2025年7月19日土曜日

小椋聡(デザイナー)           ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

 小椋聡(デザイナー)       ・福知山線脱線事故 記憶を語り、記録を残した20年

107人が亡くなり562人がけがをしたJR福知山線の脱線事故から今年で20年、この日は遺族や負傷者、JR西日本社員などが現場を訪れ犠牲者を追悼しました。  この2005年の脱線事故で最も多くの犠牲者が出た2両目、この車両に乗っていて大けがをしたデザイナーの小椋聡さん(55歳)が、このほど事故の体験や多くの人との交流を一冊の本にまとめました。  小椋さんに記憶を語り、記録を残した20年と言うテーマでお話を伺います。

物凄い力で投げ飛ばされたとうような感じでした。  車体がメリメリ潰れて行きました。   空間をすっと潜り抜けたと言う所までは覚えているんですが、気が付いた時には右足が人の積み重なった山の下に挟まれていていました。 青い空が見えていたというのが印象的でした。  人の山の上の方に生きている方から動かないと下の人は動けませんでした。  「痛い、痛い」と言う声はずっと記憶の中に残り続けました。  自分の足が抜けたのは多分10~15分後だったと思います。  隣にいた女の人から「子供がいるので探してください。」と言われて、僕の上に乗っていた人がどきはじめて、子供を抱えている手が見えて、それを僕が受け取りましたが、たまたまそのお母さんの子供(4歳)だったんです。  泣いていましたが無傷でした。  

仰向けの状態で顔だけが見えた若い女性がいました。 「助けて下さい。」と声を掛けられました。  その上には沢山の人が乗っていました。  たどり着ける様な状態ではなかった。   「頑張って下さい。」としか言いようがなかった。  この人は助からないと思いました。   107人が亡くなりましたと言う風な数字ではなく、電車のなかで人が亡くなるという事は一体どういうことなのかと言うのを、きちんと伝える必要があるのではないかと思いました。  

1時間半ほど救助したりして、その後ワンボックスカーで近くの病院に運ばれました。   野戦病院の様な状態でした。  「歩いてください。」と言われて、歩けたので消毒して、ガーゼを貼って、もういいですと言われました。  タクシーを捜して帰ることになりました。  後日精密な検査を受けると、右の足首の部分の骨が折れている事が判りました。  数日後無くなっていたカバンが見つかったという連絡を受け、受け取りに行きました。  メディアスクラムと言うのに初めて会いました。  いろいろ話をして、それがきっかけとなり20年に渡りメディアの人と付き合うようになりました。

激突して遠心力で人が外にばらまかれた状態で、線路の上での沢山の人が亡くなりました。  事故から2か月ほど経って、遺族、怪我をした人たちが中心になり、「4.25ネットワーク」と言う会が出来ました。  (小椋さんは妻と共に参加するようになります。)  2回目の会合に参加しました。   生き残った自分たちの記憶が、本当に必要としている人たちにとって物凄く大事な情報なんじゃないかという事に気付きました。 

「4.25ネットワーク」の分科会として乗車客?を見つける活動をやりましょうと言う事で始まりました。  提供された写真から、自分の夫がそこに寝かされていたという写真を見つけました。  新聞記事から情報を拾い、メディア、JRに協力してもらって、負傷者からの情報と遺族とを繋ぐ「情報交換会」を開くことになりました。  捜していた10組の遺族の人は全員乗車車両が判りました。 2人に関してはどこに座っていたかまで判りました。   4回目の時に車椅子で来た女性の話と僕の記憶が同じで、下敷きになって「助けて」と言っていた女性だと判りました。 あの人は生きていたんだと思いました。 

事故から6年になろうとしていた2011年3月東日本大震災が起きました。  事故にとらわれていた自分がこれでいいのかと思いました。  示談と言う問題がありますが、JRとの対峙は6年目で終わらせることになりました。  事故から8年、2013年西宮市から兵庫県中部の多可町?に転居します。  多くの関係者が来て交流は続きました。  そのなかにJR西日本社員の小椋さん担当の高本克也?さんがいました。  引っ越しの手伝いをさせて欲しいと言う事で4人来てくださいました。  食器を一緒に片付けている姿を見て、この人たちは本当に加害者なのかなとふっと思いました。  

