2026年4月1日水曜日

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」 

藤野さんは1966年北海道札幌生まれ。 北海道大学を卒業後、住宅メーカー勤務を経て、1995年日本映画学校(現在の日本映画大学)に入学し、映像制作や音響表現について学びます。 これまで主にマイノリティーに対する人権侵害をテーマとした映像製作を行っていて、作品に「八十五年ぶりの帰還アイヌ遺骨杵臼コタンへ」、「とりもどす」などがあります。 2024年統合失調症を発症した姉と自身の家族の姿を20年以上にわたって記録したドキュメンタリー「どうすればよかったか?」を発表、作品は日本だけでなく、海外の映画祭でも上映されて大きな話題を呼びました。 家族のあり方を問う、話題作の裏側についてお話を伺いました。

両親は医師で共に研究者、8歳上の姉さんが可愛がってくれました。 ドキュメンタリー映画の中では口論したり、怒鳴り声が飛び交ってたりしてましたが、子供のときの印象としては一言で言うと楽しかったです。  私は自己肯定感の強い方の子供でした。 父は単身赴任だったりして、親は家に意外といなかったです。    姉と一緒にいる時間は長かったです。  

医師を目指して医学部に通っていた姉が異変が起きたのが1983年のことでした。  (姉が24歳、私が高校2年生)  夜の8時過ぎに姉が大声で叫び始めて、事実とは思えのようなことをずっと言い続けて30分ぐらい続きました。 その時はどうしようもないと言う感じでした。  夜中の2時、3時に姉が一人ひとりの部屋を開けて「お前たち全員静かにしろ。」と言うんです。(半分巻きそうな感じ)  寝ているだけだから本当は静かなはずですけれども、多分幻聴が聞こえてたんだと思います。 

以後僕は夜寝るのが怖くなって朝方まで起きていて、学校に行くと言う状態になりました。 学校で寝るんで藤野はたるんでると言われました。 後から気がついたんですけれど、統合失調症の始まりでした。 はっきりしたのは25年後でした。   統合失調症は直接の原因がないのに、脳の様々な働き、例えば考え、気持ち、行動がまとまりにくくなる病気で、幻覚、妄想といった症状や意欲や感情表現が減るなど、様々な症状が現れるそうです。  精神科医の方から言われたのは、統計上は日本では最初の急性症状が現れてから、病院につながるまでが平均13ヶ月ということだそうです。  救急車で運ばれたときには医師の方から父に全く問題ないと言われたそうです。 

当時、精神科医の通院歴が残るということが、姉の医師として、研究者としての道に妨げになると思って、両親たちは自分たちで直そうと言うふうに思ってます。  病気を恥じたと言う部分もあったかもしれないです。 当時は今のようないろんな治療法がなかったので、治療に期待できなかったと言うこともあったでしょう。 精神科病院で患者当事者が虐待されると言うケースもあるので、そういうところへ自分の子供を入れることができないと言うふうに判断したかもしれません。   当時、発症を含めて両親に責任があると私は思ってました。

両親が医師にならなければいけないと言うふうに、姉に思わせていたので、それがプレッシャーになって統合失調症を発症したんではないかと思ってましたけれども、いろいろ本を読んでわかった事は、現在に至るまで統合失調症はどういうメカニズムで発症するのかということがわかってないんです。 ですから両親にも責任ないし、それを恥じる必要もないですね。  防ぐ方法すらわからなかったんですから。どこにも、両親にも誰にも責任はないと言うことです。

姉は2008年に入院することができましたが、その時によく聞いた抗性新薬があって処方されましたが、それが認可されたのが1996年です。 25年かかって入院してますが、そのうちの半分位の期間はもしかしたら短縮できたかもしれません。   この期間に関しては両親の判断の結果と言えるんじゃないかなと思います。   両親が全く問題ないと言っていて、両親と話をしましたけども結論が出ませんでした。 家を離れる前に記録を残さないといけないと思いました。 最初は録音をしました。  ビデオ回し始めたのは2001年からです。(18年後) 食卓のシーンで、姉が母親のグラスにイカリング?を投げ込むみましたけれども、それを平然と受け止めている姿がありました。 父が全く驚いてなくて、母にそのイカリングを出した方がいいんじゃないかと普通に言っていました。そこが1番変なんです。

