2025年5月14日水曜日

松家仁之(作家)             ・編集者が作家になると

松家仁之(作家)             ・編集者が作家になると

 松家さんは1958年生まれ、東京出身。  早稲田大学在学中に、初めて書いた小説が新人賞の佳作に入選、しかしその後作品が書けないまま雑誌編集のアルバイトを経て出版社に入社、28年間は編集者として仕事をしました。  51歳の時改めて小説に向き合いたいと会社を辞職し、読売文学賞を受賞したデビュー作『火山のふもとで』では建築家の吉村順三をモデルにその事務所に勤める青年が主人公となっていますが、この春刊行された『天使も踏むを畏れるところ』は、その前日譚に当たり空襲で焼け落ちた明治宮殿に替わる新宮殿の造営とそれに関わる人々のドラマを描いています。  これまで芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、繊細で美しい文章に定評のある松家さんに、ご自身の人生と作品について伺いました。

今回刊行された『天使も踏むを畏れるところ』は登場人物が結構多いんです。  新宮殿の造営に関わると言う意味では、全員共通していて、立場が違うと思いとかいろいろなことに対して結構丁寧に追って行けるのが長編なと思います。  デビュー作『火山のふもとで』と言う小説の前日譚という事になっていて、もともとは一つの小説として放送されていた。皇居新宮殿の設計を任されたが、 途中で宮内庁と意見が対立して、工事の中途で辞任する建築家がいて、その人の建築事務所に大学を卒業したばかりの男の子が入って行って、老大家と若い建築士との物語で、一つの小説として書こうと思ったんですが、到底無理だと思いました。  皇居新宮殿の話は宿題にして、『火山のふもとで』を書いたことになります。 直ぐかけなかった理由のもう一つは宮内庁、皇居の中で働いている人たちがどういう風に働いているとか、ほとんど判っていない。  宮内庁に関わる様々な本、日記、資料を読むようになったのは、判るようにしてから書きたいと思いました。 

構想25年、作?から数えて15年と言う時間が必要でした。  令和になってから宮内庁の情報公開が大分進みました。  そういった中でのびのびと書かせていただきました。  皇居新宮殿が造営された時代は自分が小学生のころなので、皇居新宮殿が造営されたという事も知りませんでした。  私は学校が苦手でしたが、図書館での時間は、世界への入口みたいなものが空いていて、いろいろなところへも行けて、過去、未来へも行けて私の命の恩人です。  中学、高校と海外文学に関心が向きました。  その世界にどっぷり入っていけました。  小説を書き始めたのは19歳の時でした。  佳作に選ばれました。 

アルバイトで編集の仕事をして、その関係で出版社に入社しました。  30年近く編集者生活がありました。  丸谷才一さんは本当に忘れられない作家でした。  小説とは何かという事を教えられた気がします。  橋本治さんも忘れ難い作家の一人です。  「文学と言うのは要するに鎮魂なんだよね。」とおっしゃって、自分の核心に落ちて来た。  僕が小説を書く時に、ここに描かれた人たちのやってきたこと、思ってきたことを上手く伝えて、それで彼等を鎮魂したいなという事でやっているのかなと思う様になりました。  

自分の思う良い編集者は、つかず離れずちゃんと伴走して、一番大事なところについて率直に言える編集者が優れているのではないかと思います。 2002年、季刊総合誌『考える人』を創刊、編集長となります。  創刊号が養老孟司さんへのインタビューでした。  インタビューは偶然飛んでくる球を受け取るような受け身の姿勢も大事です。

書くという事に集中させてもらおうと思って、会社を辞めました。  会社員時代は一行も書いていないです。  建築についてはずっと関心を持ち続けていました。  『火山のふもとで』の次の『沈むフランシス』では実験的な意味合いのある作品でした。  『光の犬』では家族とか一族みたいなものを描いてみたいと思いました。  芸術選奨文部科学大臣賞 及び河合隼雄物語賞受賞。  新聞小説「箱」は初めての経験です。  出版の歴史をたどる小説です。 本というものが特別な時代であったことはいつの間にか終わって仕舞って、出版界の盛衰も描くし、出版界への愛情もあるので、両方を物語の中に入れていきたいと思います。  僕に中には設計図みたいなものはないです。  人生って思う様に行かないし、それが面白いところでもあるし、やれること、やりたいと思う事をやって行きたいと思います。 



