2019年6月13日木曜日

東大作(上智大学教授)          ・平和づくりに生きる

東大作(上智大学教授)          ・平和づくりに生きる
東京生れの東さんは小さいころから両親の被爆体験を聞いて育ち、将来の夢は平和作りに携わる仕事でした。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして番組を制作していましたが、平和な国際社会作りに直接かかわる仕事がしたいと35歳で退職します。
カナダの大学院に進み、修士と博士号を修得するかたわら、2009年に国連アフガニスタン支援ミッション和解再統合チームリーダーを務めました。
その後ニューヨークの国連日本政府代表部の講師、参事官などを経て現在大学教授として平和構築の提言を発信し続けています。
今年2月から3月にかけて外務大臣の委嘱による公務派遣で、イラクや南スーダンなどを訪れ現地で講演や重要人物と話合いを続けてきた東さんに伺いました。

日本の外務大臣の委嘱による公務派遣でイラク、トルコ、エチオピア、南スーダンに行って講演をさせて頂きながら、現地の指導者と話をする機会がありました。
イラクでは去年の12月まで首相だったハイダル・アル=アバーディさんと1時間位インタビューしたり、その前に長く首相を務めたヌーリー・マーリキーさんに話を聞いたり、その前の首相のイヤード・アッラーウィーさんなどなどと話をしました。
今も指導者として影響力を持っている方たちです。
歴史的なイラクの平和作りの難しさ大変さなどや、現在の政府の課題などについてもじっくり話を聞くことができました。
去年の5月に国政選挙があって新しい首相が決まってアーディル・アブドゥルマフディーさんが首相になりました。
シーア派、スンニ派両方が支援できる首相と言う事になりました。
宗派を原因とする対立は2,3年前に比べると少なくなってきた。
安定した国に進んでゆく可能性が見えてきてるところではないかと思います。

2011年にスーダンから独立して新しく南スーダンが出来る。
その後戦闘が繰り返されたりして安定した状況が続かなかったが、去年和平合意があり、その後に現地に入りました。
2013年末にはキール大統領マチャル副大統領の間で戦闘が勃発して、全土が紛争になってしまった。
2016年から調査をしていましたが、2018年9月にキール大統領とマチャル副大統領が合意して、ほかの20位の反政府武装勢力にも声をかけて、微調整しながら合意を得ました。
和平合意がどう実施されているのかが、今回の大きな目的でもありました。
タバン・デン・ガイ第一副大統領、ロムロ内閣府担当大臣など閣僚レベルの人にもお会いしました。
PKO代表の方などにもお会いしました。
軍の統合と新しいキール大統領とマチャル副大統領の暫定内閣が作れるかどうか、これから半年をかけて見守っている状況だと思います。

ジュバ大学で講演をして学生との交流もしました。
「平和と安定に向けて」と言うテーマで行いました。
一番重要なのはインクルーシビティー、包括的に国を作っていけるかどうかと言う事だと思います。
キール大統領とマチャル副大統領が何処まで仲良く政権運営ができるかが争点だと思います。
日本が二人が議論できる席などについて仲介したり、場を提供できるのではないかとジュバ大学で話したりしました。
賛同の声は随分頂きました。
日本が軍隊を投入したりせずに、支援活動を積み上げてきた事が信頼を得ていることだと思います。
話し合いで物事を解決して行く場を設定してゆく役割、グローバルファシリテーターみたいな役割をしていくことが、今後の日本の外交の柱にしてもいいのではないかと思っています。

