2016年5月21日土曜日

田中丈裕(里海づくり研究会議)  ・海に森をつくる

田中丈裕(NPO法人里海づくり研究会議 事務局長)  ・海に森をつくる
62歳 岡山県のNPO法人里海づくり研究会議 事務局長。
大阪生まれ、大学で魚類学と栽培漁業を学んで昭和54年岡山県水産課の職員になりました。
しかし田中さんが直面したのは瀬戸内海沿岸の開発と海水の汚染による漁獲量の減少でした。
調べて見るとアマモ呼ばれる海藻、海草が生えた場所、アマモ場が激減していることが判り、昭和60年地元の漁師さんとアマモの種をまく活動を開始、次第に魚たちが戻って来ています。
海にアマモの森を作り牡蠣の養殖と組み合わせて里山ならぬ里海を造る取り組みはいまや国内だけでなく世界の海に広まっています。
田中さんは水産課長を最後に退職し、平成24年、NPO法人里海づくり研究会議をつくって引き続き民間の立場でアマモ再生と里海作りにかかわりその普及に努めています。

一時ヘドロの海だったところがアマモに変わっている。
春から初夏にかけてあまもの草丈が伸びて行って、茂ってゆく時期です。
米子湾、一番戻したい最初に育ててきた場所、一時は泥の海になっていたが、今は海の森が生い茂るようになって、透き通った海面になりました。
もう少しすると2m位になります。
アマモはいね科に近い植物で、海草と呼ぶことが多いです。
びっしり生えるので、流れを弱くして瀬の様な海域を作るので隠れることも出来、安心して過ごせる場所、えさ場にもなります。
大量の酸素を生みだして周りに高濃度の酸素を含んだ水を供給しますし、木陰を作るので水温の異常上昇を抑えたりしてくれるので、快適な場所を作る。
窒素、りんを吸収してくれて、赤潮を抑制してくれたり、水質をいい状態に保つ。
秋になると枯れて流れ、その葉っぱが広がって行って、色んな付着藻類が付いたり、動物が増えたりして栄養分を再配分するような役割も担っています。
温室効果ガスと言われる、二酸化炭素を吸着する役割が非常に高い機能を持っているので、その役割も注目されています。

子供のころから海が好きで、本に出会った。「土佐の魚たち」 著者が落合明先生。
先生にあこがれて高知大学、大学院に行き、研究がしたくて、岡山県の水産課の職員になりました。
赤潮が頻繁に発生していて、年間300件位起きて、養殖はまちが大量死するとか、一時は瀬戸内海が死の海と言われた時代だった。
だが瀬戸内海の漁獲量が一番だったのが昭和40年代後半だった。
当時プランクトンが増えて、イワシ類が非常に多かった。
のり養殖でも沖合でも取れるようになり、のりの生産量が増えていったし、牡蠣の生産も多くなった。
生活用水が海に入って栄養が豊かになり、窒素、リンが増えすぎていって赤潮が発生する悪循環が繰り返す様になる。
干潟、藻場が開発行為、干拓に依りずいぶん減って行って、有機物を捕まえて生物に置き替えてゆく、循環させる場所も減って行った。(昭和30~50年代)
昭和20年代まで 岡山県ではアマモ場が4300ヘクタール、干潟が4100ヘクタールあったが、昭和50年代後半までに9割が無くなった。
瀬戸内海全域でもあまも場、干潟ずいぶん減って、その後にそのことが原因で漁獲量が減って行った。

中高級魚(鯛など)が少なくなってきたのは藻場のせいだと最初に言ったのは日生(ひなせ)の漁師さんたちでした。
本田和士さんと出会って、当時は栽培漁業が華やかなころで、海老、蟹、真鯛とかいろんな魚の子供を放流していた時代でしたが、いくら魚の稚魚を放流しても住み場所がなければだめだと言って、アマモ場が無くなってしまっているので効果がでないと、言われてそれがきっかけになりました。
日生(ひなせ)だけで590ヘクタールのアマモ場があったが、12ヘクタールになり、その後5ヘクタールまでになり1/100になってしまった。
昭和54年ぐらいから岡山県の水産試験場がアマモ場に危機感を持っていて、アマモの種を取る技術を開発して、1985年にできて直ぐに撒きはじめました。
漁業仲間19名と何とかしたいと思って始めました。
僅かなアマモ場からアマモの花を摘んで、袋に入れて秋までつるして種が成熟したら何回も海水で洗って、健全な種だけが沈んで残って、生えそうな場所を選んでその種を海にまきます。