2025年5月12日月曜日

サヘル・ローズ(タレント・俳優・コメンテーター)・〔師匠を語る〕 映画監督・岩井俊二を語る

サヘル・ローズ(タレント・俳優・コメンテーター)・〔師匠を語る〕 映画監督・岩井俊二を語る 

サヘル・ローズと言う名前は「砂浜に咲く薔薇」と言う意味です。  わたしを引き取ってくれた養母が7歳の時に付けてくれた名前です。  私は戦争時に生まれた子なので、私を引き取ってくれた養母が付けてくれました。  或る知人を介して、サへルに会いたいという事で8年ぐらい前に初めてお会いしました。  岩井俊二さんは日本の映画界のなかでも孤立をしていて、自分の考えをもって孤独な存在だけれども、岩井さんにしか表現できない作品が多く作られていて、なにか光を持っている監督という印象がありました。  

岩井さんは映画監督映像作家・小説家脚本家・漫画家・作曲家・作詞家・映画プロデューサーなど多彩なジャンルで活躍している。  1963年生まれの62歳。  仙台市出身。 大学卒業後、ミュージック・ビデオの仕事を始める。  1993年テレビドラマif もしも打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を演出し、この作品で日本映画監督協会新人賞を受賞。   1995年に初の初の長編映画『Love Letter』を監督。  日本アカデミー賞優秀作品賞、文化庁優秀映画作品賞、芸術選賞、新人賞をはじめとする多くの賞に輝きます。  その後も日本を代表する映画監督として「スワロウテイル」「リリイ・シュシュのすべて」初の長編アニメーション「花とアリス殺人事件」「ラストレター」など話題作を発表、最新作の「キリエのうた」では令和5年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。 2006年からおよそ5年間アメリカに拠点を移していましたが、東日本大震災を機に帰国、今も歌い継がれるNHK復興支援ソング「花は咲く」を作詞、岩谷時子賞特別賞も受賞しています。

私は貧しい生活から抜け出したいという事で、這いあがりたいという精神が強かった。   這い上がるという事はちゃんと学歴を持つ事、そのためには大学に行きたいと思っていました。  いろんなアルバイトをする中でエキストラの仕事がありました。  私の場合は中東の人間で、なかなか役を貰えず死体だけを6年間やり続けたこともあります。  たまに生きている役が来ます。  しかしテロリストの役で直ぐに死ぬ役でした。  国籍で仕事が限定される、この目に見えない溝って何だろうと思いました。   中東=テロリストと思われて仕舞う歯がゆさがあり、日本人の役でもできるということを証明したいと思いました。  続けていれば誰かが観ていてくれる。  そのなかに高嶋政宏さんがいて、私を推薦してくれました。  ここから人生が変わっていきました。  それを中井貴一さんが観ていてパルコ劇場「メルシーおもてなし」(2016年)のフランス人の通訳をする女性に推薦してもらえました。  

あらゆる社会の中で起きている問題にフォーカスしているのが岩井俊二家督だと思っています。  何か問題提起を一緒にやりませんかと声を掛けてくれました。  イベントを定期的に開催するようになりました。  第一回目が里親さんでした。  社会的養護化をテーマに一日限定のイベントを行いました。  難民問題、言葉を通してどうしたら社会とつながるかという言葉の問題、社会的弱者に光を当てるイベントを岩井さんが全力サポートしてくれて、一緒に主催してやって来ました。  身寄りのないサヘル・ローズ、可哀そうなレッテルだけ常に貼られてしまって、私はもっともっと表現をして、サヘル・ローズではない人間になりたい、何故ならばサヘル・ローズとして生きるのが辛いんです。  

もっと別の人格になりたい。役者として私も羽根を広げたい、と言ったことを常に相談していて、岩井さんの前で泣いていたりしました。  岩井さんは静かに何時間でも聴いてくれました。  岩井さん自身もいじめにあったり、家族との距離感、友達との距離感とか、今もいまも岩井さんは孤独で、やりたいことをやれていないという事を話していただきました。自分にとって挫折をして来た姿、諦めてしまった姿、弱い姿、を見せてくれたことが、自分の中で師匠として岩井さんを見るようになりました。  最も信頼できる人に変っていきました。   

