2026年3月20日金曜日

岡部たかし(俳優)             ・「おもしろがって、生きていく」

岡部たかし(俳優)           ・「おもしろがって、生きていく」 

岡部孝さんは、和歌山県出身の53歳、現在放送中のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」でヒロインの父親松野司之介を演じています。長い下積み時代を経て手にした演じる楽しさについて伺いました。

ヒロインのトキの父親役、松野司之介は、松江藩の上級士でしたが、江戸から明治に時代が変わると、収入がなくなって、貧しい生活になり、家族のために頑張ろうとしたら、借金をしてしまうと言う訳です。 司之介の要素は、自分の中にもあります。 司之介と言うのは、武士の世と明治の間で立ち尽くしている人と言う表現ですが。台本に忠実にと言う思いでやってきました。 脚本家が一生懸命書いたものを変えると言うのはちょっと違うのかなと思いました

高校卒業後、一般企業に就職してから24歳で俳優を目指すことになりました。  その間立ち尽くす時期はありました。 漠然と俳優になりたいと言うような事は口にしていましたが、行動には至っていませんでした。 背中を押されて東京に行って劇団に入ることになりました。 標準語もなかなかしゃべれず、自分とは乖離したものをやってるような感じでした。 自分らしさが全くなかったです。 九十九 一(つくもはじめ)さんという大阪の芸人であり、俳優でもある人とお付き合いをするようになりました。 

その後村松 利史(むらまつ としふみ)さんて言う人に出会って、僕は自分のことをとにかく全部正直にネタにすると言う、離婚したこと、女の子と遊んだようなことをネタにするようなことでやってました。 どうやったら、自分の売りになると言うことを考えるようになりました。  ある日、突然自分の中に何かが通ったものがありました。  九十九さんとは20年以上の付き合いになります。

2022年49歳の時にNHKの「あなたのブツが、ここに」と言うドラマに出ました。なぜかコロナが始まってから仕事が入るようになりました。 同じ年の10月からは、民放の「エルピス」と言うドラマで、テレビ局のパラハラ上司を演じました。第60回ギャラクシー賞を受賞しました 。 

35、 6歳の頃に他力でやってきた僕が、面白いと思っているショー劇場のオーディションを受けまくりました。 環境を変えたかったんですね。 自主公演などもやりました。 知名度がどうのこうのと言うのは諦めました。 或る種覚悟が決まって、そんな形でやっていたらテレビでブレイクするようになりました。 趣味はお酒とヨガです。 ヨガは10何年もやってます。 最近思うのは、体が動くうちに体を動かせる演技というか、仕事やりたいなと思います。 「ばけばけ」では、家族の絆が深まっていって、本当の家族っぽくなってきてますし、どういう結末を迎えるのか見守ってほしいと思います。

2026年3月19日木曜日

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

 車椅子に自転車のようにペダルが付いています。 足こぎ車椅子、30年以上前に東北大学の医学部と工学部が、病気や障害により歩くことが困難となった人でも、人間に備わるある機能を使えば自由に移動できる、そんな研究を進めていました。  その研究に共感し、足こぎ車椅子の実用化を進めてきたのが、元小学校教師の鈴木堅之さん。 自分らしさをあきらめないと言う開発者の思いを受け継ぎ、活動を続ける鈴木さんに伺いました。

東北大学医学部の半田康延先生と言う方と、工学部が連携して開発したペダルのついた車椅子と言う変わった車椅子です。 ペダルからタイヤのほうにチェインが伸びていて、駆動が伝わって動き出します。 手元にハンドルがあって引っ張ったり押すことによって方向が変わるようになっています。 足が動かないと思われていた方たちが、自分の足を使って再び自分の体を動かす可能性があると言う、そういった車椅子になります。 脳梗塞の方、パーキンソン症の方たちとかが使っていただいています。 

自分の体が動かせるかもしれないと感じた途端、心が向きになって今まで閉じこもっていたところから1歩出れると言う、そこが足こぎ車椅子の特徴かもしれません。 内科的疾患でも外科的疾患でも、足が思うように動かなくなると言う症状がありますが、そういった方たちでも足こぎ車椅子に乗った場合、不思議と1歩踏み込めて、自分の足が動けるぞ、と体験していただけるわけです。 ある小児癌のお子さんがいました。 自分に自由に動けない状態でした。 そのお子さんに足こぎ車椅子を乗っていただきました。 乗った瞬間すっと動けるんです。 兄弟仲良く楽しそうに遊んでいる姿を見て、お母さんが喜んでました。  そのお子さんは亡くなってしまいましたけれども、最後の瞬間まで楽しんでいる様子をお母さんは見て、悩んでいるお母さんには、是非知ってほしいということで広めてくださっています。

