2026年1月16日金曜日

むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

 むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

千葉県の写真家むらいさちさんは明るく淡いパステル調の作風が特徴です。 陸上だけではなく水中で風景や生き物を撮影する方です。  写真なのにどこかメルヘンチックで絵画のような作風は“ゆるふわ”と呼ばれて、展覧会には毎回多くのファンが訪れます。 去年は念願だった南極での撮影を実現して、今年夏には大規模な写真展を控えています。 むらいさんに“ゆるふわ”写真の魅力や自分のスタイルを確立する迄の歩み、撮影に込める思いなどを伺いました。

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、カメラマンになりました。 手元には写真集があります。 全体的にふわっとした感じです。 “ゆるふわ”は自然と定着した感じです。   シャッターを押す時って、心が感動した時なんですね。  綺麗なもの、明るいものを見た時に心が反応します。  試行錯誤する中で作品が出来上がって来ました。  海のなかは明るい青が基調になっています。  見せたいところだけにピントを合わせて、あとはふわっとぼかすようにすると自分の思いも伝えやすいです。  ストロボを使っているので変に影が出ないような撮り方をしています。(黒が好きじゃあないんです。)  絵と思われるような写真を撮っています。  

かき氷とシロップの写真もカラフルです。  下が黒いテーブルですが、鏡みたいに反射してうえがリアルで下が非現実の世界と言う風に対比させることによって、ファンタジーな感じが出せます。  2025年は色々なところで展示会をやらせていただきました。  12月に新宿で南極での写真を展示して、ペンギンに沢山の人が喜んでもらえました。  

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、27歳の時にダイビングの雑誌社に入る事になりました。 水中写真はそこから勉強を始めました。  モノクロで撮っていました。   自由に撮りたいという思いがあって独立しました。  当時はリアルに、瞬間を写す、きっちり写す感じでしたが、違う路線で戦おうと思いました。 陸上ではふわっとした写真を撮り始めていたので、水中に取り込めないかなと思いました。  試行錯誤を重ねれいるうちにデジタル化になって、何枚も撮れるようになって個性が出せるようになりました。 ふわっとした明るい写真を撮るようになりました。  普通に撮ってくれと言う依頼と、ふわっとしたものとが半々になって来て、自分は“ゆるふわ”だけで行こうという時期があり、そちらに舵を振りました。 (40歳ぐらい)  

今や認められて、明るくふわっと撮る人も凄く増えてきました。  世界中の南の方、東南アジア、ハワイ、インド洋とかで海辺が多いです。  カメラを持つとカメラの目になるんで、身の回りのものも撮ったりもします。  日常でもいろいろ刺激があるので楽しいと思います。

子供のころから南極に憧れていました。  「南極物語」の霞の中からタロウとジロウが走ってくるシーンが今でも鮮明に覚えています。  50歳になって今ならいけると思って、行くことになりました。(2年ほどの準備期間)  アルゼンチンの一番南の街から南極へクルーズ船が出ています。 その街まで飛行機で2回乗り継いで2日かけて行き、そこから船で南極にいきました。  20日間のクルーズ船でいろいろな島を回りながら南極まで行きました。 南極ではクリオネにも出会いました。  

サウスジョージア島では一面ペンギンだらけでした。(衝撃を受ける。)  数頭のペンギンが居て、一番前のペンギンが海へ飛び込む瞬間の写真は一番思い入れがあります。  クルーズ船内でのフォトコンテストがあって、この写真を出したら1位になってしまいました。   僕の“ゆるふわ”写真をみてジャパニーズスタイルという名前を付けてくれて本当にうれしいです。  僕の目標は写真で人を幸せにすることなので、この写真を撮たらだれかが笑顔になってくれるのではないかという思いが根底にあって、今一番熱いのが水中写真です。  そこを追求していきたいと言う思いがあります。 水中は毎回環境が変わるので飽きないです。 































2026年1月15日木曜日

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER 

徳本さんは50歳、鳥取市で110ヘクタール(東京ドーム24個分)の大規模な面積で米作りを行っています。  田植えを行わず、水を張った田に直接種を蒔く灌水直播や水を張らない田に、種を蒔く乾田直播、ドローンの活用など革新的な技術で低コストの米作りを成功させ、SNSで動画配信しています。 徳本さんは消防士、タレントのマネージャ―、歌手、ITベンチャー役員など遍歴し、2012年に故郷鳥取にUターンして、農業を始めました。

