2026年6月20日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

 「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

投稿累計総数 5000回を迎える事になりました。

年数で15年余りになります。

こうして続けられてきたのも、大きな病気、事故などもなく過ごしてこられたものが第一に挙げられます。 そのほかにもKさんからの校正やほかの方々からの応援もあり、感謝しています。

1年前ぐらいから長くパソコン画面を見るのが辛くなってきて、なんとか今日に至りましたが、最近はよりつらくなってきて不本意ではありますが、一旦5000回と言う切れ目のいい数字でほぼ毎日続けてきたものは終了させていただきます。  この先、きっぱりやめてしまうのか、それともたまにはより興味を引くような内容については投稿をしてみるかは、一休みして考えたいと思います。

「明日への言葉」のブログをご覧いただいた方々には申し訳ないとは思いますが、ご了解ください。

ありがとうございました。


中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す

 中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す(累計投稿数:5000)

兵庫県淡路島の南端、南淡路市灘地区の沖に沼島がありますが、このすぐ西側にかつて半島が延び、白石村と言う村があったと伝えられています。 この白石村は、室町時代による大地震の津波のため半島ごと水没をしたとされていますが、本格的な調査はこれまで行われた事はありません。 海底の鉱物を調査する中で、水中の文化遺産と出会ってきた中田さんが、水中ドローンなどを使って独自に調査を始めました。 調査の大きなポイントは神話。

天より使わされたイザナギ、イザナミが天の沼矛(ぬぼこ)で、大海原を掻き回すと、その矛から滴り落ちる雫が、おのずと凝り固まって島となり、日本最初の国土オノゴロ島(古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま))が生まれ、この島に降り立ったイザナギ、イザナミが次に淡路島を作り、さらに日本の大八島を作ったとされています。 いわゆる国生み神話です。 オノゴロ島は沼島であると言う説があり、中田さんは沼島のすぐ近くにあったとされる白石村は、神話の世界と実際の歴史をつなぐ存在になるのではないかと考えています。 白石村の存在を明らかにすることの意義、また水中文化遺産の調査と保全の実際についてお話を伺いました。

私は白石村はあったと思っています。 1498年に明応の南海地震がありました。  その地震によって生じた津波によって水没したと言う明確な記録が残っています。沈んだのは2年後と記録に残ってます。 古地図に破線と言う形で実際に描かれ、そして郷土史等にも書かれています。  考古学による物証が必要であるかと思います。

私はもともとは海底鉱物資源の国際的規制と言う研究をしていた研究者です。  海においても海底採掘をしていけば、沈没船や遺物も見つかるとなっていくだろうと言うことで、海底鉱物資源の採掘について研究を深めようと言うことで、沈没船やその積み荷にたどり着いたということです。

兵庫県チームの1人の高校生、滝口翔太郎君が「幻の白石村」と言う発表をしました。 それがきっかけとなりました。 地元では漁業者の言い伝え、あるいはもう廃校になってしまいましたが、義務教育の学校がありまして、学芸会等でオノゴロ島と言う台本が書かれて、それを毎年のように演じると言う伝え方をしていました。 

「白石村」を二つの言葉「白石」と「村」に分けたいと思います。 「白石」は弓弦羽神社に行って宮司に話を聞いたところ、今も弓弦羽神社には小さな壁でかこまれたところに白い石がいっぱい敷き詰められていて、ここは聖なる場所だと言われました。 この石は白石村があった場所から拾い上げられた非常に貴重で、かつ聖なる石だと言われました。 オノゴロ島ということで日本の生まれた場所だと言うことでした。 国生み神話の元になった島。 三重県にある生田神社にも、イザナミ、イザナギをご神体とするその神社の中にも、同じような白い石が飾られています。

