たいら いさお(童謡・アニメソング歌手) ・【時代を創った声】
「バスストップ」でヒットした「たいらこうじさん」を兄に持ち、加山雄三さんに憧れて歌手を目指して長崎県佐世保市から上京していったと言います。
NHK「おかあさんといっしょ」の3代目「うたのおにいさん」をつとめ、アニメソング歌手、童謡歌手として活躍。
6人兄弟の末っ子で姉が4人、兄が一人、引っ込み思案の子でした。
人前であまりしゃべったりすることのできない子でした。
中学校でバスケットを始めて積極的になり友達も増えました。
中学校後半ぐらいからブループサウンズ、加山雄三さんに憧れるようになりました。
高校時代はフォークソングで、ギター一本あればみんな輪になれると言うような状況でした。
ギターを握って青春時代を過ごすようになりました。
高校2年の時に兄がデビューしました。
東京に行きたくて、大学に行くことになりました。
文学座附属演劇研究所へ大学の最終在学中に入りました。(第15期生)
歌にプラスになると思いました。
文学座を卒業して、声をかけられるようになって、龍村雅史と言う芸名を付けていただいてデビューするようになりました、(1976年7月『ひとりの砂浜』)
その直後から、なかなか世の中に出て行くチャンスがありませんでした。
焦ってきてつい周りと比較をしてしまいました。
或る時に担当マネージャーではない人から、「うたのおにいさん」のオーディションの話が来ているがやってみないかと言われました。
やろうかということになりました。
初代が田中星児さん、二代目が水木一郎さんでした。
三代目になることになりました。
暫く水木さんとは週交替でやっていました。
新作の童謡がどんどんやってくるので大変でした。
子どもたち相手なので何が起こるかないので、何があっても対応することを学びました。
「うたのおにいさん」を卒業してその後、アニメソングを歌う様になりました。
子どもの歌の延長と思っていました。
段々アニメソングが要求することは、その作品の代表テーマソングであると言うことになり、「うたのおにいさん」の延長だけでは通じないものがでてきました。
「復活のイデオン」が2曲目でバラードからロックに変わってくるもので、斬新な曲でした。
巨大ロボットもののアニメが流行った時代でした。
*「最強ロボ ダイオージャ」(1981年から1年間 水戸黄門をモチーフにしたもの)
アニメソグを歌うチャンスが段々なくなり、生活面でも厳しくなりました。
童謡を歌ってくれませんかと言う話があり、童謡も歌うようになりました。
童謡でも抒情的な曲も歌うようになりました。
新しい童謡を生み出そうと言う運動が盛り上がってきました。
それと同時に歩み始めました。
*「北風小僧の寒太郎」 作詞:井出隆夫、作曲と編曲:福田和禾子
童謡は判りやすい言葉で短いセンテンスの中に色んな思いが詰まっていると思っています。
「シャボン玉」 作詩 野口雨情
シャボン玉で遊んでいる歌だが、野口雨情の幼くして亡くした子どもへの鎮魂歌ではないかと言う事を知った時に、命の大切さを歌っているんだなと思った時に、どう表現するか至難の技の一曲ですが、それだけに醍醐味があると思います。
昨年が「赤い鳥」創刊から100年になり、数年前から練ってきて童謡誕生ストーリーと言う事でシリーズでコンサートをやってきました。
基本をしっかり学んで(まっさらな白を基本に)、どういう色合いにも歌えるように、と言う事で教える様にしています。