2015年4月に東京のギャラリーで絵の展覧会を行いました。  木村奈央?さんからいきなりメールが来ました。  事故の絵とかいろいろと東京の方にも見て貰いたいという事でした。  大変反響がありました。  

2024年東日本大震災で被災した只野哲也?さんとのつながりが出来ました。  震災時は小学校5年生でした。  多くの児童が命を落とした大川小学校で生き残った児童のひとりでした。  私も55歳にもなり、自分の口で事故のことを語り続けることがいつまでできるんだろうと考えるようになりました。   只野哲也?さんの記事に共感を覚えました。 

2024年秋に、東京日比谷ホールで講演会と対談を開きました。  只野?さん、脱線事故で1両目に乗っていた福田優子さん?、木村奈央?さんテーマは「私たちはどう生きるか。」でした。  語りつくせないとは思っていました。  補う意味で書籍を作るという考えがありました。  「行ってらっしゃい」と言って送り出した人を、「お帰り」と言って出迎えてあげられることは、実はとても幸せな事、「ただいま」と言って帰ってくれる人に、「私はあなたのことを大切に思っている。」と是非知らせてほしいと記しています。 

風化と言う言葉は使った事は無いです。  脱線事故でしか学び得なかったこと、教訓などは必ず残ってゆくと思います。  新たな人との出会いの中から、自分が語る大川小学校は意味があると思っています。  彼が語る脱線事故も意味があると思います。  語り継がれる中には風化はないと思っています。













































 

2025年7月18日金曜日

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱

結城美栄子(俳優・陶芸家)    ・日々土をこねる情熱 

結城さんは1843年東京生まれ。 父親の結城司郎次外交官だった関係から7歳から16歳までスウェーデン、セイロン(現スリランカ)、トルコ、イギリスなどで海外生活を送る。 バレリーナを目指してイギリスのロイヤルバレエ学校に学んだあと、俳優になるために帰国、1961年俳優座養成所第13期生として入所、卒業後はアメリカ留学を経て劇団「雲」に入団、舞台はもちろん、「肝っ玉かあさん」「女と味噌汁」などのホームドラマや「俺たちの旅」俺たちの朝 」「御宿かわせみ」などテレビドラマに出演しました。 1984年ごろから陶芸を始めて、現在は陶芸家としても活躍しています。

陶芸は動物のオブジェとか子供、人のオブジェ、仮面などを作っています。  小学1年生を日本で中退してほとんど海外でした。  毎回言葉が違うので、授業を受けてもちんぷんかんぷんでした。  昭和27,8年ごろで、当時は日本人はほとんどいなくて、いじめられたりもしました。  スウェーデンは4年生まで居ました。  英語は出来る様になりました。  悲しかったり怖い目にも会いましたが、楽しい良い経験もしました。  スウェーデンの森の中には妖精がいます。  そういったものが作品に反映しています。  イギリスのロイヤルバレエ学校には12歳で入りました。  スタイルが全然違うのでバレエは諦めて役者を目指そうと思って帰国しました。  

俳優座養成所に4年間通いました。  同期は石立鉄男さん細川俊之さん佐藤友美さんなどです。  俳優として活躍していましたが、陶芸の道にも進みました。  或る時に紙粘土で山岡さん等の全身像を作りました。  喜ばれて差し上げました。  それからどんどん作るようになりました。  紙粘土から土の粘土に変えました。  100%乾いていないうちに窯に入れるとヒビが入ったりします。  素焼きにして釉薬を付けてまた本焼きして、2,3回窯に入れます。  窯から出てくる時にはドキドキします。  

