相澤一成(名取リーディングクラブ代表・俳優)・〔人生のみちしるべ 〕 故郷に捧げる朗読劇 初回:2017/3/13)
https://www.blogger.com/u/1/blog/post/edit/6603486548892984106/8615937970070268967をご覧ください。
相澤一成(名取リーディングクラブ代表・俳優)・〔人生のみちしるべ 〕 故郷に捧げる朗読劇 初回:2017/3/13)
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田海哲也(新潟県立海洋高校 相撲部総監督) ・横綱・大の里の原点を語る
幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世した横綱・大の里関は3場所連続の優勝がかかった去年納めの九州場所千秋楽を左肩のけがのため優勝争いをしながら休場しなければなりませんでした。 久しぶりの日本出身の大型の横綱として期待のかかる大の里関ですが、石川県出身ながら中学校、高校と相撲の強化のため新潟県で過ごしました。 新潟県立海洋高校 相撲部総監督を務める田海哲也さんと妻の悦子さんが親代わりとなり、糸魚川市の旅館を寮にして公私両面に渡って指導し、支えてきました。 田海さんは1960年新潟県糸魚川市の出身で65歳、高校から相撲を始め、能水産高校から日本体育大学に進み、奥さんの悦子さんの実家の旅館を継ぎながら、相撲の新潟県チームの監督を務め、旅館を相撲部の合宿所にして強化を図って来ました。 これまで角界に11人の人材を送り出してきました。 その中のに横綱大の里関(中村 泰輝)との出会いがありました。 田海さんにとって相撲との関りや横綱大の里関との出会い、その原点について聞きました。
安青錦との対戦で負傷した様です。 琴桜戦は力がでなかった様です。 横綱と言う地位ですが、正しい判断だったと思います。 幕下付け出しからわずか13場所で横綱迄スピード出世。 デビューの時には怪我をせずに一つ一つ積み上げていって欲しいと思っていました。 初土俵から7場所で幕内優勝、史上最速で横綱になる。 5回優勝。 優勝して大関になった時に優勝者のラッピング電車を走らせようとか、イベントもあり大変な騒ぎで私も感動しました。 高校ではキャプテンとしてしっかりまとめて、大学でも進化をして頑張り、プロにはいってもデビューから見ていても、成長、進化して堂々としていて、横綱になると責任もあり思っていた以上に制約もあると思いますが、日本中から愛される横綱になって貰えればと思います。
私は高校2年生から相撲を始めました。 野球が好きでずっと野球をやっていて相撲を薦められて両立しました。 相撲は個人競技ですが、野球をやっていたおかげで、相撲でのチームワークとかチームを纏めるとか、指導するうえで野球を生かせられました。 日本体育大学に進み学校の先生になろうと思っていました。 相撲部に入りましたが、監督からマネージャーをやるように言われました。 2年生で後輩に教えるのですがなかなか聞く耳を持たず、レギュラーからは聞いていました。 矢張り強くならないと駄目なんだと思って、3年生では準レギュラーになり4年生ではレギュラーになりました。 マネージャーからレギュラーになったのは日体大創部以来私だけです。 マネージャーの仕事は指導者になってから生かされました。
1983年に日体大を卒業、高校の教員になって相撲の指導も始める。 9年間相撲部の指導をしていました。 結婚を機に相撲から離れることにしました。 教員も辞めて妻の実家の家業を継ぐことにしていました。 カニ漁、カニの船の運営、カニ販売、旅館の経営となりました。 こちらの経験も勉強になり今に繋がっています。 2009年に新潟国体があるので協力してほしいとの要請がありました。 中学、高校の一環強化が行われました。(1年間分の時間の寸断がなくなる。) 12歳から18歳と言うと体力差、技術力等で差があるので段階枝的な指導方法を取って、これが凄く効果がありました。
