2014年4月19日土曜日

森谷英俊(興福寺執事長)     ・維摩経(ユイマキョウ)に今を学ぶ

*4/20,21は小旅行の為、投稿できません。
追って追加したいと思います。ご了承下さい。

森谷英俊(興福寺執事長)         維摩経(ユイマキョウ)に今を学ぶ
五重塔の隣りにある東金堂には国宝維摩居士坐像があります。
眼光鋭く、みるものにせまるような姿です。
このインドの維摩詰という人物は仏でも僧侶でもないのですが、彼を主人公とする経典維摩経が今に伝えられ、興福寺ではその教えを大切に守っています。
興福寺(大化の改新で有名な藤原鎌足が、669年京都の山科に創建した山科寺を、710年平城京遷都とともに、鎌足の子の不比等が、現在地に移し、その名も興福寺としたもので、藤原氏の氏神である春日神社と神仏習合で、一体となった寺)
西暦100年ごろに成立したと考えられる この経典では、生老病死だけではなく、政治、経済、平等と差別と言った人間社会のかかえる様々な問題を、維摩きつに依って提起されています。
興福寺の執事長の森谷さんは寺の生まれではなく、大学卒業後出版社、市役所での勤務をお経て僧侶になりました。
いくつかの寺を訪ね、32歳の時に興福寺に入る事になった森谷さんは、以来維摩経の教えを本格的に学び、広く市民に伝えています。
経典に記された物語には現代社会にも通ずるものがあると、いう森谷さんに伺いました。

維摩経はインドにおきまして、紀元前後に商人、王侯貴族が勃興してきた。
非常に活発なエネルギーが満ち溢れていた。
商人たち、、王侯貴族達の中の在族の長者を主人公にしたお経です。
仏教の目的は我々生きとし生ける者の救済になるが、当時のインドでは非常に貨幣経済に突入していた。(日本が縄文時代)
社会の大変革を迎えた中で、人心も色々な価値基準も変わった時代で、まさに現代の日本、世界と同じ状況に、近い。
人は欲望がある。 社会的な生き物なので規則、制約がある。
そういうものにどうしても縛られてしまう。
欲望、制約から解放されるのには仏教の世界がある。
維摩居士(釈迦の在家の弟子)は在族にありながら、制約から離れて、心の束縛から解放されて自由な世界を示した経典なんです。

智慧の文殊様との問答を通して、行くわけです。
智慧の文殊様がしり込みするほどの、出家者でない、維摩長者との会話がわくわくするような感じで展開される。
全ての人のリーダーとして維摩長者は共通の福を人々が求めるように、常に我々衆生につき従う。 
維摩経の中の第2章 「方便品」にある「令興福力」(りょうこうふくりき)
その中の共通の福を追い求める力を付けてもらう事、と言う事で福力と言う言葉が出てくる。
それを興福寺の興福、福力を興さしむの意味になっている。
現代語訳はシナリオ形式になっている。
初期大乗経典で有るので、部派仏教、出家至上主義、自分が悟りをひらかないことには、人を救う事もなかなか容易にできないと言う事で、悟りだけを求めてゆくが、座禅を組めない忙しい人たちとかは、悟りを開けないのかと言う風な話にもなってゆくが、それは違うと言う事で誰でも平等に悟りの世界に行こうと言うのが、大乗の運動であった。 宗教改革
最初の頃の経典が維摩経であるわけです。
生老病死だけではなく、政治、経済、平等と差別と言った人間社会のかかえる様々な問題を、維摩詰に依って提起されています。

①平等性を追求する、②誰でも等しく悟りへ到達する事が出来る。
思想的には空 空の考えを導き出す、仏教でいうところの縁から成り立っている非常に在家のものに興味を持たしてくれる、真実の道に導いてくれるような意味合いの経典。
弟子品(維摩経の第3章) 自分の悟りを求める 第一義
菩薩品(維摩経の第4章) 弥勒菩薩とか力のある菩薩が出てくるが、彼等も悟りへの道についての思い違いを維摩居士に正されると言う事がある。
観応力 こころで見る。 弥勒様は56億7000万年の後に表れる。

維摩経に出会ったのは高校生のころに、失恋から入ってゆく。
大きな最初の挫折、乗り越えるもの、忘れさせてくれるもの、ないかと図書館に行ったら、世界古典体系があった。 
仏典、聖書があり、結局仏典は良く分からないから、それを読んだら其中に維摩経があった。
こうした道を進めば自分は鍛えられるなあとそのときは思った。
須菩提(釈迦の十大弟子の一人)が維摩居士のところに托鉢に行く。
お釈迦さまが悪魔の道の石絵をしたときにお前は付いていけるのかと言ったら、どんな悪人でもついて行くのかというギリギリの選択を迫る。
須菩提は真実の悟りに目覚めてゆく。

いずれ死ぬだろうとは思っていたが、現実問題ではなかった。
友人たちとの海外旅行先で、気がついたら病院に運ばれていた。
薄れゆく意識の中で、このままもう終わりなのかという気持ちがあった。(死を実感した)
仏教の道に入ることを決意、興福寺の田川俊英さんに出会う。
仏教の合理的な考え方に惹かれて興福寺に入る。(32歳の時)
維摩経が現代社会にも通じる事に気が付く。
性差別、弱者虐待、そうしたことが社会現象で見られている。
維摩経は平等性を追求している。 