最初のころは自分の子供の2,3歳のころから思春期のころとかのものを作りました。     いろんな表情のものを作りました。   夢中で作って持って行こうとしたらドアから出られない作品もありました。  3つぐらいに切って持ち出して又くっつけるという事をしました。  動物のオブジェなどもあります。  表情と動きがあるのが特徴です。  小さい頃それぞれの国の美術館に連れて行ってもらいました。  時にイギリスではみんなで行って、自分の好きな作品を見つけてそこでランチを食べましょうと言うんです。  許可を美術館から先生が貰うんです。  私はピカソの青の時代にものが好きです。  

今の興味は生身の生きたままのリアルなお面を作るよりも、自分の感性とか、感情とかから出たものを作ってみたいと思います。  酒蔵会社からの依頼で龍をいろいろ作っています。   1m以上あるものを何体も作りました。  葉っぱに顔があるお面なども作っています。    モチーフは自然のものが多くなりました。  そこにはみんな顔があります。  役者をやっていたことがあるからかもしれません。   芥川比呂志さんのリア王の有る場面の表情は、凄かったです。  役者をやっていると身近で相手役の表情を見ることができるので、いい刺激になります。  健康の為に太極拳もやっています。  












 

2025年7月16日水曜日

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して

秋山エリカ(東京女子体育大学教授)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 最高の自分を目指して 

ボール、リボン、フープ、クラブなどを手に持って演技して芸術性を競う新体操。  女子の個人総合が1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用されました。  その最初のオリンピックでの日本代表のひとりであり、続く1988年のソウル大会にも出場、新しい華麗なスポーツとして注目を浴びた新体操の女王、日本のエースとして活躍したのが秋山エリカさんでした。 

新体操はボール、リボン、フープ、クラブそしてジュニアにはロープと言う種目もあります。  手具と言います。  日本では新体操と言いますが、ヨーロッパでは芸術体操という事もあります。  音楽と合わせてそれを表現するという事、それに手具が備わるという事でいろいろな面で芸術に近づけなければいけないというのが新体操だと思います。  13m✕13mの四角いフロアーのなかで個人では1分30秒、団体では2分30秒のなかで表現します。  一番重要なのが音楽の持っている性質をどのように表現するかという事と、自分の内面からでる感情表現、この二つが重要です。  

私は高校1年生から始めました。  いまの学生たちは幼稚園、小学生からスタートしている人が多いです。  1964年福岡に生まれました。  小さいころは病弱な子でした。   家は美容室で親が美容師でした。  小学校に入る直前に、自転車の後ろに乗っていて左足を車輪に挟んでしまって左足を骨折してしまいました。  治ったのですが歩き方がおかしくて母がクラシックバレエを習わしました。  身体も強くなりました。 小中、9年間クラシックバレエをやりました。  高校に入ったら新体操部があり、入る事になりました。  運動音痴だったので1か月ぐらいで辞めようと思いましたが、それも言えずにずるずるとやっていました。  試合にも出ましたが失敗ばかりしていました。 あだ名がミス秋山でした。 高校最後の試合だけはミスをしないようにと必死で練習をしました。  フープを投げましたが、遠くに飛んで私の手には戻って来ませんでした。  

或る日突然一生に一度でいいからノンミスの試合をしたいと思いました。  東京女子体育大学を選びました。  部員は130名以上いました。  オリンピック強化選手、国体チャンピオンなどが軒並みいました。  1984年のロサンゼルス大会からオリンピックの種目に採用される事になりました。  その前年に入学しました。  クラシックバレエをやっていたおかげで選手に選考されました。  基本から教えてもらって、初めて新体操が面白いと思いました。  1983年の大学選手権で優勝しました。 全日本選手権では3位になりました。ミスをしないようにという思いだけで試合をやっていました。  世界選手権の予選に出ることが出来て、山崎さんの次の2位になりました。  フランスの世界選手権に出場して、日本人の最高順位で山崎さんよりも上になりました。  オリンピックの切符が掛かっていることを知りませんでした。   怪我をしたこととミスをしたことには、如何に自分にとってありがたかったのか、今でも感謝しかないです。