白石は地層にあると言うわけではなくて、たくさんのものを持ってきて、そこに置いていたものをその残滓と言うように説明していました。 弓弦羽神社はかつては道なき道で、どれだけ運ぶのは大変だことだったかと思われます。 「村」であると言う事は共同体であるはずです。 津波によって沈んだとしても、生活痕や茶碗の1部でも見つかってくれれば、複数の家族がいたであろう1つの類推のきっかけにもなります。

水中ドローンでの調査を行いました。 石畳と言うようなものとか、明確な人工的な凹凸と思われる場所がありました。 それ以外は見つかりませんでした。    もし台所の茶碗とか生活痕のものが見つかれば色々と広がっていくものと思います。 調査は水中考古学と言う分野に属しますが、陸と違ってものすごく費用がかかります。 確実にそこにあるかがわからないと国からの費用は出ません。 元寇で4500隻の船が来たと言われていますが、最初に文化財保護の適用が法的に認められるまでに5,6年、船が一隻見つかるまでに30年かかっています。 35年かけてようやく国の史跡になりました。 白石村も相当するものがあると思います。    学術的調査の段階に来ているなと思います。

もし白石村が実際にあったと確認された場合には、他の遺跡と1番異なるところはオノゴロ島の近くであると言うことに他なりません。 神話の元祖となり、天変地異、災害との関わりもある。 オノゴロ島の近くという意味も含めて、白石村の調査は、日本の今後の水中遺跡の発展のためにも、不可避の事業だと思ってます。 

単に考古学にとどまらず、そこに残されたものから、防災への未来への新たな知見を得られる可能性があります。 それと同時に、オノゴロ島の1段階上に移行するための論拠作りと、我々のアイデンティティーを見つめ直す意味で、この白石村は着目するに値するということだと思います。 私は別途、国際協同研究と言う科学研究の代表もやってまして、イギリス、アメリカ、フィリピン、タイ、東チモール、ベトナムの6カ国の代表者をしています。 その人たちを案内するのにどこが1番喜ぶかと考えて、予備知識の勉強した後、オノゴロ島へ連れて行きました。     大変喜んでくれました。





2026年6月19日金曜日

ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

 ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

ピーター・バラカンさんは、1951年イギリスロンドン生まれ。 ロンドン大学の日本学科卒業した翌年、1974年に来日しました。 音楽出版社での勤務を経て、1980年代からラジオ番組などに出演、ヒットチャートにとらわれない独自の目線で選曲した世界各国の楽曲を紹介し続けています。 一方、日本の文化を海外に向けて英語で紹介する番組、「Japanology Plus」(ジャパノロジー・プラスの司会も長年担当しています。 日本と国際社会の架け橋となった功績によって、2021年度日本放送協会放送文化賞を受賞しました。 40年以上自分の言葉で伝え続けている理由は何なのか、ピーター・バラカンさんからお話をお聞きします。

74歳です。 日本での生活は半世紀以上になります。 NHK FMでやっている「ウィークエンドサンシャイン」は1999年からです。(28年目) 選曲についてはまず自分で聞きたいものを選んでいます。 純粋に音楽として紹介したいものかどうかと言うおぼろげな基準です。 インプットとしては、インターネットの時代なので、これが多いですが、イギリスの音楽の月刊雑誌の定期購読はずっと続けています。 そのほかいろいろな情報源があります。 紹介しきれない、いっぱいかけたいものが沢山あります。 

始めた頃は台本がありましたけれども、今は全くないです。 ですから、時間管理が難しいです。 久しぶりにテレビで音楽番組をやることになりました。(3ヶ月間) 映像とともに紹介できるのは3曲となります。 厳選して紹介します。 局の方で映像を見つけてくれます。

1951年生まれで、テレビを購入したのは1956年でした。(5歳) 1962年位からヒットチャートのカウントダウン番組はありそれを聞いていました。(ビートルズが出てくる直前)  中学から高校1年にかけて、それがラジオ体験として1番貴重な時期だったのかもしれません。 