人間の本能は、原始的な歩行反射を持っていて、人間が持っている本能です。   足こぎ車椅子はその原始的な歩行反射を、出しやすい角度と姿勢を作っている原始歩行を導き出す装置なんです。 麻痺しているはずの足からも自ら筋肉を動かすと言う波形ができて出ています。 足こぎ車椅子で最初に現れるのが、左右のバランスが整ってくると言うことです。 足は第二の心臓と言われる位、全身に血液を送るわけです。 脳も正常な人と同じようなレベルまで血流を上げることができます。医療機関ではリハビリとか緩和ケア病棟、認知症の方たち向けにも使われています。

足こぎ車椅子を偶然テレビで見ました。 小学校の教師をしていましたが、その足こぎ車椅子を使ってもらいたい子がいました。  私は足こぎ車椅子を世の中に出したいと言う思いだけで、先生のベンチャー企業設立に参加しました。  私は営業を担当しました。 最初はほとんど断られてしまいました。 ベンチャー企業は倒産してしまいました。 欠点がいろいろあったので、半田先生とともにさらに改良を進めることになりました。 足こぎ車椅子を作ることの企業を立ちあげしました。(2008年) 重さ80キロ、価格300万円でしたが、それを軽くて価格の安いものを作ろうと思っていました。

最後にたどり着いたのは、テニスの国枝選手が使っている車椅子を作る会社でした。 図面を書いて、実際にものが出来上がって、大学のリハビリ室まで持ってきてもらえました。 軽くて片手でモテてデザインもかっこよかったです。 その企業の社長は漕げるわけはないだろうと、大学の研究なんて世の中にの役に立たないんだよっていうのを言いたかったらしいです。 でも感動しました。本気にさせることができました。 

動かすことによって本人が喜び、スタッフも喜ぶ、それを見たご家族の方も喜ぶ 今まで負担だった大人が精神的にも身体的にも24時間介護するんだと頑張っていたご家族の方もほっとするわけです。 そんな中、東日本大震災が発生しました。  会社が東北大学の中にありましたけれども、半壊状態になってしまいました。  足こぎ車椅子を世の中に出すと言うのは難しいかなぁと感じました。 実用化して2年の時でした。 避難所では、ご高齢の方の体が動かなくなってくる、もともと動きがなかった方はさらに動けなくなる。 そういう現象がたくさん起きてきました。 足こぎ車椅子を使っていただければそうならないんじゃないかなぁと思いました。避難所をいろいろ回りました。 

足こぎ車椅子は生活の中に溶け込んで、さらにまた周りの方たちにも何か変化を起こしていく不思議なものだなぁと感じていました。 能登半島大地震の時にも足こぎ車椅子を使っている方がいらっしゃいました。半田康延先生は2023年に77歳で他界されました。 半田先生は後半は自分が足こぎ車椅子のユーザでした。    ご自身が生活の中で足こぎ車椅子を使っていました。 リハビリの中に限らず、生活の中で使う、それこそがそのまま身体の機能を維持したり、向上したりすることにつながると先生はおっしゃっていました。 買い物、旅行、リハビリ、それぞれのところで、足こぎ車椅子はちゃんと使える、それを半田先生自身が見せてくださいました。 SNSで取り上げてくれるようになりました。



2026年3月18日水曜日

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督、元NHK高校野球解説者)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」 

まもなく甲子園では選抜高校野球大会が始まります。 城島さんは昭和31年生まれ。 東京6大学野球の早慶戦に憧れて慶応に進み、大学卒業後は社会人野球の川崎製鉄千葉の選手、監督として活躍しました。 その後2002年から2005年まで慶応義塾大学の監督を務め、2004年の秋のリーグ戦では、母校を6シーズンぶりの優勝に導いています。 そして2006年から2016年までの11年間、NHKの高校野球解説者として甲子園球場から球児を見守りながら、優しくときには熱く解説をしました。   今年の1月に誕生日を迎えて70歳になります。

