2019年6月30日日曜日

五十嵐 匠(映画監督)          ・二宮金次郎、銅像から映像へ

五十嵐 匠(映画監督)          ・二宮金次郎、銅像から映像へ
二宮金次郎というと本を読みながら薪を背負ってを仕事をする少年の姿しか知らない人が多いかと思います。
しかし懸命に働き勤勉と倹約で実家を再興させ、藩から財政の立て直おしを頼まれたりして生涯600以上の村を復興させ武士の位を授かったとして名前が残っています。
その二宮金次郎がある村を復興させた様子を映画にしました。
今月28日で劇場での映画は終了しましたが、地域の希望によって全国の市民会館や公民間などでこの映画を紹介してゆくと言うことです。
五十嵐さんは青森県出身60歳、弘前高校から立教大学を卒業後、制作会社を経てフリーになり、映画「津軽」で劇場映画デビューを果たします。
その後ベトナム戦争を取材し、亡くなったカメラマン沢田教一のドキュメンタリー映画や一ノ瀬泰造をテーマに「地雷を踏んだらサヨウナラ」と言う映画を作っています。
そのほか「長州ファイブ」や、「十字架」など合わせて13品の映画を監督しています。

30代に非常に荒れた村を復興する二宮金次郎を描いているので、生涯600以上の村を復興させている、その姿を描いているので、観て涙を流している人も居て観客の反応に驚きました。
全国でもやることは決まっていたが、日光は最後に復興する場所ですそこで二宮金次郎が亡くなるんですが、日光で特別試写を行いました。
2000人近くの観客が来ました。
その中に80歳位の老夫婦がこの映画を見て感動してくれて、シネコンでの上映がいいものかを考えて、映画館での上映を一切辞めました。
制作委員会で大きい車を買って8mのスクリーンと劇場用の映写機と同レベルの映写機を買って二宮金次郎号と名打って、キャラバンで全国に届けようとしています、もう100か所以上が決まっています。
学校、企業、行政などにこちらから出向いて行っています。

前の作品は「十字架」という題名のいじめ自殺の作品ですが、茨城県下館で撮影した時に、160年前に二宮金次郎が復興させた場所だということでした。
それで調べ始めたのがきっかけとなりました。
復興に向けて突き進む魅力的な人物だと思いました。(4年前から調査、映画化検討)
色々なところから協力をいただきました。
二宮尊徳がいう「積小偉大」、小さな事を積み重ねて行けば、大きくなると言う、二宮尊徳家ら教わった形でこの映画はできました。
私が映画を作りたいと泣きわめくと、しょうがないなあと周りがだんだん増えて来ます。
1996年「SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」が本格的なドキュメンタリー映画となります。
ベトナムには8年間通いました。
カメラマン沢田教一さんを知りました。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」もベトナムに関する一連のものです。
金子みすゞ板谷 波山田中一村の映画と人物にスポットを当てての映画が多かったが、その後「長州ファイブ」、「半次郎」「十字架」そして二宮金次郎へと続きます。

亡くなった方しか描いていませんが、亡くなった方を描くのは資料、その時に居た人達からしか話を聞けないので非常に苦しいです。
他人を描く傲慢さと言うものをいつも自分で思っていて、描きながらそう簡単に描けなと思いながら作品化しています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は報道写真家・一ノ瀬泰造の話ですが、或る人から戦場でファインダーを覗いて撮るカメラの扱いがうそっぱちだと言われましたが、聞いてしっていたが映画ではあえてそのようにしましたが、フィクションとノンフィクションの間で揺れているところもあり、自分でも気にしています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は色々な国の通訳が6人いました。
色々ぶつかり合った方が新しいいいものが出来ると思います。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」のときにはむちゃくちゃでした。
2日間徹夜してクライマックスの場面を撮ったフィルムがトラブルで人とともに川に落ちで駄目かと思ったが、それは新しいフィルムで同様の古いフィルムが残っていてホッとしたと言う事もありました。
そういったことはそれぞれの映画でいくつもあります。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」では10kg近く痩せました。

昭和33年生まれ、結構大人しい子供でした。
父が教師をしていて映画が好きでしたし、中学の時に「スクリーン」と言う雑誌を購入してそれに惹きつけられたと思います。
8歳の誕生日の時に父が映写機を買ってくれましたが、父の思いがあったのではないかと思います。
水野晴郎さんの記事が面白かったです。
映画監督になりたいがどうしたらいいかと水野さんに手紙を出しました。
3カ月後に絵葉書が届きました。
「映画監督になる道は今の勉強を一所懸命やって、たっぷり映画を見ることにつきます」、と書いてありました。
ポイント、ポイントで僕に影響してくれる人が出来てます。
立教大学で映画のクラブで8mmを取り始めました。
シナリオも勉強しました。
父からは教員免許を取るように言われたが、教師には絶対なるまいと思っていました。
子どもには映画監督にはやらせたくはないと思っています。

「津軽」で劇場映画にデビューしました。(1989年)
客は入らなかったがある映画評論家から面白いといわれて、もうちょっと頑張ってみようと思いました。
映画として戦う場合に自分としては他の人よりも卓越しているものは何なのかと言うと、故郷の津軽、方言、方言で詩を書いていた高木恭造さんが居て、その詩をモチーフにして多くの借金をして作りました。
試写で観てもらった人からどうしても足りない200万円小切手を書いてもらえました。
映画監督には人との出会いというものが必要だと思います。
こちら側が真剣にやっているとポッと出てきてくれたりします。
自分が思っている様なお芝居をして貰うと僕は面白くない、そうではなくて違う芝居をした時には違う発見があり、非常に嬉しくなります。
次は沖縄戦の映画を撮ろうと思っています。
島田叡知事と警察所長の荒井退造さんを主人公)