日本に来るきっかけは求人広告です。 日本の音楽社が募集している広告があり、応募しました。 ロンドンで面接がありました。 1974年に日本に来ました。(23歳) 私は比較的順応性はありました。 音楽出版社の国際部で、海外の会社にビジネスレターを英語で書く仕事をしていました。 会社は120名位いました。  1980年にイエロー・マジック・オーケストラ(細野晴臣、高橋幸宏坂本龍一の3人で結成)YMOマネジメント会社に転職します。 彼らの楽曲の著作権を海外に紹介したいと思って、それまでやっていた海外の曲を紹介することと、逆のことをパターンの仕事をつもりで入りました。 日本語も英語もできると言うことで、発音のお手伝いとか歌詞を作るときのお手伝いを英語の知識が必要な仕事は僕のところに回ってきました。 

YMO1983年に解散(散開)しましたが、坂本龍一と矢野顕子の活動に関係した仕事を86年まで続けました。 ラジオ番組を途中化一人で担当するような形になりました。  音楽番組は当時収録が多かったです  当時、FM雑誌がいくつもあり2週間ごとに出ていました。 それで番組の内容が全部1ヵ月前に決まっていました。 私が初めてNHKFM番組を担当したのが、1986年だったと思います。 リスナーに対して古い情報を伝えたくないと言うことで、事後報告と言う形で新しい扱いをするようになりました。 FM電波の規制緩和がその頃からありました。 新しい曲ができたときに、生ワイド番組と言うのが多くなりました。 たちまちFM誌の存在の意味がなくなりました。 

ある人から「空想の力が大きい。」と言われました。 自分が目指したいもの、行きたい方向とかを頭の中ではっきりと想像して、頭の片隅にその空想を置いておくと、自分の潜在意識にそれが入って、おのずとその方向にチャンスがあれば向くものと言うそのようなことを言われました。 チャンスが巡ってきたときに、それを掴みやすいように空想しておくと言うことが大事かと思います。 

1960年代のロンドンは、凄まじい若者のエネルギーが集中していた時期でした。 そこにどっぷりつかりました。 それはラッキーなことでした。 「使わなければ失う。」と言う言葉がありますが、使わない筋肉が退化して、脳も同様です。    新聞、雑誌、本などを読むことも大事だと思っています。 新しい音楽も聴いているし、映画も好きです。 そういう好奇心が変わらないです。 ラジオが1番好きです。(ラジオは無限に音源がある。)


2026年6月18日木曜日

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」 

山中さんは201942歳の時に、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 子供3人を抱え一家の大黒柱として働いていた時で、家族の将来を思い途方に暮れたいいます。 そんな中、同じように認知症と診断されながら、生き生きと暮らす先輩たちに出会い、少しずつ自身の病を受けることができました。 今では高知県内2箇所で介護施設を運営する一方、講演会などで自身の体験や学びを伝え、認知症への理解を広く訴えています。

認知症ケア学会に参加するために上京しました。 当事者の視点から認知症の理解を考えると言うテーマのシンポジウムで発言しています。 令和4年から高知県の希望大使に委嘱されました。 ADIと言って世界アルツファイマー病協会があります。 そこの国際本人委員としても参加させていただいてます。 今年はリオに行ってきました。(もとは携帯電話の販売会社で営業担当をしていた。)

若年性認知症と認定されたのは2019年です。 3、4年前から時間の間隔のずれというのが結構ありました。 覚えにくなったと言う感覚もありました。 その前に近所の精神外科に行ったら、正式な診断名はわからなかったんですが、チラシをもらって「認知症と共に生きる」と言うもので、22点境界線と書かれていました。   なかなか理解できない状態が3,4年続きました。 若年性アルツハイマー病の主人公のドラマを見て、自分もこれだと確信しました。 そして、若年性アルスファイバー病と診断されました。 

