2026年1月30日金曜日

入交昭一郎(エンジニア)          ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~

入交昭一郎(エンジニア)        ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~ 

日本のF1エンジンの開発を手掛けた元ホンダの副社長、今は水素エネルギーの日本での実用化を目指す入交昭一郎さんです。 入交昭一郎さんは神戸の生まれで現在86歳。  東京大学工学部を卒業した後、自動車メーカーホンダに入社、世界最高峰の自動車レースF1で12気筒の強力エンジンを開発、又排気ガス規制の厳しい中で、規制をクリアーする独自の燃焼システムを開発するなど、日本の自動車エンジンの開発の先頭に立ってきました。  又退職後はゲームメーカーの社長を歴任し、今はカーボンゼロの社会を目指して、水素エネルギーの日本での定着を図ろうと水素エネルギー研究会の最高顧問として活躍しています。 又世界的半導体メーカーNVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救った事でも注目されています。     エンジンの開発から水素エネルギーへとあくなき挑戦を続ける入交さんに伺いました。

どこへ行くにも車で運転していきます。  年間3万kmぐらい走っています。  トランプさんがあんなのはでっち上げだという事になって、カーボンニュートラルに向けての動きが、中国を除いて世界中がストップしてしまいました。   本来今年あたりは水素エネルギーを社会実装していかなければいけない年ですが、止まってしまいました。 一番大きいのはそこにお金を出さない事ですね。 日本は水素エネルギー開発が遅れていたので、キャッチアップするチャンスだとは思います。  怖いのは中国だけはものすごい勢いでやっています。 相当どころではなく2周ぐらい先を行っています。  水素は基本的に自然エネルギーで発電した電気で水を電気分解して作るわけです。 発電する方が中国が今、太陽光発電にしろ、風力発電にしろ全世界のシェアーの6割ぐらいは中国製です。 次に電気分解する大型の電解槽が必要で、大型はほとんど中国製です。  社会実装と言う意味では中国はずっと先を走っています。 

カーボンニュートラルを実現するためには、電気だけではいかない、内燃機関はずっと必要なわけです。  化石燃料は使えば必ず炭酸ガスを出します。  内燃機関を使う航空機、船、オートバイ、トラック等があり、使っても炭酸ガスが増えない燃料が必要なわけです。    水素を大量に作らなければいけない。 日本で使っているガソリンの10%を水素に置き換えようとすると、1時間でプール一杯の水を電気分解して水素を発生する、そのぐらいの量が必要です。  年間500万トンぐらいが必要で、何兆円と言う投資が必要です。  水素を作るのには基本は電気なので、太陽光発電、風力発電にしろ自然エネルギー発電でやると、1KW/h当たり、かなり先を見通しても10円を切れないんです。  水素をベースにした燃料は1リッター当たり700円ぐらいになってしまう。  

サウジアラビア、チリなどでは1KW/h当たり今現実に3円で売っています。  3円で出来るとその値段はいっぺんに1/3ぐらいになります。 海外で自然エネルギー発電した電力が安いところへ行って、作らざるをざるを得ない。  そうなると1企業のレベルでは出来ない。  広大な土地も必要。  将来的にも友好関係が保てる国で、大プロジェクトを展開しないといけない。  国が間に入らないのなかなか進まない。 しかし今はそういう風潮にはない。   カーボンニュートラルにしようと言う国民の意識もない。  啓蒙活動を3年前からやってます。  欧米では水素を作ってそれをビジネスにしようと本気で考えている会社がいくつか存在しますが、日本では1社もないです。  

カーボンニュートイラルの原料は空気と水だけです。  電気は風力と太陽光さえあればいい。  ですから日本のなかで出来るんです。  海外から燃料が入ってこなくても何とかなる。  日本は年間25兆円ぐらい原油を輸入している。  車を作って売っている額にほぼ相当する。  経済安全保障の観点から見ても、絶対日本は自分のところで作れる燃料を持つべきです。  