米の出来は全体的には悪くなかったんですが、後半で直接種の物が取れなくなってしまいました。  鳥が田んぼに蒔いた種を食べていくんです。  対策はしてきたんですが、想定していなかったようなことが起きてしまいました。  灌水直播の為の専用の機械はあります。 ドローンで種を蒔くアプローチもしています。  7割が灌水直播で3割が田直播です。 2019年から始めましたが、最初は田植えをしていました。  直蒔きには切り替えたいとは思っていました。  直蒔きの試験は繰り返していました。  倒伏しづらくて収量が多い品種を選ぶようにしています。 「虹のきらめき」、「しきゆたか」など。 「コシヒカリ」などは茎が細くて上に伸びる品種なので倒れやすいです。 110ヘクタールを2人で管理することになりました。 農地は全て借りています。 地権者は約200人です。 出荷先はJAと民間、半々ぐらいです。  

鳥取のJAは生産費払いと言う形で農家さんから米を引き取るというやり方に変えました。 (経費プラス儲け)  鳥取では1ヘクタール未満の耕作者は84%です。  面積が小さくなるほど生産原価は高くなる。  60kgで2万2000円です。  うちでは生産原価は60kgで1万円はきってくるぐらいにきています。  

ドローンで種を蒔く以外に肥料を撒いたり農薬を散布したりしています。 ドローンに衛星のデータを読み込ませて、地力マップ、稲の生育状況などをドローンに読みこませるという様な技術が進んできていて、葉っぱの緑が濃いほど肥料が効いていて、薄いとチッソが不足しているので、濃淡に合わせてドローンが勝手に調整してくれるんです。(必要な場所に必要なだけ肥料を撒く)  10~15%肥料代の節約になります。 トラクターの自動運転システムを使っています。  SNSで動画配信しています。  見る人は農業経営者が一番多いです。 

今年で7年目になります。  消防士を5年間やって、歌手になりたい夢があって東京に来ました。  オーディションをけてそこそこ行きますが、デビューまではたどり着けなかった。 芸能マネージャーをやって、それがデヴィ夫人でした。   海外にもいろんなところへ連れて行って貰えました。 いろいろの人と会う事によって、自分はいかに狭い世界で生きてきたのか、という事を学びました。 日本は本当に恵まれ国だという事も判り、挑戦しないと駄目だと思いました。  又音楽の道に入って行きました。  路上ライブもしましたし、いろいろ売り込みもしました。  いかにして足を止めてもらうかを考えました。 デビューは結果的には出来ませんでした。  結婚することになったので稼がないといけないと思いました。

IT産業で働きたいと思って、六本木の飲む場所でバイトをしながら経営者と仲良くなっていき、ある会社に参画しました。  営業からスタートして、成績がどんどん良くなっていきました。(ストリートライブなどで鍛えたことが幸い。)  最後には取締役になりました。   収入が何十倍にもなり一時家にも帰らずに毎日飲み歩いていました。  二人目の子が出来て、家事もいろいろやって調理の材料がいまいちだと感じて、鳥取の原風景を思い出して、人間の幸せとはああいう事なのではないかと思いました。 子供たちにそういった豊かさを味わってやりたいと思いました。  リーマンショックで会社も非常に大きな打撃も受けました。  これからは農業が重要になるのではないかと思いました。  

農業をやるなら最初から事業でやりたいと思いました。  有機農業は流通の全体の0,4%ぐらいです。   これを10%にしようと、これを大規模化を掲げてスタートしました。   最初はジャガイモなどの野菜の大規模化を始めました。  信じられないぐらいの失敗の連続でした。(3年続く 地域の信頼もなくす。)   全国の優秀な農家さんを渡り歩きました。得たものは農業は科学、と経営だというキーワードでした。   土壌分析をして土作りも科学的視点を持って、野菜に関しても科学的視点から見つめ直して、段々畠の様子が変わって来ました。   収穫量が変って来て、有機農産物も軌道に乗りました。  適時適作、その土地ににあった作物を選ばないと農業は成長していかない。  鳥取のエリアはほとんどが水田です。  水はけが悪い。 野菜の一番の天敵は湿害です。  米作りにシフトしていかなければいけないと思いました。 

