2019年6月11日火曜日

田沼武能(写真家)            ・世界の子ども 一瞬の輝きをとらえて

田沼武能(写真家)            ・世界の子ども 一瞬の輝きをとらえて
90歳、今年写真家としてデビューして70年を迎えます。
東京写真工業専門学校を卒業し通信社に入社、写真家の木村伊兵衛と出会い助手として写真家人生をスタートさせました 。
その後雑誌に連載した肖像写真で注目を集めます。
その後はフォトジャーナリストとして世界各地で撮影を続けて来ました。
田沼さんのライフワークは世界の子どもを撮ること、これまで120以上の国々で撮影をしてきました。

日々写真を撮っていると言う事が健康の要素だと思います。
レバノンに行ってきました。
黒柳さんが親善大使としていきましたが、一緒に行きました。
1929年東京浅草の写真館の家に生まれました。
小学校に通う中途に仏師の家があり彫刻家になろうと思いましたが、反対されて建築家になろうと考えて大学をうけますが、第一次試験が内申書選考で、内申書は良くなかったので1年浪人しました。
また落ちてしまって、内申書選考では駄目だと言う事が判り、友人から写真家の学校に行ったらどうかと言われて、東京写真工業専門学校に入学することになりました。
1年目は家での技術のおさらいをしているようでした。
フォトジャーナリズムの世界に入ることを目指しました。
通信社に入るようになりましたが、会社が赤字で給料が出ないことが判りました。
写真家の木村伊兵衛との出会いがありましたが、助手など要らないと断られました。
家から自転車で10分ぐらいでいける所なので、雑用などして近づいて行って、いつの間にか助手になりました。

「俺と同じことをやっても俺よりも上手くはならねえ、必要なところだけは俺のを盗め、それ以外は自分で考えろ」と言われました、それが良かったんじゃないかと思いました。
土門拳先生は木村伊兵衛と犬猿の仲と言われているかもしれないが、そういう訳でもないです。
土門拳の助手を務めていた人が写真週刊誌の会社に勤めていて、彼に一緒に付いていき土門拳のアルバムに張ってある写真など見てました。
土門拳が帰ってくるなり顔を真っ赤にして怒鳴りそうになったが、義理の弟を呼んで僕に木村伊兵衛の暗室の事を聞き始めました。
僕がファイルを見ていたことは産業スパイと言うように思ったようですが、考えが変わって暗室の事を聞いた方がいいと思って、暗室作業の事を根掘り葉掘り聞きました。
知っていることは全部喋ったので産業スパイではないことが判って、それ以来亡くなるまでとても親しくさせていただきました。
土門拳の考え方も知ることができ勉強になり、僕の写真人生のよかったところだと思います。

芸術雑誌が出版されて、若い人がいないかと編集者が木村伊兵衛に相談してきて、僕が7,8年間やることができました。
中谷宇吉郎先生は物理学者で寺田寅彦さんに影響を受けた方で、その方に写真の取材に行きましたが凄い勢いで叱られました。
物理学者ではなくて随筆家だと思ったことが面白くなかったようです。
後に週刊誌で雪を研究していた所に取材に行きましたが、物理学者として伺ったのでご機嫌でした。
それ以来親しくさせていただきました。
僕は20歳過ぎたばかりの人間なので色々な先生方の孫のような世代なので、色々と話をして聞かせてくれて凄く人生の勉強になりました。
肖像写真ではその人の内面を引き出せるような(あうんの呼吸みたいな)写真を撮ろうという思いで撮りました。
その後仕事が大分来るようになりました。
木村伊兵衛から「頼まれた写真ばっかり撮っていると、お前の写真としてのものではない、自分のテーマで撮った写真を世の中に出していかなければ駄目だ、自分の写真を撮らなければ駄目だ」と言われました。
「ジャーナリズムの世界はチューインガムと同じだ、味のある間は使ってくれるけれども、味が無くなったら道端に吐き捨てられるぞ」と言われました。

その時にアメリカの週刊誌をやっているところからオファーがありました。
ベトナム(戦争)へ行くこと言う事でしたが、断りました。
ニューヨークに呼ばれて行って、仕事をさせてくれて原稿料をいただき、その金でフランスのパリに行きました。
ブローニューの森の公園に行きました。
そこで、ドアから一目散に飛び出してくる子どもたちに出会いました。
いつの間にか引き寄せられて写真を撮っていました。
世界の子供の写真が撮れないかとその時に考えました。
1961年にザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」 “The Family of Man”.という大きな展覧会(エドワード・スタイケンが企画した展覧会)がニューヨークでありました。
ゆくゆくはこういう写真を撮りたいと思っていましたが、ブローニューの森の公園で撮ってみて、世界の子どもの写真を撮れないかなと頭に浮かびました。

最初のころは仕事の合間に撮ればいいと考えていましたが、とても無理だと思いました。
子どもの写真を撮るには、人のお金でついでに撮ると言う事はとてもできない、自分の金を使って撮るほかないと思いました。
子どもは自分の意思で遊んでいるのが一番いい顔をしています。
それを撮るにはどうしたらいいか考えるわけですが、なるべく空気のごとく電信柱のごとくならないと子どもの遊んでいる所は撮れないと感じました。
その時には手ごたえがあり、現像をしていて待ち遠しいです。(海外にいる時には大変)
自分で気に入った写真を机の前に張っておいて、1週間で飽きるもの、1カ月で飽きるもの、1年おいて気に入っていると言うのはやはりいい写真だと判断する訳です。
子どもが看護師さんの持っている聴診器を取りあげて、自分の耳に差し込んで自分の胸に当てて自分の心臓の音を聞いた瞬間の顔、目が写った時の写真は面白かったですね。
120以上の国を回ってきて、その国その国によって違うので、総体的にどうとは言えないが、一番大変なのはやっぱり戦争に巻き込まれた子どもですね。
大人がしかけた大変な災害なので子どもたちはどうにもならない。
レバノンに行った時は、シリアの内戦で非居住地域に住んでる子で、大変な不自由をしながら生きている訳で、何とかしなければいけないと思っています。
私の写真家人生と言うものは、良かったと歳を重ねるに従って思います。