レギュラーになれない子について気を使ってフォローしています。(野球からの経験) 1年間のうちで全国で3位以内に入らなかったら指導者を辞める、入ったら翌年もやると、宣言しました。 (子供たちも本気度を受けて入れてくれました。) 大の里は皆の刺激になっています。 子供たちを指導するうえでは、 正しいことを継続する。(しこを踏むのにも正しい方法でなど)
中村 泰輝君は小学校5年生の時に練習会に来ました。 6年生の時に高校の全国大会が金澤であり、一番前で見ていました。 その時に海洋高校全国優勝しました。 そして自分で決めて私のところに来ることになりました。 小学6年生で「何かを犠牲にしないと強くはなれない。」と言っていたそうです。 中学、高校、大学、二所ノ関親方のところ、全て自分で決めました。 身長体重に恵まれていて、いまは192cm、190kgぐらいで、均整がとれていて下半身にしっかり筋肉が付いている。 今後は怪我に注意をしてしっかりした体つくりをしてくれると思います。
「中学、高校の厳しい6年間があったからこそ今の自分がある。」と言っていますが有難いです。 朝6時に起きて11時に寝るまで相撲浸けでした。 強くしたいという思いもありますが、その前に人間的にも成長する段階でもあるので、しっかりと根を張って卒業すればいつかはその根っこが花を咲かせてくれるだろうというのが、私の信条でもあるかもしれない。 なんと表現していいのか、感動、幸福感が私の中にずーっと続いているんです。 教え子から幸せを与えてもらっています。 前市長が中心になって、個人ではなく街出身の力士を応援する後援会を立ち上げました。
藤井フミヤ(シンガーソングライター) ・〔深夜便アーカイブス〕 【芸の道 輝きつづけて アンコール】
藤井フミヤさんは1962年福岡県久留米市出身。 高校2年の時にチェッカーズを結成、1983年チェッカーズのリードボーカルとしてデビュー。 数々のヒット曲をだしますが、1992年に解散、翌93年ソロ活動を開始します。 以後、ミリオンセラーとなった「TRUE LOVE」「Another Orion」などが」幅広い世代から親しまれてきました。 弟の藤井尚之さんとF-BLOODとしても活動を続けています。 歌だけ出なくデザイン、プロデュースとかの方面に活動を続ける藤井フミヤさんに伺いました。
深夜便、「「手のなる方へ」 作詞:河口京吾・藤井フミヤ(共作)、作曲:河口京吾
バンドによる生演奏で、今時録音の仕方としては少なく、優しい音になっていると思います。初めてバンドを結成したのが中学1年の時でした。(文化祭用 ロックンロール、 キャロル) 高校1年の時に軽音楽部に入りました。 チェッカーズを組んだのは高校2年でした。 シャネルズの子供版と言った感じでした。 ジュニア部門グランプリを頂きました。 東京に住んでみたいという様な憧れがありました。 21歳で7人で東京に行きました。 チェックの衣装を着ることによってアイドルになったんでしょうね。
31枚シングルを出して全てトップテン入り。(10年の活動) 1992年12月31日の紅白歌合戦を最後に解散しました。 生きてゆく方向性の違いがあり「チェッカーズ」としてのまとまりがなくなって来ました。 完全にフリーとなり模索しているような感じでした。1993年から音楽活動と並行し、時代に先駆けてパソコンで制作したCG画を発表したり、 「FUMIYART(フミヤート)」名称で個展を開催したりしました。 元々美術は好きでした。 テレビドラマの主題歌を歌わないかとオファーがあって、レコーディングして『TRUE LOVE』がヒットしました。 アルバムも作ることになりました。 ツアーもやることになりソロ活動になって行きました。 曲を作って詩を書いてゆくパターンですね。 文字に対する好奇心が無いとすらすらとは書けません。(読書など) ミック・ジャガー、ポール・マッカートニーらはロック、ポップスでは地球上で一番上なので、二人がどういうふうになって行くかという事をみんな見ていると思います。 ステージをやっていないと逆に直ぐに老人になってしまうんじゃないですか。 私も58歳になりました。 健康であればいつまでも歌うんだなと思いました。
