて行こうと思いました。 

山間地の斜面なので毎日登ったり降りたり、そしてそこでの作業なので強靭な体力が必要です。 (ストレッチ、しこを踏んだりして鍛えています。)  専門的な知識はもちろん必要ですが、感性も大事です。  子供のころには母親から味噌汁の味について味見役的なことをしていて、意見を言っていました。 習い事もいろいろやらせてもらって好きなことを自身で探していきました。 そういったことで感性が磨かれたのかもしれません。  

ブルゴーニュ地方には「ワインの歌」と言うのがあるんです。  「ラララ」しか言わないが小さい子から老人まで一緒になって歌います。  生きている歓び、健康で美味しくワインが飲めるんだと、子供たちを豊かに生活をさせることができるんだと、そういう喜びをたたえるような歌だと感じました。  日本にはワインをたたえる歌が無いとずっと思っていました。   私が歌詞を作ってしまって、作曲は戸倉俊一さんに書いていただきました。

斎藤まゆさんが歌を披露する。






















2025年12月25日木曜日

岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

 岡本美津子(映像プロデューサー)      ・〔私のアート交遊録〕 映像づくりは人づくり

岡本さんは京都大学卒業後NHKに入り、番組開発やBSでデジタル放送の立ち上げなどに携わります。 特に若いクリエーターを発掘する「デジタルスタジアム」を立ち上げ、さらにその番組の入選者の作品を紹介するデジタルアートフェスティバル東京では総合プロデューサ―を務めました。 NHK退職後は東京芸術大学大学院映像研究科教授へ転身、2017年からは副学長も務めました。 芸大教員となってからもEテレ0655&2355』のプロデューサーを初めとして、番組の開発と後進の育成に努めています。 小学校時代の放送部の活動でメディアの世界に興味を持ち、映像による物作りへの魅力を感じてテレビの世界に入ったという岡本さんに、映像による物作り、人作りへの思いを伺いました。

6年生の時に転校して、人がいないので放送部をやれと言われて、指導者がいない中で試行錯誤の毎日でした。  アナウンサー、ディレクターをやり段々慣れてくるとしゃべるのに歓びに目覚めていきました。  NHKに入りたいと思っていました。  シルクロード、漫画アニメなどを毎日見るのが日課でした。  中学の時にスターウォーズを見て、自分は作りたいんだと初めて思いました。 NHKに入ってディレクターとしても いろいろ勉強させていただきました。 NHKではプロデューサーとしての作品の方が多いです。 私が作った番組でデジタル・スタジアム』と言う番組が、私の人生を大きく変えた番組です。  2000年ごろでパソコンが普及し始めた頃でした。  若い人たちがそれを使って、自分の作品を作るようになりました。  その作品が面白くて、若いクリエーターたちの作品を如何に世の中に紹介できるか、という事が私の目標になりました。 テレビが一番紹介する場所ではないかと思いました。 そこから若いクリエーターたちが育っていきました。  番組は10年近く続きました。  

2008年にNHKを退職して東京藝術大学大学院映像研究科教授へ転身することになりました。 私はアニメーション専攻と言うところにいますが、最近は半分ぐらいが留学生です。    韓国、中国、アジア圏が多いです。  2012年から放送されているテクネ 映像の教室のプロデューサーを務めてます。  独学で勉強する人が多いので、テキスト替わりになるような番組が出来ないかなと思いました。  発注型の映画製作も番組のなかでやって見ました。   2020年からは「日本アニメーション教育ネットワーク」の代表理事もやっています。  アニメーション関係の教育機関、教育者もまだまだ少ないです。  日本映画産業全体から言うとこれまではトップ100に入るのが稀でした。 今後ビジネスとしても産業としても成り立つような形にしていかなければいけないと思っていて、今年はその元年だと私は捉えています。

「鬼滅の刃」の劇場編が、全世界の収入が1000億円と言われています。(日本では初めて1000億円稼ぐ作品。)  この作品は世界のトップ5に入っています。  世界を対象にしたビジネスが成り立つんだという事が改めて知ることができた作品です。 コロナを機に世界的にリビングルームで観られるようになり、爆発的にアニメファンが増えます。 日本のアニメ産業を活性化して海外に売ればいいじゃないかと考えますが、本数を増やしてもどうしても頭打ちになってしまう。 一番大きいのはアニメのスタジオの人員不足です。  少人数でやってるスタジオが多い。(少数精鋭)   増やしたくても増やせない。  日本のアニメ産業に必要なのは人材です。  

国の援助が望まれますが、海外と比べると少ない状況です。 アニメーターの見習い期間の給料だけでも補助してあげれば、日本のアニメーションスタジオはどんなに助かるかしれません。 基礎研修を公けの機関がやってあげるという事も大事です。 人材育成の補助は公共機関の役割かなと思います。 海外から学びに来る学生は凄く優秀です。 そういった人たちが日本で仕事ができるようになるのは負担も大きので、そういったところにも補助があると、人材確保になると思います。  

私は人材育成の方で貢献をしようと考えています。  卒業生が活躍して評価されるのは10年ぐらいは掛かりますので、せめて10年、20年の単位で人材育成を考えて行ったらいいのではないかと考えています。  日本の基幹産業の一つとして行くためには母数を増やしていかないといけないと思います。  プロデューサーの人材も枯渇しているので、これが最大の課題で、研究中です。  お薦めの一点は片渕 須直監督のアニメーション「マイマイ新子と千年の魔法」です。 

















































2025年12月24日水曜日

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)     ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