「花束」 児童養護施設で育った8人の若者が出演した映画。 サヘル・ローズ監督。  社会の中では偏見を持っていることが実はまだ多くて、差別の対象にもなるし、施設出身者はマイナスの方がおおきい。  自分の生い立ちがどこかで自分の人生を決めてしまうというふうに、諦めの方が大きくなってしまう。  コロナ禍で出来なくなってしまったが、岩井さんに再度連絡をして岩井さんに監督になって頂ければいいと思いましたが、、一番重要なのは何を撮りたいか、何を伝えたいか、伝えたい人間が撮るべきだと言われて、全力で支えるからやってごらんと言われました。  過去に闇を持って居たり、傷ついた人間は物つくりをすべきだ、だから僕も物つくりをしている、傷をもっている人間は強いから、映画を作ればサへルの居場所が出来るよと言われました。 

実際に養護施設で育った子供たちが主人公です。  子供たちへのインタビューの中で携帯で動画を撮っておくように岩井さんから言われました。  映画が出来上がってから岩井さんと大衝突がありました。  私は賞にこだわっていました。  映画祭を通ればきっと多くの方に見てもらえると言ったら、岩井さんから「幻滅した。」と言われてしまいました。  貴方もエゴの塊なんですね、評価されたいためにやっているんですね、と言われてしまいました。   僕は賞のために物つくりはいていない。  100年後にも残るものを僕は作ろうと思う。    重要なのは何を届けるかであって、最初は僕の作品なんてみむきもされなかった。 怒られたお陰でその先に進めました。  大事なのは一作目で成功しない事。  失敗してどん底から這い上がるという事。  最初この映画はどこも見向きされませんでした。  映画製作と言うものはただ私に映画を撮らせたかったわけではなくて、映画を通して7年かけて人とつながる、私がやりたかったことを表に出すきっかけをプレゼントしてくれた。  

死にたいと思っていたこともあるが、この作品に生かされている、この作品の為にもちゃんと生きて行かなければいけない、これが岩井さんが私に授けた事なんだろうなと思います。 岩井さんからコメントを頂きました。 「サヘルさんはフィルムメーカーに必要な天使の羽根を持っている。」  このコメントを見た時に号泣して仕舞いました。  

岩井さんへの手紙

「私は岩井さんと出会ったのは9年前のことです。 ・・・この国で外国人として、表現者として、自分の居場所が長く見つからない、そんな私の葛藤に真っすぐ耳を傾けてくれたのは岩井さんでした。 貴方の闇は美しい。 岩井さんの眼差しに、私は初めて過去を肯定し抱き占める許可を得たような気がしました。 ・・・ただ一人のサヘルとして見つめてくれた。  その眼差しが私の尊厳をそっと守ってくれました。  厳しくしかってくれたことも私の中では永遠に残る宝物の一つ。 ・・・居場所は誰かに与えられるものではなく、自分の足で築いてゆくものだ、それを岩井さんはご自身の生き方で教えてくださいました。  私の人生から生み出される映画を生み出すことで、私に居場所をくださった。  岩井さんは常にご自身の経験と背中で私の道しるべになってくれた。  私が映画を撮る勇気を持てたのは岩井さんと言う闇がいたからです。 ・・・誰かの居場所を照らせられるように今後も歩み続けます。  出会ってくれて本当にありがとうございます。」



























2025年5月11日日曜日

土師幸士(浅草神社 宮司)         ・浅草の街に世代を越えて開かれた神社を!

 土師幸士(浅草神社 宮司)         ・浅草の街に世代を越えて開かれた神社を!

東京浅草の街は1年でも最も活気づく三社祭を間近に控え、熱気が高まっています。  その三社祭を執り行う浅草神社第63代宮司の土師幸士さんは、浅草にも神道にもえんがありませんでしたが、思いがけず神職の道を歩むことになりました。  就任以来新規に開かれた神社を目指し、日本の伝統文化の継承や世代間の交流を図るなど、浅草に根差した神社の存在感を高めています。  間近に迫った三社祭を含めてお話を伺いました。

