2019年7月9日火曜日

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)

安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)
北海道遠軽町出身71歳、今年放送開始40周年を迎えた「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人です。
1979年に放送が始まった「機動戦士ガンダム」、様々なシリーズや劇場用映画がつくられ膨大な数のグッズを含め、日本を代表するコンテンツつの一つになっています。
安彦さんはアニメーターとして人気絶頂の時に漫画家に転身しました。
日本の近代史を検証する作品や日本の古代史の謎に挑む歴史漫画などを数多く描き、その流麗なタッチと抜群の構成力が高く評価されています。

「機動戦士ガンダム」のストーリーは、人口が増えて人類の半数が宇宙に移住した未来が舞台で、宇宙植民地スペースコロニーに住んで独立を求めるジオン公国と地球連邦軍との戦いを描いていて、戦いに巻き込まれて成長してゆく少年少女たちの物語。
安彦さんはキャラクターデザイン、アニメーションディレクターを担当する。
キャラクターデザインはロボット、船などをデザインした人は別で、僕がデザインしたのは人物のキャラクターです。
アニメーションディレクターは作画監督と日本語に訳してもいいです。
作画をする人は何人もいて、統一感を持たせなくては行けなくて、あとで直しを行います。
シナリオがつまらなかったらケチをつけたりするなど幅があります。
1979年4月から放送が始まり、劇場用映画、新シリーズなどが制作され、関連商品の売り上げが年間700~800億円と一つの産業になっている。
放送が始まってすぐに一部の若い年代層から反応がありました。
放送時間が5時30分からで視聴率は惨憺たるものでした。
52話のシリーズが43話で中止になりました。
監督などはがっかりしていましたが、現場は一杯一杯だったので僕はよかったと思いました。
中止が決まったちょっとあとにダウンして入院してしまいました。
肋膜の病気で半年入院しました、過労だったと思います。
突然発作が起きて呼吸ができなくなり、それが繰り返され、死ぬんじゃないかと思いました。

「機動戦士ガンダム」は物語が従来と違ってかなりリアルにできています。
戦争で主人公たちは一般の青少年、一般の市民の設定であり当時としてはちょっと考えられなかった。
主人公のアムロ・」レイは内向的で友達付き合いもうまくなくて喧嘩すると弱いとか設定が従来と違っていた。
古谷徹さんが声優としてオーディションを受けたそうです。
輸送船を設定、難民も収容する。
テーマはと聞かれたらありませんと言っていたが、なぜ戦争ってしてしまうのだろうと思って、人間って分かり合えたほうがいいよなあと後で考えたことですね。
1989年に漫画家に転向。
30年近くたって機動戦士ガンダムの総監督になる。
1991年からガンダムを漫画で描きなおす作業を3年と思っていたが10年かかりました。
ジオン公国の過去、どうして戦争になってしまったんだろうと思って、過去編を書かなければいけないと思ったりして10年かかってしまいました。
過去編の部分だけでも映像化しようとなったのは2013,4年のころでした。
その関係で総監督になることになりました。

生まれは北海道の遠軽町です。
当時人口は2万人ぐらいで大きかった。(大合併してもいまは2万人です)
はっかを作る農家の子どもでした。
よそのこと遊ぶのは苦手で絵を描くのは好きでした。
古いマンガ本を郵便屋さんを介してもらって読むのがうれしかったです。
将来は漫画家に成れたらいいなあと思っていました。(中学時代)
高校は遠軽高校で人前ではしゃべる事ができなかったが、ひょんなことで生徒会長などもやりました。
高校3年の時に政治的な問題に見ざめてベトナム戦争が拡大していった時期でした。
小人数のグループで紙に書いて文化祭に貼り出したりしました。
ノートに2冊分の漫画があり、スペイン内戦を描いたものでした。(高校3年の時)
大学は弘前大学に行きました。(内地にいきたいという思いがありました。)
全共闘的な組織を先頭に立って立ち上ようという流れになりました。
ヘルメットをかぶってとか、演説などもやりませんでした。
当時学生は3000人ぐらいでしたが、全共闘派の活動家は50人もいなかったと思います。
1969年の秋に大学本部の封鎖をやって1か月もしないで機動隊が解除しましたが、その首謀者という事で除籍処分という事になりました、5人退学になりその一人になりました。

あてもなく東京に出てきました。
挫折していたので労働者にもなれなかった。
最初は写植屋さんをやりましたが、新聞に虫プロの求人広告があり、受けてみたら受かることができました。
大学ノート2冊に描いたものを持っていったらそれが良かったのかもしれません。
入社当時社員は300人ぐらいいましたが73年ぐらいに倒産しました。
残党が散らばって、演出家、アニネーターがつくったグループと、中間管理者のグループがありそこの会社に仕事をもらいに行ってそれから付き合いが続いています。
「宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテを描いてほしいとの要請がありました。
「宇宙戦艦ヤマト」の半分ぐらいをやりました。
映画版の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテをやって、あといろいろやりました。
仕事はすごく混んでいました。
1989年漫画家になる。