私は大学で卒業設計にF1の12気筒エンジンの設計をしたんです。  飛行機をやりたかったが、今の日本では作れないと言われて、次に面白いのはレースエンジンかなと思いました。  判らないことはホンダの研究所に行って、入り浸っていました。  入社試験もせずにいつの間にかホンダに入っていました。  配属先がエンジン設計で毎日が楽しくて、そして給料ももらえます。  レースエンジン50ccが当時は2ストロークエンジンでしたが、4ストロークにして勝ちました。  次に125ccの5気筒エンジンを作りました。  250ccで6気筒にしてチャンピオンマシーンなりました。 F1で1966年に1,5リッターから3リッターに変りました。  

知ってはいたが誰も3リッターのエンジンをやっていなかった。 250ccで6気筒のエンジンを終わったばかりだったのでお前がやれという事になりました。  当時F2と言うのがあって、1000ccで4気筒なので、これを3つ並べれば良いなあと思いました。  いろいろ工夫をしながら、やりました。 1966年9月からはじめて、1年間しかないんです。  図面を書いて,試作をして、テストをして翌年のモンツ?へ持ってったんです。 徹夜、残業などは当たり前でした。  レイアウトに1ケ月ちょっと、設計図を書くのに1ケ月ちょっと、部品作るのに1ケ月ちょっと、組み立ててテストするのが3ケ月ぐらいでした。 1年でのプロジェクトで、今なら3年ぐらいかかると思います。

仕事は楽しまないといいものは出来ないと思っていて、世の中の情報をどれだけ自分の財産にするか、だと思います。  専門のところだけ勉強しても駄目で、いろんなことが世界中で起きていて、そう言ったものを頭のなかにいれて置くと、突然ある日何かやる時に、これとこれはつながるなという事になるわけです。  新聞、雑誌とか見出しだけでもいいから隅々まで目を通すとか。  経営者クラスの人を呼んで勉強会をしますが、最近はテーマによって専門的な人が来ます。(細分化され過ぎている。)  今の世の中はいろんなものが混ざり合うわけです。  出来るだけ一人の人がいろんなことを勉強できるようなシステムに変えて行かないと危ないなあと思います。  AIだけやっていると偏ってしまう。  深く知らなくてもいいから、自分の中で消化しておかなくてはいけない。  

妻と一時期老人ホームに入って、ネットは見ていたが、新聞などは読んでいなかったが、妻を亡くして家に帰って来て、新聞を又読み始めたら、物凄く1年半の間に欠落していたことに気が付きました。 ネットでは自分の興味のある所しか見ない。  若い人には新聞を取りなさいと言っています、そうしないと自分の好きな情報しか入ってこない。 

NVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救ったという事があります。  彼の人柄、彼は絶対嘘をつかない、非常に率直、彼の能力、情熱、彼の持っている望みですね。  彼が32,3歳の時には自分はビル・ゲイツを越えると言ったんです。  当時(30年前)、彼(ビル・ゲイツ)は王様でした。  セガのグラフィックチップの開発に失敗して、辞めると言った時に、何とかもう一回立ち直るには500万ドル必要だと言うので、その額を投資することにしました。    生まれもった性格と言うのは一生懸命努力しても買われないものがあるんです。  どれを抑えてどれを勉強して伸ばすかという事は、後天的なもので出来るわけです。  後その人が持っているエネルギーがあるんです。  エネルギーのある人は、何をやっても夢中になってやってへこたれない。  ジェンスン・フアン社長はこの3つを持ち合わせているので無茶苦茶好きになったわけです。 

彼から昨年末にメッセージが来ました。  ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言っているのは大きな間違いだ。  ビジネスと言うのは、それをやる人の心であり、思いやりであり、寛容であり、その人の精神である、それがベースでなければいけない。    ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言う様な事は言うな、と言っています。  そのことは私と仕事をしている間に教わったと言っているんです。  私はそれでやって来ました。   日本の社会そのもの、ビジネスそのものは、最初に数値目標だとか掲げてとにかくやれと、そういう事でスタートしてしまう。人間だから間違いも起こすが、そうするとメタメタ叩く。  寛容さだとか、今は無くなってきている。  私が言ってもなかなか受け入れてくれないかもしれないけど、世界で一番成功しているジェンスン・フアン社長が言えば成功するのではないかと思って、日本中のビジネスをやっている人たちに聞いてもらいたいと思います。   私はそのスタイルでやって来ましたから、日本人の良さはそこにあると思うんです。 人を思いやる心、少々の間違いは人間だから勘弁してあげようよと言う寛容さ、それは日本人の特徴だと思います。