今年は三社祭は5月16日、17日、18日におこなわれます。  3日間で約180万人と言われています。  浅草神社に祭られている神様は、主祭神として三柱の神様がいらっしゃいまして、土師真中知檜前浜成命、檜前竹成命の三柱の神様を祭っている神社という事で、三社と言う言葉が使われています。  628年(約1400年前)推古天皇の時代に漁師の兄弟が住んでいました。  628年3月18日に漁師の兄弟が海に出て、網を投げて魚をろうとしたところ、その日に限って魚が一匹も獲れない。  一体の人型の像がとれます。  持ち帰って知識人の土師真中知(はじのあたいなかともさんに見せてみると、聖観世音菩薩の仏像であるという事が判りました。 明日は是非大漁をお願いしますとお願いして、あくる日には船に一杯の魚が獲れたという事です。  土師真中知さんは聖観世音菩薩の仏像を自宅にお祭りして、自らも出家して僧侶となって仏像を守ってゆくことにしました。  それが浅草寺の始まりです。   多くの方がお参りに来られるようになって、村から街へ都市へと発展してゆきました。  兄弟も出家して土師真中知さんと共に、観音様をお祭りしてゆく事になります。 

今から900年から1000年前にその子孫たちの枕元に観音様が現れます。  夢のお告げをされます。  観音堂の傍らに神として親たちを鎮守すべし、名付けて三社権現と称し祭れば子孫、土地と共に長らく繫栄する、という事で創建されたのが三社権現社と言う神社になります。 明治元年神仏分離政策が行われて、浅草寺と三社権現社を切り離さなければならない。  権現と言う言葉は仏教との繋がりが強い言葉なので使えなくなり、三社明神社と名前が変ります。  明治6年には浅草神社と言う名前に変りました。  お祭りも三社祭りと言う名前に変っていきました。   

私の生まれは山口県です。 高校は愛知県の自動車会社の社員を養成する高校に入りました。 私の母が浅草神社の先代の宮司といとこ同士という事でした。  先代の宮司に子供が一人もおりませんでした。  養子縁組と言う形で土師家に入ることになりました。  まずは浅草の町に溶け込もうと思いました。  神職の資格は一番下の資格(直階)であれば、一か月間座学を受けると資格が取れます。  次に 権正階(ごんせいかい)で一か月間座学プラス一か月間の修行でとれます。  これで浅草神社の宮司になる資格は取れます。  自分でももっと学びたい、周りからも知識教養を深めて欲しいという要望もあり、浅草神社で働きながら国学院大学の夜間部に入りました。 4年間は大変でした。 明階という上から2番目の資格を取りました。  浅草の街の方たちとも交流を深めていきました。  

今でも観光で来る方の97%程度は浅草神社の存在を知らずに帰っているのではないかと思います。  認知度が低い。  まず取り組んだのが浅草神社での結婚式です。  それまでは年間1件ぐらいでした。  1年目が8件、2年目が16件、3年目が30数件となりました。   240件ぐらいまで増えました。  お宮参り、七五三も年々増えています。  教化活動も行っています。  青少年への教化育成事業(浅草神社体験学習など)、日本伝統文化の継承(社子屋の立ち上げ)の二つを柱に活動をしています。  書道教室その他いろいろな教室も行っています。  7月1日に初詣の夏バージョンとして夏詣を考えて、平成26年から取り組んでいます。 今では日本全国で550を越える神社で新しい日本の風習として、参画して頂いています。   

三社祭、浅草が一番活気づく時です。  金曜日は「お練り」という大行列がおこなわれます。  

都の民族無形文化財のびんざさら舞(五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などを祈って氏子の人々が行う。) が奉納されます。 『びんざさら』は『編木』『拍板』などと書きます。竹、あるいは木の薄片数枚から百枚前後の上部を紐で束ねた楽器で民俗芸能の中でも田楽系統の踊りに用いられています。  街神輿への御霊入れの儀がおこなわれます。  氏子町会は44あります。 各町に大人神輿、中神輿、子供神輿があります。 100基を越える神輿に御霊を入れる為の御霊入れの儀が浅草神社の社殿でおこなわれます。  

二日目は午前10時に例大祭式典がおこなわれます。  一番大事な祭典。  浅草寺本堂の裏広場に100基の街神輿が集まります。   各町に繰り出す町内神輿連合渡御が行われます。 子供宮神輿連合渡御も去年から始めました。  