オンラインライブの手ごたえは、テレビ番組のスタジオに似ています。(お客さんがいない。) コメントをいれてもらう事によって盛り上がりました。 同じ時間を共有しているという感覚はあります。 2014年にオーケストラとの共演を行いました。 NHKで坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」をフルオーケストラで歌ったのが初めてです。 リハーサルも1,2回です。 不安しかないです。 バンドとは全然違います。
*「君が僕を想う夜」 作詞:小竹正人,作曲:遠藤慎吾 歌:藤井フミヤ (フルオーケストラをバックに歌う。)
コージー冨田(ものまね芸人) ・絶望しちゃいけない
コージー冨田さんは1967年愛知県出身。 高校卒業後、地元の自動車工場で勤務したあと上京し、物まね芸人として活動を始めます。 タモリさん、笑福亭鶴瓶さんなどの物まねで人気を博し、様々なバラエティー番組やイベントなどで活躍しています。
12月半ばに芸能生活35周年で2時間の予定でしたが、笑福亭鶴瓶師匠が来てくれて、盛り上げていただいて結局3時間になりました。 1990年に東京に出て来て35年という事になります。 『笑っていいとも!』の夏休み期間に行われた企画「真夏のそっくり当てまショー」でタモリの前でタモリの物真似を披露。(23歳) 豊田市の自動車系の工場で働いていました。 東京でショーパブで日楽しいものマネが出来る、とそれだけで来ました。
1994年ごろに糖尿病(数値が280)になってしまいました。 症状は何にもないわけです。(喉が渇く程度。) 放置しておいたら、体重が113kgあったのが、どんどん減っていきました。 (80kg) お酒もどんどん飲んでいました。 目が悪くなってきて白内障もあったので一回手術をしたら一瞬見えましたが、すぐ悪くなっていきました。 現在はレジのビニール袋を被っている感じです。 白いなかに人がいると言った感じです。 ステージではリハーサルで確認しているので把握しています。 音には集中力が強くなりました。 目が悪くなった時にはもう終わりだと思いました。 透析もやるし、安楽死ってどうやってやるんだろうかとか、考えました。
看護師さんから、インシュリンを最初に打ったとこはどうでしたかと問われて、「厭だった。」と言ったら、最近はどうですかと言われて「何とも思わない。」と言ったら、「透析も同じです。 これが普通のライフスタイルになります。」と言われました。 「透析している間は映画は見放題です。」とも言われました。 ポジティブに言ってくれて、それが救われました。 受けたり拍手を貰ったりすると、ここが自分の生きている場所だなと言う感じがしました。 去年目が見えなくなってきていることを公表しました。 ステージをやる時に目も悪かったり、腎臓が悪かったり、糖尿病で苦しんでいる人がいっぱいいるわけですが、そんな中で「絶望しちゃあいけないよ。」と講演会みたいなことをやったらどうかと言ってくれた人がいて、「せっかく病気になったのだから、それを使ってなんかできることがあるんじゃない。」と言われてなるほどと思いました。 今はステージに出るだけで嬉しい、有難いです。
若手芸人を育てるためにいろいろと指導をしています。 自分では気付かない可能性をアドバイスしてあげる。(新ネタの作り方など) 若手に言ったことがテレビなどに出て受けると、自分がやったのと同じ感じになるんです。 ショーパブで受けても、外に出ると何もできない自分に気付くんです。 お膳立てが出来ているところと、何にも知らない所でワーッと盛り上がっているところを浮かせて治めてこちらを向かせて、大変なんです。 歌を歌う前のおしゃべりが大事で、なんで歌うのかの理由付けが大事です。
家の中は慣れているので大丈夫です。 そもそも自分を出したいのであれば、物真似芸人になってはいけないですね。 僕は物真似が大好きなので、物真似を追求したいです。 武田鉄矢さんと西田敏行さんは大好きです。 今後、物真似のステージをやらせて頂ければ、それだけで、特に大きな夢という事は無いです。 これがどんなにありがたいことかと言う事が判る様で判らないんですよ。 こんな素晴らしいことがあるんだという事が病気になって判りました。
河合純一(スポーツ庁長官) ・スポーツ庁長官への挑戦