残った時間お前は何をやりたいんだと自分に聞いてみると、「人に喜んでもらいたい。」その答えしかかえってこない。  常に夢を持っていないと生きてゆけない人間だと思っているんです。  夢が時々切れちゃう時があると、自分は死んじゃうなと思うんです。  本当に何をしたいのかと思うと世の中探さなければいけない。  だから情報源を広げろと言っているのはそれなんです。  広げない限り見つからない。  今の夢はカーボンニュートラル燃料で、これを何とかしたい。 









2026年1月29日木曜日

今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

 今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

今和泉隆行さんは実在しない都市の地図を書き続ける空想地図作家です。 7歳の時に空想地図に目覚めたという今和泉さん、空想地図作家として都市や地図に関して、テレビや絵本の中の地図の監修や製作にも携わっています。  民放ドラマでは架空の都市の地図を手掛けるほか、作品は各地の美術館でも展示されてきました。 更にその活動範囲は実際の街つくりや、高校の授業、万博へと広がりを見せています。 4半世紀以上に渡って続く空想地図のナゴムル市(中村市)の地図は今や実在する都市としか思えないクオリティーに達しています。 好きで続けてきたという今和泉さんに空想の町の地図作りに込めた思いを聞きました。

地図の図形と今の場所とを照合できない、と言うのが地図が読めないという事なんですね。   地図を読める人でも方向音痴と言う人はいます。  地図から歴史、街並みだとかを読み解けるという面白さはあります。  一つは道路の模様、真っすぐな道とグネグネの道。 何でグネグネなのか、車が通ることを前提に作られていないので、曲がっていたりします。  近代以降の道だと割と真っすぐつくられている。  道路の曲がり方から地形も見えてきます。   道路の年代と地形が見えてくる。  縦横の組み合わせで、いつ頃どんな理由でこのような道路になったのかとか、道路が狭いと古い建物が多い。  関東大震災で焼けたところは区画整理されて近代的なビルが建っていたりしますが、焼けていないところは古い建物が多いです。 

7歳ぐらいから地図を描いています。  地図を見るのは5歳から好きでした。  父の転勤で引っ越して地図を元にいろいろ捜して頻繁に見ていました。  いけないところだけど、リアルにこういう世界だろうなあと言う地図、が空想都市です。 ナゴムル市(中村市) 小学5年生の時に中村君と言う転校生がきて、お互いに地図を書きました。  読みだけは変えてくれと言われて濁して「ナゴムル市」としました。  書いている楽しみは旅行の下調べと近いと思います。  現実の社会問題を投影して、それを創造しながら書いています。  全国の都市に行けないから書いていましたが、大学2~4年は地図作製は辞めていました。(47都道府県を回る。)  

2015年に友達から美術館に展示してみてはと言われて、その後2017年には宮崎県の都城市美術館の学芸員の方からこれはアートであると言われました。 改めて作家という事を自覚しました。  目標があってそれを叶える手段がある、それがデザインで、アートはその目的がない。  美術館の展示が広がって行きました。

TBSの人気ドラマでも採用されました。 以前からドラマの小道具の空想地図の受注生産はしていました。  老朽化した水道管についてどこが新しい道路でどこが古い道路かAIで検知したいから、予想するのに会議に入って欲しいと言われました。 (予想外の展開)     

外部講師を呼んで探求授業をやるという事で高校に呼ばれました。  人気がありました。   それぞれの意志と感性を磨いていった方がいいと思います。 答えはAIが出してしまうので、答えが無いことに取り組んで行った方がいいと思います。 

関西万博にも参加しました。  実際のパビリオンには行けない方用のバーチャル舞台のところの地図を作りました。  普通の人が出来るいろいろなことに壁があってできませんでした。(スポーツ、ゲーム、漫画など)  膨大な時間があり、架空の地図作りに没頭しました。2巡目の地図に向かうには自分自身をアップデートしないといけないと思いますが、方法が判らなくて、今から受験ですが、大学院を抜けて、現代美術を学んで、研究と製作をしっかりやろうと思っています。  今40歳ですが、新しい自分に変ろうという事です。 年齢を気にしないでインプットしていかないとまずいと思います。 