仕事を続く上で、同じ部署だけには理由を説明して仕事を続けていきました。   1年半ぐらい家に引きこもった時期もありました。 ある本の影響で、いつかは自分もオープンにしたいと思って会社を退職することにしました。(20216月)   東京都の希望大使をしている佐藤美樹?さんが働いているDAYSBL Gと言うところに見学に行きました。 社会参加型デイサービスでした。 チラシをポストに投函する仕事をしていました。 そこで人と人との関係性に関銘を受けました。 こんな施設を作りたいと思いました。 

翌年の4月には法人を設立していました。  人の命を預かることになるので、制度、生活とかいろいろな申請とか一生懸命勉強しました。 20224月に「セカンドストーリー」と言う法人をつくりました。 感動した「ストーリー」と言う歌から名前を付けました。 デイサービス「はっぴー」も歌の中から取り入れました。 自動車販売の洗車をしたりする中で、仕事の枠も増えていきました。マンションの清掃もしてます。 働くと言うこともありますが、みんなと会えるとか、いろんな話ができるとか、そういうことが働くより先に大事なんじゃないかなと気づきました。 2024年の暮れぐらいからいろんな検査をして、レビー小体型認知症(レビー小体と呼ばれるたんぱく質が脳に蓄積されることで脳の神経細胞が減少し、認知症の症状を発症 幻視など、ないものが見える症状​・幻聴などもある。)と診断されました。

デイサービス「はっぴー」は2店舗になり、2店舗目拡大のために引っ越ししています。長男は不動産お仕事をしているので移転の為の手伝いをしてもらいました。 次男は次男は介護職員と一緒に働いています。 私の中の家族という言葉は、血縁関係だけの家族ではなくて、大きな意味での家族、エネルギーのことです。   

進行していくのではないかと言う不安はありますが、先の見えない不安で悩むよりも、今日楽しいことをやって、今日1日精一杯生きようと思っています。  認知症になってからもやりたい事は実現できるし、今までの生活も続けることができます。 それは1人では難しいかもしれませんが、仲間や家族、相談できる人などを今から作っていってもらいたいなと思います。  地域のご本人さんと一緒に居場所を作ったり、思いを聞いて、アクションを一緒に起こしていって欲しいなと思います。


2026年6月17日水曜日

屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪さんは、プロ野球横浜大洋ホエールズ時代に俊足の3人の名前を連ねたスーパーカートリオの一角として、ベンチからのサインをまたないノーサインの走塁で3年連続の盗塁王を獲得。 さらにゴールデングラブ賞5回に輝いた守備では、移籍先の長嶋ジャイアンツの優勝につながるファインプレーでも知られています。    子供の頃から大の鉄道フアンであった屋鋪さんは、プロ野球引退後は、子供たちへの野球教室を続けながら、鉄道文化人としても活躍しています。 さらやに知人から株を譲られたことがきっかけで始めた、ラベンダー栽培がカルチャー教室でも指導を行うようなになっています。 自らの観察眼と直感そして勇気で67歳の今なお走り続ける屋鋪さんにそのノーサイン人生を伺います。

子供たちへの野球教室を月、火、水と別の場所でやっていますが、50人ぐらい教えています。 鉄道の写真集は2冊出しました。 鉄道の車両の模型も作っています。レール幅が9ミリで150分の1位です。 野球ではスーパーカートリオと呼ばれていて、横浜時代、1番、2番、3番、1番が高木豊さん、2番が加藤博一さん3番が私です。 それまでは6番とか7番でしたが、近藤監督から言われて、いきなり3番を打つ立場になりました。昭和60年のシーズンから走りまくります。 失敗してもいいからとにかく走れと言われました。 盗塁って意外と難しくて、私の成功率は7割5分位です。 赤星君は8割以上でした。3人とも塁に出て3人とも失敗したことがありました。 盗塁の要点は①スタート②スピード③スライディングです。 私が1番大切だと思うのはスタートを切る勇気だと思います。 

