2024年11月21日木曜日

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さおり(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 今日を生き切る

由紀さんは群馬県出身。  小学生から高校まで童謡歌手として活躍、1969年に「夜明けのスキャット」でデビュー、今年歌手生活55年を迎えます。 1980年代からは姉の歌手安田祥子さんと童謡コンサートも開催、人気を集めています。 

*「人生は素晴らしい」 作詞:mildsalt 作曲:岩崎 貴文  歌:由紀さおり

歌手生活55年に記念曲  別れを沢山経験しなければいけない世代に突入したけれど、出会って素敵な時間を共有させていただいたことに「ありがとう」と言う気持ちで歌えばこの歌はきちんと成立するなと思って、お客様に気付かされたこともあります。 それを感じてからは素直に「ありがとう」という気持ちで歌っています。

55年の記念コンサートのタイトルが「新しい私」。  母が長唄をやっていて三味線があったのを思い出し、本條 秀太郎先生(日本民謡端唄俚奏楽・現代曲三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家)のところに習いに行きました。  自分の生き方に対しても謙虚でありたい、お客様に対しても謙虚でありたいというところから学びが欲しいと思いました。 三味線から能楽堂に繋がって、東京公演は実現しましたが、コロナになってしまって大阪、名古屋では辞めてしまいました。 弾き唄いを習得したいと思いました。 51,2年目から赤坂のライブでジャズメンと一緒に、着物を着てジャズも歌って、三味線も弾くという「新しい私」を披露しようとしましたが、最初の1年目は惨憺たるものでした。  続けて55年目でも新歌舞伎座からスタートすることになりました。 パリでも歌う事になり、フランス語で都都逸もやるという事になりました。 フランス語の勉強に3か月ぐらい通いました。 「夜明けのスキャット」などのほかに新しいものの取り合わせが欲しいと思ったんです。  

1946年群馬県桐生市に生まれました。 歌手になったきっかけは姉です。 横浜に移り住んで、姉が小学校の講堂で合唱団で習っていて、それをみて姉と共にお稽古するようになりました。 小学校1年生の時にコロンビアレコードのオーディションに受かって、レコーディングをしました。  1969年に由紀さおりとして、「夜明けのスキャット」でデビューしました。 その後姉と一緒に歌ったりしました。 ソロで歌う時と全然違います。  皆さん方にご支持を頂いたことが、一番大きな原動力になりました。(二人で歌う事は38年続けてこられた。)  

30代の後半に激痛が走って病院に駆け込んだら、子宮筋腫でしたが直ぐには手術が出来なくて、5年ぐらい悪化させてしまいました。  手術に耐えられる身体を作ってから摘出手術をしました。  今年の7月にもベッドから落ちて鎖骨を骨折してしまいました。   今もコルセットをしています。 仕事をしながら直すという事が当たり前になっています。 声の方は40周年あたりからお酒も控えるようになりました。  ここ4,5年は週に一回耳鼻科に行ってメンテナンスしています。 喉を乾燥させないようにしています。 私は鼻から喉の下までタオルをして寝ています。  

「はじめの一歩日々生き切る」 ブログのタイトル。 日々一秒もおろそかにしない生き方、を自分に課しています。  80歳になったら、姉と一緒にカーネギーホールをやりましょうと言っています。  カーネギーホールではすでに2回歌っています。 目標設定することにより、身体のメンテナンスも気お付けますし、自分の生きる力にもなります。   墓のこと、遺言とか、母が私の為に作ってくれた安田音楽事務所という会社を母が旅立つ時に、譲り受けました。  そのあたりを考え始めています。 

〔わたし終いの極意〕とは、「夢にチャレンジし続ける。」、です。 












2024年11月19日火曜日

小森邦衞(「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 前編

 小森邦衞(石川県立輪島漆芸技術研修所 所長 重要無形文化財「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝))・輪島で、漆人(うるしびと)を育て続けたい 前編