三日目は浅草神社の宮神輿三基の出御?となります。 三社祭の宮神輿は三基の宮神輿があります。 神社から「宮だし」がおこなわれます。 多い時には担ぎ手が1万7000人ぐらい集まります。  浅草の東部、西部、南部にそれぞれ一の宮、二の宮、三の宮が各方面に行きます。  又街神輿も担がれます。  夜の7時、8時になると神輿が帰って来ます。 「宮いり」格納されてお祭りは終了となります。  2028年が観音様が浅草の町に現れて1400年になります。  「船渡御」と言うのを2028年3月18日に隅田川で行おうとしています。







2025年5月10日土曜日

井上さやか(奈良県立万葉文化館)     ・〔歩いて感じて万葉集 アンコール〕 山の辺の道~後編・天理ルート

井上さやか(奈良県立万葉文化館)     ・〔歩いて感じて万葉集 アンコール〕 山の辺の道~後編・天理ルート 

額田王は天武天皇の后の一人として出てきます。  早い時期に天武天皇と結ばれて、十市皇女(とおちのひめみこ)という子供も設けている。  天智天皇との時代にお互いが恋を交わす歌が有名ですが、三角関係が言われますが、実際に天智天皇と結婚したという記録は日本書紀には一切ないんです。  歌は有名ですが、どういう人物でどういう人生だったかという事は残っていません。

天理ルートでは柿本人麻呂の歌が詠まれています。  まず黒塚古墳が見えてきます。 邪馬台国女王卑弥呼が魏の国からもらった鏡と言われる三角縁神獣鏡が33面も出土した古墳です。 柳本駅から1,8kmの地点に柿本人麻呂の歌碑があります。 

衾道(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりとも無し」 柿本人麻呂

衾道(ふすまじ)は建具のふすまの地名になっていて、そこに向かう道のことを衾道(ふすまじ)と言います。 引手の山という山があって山中に、妹と書くが妻とか恋人のことを指しますが、その女性を置いて山道を辿ってゆくと生きた心地もないというような表現をしています。  柿本人麻呂の妻の一人が葬られていたと考えられている。  愛する妻を亡くして悲しみに暮れている心情を表現している。  魂そのものが山に帰るというのが古くから考えられている発想だったと言われている。  

万葉集には柿本人麻呂の歌が80首以上本人の作と断定できるものがあります。  それ以外にも柿本人麻呂の歌集と書かれている歌から引用されているものが、万葉集の中には400首近く残っています。  柿本人麻呂は音とかイメージとか、その連鎖を非常にうまく使う言葉、歌の表現が巧みだと言われています。 

石上神宮の鳥居の脇に歌碑があります。 

娘子(をとめ)らが、袖(そで)布留山(ふるやま)の、瑞垣(みづかき)の、久(ひさ)しき時(とき)ゆ、思(おも)ひき我(わ)れは」   柿本人麻呂

袖を振るという事は魂を自分の方に引き寄せる行為なんです。 恋情を表現する事でもあります。  (少女が袖を振る、)布留山(ふるやま)の瑞垣(みづかき)のように、ずっ~と昔から、あなたのことを思っていました。  七支刀 両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。  神祭りをするもの。 かつては神剣渡御祭(でんでん祭)で持ち出され、祭儀の中心的役割を果たした

石上布留の神杉神さぶて恋をも我は更にするかも」  人麻呂歌集

布留も地名  石上の布留の神杉のように神さびていても、また私は恋をするのかなあ。

神さびていても→年齢を重ねていても

布留の高橋

「石上(いそかみ) 布留(ふる)の高橋(たかはし)
 高々(たかだか)に  妹(いも)が待(ま)つらむ  夜(よ)そ更(ふ)けにける」 作者不詳

石上の布留川にかかる布留の高橋 その高橋のように 高々と爪立つ思いであの女が待っているだろうに 夜はもうすっかり更けてしまった。  「石上 布留の高橋」は、市内の石上神宮付近を流れる布留川にかかる高橋で、男の訪れを待ち焦がれてる女の思いを、この高橋にかけて、「高々に」を引き起こして歌っている。女の許へ通う夜に歌った男の歌である。