この数年行ってはいるんですが、海外に行きたいと思っています。  海外の物も書いては見たいと言いう思いもあります。  お薦めの一点は「謎の独立国家ソマリランド」と言う高野秀行さんの本です。 実在します。 無数の武装勢力や海賊が跋扈する「崩壊国家」ソマリア。その中に、独自に武装解除し十数年も平和に暮らしている独立国があるという。 






  





2026年1月28日水曜日

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

 金澤さんはシクラメンの花を八重咲にしたとして知られていますが、拝見すると八重どころか、ぼんぼりのように咲くものが有ったり、しだれて咲くものが有ったり、花形、花色も様々で、シクラメンだけではなくほかの花や果物も品種改良して、多彩な品種を作っているようです。

50年、自分が興味を持ったものについて、 育種したりコレクターして沢山あります。  昔はシクラメンも色も赤くてそんなにはなかったですが、大内さんが海外のパステル系の品種を昭和50年代に導入して、そこから分けてもらって淡い色を選抜育種しました。 シクラメンは自分の花粉で自分の実をつけて花が終わってしまうことがおおくて、花持ち期間を長く持つようにしました。 シクラメンでは八重がないのでトライしてみようと思いました。  花びらがなりつつあることを見逃してしまう。  固執して観察すると、ちょっと違うなと言うのが出てきたりします。  その種を取り、種を蒔き、時間をかけて花びら化して行きました。 

私の先生の岩手の橋本先生が、私と同じことをしていて、完全体がありました。 私の方はまだ未完全体でした。  先生が病気になってそれを譲り受けて、先生のものと私のものを交配して原型が出来ました。 そしてチモにしようかと言う事でチモという名前で世の中に出せるようになりました。(20年掛かる。)  2年に一回しか交配が出来なくて結果が出ない。  八重になるための遺伝子の部分の重複遺伝子があって、ホモ、ヘペロとかありヘペロではいろんなものが出てくるし、ホモならば固まる。 千葉大、メーカーの研究開発に携わっている方との交流からいろいろ勉強しました。  しだれ形のシクラメンも開発しました。  

ラズベリーも商品化できないという事がありました。 いまだに日本の風土に合わないと叫ばれています。  土壌環境ですね。  日本には沢山の土壌微生物がいて、線虫もいてそれがラズベリーへわるさをするようです。  国内に2トン輸入されて、うちでは1トンはんぐらい取っています。  品種改良しないと、と言う大手の輸入メーカーさんがなんとか国産ラズベリーの品種を作ってくれないかと言われて、花以外も面白そうだと思っていました。 試行錯誤をしてやっと増殖率が良くて、成長も良くて、二期なり(6月、10月に成る)を選抜して作り上げて、登録にこぎつけました。  今の土壌環境で生き残ったものだけを交配しました。  

子供のころから花を見る機会があって花が好きでした。 農業高校に行った時に、花を徹底的に作ろうという出会いがありました。  花農家さんの所に実習に行きました。 花をオークションにかけてその日のうちに換金してくるわけです。 そこで花を作っても生活が成り立つかなと思いました。  温室部を作って、 アルバイトをして園芸書を買って読みました。  種も購入して花を咲かせて、オートバイで花を売っていました。  ひょんなことから自分でも種を取って撒く様になりました。  高く売れるような選抜をして、専門にやっている人に聞きに行ったりしました。  オリジナルのものが昭和50年ごろに出来ました。 50年代の後半には市場でも有名になって来ました。  

昭和56年に結婚して、妻に手伝ってもらっているうちに、彼女の知り合いからも手伝ってもらうようになっていきました。  今の主流のメンバーが彼女たちです。  ピンク系を作って今はそれが主流になっています。 1963年に薦められて全国の品評会に出して、大臣賞を初めてもらいました。 その後もいろいろな賞を貰いました。  品評会のポイントがあって、葉が小さく沢山あって、花が丸弁でぴしっと上を向いて咲いている、という一つのベースがあります。  しだれ咲は全く正反対のものなので、支持されません。  賞を取ることが目的ではなくなりました。 いかにして消費者さんの思いに沿えるのか、という事を大事にしています。  時代の流れは大事だと思います。一番大事なのは消費者にがっかりされない事だと思います。  

