西川きよし(漫才師) ・笑いで幸せを届けたい (初回:2023/7/8)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/07/blog-post_9.htmlをご覧ください。
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五木寛之(作家) ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕
ペギー葉山さん 7年前に亡くなる。 1933年生まれ。 30代の半ばに直木賞を頂いた時にペギーさんがお祝いにかけつけてくれました。 CMソング、ミュージカルの時代からずーっと一緒に長い間仕事をしてきましたので同士的な感じがします。 (年齢がほぼおなじ) 亡くなった時にはガックリしました。 デビュー曲が「ドミノ」 ジャズの歌い手として出ました。 「南国土佐をあとにして」を貰った時には最初随分抵抗したそうです。 歌った結果大成功でした。 「「学生時代」もぴったりでした。 歌の幅が広い、実力派でした。 役者魂の有る人で体当たりで演じていました。(妊娠していたのにも関わらず坂道を一生懸命走ったり)
都はるみさん 一緒に京都中を歩いて一冊本を作ったことがあります。 (対談集) 自分が演歌を歌うようになったきっかけの話を伺いました。 帰りにジャズ喫茶に行った時にかかっていた曲があって本当はこんな曲を歌いたかったんだとぽつんといったのが、とても印象的でした。 八代亜紀さん デビュー前はジャズを歌っていました。 演歌を歌っている人たちは現代音楽みたいなものの洗礼を受けている人が多い。 都はるみさんの歌い方は譜面よりも微妙にちょっと上に有ります。 だから明るい感じになる。 ジャズを歌っても凄く上手く歌ったのではないかと思います。
井上陽水さん 「青空二人旅」という本になっています。 対談なので二人旅としました。 彼は福岡で僕も福岡なのでどこかあいますね。 麻雀なんかも一緒にやりました。 対談では直ぐ答えるというのではなく、自分で質問をかみ砕いて答えを出してゆくという人でした。 理論的側面のある音楽家でした。 才能が有りました。 その時代の空気感を無意識のうちに歌の中には感じられるところがあり素晴らしいです。
歌作りの現場に触れることが出来たという事は作家としては大きな収穫だったと思います。
浅川マキさん 石川県の人です。 役場に勤めていたという事を聞いたことがあります。 東京に出てきて寺山修司と出会って、「かもめ」とか曲を提供してもらって、あの当時を代表する大スターでした。 「夜が明けたら」僕はあの歌が一番好きです。
山崎ハコさん 音楽生活50年と言っていました。 「織江の歌」 僕が作詞。 大分の方です。
日本の歌い手は一色ではないという事が素晴らしいと思います。 一つの歌でも違う歌い手さんが歌うとガラッと違う感じになります。
*「青年は荒野をめざす」 作詞:五木寛之 作曲:加藤和彦 ザ・フォーク・クルセダーズ 週刊『平凡パンチ』に、1967年3月から10月まで連載した青春小説で人気がありました。
1965年に一般人の海外渡航がOKになりました。 外国に行くという事は荒野をめざすという様な時代でした。 今はレジャーといった感じです。
専属作詞家として働いた時期があります。
柴田南雄(作曲家 音楽評論家) ・〔わが心の人〕
柴田南雄さんは文化功労者でもあります。 大正5年現在の東京都千代田区神田駿河台生まれ。幼少のころから母にピアノを習い、 大学時代諸井三郎から作曲を学びました。 東京芸術大学を初め多くの大学で作曲や音楽理論を教え、後進を育成しました。 音楽評論家としてもNHKの番組でもおなじみです。 平成8年2月に亡くなられました。(79歳)
お話は仙道作三さんです。 柴田さんがラジオの音楽番組に出演したのは戦後まもなくです。 (昭和22年 31歳) その後テレビ、放送大学の先生を担当。 先生とは1971年にお会いしました。 私は中卒で集団就職で東京に出てきました。 クラシックギターを習って町工場で働いていまた。 25歳でクラシックギターを教え始めましたが、理論を知りたいと26歳で柴田先生のところに飛び込みました。 柴田先生の家柄は学者の家柄で、森鴎外の「雁」に出てくる柴田承桂さんと言う人のセリフで「ドイツに渡航するのであれば柴田承桂君に聞き給え。」と書いてありますが、ドイツの薬学を持ってきて薬剤師の名前を付け、東京大学の医学部教授になられたのが柴田承桂さんです。 柴田先生の父親は柴田雄次さんでドイツから化学を持ってきて、東京大学の教授になられた方です。 柴田先生も東大を出られて、私も弟子にしてもらいました。 1週間に一回の稽古でした。 1年目は月謝を払いまいたが、2年目からはいらないよと言われました。 (7年間無料)