維摩居士 自分が病気になると言う事は我々と同じレベルまで神通力を弱めて病の身を見せる。
同じレベルで、一緒に物事を成し遂げていこうと言う。
「己の病を持って彼の病を憐れめ」と続く、自分が病で苦しむ事で初めて他人の病の苦しみを共有できると説く。
日本の社会も進歩してきて体の不自由な人にも快適な生活が送れるように、環境がととのえるとおもって、色々政策がなされているが、個人個人がそうした方々に対してどこまで、同じ心根、心情を共有できるかと言うのは、なかなか難しい問題だと思う。
悟りの道筋では縁と言う思想がカギになると言います。
「縁」、現代語に訳せば、「物事を成立させる条件」と言ったらいいと思います。
世は時空は違うが一瞬を共有している。 
その中の一つが欠けてもいまのこの世界は成り立たない。
縁と言うものは非常に大きく、ミクロの世界から、マクロの世界まで、世界を形造る条件として、有機的に絡み合っている。
色々な原因があって、結果が生まれ、そしてそれが原因と成って、結果が生まれると言うコスモロジーの世界を仏教では縁と言う。

縁で成りたっている私と言うものは常に変化せざるを得ない。
常に今、未来はまだ来ない。 人間は皆今しか生きられない。 不動の今。
どのように理解してゆくかと言うのが悟りへの道の入り口だろうと思う。
「般若心経」 空の思想は維摩経にも記されている。
空は仏教の基本的な考え方。
どこまでも変わらない自分があると言う事は仏教では考えない。 アートマン=我
「法」とは「任持自性・軌生物解」(にんじじしょう きしょうもつげ)
 (「それ自体の本性を保持し、軌範となって他の解知を生ぜしめるもの」とされる。)
この世の中で全て変わらない事は無い。 諸行無常
物事を成りたたせる要素はある。 
例えば、時計というもの ぜんまい、ネジ、・・・で成りたってるが、バラしたら時計は無い。
時計と言う絶対のものは無いが、時計を成りたたしている要素はある。
我空法有(がくうほうう) 物事の存在ありよう。
我空法空(がくうほっくう) 部品すらもない。
自性 →物事を常に永遠にあらしめる変わらない本体。  
自性が無い状態を「空」という。

色即是空   色 物質と言っても、ものの形と色であって、物事を理解しているわけではない。
本と言っても、形だけを見ている。 (中味を知っているわけではない)
本があるんだと、概念として、言葉として表した事があるんだという錯覚に陥っている。
あの人はいい人(A)です。 Aさんはいろいろな条件 縁で 殺人を犯してしまうかも、物を取ってしまう事があるかもしれないし、悪いことをしてしまうと、Aさんは悪人になる。
Aさんは悪い人だと固定概念を持って見てしまう。
Aさんを理解しているわけではない。
そういうものを乗り越えないと、人間関係も、物事の本質も見えてこない。
固定概念を乗り越えていかないといけない。
それを自性と言っているが、物事全て自性がない というのが「空」なんです。
周りの人が亡くなっても自分だけは、どこまでも生きてゆく様な想いは持っている。
それは自性がないことを認識していない。
常に変わる。 諸行無常。全ては移り変わって変化してゆく。

維摩経では 対立する二つの事柄でも、一つと捉える事で真の悟りに到達出来ることが示されている。
入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん) 維摩経第9章
この世の中はあなたと私とか、正しいとか間違っているとか、自分から離して、自分と対比させて認識の世界が成り立っているので、どういう風に菩薩達は乗り越えているのか、というお話の内容にもなっている。
色々な例を対になって話している。
獅子菩薩が出てきて、福と罪は本来、別々のものだが、本来は一緒なんだと言っている。
福は善行、罪は悪行 どうして一緒なのか。

仏教では全てを平等追求するのが基本なので、縁に依って現象を起こす。
何かを取ってしまったら、罰せられるし、あの人は悪い人だと言う事になるが、仏教的に見ればその人は悟りに入れないのかと言う話になるが、悪人でも救われるだろうと言うのが仏教の考え方です。
我々悟ってない人間がなぜ悟れるかと言う事です。
悪人はどこまで行っても救われないのかと言う事になってくる、改心したときに、聖になる世界に行けないのか、とういう話になってしまうので、そうしたものが一つとして考える処に罪も伝業も同じ土俵の中で、縁に依ってたまたまできた、そうした現象を固定的にとらえてしまう事を無くそうよ、言う事なんです。
穢れと清らか  悩みと悟りとかは 対極ではない。

唯識 悟りへ至る実践業の中での心の動きを分析したもの
心の深層は 阿羅耶識に溜めこまれている。
満月 離れた月と自分の認識する月 仏教的には一つ 
認識するものと認識されるものが唯識仏教では一つになると言う考え方。
我々が概念化してみて居るものは、なにか覆いかぶさって見せていると言う事、ずれがある。
(認識のずれ) 固定的ではない。
富める者、貧しき者  富める者は喜んで分かち与える、貧しきものは卑下する事無く、より自分を向上させて、より社会の中で自分を高めてゆく、良い循環と言うものが仏教の中では求められる。