野矢茂樹(哲学者) ・【人生のみちしるべ】さあ、立ち止まって考えよう!
これまでラジオ深夜便の大人の教養講座「哲学と論理的に話そう」のコーナーで今年の3月まで2年間に渡って出演しました。
東京都出身64歳、東京大学在学中に昭和9年からの長い歴史のある座禅の会、東京大学禅研究所所属、大学卒業後は北海道大学文学部助教授を経て、東京大学、東京大学大学院教授と母校で30年近く教鞭を取られました。
2018年から立正大学文学部の教授です。
20世紀最大の哲学者と言われるウィトゲンシュタイン研究の第一人者で翻訳を務める一方、判りやすい文章で哲学的思考とは何かに迫る入門書などを執筆されています。
中学校の国語の教科書作りに携わり、NHKETVの公開講座の監修も担当、哲学者としては珍しく自分の生活をつづったエッセーも書いて、2016年出版の『心という難問−− 空間・身体・意味』で第29回和辻哲郎文化賞受賞されています。
哲学者野矢さんはどのように哲学に出会い、その道を歩まれてきたのか人生の道しるべについて伺いました。
放送が始まる前に、司会の人とキャスターの出演者が 「よろしくお願いします。」とやって放送が始まると又「よろしくお願いします。」とやりますが、どうも違和感がありました。
放送が始まったら電波の向こうの人達に向かって話しかけるのであって、うちわで挨拶するのがおかしいといつも思っているが、今日は本当に素直に「よろしくお願いします。」と言えました。
哲学者としての時間が確保できると本当に嬉しいです。
一番そういう時間が訪れるのは、自分の哲学を本気で本に書いている時、論文を書いている時ですね。
パソコンに向かっているが文章が止まってしまった時に、この問題を解決して次に進みたいと思ったらメモにして散歩に出かけます。
アイディア、言葉が降りてくるのを待ちます。
初心者は大きな問題を抱えて動けなくなる、例えば「生きるとは何だろう」とか、「時間とは何か」、哲学の問題ですが、小1時間で進めたと言えるような問いにして、散歩するとこうだと言うふうにして、思い付いたりすると手帳に書いたりしてパソコンに向かったりしています。
哲学は私にとっては趣味ですね。
判りそうで判らない問題に出会った時(開きそうな扉)には楽しいです。
大森荘蔵先生(哲学の先生で亡くなりました)、末木剛博先生(座禅の先生、人生の師となる様な先生)がいましたが、末木先生が私が20代のころに「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言ったので凄く印象的でした。
その事を大森先生に話ましたが、「だらしないあな、末木君もそれなら止めりゃいい」とおっしゃったんです。
大森先生は「自分がやっていることが大事なことなんだ」と、そういう姿勢で臨んでいたと思うし、末木先生は「私は好きでやっているので世のなかの役に立ったなくてもいいんだ、取るに足らないものでいいんだ」という気持ちを持っていたんだと思います。
自分でものが考えられるように、普段の言葉でやっていって、難しい言葉で自分を誤魔化さないと言うのが基本です。
哲学のスタイルでは大森先生を受け継いだつもりでいます。
哲学の問題に裸一貫で自分の頭で向かい合って行って、頂上が何処にあるか判らない岩場をよじ登って行く、そういう姿勢を先生は見せてくれました。
同時に末木先生の「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った後にもう一言言ってくれた事があって、理系の方がいいと思って進んだんですがどうも違うなあと思っていた時に、留年して入りなおして大森先生に出会いました。
理系で自分では何もできないと無力感を持っていた時に、末木先生にそういったことをポロッといったら、「それじゃあだめだ」と言われれました、「生きているだけ儲けもんと思わなくちゃあ」と言われました。
ずしんと来る一言でした、これからはおまけだなあと思いました。
