2019年6月15日土曜日

宮川 徏                 ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」

宮川 徏          ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」
昭和30年代古墳保存運動の先頭に立った
先月大阪府百舌鳥(モズ)古市古墳群に付いて、ユネスコの諮問機関が世界文化遺産に登録することがふさわしいとする勧告を纏めて7月上旬にアゼルバイジャンで開かれるユネスコの委員会でこれらの古墳群が正式に世界文化遺産に登録する見通しになりました。
大阪府南部の堺市にある百舌鳥(モズ)古墳群とたびき市と藤井寺市にまたがる古市古墳群には前方後円墳やホタテ貝のような形をした古墳、丸い形をした円墳、四角い方墳など大小さまざまな古墳があります。
大きな古墳のそばには陪塚(ばいずか、ばいちょう)という小型の古墳も点在しています。
今からおよそ1600年前の4世紀後半から5世紀後半に作られたとされるこれらの古墳には誰が葬られ、どうしてこの地に作られたのか、解明されていない部分も沢山あります。
戦後幾つもの古墳が開発のもとに破壊される現場を目撃し保存運動の先頭に立った、歯科医師の宮川さん86歳のお話です。

仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、鳥居と石垣が見えるだけで墳丘はこんもりしたただの森みたいです。
墳丘の長さは486m、後円部の長径が243mです。
最近の宮内庁では500mを越えるのではないかという話もあります。
上空から見ると形は鍵穴型になっていますが、一番の謎だと思います。
後円部は限りなく正円に近く地割をする、円に台形の前方部を付けた複合図形になっています。
人工の山に葺き石をしいたり、テラスと言われる平らな部分には埴輪が並んでいました。
或る意味異様な外見をしていた。
立ち入り禁止になっていますが、去年11月に外堤部分を見る機会がありました。
堺市の街の中によくこんな自然が残っているなと言う感じでした。
仁徳天皇陵の北1kmには反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、履中天皇古墳(上石津ミサンザイ古墳)がありこれも300mを越える大きな古墳で、南北に向いている。
ほかに御廟山古墳いたすけ古墳土師ニサンザイ古墳など墳丘300m位の大きな古墳がありますが、ほぼ東西に向いています。
10km東には古市古墳群が広がっている。
古市古墳群の一番大きな誉田御廟山古墳(伝応神陵)は大仙陵古墳とほぼ同じ緯度で並ぶ、ばらばらに作ったわけではなくて、グランドデザインがあって東西に巨大古墳群を配置したと考えられる。
古墳は当時の倭の人達の知的遺産でもあります。

百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には200以上の古墳が築かれて、89が今残っている。
古墳時代の特に前方後円墳を中心とした日本のお墓の慣習というのは生きている頃から作られていたものではないかと考えられている。
古墳の大きさによって権力、首長の持っている霊的な力、これが古代では重要な意味があったと考えられるので、それを目に見える形にするというのは、身分証明みたいなことであったと思われる。
前方後円墳の設計には厳密なルールがあって、後円部は限りなく円に近く作る。
日輪(太陽)を象徴していると思う。
台形部分は水の祭祀に関係する部分だと思います。
水田稲作が社会の基盤となる国だったのでその祭祀を象徴した形をしていると考えています。(宮川説)
前方後円墳の特徴は後円部に直径を基準にして前方部の長さを決めている。
百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には二つの大王の系統があったのではないかと考えられる。(宮川説)
大王に付随する者も職能まで判るようになってきたかもしれない。

子どものころには古墳に興味を持つようになりました、当時大仙陵古墳の周りはほとんど田んぼでした。
外堤の斜面に入っても叱られなかった。(今は立ち入り禁止)
開発の波が進んで来て、一番最初に破壊されたのが七観山古墳、そこから鉄の錆び付いた矢じりを中学2年生の時に発見しました。
それから京都大学の大きな調査が行われて、武器、鎧とが出てきて特に問題になったのが鎧のところに金メッキをした帯金具がついていた、初めて鎧のところにつけることが判った資料で、ほかに5世紀の前半ごろにはあぶみが入ってきていたのが判った。
昭和25年に台風が来て高潮で水浸しになり、復旧の為に七観山古墳の土を道路復旧に使う事になり、全部無くなってしまいました。
その時に沢山の刀が出てきました。
大塚山古墳も破壊される、墳丘長167m 後円部が直径100m近い大きな古墳でしたが、土取りで戦後4,5年のころに後円部まで迫っていた。
同志社大学の大学生の 森浩一さんをリーダーにして、僕は高校2年生だったが一緒に調査をしました。
鍵型に曲がった鉄の武器が出てきましたが、日本でもこの一点でした。

昭和30年、いたすけ古墳が壊されると言う情報が入って来る。
なんとしてでも残さないといけないと話し合いました。
いたすけ古墳を守る会を結成し、資料を作って、関係者に送付したり新聞に投稿したりしました。
教職員組合がいたすけ古墳を買い戻そうという10円カンパも始めました。
労働組合、市民に訴えかける。
文化庁、大阪教育委員会に仮指定の協議をしました。
社会情勢が緊迫した時代(血のメーデー事件、第五福竜丸被爆、立川の基地反対闘争など)だったので、私たちの保存運動が政治運動化するのを恐れてなのか、沈静化をはかってとんとん拍子に進みました。
三笠宮が堺市に視察にみえました。
そのおかげで堺市が立て替え払いで買い上げて、後に国と大阪府の補助金を貰って対応しました。
(いたすけ古墳は民間の土地になっていた。)

1975年には土師ニサンザイ古墳に問題が起きる。
規模と設計から行くと大王としてすじ目にあたる人物と思われたが、宮内庁の指定では陵墓参考地と言う非常に低く位置付けられた。
濠を埋め立て調査もせずにダンプが入ってきて工事が始まった。
宮内庁の敷地とそうでない敷地が混在していた。
土師ニサンザイ古墳のお壕の部分を整えますと言って工事が始まりましたが、原型を破壊してしまって、考古学会、歴史学会が連名で陵墓の保護と公開を求める声明を発表する。
濠のあたりと古墳のヘリのあたりを学会関係者に公開することになった。
我々若い人が必死になって何とか残そうとしたのが文化財保護運動のはじまりでした。

いたすけ古墳は65年前に仲間と共に守った古墳で思い出深い古墳です。
1955年ごろの航空写真があるが、くびれの部分の処に橋の工事が始まって完成したらダンプがはいっていたであろうが、現在橋の部分だけが残っているが、古墳をつぶそうとした愚かな行為を象徴していると言う事でこれも残そうと提案し現在も残っています。
壕はそのままにして古墳だけつぶして住宅にしようとしていました。
「いたすけ」という名前は以前所有していた大きなお百姓さんが持っていた名前かもしれないが、調べようがありません。
誰が葬られているのか判らない古墳が多くあります。
今は情報公開と調査の見学などもできる時代になってきたので、是非やってもらいたいと思います。
世界遺産は到達点ではなくて、むしろこれからが大事な時だと思います。
全体像をどうまとめて行くかと言う、縦割りではないやりかたで、宮内庁、文化庁、自治体とか各分野集まって協議して進めてもらいたい。