1984年のロサンゼルス大会は19歳の時でした。  萎縮をしてしまって自分らしい演技は出来ませんでした。  山崎さんが引退して、新体操の女王と言われましたが、自分の中ではこれでいいのかという思いでした。  (1984年から1989年まで全日本選手権で6連覇を達成する。)  厳しい練習条件の中でブラジルの選手の思い切り楽しく演技している場面を見て自分で衝撃を感じました。  自分の持っている力を全部発揮するとか、は全員に与えられたチャンスなんだと気付きました。  そこから自分の考え方が変わりました。  自分にできることは何だろうと考えた時に、自分の演技をパーフェクトにやることだと思いました。  それまでは新体操は孤独なスポーツだと思っていました。  みんなのお陰でここに立てると思うようになりました。 

日本人であることをきちんと表現したいと思いました。  それまでは背が低い、足が短いとコンプレックスを持っていましたが。  オリジナルにこだわるようになりました。 現役引退が1990年です。  海外でのコーチ研修などを経て、後進の指導にあたっています。   選手が何をしたいのか、どこに向かいたいのか、 どんな演技者になりたいのか、どんな人になりたいのかという事が一番重要だと思います。    そこに向かってどういう風に計画してゆくのかという事を伝えられればいいと思います。   何度も失敗をして修正してを繰り返しながら精度をあげてゆく。 「パーフェクトを目指しなさい。 ミスは許される。」といつも言っています。   78名部員がいますが、全員をスターにしようと思っています。    それぞれに凄くいい特徴を持っています。  自分を深くよく知るという事、それを表現に結び付けることが大変重要と思います。  いつも選手は心が揺れてしまいますが、本当のやりたいことはパーフェクトにやりたい、そこだけを見つめて進むという意志の強さと言うものを選手に伝えたいと思います。 





















2025年7月15日火曜日

青木辰司(東洋大学名誉教授)       ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

青木辰司(東洋大学名誉教授)     ・熊本豪雨から5年~映画作りで被災地に寄り添う

 令和2年7月豪雨では熊本県南部を流れる球磨川の氾濫で熊本県の人吉球磨地方は大きな被害を受けました。   この災害から立ち上がろうとする人たちの苦悩を、人吉市出身の俳優中原丈雄さんの主演で描いた映画「囁きの河」が完成し、各地で上映されています。  この作品のエグゼクティブプロデューサーを務めたのは日本のグリーンツーリズムのけん引役東洋大学名誉教授の青木辰司さんです。  20年を越える人吉球磨地方とのふれあいで積み上げてきたものが、災害からの復興を応援するエネルギーになりました。 

映画「囁きの河」、映画の舞台は熊本県の人吉球磨地方です。 日本3大急流の一つ球磨川は令和2年7月豪雨で氾濫、多くの人命が奪われ住民は住宅や店舗、施設、道路、鉄道など生活の基盤を失いました。  この映画は今もなお水害の爪痕で苦しむ人吉球磨地方で復興への道を必死に歩み続ける人々の生きざまを描いた作品です。 主人公は一度故郷を捨てた船頭を演じる地元人吉市出身の中原丈雄さん他に清水美砂さん、三浦浩一さんほか。  自然災害の恐ろしさ、親子の関係、地域の人たちとの人間関係を含め、復興への道は厳しく平坦ではありません。  監督脚本は元NHKプロデューサーの大木一史さんが担当しました。 

熊本県人吉市、熊本市で先行上映しましたが、想定外の入りでした。  これから全国興行します。  グリーンツーリズム、ヨーロッパでは農村でのツーリズムを言われていた。    1980年代から自然を生かした農業、自然を生かした景観、文化、とかトータルで言うとグリーンな文化、グリーンなライフスタイル、グリーンな食とか、意図的にグリーンをルーラルツーリズムの中に意味付けしてきたのが、グリーンツーリズムのヨーロッパの始まりでした。  