小森さんは昭和20年輪島市生まれ。(79歳)  中学を卒業後、家具職人を経て漆芸の技術である沈金の職人に弟子入りします。 23歳の時に輪島市に出来た漆芸技術研究所の沈金科に2期生として入学しました。  在学中に沈金職人として独立しましたが、再度研究所の髹漆(きゅうしつ)科に入って漆塗りなどを学び、作品を作り続けます。  小森さんの作品は40代になってから展示会で入賞するようになり、2006年61歳で人間国宝に認定されました。  小森さんの故郷であり、作品制作の拠点でもある輪島市は、今年1月に発生した能登半島地震で甚大な以外を受け、9月には豪雨災害が追い打ちをかけるように、大きな被害をもたらしました。 

輪島市は日本海に面していて、山に囲まれとても自然が豊かなところです。 1月に地震で建物が潰れたり、傾いたままの状態であったり、輪島市のところどころで解体工事などの作業が行われています。 漆芸技術研修所に飾られている3点を紹介します。 小森さんの作品は朱色の漆が美しい丸い器で、食べ物を入れる曲輪作りで、藍胎食籠(らんたいじきろう)という作品です。 

二つ目は蒔絵という技法で作られた箱、黒い漆に金や銀で山アジサイが表現されています。 三つめは沈金という技術で作られた箱で、黒い漆に金粉で竹の林の中を鳥が飛んでいる様子が描かれています。 

輪島塗の特徴は大まかに二つあります。 しっかりとした什器、お椀なども堅牢で使い勝手の有るお椀などを作っています。 もう一つは堅牢優美な、しっかりとした模様が付いていて愛でてもらえるような仕事ではないかと思います。 輪島塗は下地も4,5回つけて、それを砥石で研ぎなおかつ、墨で研いでその上に中塗り、上塗りをやります。 漆器は木が多いです。 木体にに塗ってゆくので熱伝導率が低いです。 汁物を入れてもなかなか冷めないし、外には熱さを感じない。 

室町時代に輪島には重蔵神社があり、神殿の扉の裏側に銘文があり、輪島の発祥が言われています。 立派な扉を作るにはそれなりの職人さんがいたという証明になると思います。輪島塗は室町時代と言われていますが、鎌倉時代には輪島地方にもあったと思われます。   輪島は漆を塗る、乾燥させるのには適したところだと思います。 地の粉、下地の中に入れる粉で、珪藻土を粉末にしたものを漆に混ぜるわけですが、混ぜながら塗り重ねてゆく事が輪島塗の堅牢になる大きな原因になるわけですが、地の粉が取れたことが、輪島塗の隆盛に繋がったのではないかと思います。 漆は湿度を与えることによって乾いてゆく。 輪島は町全体が湿気に潤う。 

漆とは全く関係ない家で育ちましたが、周りは漆関係の家が多かったです。  大工になりたかったが、中学を卒業すると、和風の家具のところに弟子入りしました。 身体が小さかったので体力的には厳しかったので、沈金師のところに弟子入りしました。  動かず胡坐での仕事も大変でした。  4年経って年季明けとなった時に、輪島漆芸研修所が出来ました。 翌年2期生として入りました。 漆に関するいろんなことを教えていただきました。松田権六先生からいろんな話をしていただきました。 

研修所終了後作品を作ろうと思って勉強しました。 日本伝統工芸展に出品しましたが、6年連続で落選しました。 自分で作りたいものを徹底的にやろうと思って、輪島塗は分業化されていたので、塗りが出来るように再度髹漆(きゅうしつ)科に入りました。 竹を素材にして竹を編んだものを利用しました。(藍胎)   曲輪の技を利用した技法を考え出した先生からも教えてもらいました。  日本伝統工芸展には40代には受賞するようになりました。 

1989年には日本伝統工芸で網代隅切重箱「玄」がNHK会長賞受賞。 50代で曲輪作曲輪造籃胎盆「黎明」で日本工芸会保持者賞を受賞。 2006年「髹漆(きゅうしつ)」保持者(人間国宝)に認定される。

一つ失敗することによって次が見えてくるという事が大事なことだと思います。 私が物を作るということに熱中し始めたら、稼ぐという事があまり頭になくなって、妻も伝統工芸展には先に入選したいたこともあり、生活するという事に関してはお互いに苦労がありました。 作品を作るという喜びに関しては共有出来たと思います。 常に仕事のことを考えていれば、アイディアが切れるという事は無いです。 図案日誌をつけなさいと言う事は、松田権六先生から教えていただきました。 