両親の言動の裏腹に、実際には、こういう事は日常的におきていたんで父親だったんですね。(一番奇妙な場面) カメラがあると言う事は、撮ったものを後から誰かが見るかもしれないので、カメラが置かれると言う事は他人がいると言う事と同じことなんです。 第三者が入ってくる効果にはなったと思います。  姉に対する私の対応と言うのは、終始優しいと言うことがあるかもしれませんが、僕は編集する側ではあるので、そういう部分を隠してると言う可能性もあります。 見てる通りが全てであると思うのは気をつけばいいですよ、とは言うべきです。 基本的にはは被害者だと言う認識はありました。 姉は父に対しては崇拝に近いです。    尊敬してました。 父の言う事はありとよく聞いていました。母と僕に対してきつめでした。

僕は姉から暴力を受けた事は1度もないです。 両親も暴力は受けてないと思います。 インターネットを見ていると、統合失調症な人は危険な人だと言う言葉が目に付きますが、コミュニケーションできない人たちと言うふうに見てるのは、僕はちょっと違和感を覚えます。 姉の言葉は主治医からは言葉のサラダだと言っていましたが、いろんなものが集まってるという感じです。 使っている単語をなんとなく聞いていると僕はある程度理解する部分もありましたけれども、両親は僕よりももっと理解できていたものと思います。  

僕は25歳の頃に神奈川に就職しました。 20年弱は離れて暮らせいました。    無理だと思ったときには離れることも必要なんだと思います。 両親が先にいなくなるわけだから、どっかで僕は関わっていくと言う形にならないと、もしかしたら刑事事件のような事が起こることがあるかもしれないので、話を再開しなければいけないと言うふうに思っていました。  姉は多分1人では暮らしてはいけないだろうし、その時僕はどうするのかなあと言うことでした。 

入院するまで25年かかったと言うのは遅いわけです。 母は認知症の状態になったということで、両親2人が姉を観てた状況から、父が1人で母と姉を看なければいけないと言う環境になったと言うタイミングだった。  母の言動が気になり始めたのが2005年位です。 妄想が始まってそれを聞いたときには大変だなと思いました。 父も夜眠らなくなりました。 母が夜中歩き始めるようになりました。 母は僕と父で家で、姉は精神科の病院の方で受け入れてくれるところがあるから、そこでてもらうことになりました。 姉を説得して姉も受け入れてくれました。

3ヶ月入院して兄弟のコミュニケーションが取れるようになりました。 姉は2021年に肺がんになって亡くなることになりました。 お葬式のシーンで、父が姉と共同で執筆した論文をお棺の中に入れるシーンがありました。 両親の研究を手伝ってくれる親孝行な娘だと言うふうに思いたかったということじゃないでしょうか。 この映画は各地で上映が続いています。 公開から1年半どう受け止められるかという事ですが、治療に至る前が半分以上なので、非常な不安なところはありました。 半分ぐらいは批判的なものが来るかなぁと思ってました。 

自分の経験が半分位の感想が多かったです。 表に出てこなかった部分が言葉になって文字になって見えるようになったと言う事はあるかなぁと言う気がします。  1番の問いは両親に対してですけれども、1992年に大学4年生の時にカウンセラーの人が姉を診てくれると言う時がありましたけれども、それを父が否定してきても来てましたが、あの時にもっと両親と話をして、なぜ両親が病気ではない、問題がないと言っていたことについて話を聞いたらよかったんじゃないかなと思います。あと4年で薬が使えてたかもしれません。 そうすれば最短距離で治療が進んだんじゃないかなと今にしては思います。 

父のように問題は無いと言う家族はたまにいるそうですけれどもそういう人たちに言うのは「よくがんばりましたね。」と言うことです。 「もうこれ以上しなくていいですよ。」と言うふうに話をすると氷が溶けるというか違う反応が返ってくると言うケースも伺いました。 僕は攻め続けていたので、両親の奥の部分のところまでの話を両親とできていたら違っていたかもしれないと思います。 日本は家族に背負わせ過ぎているというのは感じます。 家族の問題は家族で解決すると言う事を法律がないのに前提になってる気がしていて、僕は家族だけではなくて、社会の仕組みでと言う形にしていかないと今後は難しいんじゃないかと思います。   困っている人たちに何かできることと言うのは、話を聞きやすい状況を作ることでしょうか? 問題が存在しないと言う状態を、まずはどうにかするというのが第一歩ですね。