2019年に米作りに転換しました。 最初は7ヘクタールからスタートしました。 失敗もありますが野菜より楽で、失敗も投資だと思います。  これからは大規模農業経営が求められて来ます。  リスクが有るが新しい生産性の高い技術を試しながら、水田技術も変化していかなければならない。   田んぼは信頼性がないと貸して頂けないので、野菜で失敗して大変でしたが、地域の方はちゃんと見てくれていると思います。  生産性の高い米作りをやってゆく必要があると思います。  2030年には1000ヘクタールを30人程度を考えています。  水路の管理が大変です。  土砂が溜まったり、イノシシなどが増えて畔を崩して水路が埋まったりします。  田んぼのインフラの維持をどうするかという事が非常に大きな問題としてあります。  少ないマンパワーでも維持できる方向にしていかなければならない。  3枚の田んぼを1枚にまとめ畔を少なくするとか、水路ではパイプラインで地下に埋めるとか、インフラをリフォームしていかないとコメの生産基盤の維持が難しくなっている。

農業は本当に素晴らしい仕事だと思うようになって来て、自分で作詞、作曲をして「I AM A FARMER」という曲を4年前に作りました。

*「I AM A FARMER」  詞、作曲、歌:徳本修一












2026年1月14日水曜日

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

 今年秋から放送開始予定の連続テレビ小説「ブラッサム」のヒロインのモデルが山口県岩国市出身の作家宇野千代さんです。 1897年生まれで、明治、大正、昭和、平成と98年に渡る生涯を波乱万丈に生き抜いた宇野千代、作家デビューは大正10年、芥川龍之介や菊池寛といった近代日本文学を築いた文豪と重なる時代です。 大ヒット小説で映画化もされた「おはん」を始め、85歳の時に書いた「生きてゆく私」は100万部のベストセラーになりました。  作家だけではなくファッション雑誌の編集やモデルに着物デザイナーとしても活躍しました。  そんな宇野千代の大ファンと言うのが、小説家の綿矢りさんです。  1984年京都府生まれの綿矢さんは、高校2年生で小説家デビュー、大学生で書いた「蹴りたい背中」は第130回芥川賞受賞を史上最年少で受賞、現在にいたるまで精力的に執筆活動を続けています。  宇野千代の生い立ち、考え方、宇野千代を取り巻く男性たちをテーマに話が弾みました。

宇野千代さんが書いている小説やエッセーに共感したというのもありますが、生き方見たいなものが、元気が出る生き方をされていて、若いときよりも歳を取ってきた頃の方が、どんどん明るくなっていって、入院などもあるが強調して書かず、125歳まで生きるというような不滅みたいな精神が好きです。 若い頃は借金、作った会社が倒産、離婚したりいろいろありましたが、テレビに出始めた頃から楽観的にさらに楽しくなっていかれたので、凄いな強いなと思います。  

父親は俊次と言う名前で作り酒屋の次男でお金はいっぱいあった。 放蕩、自由奔放ですさまじいタイプです。  母親のトモさんは2歳ぐらいで亡くなる。  後妻を貰うが若いリュウさんと言う人です。 その間に4男1女が出来て、その長女になる。 背中に弟、妹を背負って生きて来た。 雪の降る日に裸足で行かされたり、虐待のエピソードも残っている。     父親のことを恨むようなことは書いていない。  継母も優しい人だったようで、明るく成長したと思います。  

17歳で小学校の代用教員になるが、若い男性教師と恋に陥る。 免職処分となり相手の男性とも破局。 その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。    北海道に渡り、書いた懸賞短編小説『脂粉の顔』が一等になる。 尾崎士郎が二等。 受賞のために東京に行くが、尾崎士郎と恋に落ち、北海道には帰らなかった。 1923年(大正12年)5月、尾崎士郎と結婚。 1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。  東郷青児に取材に行くが惚れてしまい、その日から結婚生活が始まる。  着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。 人と話す時が一番おちゃらけた様な感じで、エッセイはもう少し真面目で、小説は暗いと言っていいほどの内容になっている。  3層も4層もある方だと思います。