2016年に俳句の句集を出版しました。 自分の作品を作るという事は、自分を見つめ直すことになります。 作品を見ていただいて、批評してもらう事は物つくりとして大切だと思います。  人間が成長するために自己満足だけで作っても決して良くないと思います。 

「朝寒や夢の中まで漆塗り」 小森邦衞

集中している時には夢の中まで漆を塗っている時があります。 

基本的には朱と黒と金というのは、日本の漆文化の中心になると思います。 好きなことをやってそれで生涯を終えれば、こんな幸せなことはないんじゃないかと思います。 若い時に漆と出会って、人生を迷うことなく歩んでこれたと云う事は幸せなことだと思います。  大震災、豪雨災害があり、家も研修所も被害に遭いましたが、日本全国、海外のご支援等で、輪島塗も立ち直りつつあります、ご支援有難うございました。 

 









2024年11月16日土曜日

柴原聡一郎(奈良市埋蔵文化財調査センター) ・〔人ありて、街は生き〕 29歳、令和の時代に古代を掘る

柴原聡一郎(奈良市埋蔵文化財調査センター) ・〔人ありて、街は生き〕 29歳、令和の時代に古代を掘る

2022年12月奈良市のの西部にある富雄丸山古墳で、研究者たちも驚きの声を上げるような品々が発掘されました。 一つは盾のような形をした青銅の鏡、もう一つは蛇が蛇行するように浪打つ形の2mを越える鉄の剣、いずれも国宝級の大発見として大々的に報じられ、大きな関心を集めました。 この発見に調査員として立ち会ったのが、奈良市埋蔵文化財調査センターの柴原聡一郎(29歳)です。  世紀の大発見の現場はどのようなものだったのか、見つかった品々はどのような価値を持つのか、現代に考古学を研究することにどのような意義があるのか、伺いました。

鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡は盾の形をした鏡というのが、一番大きな特徴です。 日本では弥生時代、古墳時代の鏡は6000枚以上出てきています。 そのすべてが丸い形をしています。 一番大きいもので直径が40cmぐらい、一番多いものが10cm後半ぐらいです。 鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡は日本で初めて丸い鏡ではない鏡として出て来たのが大きな特徴です。 大きさが長さが64cmで日本国内では破格の大きさです。 

蛇行剣、5世紀ぐらいに日本で作られたもので、剣の刃の部分が真っすぐではなくて、まるで蛇が海を進んでいるかのように、左右に何回か曲がっている特徴的な剣です。 蛇行剣は日本でも数十本出土がありますが、1m程度のものです。 富雄丸山古墳の蛇行剣は剣身だけでも237cmという巨大な剣です。 蛇行剣は実際の戦いで使う剣というよりは、儀式の時に使うための剣ではないかという風に考えられています。 当時の古代東アジア世界でも最大ではないかと思われます。 

普通は40代、50代のベテランの人が調査したりしますが、私みたいな若造が大発見に立ち会う事になってしまい、吃驚しています。 富雄丸山古墳は円墳で、円の直系が109mぐらいで、円墳は国内では20万、30万基とも言われていて非常にたくさんありますが、そのなかでも一番大きいと言われています。 又富雄丸山古墳は単純な円形ではなくて北東の方向に四角い張り出しの部分があります。 この四角い張り出しの部分で祭りごと、御供え物をする儀式の場ではないかと言われています。 この部分のことを「作り出し」という風に呼んでいます  この「作り出し」の部分から今回の大発見がありました。 古墳の埋葬施設は基本的には古墳の一番高いところにあり、富雄丸山古墳もそこに埋葬施設がありますが、ここは過去に盗掘を受けて居たり、発掘調査もされています。 見つかった場所自体も大きな謎を投げかけています。 

古墳時代は3世紀中ごろから6世紀の終わりごろまでの時代です。 3世紀は中国の魏志倭人伝には邪馬台国(卑弥呼など)のことが書かれています。  5,6世紀には数多くの記載があり詳しく判っていますが、4世紀は日本と中国、韓半島の間であまり国同士の正式な交流が無かった時代でして、4世紀の倭国の事情を残した歴史書があまりありません。 富雄丸山古墳が作られたのが、この謎の4世紀に当たります。 何故富雄丸山古墳が作られたのか、どういう人物が葬られているのかという事を考えることで、謎の4世紀がどういった時代だったのか、という事にも繋がります。 しかし調査をしてみるとかえって謎が増えてしまいました。  

