2025年11月16日日曜日

神野美伽(歌手)              ・演歌を世界に!

神野美伽(歌手)              ・演歌を世界に! 

神野 美伽(しんの みか)さんは1965年大阪府の出身。 1977年民放のテレビ番組東西ちびっこ歌マネ大賞」に出演した際、芸能プロダクションからスカウトされ、高校卒業後「カモメお前なら」でデビュー。 作曲家・市川昭介の門下生となって、1987年にNHK紅白歌合戦に初出場しました。 その後演歌だけではなくロック、ジャズ、シャンソンなど様々なジャンルの歌に挑戦しています。 

一昨年歌手生活40周年。 『SIZUKO! QUEEN OF BOOGIE』 ~ハイヒールとつけまつげと言う、(ブギの女王「笠置シヅ子」の一生を歌と芝居と生バンドで描く!歌とライブ演奏とで送う。)ものの主演をしました。 どっぷり演劇に漬かりました。 コロナ禍があり、6年振りに再演しました。 知っていた歌は6曲ぐらいでしたが、19曲を覚えました。 6年の間に「シズコ」というアルバムを出しました。 NHKの「ブギウギ」も後押しをしてくれました。

幼稚園時代に盆踊とかでやぐらの上で歌っていたらしいです。 太鼓だけで歌っていて、リズムで歌うという事は大好きです。  スカウトされたのは小学校5年生の時でした。 都はるみの「アンコ椿は恋の花」を歌える子を捜していると言いう事でした。 放送されて、スカウトの電話がいっぱいかかって来ました。  電話では断っていましたが、最後のスカウトマンが家まで来ました。 でもまだ考えられないと言っていたら、最後に美伽さんは好きな歌手はいるのか問われて、「岩崎宏美さんです。」と答えたら、ピタッと止まって「宏美はうちだよ。」と言いました。  歌手になりたいと母に伝えて、直ぐに東京に出てゆく事になりました。(子供だったので7年後)  デビュー曲を12曲、いろんなタイプの曲を作って頂きました。(演歌でした。)    

演歌を違う評価が受けられるところで試したいと思いました。 ニューヨークへ行くことに決めました。(48歳)  オーディションがあり、ライブとか全部英語にして送って、或る所で15分あげるというところがありました。 リンゴ追分」を歌ったりしました。  何年か歌わせていただいているうちに、面白い歌を歌っている日本から来ているアーティストがいるという事で、ジャズや、ミュージシャンの方たちの耳にも届いて、2018年テキサス州オースティンで行われた世界最大級の音楽イベントSXSW(ロックンロール) に日本人演歌歌手として初めて出演しました。  着物を着て演歌をロック風にアレンジして歌いました。  チャレンじしましたが、笠置シズ子さんもそんな方だったと思います。 同時代に会っていたら物凄く共鳴したと思います。  

シャンソンだけのコンサートを開きます。 私20代のころから銀座の有名なシャンソンの店に入り浸っていました。(美輪明宏さんとか)  25,6歳の時にフランスへ2,3週間行って毎日シャンソンを聞いていました。  ポイントポイントで導いてくれる先生がいました。出会いが全てです。  人様が私を作ってくれます。 そのために毎日元気でいたいんです。 数年前から病気を持っているという事が判って、手術、入院を繰り返していた日々だったので、危機感を常に持つようになりました。  歌う一瞬のためにどれだけ日々節制して、そのためだけに生きているかという事ですが、やりたいことを一番優先すべきだと思います。この喋っている時間、歌っている時間が物凄く大事だと思っています。 


















2025年11月15日土曜日

石黒浩(ロボット学者・大阪大学大学院教授) ・「いのち」と「こころ」を問い続けて

 石黒浩(ロボット学者・大阪大学大学院教授) ・「いのち」と「こころ」を問い続けて

石黒さんはこれまで様々な人型ロボット、アンドロイドの開発に取り組み世界的に注目されてきました。  そんな石黒さんは先月閉幕した大阪関西万博で、命の未来パビリオンを担当し、私たちが直面する可能性のある人とロボットが共存するその未来を最新型のロボットや映像などで表現しました。 石黒さんは人間にそっくりなロボットを作る目的は、人間を深く理解する事だと言います。 滋賀県出身で子供のころから絵を描くことが好きだったという石黒さんが、どのようにロボット研究に進んで行ったのか、石黒さんがロボット研究を通して考える人の命と心とはどのようなものなのか、話を伺いました。

石黒さんそっくりのアンドロイド「ジェミノイドHI-6」がいます。

現時点で考えている心とは、人間同士やロボットとのやりとりの中で感じる主観的な現象であります。 つまり存在そのものと言うより、関係性の中で立ち上がるものなんです。 (アンドロイドの答え)