横浜の生まれですが、子供の頃は遊び場には苦労しませんでした。 野球もどきを夢中でやってました。 中学ではサードには憧れましたが、先生の指示でキャッチャーをやることになりました。 昭和49年に大学に入学しました。 法政大学には江川投手などがいて、やられっぱなしでした。 ボールが見えない投手は江川投手だけでした。 福島監督はとても厳しい方でしたけれども、人を一人の人間として見てくれた監督でした。 さり気ないやさしさのある監督でした。

昭和53年に川崎製鉄千葉に入社して、その3年目に創部25年目で都市対抗に初出場しました。 昭和61年は春先からなかなか勝てませんでしたが、都市対抗に駒を進めることが出来ました。  監督プレイヤーとしてやってました。 時間がなくて時間の使い方をいろいろ覚えていきました。 2002年から慶応の監督になりました。当時早稲田は最強のチームと言われてました。 1番から6番まではその後プロに入ってます。 ピッチャーも好投手が何人もいました。この時まで早稲田に対しては10連敗していました。

野球っていうのは確率のゲームだと思ってまして、セオリーが大事ですけれども、でもセオリーと言うのは落とし穴があります。 我々のような力のないチームは、そこに付け入れるチャンスがあるわけです。 奇襲は奇襲の理屈が十分にあると思います。 逆に言えば、奇襲はセオリーにはならないわけです。 6シーズンぶりの優勝になりました。

鬼嶋さんは2006年から2016年までの11年間NHKの高校野球解説者として甲子園球場から解説をしていただきました。 東京6大学野球の早慶戦の解説も17年間お願いしました。これからは解決者としての話を伺っていきます。

高校野球の解説は楽しいです。  プレーに心の模様が現れます。 選手の心の模様を感じながら話さなければいけないんじゃないかなと思います。 心に残る試合としては、2010年沖縄の興南高校が春夏優勝した時、2012年大阪桐蔭が春夏優勝した時解説をしました。 沖縄の興南高校は地元の選手で固めた手作り感のチームです。日大三高との春の決勝戦でも、日大三高にリードされるんですが、じわじわと最後にひっくり返す、そういう粘り強さを持った印象的なチームでした。 

大阪桐蔭は、沖縄とは対照的に非常に力のあるチームでした。 春の選抜のときには、大阪桐蔭は1回戦で大谷翔平選手のいる花巻東と試合をしますが、9対2で大阪桐蔭が勝ちますけれども、藤波くんから大谷選手はホームランを打っています。  この試合も本当に楽しい試合でした。  基本的なプレイにも忠実で相手にプレッシャーをかけました。 日々の練習の成果だと思います。連覇をするチームと言うのは勝負にこだわりますね。チーム全体が集中します。

勝つことを目的にすべきだと思います。 勝ちに行くことによって、選手同士の協調性とか知恵も培われます。 負けたチームに対しては、よくやったとねぎらいの言葉を言う。 負けた選手に対して悔しいだろう、辛いだろう、だけどこれから頑張れよと言う。 そういう意味合いを込めて、激励の言葉を必ず指導者はかけます。勝ちに行く事は勝利至上主義ではないとは思います。 負けることにも1つの大きな意義があると思います。 痛みを知ることであり、人の痛みを知ることにもなるわけです。 1年生菊池雄星くんが出てきて、菊池雄星くんの腕を振る速さにはびっくりしました。  

野球は楽しいんだと言うことをがベースにあると思います。 勝利を目指して全力で戦って欲しい。 その中で負けることも多いわけです。 負けた時どう対応するか負けて知る事は許すということ。 野球と言うのは、運不運が作用する。 不運の時にそれをどのように飲み込めるか。 許す、寛容さを身に付けていかなければいけないんじゃないかと思います。



2026年3月17日火曜日

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」 

浜野さんは1948年徳島県で生まれ、静岡県静岡市で育ちます。  高校卒業と同時に映画監督を目指し上京、ピンク映画の制作会社で助監督として働き始めます。 23歳の時に監督としてデビュー、その後300本以上のピンク映画を監督。  1984年「株式会社旦々舎」を設立、監督とプロデュースの両方を兼ねるようになります。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」で、一般映画の監督としてデビューし、国内外で高い評価を得ました。 2000年日本インデペンデント映画祭で「林あまり賞」受賞。 同年第4回女性文化賞受賞しました。 今年3月浜野さんの7作目の一般映画「金子文子 何が私をこさせたか」を公開します。 この映画は、1920年代、国家や社会のあり方に対して強く批判的な姿勢を持っていた朝鮮の若い活動家朴烈(パクヨル)と、日本人の同志で、恋人の金子文子が逮捕、投獄された朴烈(パクヨル)事件を題材にしてます。 金子文子は自身の信念を最後まで貫き通し、獄中で亡くなりました。 その生き方を克明に描いた作品です。浜野佐知さんの話を伺いました。