最初の年は15万粒しか取れなかったが、毎年繰り返しました。
藻場が無くなると環境が変化するのでなかなかうまくはいかないが、最初の年に蒔いたものが一か所だけ生えたがそのほかの15か所は全部駄目でした。
そこに毎年蒔いて行きました。
光の量、波の当たり方、海底の低質(砂、泥、砂泥とか)、など複雑な要因が絡んでいます。
3年目 1998年に水のろ過に使うゼオライトという低質改善材を撒いてみた。
そこに種を蒔くとそこにだけ生えたので、その後低質改善に効果的なのかどれかをいろんなものを研究しました。
1990年から大学の研究者も入って研究してきました。
最終的に牡蠣の殻がいいことが判りました。
2006年に牡蠣の殻を海に使える様なルールを作りました。

残っていたアマモの小さな群落を調べると、ほとんど例外なく牡蠣殻があった。
牡蠣殻はアマモだけではなく、海底に生きる小さい生き物を沢山増やしてくれる効果も後に判ってきました。
思いつく事は何でもやって、最初の20年間は行きつ戻りつの状態でした。
1985年から始めて1997年にかなり戻って目に見え始めて20ヘクタールまで戻ってきました。
米子湾でも6.8ヘクタールまで増えてこれで大丈夫ではないかと喜んでいたら、1997年7月26日に9号台風が来て、せっかく回復したアマモ場が全部流れてしまって、その時は本当にショックでした。
ここで止めてしまったら駄目だと言う事で、一念発起して始めてその後お陰さまでじわじわ増えてきて2005年平成17年 38ヘクタールまで戻りました。
翌年は56ヘクタール 平成19年80ヘクタールまで増えて、その翌年の春 40年以上姿が見えなかったモエビ(緑色の海老)が戻ってきた。

消えても消えてもくりかえしてきた漁師さんたちのたまものだと思います。
或る程度の規模まで戻ってくると自分達で増えてゆきやすい環境を作ってゆく環境形成作用があり、米子湾の種子の形成度が格段に多くて、環境を整えてゆく事と、種子の供給が多くなってゆく事でどんどん増えてゆきました。
更に種を蒔きはじめる
1985年~2013年 約30年間蒔き続けて種の数が1億粒をこえました。
2011年には200ヘクタールに戻りました。
2015年に250ヘクタールになり、今年はさらに増えると期待しています。
里海は1998年に九州大学の柳哲雄先生が作って提唱した言葉と概念です。
日生は里海作りのトップランナーと言われています。
瀬戸内海の広がりが日本国内に広がり世界にも広がってきています。

日仏海洋学会があり、フランスに呼んでいただいて、日生の里海の事、笠岡(カブトガニの繁殖地)の海洋牧場について発表しました。
海のお世話をしながら魚を育てておこぼれを頂戴するのが本来の姿ですよ、言う事を云いましたが驚いていました。(農業者みたいだと)
しかしこれから考えていかなければいけないことだと言われました。
じわじわ広がってきています。
柳先生の教え子が、インドネシアで海老だけを養殖していて自然環境の害になり、魚を含めた生態系に近い組み合わせの養殖法での里海構想を政策として進めていると聞いています。
平成25年に環境大臣賞表彰される。
漁師さんがやって来たことを、岡山コープさんが一緒にやっていただきました。
日生中学校の皆さんも一緒に、流れ藻がプロペラにからみついたり、海岸に打ち寄せられた藻が臭いと言う事で、これを解決するために手伝っていただきました。
今は流れ藻の回収がそのまま種子の採集になっています。
今年で第9回 「全国アマモサミット」2016が日生で行われ実行委員長を担当、アマモ場を何とか回復させたいと言う人達が一堂に会する、又地域が元気になる様な趣旨もあります。
時代に引き継ぐ、子供、孫と代々に豊かな海を残したい。