少年時代から自由奔放に生きていました。 両親は細かいことを言いませんでした。 ただしつけが厳しかったです。 遊び呆けていても勉強をしなさいと言う事は1回も言いませんでした。  8歳から12歳までは、兵庫加川川西に住みました。    いろんな動物を飼いました。(蛇などを含めて) マムシも飼って指を噛まれたことがあり、血清がなく血を絞り出してもらいました。 

1985年スーパースーパーカートリオで前年が11個の盗塁だったのが一気に58個になりました。  翌年から3年連続盗塁王になりました。 ゴールデングラブ賞も5回取りました。 1994年巨人に移った後、巨人対西武の日本シリーズで9回にファインプレイがありました。  10で守り切りました。 長嶋監督からはあのプレイが日本シリーズの流れを変えたと言って下さいました。 貢献できたので、人生であの年は忘れられません。

*「大空の大地の中で」  歌:松山千春

大自然のある北海道は大好きです。 11歳の時に蒸気機関車が大好きになり、私の影響で父も蒸気機関車が好きになりました。 それで夏に北海道行くことになりました。 蒸気機関車の荒々しさに魅了されたと思います。  2006年から写真を撮り始めましたが、その頃600両以上ありました。 昔の模型はもう少し大きくて80分の1位の大きさで、それは高価でした。 Nゲージ(150分の1のタイプ)が普及し始めて60年位です。 引退後鉄道の趣味に戻ってしばらくしてから模型を作成するようになりました。 模型のセットが100個ぐらいあります。

野球は小学校4年生からやりましたし、野球が根幹です。 野球をやることで学ぶべきことがいっぱいあります。 野球がうまくなることに越した事は無いんですが、野球をやることで学ぶべき事がいっぱいあります。  例えば礼儀作法とか私の指導をしたことを考える。 我慢も人生にとっては大切なことだと思います。 野球の楽しみは打つことです。 打球が飛んでいくと気持ちいいです。 子供たちにはボールを真っ芯で捉えるような指導をしたいです。 2010年の後半位から山野草の植物を育て始めました。 2019年に友人からラベンダーの苗を譲ってもらいましたが、失敗しました。 翌年からコロナ禍の中、熱中しました。 今、2カ所で50株ぐらい育てています。  関東地区では、夏の暑さでほとんど枯れてしまって難しいです。


2026年6月16日火曜日

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」 

71日の富士山の山開きの日が近づいてきました。 富士山に1度は登りたい、でも体力に自信がない、混雑が気になる入山料もかかるなどと諦めている方がいらっしゃるのではないでしょうか。 実は東京都内にも気軽に登れる富士山がいくつかあるといいます。 一体どんな富士山なのか若い頃はヒマラヤのカラコルム山脈の山などに挑戦し、高校の教諭を退職してからは、東京の富士山巡りを続けている三輪主彦さんに案内してもらいます。

都立高校30年ほどやっていました。 毎日走って学校に行ってました。  理科の先生でした。  研修で海外にも行きました。  大学では山岳部にいたので、1986年にヒマラヤのカラコルムに行きました。 6000メーター位のところで引き返さざるを得なくなり、カラチと言う乾燥地域に行きましたが、そこは意外と面白く乾燥地域回るようになりました。  1978年から79年にかけてトルコのアンカラ大学に留学して、火山の研究をしました。 戒厳令で大学には行けなくて、トルコをバスで回りました。 

宮本常一先生の主催している日本観光文化研究所に出入りさせてもらっていました。  旅の文化を研究するところでした。 地球環境問題に触発され、マングローブを植えることに参加して、湾岸、ミャンマー、ベトナム、エクアドルにも行きました。 1979年から地平線会議第1回目の報告があり、その報告会は現在まで続いてます。カナダに旅行に行った時に、走って旅をすることに出会い、その後続けています。東海自然歩道と言うのは1200キロあって、高尾山から箕面まで30数日間かけて行きました。 四国遍路も1200キロありますが、そこも走って行きました。

