2015年2月24日火曜日

レシャード・カレッド(医師)     ・ 医師に国境はない

レシャード・カレッド(アフガニスタン出身・医師)     ・医師に国境はない
1950年生まれ 64歳 日本の進んだ医療を学ぼうと、19歳で来日し、京都大学の医学部を卒業しました。
その後静岡県の島田市で開業し、無医村への往診や老人介護に取り組んでいます。
その一方で死と隣り合わせの生活を送る故国の人達を救おうと、アフガニスタンに診療所や学校を作る活動も続けています。

小さい時から近所でかわいがってくれたお爺さんが、小学校の3年生になった時に、お爺さんが病気になって、医者が往診に来てくれて、食べれなくて寝たきりのおじいいさんを励ましてくれて、食べれるようになったりしたが、ある日家族を呼んでそろそろ爺さんは長くはないと話をして、家族は御礼言って感謝していた。
私は一方でお爺さんに対しては励ましの言葉を言いながら、家族にはそのようなことを言って、お爺さんに対してなんで嘘を言っているのだろうと心で思った。
家族は感謝して、お爺さんは手を合わせてお医者さんを送って息を引き取ったところを見て、時にはお医者さんは嘘をつかなければいけないという事は辛いだろうなあと思った。
これこそ人のため世のためにやっているんだなあと感動しました。
医者になって患者自身を思いやる事、家族を思いやる事をやって行かなければならないなあと決心しました。
お爺さんは結核だった。 まともな薬もなかった。 
唯一、医者の声がけが薬だったのだろうと思う、楽しみにして待っていた。

カブールの大学の後、日本の医療を学ぶ為に昭和44年に日本に来る。
最初は言葉で苦労する。
下宿しようと思ったが無くて、新聞に広告を出して、2軒OKだったが、1軒女性だと思っていて断られ、もう一軒はお爺さん、お婆さんの家でOKとなった。
親切すぎて、下宿代もとってくれないし、食事も出してくれる。
お婆さんは日本語で一日中対応してくれて日本語を学ぶ事ができた。
なんでそんなに親切にしてくれるのかと問うたら、我々は(お爺さん、お婆さんは)戦争中に中国にいて、日本に引き揚げようとするが、危険を感じたが、中国のお婆さんがかくまってくれたりして、船底に隠して日本への船に乗せてくれた。

その後お婆さんはどうなったのか連絡は取れなくて、お婆さんに恩返ししようと思っても出来ない、そこに現れてきたのが君だったんだよと、君に優しくしているのではなく、お婆さんに恩返ししているだけなんですよと言われた。
これこそ心の中の綺麗なボランティアだと思って心を打たれた。
そこが私の医療人としての道筋ができたと思った。
今度私から第3者にどういう風に恩返しするか、自分の人生のなかで考えて行かなければならないと思います。

専門は呼吸器。(アフガニスタンには結核が多い)
アフガニスタンに帰る予定だったが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻して、再考せざるを得なかった。
自分の目指してきたもの、日本で勉強して志すべきものを全部失われてしまった事が一番のショックだった。
私にできる事は何だろうと、戸惑った。
アフガニスタンに戻っても軍隊に入ってしまっては目的が果たせない、目指してる医療は日本でも世界のどこでもあるだろうと、その人たちに精一杯医療行為をすれば役割を果たせる、日本にいる事に依って、アフガニスタンに何か貢献できる別の体制が作れるのではないかと考えた。
赤十字病院で仕事をしているうちに、島田市に戻ってこいよとの話が有って、本気で言っている事が判って、開業する事を決心しました。
熱いエールを送ってくれた事は物凄い感動でした。