「向こうが追いかけるのが嫌だと思うと、私は追いかけるのを辞めるの。 未練もあるし、追いかけたくても、それが恋愛の武士道やな」とインタビューで語っている。 

北原武夫さん、新聞記者だった北原さんは後に作家になる。 宇野千代が42歳の時に、10歳差で結婚して『スタイル』を創刊。 67歳の時に別れる。 『刺す』は北原さんとの時代のことを書いた小説です。  借金、倒産の苦労話も書いているが、一番の苦労は不倫をされていたという存在に気付きながらも、全然注意できなかったという事で、そのつらさを忘れるためのに新しい雑誌を作ったりするが売れなくて窮地に陥ってゆく。 不倫相手の写真を偶然見つけてしまう。(この部分の表現が面白い。 朗読する。)

「男性的なものを汲み取るという事は、私たちの様に物を書く人間には必要なんす。 ・・・付き合った人からいろんなものを吸い取る。  東郷青児からは色と形の配分、北原武夫からはフランス文学とはどういうものかという事を勉強しました。 ・・・でたらめな女のようにご覧になるでしょうが、ちゃんとでたらめではない自分の好きな、好きだと思う事でなければしなかったんですね。」  或るインタビューから。

1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。

「・・・幸福のかけらはいくつでもある。 ただそれを見つけ出すことが上手な人と下手な人がある。  幸福とは人が生きてゆく力のもとだと私は思っている。 ・・・幸福も不幸もひょっとしたらその人自身が作るものではないか。 そして人の心にたちまち伝染するものではないのか。 自分にも他人にも幸福だけを伝染させて、生きて行こうと私は思う。幸福はたちまち伝染して次の幸福を生む、自然に生む。 これは誰でも自分の気持ちを自然に考えると思いあたることである。」












2026年1月13日火曜日

松枝崇弘(久留米絣工房 七代目)       ・着物の魅力を伝えたい ③

松枝崇弘(久留米絣工房 七代目・日本工芸会正会員) ・着物の魅力を伝えたい ③ 

松枝さんは1995年福岡県生まれ。 子供のころは工房が遊び場で、染めも織りも手伝いをしてましたが、大学卒業後は県外の企業に就職しました。  2020年父親の病気をきっかけに、故郷に戻り久留米絣に本格的に取り組むことになりました。 久留米絣は福岡県筑後地方に伝わる藍染めの綿織物です。 江戸時代後期に始まり、糸をくくり藍で染めたくくり糸を用いることで、模様を織り出していきます。 デザインを決めるところから、織って乾燥させるまで、およそ40の工程があり、ほとんどの工房で一貫して製作しています。 今回は福岡県久留米市にある松枝さんの工房にお邪魔して、40工程の中から藍染、絵糸書き,管巻き、手織りを実演して頂きました。 

染をやっています。 叩いて糸束全体を膨らませて染が均一になるようにします。  次に染めます。 又叩きます。 この作業を40から50回します。  薄いかめから行います。(均一に染める為)  1つのかめに400から500リッター入っています。 液体の元は木の灰に熱湯をかけてうわずみだけを取ったアク(アルカリ性の液体)に徳島産のすくも藍の葉を発酵、熟成させた染料)を入れて発酵させます。 藍がめの世話が色を綺麗に出すコツがあります。 発酵の状態を如何に管理できるか。  日本酒、水あめ、貝灰(貝を焼いた粉)などでアルカリ分の調整をします。 叩く時の力加減は音で記憶しています。 

すすぎ、藍をたてる時の水は全部地下水を使います。 しっかりすすぐことが大事になってきます。(色褪せしない。)  絵糸、(糸のキャンバスのようなものです。)を作っている作業。 絵糸自体も作る作業があります。   絵台?を用途に合わせて使っています。 30~6本の糸を一本の管に巻き取っていく工程があります。 巻いた管の糸を機織りにします。  2本人組になっていてを交互に上下させることで糸を間に挟んできます。  踏み替えを足でやっています。 7歳の頃の織り機をいじったことがあります。 