ハーモニーの連結 4つの旋律の和声?がありますが、それをどのように連結すれば、美しいハーモニーが出来るかと言う、8小節、16小節の和声、連結の仕方です。 それをチェックして貰います。 2年目には万葉集にメロディーをつけて、ハーモニーを作るという宿題をあたえられました。 自分で考えた旋律を作る。 万葉集を100冊買いました。 (月賦) 古典文学を勉強して大変勉強になりました。 3年目に私の故郷に先生も同行することになりました。 先生とフィールドワークの調査、研究をしました。 録音してきたものをNHKのラジオから流れるわけです。 柴田先生は芸大の先生を辞めて民俗学に入り、日本の民俗学の研究をはじめました。(フィールドワーク) 静岡県の念仏踊りを取材しました。 越後瞽女、田沢湖の方とか様々なところに行きました。 貴重な記録です。
先生がシアターピースと言う方法で作った漫才流しの2曲目は強く印象に残っています。 一般的に合唱団は左からソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという6種類の形態で並んで歌います。 シアターピースと言うのは、舞台でやってホールの方に階段で降りてきて演奏する訳でです。 劇場全体が歌う場。 今も私は継承しています。 漫才流し 三河漫才から始まって、秋田の方に移って発展して来ました。(秋田漫才、横手漫才) 漫才を新しい感覚で自身で合唱を作りました。(シアターピース方式)
*合唱曲 「漫才流し」 柴田南雄作品
柴田先生の一番すごいところは、「人間について」と言う曲があって、宇宙について、人間と死、自然についてとかいろんな曲、未来につながる永遠のテーマを作っています。 柴田さんは東大で植物学、哲学を学ぶ。 先生は縄文土器、弥生土器も研究して、縄文土器の笛を使って音程を出したりしました。 私の知識と教養を柴田先生が育ててくださった。 とても好奇心の旺盛な方です。
先生からは「民俗学を研究して新しい自分の様式を作り、研究する人間になりなさい。」と言われました。 私も自然と民族学の方に入って行きました。 宮沢賢治世界、いろんな日本の古典文学、樋口一葉、明治の歌人、文学者の人たちなどをテーマにオペラを作ったり音楽を作って来ました。 今111曲になりました。
*「利根川322」 第一楽章冒頭の部分 (利根川は322km流れている。)
4月26日に「鳥獣戯画」を発表します。 9月には「清少納言」を発表する予定です。
中村結美(放送作家) ・名わき役の最後を撮る
中村さんのお父さん俳優の織本順吉さんの晩年にカメラを向けたドキュメンタリー映画「後ろから撮るな」が完成して先日封切されました。 織本さんはNHKの朝ドラや大河ドラマの出演のほか、およそ2000本の映画やドラマなどで名わき役として鳴らしました。 2017年に90歳で民放のドラマ「安らぎの里」が遺作となり、2019年3月に亡くなりました。
「後ろから撮るな」の反応は、男性、特に年配の方は、自分自身に当てはまる様で身に詰まされるという反応が多いです。 女性は介護する立場から、同じようなことを思いましたと言う様な反応がありました。 父は90歳までドラマに出続けました。 父が認知症の症状が出始めてその証拠を撮ることで始めたと言った感じです。 撮っているうちのいろいろ面白いことが有ったりしました。 それが発展して映画となりました。
織本さんは電気会社に勤務した後、1949年に新協劇団に入団。 朝ドラの『澪つくし』をキャスティングしたことが全国に知られるようになった。 母の実家が神戸で、両親の介護が必要になり、父を東京に残して私が4歳妹が1歳の時に母と一緒に神戸に移り、父とは別居生活になりました。 父が来るのは年末年始と京都で撮影がある時ぐらいでした。 過剰に父親であろうとするワンマンなふるまいをしていました。 テレビは子供の頃から作り手として見るようなことを父から言われていました。 家族が家族になるための練習期間のようなものをせずに、また家族をやらなければならなくなりました。 しっくりこない状況はありました。 現実の父親役だけはうまく演じられませんでした。
父は5歳で母親をなくして、15歳で父親を亡くして、その後継母と過ごしています。 晩年は癇癪を起すことが増えていきました。 筋が通らないことでも怒り出したりしました。 私は家の中の本当の父の姿を記録したいと思って撮影を始めました。 そこが意外と伝わらないのは残念です。 世間からはあんなに穏やかで優しそうで、その方がご主人でいいですねと、母はずっと言われていました。 母からは愚痴を言われる役を私はやっていました。