島田市に開業して1カ月の頃、夜中に父親が危篤状態なので見に来てほしいと言われた。
脳卒中で処置して、朝方に帰ってきて、診療して、午後行こうと思ったが道が判らなくてようやく行ったが、まばらに数軒しかなくて、往診してほしいとの要望もあり往診するようになった。
常に20~25人は往診している。 
月に380~400人はあると思う。
ただ薬を渡すのではなく、日常生活そのものを面倒見ないと、生活できないし、医療、快方につながっていかないので支援していかないといけないと思う。
医師が病気を見るという事は、その人自身の生活と自由を見落とす事が有る。
人間は病気を治すだけが根本ではなくて、豊かに生きることが大事なので、病を見るのではなく、その人の人生とか、生活そのものを見てその状況を十分に理解していないと、その病気の根本に差し迫ることも出来ないし、治すことも出来ないので、患者をトータルで見る、家族、環境、その人のやってきた人生そのものを見ないと、その人の習慣に依っても受けられるサービス受けられないサービスが有るので、全部見ておく必要がある。

往診で医療そのものでは解決しない事が判ってくる。
介護施設を3つ作るが、町の中に在る、住む家と同じ感覚になる、安らぎになる。
毎日 朝 昼の食事を認知症の人と職員がいっしょにつくっているが、生活リハビリになるし、生活している以上は楽しく無くてはいけない、自分たちの食べたいのは献立も考えて自分たちで味付けして行う。
私を必要としている人がいっぱいいて、上手に使ってくれるので有難くてしょうがないです。
彼らが呼んでくれて、その生活、役割を私に与えてくださったので、その役割をどう貫いていけるのかが、みなさんに対する恩返しだと思っています。

2001年同時多発テロをきっかけに空爆が始まり、沢山の方が犠牲になり、2002年にアフガニスタンを支援するNGOを立ち上げる。
2001年 年末にアフガニスタンに行くが、多くの人が路頭に迷い、学校にも行けない。
出来ることは何かと、医療をやってゆく必要が有るが、教育も大事だと思う。
診療所を作る。 40万人の患者を見てくるが、6割近くが大人の女性、母親たち、が病気である事が社会問題です。
病気にならないための衛生教育も大事で、栄養のバランスの問題、等教育を中心にやっている。
子供を中心に予防接種をやっていて6万人の子供達に予防接種をやっている。
産婆さんも育てて、去年150名の子供達がそういうところで無事に生まれた。

危険を伴う事もあるが、一番大切にしていたいのは信頼と言う事です。
危険なところに行っても待ってくれているときには必ず彼らが守ってくれる。
学校も設立して1000人以上が通っている。
残念なのは今の子供は昔の姿を全然知らないで大きくなってきている事です。
もっと平和な時代を知らないのは、さびしい事です。
戦争で怪我をしたり死んでいったりするよりはまだましだと、これだからこそ平和だと思いこんでる人たちがいる、彼らには比較が無い。
昔は農業国でお互いに気持ち良く相手を思いやることが多かった、安らぎのある生活だった。
田舎に遊びに行き、勝手に知らない人の農園に行って一杯食べても、地主さんがうちを選んでくれてありがとう、昼も食べて行きなさいと言ってくれる、本来のアフガニスタンのお客さんに対する本来のアフガニスタン人の心だった。
お互いを大事にしていました。

日本の「お陰さま」の言葉は大好きです。  他の国にはない言葉。
日本は平和、繁栄があふれている国だが、平和ボケしてしまっている様な気がする。
平和の価値観が判らなくなったり、平和の意味を考え無くなってしまっている様な気がする。
今の繁栄、平和は多くの高齢者が一生懸命頑張って自分達を犠牲にしてこの国を作ってきたが、高齢者が邪魔扱いされて、社会のお荷物の様な扱いをされている。
平和そのものを軽視してしまっているという事もある。
日本の憲法 9条 平和が大事であるという根本だけは決して崩してはいけないと常々思っている。
感謝の気持ちを、恩返しして行きたい、身体が動く限り一生懸命に続けていきたいし、日本がもっと安泰であるために、気付いてもらえることを子供達に伝えて行きたいと思っています。
医師の報酬は皆の喜びです。 
褒められる事喜ばれる事が人間が次に頑張ってゆく事につながると思う。