河合純一さんは静岡県生まれ。(50歳) 幼いころから目が見えずらく15歳の時に見えていた方の目も見えなくなって全盲になりました。 しかし好きだった水泳と教師になる夢は諦めませんでした。 河合さんは1992年17歳の時に開催されたバルセロナパラリンピックから、2012年のロンドンパラリンピックまで6大会連続出場、金メダル5つを含む21個のメダルを獲得し、日本初のパラリンピック殿堂入りを果たしました。 2020年からは日本パラリンピック委員会の委員長を務めて、2025年10月にスポーツ庁長官に就任しました。 夢を持つことは人生を豊かにし、前に進むための力となる、人生は学びの連続であると語る河合さんにこれまでの歩みとスポーツ庁長官への意気込みを伺いました。
11月にデフリンピックが開催されて、28万人もの方にお越しいただきました。 2020年には東京オリンピックパラリンピックがコロナ禍で1年延長して且つ無観客でやりました。 直接生で観たいという思いはあったと思います。 人こそレガシー(次の世代に受け継がれる価値あるもの、功績、遺産)だと思っています。 単なるスポーツのイベントと言うだけではなくて、生活とか生き甲斐にも寄与するようなものになってきてるのではないかと思います。
小さいころは弱視で或る程度は見えていて、身体を動かすのが好きな子でした。 5歳のころからスイミングスクールに通いだして、空手、ソフトボールなどもしていました。 中学3年の時に見えていた右目が0.1だったのが見えなくなりました。(15歳で全盲) どうする事も出来ないことは理解しながら、何故自分だけなのかなどいう事、自暴自棄はゼロではありませんでした。 恩師、家族、友人たちが見えるか見えないかではなくて、河合純一として受け止めているというのが、一番の安心感だった気がします。 小学校4年生から教師になりたいという夢は持っていました。 水泳など好きなことをやるというのは続けていました。
筑波大学附属盲学校高等部に進みました。 1学年20人ぐらいいました。 半分ぐらいは大学に行くような状況でした。 寮生活でした。 1992年バルセロナパラリンピックに高校2年生で出場、銀メダルを2枚、銅メダルを3枚獲得した。 続けてゆく事は今と当時では条件が全然違っていました。(自分で働いて遠征費を出すとか当時は普通だった。) 1996年アトランタパラリンピック(50m自由形B1、100m自由形B1で初の金メダルを2枚と銀メダルと銅メダルを1枚ずつ獲得)、2000年シドニーパラリンピック(金メダル2枚、銀メダル3枚は特に印象的でした。 金メダルが教えてくれたものは、自分の努力とか喜び以上に、支えてくれた人への感謝の気持ちなんです。 世界一になるためにはいろんな人たちの世界一のサポートであって、世界一になれんだという事に、気付かせてくれました。 シドニーは教師をしながら行かせてもらったので、子供たちに夢をという思いで向かったのは懐かしいです。みんなのためにと思うとより頑張れる気がします。
成功体験は自分の体調などいろんなものと社会的な要因とかいろいろマッチして、上手くいっていることが多いんです。 そこをうまく組み合わせてきたことが続いたという事かと思います。 6回の大会全て自分の所属が違います。 そのなかでの自分のベストを尽くすという事に歓び、面白さを感じながらやっていました。 安定はアスリートにとっては停滞なんですね。 不安定の方がチャレンジがしやすい、新たな気付き、イノベーションも生まれる。ピンチこそ絶好のチャンスなんです。 人生に無駄だったという事は何一つ無いですね。
公立の中学校の社会科の先生になりました。(生徒たちは見える。) 大学の時には教育哲学が専攻で、人ってなんで学ばなければいけないの、教育って何なのか、と言ったことを考えさせられました。 困った時の羅針盤にはなりました。 カセットに自己紹介を録音してもらい、声と座席表を組み合わせて授業をしていました。 教育は子供の成長を保証するものだと思っています。 そのための導き、情報提供の時には立ち止まらせて考えさせるきっかけを提供出来るかという事だと思います。 基本的な事としては時間を守りましょう、挨拶をしましょう、約束をしっかり守ろう、という事をよく言っていました。 あとは自発的に考えて行動して貰いと言う事を主にしていました。偶然ですが、教え子がスポーツ省にいるんです。