2017年度に航空レーザー測量で古墳の形を調べる調査がありました。 その時に日本最大の円墳であるという事が判りました。  発掘調査で墳丘の構造を調査することになりました。(2018年)  当時大学生で古墳の構造を扱っていました。 調査センター長に是非参加させてほしいと直談判しました。 発掘調査には細心の注意を払って行わなくてはいけないので、その体制つくりに4年掛かりました。 調査は30人ぐらいで5か月間かかりました。墓の部分を確定しるために最初広く浅く掘りますが、それに1か月かかりました。 穴が出てきて深さ1,5mぐらいありますが、そこの一番下の部分に、木で出来た棺桶を保護するために周りに白い粘土が出てきました。(発掘1,5か月ほど)  私は金属探知機を買って休み時間に粘土槨に当ててみました。  反応があってしかも棺桶のなかではなくて、もっと浅いところにあることが判りました。 2,5mぐらいで鉄の反応がありました。 一部で銅の反応がある所もありました。  

2週間後に蛇行剣と鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡が出てきました。 最初に一寸掘った時には剣の幅が6cmぐらいあることが判りました。 古墳時代の剣の幅は通常2~3cmなので相当大きなものであることが予測されました。 レントゲン写真を撮ることで一本の剣であることが判明しました。  蛇行剣を掘っている時に鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡の一部が見えましたが、その時点では何なのか全く判りませんでした。 最初模様もないつるつるした面でした。(鏡かどうかは判らない。)  裏の一部に文様を確認したが、なにかは判らなかった。 取り出して裏返した時に、鼉龍鏡と同じ文様を確認出来ました。 最初頭が真白になりました。 一週間たって凄いものが出て来たと実感しました。 新聞、テレビなどで大きく報道されました。  

考古学に興味を持ったのは中学生ぐらいです。  古墳時代を研究する視点、どういう風な視点で古墳時代、人類の過去を見るかという事を考えるのが、私は好きなタイプです。   遺物とかを見て判断するときに、過去を見ようとするときには、どうしても主観的なものが反映されてしまう。  古墳時代などは、戦前は古事記、日本書紀などに書いてあることを割りと素直にそのまま信用するという歴史観がありました。  戦後はそういった記述を素直に信用するのではなくて、科学的な方法を使って批判検証をしてゆこうという方向になりました。 

古墳時代の研究をしているように見えて、過去を通して現代を見るような視点にあるのかなあと思います。 現代で忖度と言う言葉がはやりましたが、実は古墳時代にも忖度はあったのではないかと思います。 現代社会が変化したことによって、どういう言う風に古墳時代観が変わるのかという事も、私は凄く好きです。 あくまでも昔のことを見ているというのではなく、現代とのかかわりが歴史学の中では非常に重要だと思います。 人間の行動は現代も過去も変わらないんだという、人間の普遍性みたいなところに気付くと、考古学の面白さが判るのかなあと思います。 












2024年11月15日金曜日

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・分からないから、突き進む! 前編

舘野鴻(画家・絵本作家)         ・分からないから、突き進む! 前編 

細密画の技法で虫の絵本「しでむし」「ぎふちょう」「つちはんみょう」などを描いて来た舘野鴻さん、一冊の絵本を作るために、長い時は10年をかけて虫の生態と生育環境を調べて、こんな角度から、こんなアップでしかも細密画で描くとほという驚きの絵本を作られました。 今年森の生き物たちを緻密な絵で描いた絵本「どんぐり」で1年間で日本で出版された絵本の中から優れた絵本に授与される日本絵本賞を受賞しました。 絵本の原画展のほか舘野さんは子供たちとの昆虫観察会や講演会、ワークショップや絵画教室を各地で開かれ、忙しい毎日を送っています。  現在56歳、50歳を過ぎてから仕事が楽しくなったという舘野さん、これまでの半生、様々なことに挑戦しながら突き進んできました。 その原動力となっているのが、分からないことを知りたい、分からないから面白いという思いです。 