生徒と接していて科学離れと言うことを感じて、大人に理解してもらいたいと思って、定年前に辞めて大人のための科学塾を開こうと思いました。 最初は、宇宙の話とか、地球のマントルの話をしてましたが、実践が伴わないので化石川巡り(昔は流れていたけれども、現在は流れていない川)をしました。 次に山巡りを考えました。 品川神社のところに結構大きな山があって富士塚と言うとこでした。  東京には実は富士山がたくさんあります。 江戸時代に富士講と言うものがありました。 富士山は女人禁制でした。 ミニ富士を作ろうと言うことになり、高田馬場に初めての富士塚ができました。 

富士講の代表の人が富士山に行った帰りに溶岩を持ってきて、富士塚に貼り付けるわけです。 女子供もその富士塚に登れば富士山に登ったと、同じご利益が得られるということです。 昔からのものは3つしか残っていません。 上野の小野照崎神社にある富士山が重要文化財として残ってます。(下谷坂本富士)  西武線の江古田駅の前ある江古田富士、東長崎駅のそばに長崎富士、あるいは高松富士と言われる富士、 十条富士と言うのはあります。 東京の中では1番縁日のすごいところです。 山開きに合わせてやります。 

現在都内には77ぐらいあります。 明治の時に廃仏毀釈があり、仏教系のものは全部取り壊してしまいました。 富士講を仏教の1派でということで壊されてしまいました。 神道であると言うことで生き延びるために鳥居を立てるわけです。 明大前と言う駅のそばに松原富士と言う富士山があります。 江戸にはかつては800から1000があったと言われてます。 江戸川区には14の富士が残っています。 めぐると10キロメーターあります。

富士講はみんな仲良くしようと言うのが1つ登拝いろいろ考えながら、自分の体を鍛えながら登るというのがあります。 江戸の七富士は公式には残っていません。下谷坂本富士、品川富士、江古田富士、千駄ヶ谷富士、十条富士、音羽富士、長崎富士、重要文化財が3つ入ってます  現在は無いんですが、江戸の広重が描いた名所江戸百景と言う浮世絵のシリーズがあります。 その中に富士が二つ描いてあります、目黒元富士目黒新富士。 中目黒の駅から目黒川を渡って、代官山に出るちょっと前に大きなマンションがあって、その脇に目黒富士跡と書いてあります。そこにあったと思われます。

8月の末に山終いと言うのがあります。 富士吉田の火祭りがあります。 それに合わせて富士塚でも火祭りをするところがあります。 清瀬中里富士があって、火の花祭りというのをやっています。 大きな松明を燃やします。(91日に実施)  みんな仲良くしよう、男女平等、畏敬の念を持って山に登ろうとか、そういう精神は残していかなければいけないと思います。






2026年6月15日月曜日

高橋克実(俳優)              ・師匠を語る「演出家実栗山民也を語る」

 高橋克実(俳優)          ・師匠を語る「演出家・栗山民也を語る」

映画やテレビ、そして舞台で活躍する高橋克実さんが師と仰ぐのは、舞台、演出の第一人者栗山民也さんです。 演出家栗山民也さんと俳優高橋克実さんの師弟関係を伺いました。

映画、ドラマに憧れてこういう世界に入りましたけれども、舞台と言う魅力と言うものがわからないでやり始めていました。 栗山さんと仕事をするようになってそう思いました。

栗山民也さんは、1953年東京町田市で生まれます。 早稲田大学文学部演劇学科卒業後、小沢昭一さんが主宰する芸能座に所属。その後演出家の木村光一さんに師事して、1980年「ゴドーを待ちながら」で、演出家としてデビューしました。 文化庁派遣在外研修員として、イギリスのナショナルシアターでの研修を経て、1996年「ゲットー」の演出で紀伊国屋演劇賞、芸術選奨新人賞などを受賞、演出化としての評価を不動のものとします。 2000年には新国立劇場演劇部門芸術監督に就任、監督就任後、目玉となった作品を井上さんに依頼します。 これが「東京裁判三部作」です。  第1部「夢の裂け目」第二部「夢の涙」そして第三部「夢のかさぶた」これで完結する「東京裁判三部作」です。 また芸術監督を7年間勤める一方で、新国立劇場演劇研修所の初代所長として、高い水準の演劇教育体制を確立しました。 2013年の紫綬褒章に続いて2023年には旭日小綬章を受賞。さらに今年第82回日本芸術院賞恩賜賞を受賞、活躍観続いています。

