小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト) ・母の遺した我が家の歩み 後編
小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。
ラグビーで指を怪我した征爾はピアノを諦め、親戚の斎藤秀雄氏のお宅に一人で伺って指揮をしたい旨話したら、来年音楽学校が出来るからそこに入って来なさいと言われて、それが桐朋学園の音楽科だったんです。 母が讃美歌を教えてくれたのが、我々4人の音楽に対してのきっかけだったと思います。 征爾は中学で合唱団を作って僕も入りました。 その時に歌ったのが全部讃美歌でした。 その合唱団が今でも続いています。 音楽に対する才能がありそうだという事で、父がピアノを購入する決心をするわけです。 ピアノの値段が3000円でした。 父は高級カメラなどを売ってようやく3000円を作ったらしいです。 父はカメラが趣味で家族を撮りまくって、アルバムが10冊ぐらいありました。 それを母が引き上げる時に全部持ってきました。 兄たち二人が横浜からリヤカーで3日かけて立川の家まで持ってきました。 心配で父も途中から参加した様です。 征爾は弾いてみて、音が「綺麗だね。」と言ったのを覚えています。(運んできて調律もしていないのでそうではなかったと思いますが。) 4人のために買ったピアノでしたが、翌日から征爾がほとんどずーっと弾いていました。
ラグビーに対しては母が指を怪我するからやめた方がいいと言われていたが、母に内緒でラグビーを続けてとうとう試合で指を何本も骨折して、鼻の骨も折って包帯だらけでピアノの先生のところにいったら、「小澤君ピアノだけが音楽ではないよ。指揮というものがあるよ。」と先生がおっしゃったというんですね。 素晴らしい征爾の一生を決める一言だったと思います。 豊増昇先生という方は当時は日本を代表するピアニストでしたが、征爾にはバッハしか教えなかったというんです。(他の生徒にはショパンとか教えたのにも関わらず。) 征爾はバッハをやったことが後々役だったと言っていました。 先生の兄さんとうちの父が中国で一緒に政治団体で政治活動をしていた。 そういった関係で弟子にしてくれたようです。
フランスの国費留学生の試験に落第してしまって、それでもフランスに行ってしまいました。 自分では受かるつもりだったが、フランス語が全然できなくて落ちてしまったらしいです。 スクーターを貨物船に積み込んでフランスに行っちゃったようです。 マルセーユからパリまでスクーターで1週間ぐらいかかって行ったそうです。 宿は安いユースホステルや野宿をしたそうです。 掲示板にブザンソン指揮者コンクール募集と書いてあったが、締め切りが過ぎていました。 諦めずに日本大使館に行って交渉したが何もしてくれず、諦めずアメリカ大使館にいったらブザンソン音楽コンクール事務所に連絡をして、締め切りが終わってしまっていたのに特別に受け付けて貰いました。 課題曲を一生懸命練習して優勝してしまいました。
フランスではカラヤン、バーンスタイン、シャルル・ミュンシュと言った指揮者から師事する。 井上靖さんがローマオリンピックの件でパリに取材をしに来ていたそうです。 出会って、コンクールで優勝したのにもかかわらず仕事が来ないので日本に帰ろうかと弱音をはいだら、先生は怒って「小説は書いても翻訳されなければ読まれない。 音楽は演奏すれば世界中の人に聞いてもらえるんだから、もっとフランスで頑張れ。」と言われたそうです。以後征爾は先生が亡くなるまで親しくしていました。
ヨーロッパで指揮者としてデビューした当初、新聞記者、評論家から「お前は日本人なのによくモーツアルト、ヴェートーベンが判るな。」と言われたそうです。 褒め言葉みたいではあるが、本当は判っていないだろうという差別的なニュアンスで、言われたというんです。(何年にも渡って言われた。) 東洋人が西洋人の音楽をどこまで理解できるかの実験が俺の使命だというようなことをよく言っていました。 言葉が通じないオーケストラでも俺は大丈夫だといっていました。 集中力があり、舞台の30分ぐらい前に15分ぐらい鼾をかいて寝たりするんです。 パッとタキシードに着替えて舞台に出てゆくんです。 朝4,5時に起きて集中的に勉強して覚えるらしいです。
立川は米軍が来て治安の悪い街になってしまったので、父は田舎に行って百姓をやろうという事で神奈川県の足柄の田んぼばっかりの藁ぶき屋根の家に引っ越して田んぼをやりましたが、会社を作って倒産したりしました。 僕が高校1,2年のころにはどうにもやっていけなくなって、歯科医院を作って何十年ぶりに歯医者を始めました。 母は愚痴一つ言わずにやって来ました。
征爾が高校をどこにするかという時に、玉川学園と成城学園があり、玉川学園は一貫教育で成城学園は来たいときに入って出たいときには出ればいいという事で、母と一緒に決めて成城学園に入ったそうです。 成城学園で音楽の仲間がいっぱいいたので、いい3年間を送りました。 いつか「俺が成城学園に行っていなかったら音楽家になっていなかった。」と言っていたことがありました。 或る合唱団に入って、指揮によって音楽が変ることを知ったそうです。 兄から指揮の練習方法などを教わりました。 貧乏で中学の授業料の滞納があり、掲示板に良く征爾と僕の名前が張り出されていました。 征爾は小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学しましたが、小田急電鉄の重役さんと知り合って、電車がただで乗れる株主券を呉れたと言って通っていました。
征爾が北京中央楽団で指揮を執ることになった中国再訪では、家族4人で行きましたが、大感激の中国再訪でした。 残念なのはあんなに行きたかった父が亡くなってしまっていました。 譜面台には父の写真、斎藤先生の写真、シャルル・ミュンシュの写真を置いて振っていました。 母が作って売っていた九重織りのネクタイは結構有名になり、銀座の有名な洋品店のショーウインドウに展示してあったそうです。 両親はこんなことをしてはいけないとか言わずに、自由にやらせてくれました。 母は明るくて前向きでした。 今考えると母が征爾を音楽の道に導いてくれた様な気がします。