今は別の用事が増えてきてしまって、描く時間が無いという事が一番問題かなと思っています。 近所に住んでいた熊田千佳慕さんの家へ絵を習いに行っていた母に連れられて通ううち、出入りするようになり絵を学んでいきました。 幼少期はしゃべるのが苦手でみんなと共感するという事が出来ませんでした。 寂しさと劣等感がありました。 だから絵を描くようになったと思います。 小学校の頃にスーパーカーブームがあり、車を描くようになりました。 友達が見ると喜ぶわけです。 「ぎふちょう」を描いていた時の筆は長さ2cm、太さは4,5mmでした。 その先に命毛という細い毛があって、それで1mm以下の細い線が描けます。 線は上手く描けますが点はその筆ではうまく描けません。

「ぎふちょう」に表紙はぎふちょうと他に数種類ありますが、3週間はかかります。 複雑な構造のものをアップで描くとか、という時には考えなしに描くことは難しい。  中学時代、陸上部に入りたいという事で退部する友人に頼まれて生物部に入部することになりました。 中高一貫学校で大学生OBも来るんです。 そうすると一気に世界が広がりました。 そこで出会ったのが「オサムシ」という虫です。 オサムシを見ると日本の土地がどういう風に変化してきたのか、気候が変化してきたのか(地史)が見えてくる。 経験していない事、知らないことが多すぎて、圧倒され恐ろしくなりました。  小学生の頃に両手を見ながら「なんで俺は生きているんだろう。」と毎日思っていました。 

中学の時には虫が好きになりました。 北海道に行ったら金ぴかなオサムシを見ました。  札幌学院大学へ進学することになりました。  友人と3人でテントをもって山に行きました。 大千軒岳と言って砂金で栄えたところで、1630年代の話で隠れキリシタンが住んでいましたが、松前藩に見つかって106人が殺されてしまいました。 山に登ると美しい山でした。 そこで虫を取ることが出来ました。 数えたら106匹でした。 数がぴったり合ったことにびっくりしました。 そこで怖くて虫を取るのをやめました。   死んだ虫、キリシタンに供養しないといけないと思いました。(21歳) 祈りとか弔うとか、そういったことで描いてゆくと決めてしまいました。 

大学は中退して、芝居、音楽などにのめり込んでやっていました。  そこでの仲間にはいろいろ影響を受けました。 文化的なものを一気に学んで行けました。  絵は描いていました。 或る美術家に出会って、君の描いているのは美術でも何でもないと、今まで思っていたことを全部ひっくり返されました。  急に視界が開けた気がしました。(20代半ばから後半)  自分の絵の評価が判らなくて、一回だけ「僕の絵はちゃんと描けているんですか。」と聞きました。  「うん、十分描けているよ。」と一言言われて、凄くホッとしました。

30代を生物調査のアルバイトをしながら絵を描く修業時代になります。 41歳で細密画の絵本「しでむし」を発表。(29歳で結婚、30歳で子供が誕生)   図鑑の中の昆虫の解剖図の話が入りいろいろ描いてその後の絵本の参考になりました。  身体の中の仕組みが判ると、どうしてこういう形をしているのか、どうやって動くのかということが判って来ます。 沢山の虫の解剖をしてきましたが、罪悪感が常にありました。  写真、パソコンの技術が発達して被写界深度に高い画像が合成できるようになって、絵でしかできなかったことが写真が出来るようになって、急に仕事がなくなってしまいました。  編集者から絵本を描くことを紹介されました。  師匠と同じ所へ行くのは厭でしたが、見苦しいとか汚いとかみんなが目をふさぐようなものにこそ、輝く何か大事なものがあるんじゃないか、という思いがありました。 しでむしは死体を餌にする虫で、埋葬虫とも言われている。 どんな汚くても、皆が殺したくなるような虫を、極上に美しく描きたい、それです。 













2024年11月14日木曜日

リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

 リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

ダイクさんはアメリカカリフォルニア州生まれの79歳。 東京で会社役員をしながら、石橋湛山の著作の英訳に取り組んでいます。 石橋湛山は戦前を代表するリベラル派言論人で、当時の主流だった領土の拡張を目指す大日本主義に反対、台湾、朝鮮、樺太などの植民地を手放す小日本主義を唱えました。 戦後は政界に転じ、自由民主党第二代総裁と第55代内閣総理大臣となり、国民の期待を集めましたが、病気の為2か月で辞任、首相を続けていれば日本の政治や外交は違ったものになっただろうと言われています。 今年は湛山の生誕140年没後50年の去年には、国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、改めて湛山の思想と活動に注目が集まっています。