中学3年生の時の自分で決めるという自己選択、自己決定と言うのが凄く重要なんだという事と思っています。 決めて不合格だった時、決めた責任は自分で負うという、人生の最初の経験になるわけです。 他人転嫁するような人生を歩み始めると、その先も苦労するるんですね。 その年齢なりの結論、決定を詰み上げていかなければならない。 それが正しいか、正しくないかではなくて、その年齢のその時までに正しい自分に出来うる決定が出来るように育っていることが重要なわけです。 それが教育だと思います。 大なり小なり、人生は選択の連続だと思います。
夢と言うのは自分のキーワードになっていて、それに向かってゆくエネルギーみたいなものです。 夢は人生におけるビジョンなんです。 イメージできるビジョン。 一生懸命になれるものに出会えることに価値があるわけです。 ミラノ・コルティナオリンピックパラリンピック、アジアパラ大会とか大きな大会もあり、これをサポートしてゆく事も大きな役割ですが、昨年改正されたスポーツ基本法があって、人種、性別、年齢、障害の有無を越えてスポーツを楽しんでもらえるように、豊かな人生を歩めるようにという事を大きな理念にして、改正されているわけですが、誰もが自分らしく生きられる社会をスポーツを通じて実現してゆくという事が、私たちに課されていると思っているので、多くの皆さんと力を合わせて行かなくてはならない。
伍代夏子(歌手) ・「一枚の写真」へ託す思い
先月、今月の深夜便の歌「一枚の写真」を歌う歌手の伍代夏子さんです。 伍代さんと言えば演歌、主人公を豊かな感情表現と共に演じられる姿が印象的ですが、 「一枚の写真」では感情を抑え、誰にでもある懐かしい思い出、そして今を生きる幸せをお聞きいただくみなさんと分かちあえたら、そんな思いを込めて歌われたそうです。 歌手生命にかかわる病、大切な人たちとの別れを経験した、そしてたどり着く新たな世界。
東京都渋谷区代々木出身。 高校1年の春、歌手デビューのきっかけが欲しい一心で、街頭で名刺を配っていたスカウトマンの前を30回ほど行ったり来たりして名刺を貰いました。 1982年、「星ひろみ」として歌手デビューしました。 デビューから4ヶ月後に突然事務所が倒産しました。 レコード会社でOLとして裏方の仕事を経験しました。
*「戻り川」 作曲:市川 昭介 作詞:吉岡 治 昭和62年「伍代夏子」としての歌
「伍代夏子」としては今年40周年。
演歌は情念、恨みとか経験が無くても演じて歌うのが演歌だと思いますが、「一枚の写真」は経験が無くてもあれに似ているとか、皆さんの気持に寄り添える、ノンフィクションを作りたかった。 この曲自体が懐かしい思いを思い出させてくれるという様な事を言って頂いたりして、その時にはやったと思いました。
5年前に喉の具合が悪くなって、歌手を辞める様かなと思いながらのお医者さん捜しでした。原因が判らないんですが、開き直って行くしかないと思いました。 写真に趣味を向けて行きました。 犬を飼って世話をするのも良かったと思います。 その後保護犬活動を始めました。 譲渡先の期限があり、引き取り手が無いと処分という事になります。(廃止された地域もある。) 野犬なので人慣れしていないので、人慣れ訓練をしてから譲渡センターに移って一般の方たちとの接見があり、送り出すという一連の作業があります。 ペット災害危機管理士を取りました。 同室避難を認めてくださいと言う運動をしています。 愛を知らない保護犬の目を見てほしいと思って写真を撮りました。 人に向かって恐怖心がある。
母は認知症を患って、寝たきりになり介護も家族でしていました。 母が亡くなってから父もすぐにあっけなく逝ってしまいました。 私が慕っていた八代亜紀さんが急逝されてしまいました。 この2,3年で命の儚さを感じました。 八代さんからは怒らない事、目線が下のかたで、真似しようと思っています。 「命の砂時計」は3人を亡くした後に、命を歌いたいとディレクターと話をして、3人に胸を張って会えるように、と言う思いがありました。
「命の砂時計」 作詞:田久保真見 作曲:林 哲司 歌:伍代夏子