次の世代に渡していかなければならないという、義務的な部分も持っています。 私の弟子たちが弟子を作るようになってきて非常に嬉しいです。  ここまでくるうちにはいろんな人に助けてもらってきました。  消費者が居ないかぎりは支持されないので、理解者を増やす事ですね。  自分の中の経験を伝えていきながら、花の業界の礎にしてもらえればと思います。地域の為、若い人のための活動をしています。  自分のまわりの環境を良くしていかない限り、自分が住んでいる環境、生活は良くならない。(人間環境を含め)  育種の部分を掘り進めていくのと、「金澤的なビオラ」を見たいと言われていますが、どう言うビオラか私にもわかりません。 











2026年1月27日火曜日

諌山こころ、福井春香            ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

諌山こころ、福井春香           ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く         姉と私~心にしまっていたこと 諌山こころ (14)伝えられなかった言葉と、伝わった思い

今回は全国から463点の応募がありました。 第60回を記念して4つの特別賞が設けられましたが、今日はそのうち文部科学大臣賞を受賞した諌山こころさん、ハートネット賞を受賞した福井春香さんへのインタビューです。 諌山こころさんは中学2年生、障害のある姉との日々を姉と私~心にしまっていたこと」と題して綴りました。  又大学4年生の福井春香さんは吃音がある中で挑んだ就職活動について「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」と題してまとめました。 

諌山こころさん

今中学2年生です。 理科が好きで、国語は苦手です。 NHK障害者福祉賞では障害者本人か、障害者が身近にいる人、という事でこれは私だと思いました。 姉(19歳)が知的障害とテンカンがあります。  身近な人(両親、クラスの友達)には見せたくはなかった。  祖父母には見てもらいました。 

「私には小さい頃の記憶があんまりありません。 もしかしたら私は小さいころからいろいろなことを無意識に我慢して、心の中に仕舞って来たのかもしれません。」          特別な旅行とかは覚えているんですが、日常のことは覚えていないです。   

「姉には日常の中で手のかかることが多く、自然とみんなの意識が姉に向くようになっていました。 私は姉の着替えを手伝ったり、食べるのを見張って居たり、面倒を見るのが当たり前になって行きました。 いつの間にか私のことはちゃんとしているから大丈夫と思われている気がして、親があまり構ってくれなくなりました。」

こころってしっかりしているよねと言われたのが、小学校の中学年から言われ、しっかりしているんだという事に嬉しいという思いはあるが、かまってくれないから寂しくなりました。  期待に答えなければいけないなあとの思いはありました。  姉への思いが揺れ動く中で、心の内を吐き出すことは余りありませんでした。 (親、友人)  祖父母とは年に数回しか会わないので、今回の作品は読みたいという事で、本を渡して家に帰りました。 祖父からラインで、両親は姉の面倒を見ないといけない責任を持った行動だから、そこまで悲しまないでいいと言ったことを長文で伝えてきました。  「責任」と言う言葉に対して新しい発見でした。「義務」」と言う風に思っていました。  寂しいという感情はなくなりました。  

「私はお姉ちゃんと一緒にいることで、他の人とは違う経験を沢山してきました。  これからも姉のことで悩んだり迷ったり泣いたりすると思います。  でもそれと同じぐらい姉からもらう温かさや、笑顔や、気付きもあるんだと思います。」

姉がいて悪いイメージだったけど、最近学校でも医療系の方に行っていて、姉がいたからこそ医療メディカルコースを選んだと思います。 

「完璧じゃなくていい、わからないままでもいい、でも知ろうとする気持ち、寄り添おうとする気持ちをこれからも大切にしていきたい。」

書いただけだと自分は変わらないと思って、最後に自分はこうしていきたいという事を書こうと思った時に最後の言葉を見つけました。 皆にも知ってもらいたいみたいな感じも入っています。