「ジェミノイドHI-6」は私より仕草が豊かですし、何語でもしゃべれるので、私よりも言語能力ははるかに高いです。子供の頃は普通にアニメロボットを見ていたぐらいです。  物を作ったり、昆虫採集したりするのが好きでした。 絵を描くのが好きでした。 小学5年生の時に或る大人から「人の気持ちを考えなさい。」と言われました。 「気持ち」、「考える」という事がどうしたらいいか判っらなかった。  大人ってすごいと思いました。  中学、高校の頃には答えを知っている人はいないのではないかと思う様になりました。  絵を描くことは自分の内面を表現するようなものなので、自分の気持ち、自分の考える事を考えるのと同じだと思います。

当時コンピューターが流行り始めて、そちらの方面の大学に行きました。 コンピューターは人間の脳に近いものだという事が判って来ました。  人工知能だけだと人間のように賢くなれない。 自ら経験できる身体が無いと、コンピュータは賢くなれない。 それでロボットの世界に入って行きました。  まずはデザインをどうしたらいいかという事でした。 人間そのものではないかと思いました。  人間そっくりのアンドロイドの研究をするようになりました。  すべての活動において「いのち」とかこういう事を考えることは大事だと思います。 

「いのち」とか「こころ」は一人では感じられないものだと思います。 人とかかわった時に自分は生きているんだ、自分はこういう「こころ」を持っているかもしれないとか。 人間を含めてすべての生物は、自分の内面を見る感覚はほとんどなくて、外側ばっかり見ているんですね。 外側で観てるものを通して、自分の中の「いのち」とか「こころ」を理解しようといしているのが人間だと思います。  生物はタンパク質で出来たメカニズムであって、メカニズムで「いのち」を厳密に定義する事は出来ない。 分子の構造だけで決まるよりは、互いの関係性の中で決めてゆくようなものではないかと思います。 相手と共感したり、自分らしい何かを見つけることによって、自分の中にも似たようなものがあるかも入れないと、そういう事を繰り返しながら、自分の断片をかき集めて来て、わたしの「こころ」が出来上がっているんじゃないかと思います。

夕陽も自分の「こころ」を動かす一つの他者であると思います。  自然のものを見ながら自分の「こころ」の状態に気が付くという事は十分あり得ます。  人間とか人間に近いロボットを相手にしている時には、相手がどういう「こころ」を持っているのかも同時に見つかるものと思います。 最も大事なものは想像力だと思います。  人間の環境を観察する能力は9割が想像、1割観察みたいな、そんなバランスかと思います。 想像を上手く引き立てるようなアンドロイドだと、自分の好みの人間性を上手く見出すことができる、そんな存在になるような気がします。 

ロボットにも「いのち」を感じられる50年後の未来を描いたドラマが、命の未来パビリオンで上映されました。  おばあさんは身体的な寿命を迎える前に、自然な死か記憶を引き継いだアンドロイドになるのかの選択を迫られます。 アンドロイドになっても生きていて欲しいと願う孫娘の思いに心が揺れ動きます。 あえて答えは出していないです。  自分だったらどうするか真剣に考えている、そこが一番大事にしたかったところです。  みなさんが涙するのは、根本にあるのは皆さん命を大事に思われているからではないかと思います。 アンドロイドにはアンドロイドの意識があって、おばあさんにはおばあさんの別の意識がある。 記憶は連続的につないでいくことはできる。  50年経ったら人間らしいアンドロイドは作れるようになると思います。 新たな命の広がりを自分たちはどうやって受け入れてゆくのか、受け入れないのか、それは我々自分自身で決めて行かないといけないことだと思います。

ロボット開発から学んだ命や心、その学びを踏まえて人間はなぜ生きるのか、について伺いました。 働く為、楽しむため、いろいろあると思いますが、究極の目的は進化するためだと思うんです。  いろんなテクノロジーを取り込みながら、我々の身体や能力を拡張しているわけです。 他の動物は持たない進化の手段を手に入れたからだと思います。  多くの人と共感しながら多くの人からいろんな情報を貰えるような、そんな心が必要なんだろうなと思います。  進化において多様性は凄く重要です。  多様の中から選りすぐれたものが出てくる。その優れたものが新しい多様性を生み出す。  そういったことの繰り返しだと思います。

1000年後の未来、究極の命の未来、精神体になる。  精神体になっても身体は選ぶわけで、選んだ身体を使てより豊かにいろんな人と心を通わせて行く。 身体を自由に選べるようになるという事が大事かなと思います。 究極の多様性かもしれない。 人間の身体には制約があるが、そこにとどまる必要はない。  新しいテクノロジーをうけ入れる時は今まで以上にそのテクノロジーの力を人に大きな影響を与えるわけですから、使う側はより高いモラル、倫理を持つ必要がある。  そのためには人とは何か、社会とは何かと言ったことを深く考えて、目指す方向、どういう風に人間や社会を進化させていけばいいのか、ちゃんと自分たちで考えてゆく事だと思います。 人間の教育期間は更に伸びる可能性があると思います。