小泉不二男(日本ツバキ協会 副会長)  ・〔心に花を咲かせて〕 ツバキブームを調べてみると

椿はもともと日本に自生していた花で、縄文時代からあっただろうということです。 文字上で現れてくるのは奈良時代からだそうで、以来日本人に愛されていきたと思っていましたが、小泉さんにお聞きすると、椿にももてはやされた時代も受難の時代があって、それにはいろいろな理由があったようです。  「椿ブームを調べてみると」、日本ツバキ協会 副会長小泉不二男さんにお聞きしました。

日本の山に自然に生えているもので、ヤブツバキとか山椿と呼ばれる一重の花ですが、北海道にはないが日本の中にあって多少の個体差はあります。  記録的に見ると奈良時代以降という事になってきます。  和歌などにも出て来ます。  花として見る以外に、油が貴重なものだったので、税として集められていた。 (椿油)  万葉集には椿を歌った歌が9首あります。  

「巨勢山のつらつら椿、つらつらに見つつ白妙(しろたえ)によしこの山の春の野」

「椿」と言うのは日本人が作った漢字なんですね。 ヤブツバキは日本と朝鮮半島の南の方だけです。  日本書紀にも記述があります。 白椿が突然変異で生まれたものを、目出度いものとして天皇家に献上したという記録が日本書紀に載っています。  お正月に茶道で白い椿を飾るという事は今でも続いている事です。 平安時代、鎌倉時代にはあまり登場しません。  推測ですが、当時他の物に関心が行っていた。 例えば梅(中国から入っている。)など外来の物に気を取られていたのではなかろうかと言われている。  室山時代の最後に安土桃山時代がありますが、茶の湯が熱狂的に流行する。   そこに茶花が必要になって来る。 椿が再び注目を浴びたと考えられれます。

戦乱が続いた後、江戸時代になるとようやく落ち着いて、お花を見ることができるようになった。  園芸をするゆとりが出来た。 その先駆けが椿であったと言われる。 徳川二代将軍の秀忠が当時の文献で花癖であった、花が好きで特に椿が好きだったといわれる。  それを知った大名が献上合戦のように行われた。 家光時代に作られた江戸城の屏風があるが、そこにお花畑が描かれていて、椿が植えられていることが判ります。  色々な変化のある椿を支えたのは北陸と言われます。  北陸にはヤブツバキとは違う別種のユキツバキがあります。 山の上の方のユキツバキとふもとの方のヤブツバキと自然交配すると99.999%以上が素朴な花になります。  中には一本変ったものが出来ます。 例えば八重よりももっと数が多いものとか、おしべの棒のところに花びらがあるように見えるものが出来たりバリエーションがでます。   それを見つけて農家の庭に植えられていた。 それが江戸、京都に運ばれて広がって行った。  元和寛永の椿ブームで図鑑、巻物が作られた。  そのころの多くの物は現在はなくなってしまっている。  

今でもいかに椿を残していくかと言う事は大きな問題です。  人が守ろうとしないと木でもなくなってしまう。  江戸の園芸ブームで新しく「わびすけ」(茶花で有名、ひそやかに開く)が生まれましたが、はっきりしたことは判っていない。  金閣寺に「胡蝶わびすけ」というものがあります。 後水尾天皇(家光時代)がお手植えしたというのが、現在も残っています。  京都のお寺には古いものが残っていて非常に貴重です。 「肥後椿」は肥後藩の武士たちが品種改良して、一本の木であっても赤いはずなのにピンクの花、白い花が咲いたり、してそれぞれを育てるといろいろな品種が出来てくる。 太い芯を選抜して、芯を見るというものもあります。  今はイタリアなどで人気になっています。

尾張藩ではお茶席で初釜(1月)、野開き(秋)のために合わせた花の咲く時期のものを求めた。 (つぼみがふっくらとしている。)  現在も「御殿椿」として伝わっています。 江戸時代には400,500と言われていましたが、江戸の最後に資料があって、江戸の最後に出たものは今に伝わっています。  染井村の植木屋さんが明治になってカタログを作って、今我々が目にするものと一致しています。  花形の変化、花色(椿は複色になりやすい性質を持っている。)、赤に白いものが入っている、その大きさによってもいろいろな品種が生まれてくる。 絞りといってピンクであればより濃い線状が入り線の太さもいろいろのものがある。

倹約令が出て、園芸植物の人気が下がってしまう。  飢饉の時代も関心がなくなる。  明治になるともっと大きな逆風が来て、ヨーロッパ、アメリカから新しい園芸植物が入って来る。 椿は明治以降忘れられてゆく。   染井村の植木屋さんもいなくなってゆく。 埼玉のさいたま、川口、上尾に新しい植木屋の里が出来る。 染井村から苗を貰ったり挿し木にして保護、育てた人がいます。(皆川さん) 戦争で食糧難になって園芸から農産物への指導があったが皆川さんは椿畑を残したそうで、それが無かったらかなりの数の椿を失ったと考えられます。化

日本の椿が中国経由でヨーロッパに広がり、日本の文化も紹介されて、19世紀に「東洋のバラ」として、ヨーロッパで大ブームになる。 (貴重なもので貴族の花)  ヨーロッパからアメリカに移って大ブームとなる。 (カルフォルニアなど気候が合う。 19世紀終わりから20世紀に広がる。)  コンテストもあり品種改良が進み、大輪華麗な椿に変身する。  戦後になってアメリカで大評判になっている人気の花という事で日本に伝えてくるが、それが日本の椿だった。  戦後に里帰りが起こった。(洋種椿)   日本ツバキ協会が昭和28年に出来る。 神代植物公園に皆川さんから譲ってもらって、椿園にしています。

30代なかばに銀座の椿展があり、そこで観た白い椿の花に凄く感動しました。 椿を調べれば調べる程興味が湧きました。 今でも毎年のように新しい発見があります。 これからは本当の椿の時代になる可能性があるかなと思っています。