「友達に姉のことを話すのもまだ勇気が要ります。  でもいつか話せる日が来るかもしれない。」

まだ話せない。  親には社会人として家を出てゆくときに渡したいと思っています。    医者を目指していますが、 心のなかも診ていきたいと思います。          

ハートネット賞を受賞した福井春香さん

ハートネット賞は誰もが自分らしく生きられる社会の実現を願い、取材を続けている製作現場から共生社会の実現のヒントがあり、未来を感じさせる作品に贈られるものです。

誰にも伝えずに応募したのですが、家族、それ以外の方々にも読まれてしまうという事に少し不安がありました。  しんどい就職活動でしたが、面接官の人々に救われて、最終的には楽しく就職活動を終えることができ、気持ちの変化などを記録として残しておこうと思った時に、障害福祉賞と言うものを見つけて応募しました。 母親だけには見せています。

吃音を誰かに打ち明けたことはほとんどありません。  難発といって、喉が詰まってしまったような感じで言葉がでなくなってしまう症状が一番多いです。  3歳ごろに母おやがそうおもったようです。  しゃべれない障害だけれども、しゃべれる時もある。 「おはようございます。」と言う一言も言えない場合が沢山ありました。  電話も苦手で、普通に出来ないという事がしんどいと思います。  なかなか分かってもらいにくい。 

就職活動の面接でどうしても言葉がでなくて、面接官に自分の思いを伝えられないことが沢山ありました。  結果として不合格が沢山ありました。 インターネットで吃音があることを面接官に伝えてみたら、面接官の方が寄り添ってくれたと言う記事を見て、自分も伝えたらしゃべり易くなると思いました。  就職活動は大学3年生の12月ぐらいから去年の5月ぐらいです。  伝えることで自分の気持の持ちようが変り楽になりました。  

「多くの企業の方が、想像していた以上に吃音を前向きに受け止めて耳を傾けてくれました。 就職活動で一番印象に残っている言葉があります。」

或る最終面接の採用担当の方の「勉強しました。」と言う言葉でした。 事前に吃音のことを勉強したという事でした。 凄く嬉しかったです。  そこに入社出来ました。 建設業界の事務所です。 

タイトルは「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」です。 今回作文を書いて、吃音があったからできた経験とか、出会えた人とかも沢山いるなって思えました。 吃音も悪い事だけではないと言えるかなと思います。  

「吃音の理解が少しでも広がり、すベての人にとって生きやすい社会になることを心から願っています。」

今は社会人になる事の不安しかないですが、沢山のことに挑戦して、成長していきたいと思います。



2026年1月26日月曜日

2026年1月25日日曜日

大川義秋(箏奏者)             ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

 大川義秋(箏奏者)         ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

大川義秋さんは双葉町出身の30歳。  東日本大震災の時は中学3年生でした。  県外での避難生活で大川さんは琴に出会い惹かれ、プロの道を目指し、現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。 震災をテーマにしたオリジナルの曲や国内外の演奏会で、東日本大震災の経験を語り、命の大切さを語る大川さんにお話を伺いました。

東日本大震災から15年、そのなかでは沢山の出会いがあり、避難をした時のことを思い出すこともあれば、そこでの助けてくれた出会い、感謝を思い出すこともあり、琴を始めた瞬間の記憶もあります。  2011年3月11日午後2時46分、卒業式の日でした。 12時に終わって家に帰って進学のことなど話していた時に、被災しました。  長く揺れて怖かったです。  地面が割れてゆく音、家の家具が全部倒れて、食器など中身が自分の方に降りかかって来たり、窓が割れる音など今でも覚えています。  原発事故については、正直何があったのか判らなかったです。  卒業した中学校に避難しましたが、5000人近くの人が避難していたので、校舎の中は埋まってしまっていて、グラウンドに車を止めて過ごしていました。

翌朝、防具服を着た人が入って来て、1,2分後には警報が鳴って(放射能の情報がないまま)「遠くに避難してください。」と言われて車で避難しました。  埼玉に家族と避難して、そこで琴との出会いがありました。  避難者は汚いという風に思われるのが怖くて、部員ゼロのクラブを捜しました。  琴などの邦楽部が部員ゼロでした。 琴をやりたいとも思っていませんでした。  ピアノ、ドラムはやっていて、明るい楽器はやっていましたが、繊細な音色は触れたこともありませんでした。  悲しげな音色の琴にどんどんはまっていきました。   音色で会話出来ていて、支え合いながら寂しさを共有していた、そんな琴に出会ったのが人生のなかの財産だと思います。(僕が入らなければ琴は捨てられる運命にあった。)