被災されたところへの炊き出しは夫と共に早くいくように心がけていますが、相手先の状況を鑑みて行くタイミングを測っています。 みんな親戚、みんな兄弟だと思えば助け合うのは当然だと思います。
「一枚の写真」、この歌を聞いて思い出していただいて、それは今あなたが幸せであるという事を認識する歌として、寄り添える歌として届けたいと思っていますので、そんな思いで聞いていただけると嬉しいと思います。
石原康司(神戸弘陵学園高校 女子硬式野球部監督)・女子硬式野球、日本一に
神戸弘陵学園高校は2024年の秋、企業などのクラブチーム、大学、高校の女子硬式野球部の日本一を決める第20回全日本女子硬式野球選手権大会で初めて優勝しました。 その時の試合の様子、ゼロから始めたチームつくりについて伺います。
レベルの高いチームが来ているのでまさか勝てるとは思わなかった。 3年前には準優勝したので、いつかはこのタイトルは取りたいとは思っていました。 上位28チームが出場出来ることが出来ます。 硬式では全国で女子では70校近く、大学は15,6校、社会人チーム、クラブチームでは凄く増えています。 年々増えていますが、あまり知られていないのが現状で、ワールドカップで優勝7連覇されていても、あまり知られていないです。 女子はソフトボールを主体とする子が多かったです。 本校ではできて11年目ですが、1年目は30校ぐらいでしたが、10年で倍になっています。 3年前に甲子園でやるようになってから、やる子が多くなってきました。
第20回の大会では決勝が巨人軍女子チームとの対戦でした。 巨人の清水選手などは125~130キロ投げるピッチャーなので、高校ではそんな球を投げるピッチャーはいないです。 憧れて試合をやっては駄目だと伝えました。 (大谷選手と一緒です。) 一回戦はクラブチームの埼玉の侍を下して、2回戦は阪神タイガースをタイブレークの末に下し、3回戦も勝ち、決勝が巨人でした。 必ず上がって来るだろうとは思っていました。 結果は7-0と圧勝でした。
7回に1点取れるまでは0-0でシーソーゲームでした。 初回に2ベースヒットを打たれて1アウトサードと言うところでキャッチャーが牽制球を投げてアウトにして、0点に抑えることが出来たのでそれが大きかったです。 清水選手は速いので、目を慣れさせるために、甘い球は必ず打ちなさいと指示しました。 清水さんがアウトの取り方が思うようにいかなくなったよです。 うちの伊藤は緩急で打たせて取るピッチングで0-0で6回までいきました。 ランナー1塁でショートゴロを打ってイレギュラーをして、はじいてしまってランナーは3塁まで行きました。 1,3塁になって迷わずスクイズをやり1点を取りました。 6回裏は0点に抑えて7回でピッチャーが変りました。 打ち崩すことが出来て6点を取ることが出来ました。 7回裏は攻めが淡白になって熱気が伝わって来ませんでした。 チームが一丸となることを大事にしてきました。 守りの野球をしてきました。
大阪体育大学卒業後、1984年に神戸弘陵高に赴任。男子の野球部コーチを務めた後に、93年から監督に就任。 コーチとして3回(夏1回、春2回)、監督としては春2度の甲子園大会出場を果たし、1994年には8強に導いた。 2014年、神戸弘陵学園高等学校が男子校から男女共学となり、創部された女子硬式野球部の監督に就きました。 選手の発掘から始めて、7月頃ではまだ10人いっていませんでした。 全国駆け回って31名集めました。
3,4年目でようやくやれるような状況になりました。 目標は3年で全国優勝でした。 それが実現しました。 厳しく指導したこともあり2年目で故障者が結構出てしまって、女子のコーチにトレーニング、コンディションなど任せるようにしました。 人間形成を一番に考えてやっていました。 人数が多いので野球ノートを使って伝えたり、且つ会話をしたりしました。2016年夏の選手権大会で初優勝することが出来ました。 春の選抜大会も18、19年、23年に優勝しました。 特に2022年の秋のユース大会から翌23年の春夏の全国大会で優勝し、女子高校硬式野球史上初の「年間三冠」を達成しました。
年々女子野球をやる子が増えています。