2016年4月6日水曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・占領期のラジオ放送 お便り特集

保阪正康(ノンフィクション作家)  ・占領期のラジオ放送 お便り特集
兵庫県 粟津孝氏?70歳からの便り
小学校3、4年生の頃、私がラジオと出会った記憶、日々家族が楽しめる娯楽、ラジオ放送だった。
真空管ラジオが鎮座、「昼の憩い」が始まると昼ごはんになる。
この番組が今も続いている事に驚くと共に、郷愁を呼び起こす。
当時子供達は遊んでいるが、5時を過ぎると皆家に帰る、「笛吹童子」を聞くためである。
テーマ曲は今でも歌う事が出来る。
家族全員で耳を傾けた様に思う。

「笛吹童子」  作詩:北村寿夫  作曲:福田蘭童
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ 
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  音も静かに魔法の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
野を越え山越え」
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ どこで吹くのか笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  金と銀の蒔絵の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
蒔絵の笛だ」
「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ 誰も知らない笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  どこで吹くのか不思議な笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ  たんたんたんたん たんたんたんたん
笛吹童子」



父が帰ると「お父さんはお人好し」「三つの歌」「二十の扉」などが定番。
狭い家なのでどこにいても聞こえることになる。

神奈川県 きたいもとえさん? 80歳
アナウンサー無しでは昭和史を語れません。
アナウンサー一人一人の個性、声が何時までも心に残っています。
昭和23年頃ラジオが入ってきたと思います。
父親はよく天気予報を聞いて仕事の話をしていました。
昼には「昼の憩い」が流れていました。
夕がたは学校から帰ると風呂の仕事をしました。
夜になると「二十の扉」を聞きました。
徳川夢声の人となりを想像する事も面白かった。
日曜日は「のど自慢」宮田輝さんを思い浮かべます。

高知県 かっとうこうぞうさん? 82歳
「カムカム英会話」を始めた。
テキストの下にカタカナの発音がしてあった。
中学生の私は毎夕6時からの放送を聞き逃すまいと、ラジオにかじりついていた。
学習経験はその後予想外に発展した。
かつての敵国アメリカ人3人と文通を始めた。
その後一人だけになったが、長く続いた理由は趣味、性格 、宗教が同じだったから、或いは異性だったからかもしれない。
中学の美術教師だったアンが生徒に書かせたアメリカの生活の絵を束になって送ってきた。
こちらからも写真を送ったりお互いに異国文化の知識を増やした。
私が留学し、ボストンのアンのところに行き、友好が一層進んで家族同士何回も行き来して親交を深めた。
退職後、アメリカに旅をして3週間アンが先立って案内してくれた。
広島の原爆資料館を案内した時アンは泣きじゃくって動けなくなった。
1951年から始まった文通は65年経った今も年に5回ほどの頻度で続いている。
敵だったものをも愛し、信頼する、食糧不足で困っていた敗戦国日本に食料や物資を与える精神がアンの中にもあると痛感する。
全てのきっかけを作ってくれたのが、「カムカム英会話」であり、教本を大切にしている。

埼玉県 なとりみつさん 81歳
戦後間もなくラジオの街頭録音がきました。
ドッジボールをしていた時にボールが準備をしていた人のところに飛んで行ってしまったが、今日の方がボールをなげてかえしてくれました。
その人は輝いて王子様の様でした。
藤倉さんという有名なアナウンサーだと言う事を知りました。
村中を熱狂させた街頭録音を知る人も年々少なくなってきました。
藤倉さんって素敵だったねと話す私たちもすっかりおばあさんになってしまいました。
小さな村の昔々の話になりました。

福島県 おおほりくにこさん 70歳
母が書いた「春の足音」という文が婦人の時間というNHKラジオ番組で全国放送されたのはいまから50年も 60年もまえのことでした。
両親は洋服仕立業で、2畳ほどの仕事場にはいつもラジオが流れていました。
私が小学4,5年生の頃、「春の足音」が入選し、春分の日に全国放送されることになりました。
母の番になり胸がドキドキ、元日の竹笛の初音の音、屋根の雪が溶けて雨だれとなる音、獅子舞の音色の後、3分ほどの母の文が読まれました。
母は91歳で亡くなりましたが、応募したこと放送の事などが今でも話されます。

東京都 相沢恭子さん? 82歳
昭和20年代、「私は誰でしょう」というラジオ番組があり、高校生だった頃、或るとき長野放送局に来られ、祖父の名前で応募、採用された。
ラジオの前でかたずを飲んで聞いていました。
歴史の好きな祖父は第一問で北条政子言い当て賞金2000円、最後の問題も答えてこうもり傘を貰い、祖父は益々自慢度が大きくなった。
(ラジオは家庭の輪を作る一つのメディアだったのかもしれない。)

静岡県 たたらともひこさん? 85歳
私は昭和5年生まれ、85歳です。
子供のころからラジオ大好き人間でした。
昭和20年8月15日 玉音放送で戦争は終わり、家が焼けラジオの放送を聞けない暮らしが続きました。
ラジオから明るい歌声が聞けるようになり、嬉しかったです。
17歳になり眼底出血で全盲になり、ラジオだけが頼りの毎日、大学検定が受けられることを知り、毎日ラジオを一日中聞いて、大学検定に受かりました。
その後もさらに学びソシャルワーカーとして今も微力ながら働いています。
福祉の援助をしながら、文芸や昔の歌を楽しみに暮らしています。
ラジオを愛しながら生き抜いています。

名古屋市 加藤かずまろさん? 78歳
中部地方の銀行の会長をされている。
昭和22年 中国広東、大連市から母と3人の妹と日本に帰国。
終戦時小学校 2年生だったが学校にも行けず、その後4年生として迎え入れられた。
昭和24年頃NHKで「鐘の鳴る丘」が放送された。
復員兵と戦争孤児が明るく強く生きてゆく様を描いていた。
平成11年5月アジア開発銀行総会がマニラ本部で開催された。
アジアの貧困問題が取り上げられ、ストリートチャイルドのパフォーマンスが行なわれた。
貧困の中で生き抜いてゆく子供たちの姿を歌とダンスで描いたものである。
3人に一人は安全に水が手に入らず、識字率が低く、子供の栄養失調が根強くのこっている。
貧困からの脱出の支援の強化が訴えられた。
この状況を見て、引き上げの苦しみと日本の貧困と混乱の時期を描いた「鐘の鳴る丘」が流れていたころのことを思い浮かべた。
アジア開発銀行総裁が子供達はアジアの将来であり、我々は彼らの将来に対して大きな責任を有している。
我々はアジアの人々の幸福のために全力を尽くすと言うのが印象的だった。
今日の私たちの責任は大きい。