*「レモンアカシヤ」 作曲、演奏:大川義秋  双葉町を想って作った曲

ベーシックな13弦だけではなくて、25弦、17弦、がありますが、僕は27弦と言うオリジナルを作ってもらいました。  人前に出てやることが苦手でしたが、中学に入って吹奏楽にはいって一つうえの先輩が凄く明るい人で、音楽を通していろいろ楽しく過ごすことが出来ました。 その先輩が津波で亡くなってしまいました。  音楽の楽しさを教えてくれたその人のことを思って作りました。 今では自然が豊かだった双葉町は大切な作曲をする時に大切な要素が詰まった街だと思っています。 

東京都内のデザイン系の大学に進んで、教えてもらう伝手が無く、一人で琴を続けました。  琴は自分自身で思っていることを表せる大切なものになってゆくのではないかと思いました。  現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。  昨年は16ヶ国で琴の演奏をしました。   震災に関するやり取り、命の大切さについても話してきました。    

*「ソラシドレ」  作曲、演奏:大川義秋  広島、長崎原爆を忘れないために。          2020年の8月頃に作りました。  災害を語り継いでゆく大切さに気が付きました。(コロナ禍)  どんなコンサートでも命を大切にするという思いで、セットリストを組んでいて、辛い事を乗り越えた事、震災のことを触れながら、構成して演奏しています。  家族が支えてくれたというメッセージは必ず話すようにしています。  この15年の間の思い出が沢山増えたなと思っています。  2年前に双葉町で演奏した後に、50人ぐらいで街歩きをしました。  街は新しい住宅が出来たりさら地になって居たり、景色は変わっていますが、 お祭りが再開したり前に進んでいるなと感じます。 

*「虹」  作曲、演奏:大川義秋  どこかで繋がっているなと言う思いをテーマに作りました。





















2026年1月24日土曜日

渡辺謙(俳優)           ・〔私の人生手帖〕

渡辺謙(俳優)                             ・〔私の人生手帖〕

 渡辺謙さんは1959年生まれ、新潟県出身。 デビュー以来大河ドラマ「独眼竜正宗」の主演など国内外で活躍を続け、去年は大河ドラマ「べらぼう」の田沼意次役、社会現象となりました映画「国宝」では主人公の第二の父ともいえる重要な役柄を演じ注目を集めました。 一方ハリウッド映画「ラストサムライ」ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、世界的に知名度の高い俳優として知られます。  今年もこの1月からは、BSのプレミアムドラマ「京都人の密かな愉しみ」、2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じるなど、話題作への出演が相次ぎます。  渡辺さんが俳優としての人生や、多彩な役柄を演じきるうえで大切にしている事、一方で命を向き合った日々の困惑や乗り越えたキーポイントなど俳優人生を丁寧に話してくださっています。

寝が浅くなっているせいか、リアルな夢を沢山見ます。 起きて落語を聞きます。  仕事が無い時には9時には寝ます。  「京都人の密かな愉しみ」シリーズとしては3シリーズ目になります。 僕は今回からの参加です。  今回は継承と言う事をテーマにしていて、300~500年続く老舗があります。  継承してきた人は一体何を背負い何を捨ててきたのか、どう生きて来て伝統を受け継いできたのか、店独特の伝承の仕方に対する時間の流れみたいなものが、日本の中でも独特の時間の流れがあるんじゃないかなと言う気がします。 

映画「国宝」では精神世界では近しいものはありました。  凄く挫折したこともあるし、大病した時もあるので、自分が描いた通りにはなない、でもその中で水かきは水面下であがき続けてきたみたいなことは今までもありましたから、舞台上のすばらしさはあるんですが、彼らがどうやって生きてどうやってその芸に向き合って来たかという事が一番のテーマだったので、自分が今迄いろんな役をやらしてもらったので、時間軸が上手くはまっていけてたらよかったと思っています.