日本でも、もう一度農村を活性化するという意味でグリーンツーリズムをまずは東北の皆さんに呼び掛けました。  何よりも農家の女性の反応が鈍かったです。  副収入、女性の直接的な収入に繋げていきたかった。  岩手県の遠野で研修会をやりました。  70人ぐらい集まり盛り上がりました。  東北6県を回りました。  九州でも声がかかり全国的に展開しようという事で、NPOを立ち上げ第一回の大会を2004年に熊本県の水俣でやりました。    人吉でもグリーンツーリズムを立ち上げたいという事で繋がることになりました。  人吉は絶好の場所だと思いました。  2004年から84回の付き合いになりました。  他の市町村も一緒にやろうという事で全市町村にグリーンツーリズム研究会を立ち上げてもらいました。  広域連携型グリーンツーリズムと言うのは日本では人吉しかないです。  実は水害の時にもこれが大きな力になりました。   球磨川の一市、二か村が集中的にやられました。(人吉市、山江村、球磨村)  上流の人たちが支援しました。  グリーンツーリズムで培った絆ですね。  今も凄いです。  

調査によってその地域を変えてゆく、実践型社会調査をずっとやってきました。  地元の人たちは東洋大学の学生たちに感謝してくれました。  学生と祭の再生の企画を行いました。 都会にない農村の価値に学生が気付いた時にいいところだという事が初めて判る。  何が一番外から来た人たちの思いが、地元の人たちに取って感謝になるか、考えましょうと、これは復興支援にも言える事です。  本当に地元の人たちに取って有難い支援になっているかどうか、こういったことがグリーンツーリズムの基本の理念になります。  

「かわがあふれた!まちが沈んだ日 生きる力をくれたキジ馬くん」(人吉球磨の水害をテーマにした絵本)  キジ馬は子供の成長を願う人吉の郷土玩具。  700~800kgのキジ馬くんが置いてあったが、水害の時にさらわれた。  八代海に浮かんでいることが判り、生還した。  是非このことを絵本にしてほしいと頼まれて、絵本作家に相談して描いていただきました。  この絵本がきっかけとなり、映画製作に繋がって行きました。

文明の発達と水害は表裏一体であるという認識を深めないといけない。  我々の身の廻りにある自然、地球の変化と言うものに疎くなっている我々が、災害被害をどうやったら最小化できるか、と言うテーマがあるなと思いました。  我々が自然とどう向き合い、自然をどいう風に保全してゆくか、と言うテーマを是非この映画を通して、考えていただく或る意味防災の教材でもあるし、環境保全のテーマでもありうる。  フィールドワークも地元に還元するものでなければいけないと思います。  私がお返しとしてできたのかなあと思うのは、人を繋ぐという事だと思います。  
































2025年7月14日月曜日

大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

 大川栄策(歌手)             ・〔師匠を語る〕 作曲家・古賀政男を語る

大川栄作さんは昭和を代表する作曲家古賀政男さんの最後の内弟子でした。  今も古賀メロディーとして歌い継がれる名曲の数々を残した師匠古賀政男さんについて伺いました。

古賀政男さんは明治37年福岡県大川市で、8人兄弟の6番目として生まれました。 5歳で父を亡くし、母と姉、弟と一緒に一番上の兄のいた朝鮮半島に渡ります。  4番目の兄からマンドリンが届いたのは13歳の時、このころから音楽家への道を志す様になりました。 大正12年日本に帰国し、明治大学予科に入学した古賀さんは仲間と共にマンドリンクラブを創設、卒業後はプロの作曲家として歩み始め、20代の若さで「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」などヒット曲を世に送り出しました。  

