2019年7月2日火曜日

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)
静岡県出身86歳.高校生の頃、進駐軍向けラジオ放送と当時東京有楽町にあった日劇のショーに接したことで、ショービジネスとの世界に憧れました。
大学在学中から主に内外のポピュラー音楽やミュージカルについての記事や批評の執筆をつづけてきました。
江利チエミ越路吹雪フランク・シナトラなど伝説となったアーティストたちをリアルタイムで見聞きし論じています。
また日本レコード大賞実行委員、審査員を務めたり劇団四季の取締役としてミュージカル公演の企画交渉を担当されました。
現在に至るまで幅広く音楽界で活躍されています。
 
「王様と私」というのは、ブロードウエーミュージカルの歴史の中で古典的な作品になってしまっている。
王様を演じたのがユル・ブリンナー、迫力のある俳優で。
タイ国の国王、時代は1860年代ぐらいの話、ヨーロッパの列強から圧力を受けて開国しなくてはいけない状況だった。
イギリス人アンナが家庭教師としてもろもろのことを教える。
西洋を代表するアンア、東洋を代表するシャム王の対立と和解の物語、リチャード・ロジャースがミュージカルに仕立てた傑作中の傑作、ブロードウエーで上演されたのが1951年(昭和26年)。
「シャル ウイー ダンス」などは特に有名です。
文化の対立と個人の気持ちが引き合うというロマンスと両方が重なり合うその象徴が「シャル ウイー ダンス」。

いろいろなひとがやったがユル・ブリンナーを越える人はいないが、2015年ニューヨークのリンカーンセンターで再演しようということになった。
シャム王を誰にするか考えたところ、東洋人ということで渡辺謙が起用された。
演出家の仕事はキャスティングで1/3~1/2ぐらいは決まってしまうといっていいぐらい。
こういう新しいシャム王像を作りたいという考えがあって渡辺謙を引っ張って、それなりのことが頭の中にあったと思う。
私が見たときには威風堂々としていました。
舞台がそのまま日本に来ることになりました。
オリジナルキャストを呼ぶ。
渡辺謙はその年のトニー賞のミュージカル男優賞の候補になった。
ノミネートされるということ自体が勲章だと思う。

私は昭和8年静岡県生まれです。(86歳)
東京都立日比谷高等学校を経て慶應義塾大学卒業。
高校時代はみんな好きなことをやっていました。
友人の江藤淳はそのころからエッセー、文芸評論、作曲などもしていました。
慶應義塾文学部に進んで劇団四季の創設者の浅利慶太と出会うことになる。
有楽町に日劇があり日劇ダンシングチームがありスターたちが出演していました。
そこに振付家で出演者でもある益田孝さんがいました。
1951年(昭和26年)「王様と私」が上演され他同じ年に帝劇でミュージカルが上演された。
「モルガンお雪」という作品で益田孝さんが振付家で出演もしていました。
モルガンはアメリカの大富豪の御曹司、お雪は祇園の芸者で実在の人物で、恋をして結婚するという話で実話です。
御曹司を古川ろっぱ、お雪お宝塚の越路吹雪が演じました。
僕の同級生たちの日劇ファンが面白そうだから見に行こうということになりました。
一回見たらもう一回行こうということになりました。
これが私の人生を決定付けたかもしれません。

当時アメリカの音楽が入ってきて、ラジオはNHK、FENでアメリカの音楽が鳴っていて聞いていました。
越路吹雪が「ビギン ザ ビギン」を歌っていました。(コール・ポーター作曲)
日劇、帝劇に行くと日本人が生で歌っていて、ラジオで聞いたアメリカの音楽とうたう日本の歌手との出会いがありました。
そういった歌手は進駐軍のキャンプのクラブで歌ったりしていましたが、日本人向けのコンサートをやっていてそういうものも聞きました。
大学在学中に音楽評論家として仕事をスタートしていました。
ジャーナリズムもまだあまり復活していないような時代でした。
段々新聞も復活してきてスポーツ紙が出始め、芸能関係も取り上げられ映画、歌謡曲なども取り上げられました。
ジャズコンサートなども行われたりして、そういった記事も書くようになりました。
新聞記者のかたから書いてみないかと誘われて、大学4年生のころから書き始めました。
美空ひばりは歌詞もすぐ覚えてしまうし、言葉をキャッチする能力があるので、英語でもずいぶん歌っています。

1963年日本で初めての日本語での「マイ・フェアー・レディー」に江利チエミが主演される。
言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げる。
その花売り娘を江利チエミ、ヒギンズ教授を高島忠夫がやった。
江利チエミは下町育ちなので下町娘をやるのにはぴったりだったが、レディーという雰囲気が身に付けられるか疑問視されたが、見事にこなすことができた。
涙涙のカーテンコールだった。

演出家の菊田一夫さんが初めて日本でやろうということになる。
当時ハリウッドで作られた音楽映画がたくさんあったが、音楽家を主人公にしたものが多く歌、音楽が存分に取り入られていた。
比べるとミュージカル運動の先兵だった菊田さんに批判が向かって、何とか日本のミュージカルをどうしたらいいか考えていて、アメリカで当たった作品を丸ごとやってみたらどうだろうということで、昭和38年9月に上演したのが「マイ・フェアー・レディー」ということです。
1965年から毎年ブロードウエーに行っています。(500本以上か?)
魅力は歌、踊り、芝居そういったものが混然一体となっていて、一つの人生模様を描き出す、その醍醐味ですね。