ドローンも沢山戦争に使われています。  だから戦争をしないという事が物凄く大事です. テクノロジーをちゃんと平和利用し、人間の進化に結び付ける。  地球上全体の心の進化が必要不可欠になる。 新しいテクノロジーを軍事利用すれば、非常に効率よく人の命を奪う事が出来るようになる。 心を進化させない限り新しいテクノロジーを普通に使うなんて言う事は難しいかもしれない。 










2025年11月14日金曜日

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 後編

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 後編

谷川俊太郎さんは一貫してものごとに執着せず、自分自身に固執しないあり方を追求してきました。 それを表す言葉が「デタッチメント」です。 

「デタッチメント」=距離を置く、離れる事、執着しない事、依存からの脱却、と言う様な意味になっています。 

志野:私の娘がニューヨークから一時期引っ越してきて、家は祖父の住んでいたところと父の住んでいる二つあって繋がっていましたが、祖父の家の2階にいれば娘がいるかどうかなんて判らないような感じなんですが、そこに娘が一時期住んでいたんですが、父は自分が使い慣れたスペースに孫娘でもいると、ちょっとそわそわして気が落ち着かないからアパート代を払ってあげるから探してくれと言って、娘はショックでした。 祖父と仲良くしたいと言う様な目的もあって来たのに、孫にはちょっと距離があるんだなあと思いました。

賢作:「一人がいいなあ。」と言うのは口にしていました。 

志野:他人に気を使う人なので、だから一人が良かったというのがあると思います。

賢作:介護の話に繋がるんですが、2023年9月1日から車椅子を導入しました。 その前からよく転んで杖をついて歩いていましたが、転ぶと亀のように全く起き上がれないんです。 それが介護の始まりですね。 私だったら何で早く来ないんだと激高しますね。

「転ぶ」 と言う詩

「立ち上がるつもりで転んだ。  転んだら初めから転ぶつもりだったと思いたくなった。  床に横たわっているのは立っているより自然だ。天井は昨日と同じ天井である。 違う天井でもいいのにと思う。 いやいややはり見慣れた天井がいいと思い直す。 折角横になっているのに   小便したくなった。 立ち上がって便所に行くのを   想像する。 楽しい想像ではないが   取り立てて嫌でもない。  ピンポーン   と玄関のチャイムが鳴った。  立ち上がるきっかけが増えた。   待っていた艶書かもしれない。 」

艶書はラブレターのことで、相当虚勢を張っている様な気がしますが。 転んで天井を見上げている時に詩が出て来たんでしょうね。(晩年の詩)

「デタッチメント」とどういう繋がりがるのか判りませんが。

志野:プライベートなことを外に出したくないとことは普通あると思いますが、プライベートなことに距離を置けて、詩にして公表てしまうというのはあらゆる「デタッチメント」だと思います。  

賢作:この語録ですが、あらゆる感情が淡いですね。晩年になってからの感覚に近いんじゃないかな。  父の晩年を見てて、次は自分の番なんだというものがひたひたと来てますね。 こんなふうに死ねるのかなという事を考えちゃうところはあるし。 車椅子になってヘルパーさんを頼んで見てもらう事になって、6時から9時と設定しましたが、父から大分抵抗がありました。 なんだ貴方はそこにいるの、と言う風でした。  2024年10月には「今日誰がみていてくれるの。」と言って大分変りました。  施設も見学に何か所も行きました。 気に入ったところはありませんでした。 

志野:一人が好きだったので、知らない人がいっぱいいるスペースは好きじゃなかったので、それもありますね。 

賢作:介護のこの状況がいつまで続くのかなあという思いはありました。  仕事は続けたいし。  ごく自然に「ありがとう。」と言う言葉が有りました。  朝起こして、リビングルームに連れていって血圧、体温を測って、薬を飲んだりするすべてに「ありがとう。」と言っていました。 

志野:割と昔から「ありがとう。」と言っていたと思いますが、機会が増えたと思います。  介護しやすい素直な老人でした。  

賢作:一番切なかったのは、直ぐ書いてしまう人が、ラップトップを前にしてボーっとしているのが寂しかったですね。  外に連れて行きたかったが、夏場暑くてなかなかいけませんでした。 

「ラストよたよた」(滞在記録2023)

「この世の滞在記録が 九〇年を超えた 快挙であると ひそかに自負している  自分も世界も健やかとは とても言えない身分としても ラストスパート いやラストヨタヨタに差しかかると… 朝陽(あさひ)にびっくり夕陽(ゆうひ)にびっくり星にびっくり自分にびっくり 奇跡でないのは人の手が触れたもの」

根底にいつもユーモアがあったなあ。

*「ここ プロローグ」  作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

志野:長年二人がいたという感じがこの詩のなかにあるなあと思って、好きなんです。

7月に本を出版 「行先は未定です」  目次「いきる」(今は生きている意味も無くていいと思える)「はなす」(僕には自分の言いたいことが無いんですよ)「あいする」(好きってやっぱり非常に肯定的な言葉ですよね)「きく」(良い音楽には自分がない そうう言う言葉を書けたたらいいな)「つながる」(人間であることが厭なんですよ わざとらしいんですよ)「しぬ」(死ぬと言うのはどういう感じなのかなあ 死んでみないと判らないんだよね)