その後も「東京ラプソディー」「人生の並木道」「誰か故郷を思わざる」「目ン無い千鳥」「湯の街エレジー」「無法松の一生」「東京五輪音頭」など戦中戦後の歌謡史に残る名曲の数々を生み出しました。  1959年には日本作曲家協会の初代会長として日本レコード大賞を創設、6年後「柔」で自身のレコード大賞を受賞します。  又作曲活動の傍ら、音楽親善大使として世界各地を回り、1974年には広島平和音楽祭を開催、音楽で平和を訴えた古賀政男さん最後のレコードは第4回の広島平和音楽祭に当たって、島倉千代子さんのために作曲した「広島の母」でした。  古賀政男さんは古賀メロディーとして、今も歌い継がれる数々の名曲を残し、1978年(昭和53年)73年の生涯を閉じました。  国民栄誉賞が贈られました。

村田英雄さんがデビューしたのが昭和33年で、小学校3年生でしたがその歌を聴いて感動しました。  「無法松に一生」をしょっちゅう歌っていました。  古賀先生とは同郷で、昭和39年に父に連れだって古賀先生とお会いすることが出来、歌いました。  上京するように言われました。(高校1年生 卒業後に上京。)   古賀・・歌謡学院という音楽学校の初等科に入りました。  「古賀音会」と言うところには20人ぐらいがいましたが、その中に入れていただきました。  1年半ぐらいしてから内弟子生活に入りました。  「歌は声のお芝居だから、ストーリーと言うものがあるので、それにふさわしい表現の仕方をしてゆくんだよ。」と言われました。 

庭木の手入れ、車を洗ったりとかもしていました。  レッスンはたまにありました。  弟子入り2年後にデビューしました。  1969年「目ン無い千鳥」でレコードデビュー。  一時期放送禁止になりました。 (目の不自由な方に関する歌)  30年ぐらい歌わせてもらえなかったです。  大ヒットしました。  「筑後川エレジー」はその次でした。  デビュー当時は古賀先生から衣装を譲ってもらいました。  1978年に先生は旅立ちました。  晩年は病気がちですた。  訃報は僕が肝臓で退院したら電話がかかってきて、それが知らせでした。(7月25日)  亡くなる1週間前に、僕の入院先の枕もとに先生からの花が届きました。   4年後「さざんかの宿」で大ヒットする。 (180万枚)  歌手生活30年という事で、1998年「筑紫竜平」のペンネームで作曲しています。  作曲の難しさを身にしみて感じています。  

先生は「歌は水ものだ。」とおしゃいます。  「みずみずしさが一番大事で、詩に対しても声に対しても、日本人の感性、感じる気持ちをいつも大事にしろ。」とおっしゃいます。 「感動する気持ちをいつも再現できるのがプロだ。」という事が一番大事かと思います。

古賀先生への手紙

「・・・16歳の末、九州から上京し、・・・歌いたい,教わりたい。心の底から湧き出る気持ちを判って呉れる人にやっと出会えたという興奮を今でも昨日ことのように覚えています。  先生の存命中の20歳から10年間、歌手としての表現、技術を学びました。  なにより感銘を受けたのは音楽と向き合う師の姿こそが、古賀メロディーの創作の神髄であり、歌唱表現の手法なのではないでしょうか。 ・・・明日の英気を、活力を或るエネルギーに変えて、人々の心を慰め続けた古賀メロディー、華やかな音楽様式に裏打ちされ、人々の心に沁みわたるメロディーを、その時代の空気感に添えて、そのしなやかな感性でヒット曲を生み出し、大衆歌謡の父と言われた称号に弟子の一人として心から誇りに思います。 一方私人としての生活は一言でいえば、孤独との闘いの日々だったと思います。 「影を慕いて」のヒット曲の始まり、最晩年のヒット曲「悲しい酒」で幕を降ろしますが、二曲共に魂の叫びともいえる叶わぬ思いをスローワルツの甘美なリズムに乗せて、満たされぬ寂寥感とわが身の不幸を嘆く一人の人間像、その姿こそ人間古賀政男の日常に重なります。・・・物心つかぬ頃に父と死別し、8人の子供を抱えて苦労した母を偲んでの涙だったのではないかと思います。 ・・・母への愛をこめて紡ぎ出すメロディーが古賀メロディーの本質と思います。・・・戦前戦中戦後の多くの人々の心を慰め、寄り添い生きる勇気を与えた功績は計り知れません。・・・」















