小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト) ・母の遺した我が家の歩み 前編
小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。
小澤征爾の二つ下です。 長男克己は昭和3年うまれ、次男俊夫は昭和5年うまれ、三男征爾は昭和10年生まれ、幹雄は昭和10年生まれ12年生まれ。 父は元々歯医者でしたが、政治団体の幹部として入って、政治活動をやっていました。 父小澤開作は山梨県西八代郡高田村出身で、草履を作って本代に当てた。 勉強が人一倍好きだった。 上京して東京歯科医専(現・東京歯科大学)で学び、歯科医の選定試験に最年少で合格。 24歳で満洲に歯科医として行く。 五民族の協和思想に共鳴し、政府を批判して「華北評論」という雑誌を編集発行する。 日本の軍などを批判したらしい。 睨まれて憲兵が毎日朝から来て父親の行動を監視していたらしい。 私は憲兵の顔を覚えているし、庭で遊んでもらった記憶があります。 小山さんという憲兵が父と酒を飲む交わすうちに、段々父に染まってしまって父の子分みたいになってしまった。
昭和53年に征爾さんが中国の楽団の指揮で北京に行くという事で、家族で当時住んでいた家に行きました。 父は中国にいきたいといっていたが、文革の間は駄目で、ようやく昭和53年に楽団の指揮で北京に行くという事で大歓迎を受けました。 北京中央楽団にコンサートマスターの楊秉孫さんという方は四人組を批判したために、監獄に入っていた人だそうです。 「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」は文庫本にもなっています。 母が喋ったことを聞き取って本にまとめたものです。 中国から引き揚げてくる時に父は日本を批判したために追放になってしまったらしいです。 昭和16年の3月に母と我々4人兄弟だけは日本に引き揚げてこれました。
私は早稲田大学在学中に学士演劇に夢中になり、卒業を待たずに東宝演劇部入団する。 学校に行きながら東宝の舞台を2年ぐらいやりました。 菊田一夫さんの面接を受けてそれだけで入ることになりました。 先生は「鐘のなる丘」「君の名は」などを手掛けるが、本当は演出家であり、劇作家です。 先生は小学校しか出ていなくて、養子に出されて点々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった。 兄の征爾とは顔つき、声なども似ていてよく間違われたりしました。 初舞台が五味川純平の「人間の条件」でした。 ベストセラーでした。 テレビで上演されてその後映画にもなりました。 「がめつい奴」「放浪記」などにも出演しました。 その後ミュージカル、東宝歌舞伎、現代劇などに出ました。
昭和35年「がめつい奴」では「がめつい」という言葉が流行語になりました。 大阪から上京してきた天才少女と言われる小学5年生の中山千夏さんと仲良しになりました。 お兄ちゃんお兄ちゃんとなつかれました。 「がしんたれ」は菊田一夫先生の自伝です。 「がしんたれ」は大阪の子供を軽蔑した様な言葉です。 菊田一夫先生の子供時代を中山千夏さんがやりました。 先生は大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめますが、僕はいじめる兄弟子の役をやりました。 中山千夏さんは絵をやっていて個展を見に言ったりしました。
東宝ミュージカルの「王様と私」では王様の秘書役をやりました。 越路吹雪さんの付き人を会社の命令でやっていました。 越路さんが本格枝的にミュージカルをやるようになったのは「王様と私」だと思います。 母はクリスチャンで讃美歌を一杯覚えました。 日本に変えてきた時に母から4人兄弟は讃美歌を教わって沢山歌いました。 それが音楽との出会いでした。 そのころから征爾に耳は良かったです。 母は引き揚げてくる時にアコーデオンを持ってきてそれが役立ちました。 そのうち征爾も弾くようになってたちまちうまくなり、中学に通っていた兄が音楽室のピアノを使って手ほどきをしたらいです。 直ぐに上手くなって本格的にやらせたいという事で、食べるのも苦しい時代に父がピアノを購入してくれました。 3日かかって横浜から立川までリヤカーで兄たちが運びました。
父は歯医者はやりたくなかったが、食べてゆくために歯医者を始めましたが、72歳で亡くなってしまいました。 父は急死だったので父のことについては聞けなかったので、母から娘時代から現在までをしゃべってもらって、まとめたのが「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」です。 征爾は成城学園に入って、音楽が盛んで征爾はラグビーもやって指を怪我してしまって、ピアノが出来なくなり、先生から指揮というものもあると言われて、親戚に斎藤秀雄という人がいるという事で、指揮の勉強をするようになりました。
立川の家では水が飲みたくれ防空壕から出て行った時に、アメリカの戦闘機から銃撃を受けました。 何とかあたらないで助かりました。 一生忘れられない思い出です。 8月15日の終戦の日はラジオの前にみんな集まって聞きました。 その時に父は「日本は戦争に負け得て良かったんだ。」と言っていました。 父は日本に戻って来てからも特高の監視がありました。 特高の人が、父が亡くなった時に母への手紙が来て、「小澤さんほど立派な人はいなかったというようなこと、ひそかに尊敬していました。というようなことが書いた手紙が来ました。 母はその手紙を読んで泣いていました。
父は行動的な人でベトナム戦争を何とかしたいという事で、アメリカのロバート・ケネディー氏に会って意見具申をしました。 長男は若くして亡くなりましたが、芸大の彫刻でしたが、ピアノも出来るし作曲も出来ました。 征爾に音楽を教えたのは兄でした。 兄がいなかったら音楽はやらなかったかも知れないです。 働き過ぎたのか病気で倒れてしまいました。 NHKの大河ドラマ「勝海舟」の時には、英語が出来たのでジョン万次郎の役をやりました。