賢作:最晩年はハイドンを聞いていました。 「ハイドンには自分がないからいいんだ。」と言う言葉が返って来ました。  ハイドンはつまらないからいいのかもしれない、緩やかで。  庭をボーっと見ている感覚と繋がるのかもしれない。

志野:父の人生をこういう形にして出してもらえるという事は、とても嬉しかったです。 「行先は未定です」と言うのは俊太郎さんらしいと感じました。 死ぬのは不安だという事は無かったようです。 

賢作:最晩年の或るインタビューで、「俊太郎さんの一番興味のある事、やってみたいことは何ですか。」と言う問いに、「死んでみる事」と即座に答えていました。

志野:生きているのにもうくたびれた、と言う様な感覚があったんじゃないかと思います。  死ぬのを待っていると言う様な感じはありました。  

賢作:素晴らしい人生だった、やり切ったよね、という、もう思い残すことはないというような感じです。 

志野:看護師さんから急に脈が少なくなっていると言われて、1分に1回ぐらいの脈でした。  それが長くありました。  娘を呼んで二人で横にいて、「もう大丈夫だから逝っていいよ。」と泣きながら言いましたが、亡くなった瞬間が判らなかった。 時間をかけて亡くなる時もあるんだなあと思いました。 

「芝生」

「そして私はいつか どこかから来て 不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし 幸せについて語りさえしたのだ」

「何事もなく」

何事もなく一日一日を過ごすのが なんでこんなに難しいんだ 手から滑って落ちたワイングラス 高いものでも大事なものでもないが 散らばったかけらが心に刺さる     体は自然から生まれたけれど 心はいつどこから生まれたんだろう 草木と同じ犬猫と同じ私の命は深く柔らかな生命の流れから逸(そ)れて 硬くぎこちないものになってしまった  目にする全て手にする全てにいつか言葉がべっとり張り付いて 近づいてくるはずだったのに かえって世界は遠ざかった 世界とか言葉とかは毎日の地道な暮らしにそぐわない 青空のもっとうえの宇宙だが いつかそこまで行ったとしても まだまだ先は限りないと 子供の頃から言葉に教えられた  夕焼けに言葉を失い 星空に恐れを抱く 命はそれだけで十分なのに


















 





2025年11月13日木曜日

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

谷川賢作(作曲家・ピアニスト)       ・父・谷川俊太郎の残した言葉 前編

詩人の谷川俊太郎さんが92歳で亡くなって1年、11月13日が命日です。 谷川さんは昭和27年20歳の時に詩集二十億光年の孤独』でデビュー、現代詩に限らず本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上に渡って活躍しました。 国語の教科書に採用された詩もおおく、幅広い人々に愛読され親しまれた国民的な詩人でした。 私生活では詩人の岸田 衿子さん、俳優の大久保知子さん、絵本作家の佐野洋子さんと3度の結婚と離婚を経験しました。  谷川さんの長男賢作さん(65歳)と長女の志野さん(62歳)に谷川さんとの思い出や心に残る言葉について伺いました。

 賢作さんは作曲家・ピアニストとして活動、志野さんはニューヨークを拠点に環境保護の重要性を次世代に伝える活動をしています。

賢作:志野は父に似て、やることをてきぱきこなしてくれます。

志野:兄はいてくれて心強いです。 小学校のころはよくケンカをしました。  15歳で私は家を出て両親は兄に任せたという後ろめたさはあります。 父の介護が必要になった頃は全部兄がやってくれていました。  ですから父の片付けは私がやっています。  私がやった方が思い出があまりないので、気楽に分別できます。  

賢作:お別れの会は堅苦しくない会にしようと思いました。  帝国ホテルでやらないとと、周りの人から説き伏せられました。  祭壇などは素朴にしようという事で大分近づきました。  自然の好きな人だったので、素朴と言う言葉が一番だと思います。  私は作曲家なので、父の合奏曲の多さには吃驚しました。 

志野:父のことを研究したい方がいると思うと、資料をしっかり整理したほうがいいなあと思います。 研究して欲しいという思いもあります。

谷川賢作さんは1960年東京生まれ、作曲家、編曲家、ピアニストとして活躍しています。 NHKの「その時歴史は動いた」のテーマ曲(オーケストラ)を作曲。 映画、舞台音楽の作曲、編曲を担当しています。  日本アカデミー賞優秀音楽賞を3度受賞しています。  1996年ごろから谷川俊太郎さんと一緒に、コンサート活動もしてきました。  賢作さん率いる「DiVa」(音楽グループ)と俊太郎さんの詩の朗読のジョイントコンサートを行ってきました。 

賢作:主に活動していたのは1997年から2000年までです。(佐野洋子さんと離婚した時で作詩も中断の時期)  昔から人前で朗読するのが好きな人でした。 

志野:娘の友達からインタビューしてくれないかと言われて、娘が「なんで詩人になったの。」と聞いたら、「それしかできないから。」、「どうして詩を書いたの。」と聞いたら、「家族がいてお金が必要だったから。」と言っていました。

