2019年6月29日土曜日

有森裕子(元女子マラソン日本代表)     ・<あきらめない>を力に

有森裕子(元女子マラソン日本代表)     ・<あきらめない>を力に
1966年岡山県岡山市生まれ、高校から陸上競技を始め実業団に入ってからは先日亡くなった小出監督の指導のもと、才能を開花させます。
1992年バルセロナオリンピックで銀、アトランタオリンピックで銅と2大会連続でメダリストとなりました。
その後も国際協力を行うNPOの代表を務めるなど幅広く活躍、去年故郷を襲った西日本豪雨では避難所を訪ねたりチャリティーマラソンを開いたりと復興を支え続けています。

実家のところの有森ミュージアムでチャリティーバザーが開かれましたが、もう10年以上になります。
高石ともやさんにもきていただきました。
地元の方々の多くの支援を頂いています。
小さい頃はおてんばでした。
スポーツが出来る子ではなかったです。
先天性股関節脱臼で生まれてきたので、競う様なことはしないでマイペースで遊んだりしていました。
中学の時にバスケットボール部に入りました。
運動会では800mで3年間優勝しました。
きついけれどやれば結果を出せるものだと言う事が判りました。
高校では陸上部に入り800、1500mなどをやってきました。

都道府県の女子駅伝がスタートした年だったので、県内の選考レースとして女子の大会がスタートしました。
12人の中に引っ掛かりましたが、補欠でした。
2,3年生の時には自分が正選手ではないのに現場にいる虚しさ悔しさを感じるようになりました。
前夜祭の時に高石さんががこられ、「みんなここまで来るのに一生懸命頑張ってきた自分を判っているのは皆さん自身なんだから、ここにこれたことを先ず自分が喜んで、自分をほめた方がいいと、目標に向かって頑張って」という様な詩を読んでくれて、本当にそうなんだと納得する自分と、補欠だろう何で納得するんだと言う自分との葛藤があり、そこで大泣きしてしまいました。
まわりは何で泣いてんだろうと思ったと思いますが、言葉をメモしました。
しかし、今はとても言えないと思って封印することにしました。

大学でも成績はあまり芳しくなかった。
リクルートに入って小出監督と出会う事になりました。
千葉県の船橋で初めて会う事になりいろいろ話をしていただきました。
しかし何の実績も無いのに来たのは初めてだと言われました。
実績が無いのに続けてきた根拠にとっても興味があると言われました。
それを僕は形にしたいといって、妙なところに関心を持ってくれました。
周りは強い選手ばっかりでついてはいけないが必死でやるだけでした。
タイムは遅くてもいいから与えられた量をこなすようにと言われました。
「せっかく」と言う言葉はポジティブに持っていける言葉なので、ああしよう、こうしようと言う事になって救われました。
この言葉は講演でも皆さんに伝えています。
1992年にバルセロナオリンピックに出場することになりましたが、銀メダルを獲得することができました。
ワレンティナ・エゴロワと、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げ8秒差で銀メダルとなる。
日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝さん以来、64年ぶりの五輪メダル獲得ということでした。
喜びながら不思議な感じでした。

1994年に両足かかとの手術をする。
走れなくなったらやめようと思っていました。
リハビリも一生懸命やりましたが、時間が空くのが怖かった。
早く一本は走らなければいけないと思いました。
1995年に出場した北海道マラソンで2時間29分17秒の当時の大会新記録でマラソン初優勝を達成し、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出されることになりましたが、あの結果が違っていたら別の道を歩んでいたかも知れません。
ここまでの4年間は非常に孤独な時間でした。
今までに例の無いマラソンメダリスト当事者と立場の違いの噛み合わなさが露骨にあって、そういう時間でした。
前に進むにも自分が故障している人間ではなくて、以前のメダリストではなくて、又オリンピックのメダリストにならなければいけないから、オリンピックに出なきゃと言う判断になりました。
又オリンピックのメダリストにならなければいけない、それが一番しんどかったです。

1996年アトランタ五輪女子マラソンで4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得。
ゴール後のインタビューで「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った。
総まとめの思いでした。
静かな喜びでした。
「初めて自分で自分をほめたいと思います」というのは流れで勝手に出てきた言葉でした。
理解されそうで理解されない言葉かも知れません。
1998年NPO「ハート・オブ・ゴールド」の設立、代表となる。
西日本豪雨、その後大阪、北海道など全国で自然災害が起こりましたが、「地元の事は地元やろ」と言う思いで岡山を支援しようと思いました。
人の気持ちを元気にすることをやらなきゃと言う事で、諦めないように、少しでも元気を埋める様な事をしようと言う事で動き始めています。
事あるごとに尋ねて行ったり、関われるものは増やしていきたいと思っています。
明るく気さくに「何とかとかなるだろう」という言葉を掛けながらお互い元気にしていききたいと思います。
「諦めないです」と言うよりは「諦める理由は無い」と思っている自分がいるから、私にとっては諦めるというその言葉は意味の無い言葉だと思います。
諦めると言う自分の作っている限界だけでその言葉を生んでいるだけで、本当の意味での諦めるなんていう様な判断は多分死ぬまで出来ないんじゃないんですかね、持とうとはあまり思わない言葉であってほしいと思います。
「全てを力に」 全てが力に出来る生き物なので人間は、生きて行こうと思った時に全て何でも前向きに、力に変えていける生き物なんじゃないかと思います。