2025年7月13日日曜日

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作

南こうせつ(シンガーソングライター)   ・歌は自然との共作 

南こうせつさんは1949年大分県出身76歳。  1970年にソロ歌手としてデビューし、その直後にかぐや姫を結成、「神田川」「赤ちょうちん」「いもうと」などのヒット曲を発表、グループ解散後もソロ歌手として活動を続け、今年デビュー55周年を迎えています。 40年以上故郷大分県の国東半島にある杵築市の大自然のなかで暮らし、その環境を生かしながらシンガーソングライターとしての活動を続けています。  深夜便の歌の「愛こそすべて」の制作に込めた思いや、現在暮らしている故郷大分県での自然に囲まれた生活などについて伺いました。

デビュー55周年を迎えました。  来援3月までツアーがあります。  76歳ですが、1970年代、「神田川」がヒットしましたが、ほとんどの方が還暦を越えてゆくんです。 その方たちがお客さんで来ていただいています。  改めて聞くとこういう意味だったのかと、不思議な感じがすると、味わいが違ってくるというようなことを聞いています。  人生を深く味わいながらもありかなとコンサートを進めています。  「神田川」の歌との出会いが私の人生だったですね。  「神田川」喜多條忠さんからぎりぎりで出来たという電話があって、メモをして、2番を書きながら何となくメロディーが浮かんできました。 (喜多條忠さんが、早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした。) 電話を切って3分後にはもう曲が完成していた。 

今回のツアーのテーマとしては55年間の自分と言うものをステージで再現してみようという事です。  ひょっとしたらこの町で歌えるのは最後かもしれないと思うと、切ない気持ちにもなります。  

深夜便の歌「愛こそすべて」、テーマとしては二つあって、今迄歌って来た人生を歌うか、夏の時期なので夏を歌うか、迷いました。  結果的には夏を歌う事にしましたが、いろいろな体験、誰かさんを好きになった思い出などを歌にしようと思いました。  

*「愛こそすべて」 作詞:渡辺なつみ  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

出会い、別れ、縁と言うのはちょっとしたことで変わってゆくんですね。  あの人はどうしているんだろうというのはどなたにもあると思います。  青春時代の思い出を思い出してもらえればいいと思います。  幸せを感じると思います。  

大分で暮らして43年になります。   波の音からメッセージを感ずることがあります。   新しい町の歌を作って欲しいという要望があり、「おかえり」の歌があり、この町にぴったりだと思いました。  星野先生の詩が素敵だと思いました(50年前に書いた詩)

*「おかえりの唄」  作詞:星野哲郎 作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ

喉が続く限り自分の気持ちを歌っていきたい。  歌っている瞬間をお客さんと共有したいです。  

*「神田川」  作詞:喜多條忠  作曲:南こうせつ 歌:南こうせつ



 









2025年7月12日土曜日

眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

 眞貝理香(東京大学森林風致計画学研究室) ・ミツバチが教えてくれたこと

パンに塗ったりヨーグルトに掛けたりと食卓に欠かせない蜂蜜はケーキをはじめ洋菓子や料理にも広く使われてい居ます。  そんな蜂蜜を集めてくれるのは蜜蜂です。  蜜蜂には西洋から入ってきた西洋蜜蜂と在来種の日本蜜蜂がいますが、現在スーパーなどに並ぶ蜂蜜のほとんどは西洋蜜蜂の蜂蜜です。  一方近年趣味としての日本蜜蜂の養蜂がブームになっているという事です。 眞貝さんは和歌山県古座川町を中心に日本蜜蜂による伝統養蜂を調査研究し、情報を共有しようと日本蜜蜂養蜂文化ライブラリーと言うホームページで、その成果を発信しています。 