私は1960年東京生まれです。 神戸育ちで、脚本家、放送作家、テレビディレクター。 高校卒業後銀行員になりました。 文章を書くことは好きで、高校では兵庫県の作文で1位になりました。 勤めの傍らシナリオを書いたりしていました。 「初めてのお使い」「ムツゴロウと愉快な仲間たち」「花よりだんご」、NHKの番組などいろいろ手掛けました。 東監督と会う機会があり、父の気持ちが判ったようなところもあって、銀行員と言う普通の生活ではなくて、ものを作る人になりたいと思い銀行を辞めました。
「後ろから撮るな」 父は多分私がカメラを向けても、自分自身はどうにでも演じてやるわいと、どうにでもコントロール出来ると思っていたと思います。 しかし或る時に、自信が亡くなったのかなあと思いました。 それで自分の神経の行き届いてない後姿を撮るなという事だったのではなかったのかと思います。 どうしても後姿を撮りたかったです。 1月に病院に入って、3月頃には飲み込む力も弱っていました。 水も飲めなくて点滴だけで栄養を摂っていました。 撮った映像を父に見せましたが、その瞬間だけはしっかりしていました。 感想を言ってくれました。
「どんなにうれしかったか、本人にしかわからない。 こんな幸せなドキュメントは考えられない。」 「こんな映画が出来たのはお前だから出来た。 こんな幸せな役者はいないよ。」と言っていました。 かっこいいドキュメントではないと判ってもらえると思います。 舞台の上で死ねたら本望とよく言いますが、死の間際まで中々撮ろうと思っても撮れるものではなくて、たまたま父と娘という事で、ぎりぎりまでカメラを向けられました。 それが役者として嬉しかったという思いを言ってくれたのかなと思います。 よっ 名演技!織本順吉と言いたくなるような顔でもあったなと思いました。 父も逃げずにいろいろな顔を見せてくれました。
木村肇二郎(眼科クリニック院長) ・いわきの浜で 患者とともに
木村さんは昭和15年生まれの85歳。 慶応大学の医学部を卒業した後、大学病院の勤務を経てふるさといわきに戻りました。 祖父の代から続く医師の家系で、患者の話を丁寧に聞く姿勢はちちから学んだと言います。 木村さんはかねてから治療が難しい視覚障害に人達の暮らしのサポートを続けてきましたが、さらなる活動の拠点として、4年前東日本大震災で大きな被害を受けたいわきの浜に「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。 ヨガ教室や音楽会、触る彫刻展など多彩な催しが行われ、今では障害の有無にかかわらず様々な人たちが訪れる交流の場となっています。
屋上からは海が一望出来て、建物は木のぬくもりがあり正面は大きな窓になっていて、外の景色はほとんど見渡せます。 天井も高くて圧迫感はないです。 福島県から建築文化賞も頂きました。 一部2階建てのバリアーフリーになっています。 視覚障害の方への様々な工夫がしてあります。 ここは兎渡路という地名です。 地名の由来はよくわからないです。 一時入院した国立病院が道路を挟んで反対側にありました。 命を助けてもらったという事でここを選びました。 国立病院は震災で内陸に移ってしまいました。 いわき全体では450人ぐらいが亡くなり、ここは80名ぐらいが亡くなっています。 10mぐらいの堤防が出来て海が見えなくなり景色が変ってしまいました。
昭和15年生1月1日生まれです。 父が大阪に勤務している時に大阪で生まれました。 実家に疎開していわきで終戦を迎えました。 小さいころはよくいたずらをしていました。 5人兄弟です。 喉に腫瘍が出来て息が出来なくなってきました。 父の知り合いの東京の病院で手術をして取り切れないので放射線治療をしました。 合併症が起きて顎の上の骨に穴が開いてしまいました。 鼻と口が繋がってしまって、今でも繋がっています。 歯も無くなり入れ顎を作ってはめ込んで今も生活をしています。(中学時代から) 毎食後入れ顎を外して綺麗に掃除をして又取り付けることをしています。
中学生の時に白内障の手術をするから見にに来ないかと言われましたが、医師になれとか言われなかったです。 でも眼科がいいかなと思いました。 父は非常に優しくておとなしくてよく説明していました。 よく話を聞いて説明するという事は父親から受けついでいると思います。 慶応大学病院に務めたのは32年間です。 大学では学生セツルメント活動と馬術を選びました。 セツルメント活動は街の中に入って行って、定住して街の人と一緒にいろんなサポートをします。 慶応大学病院の反対側にある若葉町の街で、子供たちの勉強と診療所での診療(先生たちの手伝い)を毎週一回土曜日にやりました。