国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、第一回の講師をやりました。 統一教会のスキャンダルが出た時に、自自民党の中で石橋湛山の路線をもう一回発見しようという動きがありました。 反安部と反岸信介のグループです。 全部で8回会館の中でやりました。 9回目は甲府の石橋湛山が育ったところにいって行いました。 だいたい60人ぐらいが出席しました。  出席率はいいし勉強もしてきました。 石橋湛山の思想は幅が広いので、いま日本が必要とされる政策には必要だと思います。

石橋湛山の存在が判った時は大学院生でした。(昭和43,44年)  京都大学の松尾 尊兊先生がハーバード大学に来られました。  ちょうどベトナム戦争で学生たちは反戦運動などしていました。 松尾先生は反戦に熱心な日本の学者で、学生と気が合いました。 勉強会で石橋湛山のいろんなものを読ませられて、そこで知りました。 個人主義、自由主義、基本的に思想家として徹底していました。 ウイリアム・ジェームスなどと思想の繋がりがあることに驚きました。 1968年ソ連がチェコを侵略しました。 その時に石橋湛山が日本の防衛論という記事を出しました。 それも松尾先生に読ませられました。 チェコの反応を見るべきだと書いていました。 しかしソ連がチェコから撤退するのに20年以上かかりました。 今ウクライナの問題があって、台湾の問題があり、当時のことがもう一回繰り返しているので、日本の防衛論、日本がこういう時期のなかで、どういう風に防衛の準備をしなければならないのか、日本の役割はどうなっているのか、戻ってきているような感じがします。 

石橋湛山の英訳を始めたのは、コロナになってからです。 石橋湛山のことはあまり書いていなかったです。 石橋湛山全集は全部で16巻ありますが、2セット持っていて一つは東京に、もう一つは山中湖に置いてあります。  石橋湛山は寺育ちで、日蓮宗のお坊さんの資格もあり、立正大学の学長もやりました。  完成は来年早々になると思います。 出版も来年です。  1920年代大日本主義には彼は反対していました。 台湾、朝鮮、樺太などの植民地を独立させるべきだという考えで、ヨーロッパ、中近東などでも植民地を持つ時代はもう終わりで、独立を求めている時代でした。 植民地を持つことは小さな欲で、大きな欲の為にはこれは邪魔になる、日本はもっと大きな欲を持つべきだという事で、石橋湛山の言う大きな欲とは日本はもっとグローバルになるべきだという事です。 

1920年代は日本は技術もあるし、資本の力もあるし、その力をもって日本は海外に会社が進出して海外の人たちに仕事を与える、例として言っていたのは「ぼたもち」と「重箱」。 「ぼたもち」は資本、「重箱」は土地。  会社を海外に持ってゆくと歓迎される。  1920年代の初めでは中国に進出していた会社は数百しかなかった。 1925年になると4700社が中国に進出している。 15万人の日本人が中国に住んで中国人を採用してやっていた。  原外交は、中国はまだ統一されていないが、統一には介入べからずという事で、中国に行って何とか繁栄させたいという事は日本の役割だという事で、石橋湛山はまさにそう考え方を持っていた。 植民地にすると防衛しなければいけなくて兵隊が行かなければならない。 経済的には合わない。 しかも列強が敵になる。 平和的に日本が海外に進出してグローバルな経済を作るのがいい、と考えていた。

1930年代に満州事変があって、反日運動が盛んになる。 世界の大不況の時に石橋湛山がケインズを導入した。  高橋是清にも影響を与えた。  石橋湛山と同じ考え方をもっていた経営者はたくさんいた。 経済倶楽部を作って人気があり、東京だけではなく大阪、神戸、福井県、岡山県などで作られて、石橋湛山は演説に出掛けた。 海外に投資して自由経済で行くべきだと主張した。 1934年ごろから日本は段々別の方向に向かってゆく。 石橋湛山は自分が思っていた方向は出来なくなった。 昭和16年7月に100年戦争という題名の演説をやりました。  真珠湾攻撃の4,5か月前です。 おそらくアメリカは英国の味方でドイツと戦争をする。  まさか日本と戦争をやるとは思っていなかった。 日本は日中戦争をやっていて、統制経済になることは仕方がないが、この戦争が終わったらその時の日本の将来をどう考えるか、今の段階で我々が考えなければならない。  日本は統制経済のままで続くのか、市場経済に戻るのか、考えなければならないという凄い先見の明がある。 

