2019年6月9日日曜日

川口淳一郎(JAXAシニアフェロ―)   ・【わたしのがむしゃら時代】「はやぶさ」への道のり 

川口淳一郎(JAXAシニアフェロ―)・【わたしのがむしゃら時代】「はやぶさ」への道のり 
2003年の打ち上げから7年間、60億キロの宇宙の旅に末、小惑星イトカワ表面の物質の地球に送り届けた「はやぶさ」、太陽系誕生の謎に迫るために小惑星のサンプルを採取して地球に持ち帰る、小惑星サンプルリターンと言う事のプロジェクト、今までどこの国でも成し遂げたことにない難しい挑戦でした。
途中行方不明になったりエンジンが停止したり、幾つもの絶対絶命の危機を乗り越えて、使命を全うし燃え尽きた隼は私たちに大きな感動を与えてくれました。
この壮大なプロジェクトのマネージャーをつとめた川口さんは1955年青森県弘前市の生まれ、京都大学卒業後、東京大学大学院に進み宇宙科学研究所で宇宙開発にも携わるようになります。
川口さんはどのようなきっかけで宇宙開発の道に進み、「はやぶさ」プロジェクトを立ち上げることになったのでしょうか。
少年時代から人のやらないことをやりたがるあまのじゃくだったことが「はやぶさ」にもつながったのではという、川口さんのがむしゃら時代を伺います。

「はやぶさ」の帰還から9年になります。
講義、研究、教育はとぎれること無くやっています。
新しい事を志す人が増えてくると言うのは大変ありがたいと思っています。
燃料電池とかはよく聞かれますが、高校生には燃料電池は全く教えない、世の中のニュースを聞いてそういうものがあると判るわけです。
そういう視野を広げる点でのきっかけになったとすれば、それはいいことだと思います。

一番最初に子どもの時にやったのが望遠鏡を作ったことでした。(小学校4年)
父親も望遠鏡を作った事があったらしいです。
望遠鏡を作るのは好きでしたが、星そのものにはあまり興味は無かったです。
中学2年生の時にアポロ11号が月着陸しました。
多くの人が宇宙に関心を持つ時代でした。
天体は規則正しいのに暦は中途半端で規則的にならないかと暦を考えた時もありました。(小学生時代)
ラジオ、アンプなど作っていました。
基本的にあまのじゃくでした。
自分が違う事を考えているということが、或る意味愉快な所です。
それが「はやぶさ」にもつながって行くんですが。
自分のオリジナリティーが一番の商売どころで、そういう発想を心がける、そういうあまのじゃくが研究者になると言うようなところがあると思います。

アポロを打ち上げていた頃、日本初の人工衛星を作るんだとやっていて、100mで3000トンというような月ロケットに対して、こちらは長さ20mぐらいでやっていますと言ってもとてつもなく違うものでした。
アメリカのナサ一辺倒の時代だったような時代でした。
惑星探査で木星や土星に向かって宇宙船が飛ぶと言う事、スケールが全然違うし、そんなことができるんだろ言うかと言うのが、中学、高校生の自分にとってはそういう仕組みを知って見たいと思いました。
70年代にはこのような事が始まっていました。
ナサの「バイキング」が軟着陸してショベルを持って火星の土を掘り起こして、培養実験して生命がいるかどうかと、言うようなことをやるわけです。
地球に向かってデータを直接送ると言う事をしていました、衝撃的でした。
非常に刺激を受けました。
大学では「バイキング」を見て少なくともロボットはやるべきだと思いました。
卒論はロボットでした。
70年代後半ではスペースシャトルが飛ぶ時代になり、こんなことができるんだと思いました。

日本の宇宙開発はしぼんでしまうのではないかと思いました。
東大の大学院で宇宙に関わるようになりました。
正直なところ変な組織で、変わってる人がおおくて、方向、内容が違うんです。
簡単に言うと、自信過剰者の集まり、というような感じでした。
何が変かと言うと非常勤的な職員は非常に沢山いるんです。(求心力があった。)
糸川先生の愛弟子は変わった人がやはり多かった。
やってしまえというようなエネルギッシュな集団でした。
宇宙開発研究所では、物の考え方、進め方が物凄く大きな全然違う文化を送る様な、そんな気がしました。
最初にゴールを考える、日本人はなかなかできない考え方だと思います。
そこで影響を受けたことは、後あと自分の人生を左右するぐらい大きなことだったと思います。

宇宙開発の魅力とは何だろうかとターゲットがあって、それに向かってどうするのか、自分たちがやれることにはどうやって自信が持てるのか、その考え方が大きいです。
研究所にはいったら最初文献を読んだりしますが、それじゃあだめだよ、計算して見たらと言った感じです。
そのために何をしたらいいかを自分で考える訳です。
機械工学出なので、宇宙の軌道、ハレー彗星の軌道など全然知らない訳です。
はいって直ぐにハレー彗星の探査計画が始まる訳で、ハレー彗星の軌道の計算など誰もいなくて、君がやれと言う事になり見よう見まねで始めるわけです。

ハレー彗星とすれ違った時に、写真を撮ったり電場、磁場などを観測することでした。
しかし当時固体ロケットで惑星探査機は打てる訳が無いといわれていました。
固体ロケットは不正確で出来ないと言われていたが、出来るはずだと言う人が沢山いてやってしまう訳です。
距離が遠いと言う事は全く考えた事もないことをやらなければいけない。
「はやぶさ」に繋がって行く、私としてはおおきな大失敗がありました。
阪神淡路大震災の前の日に打ち上げています。
打ち上げロケットはもう8回目ぐらいであまり気にしてはいなかった、先端の方が重くなってきていて毎回確かめなければいけなかったが、ロケットを飛ばす方の制御がうまくいかなくてギリギリ軌道には乗ったが目的とは程遠くて、プロジェクトが実を結ばなかった。
宇宙開発の難しさを思い知りました。
どこをどう点検するか点検自体も難しいところがあります。
ストレスでめまいがしたりしましたが、得た教訓は大きな跳ね返りをしました。

80年代には小惑星サンプルリターンを考え始めていました。
月、金星、火星にと辿って行くのはアメリカ、ソ連がやってきた道なので、リスクは少ないが、次にどうするかと考えた時に小天体に行くべきだということでした。
小天体から試料を持って帰る重要性はある、米ソと違って方向性はいいのかなと思いました。
そこから出発したのが「はやぶさ」計画でした。
90年代バブルがはじけて、提案したのが95年でしたが、理解してくれる人がいてくれたのが一番救われているところです。
リスクだらけでしたが、スタートできました。
打ち上げが2003年でした。
前途多難だとは思いました。
7年間、60億kmの旅をしてきました。
プロジェクトを達成するために行動すると言う、その意志は全く乱れはなかったです、辞令で集められた集団とはまったく違っていました。
最初はお金も無くあるのは興味だけと言う、その人たちが集まって合体させて一つの作品を作る、これはなににも増して面白い。
一人一人がこれが叶うと自分たちの夢も叶うんだというのが、みんなの意識なので続けられたと思います。