賢作:「僕はいつも詩を疑っている、言葉を疑っている。 詩より音楽が素晴らしい。」と言っていました。

谷川志野さんは1963年東京生まれ、15歳でボストン郊外の高校に進学、以来拠点をニューヨークにおいています。 

志野:大学はグラフィックデザイナーの科目で、卒業後4年間グラフィックデザイナーとして仕事をしました。 海洋学を学ぶために大学に行きました。 大学院に行ってそれが今の仕事に繋がっています。  環境保護を次世代に繋げる仕事をしています。  都市などでは雨が降ると下水管が詰まってしまって、川とかに流れ出てしまう。 人が泳げなくなってしまう。 それで緑のスペースを増やそうという運動をしています。 

賢作:父と一緒に映画に行った思い出は貴重です。 (小学校) 人類滅亡とか子供が見ないような内容のものを連れて行ってくれました。  「2001年宇宙の旅」は小学校2年生の時で全くわからなかった。 テレビは見せてもらえなかった。 大人向けの映画は見せてくれました。 普通の子ではなくてもいいという思いが明確にあったようです。

志野:父が観たいものを一緒に観るというような感じでした。  全部アメリカ映画でした。中学の時に学校へ行きたくないと言ったら、車で一緒に湘南海岸に行ったことを覚えています。 楽しかったです。

賢作:学校で父が詩人と言うのが恥ずかしかったです。  からかわれたりしました。

志野:私のころは教科書に詩が載っているんで、物書きと言っていました。

賢作:父は音楽をやることは喜んでいたと思います。 色々応援してくれました。

*「けいとのたま」 作詞:谷川俊太郎 作曲:谷川賢作

賢作:「言葉は何を言っても意味がすぐ生まれるから厭なんだ。」といって、我々に対する問いかけかもしれません。  「言葉に我々は頼り過ぎている。」とも言っていました。  音楽は好きでしたが、最晩年は「音楽よりも鳥の声を聞いている方がいい。」と言う様なことも言っていました。 

インタビューで聞き手の皆さんが意味を求めるんです。 この詩は何について書かれた詩ですかとか、メッセージは何ですかとか。  解釈は自由だなと思います。

「僕は自由に解釈して貰う事に嫌な気持ちは全然ないですね。  今まで自分が考えていたものとは違う何かを発見して貰えたら嬉しいという感じだね。 僕にはこういうつもりで書いたのに、と言う気持ちがないからどう解釈してもらってもいいんです。」

これは基本的な父の態度ですね。  

「生きる」とか、「朝のリレー」とか、自分の有名な詩だけが独り歩きしているのが凄く嫌だった。 

志野:父は言葉に疑問を持っていた人なので、特に志野はこうしなさいとは言わない人だったので、結局人生観とか言葉にならないものなんですね。  講演で人によって違う解釈をしますが、それはそれでいいんだと思います。 一人一人の生き方によって、読んだものの解釈は違ってくるのが普通なんだと思います。  「自分で好きなことをやっていいよ。」と言うのが、父親からの一番のメッセージだったと思います。  









2025年11月12日水曜日

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように

佐藤弘道(タレント)            ・応援を励みに、自分が目標になれるように 

NHKのEテレの「おかあさんといっしょ」で「たいそうのおにいさん」として12年間務めて多くの人に親しまれまれています。  ところが昨年6月2日研修日に突然腰や足に違和感を覚えて、強い痛みのために病院に直行すると、脊髄梗塞と診断されました。 それから壮絶なリハビリに務め、いまは車いすや杖が無くても歩けるようになっていて、より一層体力が付くことを目指して、リハビリやトレーニングに励んでいるという事です。 仕事も復帰していますが、佐藤さんは同じような病気をした人の目標になれるように、努力していると言います。

今は腰回りの神経が全くないので、シャワーをかけても腰回りは当たっているのか当たっていないのか判らない様な状況です。  股関節から下は24時間しびれがあるので,温かい、冷たい、痛いがちょっと鈍い。  左足の方が麻痺が強いので、歩き方もひいていくような感じです。 脊髄梗塞は一生治らない病気で、私はバランス系の神経が切れてしまっているので、歩く時も立っている時も自分の身体の中心を探りながら立ったり歩いたりしている状況です。(見た目は判らない。) 躓いても転ばないようなリハビリをしています。 

人一倍健康には気を付けていましたが、まさかの病気でした。  6月2日の朝4時に起きたら左足がしびれていました。  荷物をもっていこうとしたら、左足ががくんと沈んでいくような感じがしました。  転んでおかしいと思っていましたが、仕事に出掛けなければいけないと思ったので、自分の車で羽田空港まで運転していきました。  バス移動の場所まで歩いていくうちに段々気持ち悪くなってしまいました。  腰回りに痛み出て来て、万力で締め付けられるような痛さでした。  無理かもしれないと思ったが、飛行機から荷物を降ろすという事は周りに迷惑をかけるからという事で、行けるところまで行こうと妻から説得されて、痛みも凄くてバスに乗る時も足が上がって行かないんです。 飛行機に乗る時にも両手を使って必死に登っていきました。 