縦糸には模様が入っていて、そこにくくられた横糸が入ることで模様に深みがでます。 まずデザインして絵糸と言われるものに写して、糸の本数などを計算して、仕込みをして、糸をくくることでそこが白く残ります。 糸を染めて織って行きます。 日本三大絣の一つと言われています。(伊予絣、備後絣、久留米絣) 久留米絣の中でも模様の小さなものから大きなものまで分かれています。 

(工程などがよくわからないので多少違っているところがあるかもしれません。)

最終的には家業を継ぐから自由にしていいと父から言われて大学に行き、就職をして3年間務めてていました。  コロナ禍であったので、父と病室からビデオ通話でいろいろ指示して貰ったり判らないことを教えてもらいました。  不安はありました。  4か月間ぐらいの間にいろいろ教えてもらいました。  父が亡くなって母と共にやってきました。 2023年7月に豪雨災害で土砂が工房に入りました。(半壊 藍かめも泥が入る。 織り機も水没)    市とかから専門家、 友人知人が延べ100人以上来てくれました。  そういったかたがたのサポートで今ここまで来ました。   かめは4mぐらいの深さがあり、水をどんどん入れて反対側では掻きだして、中を綺麗に洗浄しました。  古い道具では150年近くのものもありましたが、綺麗に洗浄して使っています。  最初の2か月で工房の中の清掃は終わりました。  道具の入れ替えなどもあり6か月かかりました。  色々勉強させられた6か月間でした。 

地元の小学生3年生には藍染、6年生にはデザインから手織りまで教えています。 未来塾という未来のリーダー育成の授業がありますが、見学と体験を受け入れました。(中学生)   久留米市ではうち一軒になってしまっています。  他の市ではまだ残っています。           久留米絣は国の重要無形文化財に指定されています。 保存会があります。 光の表現をずっと追い求めてきていて、久留米絣は藍地に白の輝く絣で、その特徴を生かして自分なりの光を追い求めていきたい。  8年の研修を終えると重要無形文化財の技術保持者会の会員になります。  今研修生は僕一人になっています。 会員は30代ではいま3,4人がいます。 妻は子供たちが保育園に行っている間は手伝ってくれています。 

日本に限らず久留米絣を世界中に発信していけたらいいなあと思っています。  本当にいいものを作って行かないと、着る人、買って下さる方に思いが届かないと思うので、いいものを作り続けることが一番大事だと思います。  藍の美しさを如何に引き出すかという事もポイントかと思います。  日々の藍の管理、染の作業、藍にの力を目いっぱい引き出せるように、やって行くことが大事かと思います。  手仕事、天然の藍にこだわってやっていくことを大事にしています。






2026年1月12日月曜日

ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

 ふじいあきら(マジシャン)         ・〔師匠を語る〕 Mr.マリックを語る

トランプが口の中から滝のように出てくるマジックでおなじみのふじいあきらさん、全国的に名前が知られるよいうになる前は、マジック第一人者 Mr.マリックさんのアシスタントを務めていました。  Mr.マリックさんとふぃじいあきらさん、どんな関係だったんでしぃうか。

Mr.マリックさんのアシスタントを4年ちょっと務めていました。 裏方とかばん持ち的な事をしていました。 

Mr.マリックさんの本名は松尾 昭さん。 1949年岐阜市で3人兄弟の長男として生まれました。  中学時代手品の魅力に目覚めたMr.マリックさんさんは、高校生になると休みのたびに名古屋のデパートに通い、手品の実演販売を食い入る様に観て、商品の種類や使い方を覚えました。  高校卒業後一旦は就職しましたが半年で退社、昼はマジックショップで実演販売、夜はキャバレーのマジックショーに出て腕を磨きます。 

昭和41年21歳で手品の全国大会に出場、その場で世界的なマジシャンチャーリー・ミラーさんに見出されて、ハワイで開催された世界大会に出場し、見事日本人初のチャンピオンに輝きます。 しかし別の会場で行われていた豪華絢爛なマジックショーを目の当たりにして、スケールの違いにショックを受け、上京して独学で修業、1988年テレビ番組ではじめて披露したのが反響を呼んだのをきっかけに、民放のゴールデンタイムに次々とスペシャル番組が組まれていきます。 「来てます」、「ハンドパワー」の決めセリフと共にMr.マリックの超魔術は社会現象を巻き起こしました。 70代の後半に入ります。 テレビで有名になって40年近く、今もなお第一人者としてマジック界を牽引しているMr.マリックさんです。 