私の初主演作は2008NHKテレビドラマ「フルスイング」大河ドラマでは、「龍馬伝」など数々のNHKのドラマに出演しています。 最近では連続テレビ小説「虎に翼」で演じた、新潟県三条市の杉田太郎役、新潟県三条市は私の出身地です。  最初は劇団に憧れて入りました。 劇団離風霊船に入団。 劇団主宰・大橋泰彦の作・演出作品の「ゴジラ」にモスラ役で出演、新進劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞を受賞しました。

栗山さんを一言で言うと、初めて会ったプロの演出家です。  「メディスンの薬」?の稽古の時にサンダル履きで行った覚えがあります。 ジャージに裸足で行きましたが、靴の紐を結ぶというト書きに書いてあることが出来ずに、栗山さんから注意を受けました。 以後稽古への向き合い方が変わりました。 20代から30代に所属した 劇団離風霊船「ゴジラ」で岸田國士戯曲賞を受賞。(1998年 27歳) その時には、栗山さん自身のことも岸田國士戯曲賞がすごいっていうことについてもあまり知りませんでした

ミュージカル「阿国(おくに)」の初演が1990年で栗山さんの演出でした。    観客として初めて見に行きました。 木の実ナナさんが主演。 当時、日本のミュージカルが人気のあると言うものではありませんでしたが、力強さエネルギーを感じました。 「東京裁判三部作」の第一部の「夢の裂け目」が2001年、第二部「夢の涙」が2003年、2006年が第三部「夢のかさぶた」これに出演しました。     栗山さんとは1番距離が縮んだ時でした。 この三部作は自分にとってはターニングポイントとなりました。 井上さんの本と栗山さんは相性が良かったんだと思います。 

それほど面白くない所でも栗山さんがやると面白くなるんです。 女優さんの仕草とかを女優さんよりも上手に栗山さんはやります、やってみせる。  栗山さんは、稽古場のときの仕事の場とそうじゃない時では全然リラックス感が違っていました。  2023年に栗山さん演出の「海をゆく者」にしました。 翌年第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞しました。 海をゆく者」は、僕は初演も再演も見ていて、ものすごく面白かったです。 

初演、再演は、吉田鋼太郎さんが演じた役を3回目の演出では、私のほうに栗山さんからオファーが来ました。 ものすごい大変な役なので、逃げたかったです。 どうなるかなと思いながらやることになりました。  苦労した甲斐があって、第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞することになりました。 栗山さんとの出会いは、1992年の「メディスンの薬」?から、今回の「花よりタンゴ」で34年の師弟関係になります。 教えとしては、言葉と言うよりは、栗山さんの姿勢だと思います。 12ヶ月ずっとここ何十年と演出し続けていてすごい本数だと思います。     常に演出の事しか考えてないんです。 生きるという事は、演出そのものなのです。

栗山さんへの手紙

「・・・今日もどこかで大好きな演出をされていることでしょう。 誰よりも早く稽古場に来て、終わると颯爽と風のように去っていく。 112ヶ月休むことなく演出をやり続けて何十年、やや半世紀。・・・まさに日本演劇界のマグロ、栗山さんとの一番の思い出は、2001年の新国立劇場の 井上ひさしさんの「夢の裂け目」・・・なかなか台本が上がらずに稽古ができず、その分よく飲みに行っていろんな話を聞けたことです。・・・」