「金子文子 何が私をこうさせたか」と言う映画の監督をしました。 私は金子文子と言う、100年前の時代に自分を曲げずに貫き通した生きた女性に惹かれました。それまではピンク映画の制作監督を300本ぐらいやってます。 1998年頃に獄中手記を読みました。 裏表紙に「・・・東京に行く。お前は私に何を与えてくれるのかそして私は17である。」と言う一文がありました。 私も映画の監督なりたいと思って東京に行こうと思って、家出同然に東京を目指したのが、やはり17歳でした。  文子はものすごく悲惨な育ち方をして、戸籍もなく学校にも行けず、親にも親類にも日本と言う国家にもういじめ抜かれて生きてきた文子がいるわけです。

絶望の泥の中を這いずり回って掴んだ思想で、その思想が無政府主義と移っていくわけです。 その彼女の思想が本当に素晴らしいと思ったし、私は17歳で上京しましたけれども、監督になれるのは大卒男子でないとなれない、と言う大きな壁にぶち当たったわけです。 女にはなれない職業があると言うことに怒りを感じまた。その怒りが文子の怒りとドッキングしたというか、文子に強烈にひかれたのが最初です。 

精神的なものだけでなく、肉体的にもダメージを受けてます。 冬の深夜0度以下のところで木に吊るされたとか、9歳から16歳7年間ですが、よく生き抜いたと言うほどのことがありました。 そこから始まった人生は、自分を阻害したもの、認めなかったものに対する大人、社会、肉新、あらゆるものに対する復讐だったと思います。その復讐が生きるエネルギーになったと思います。 

ほとんど書き物が残されてなくて、獄中で書いた九首の短歌から中のストーリーを作り上げました。 自分が拘束されて生きると言う事は、ただ息をしてるだけじゃなくて、自分の意志で行動して初めて生きる、と言うことだと言うことを文子は言ってます。 自由に生きると言う文子のたったひとつのためには、今の自分を殺さなければいけないんじゃないかと言う矛盾してますが、転向声明さえ書けば外に出られる可能性はあるけれども、転向声明を書く、謝ると言う事は、彼女にとって思想をもぎ取られるものと一緒なんですね。 

未来の自分を生かすためには、今の自分を殺さなければならないと言う結論に達したんだろうなと思います。 小さな雀に自分の未来を託して、大空に飛ばせていくという、満足して未来を見て文子は死んでいったと思います。 今の人たちに「自分の頭で考えろ。」と言うメッセージを託したかったんです。 どんなことでも1分1秒でも無駄にしないで全身全霊で生きるという人なんですね。 字が書けなかった人がある時から字を学び、文章を書き思想的なことも理解できるようになるまでほんと短期間でした。  文子にとって学ぶと言う事は経験なんです。体験なんです。叩かれて叩かれて、炎のような人だったんだと思います。

私の父親が映画が好きで、毎週土曜日になると映画館に連れてってくれました。 私は10歳の時に突然父親が亡くなりました。 父親は41歳、母親は36歳の時でした。 弟が7歳で母親は全く働いたことがなかった。 母親はすごく苦労して私たちを育ててくれたと思います。 お金がなくて映画館には行けませんでしたが、ある時おじさんが映画館に連れて行ってくれることになって、そこが映写室でした。  毎日毎日映写室に通って、映画のことをいろいろ教えてくれました。

高校生になってアルバイトをして、自分でも映画を見に行けるようになりました。調べてみたら、当時女性の映画監督は1人もいませんでした。 私が監督になって等身大の日本の女性を描こうと思いました。 東京に出て行ってみましたが、周りが大卒の男子でないと監督になれないと言うことで、ピンク映画の世界に飛び込みました。  映画監督になる勉強しながらやってきました。 