1989年のゴールデンタイムのスペシャル番組で、それを見た時に自分の知っているものは一つも出てこないんです。 衝撃でした。 21歳の時上京し、プログラマーとして会社に勤務しました。(子供のころからやっていたマジックからは離れる。)  入社2年目ぐらいの89年の番組を見て、マジックの事がよみがえって、本屋で専門書を買って一晩で読み切りました。  著者に会いに行き、いろいろと教わりました。  Dr.ZUMAと言う兄弟子と3年ぐらいのお付き合いがあり、 Mr.マリックさんと出会うことができました。   Mr.マリックさんと或るBS番組に出ることになりました。  接するにつけ凄い人だなと思いました。 

マジックの仕事がいろいろありましたが、全部断って事務所で働かせてもらうように交渉しました。   その後Mr.マリックさんのアシスタントとして活動するようになりました。(30歳)  当時の芸名は「元神」でした。  「人生と言うのは思い出作りだと、 いい思い出も悪い思い出も思い出には変わりはない。 玉入れのようなもので、思い出を作るかごがあってそこに皆玉を入れているはずなんだ。  最後に自分の仕事が終わって隠居した時に、みんなで話題を話しする時に、かごに入った玉を数えるわけだが、最後まで玉がある人が勝ちなんだ。」と言ったんです。  だから辛くても頑張らなくてはいけないと思いました。 後「褒められるところにいってはいけない。」と言われました。 (修行の時点で褒められるところにいては駄目。) 「チャンスが有ったら手を抜くな。」とも言われました。 (その時に一番いいと思われるものをやり切る。)  「マジックで飯を食うんじゃないんだよ。 マジックをするために飯を食うんだよ。」と言われました。 (マジックをするために稼ぐ。 マジックが中心)

2001年に事務所を辞めました。(仕事量が半端ではなく1か月ぐらいほとんど寝ないよう激務になっていた。)  辞めることに対してマリック言えなかった。  しばらくしてら Mr.マリックさんから急に番組のオファーがあり、吃驚しました。  番組の前に Mr.マリックさんとの挨拶をしようと思ったが挨拶なく、ぶっつけの本番となってしまいました。  対決マジックと言う内容でした。   Mr.マリックさんと同じ番組に出るというのは目標でした。   事務所を辞めるにあたっては不義理もあったので、和解出来ました。  時々番組には呼んででいただいたりします。  

 Mr.マリックさんへの手紙

「・・・できればマリックさんにこの番組を聞いて欲しくないなあという事でした。もう何年も経ってしまったのに一方的な気持ちを伝えるのは少し抵抗があるからです。 ・・・ Mr.マリックさんを認識した社会人2年目から36年経ちました。 そしてあの日間違いなく僕の人生は変わりました。 ・・・今でも本当に感謝しています。・・・ お世話になった時にショービジネスのパイオニアとして未開のマジック界を切り開いてゆく姿を見せていただいたことは、今でも僕の財産です。 ・・・何とかマジシャンとしてやっていけるようになりました。 お世話になっていたのに突然いなくなるような不義理をしてしまったのは今でも後悔しています。・・・天才 Mr.マリックから受け継いだ金言は今でも僕のマジックに対するプライドを作っています。  最後に一つだけお願いしたいのはそろそろ夢で僕にプレッシャーをかけるのを辞めてください。」 (涙をぬぐいながら読んでいただきました。)















2026年1月11日日曜日

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる

大嶌徹(玉川大学学術研究所講師)      ・歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる  ~なつかしの60年代クラシック・ロック~

音楽には私たちの暮らしを豊かにする力があります。  「歴史・文化を学べばもっと音楽が楽しくなる」と題して、音楽をより楽しむためのヒントをお伝えします。 大島さんの専門はポピュラー音楽研究です。 