哲学に関しては大森先生、生き方に関しては末木先生、師と仰ぐある側面を貰っているとは思います。
哲学をやろうと思って大学に行った訳ではなくて、自分で物を考えて行くのは小さいころからでした。
身体も弱くて、3つ年上の姉がいて女の子と遊ぶようなひっこみじあんな気の弱い子でした。
犬の世話をする係で朝夕の散歩の係でした。
散歩中、寝る前にあれこれ考えるのが好きでした。
教室でもぼーっともの思いにふける様な感じで、先生の話もあまり聞かないで成績もあまり良くは無かった。
高校に入る時に受験勉強はしましたが、高校に入るとビリに近い様な感じでした。
1年位受験勉強して大学に入学したらその後ぱたっと勉強しなくなり、哲学に入って大森先生に出会って猛然と哲学をやりました。
哲学は受け身ではなくて自分から問題に向かって行かなくてはいけない訳です。
扉を見付けて開いで行く楽しさ、いまでも楽しいです。
哲学ってすごく入口が入りやすい、子どもでも踏み込めるが奥ががどこまであるかわからない。
哲学の土地があるような感じで、時間の話を考えていたら自我の話に結びついて、言葉、心の話に結びついていくように、問題が網目をなして繋がって行く。
そうすると哲学の土地が見えてくる、或る程度見渡せるようになってきて、落とし穴があるぞとか、見晴らしがいい所があると見えるようになってきて、人を連れて哲学の土地を案内することができるようになって、先生をやることもできるわけです。
「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った末木先生の言葉がずーっと私の中でこだまのように響いているんです。
今の私の目で見ると若かったころの自分を見ると痛いなと言う感じがして、何が痛いかと言うと自分が面白いやつ(魅力的)だと思って貰いたいわけです。
そのためにある程度自己演出するわけです。
そういうふるまいをすると居心地が悪い。
そういったことから抜け出したかった、つまらない奴でもいいんじゃないかと思うようになりました。
末木先生からの言葉から「もういいや、あとはおまけだ」と思うようになっていきました。
自分には足りないところもあるし、哲学もやらないことは沢山あるし、人間としてももっと直していかなければいけないところもあるし、改善の余地があることは確保したうえで言うんですが、座禅していると「これでいいんだ」と言う事が段々しみ込んでくるんですね。
禅の言葉で「本来無一物」と言う言葉がありますが、本来何一つ持っていない素っ裸じゃかじゃないか、これは座右の銘にしてもいい言葉だと思います。
哲学をやっていてこれでいいんだと思って、それ以上考えようとしなければそれで終わりで、人間としても自分がこうありたいと言う人間像からは遠いいけれど、「まだ俺は駄目だぞ」と言う気持ちがあって、更にその下の処にある「これでいいんだ」と言う肯定観ですね。
授業などは学生に伝えたいという気持ちだけでやっていますが、本を書くときにも同様な気持ちを持って、読者にちゃんと伝えたいと言う気持ちは持ちますが、それ以上に物を書くのが好きなんです、本を作るのも好きですし、本も好きです。
だから電子書籍は全然見ません。
私が本を書く時には基本的に何かに挑戦していると考えてもらえれば嬉しいです。
挑戦するという事は楽しい、新しい事をやろうとういう事は楽しい。
本を作るのは楽しい、何を排除しているかと言うと、お金稼ぐために本を作るという意識はあまりないです。
世の中の為になろうとして本を書くと言う事もあまりないです。
読者に伝えようと思って本を買うと言う事もあまりないです。
読者に伝えられるように書くと言う事は、自分にとって面白い挑戦だと言う時に、その挑戦によし乗ったと言うふうになります。
人の為に生きると言う姿勢を私は持っていません。
長生きする哲学者になりたい。
忙しくて哲学の時間はあまりとれないが、その時間を確保して、自由、時間の問題 難問ですがそれに向かって行きたい。
その後は判りません、頂上に見えない岩を登ってゆくだけです。