終戦になって日本を作りなおさなければならないと、石橋湛山は新聞記者から政治家になろうと考える。 吉田内閣の大蔵大臣になりました。 国会の最初のスピーチは数時間のスピーチだった。  日本のビジョンのようなものが出ている。 日本はモノ不足だったから、何とか供給をなんとか増やさなければならない。  そのためには石炭が必要。 炭鉱を復活させるための一番いいやり方は、炭鉱の持ち主を中心にして、価格などを決めて炭鉱を復活させること。 GHQ、経済学者などは炭鉱を国有化すべきであると、石橋湛山の考えに反対していた。 進駐軍の日本と南朝鮮は日本の予算、でも貧しい日本では無理で別の形で展開しなくてはいけない。 昭和22年に石橋湛山は公職追放になった。 1947年から1951年まで続いて、政治活動、原稿も書けない、演説もできない。 

昭和22年の公職追放は数千人に昇る。 会社の経営者、市川房枝(女性解放運動)などが公職追放になった。(GHQの反対者)  鳩山内閣の時には通産大臣になる。 1955年に自由党と民主党が合併して自由民主党が出来る。 1956年に石橋内閣が誕生する。 病気のために2か月で辞める。  日本は市場経済に戻すべきだという事で、電電公社の民営化、国鉄の民営化、という考え方を持っていた。  岸信介が副総理だったので、岸信介が総理大臣になった。 当時は石橋湛山の内閣に希望を持っていた。 アメリカに対しての独立性、経済をもっとオープンにしてという事があった。 岸信介になって日本は別の道を歩み出した。 

辞めたあと病気が治ったら、立正大学の学長を16年間務めました。 立正大学の講義が全巻の中に入っています。  中国に2回行って周恩来首相と会いました。 中国との交流、貿易を重視していました。 ソ連にも行きました。 田中角栄が1972年にようやく行けるようになりますが、田中角栄にも影響が大きかった。  

ダイクさんは1945年にアメリカカリフォルニア州生まれ。 日本には交換留学生として来日。 カリフォルニアには日系人が多くて友達がいました。  1965年に来ました。  バード大学院で日本研究で博士号を得ました。  半導体をテーマにして、半導体業界がどういう風にして伸びたのか、研究しました。  教鞭をとるようになって助教授になりました。 オハイオ州知事から日本の企業誘致の話がありました。 大学を辞めて日本に来ました。  ホンダがオハイオに決めてくれました。  日本の自動車メーカーの最初の工場でした。  オハイオでは数万人の大きな工場になっています。  アメリカへの投資では日本が圧倒的に日本が一番です。 石橋湛山が考えていた海外投資てグローバルになる、まさに今、日本がそういう姿になっている。 その後私はビジネスの世界に入りました。 日本での生活は40年を越えています。  日本は今別の形で生まれ変わってきていると思います。  海外の投資から見ると、日本の経済を連結ベースで考えると、GDPの1,5倍になっていると思います。 国内のGDPが伸びなくても失業率は上がってきていない。 日本の会社は海外で伸びている。  

石橋湛山が総理を続けていれば、日本は違った道を進んでいると思います。 経済の考え方は絶対違った形で行っていたと思います。 岸信介になって安保がそういった形になって、日本はアメリカにべったりとなった。  海外の政策が変ってきたと思います。 

出版に際して期待するものは、①日本の近代史、日本の民主主義は根が浅かったから戦争になったんじゃないかと言われるが、僕はそうじゃなくて、日本人が求めていた民主主義は根が強かった。 ②戦後日本に民主主義をもたらしたのはアメリカの司令部だという考え方があるが、これも間違っていると思います。 ③石橋湛山の中心になっているのは市場経済、これを忘れてはいけない。 英訳を通して見えてきたのは、石橋湛山の目を通じて見ると、正しい日本の歴史とかが見えるようになってきあと思います。