私は日本の近現代音楽史に関心を持っていたので、大衆、民衆のための音楽の歴史をたどるという事をライフワークにしています。  音楽鑑賞はどういう風に形成されてきたのか、という事を掘り下げて研究しています。  音楽鑑賞の重要なポイントになったのは、レコードの普及があります。  大正から昭和初期にかけて、音楽産業に再編が起きます。 この時に洋楽のレコードが広まっていきます。  大学生層を中心にレコードで音楽を聴いて、音楽評論を読んで音楽鑑賞を趣味にする人たちが沢山あらわれます。  

音楽評論家の先がけとしては野村胡堂と言う人です。 (銭形平次捕物控』の作者として知られる。) レコード会社と音楽評論家との相互関係はこの時期に始まります。  戦後になるとLP(アルバム版)とEP(ドーナツ版 シングル版)が出来上がる。 「レコード芸術」「スイングジャアーナル」はLP版の鑑賞ようのものでクラシックとジャズを真面目に鑑賞したいという人向けの雑誌でした。  戦後にはクラシックだけではなくジャズ、ロック、南米の音楽などにも広がっていきます。インターネットの時代になって、音楽の語り方、場所など、大きく変わりました。 音楽雑誌は大きく影響を受けています。  

私の音楽の原点は1960年代のロックです。 (最近ではクラシックロックとい言われる。) ビートルズなどの音楽に夢中になって行きました。  

*「抱きしめたい」  ビートルズ 1963年発表。

世界的な名声を得る突破口になった曲。  イギリスの若者のバンドブームに火を付けた。  ロックの出発点になった。  アメリカなどの若い女性のアイドルだった。 日本での公演は1966年 日本武道館が会場。  日本でもグループサウンズが沢山出来る。  同時期にフォークが流行る。 ボブ・ディランなど。 フォークソング(民謡)は古い歌だけではなく、公民権運動、ベトナム反戦などの運動とつながって、古い歌を作り替えながら、現代にメッセージを届けて行こうという運動が60年代に凄く盛り上がりを見せます。  

1965,6年にロックとフォークはまじりあってゆく。  フォークソングの集会でわざわざボブ・ディランがエレキギターをもって、ロックバンドを引き連れて演奏を弾き始め、情勢が変わって来る。  政治的な運動とロックが結びついてゆく。 フォークの運動は衰退してゆく。 

*「ミスター・タンブリン・マン」 ボブ・ディランが作詞・作曲 1965年に発表した楽曲。歌:ザ・バーズ  ロックとフォークのミックスした曲

従来のようにメッセージを発して、政治変革を促そうというような運動から、既存の価値観に基づかない生き方をする、ドロップアウト、自分たちで新しいライフスタイルを提示していこうみたいな、動きが出始める。(ヒッピーとか)  

立川市で、「懐かしの60年代クラシックロック」講座を開きました。  参加者は70代が中心でした。  アナログレコードを持って行って鑑賞しました。  雑誌とかが重要な資料になります。  その時代の日本の熱狂的なファンが何でこの音楽をどういう文脈で楽しんでいたのかと言ったことが見えて来て、聞き手だけではなく、レコード会社の戦略とか含めて、総合的に捉えなおしてみたいというのが音楽研究者の関心でもあります。

60年代の後半はクラシックロックの本丸と言えます。  音楽が激変する。  

*「夢のカリフォルニア」 作詞、作曲ジョン・フィリップスミシェル・フィリップス    

音楽を愛し続けるという事は、一つの人間の価値であったり思想であると僕は思っていて、末永く音楽を楽しんでいただくというのが、とても大事な事だと思います。

















2026年1月10日土曜日

溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

 溝井裕一(関西大学教授)          ・変わる動物園~その歴史と役割~

溝井さんは世界の動物園を訪ね、その歴史と人間の動物館の変遷を研究しています。 動物園は家族で楽しむ娯楽の場、子供の教育、自然や命の大切さや理解を深める場ですが、近年の動物園の役割はそれだけではありません。 動物園はその誕生から今日まで、時代と共に姿も役割も変えてきました。 そして今も変わっています。  溝井さんは人は動物たちといかに向き合うべきか、まさに今ホットなテーマだといいます。 どういう事なのか、動物園の歴史を踏まえてお話を伺います。

