輪島裕介(大阪大学大学院教授) ・〔人ありて、街は生きアンコール〕 笠置シヅ子と服部良一が生み出した”ブギ”の世界
笠置シヅ子さんをモデルにした朝の連続テレビ小説「ヴギウギ」をきっかけに、その生涯や代表曲が注目を集めました。 「東京ヴギウギ」「大坂ヴギウギ」「買物ブギー」など服部良一さんとのコンビで生まれた数多くの曲は敗戦後の日本に勇気と元気を届ける音楽となり、今なお人々に愛され続けています。 二人の「ヴギウミ」?や「ヴギウギ」はどのように誕生し、流行歌となったのか、大衆音楽を研究している大阪大学大学院教授輪島裕介さんに伺いました。
ポピュラー音楽の研究の自分の音楽対象は、近代音曲史です。 最近の著書は『昭和ブギウギ: 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』 1920年代30年代当たりに、特に大阪を中心に新しい音楽を体現している。 西洋の音楽に頑張って近づこうというよりは、西洋式のハーモニーの高度な技法を身に付けて、言葉と旋律を融合させたところがおおきい。 服部さんは少年音楽隊に入って、頭角を現してきた。 サックスフォンを演奏していました。 自分の知っている馴染みのある旋律を音楽隊用に編曲するというところから、彼の作曲が始まっている。 服部さんは1907年(明治40年)生まれ。 服部さんが少年音楽隊に入った日が関東大震災の日でした。 その後ラジオ局のオーケストラに入りました。 そこで本格的にクラシック音楽に触れます。 夜はダンスホールで演奏して、新しい管弦楽の手法とアメリカ式の演奏スタイルを身に付けていきました。
笠置さんは1914年生まれ。 生まれは香川県で育ちはずっと大阪です。 非嫡出子として生まれて、育てる母の元に引き取られて大阪で育つ。 小学校の頃はお風呂屋さんをやっていた。 好き放題歌ってもいい環境だった。日本舞踊も習っていた。 宝塚の少女歌劇を受けるが、歌と踊りは合格する。 体格審査ではねられる。(小柄で華奢だった。) 松竹の少女歌劇に押しかけ入門する。 最初は踊りで何年か後に歌に転向する。 東京の松竹歌劇団に移籍する。 副指揮者として呼ばれたのが服部良一だった。 昭和14年このコンビが注目されるようになる。
*「ラッパと娘」 作詞・作曲:服部良一 歌:笠置シヅ子
自然な歌い方でリズムが中心になっている。 世界の流れに沿っていた。 服部は笠置シヅ子に地声て歌うように指示している。 服部はレコード会社の流行歌の作曲者としても売れ始めていた。 淡谷のり子の「別れのブルース」。 歌手の個性に合わせて作ることをした。 日米開戦によってアメリカ文化が敵になる。 笠置シヅ子と灰田勝彦は活動の場所がなくなってゆく。 服部さんは戦争末期上海に渡っている。(陸軍軍属 上海の文化人と交流をして日本の大衆文化のレベルの高さをアピールする。)
笠置シヅ子は吉本頴右と恋愛関係になる。 子供が出来るが、生まれる直前に吉本頴右は亡くなる。 「元気のいい曲を書いてください。」と、服部に告げる。 「東京ヴギウギ」が生まれる。
*「東京ヴギウギ」 作詞:鈴木勝 作曲:服部良一 歌:笠置シヅ子
当時の一般的な流行歌に比べて歌いにくい曲だったが、熱狂的だった。
*「買物ブギー」 作詞・作曲:服部良一 歌:笠置シヅ子
リズム音曲という言葉を捻り出しました。 話芸に近い。 庶民的キャラクターを演じた。
以後ヒット曲は出なくなる。 徐々に歌わなくなり、御芝居、ラジオ、テレビに出演するようになる。 「大阪の歌と踊りの女王」と言いたいですね。