2024年11月9日土曜日

2024年11月8日金曜日

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤さんは1946年静岡県 生まれ78歳。 イラストレーターを経て40歳の時に漫画家としてデビューしました。 途中夫の介護で10年ぐらい創作から離れた時期もあったんですが、その後復帰、76歳で発表した「ぼっち死の館」が今年の手塚治虫文化賞漫画大賞の候補作になるなど、話題を集めています。 「ぼっち死」は一人ぼっちで死んでゆくことです。  斎藤さんが暮らす東京郊外の団地には高齢の単身世帯が多くて、そこで起こるあれこれが漫画の元になっていると言います。 斎藤さん自身の団地での暮らしぶりや、漫画を通して伝えたいことについて伺っていきます。

「クリぼっち」(クリスマスが一人ぼっち)「ぼっち正月」などと言っていました。 そして死もぼっちですね。 単身世帯が多くておばあちゃんが多いです。 病院に運ばれたり、自分で施設に入ったり、本当にぼっち死されたりいろいろあります。 動物の死とか、周りで起きてきたので、死は特別な事ではないですね。  自分にもやがてやってくることですし、周りの人も同じような状況です。 

東京の多摩ニュータウンに住んでいます。 昭和40年代に雑木林を開いて、街を作ったところです。 憧れのところでもありました。  49,50年前に引っ越してきました。  今はシャッター商店街とジジババにが住んでいます。(子供たちは巣立ってゆく)  リフォームして若い人もはいって来てはいます。 

「ぼっち死」は6っつで構成されていますが、一番気持ちが楽しくなるのが、牛の出てくるものです。 「牛のいく」?は主人公が男性で一人で暮らしています。  心がほぐされて高齢の女性と話すようになってゆくというものです。  自分が婆さんなってみると、それぞれ皆さんいろいろあったんだろうなあと言う気がします。 

子供の頃から絵は好きでした。 短大を出て自立しようと思っても何もなくて、働きながら英会話をマスターしようと思って、英会話学校に勤め始めました。 学校で使う教科書の絵を描いていた人の手伝いをしていました。 その人が辞めることになり、後をついで描き始めました。 その後知り合いを介してイラストの仕事が始まりました。 イラストの仕事も少なくなってきて、漫画ならば稼げるのではないかと思いました。 漫画の経験は全然ありませんでした。 1987年、40歳の時に漫画を描く決意をし、『ダリア』で『ビッグコミック』新人賞を受賞することが出来ました。 夫が倒れたり、母親も病院に行ったりで描けない時期がありました。 脳出血で夫は倒れました。 介護が始まりました。 母親も脳溢血で入院しました。  母親は主に弟が面倒見ました。  介護期間は11年でした。   一時期大学に通いながら介護をしていました。  

夫とは籍を入れませんでした。 特に結婚とかにあこがれもなく、結婚しようというような感覚があまりなかったです。 医療費がかかるが、籍をいれていないと医療費控除にならないので、60歳の時に籍を入れることになりました。 夫とは20歳の時からの付き合いでした。  夫は結核になったり病気をしたりして 働かないので、私が働いて無我夢中で生きてきました。 夫は大変だったので、寂しいというよりはよかったと思いました。   最後まで看取ったという納得感はあります。         

一人暮らしの不安は全然ないです。 漫画教室もやっています。 年代層もいろいろなのでたのしいです。  団地内ではお年寄り同士の交流はあります。  友達の家で倒れて5分もしないうちに治ったんですが、病院に行ったら入院してくださいと言われました。 脳梗塞でした。  日常の暮らしのなかでセーフティーネットが出来上がっているという感じです。 市から老人向けのグループを作ったり、自分たち同士でもグループを作っているので、何かやろうとするときにはそこに属せば、いくらでもやることはあります。  飼い猫を通して付き合いが広がります。 ほどほどの距離を取って付き合っています。

生きる上での大切なことは、心を開いて受け入れる、余り頑なに心を閉じない方がいいなと思います。  歳をとった方が気持ちが楽です。  若い人にも伝わることを描いていこうと思っています。