子供のころから動物には興味はありました。  昔話には動物が良く出て来て、人と動物の関係が大事なことに気が付いて、授業のネタにも取り上げていました。  或る時に動物園の本を見て動物園の研究をしてみようと思いました。  動物園のデザインがどう変化してきたか、調べたりするとその時代時代に人間が動物のことをどう思っていたか、と言う事が判って来て、広い意味の文化史で、私は文化史をやっていてその範疇に入って来る。

メソポタミア文明は紀元前3000~4000年に成立しましたが、いろんな国が成立してゆく過程で、王様たちが珍しい動物、危険な動物とかを飼育するという事を始めました。   これが動物園の最初のきっかけです。 (冨と権力を示す。)  中世のヨーロッパでは同じような動機から皇帝、王様が動物を集めていました。  昔イギリスのロンドン島では動物を飼うスペースがあって、象、ライオンなどを飼育していました。  一般の人もそこに行けば見ることが出来た。(13~19世紀まで)   フランスのパリにあるジャルダンプラントという施設がありますが、もともとは植物園でした。 そこに動物が合流して動物園としても機能するようになりました。  ルイ14世も動物コレクションを持っていましたが、ベルサイユ宮殿にありました。 フランス革命が起きて、動物コレクションを解体しましょうと言う事になりました。  ジャルダンプラントという施設に動物を持っていきました。(世界で最初の動物園 zoological garden=動物学園) 「動物園」と最初に翻訳したのが福沢諭吉です。  フランスは他国と戦って他国の動物コレクションから珍しい動物を持ってきて飼育して、国としての力の象徴になったわけです。

日本で最初に出来た動物園は上野動物園です。(1882年)  ジャルダンプラントをモデルに作られました。  ヒグマほか地味な動物しかいなかった 。 外国からキリン、象などを購入して行くうちに段々と充実してゆく。 2番目が京都市動物園、3番目が大阪の天王寺動物園、段々日本中にできてくる。  いかに集客するか、面白いという事が重要となる。 動物に芸をさせる、遊園地を併設する。(娯楽路線)   本来の動物園は自然な動物の姿を見せる場所であるべきだとの批判が出てくる。   元々は動物を狭い檻に入れるという事が主流だったが、これに変化を持たせたいという事が現れます。 ドイツのハーゲンベック動物園の経営者は、動物は狭い檻の中で飼っているよりも広い空間で駆け回っているのを見た方が楽しいはずだろうし、動物にもいいだろうと考えて、20世紀の初頭(1907年)にオリジナルな動物園を開いた。  パノラマ展示、広くて檻がないが動物には越えられない堀が掘ってある。(新しい展示の幕開け)   種別に分けてほうががいいのではないかと言う様な批判もあり、新しい展示方法として、動物地理学的展示が考え出されます。 (多摩動物園などがこの展示方法)  その後いろいろな方法が考えられて車を利用したサファリパークがあります。(1950年代)  ランドスケープイマージョン展示、地形、岩、植物など徹底的にリアルに再現する。 その中に動物を入れるとその動物の振舞が非常に自然になる。 お客さんの側にも同様な景色になっているが、その間には堀があるが判らないようになっている。 動物たちの中に迷い込んだような錯覚になる。  

デズニーワールドのアニマルキングダム(20世紀終わりに作られる。) サファリパークの様になっていて車で探検が出来る。  ストーリーと組み合わせて動物を見る体験を提供している。(テーマパーク的な動物園)  いろいろコンビネーションを組むという事もやっていいます。  アメリカでは古くから存在している雄大な景色が誇りであると感じると云う様になって、出来るだけアメリカの景観を保護しようとか、動物園でも絶滅しかけている様な、ヨーロッパバイソンとかを繁殖して育てるというふうなことも取り組んできました。  動物を輸入に頼らないで,動物園で飼っている動物は自分たちで繁殖させるよいうなシステム作りをて推し進めてきています。  日本の動物園もこの流れに従ったいます。  娯楽のほかにも教育、研究、保全活動の大切さ、をしっかり伝えてゆく事が動物園には求められています。  地元の自然環境が再現されていて、地元の動物を見てもらうという取り組みも見られます。