渡辺和子(83歳) ノートルダム清心学園理事長 | |||||||||||
渡辺和子の父は渡辺錠太郎・・・1874年4月16日
- 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、 二・二六事件の犠牲者 |
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荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木 の要望に反して林銑十郎が就任した |
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翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた 渡辺が選ばれた |
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渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てている といわれていた |
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1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に殺害された。61歳没 | |||||||||||
6時ちょっと前に30数名の青年将校が車で来る 部屋に乱入し軽機関銃で足を狙って40数発撃つ | |||||||||||
和子9歳の時でたまたま父の部屋にいた為、一部始終を見てしまう その光景は生涯忘れられない | |||||||||||
和子は父が51歳の時の子供でとっても父にかわいがってもらった | |||||||||||
父の学歴は小学校4年で独学で勉強して陸軍士官学校に入り、陸軍大学を首席で卒業する | |||||||||||
派閥には属さず(皇道派、統制派) 外国に駐留武官として良く出掛ける 世界情勢に明るい | |||||||||||
戦争は勝っても負けても国が疲弊する・・・軍備は強くなくてはいけないが戦争はしてはいけない→ ブレーキになっていたが |
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歩兵、騎兵隊の時代ではなくこれからは空軍が大事であると力説していた | |||||||||||
旭川第7師団に飛ばされる→空軍の重要さが広まり空軍関係の要職に戻る(大正15年) | |||||||||||
1935年7月真崎教育総監更迭の件でも怨みを買う(永田鉄山が真崎教育総監の罷免をし、 渡辺錠太郎を据えた) |
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戦争回避を画策するが少数派→皇道派から怨みを買う→2・26事件で敢え無く死亡 |