 我妹子(わぎもこ)や我を忘らすな石上袖布留川(いそのかみふるかわ)の絶えむと思へや」  作者不詳

私のいとしい彼女よ。私を忘れないでおくれ。あの石上を流れる布留川ではないが、袖振る川が絶えることなどあろうか。









2025年5月9日金曜日

鈴木万里(絵本作家かこさとし長女)    ・〔人生のみちしるべ〕 父・かこさとしの思いを受け継いで

鈴木万里(絵本作家かこさとし長女)    ・〔人生のみちしるべ〕 父・かこさとしの思いを受け継いで

鈴木万里さんは昭和32年かこさとしさんの長女として神奈川県に生まれます。(68歳)  大学卒業後は母校の中学、高校の英語の教師として11年間勤務し、2003年からは絵本作家として多忙な父かこさとしさんの仕事を支えてきました。  かこさとしさんが92歳で亡くなったのが2018年。  それから7年の間に鈴木万里さんはかこさんが残した原稿や絵から絵本や動画集名などを復刊を含めて、新たに30冊余りを出版してきました。  その中にはかこさんが体験した戦争についての絵本が2冊あります。  2021年出版の「秋」と言う絵本と今年戦後80年の年に出版された「くらげのパポちゃん」です。

 かこ総合研究所はかこさとしの分身みたいなものです。  作品に込められた思いを私たちなりにお伝えしたり、意見を交換したりしています。  深い意味が分からないものがあるんですが、お届けしたいと思っています。  戦争についての絵本を2冊出版しましたが、何故争いが起きたのか、なぜそれが今になっても続いているのか、それを分析してそこから戦争のない時代、平和を作るにはどうしたらいいのか、そういうものを多分描きたかったんだと思います。  1980年代に戦争に関する個人的な経験などを元に作品を作りましたが、没にされてしまっていました。  

「秋」には悲しみ、嘆き、戦争への怒りが静かではあるけれども強く感じられる。    「くらげのパポちゃん」では1950年から55年までの文章のみ見つかり、絵は有りませんでした。  悲しさ、理不尽さを伝える一つではないかと思いました。  絵については 中島 加名(かこさとしの孫)が担当しました。  

私は子供の頃は何でもやるのに時間のかかる子でした。  父は昭和電工に入社、研究所勤務を続けるかたわら、川崎市などでセツルメント活動や、児童向け人形劇紙芝居などの活動を行っていました。  定時には帰ってきて一緒に夕食を食べました。  父は自分の時間の管理はしっかりしていたと思います。  33歳で絵本作家としてデビューして、会社を辞めたのが47歳(昭和48年)でした。   講演、海外へ行ったりテレビのコメンテーターをしたり精力的にこなしていました。  

私が英語の教師になったのは、小さい頃英語の絵本が一冊あって、それが発端になりました。  11年間英語教師をしました。  英語を教えるにあたっては、かこの絵本の作り方が参考になりました。  子供たちが興味を持つところから入ってゆく。  

父が77歳の時にお手伝いをするようになりました。  取材を受けりするときに一緒にいて、セツルメント活動、子供の反応、絵本つくりに込めた思いなどを聞いているうちに、いろいろなことが分かってきて、講演会などで話すのもそういったことから話をしています。    

それぞれの絵本にかこが託した強い思いとか願いとか思想みたいなものが、時代によって移り変わるものがありますが、変ってはいけないもの、変わらずに人間として持っていてもらいたいもの、かこが願っていたもの、が入っていると思います。   それが伝わってゆく、受け取ってもらえる、と言うようなことが続いたらなあと思います。  大人たちは世の中を整備したり、社会を整えたり、そういう事をしなさいと言っているのかしらと、自分流に解釈しています。  父が残した沢山の作品が私の道しるべにもなるし、課題にもなるのかなと思います。  





2025年5月8日木曜日

松浦弥太郎(エッセイスト)        ・ていねいに生きる

 松浦弥太郎(エッセイスト)        ・ていねいに生きる

暮しの手帖」前編集長で東京中目黒の書店の店主でもある 松浦弥太郎さんは59歳。    物質的な豊かさではなく自分の豊かさを見つけることを提案する代表作のエッセイ「今日もていねいに」は30万部を越えるベストセラーになっています。  その人生に大きな影響を与えたのは高校を中退していったアメリカへの旅と振り返ります。 