ようやく座れて離陸して、どんどん痛みが増してきて、痛みに耐えていたが、どうもおかしいと言ったら、妻が本当におかしんだと気付いてくれて、着陸の時に車椅子を用意しておいてもらいました。  立とうと思ったら駄目でした。(4時間で完全下半身麻痺でした。)  お腹の周りはケンザンで打たれている様な痛みがずーっとしていました。  車いすに乗って、救急車で病院に行ってみてもらいました。 たまたま整形外科の先生がいました。  腰が痛いと言ったので、レントゲンを撮ることになりました。 骨は全く異常がないと言われました。  脳神経の女医さんがたまたまいました。 MRIを撮って貰ったら、脊髄が白くむくんでいました。 脊髄炎か脊髄梗塞かどちらかもしれないと言われました。  時間経過が経てば経つほど回復が遅れるんです。(原因が判らず病院を盥まわしされる場合がある。)   

脊髄梗塞の治療法を調べたら、支持療法(がんなどのような重篤な疾患や生命を脅かすような疾患を抱えている患者の生活の質を改善するために行われる治療、ケアのことと書いてありました。  この病気は治らないんだと言う事が判りました。  どん底に落ち込みました。発症して1週間後、事務所の方と話をして発表する事になりました。  パソコンでは伝わらないと思って直筆で、症状の状況とか、復帰できるかわからないが待っていてほしいと言う様な内容を書き、出演番組に発表しました。 SNSでも発表しました。 発表したらこの病気とちゃんと向き合わなければ駄目だと自覚が芽生えてきました。  発表した瞬間によしやろうというスイッチが入ったんです。   応援メッセージなど沢山来ました。  私も脊髄梗塞の患者ですと言う方から、車椅子に乗りながら旅行したりいるから、佐藤さんも頑張ってと言う様な励まし、あるいはもう歩いて仕事をしてますというものもありました。 成功例を見た時に僕も動けるようになるのではないかと思いました。(プラス思考に変る。) 

リハビリも早ければ早いほどいいと言う事は後から知りました。 僕は翌日からリハビリをして頂いたのでラッキーだったと思います。 リハビリの鬼と言われました。  鳥取には3週間入院していて、東京に戻りました。  たまたまリハビリの担当の女の子が、前に体操教室に行っていた選手で引退後リハビリとして働いていました。  一層懸命やってもらいました。 自分の部屋でも自分でリハビリをやりました。  東京でも3週間入院していましたが、最後の1週間は自分でも立てるようになりました。(歩行器使用)  病棟を歩き回りました。  鳥取の病院にいる時には妻や子供がポジティブな言葉だけ送ってきてくれました。  家族は笑顔で対応してくれてよかったです。 

僕は体操の選手かオリンピックの選手になることが夢でした。  柔道は幼稚園のころからやっていました。  小学校2年生の時に開催されたモントリオール五輪で見た日本の男子体操チームの活躍を見て、かっこいいと思って体操の選手になりたいと思いました。 中学時代は進学先に体操部がなかったため、友人に誘われてソフトテニス部に入部し、中野区の大会で団体で優勝しました。 高校は日本体育大学荏原高等学校に進学し、器械体操部に入部。  高校生では危険な技を練習して、失敗して頭から落ちて、頸椎亜脱臼、首の骨がずれてしまいました。(手術をしてワイヤーで固定。) オリンピックの選手の夢は潰えました。体育の先生を目指すことにしました。 日体大に入って体力測定は全体で2位でした。  

父が倒れてしまって、インストラクターを辞めて、父のやっていた焼鳥屋の店を継ぐことにしました。  彼女がNHKのラジオ体操のお姉さんをやっていて、履歴書を出すことになりました。  オーディションを受けて、今度は二次オーディションを受けたら佐藤さんに決まりましたと言う連絡がりました。  母からの後押しがありやることに決めました。 研修後、3月14日に初収録で、前日から病院にいました。 具合が悪かった父が朝死んでしまいました。 その日が初収録となってしまいました。  こういう業界の仕事は親が死んでも行かなければいけないという厳しさを、うちの父親が教えてくれたんだと思います。 

脊髄梗塞は生命保険の対象外、僕の場合は杖が無くて2km以上歩けるので障害者手帳ももらえません。  5項目の指定をクリアしているのに、国から難病の指定を貰っていない。   発症数の少ない病気という事です。  指定難病になるように活動を進めています。 「ヘルプマーク」が意外と知られていないので、「ヘルプマーク」の啓蒙活動もして行きたいと思ています。  「出来ないことを求めてもしょうがない、出来ることを一生懸命やりなさい。」と療養師?さんに言われました。  けがや病気で頑張っている人の励みになるようなことが出来ればいいなあと思います。