その流れもあり「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。 サポートするためのシステムを作って、その一つとしてこの建物もあります。 目が見えなくなってしまった方へは福祉の制度の説明したり、目の見えない人用のパソコンを教えたりして情報を入るように指導します。 東京旅行するとか、美味しいものを食べに行ったり、映画を観る(説明付き)、音楽、そういったことも行っています。 診察室の枠を踏み出してサポートする、という事をやっています。(セツルメント活動の延長) 年に2回はバス旅行をし、楽しんでもらって、いろいろな話を聞くというのは、眼科医としても非常に役に立ちます。 85歳になっても元気でやってますが、妻が副院長で同士といた感じで感謝しています。 100歳を目指して同じ活動を継続していきたい。
佐々木吉和(NPO法人 理事長) ・〔心に花を咲かせて〕 花と緑と人で地域は輝く
秋田県で活動するNPO法人「グリーンサムクラブ」はゴミだらけの海岸部の清掃から始まった活動なんだそうです。 いまでは花植えや子供キャンプなどなど様々な活動をされています。 その理事長の佐々木吉和さんは当時造園会社の社長で、そもそも社員と共に地域のために貢献するのは当然という考えから活動が始まって、いつの間にか活動が広がってきたという事です。
会社が当然、困ったこととか大きなトラブルがあった時などには、進んで助けに行ったりとか当たり前にやっているんです。 造園業をやっていますが、造園とは関係ない事でも助けに行ってしまいます。 社員が全部やるわけです。 そういった会社ならば入ろうという事で社員になった人もいます。 社会貢献活動を始めたのは1995年7月です。 300人ほど集まってゴミの除去をしましたが、一日で終わると思ったら1週間かかりました。 日本海側の秋田港から約17kmぐらいで幅が500mぐらいです。 私は40歳ぐらいからゴミ拾いを駅までの400mぐらいをやっていました。 「ご苦労さん」と声を掛けてもらうと嬉しんです。 海岸に行ったら、会社の納品書が何か所からか発見されたんです。 これはまずいと思いました。 沢山の不法投棄がありました。 綺麗にしたら不法投棄がなくなりました。
13年ぐらいやっていたら、秋田県農林事務所の林務課?の課長が私たちが主導的にやりたいと申し入れがありました。 「夕日の松原」と言う名前になり綺麗になりました。 声を掛けたら関連会社なども含めて300人ほどが集まりました。 今では800人ほどになりました。 今は活動は県の方でお金を出してくれるようになりました。
「グリーンサムクラブ」を発足させました。 「グリーンサムガーデン」もあり、公園的なものを作りました。 企業の利益とは全く関係ない活動です。 「グリーンサムガーデン」で12月23日にシェフ&主婦のコラボレーションでお祭りみたいなことをやりました。 「グリーンサムガーデン」の隣接地の水田で田植えから収穫、餅つきまでやりました。 子供たちは喜んでいました。 幼稚園の子等もやるようになりました。 2002年には沿道緑化の活動が始まりました。 有償ボランティアで行いました。 お金は私どもの方で用意します。 何もかもボランティアでと言うのは難しいです。
パークエンジェルスによる地域見守り隊。 小学生が学校に通うための安全を見守ります。 社員がやっています。 2012年にNPO法人の認可を受けました。 通常300~500人程度です。 私がご案内で来ているのは2000人ぐらいはいます。 文化交流もやるようになりました。 彫刻とか。 いろいろな活動が広がってきています。 秋田は土地が広いので、荒れた土地などは使ってほしいと言われたりもします。 活動してきてここだけは上手くいかなかったという様なことはなかったです。 無理してやらなくてもいい。 支援してくれる人たちも出てきます。 東京、福岡から来て、ワイン作りとか、こちらでやりたいことをしたいという事で定住しています。 決してあきらめないことで、自分が信じる道をやっていると、必ず助け船が出てきます。 友人、知人のお陰です。 海水浴場がありますが、今はすたれていますが、ここを何とか再生させたいです。 何年かかるかわかりませんが、来年から始めます。
頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言 アンコール〕 詩人 金子みすゞ(初回:2019/1/28)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/01/blog-post_28.htmlをご覧ください。