蜜蜂の群れには女王バチがいて働きバチは全員メスです。  オスは生殖の時働いて後は亡くなる。  働きバチの寿命は1か月ぐらいです。  女王バチは2年~4年とか状況によって違いがあります。  女王バチと働きバチのDNAは全く同じなんです。  王台という特別な部屋に産み付けられると、働きバチはこれは女王様になるハチだという事で、特別なエサを与えます。 (一生涯)  そのエサはロイヤルゼリーと言います。 働きバチが1か月生きると言いましたが、蜜を取る期間は最後の1週間ぐらいなんです。 その前は巣の掃除をしたり幼虫の世話をしたりします。  働きバチは1週間でスプーン1杯ぐらいの蜂蜜を取って来る。  花蜜を取ってきて、口移しで花蜜を渡して20%ぐらいの水分量に濃縮します。 口には酵素を持っているので成分が変ります、それが蜂蜜になります。  蜂蜜は餌でもあり越冬用の餌でもあります。  蜂蜜は常温保存が出来ます。  糖度が高くて微生物が繁殖できないので腐らない。  結晶するかどうかは蜂蜜の種類によります。   ブドウ糖が多い蜂蜜は結晶化しやすい。 

日本人の蜜蜂との関りは海外とは違うのではないかと思いました。  環境と食と蜜蜂のことを研究してみようと思いました。  主に日本蜜蜂の研究をしていて、和歌山県古座川町を中心に行っています。  熊野地域は養蜂の歴史が古くて江戸時代から特産でした。 祖母が古座川町の故郷です。  丸太を空洞にして巣箱を作っている家庭が多いです。  

日本蜜蜂は東洋蜜蜂の一亜種という事です。  1590年代朝鮮半島との文禄の役の時に熊野の或る人物が朝鮮半島から熊野に持ち帰って、広まったと言われています。 巣箱で飼うようになったのは江戸時代からです。  北海道と沖縄以外には居ます。  西洋蜜蜂が日本に入って来たのは明治10年と言われます。  アメリカから輸入しています。  採蜜量が日本蜜蜂に比べて数倍から10倍と言われています。  女王バチを人工的に育成することが出来ますから、群れを増やしたり分けたりすることが出来ます。  日本蜜蜂は非常に難しい。 西洋蜜蜂は日本蜜蜂よりも一回り大きいです。(12~14mm)  西洋蜜蜂は半径2~3km、日本蜜蜂では1~2kmの範囲になります。  西洋蜜蜂の方が働きバチの数も多くて2~4万匹ぐらいで、日本蜜蜂は数千~1万匹ぐらいです。   蜜蜂の輸入が93%で国産は少ない。  輸入の66%は中国からです。  日本蜜蜂は自家消費とかが多くて正確な量はわかっていません。  

西洋蜜蜂は飼い方が標準化されていて、スワップ式巣箱が使われています。  日本蜜蜂は中が空洞で自由に巣をつくるようなものです。  西洋蜜蜂は咲く花を追って移動が出来るが、日本蜜蜂の場合はそれが難しい。  珍しい蜂蜜5種類持参。  柿の蜂蜜、そばの蜂蜜、いろんな花が混じった蜂蜜、日本蜜蜂の古座川町の2種類。 (1種類は2回越冬させた蜂蜜熟成度が高い)  

昭和60年と令和2年の花の量の比較でレンゲ草では16%になってしまっている。  みかんでは24%ぐらい、アカシアで50%ぐらい、主要な蜜源が減っている。  暑いことも蜜蜂にとっては大変。  昆虫全体が減ってきている。  昆虫の総数が1年に2,5%ぐらい減ってしまっている。  農薬、都市化(緑が少なくなる。)、気候変動などいろいろな問題がある。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が減ってゆくと人間にとって大問題となる。  受粉に関わる昆虫(送紛者)が日本のもたらしている利益(経済価値)を推定した値は2013年では約4700億円で、3300億円分は野生の送紛者による。  生物多様性が大事。

ドイツのバイエルン州では蜜蜂を守るための条例を2019年に作りました。