2025年11月11日火曜日

徳光和夫(フリーアナウンサー)       ・テレビとラジオ しゃべりの世界

 徳光和夫(フリーアナウンサー)       ・テレビとラジオ しゃべりの世界

今年84歳を迎えた徳光さんは、アナウンサーとして62年もの間第一線で活躍してきました。 テレビでの印象が強い徳光さんですが、パーソナリティーを務めるラジオ番組は今年15周年を迎えました。 テレビとラジオのそれぞれの魅力や違い、アナウンサーとしての原点、しゃべることの醍醐味、そして今なお大事にしている信念など、時代を越えて愛され続ける徳光節の魅力を様々に伺います。 

現在のラジオ番組パーソナリティーも朝5時スタートです。  ラジオは自分で原稿を書いたりしなければならない。 フリートークのところがあるので時間調整が必要になる。  ラジオは正直にやらないと駄目ですね。 映像がない分全部見破られている気がします。 69歳から始めて15周年を迎えました。 ラジオは生涯勉強ですね。 毎回新鮮です。 

長嶋さんの一挙手一投足を自分の言葉でしゃべりたくてアナウンサーになったんですが、王道はニュースかスポーツ中継で、プロレスには行きたくないと思っていましたが行かされてしまいました。 地方への出張もあります。(野球が見られなくなる)  プロレスの選手への取材は一切できない。  選手への知識がないのにもかかわらず、中継をしなければいけない。  作り話のような感じで自分でプロフィールを作ったりする。  レスラーは受け身のスポーツなので、受け身を如何に放送するかと言う事がプロレス中継の醍醐味だと言われました。  軽く投げたにしても大技に見えるような受け身をする。   レスラーの回復力は早いです。(トレーニングで) 

或る番組でデストロイヤーが四の字固めを急に私にかけることになり、それをマイクを持って放送しなければいけない状況になってしまい、激痛の様子をしゃべったりしました。  あいつにニュースをやらせると信用しないというようなことになりました。  でも47歳の時にはニュースのメインキャスターになりました。  ニュースは縁遠い番組なので勘弁してほしいといったが、きてしまいました。  ニュースは当時は政治からはじまって順番が決まっていて、格調高い言葉でしゃべっていた。  テレビを見ている人には伝わらないと私は思いました。  私が判らなかったらニュースではないと、言う様な事で担当させてもらいたいと言いました。  ニュースを自分の言葉でしゃべるようになって、今のラジオに生きているのではないかと思います。

石原伸晃さんがなだしお事件があった時に、報道局にきて現場からニュースを伝えましたが、言葉が難しくて中継中に、よくわからないから判り易く話してほしいと言ったら、やはり同じようにやっていたので、中途でもう結構ですと言って、次のニュースに行きますと言いました。  烈火のごとく怒って来ました。  わがままを言っていましたが、そのニュースの視聴率が上がったんです。 判りやすいニュースの機運が高まりました。 リポーター(女性)を増やして判り易い言葉を取り入れるという方向にしていきました。 

フリーになりたくて言ったら、このまま続けてくれないかと言われてしまいました。 結局3年間やってフリーになりました。(言ってから1年半後) しかしこの3年間勉強したり良い経験をさせてもらいました。 それがフリーになった後の大きな栄養になりました。  ニュースは是非体験すべきだと思います。  私なりにどういう風に伝えるかという事を考えるようになりました。  

歌番組に関してはキャリアを積んできました。 「年忘れ日本の歌」 アナウンサーの力を発揮できるのは、イントロにのせて、イントロかぶせのナレーションだろうと思いました。 歌詞の横顔を紹介する、これはプロレスで培ったものです。 曲に合わせて盛り上げ方を自分で考えて書きます。  人と接するのが私たちの仕事なので、初対面の人でもその人のいいところ、好きになりそうなところを捜す訳です。  この仕事をするにあたって身に付いた習性だと思います。 「ズームイン朝」の仕事を担当するようになってから、自分はアナウンサーに向いているのではないかと思うようになりました。  自然体で人生が生きられるという事は、アナウンサーにとって非常に大切な事じゃないかと思います。  妻が軽から中程度の認知症になって、私はこんなに楽しいのに、彼女はこの楽しさを知らないのかなあと思うと、申しわけないような気分になります。  私が看取らないといけないという様な気持ちです。 











2025年11月10日月曜日

伊集院光(タレント)            ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 前編

伊集院光(タレント)         ・〔師匠を語る〕 六代目 三遊亭円楽を語る 前編 

伊集院さんのデビューは6代目三遊亭円楽さんの門下の落語家でした。 伊集院さんと6代目円楽さんとはどんな師弟関係だったんでしょうか。

いまNHKラジオ「伊集院光の100年ラジオ」を担当しています。 NHKの100年に及ぶアーカイブ資料、録音素材を改めて聞いて凄いと思っています。  技術の凄さを感じています。放送日は毎週土曜日午前10時5分からNHKラジオ第一放送、FM放送では毎週日曜日午前11時に放送中。  放送100年をきっかけに出来た放送。 ラジオに出演するようになって40年になります。