両親が広島出身で被爆していたので、被爆体験を聞いていました。
高校では文化祭の時には核兵器に関しる展示などをしていました。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして戦争、紛争に関す「クローズアップ現代」とか「NHKスペシャル」などの番組を制作していましたが、35歳の時にもうちょっと直接的に平和作りに関われる仕事に関われないのか悩みましたが、35歳の直前に
番組製作をしている時に、アナン国連事務総長とかとインタビューする機会があり、色々あこがれがあり、NHKを辞めてカナダの大学院に進み、修士と博士号を修得しました。
最初はいい成績がとれなかったが、論文の書き方などを教えてもらって、二学期からは1,2番の成績を取れるようになりました。
ニューヨークの国連本部に働く機会があり、或る方から平和に関する横断的に国連の仕事をするようなことをやったらいいのではないかと言われて、目標が見えたような気がしました。
4年間調査研究をして、アフガニスタン、東ティモールの現地調査をする事が出来てレポートとして発表したりする機会が出来たり、本を出版したりして、認められて2009年に国連アフガニスタン支援ミッションで勤務することになりました。

39歳の時にやった調査ではアフガニスタンにおける和解をすることに対して圧倒的に多い事が判りましたし、和解のプログラムを作って日本、国連、アメリカとかに入ってもらって、日本が主導的な役割を担って支援すべきだと本の中で提案していました。
政府関係者、外務大臣などと話す機会があり、政策として採用されて日本が50億円を和解基金を作るための最初のお金を出すという決定があり、他の国も出してくれることになり最終的に200億円集まりました。
国連側も喜んで、実務の仕事をして欲しいと言う事で、カブールで国連の政務官として仕事ができたのでラッキーだったと思います。
信頼関係を築く時には実際に顔を合わせて、本当に自分のことを真剣に考え理解してゆくものだと思います。
戦争になってしまう場合は対話、コミュニケーションをしなくなって、相手のアクション、行動を見て推理して考えるようになって、お互いが疑心暗鬼になってしまって戦闘になってしまうことはよくあります。
直接会って対話さえすれば戦闘は起こらないと言うような単純な話ではないが、少なくともよくする場合もあるのではないかと思っています。
日本のように70年以上も戦争をしていない国が仲介者となって、そういう当事者同士が共通の解決策を見出してゆく事のお手伝いをするようなことも、日本としは出来る場所でして行く事が良いのではないかと思います。
2014年にはニューヨークの国連日本政府代表部の公式参事官を務める。(2年間)

大学院などでは奨学金は貰えるが、家族を養っていかなくてはいけなかったので蓄えは底をついて行ってしまいました。
2009年にアフガニスタンに行って、戻ってきて40歳を過ぎていて、日本人で大学院生では大変で、幸い東大の准教授での応募で5年間いて、その間国連代表部に行かせてもらって、帰ってきて、また次を探さなければいけなかった。
どうなるかと思ったが2016年4月に上智大学グローバル教育センター(国際関係研究所兼務)に着任できました。
理想があっても継続的に続けて行く保証がないという現実はあります。
常に次の仕事を探さなくてはいけないという大変さはあります。
日本は組織で働いて居る時には尊敬されるが、肩書きの無い境遇になると厳しく見られる傾向があると思う。
やりたくても日本人が飛びだせる人が少なかったりする一つの原因になっていると思います。

シニアになってもシンクタンクとか受け入れる組織を作って、受け入れるところが出来ると安心できるのでいいと思います。
NHKを辞めて上智大学に行くまでの12年間は常に不安と向き合いながらきたことは事実です。
やってこられたのは心の底から自分が関心があって好きな分野なんだろうなと思います。
それが無いとずーっとは続けられないと思います。
平和に関する仕事を続けて、それなりに幸せなんじゃないかなと思えている事が大きいと思います。
残念ながら世界で多くの紛争が起きていて、6500万人ぐらいが難民とか国内避難民になっているが、ちょっとでもいいから学んだり知ったりすることから始めてもいいかなと思っています。
そういったことを重ねる中で自分でも関わって見たいと感じて貰えたら、自分としてどう関与していくかを考えて行くと言う事もあると思います。
人種的偏見とかを持たずに、同じ人間として敬意をもって接することが出来るかと言う事が重要だと思います。
日本が信頼されていると言う事は、上から目線で人を使うような付き合い方を現地でしてこなかったことは大きいと思います。