テレビとか、映画の仕事をやってはいましたが、自分のなかで確信的な、こういう風にお芝居に向き合ったら自分の俳優としての立脚点が出来るんだというのがなかなか見出せませんでした。  タンポポ』、『海と毒薬』などにやらしていただいたんですが、舞台でやった「ピサロ」で、自分で立っている実感がつかめないんだったら、辞めてもいいかなと思うぐらい、自分の中で揺らいでいました。 そこで覚悟がようやく固まって、その舞台をやったので、俳優として役と向き合うという事はこういう事なのかと言うのを非常に強く体感したのはそこからですかね。  

僕たちは何のために演じるという事を選んでいるのかという事を、なかなかわからない。  本質的に人間として、何をもとめて演劇、俳優になろうとしたのか、という事で言うと自由になりたいんですよね。  世の中のしがらみ、社会のしがらみ、年齢のしがらみ、いろんなしがらみから自由になるために、その役を借りてその舞台の世界観の中で、日常ではできないことを舞台上ではできるわけです。  自分の心とか精神を自由にするためにこういう仕事を選んでいるんだという事を眼の前で体験してくれたんです。 稽古の時に如何に自由になるか、如何に自由な発想でそのシーンを積み上げていくかという事を、稽古でやってくれたんです。  僕の演劇観にも凄く影響を与えてくれました。  表現の自由を僕らに伝えてくれました。 

劇団の養成所に入った時に、志が無いような状態でお芝居をはじめたところがありました。   音楽をやりたかったが、才能はないし、大学に入って4年間過ごしても何か得るものがあるのか、と言った中から劇団の養成所に入りました。  周りには志の高い青年がたくさんいました。  取り残されると思って必死でついていきました。  与えられた役を必死でこなしていきました。  大河ドラマが終わって2年目に病気をしてしまいました。 その時に後ろを振りかえる余裕が出来ました。(今考えるとよかったと思う。)   復帰した時に、僕の後ろには沢山の人がいたんだなという事を感じさせられました。  

「天と地と」でカナダに乗り込んだんですが、そこで白血病が見つかり、1年近く療養して復帰しました。  まずは強い体に生んでくれた母親には感謝しました。(通常強い抗癌剤の使用で内臓がダメージを受けるがそれが無かった。)  生きるためにはどうしたらいいのかなあと言う事があって、先生の処方、対応に対して、上手く患者役をこなしたというような所はありました。 友人が「百連発」というお笑いのギャグのDVDを3,4本送ってくれて、病室で見て、笑っていて助かりました。 キラー細胞が笑い事で活性化されるという事を今では普通に言われているが、30年前にはそういったことは具体的には出ていなかった。  矢張り笑う事は大事です。

乗り越えたつもりが5年目で再発しました。 その時の方がショックでした。  2回目のときには、俳優として戻らないと生きている意味がないかも知れない、と思うぐらい強い意志を持って治療し始めました。  復帰後もなかなか大きな仕事は回って来ませんでした。   40歳になって脇役を2年ほどしてから、「ラストサムライ」の話が来ました。 全部英語だし、ミュージカルをやったことがないのによくやったという感じでした。  知らないからできたんだと思います。 そこでの経験は一回ガラガラと崩しておかないと、次の世界にはいかない様な気して、40~50代はやったことは過去のことという思いでした。

激しく波打つものよりも、穏やかに染み入って行くようなドラマの方が僕は今好きです。    好奇心はその時々で変わって行っていいものですね。  自分が表現したことが、こういう風に届いて欲しいとあまり思った事は無いです。  作品を選ぶときには僕が面白がれる事、興味がある事に針が振れないと、凄く仕事っぽくなってしまう。  自由になりたいと思い続けているのかもしれません。  スケジュールを聞いたり現場に行くことは仕事だと思っています。  メイクして衣装を着て、ある役を背負って現場に入ると、そこからは一切仕事だとは思わない。  身体、心を通してきっと何かを吐き出しているんです。

最終的には自分の身体と声しか使わないので、稽古とかいろいろな時間の中、ストーリーと頭に中でグルグル回っている時があり、それはある意味大事な時間です。  身体を貸している感じです。(終わったら自分に戻してほしい。)  セリフは、目から耳から入れないと反芻できない。  相手のセリフも全部手書きます。  震災以降宮城県でカフェをやっていますが、一日5分でもいいから、あなた方のことは忘れません、という思いでA4の紙に筆ペンで、その日の思いを書いてファックスで送っていました。(13年間やっていました。)    継承のことを考えています。  折々で大きな作品に出会っているので、相当恵まれているとは思います。   2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じます。