2025年9月1日月曜日

松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

 松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

松谷直美さんは昭和21年中国東北部の生まれ、生後3か月で帰国し、福岡県で育ちました。  上京して就職、結婚して子宝に恵まれしたが、長女を生後4か月で亡くし、悲しみのどん底にいました。  次の年に出産し、子育てが落ち着いたころに手話を習い始めます。   講習会で目と耳が不自由な盲ろう者と出会たことを機に、35年前から盲ろう者と交流し、手話通訳や介助を始めます。  視覚と聴覚に障害があっても盲ろう者の夢を叶えたいと20年前にNPO法人を設立し、共に楽しめることを行ってきました。  盲ろう者の心の声に寄り沿って、活動20周年を迎える松谷さんの思いを伺いました。

盲ろうの方と触手話と言って相手の手を触って、相手が言いたいことを汲み取って、自分が言いたいことを手話で伝えるというコミュニケーションをしています。  盲ろうの方は色々なコミュニケーションがありますが、手話、触手話など。  視覚と聴覚の両方に障害の有る方は総称して盲ろう者と言います。  全国で約1万4000人いると言われています。  盲ろうの程度によって4つに分けると、①全盲ろう、②盲難聴(全く見えなくて少し聞こえる。)、③弱視ろう(少し見えて全く聞こえない。)、④弱視難聴(少し見えて少し聞こえる。)

NPO法人「夢叶えたい」の活動をするには仲間がいないと活動できないので、事前準備があります。  歴史が好きな方がいて皆さんに説明するために、画用紙に前日に一睡もせずに作るんです。  チームワークで活動をしています。  盲ろうの方が6人いて会えるのが楽しみです。  通訳介助員も一緒に参加します。  

昭和21年中国東北部に生まれしたが、高校生になるまで全く知りませんでした。  母が晩年に話し始めました。  姉夫婦が満州にいて、牡丹江と言うところで布団屋さんをやっていたそうです。  義兄が出征てしまって心配になって牡丹江に言ったという事でした。 ソ連が侵攻してきて街が炎に包まれてしまった。 貨物列車で逃げて鉄嶺と言う街に着いた。  昭和21年3月に私は生まれました。 何とかして私を連れて日本に帰ってきた。  それがあるから人に優しくできるのかなあと思っています。  6月に戻って来て福岡の母の兄の6番目の子として私を入籍しました。  母が結婚した時に私が養女となって入籍されています。  それを知ったのは高校に入学するときに戸籍抄本が必要で、それを見たら養女となっていました。  父は家庭のある人だった。(母の姉からの説明)  自殺しようと思うくらいショックでした。  家にいてはいけないと思って、高校卒業したら家には居ないと決めていました。 

卒業後、東京で就職しました。  結婚して男の子が二人。3番目が女の子です。 その女の子が生後4か月で亡くなりました。  保育所でミルクが器官に詰まって亡くなってしまいました。  翌年次女を出産して、この子は絶対自分の手で育てるんだと思いました。  小学校について行ったら、娘に「ついてこないでくれ。」と言われてしまいました。  会社も辞めていたし暇なので世田谷区の手話講習会に行きました。  地域で手話通訳として活動するのと手話講習会の助手をやるようになりました。  会場の入り口で白杖を持った男性が白杖を持った全盲ろうの女性を手引きしてきました。  場所を間違えたのではないかと声を掛けたら、手で何かやり取していて、「今日はお招きして頂いてありがとうございます。」と言ったんです。  その人は講師の一人でした。 衝撃的でした。 自分の不甲斐なさを感じました。   

生まれて初めて弱視ろうの手話通訳をしました。  その人からFAXが入って新宿で待ち合わせをして欲しいという内容でした。  35年前だったので当時は盲ろう者を支える制度は全くありませんでした。  ガイドはしたことがないので必死でした。(2時間のガイド)   ガイドヘルパーの研修を受けました。  

①視覚障害が先に起こって聴覚障害を伴う場合「盲ベースの盲ろう」(多くは点字を習得している。)コミュニケーション方法としては点字、指点字 ②聴覚障害に視覚障害が伴った場合は「ろうベース盲ろう」(多くは手話を習得している。) 手話、接近手話(見える位置での手話)  全盲ろうになった場合は触手話、パソコン通訳(最近多い) ③先天的又は乳幼児時期に発症した場合を「先天的盲ろう」 コミュニケーション方法としてはローマ字式指文字、成人期以降に盲ろうとなった場合は、耳の近くなどで話す音声を用いたり、掌に書く手書き文字などがあります。  

苦労しましたが、点字の勉強もしました。(1年掛かってようやく読めるようになりました。)全国盲ろう者協会の職員になりました。   悩み相談も受けて、会社を首になって死にたいという人の説得を手話で3時間かけて必死でやったこともあります。  最後に同じような症状の会に参加するように促して、参加してその方は元気になられました。 その人は今は関東地域の代表をしています。  

NPO法人を設立しました。  皆さんに助けられてやっています。  東京都立つばさ総合高校総合学科のなかの福祉科で教えています。  盲ろう支援の大切さを伝えていかなければいけない思っています。  福井県にある社会福祉法人「光道園」(障碍者施設)につばさ総合高校では合宿に行きます。   今があるのは盲ろうの方に出会ったからだと思っています。