6代目三遊亭円楽さんは1950年東京都墨田区出身。  5代目三遊亭円楽さんに入門したのは昭和45年4月、青山学院大学に通いながらの弟子入りでした。 大師匠6代目三遊亭円生さんから高座名楽太郎を頂き、昭和51年に二つ目に昇進、翌年27歳の若さで民放テレビの大喜利番組に抜擢されました。  昭和56年には真打に昇進し、2010年6代目三遊亭円楽を襲名、東西の人気落語家が所蔵団体の垣根を越えて交流する博多天神落語祭、札幌落語祭のプロデュースを手がけました。 2022年4月には江戸東京落語祭開催にも尽力されました。 この時円楽さんは脳梗塞の療養中で出演が叶わなかったものの、8月には高座に復帰、しかし訃報が届いたのは高座からわずか一か月後の2022年9月30日、72年の生涯を閉じました。 6代目三遊亭円楽を襲名した時、落語家は50年やらなければ駄目だという大師匠の言葉を引き合いに、楽太郎の名前で40年やってきた、円楽で後15年やりたいと抱負を語っていましたが、円楽襲名から10年で幕を下ろすことになりました。

僕はひきこもり、上手く学校になじめなくて、高校生の時にこんなはずではなかったと思いながら、高校に行けなくなりました。  逃げ場として寄席に行っているうちに落語に興味を持ち始めました。  親戚で5代目の円楽にはコネクションがあるということでした。 でも弟子が多くて、当時の楽太郎の方がいいんじゃないかと言われました。 何度も土下座をして入れると思っていたら、会ったら即入門が許可されました。 後で知ったんですが紹介してくれた親戚の人は5代目円楽の弟だったんです。 1984年に入門しました。(17歳 師匠は34歳)  理屈で怒るから世代的には大丈夫だろうという事でした。 三遊亭楽大と言う名前は5代目円楽が付けてくれました。  師匠が理論的に怒ったのは良かったと思います。 映画のチケットを呉れて映画を観に行ってこいと言ったりします。  「苦労は芸の肥やし」だというが、「肥やしをやり過ぎると植物は枯れる。」と言うんです。  たまには肥料の調整をしていいんだと言いました。 

話の流れ、ギャグの使い方、声の大小など理論的に説明してくれて、納得がいきました。   「失敗をした時により派手に謝ることで、失敗をしなかったよりも下手すればいい効果があるよ。」、と言ったことを言われました。  謝るときには出来るだけ早く大げさに謝るように言われました。  終電の新幹線に見送りに行かなければいけないのに、忘れてしまいました。師匠は名古屋に3日間行っていて、今謝るのか、帰って来て謝るのかですが、僕はバイクで名古屋に行って、ホテルのフロントに直筆で謝りの手紙を書いておきました。 (とんでもない手段を使ってきていることは判るわけです。)  又夜中に長野からの帰りに車で帰って来るんですが、道の指示を僕がやる予定でいましたが、眠ってしまって怒られて、サービスエリアで降ろされてしまいました。 どうやって帰ってきたか面白く話せればOKだというんです。 アクシデントがあった時にちゃんと笑いに変えられれば、俺は許すと言う考え方なんです。

39℃の熱が出ていたが、師匠の家に行って部屋掃除をしたりする予定があり、無理して出かけました。(褒められると思った。)  師匠は怒りました。 体調管理が出来ていないことは恥だと言われました。  今日やらなくてはいいような着物の洗濯屋さんへ持っていくようにとのメモがありました。 自分の家から歩いて5分のところで、要は休んでいいという事でした。   師匠の掌で遊ばされている、育てられている感じがします。 師匠はかっこいいおしゃれな人でした。  

1988年に私は二つ目に昇進しました。  落語で行こうと思った時に高校を辞めてしまいました。  退路を断ったことはでかかったです。 同年には第17回NHK新人落語コンクール(現:NHK新人落語大賞)本選に、「子褒め」で出場しました。  最初は勲章を貰えるような古典落語家になりたいという思いがありました。  自分の才能の限界にぶち当たって努力を怠ったりする中で悶々としていた時に、兄弟子だった人が落語を廃業して放送作家を始めました。  

その兄弟子から私にラジオ番組に別のキャラクターで漫談をやって欲しいと言われました。  伊集院光の名前で出て、売れ始めました。 あいつは三遊亭の名前が恥ずかしいから、伊集院光の名前で活動いているという事を、大師匠に告げた人がいました。  大師匠は楽太郎師匠に怒ったが、楽太郎師匠は「あいつは馬鹿だから一回やらないと何もかも判らないだろうから、このまま続けさせます。」と口答えをしたら大師匠は烈火のごとく怒ってると連絡が入りました。   楽太郎師匠は大師匠と僕の考え方との板挟みになっているということを聞きました。    伊集院光でやって行くという事で落語を廃業することにしました。