お金では買えない心の豊かさとか心の安らぎ、穏やかさ、自分が工夫してなにかを築いてゆくとか、世の中の人が心の隅で求めている時代なのかなと感じます。 

「今日もていねいに」の一部。

 「ほんのささやかなものでも極く小さなものでも、嬉しさが沢山ある一日がいい。  そんな気持ちで朝目を覚まします。  小さな嬉しさが沢山ある一日であれば、ほんのり幸せになります。  そんな毎日がずっと続けば、生きているのが楽しくなります。  そのための僕なりの方法が自分プロジェクトです。  例えば自分プロジェクトその1は、美味しいハーブティーを入れる事。 ハーブティーを飲むのは僕の朝の習慣です。 ・・・美味しいハーブティーを入れるという自分プロジェクトに毎朝真剣に取り組んでいると考えたらどうでしょう。   おそらくお茶を入れるたった5分が工夫と発見のひと時に変ります。・・・そこから見てくるものが必ずあります。 」

幸せと言うものは凄く漠然としている気がします。  自分がちょっと嬉しいみたいなことを一日の中でどれくらい自分が感じたり、積み重ねたりとかできるのかと言うのが自分プロジェクトと言う風に書いています。  大きな幸せを求めるのではなくて、小さな嬉しいことを一日の中で自分が感じて対処してゆく、それが自分の生活習慣の一つになっています。

「ていねいに」とはどういう事だろうと考えながら生きてゆくという事が、自分にとってはしっくりきました。  今わかる「ていねい」という事の一つは、現実としっかり向き合う事と今日の目の前にあることを一つ一つ乗り越えて、そのすべてに「ありがとう」と感謝をして、その「ありがとう」と言う感謝を精一杯表してゆく、と言う風に思っています。      哲学的に「ていねい」とはどうい事なんだろうと、常に考え続けていくというところが、僕の考えている「ていねい」なのです。  物質的な豊かさではなくて精神的な豊かさを、どうやって自分たちが手に入れてゆくのか、今の時代は心のどこかでみんな共通して求めている事ではあると思います。  

小中学生時代は色々なことに疑問を持つ子供でした。  大人に凄く質問する子でした。  常に逆のことをしたくなる子供でした。  同級生の母親が興味を持って家に連れて来なさいという事になって、そういう風に考える僕を褒めてくれました。  学校では教えてくれないような、学び(本、音楽など)を教えてくれました。  自分には大人に対する意地みたいなものがあったが、認められたことによって心を開いてもいいんだと思う様になって、意地が段々消えていきました。  親、先生、周りの人への接し方が変って行きました。 

高校ではラグビー部に入って全国大会を目指しました。  大きな怪我を繰り返すことになりラグビーを辞めなくてはならなくなりました。   外国への憧れもありました。  高校を中退してアルバイトをして資金を作って、英語もしゃべれない中、18歳で単身で渡米しました。(親は賛成はしてくれなかったが、最終的には承諾を得た。)  何か新しい自分が見つかるような思いがありました。  すべてが判らないものだらけで、困りはてる毎日でした。 (サンフランシスコ)   何もわからないという事は全てが、毎日が新しい。  充実感はありました。  ハラハラドキドキが自分を成長させていったと思います。  挨拶をするという事が、 日々の暮らし、生きることに関して、どれだけ大切な事なのかという事が、アメリカで初めて判りました。  挨拶をするという事は、自分は危害を加えませんよ、大丈夫な人ですよという事を伝えたり感じてもらえることでもあるんです。  人間関係を大切にすれば、基本的には物凄い助け合う社会があると思いました。  

貧乏がそれほど恥ずかしい事ではありませんでした。  貧しい人たちは自分なりに楽しいことを考えたり、楽しく生きるという事に一生懸命でした。   自分に関係ないという事は一つもないという事にも気付きました。(政治、戦争、環境とか)  

アメリカでの経験を書いてみたら、回りから面白いと褒めてもらいました。  書くことを始めたのが20代後半です。  インスタントカメラで写真を撮って、その場で写真をあげているうちにいろいろな人と知り合いになって行き、自分も認められた経験があり、その経験を最初に書きました。   

暮しの手帖』の編集長も9年間務めました。(40歳から)   自分がどうしても謝らなければならないことに関しては、編集後記で誤ったりします。 上手くいっていることは着目されますが、上手くいってい居ないことはその何倍もあります。 

「ドクターユアセルフ」 自分を治療する事は自分である、と言う発想です。  自分が不調であった時に、それを治すのは自分である、人に頼るのではない。  それは自分を大切にする、自分を愛する、自分を好きになる、と言うことの意味でもあるのではないかと思います。  自分自身と向き合うという事は難しい。  いいところだけが自分ではない。  そこに気付き、学び、発見があって、それが自分自身の感動になって、その感動をエッセイとなって世のなかに届けられるんじゃないかと思っています。  書くためにはまず考える。  考えることが生きるという事に対してどれだけ自分の成長、変化させてゆく事に役に立つのか、という事を僕はエッセイを書いていて、常々思います。 

