秋山和慶(日本指揮者協会・会長) ・指揮者50年、いい音楽を求めて
世界中の交響楽団からオファーの有る、日本の代表的な 指揮者秋山さんです。
昭和38年に桐朋学園大学音楽学部を卒業されて、東京交響楽団の音楽監督、常任指揮者を40年間務める傍ら、アメリカやヨーロッパの交響楽団や管弦楽団の指揮者として活躍されました。
現在も日本各地や世界を飛び回って指導を続けています。
日本のオーケストラ音楽の水準を世界的レベルに高めた秋山さんは指揮者になって50年の昨年文化功労者に選ばれました。
小さいころから鉄道模型が大好きで、バンクーバーの自宅では自分で作ったジオラマを楽しんでいるそうです。
ヨーロッパとアメリカを完全に行き来していて、50年続いている。
いろんな国のいろんなオーケストラをやってみたいという思いはある。
絶対音 何にもないところで音を出せる事ができる。
3歳ぐらいにきちんとしたピアノ等で、耳が印刷したみたいに覚える。
母はピアノの先生だったが、生まれたのが昭和16年生まれで、太平洋戦争に突入した年で、ピアノも敵国のものと言う様な時代で、キチンとしたレッスンもしていなかった。
3歳からピアノを始める。
ラジオで耳で聞いたものを(童謡、歌謡)ピアノでぽつぽつと弾いたりしていた。
クラシック的なものはレッスンとしてやりながら、FENでのジャズなどもやったりしました。
ポップスの方も有名なシンガーとオーケストラでやるのが楽しかった。
シンフォニーとか1時間半とかになるが、楽譜を読み込むしかない。
オーケストラは全部楽器が違うが、80 ~100にいる中で一人違ったりすると、止めて貴方違うよと注意をするが、訓練から来る才能かと思います。
斎藤秀雄先生について、学ぶ。
怠けてたり、ずぼらをして進歩が無いと、見破られた時にはこっぴどく怒られました。
指揮者は音楽の流れ構成、構造と言うものをきちんと、曲の解釈ができてないのを看破られるというか、勉強してないと、厳しく怒られる。
体操のマスゲーム的なものを、音でやるわけです。
楽器が違う、人が違う、経験が違う中で、楽譜見ただけで頭の中で想像する。
小澤征爾さんは、6つ年上の兄弟子。
斎藤先生のメモリアルコンサートを行ったのが亡くなって10周年、1984年に行う。
100人ぐらいの弟子が集まる。
斎藤先生の書いた本を改訂版を作れという事で、現代語訳に改定しろと言う遺言だった。
始めたのが1989年、それから20年掛かる。
コアメンバーが6人ぐらい集まり、400回ぐらい集まって喧々諤々の議論もしたりした。
多摩墓地に先生の御墓があり、そこにでき上ったものを一冊持って行ってできましたと報告した。
絶対褒めない先生だった、終点が無いみたいな状況だった。
或るコンサートで先生が「悪くはない」 と言って顔は笑っていて、「でも非常によくはないな」といって、私はしめたと思いました。
昭和34年フランスのコンクールで小沢さんが優勝して電報が送られてきて、「たたきは最大の武器である」と言う電報だったそうですが、叩きとは?
釘を打つ時に、力を入れるのではなく力を抜いて、かなずちの自然の重さで釘がまっすぐ沈んでいくように、大工さんが訓練するらしいが同じように力を抜いて、おこなうのが第一歩で、そのあとにバリエーションが出てくるわけです。
東京交響楽団に23歳で指揮者になる。
交響楽団が5つぐらいしかない時代だった。
東京交響楽団の定期演奏会には、家族でずーっとオーケストラを聞いていたので、入れたのは嬉しかった。
東京交響楽団が1年ぐらいで経営破綻をするが、祖父、父親に近い年代の人がいてかわいがってもらったりした、自分たちで演奏を続けていこうと、言う事で指揮者はお前しかいないのでやれという事でやってきました。
再建までに20年近くかかった。
周りからはなんでベルリンフィルに行かないのかと言われたが、自分のオーケストラがこれだけ苦労していて、一緒にやってくれと言われたのに、それをホッぽらかして、行くわけにはいかない。
それがアホだといわれる。
1972年にバンクーバーのオーケストラに招へいされて、カナダに行く事になる。
日本では、広島、九州の交響楽団も担当する。
仲間と一緒に、いい音楽をやりたい。
できるだけ生の演奏を聴く機会をつくってもらって、聞いてもらえればいいと思う。
手が言う事をきかなくなるまでは、やって行きたい。
朝比奈隆先生は94まで矍鑠とやっていました。
ストコフスキーさんは96歳まで振っていました。