1971年23歳で映画監督になりました。この業界にしか私が映画監督になれないならば、女の視点で性を撮る、女のセックスを女の手に取り戻そうと言うことをライフワークにしました。 女の欲望が主体と言うピンク映画を撮り続けてきました。女優さんの協力がありました。 同性であったので、安心感があったと思います。フィルムからデジタル化することによって徒弟制度が崩れて、手軽に撮れる様になったので、女性映画監督が増えていきました。 

1997年の東京国際女性映画祭にて、日本の長編劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代の6本であると言う発言があり、その時私はピンク映画を200本ぐらい撮っていました。 私はいないのと同じだと思いました。 金子文子と一緒だと感じました。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」と言う映画を撮りました。 私が撮ってきた女性たちはみんな100年前ですが、私が映画にするまではそれまであまり知られていませんでした。でも世界でも知られるようになると言うことが映画はいいなあと思います。  彼女たちの生き方を今の女性たちに見てもらいたい。 

大逆事件を朴烈、文子事件とよく言われますが、やはりそういうものであって、金子文子と言う一人の人間、一人の女性を描きたかったと言うところから始まりました。  何が私を突き動かしているかと言うと、やはり自尊心じゃないかなぁと思います。 自分は守る、自分以外には誰も守ってくれない。 絶対に私は私を裏切らない、私は私自身を生きると言う大きな生きてきたテーマだったと思います。  ですからピンク映画もずっとやり抜いてこられたし、今もこうして映画監督でいられることだと思います。 人が生きていく上で、自分を認めてあげられないと言うことが1番悲しいことだと思います。 「金子文子 何が私をこさせたか」と言うのが私の集大成です。 人との関係性を平等に戻す。 誰かのために生きると言うのは、愛じゃないからと言いたいです。 愛と言うのは自分のために生きてこそ生まれるもので、相手に対する愛も。

2026年3月15日日曜日

山内惠介(歌手)              ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

 山内惠(歌手)          ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

山内惠介さんは、1983年福岡県糸島市の出身。 高校1年生の時作曲家水森英夫さんに見出され、高校3年生だった2001年「僕はエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビュー、2015年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在まで10回連続で出場。 2025年には第67回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。  演歌の貴公子と呼ばれ、ラブソングから硬派な歌まで親しまれています。  山内さんに「午前4時」に込めた思いや、節目の年デビュー25年を迎えた気持ちなどを伺います。

深夜便の歌「午前4時」を作っていただきました。 「午前4時」っていうのはほっとする作品です。  詩を書いていただいたのが、直木賞作家の桜木紫乃先生です。「午前4時」と言う題名の割には、「午前4時」という言葉が入ってないのでお伝えしたところ、入れていただきました。 演歌に関してはこぶしをつけるということですけれども、この歌に関してはあまり必要のない作品です。 ですから極力意識して抜いています。 自分が歌うことで緑の草原、ふるさとの風景みたいものがファーっと浮かぶことができれば、伝わってるって言う証拠なんだと思います。 ステージで歌っててわかる時もあれば、わからない時もあります。 「午前4時」と言うこの作品は難しい歌ですね。 さらっと歌うと言うのが1番難しいです。

高校生でデビューして伸び悩んだ時期もあり、辞めたいと言うものがありましたが、辞めたい時期は俺がやめろと言うから、と先生から言われました。     先生とはほぼ30年近い付き合いになりますが、いまだに何かがあったら先生からいろんな言葉をいただいています。 「生きるという事は地獄道なんだ。」と先生から言われました。 ステージ、コンサートは、僕の発散させる場所でもあるわけです。 それは歌い手の醍醐味かなと思います。  

コロナ禍のときにはこの先どうなっていくんだろうなと思いましたが、助けてくれたのはフアンの方ですね。 オンラインライブなどをやってます。 出会いは広がりました。 紅白歌合戦には2015年から10年連続で出さしていただきました。2025年は止まってしまったと言うのは、僕にとってはちょっと落ち込んでしまいました。自分がもっと穏やかになりたいと言うのが課題ですね。 短気なんですよ。喜怒哀楽を表現するので、自分で自分の空気の入れ替えをできるようにならないといけないと思ってます。

僕は曹洞宗で25分のCDがあって、それを楽屋で聞いています。(法話)     30周年に向かっては若さとは違う、自分の武器みたいなものを持っていたいです。  渋さとか味わいのあることを歌っていたい。 

*「この世は祭り」 作詞:松井五郎 作曲:村松崇継            最初この曲のタイトルは「明鏡止水」でしたが、「この世は祭り」と言うふうに変わりました。