困ることによって人間は色々なことに気付いたりするが、困らなくなってしまうと自分自身が停まってしまう。  段々知りたいことがなんでも判る時代になってきている。  しかし、わからないという自分の感情、状況は、これから人間が生きてゆくには、絶対なくしてはいけないものだと思います。  「待つ」という事も大事です。  早いことが価値があると言う様な時代です。  育てるというのは待つことが基本だと思います。  自分自身に待ってあげるという事も大事です。  成長にはそれなりの時間が掛かります。  「めんどくさい」の中には沢山の気付き、学び、自分だけしかわからない発明があります。  87歳になる母親の親孝行をしたいです。  いくつになっても自分の殻を破って、いくつになっても明日は新しい自分である、それでいいんじゃないですか。

 








 



2025年5月7日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 対談は面白い (5)

 五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 対談は面白い (5)

作詞家、作曲家特集。

星野哲郎さんは大先輩であり兄貴分みたいな感じのお付き合いでした。  五木さんの詩はサビを生かすような手法ではなく、5秒なら5秒緊張していていい言葉がパッと並んでいるからメリハリがちょっとつかない、と言われたことがあります。  星野さんは昭和歌謡の大作詞家です。何でもやれるという人でした。   新人の童謡の作詞をしている吉岡治さんがいました。 サトウハチロウさんのお弟子さんでした。  美空ひばりの「真っ赤な太陽」とか「真夜中のギター」とか大人の曲を書いてそれが好評で、当時の大流行作詞家になりました。  中山大三郎さんは器用な人でした。 「人生いろいろ」作詞。  1941年の生まれで僕より若いです。  作詞家と言うのはどちらかと言うと縁の下の力持ち的な要素があるんです。  大先輩ですと米山正夫さんですね。  本当に才能のある人でした。  抒情的な歌も書くし、明るい行進曲風の「山小屋の灯」とか、オールマイティーなプロの作曲家、作詞家でした。 「リンゴ追分」「津軽のふるさと」などもそうです。  僕は「津軽のふるさと」が一番好きです。  美空ひばりさんは万能の歌い手さんだとつくづく思います。 

船村徹さんの凄い作曲家です。 「別れの一本杉」 矢切の渡し 「兄弟船」・・・  星野哲郎さんと船村徹さんと組んで作ったのが「みだれ髪」です。  今の人にはなかなかわからない歌詞です。  下地を作ったのが大正から昭和にかけての詩人たちでした。 北原白秋とか、西条八十とか、純文学的な詩人として活躍するような人が、世間から見ればちょっと堕落したという感じで流行歌の作詞を始めるわけです。  芸術的なセンスが流行歌の中に取り入れられて、日本の昭和歌謡の質を高めて行くわけです。   レコードのA面がヒットするとB面を担当する作詞家も収入を得るわけで、裏待ち詩人と言われました。 

「歌いながら歩いて来た」 五木寛之作詞作品集  CD

*「鳩のいない村」 ベトナム戦争の時に書いた歌です。  歌:藤野ひろ子

鳩のいない 小さな村
一人ぼっちの 寂しい村
誰もいない 小さな村
たたかいが通り過ぎていった村
鳩はなぜ逃げていったの
人はなぜ村を焼いたの
鳩のいない青空だけが
悲しいほど 悲しいほど
青くひろがる 青くひろがる

鳩のいない 小さな村
一人ぼっちの 寂しい村
誰もいない 小さな村
たたかいが通り過ぎていった村
鳩はなぜ死んでしまったの
人はなぜ花を散らすの
鳩のいない広場のすみに
名前のない 名前のない
墓をつくろう 墓をつくろう

いつになったら平和な村に
いつになったら鳩は帰るの
帰ってくるの

その時代に人の喜び、悲しみ、とかを体現している作品が中心になっていると思います。 個人が書いているけれども、時代に書かされたというか、そういうものが時代を越えて残るんじゃないかと思います。   小説を書くのは苦痛ですが、詩を書くのはちょっといい気持ちです。