加藤武(俳優83歳) 芝居をせんとや生れけん
昭和4年生れ東京築地 仲卸業の家庭に生まれる近くに歌舞伎座、新橋演舞場、築地小劇場という地の利の良さ
中学区の同級生には小沢昭一フランキー堺、内藤法美さんがいて演劇の世界に導いています
昭和27年念願の文学座に入り、以来60年間硬軟自在の幅広い演技力で舞台のみならず
映画、TVでも活躍してきました
83歳の今も現役で舞台を踏む加藤さんにこれまでの様々な出会いと芝居どっぷりの人生を語って貰います
進藤兼人 再現ドキュメンタリードラマ 進藤兼人役をやるが、凄く似ていた
音羽信子 癌でいつ亡くなるか分からない状況
ドラマを取ったときが進藤さんが83歳の時の事 原爆の子で 一回だけ一緒に進藤監督とは仕事をしたことが有る
仲卸業 寿司屋、料理屋に降ろすための卸業だった
甥が継いでいる 3時、4時には起きて出掛ける セリは見たことは無い
泰明小学校に行く 島崎藤村も居た 全国でも有名な小学校 先輩は河原崎国太郎 殿山 泰司矢代 静一 森田誠吾 後輩が沢村田之助(歌舞伎座) 双葉山が69連勝で敗れた時に6代目菊五郎と一緒に見ている
沢村田之助は幕内力士から部屋出身地、しこ名を全部覚えていたと言う
小学校にいくのにバスで通っていたが、そのうちに戦争で歩いて来いと歩いて行ったが皆がバスに乗ってしまった
一人で歩いていると田之助がたまに一緒に歩いてくれた
その時に芝居の話をしてくれて面白かった 家では晴れ着をきて芝居を見に行くのが皆好きだった
開始が午後3時半から4時ごろ はねるのが午後10時頃 一家で出かけた
学校を早退してゆく為の口実に苦労したが、先生も粋な計らい(嘘を言っても判らぬふりしてくれて)をしてくれた
姉たちは踊りのお師匠さんがいてそこに習いに行っていた 母は三味線を弾いていた
清元 等を弾いていて、それが耳に入って来ていた
日ごろ聞きおぼえていたので芝居でもいっていることが解って面白かった
歌舞伎座も戦争で焼けてしまう (5月25日) 焼夷弾が落ちて 姉と2人で大八車にお婆さんを乗せて逃げた
魚河岸の方に逃げたがそちらにも、焼夷弾が落ちて引き返したりして、ちりぢりに成った
歌舞伎座の燃えているのを目撃する
アスファルトが火事のためにお汁粉のように溶けてしまった
建物が崩れ落ちるところを見て、家に戻ったら家は燃えてはいなかった
しかしお婆さんが其の時には亡くなって仕舞った
歌舞伎座の建物を ここで新しくなり出来上がれば3代の建物をみることになる
4代ぐらいの歌舞伎役者を見てきた
軍需工場に行かされた 兄は学徒出陣 幸いに命は取り留めて復員した
今ペットブームでいろんな犬を飼って大事にしているが 家に犬がいて、可愛がっていた
淡路島に似た模様が背中に有り「マップ 」という名にした
少ない食料の中で分けて育ててきた その犬を役所から通達が来て いつまでに連れて来いと言われた
何のためにするのかと言ったら毛皮にするとの事 寒さ対策とのことだが ぜんぶ殺してしまっただろう
当時人間でも食い物の無い時代なのだろうからしょうがないと思うが、誰が連れていくかという事に成り 誰も連れて行くことが出来ない
母親が一番可愛がっていたが、遂に母親が連れて行った
戦後落ちついてから、遂に母親は犬を飼わなかった
中学は麻布中学 受験校 当時からそうだった 府立3中(両国高校)久保田万太郎 芥川龍之介が出たところ 受けたらおっこってしまった
内藤法美 (越路吹雪の夫ピアノ アコーデオン 成績も抜群だった) 代々木練兵場に先生が教連と称して連れて行きそこで内藤にアコーデオンを弾かせたり小沢昭一にハーモニカをやらせたり、フランキー堺に落語をやらせたり、粋な先生だった
小沢昭一は海軍兵学校に行った(当時の最高学府 海軍の幹部養成校) フランキー堺はネタを取りに寄席に言っていた(戦争中なので年寄の落語家ばっかり)
いずれはお国の為に死ぬと言う事を叩き込まれた 早稲田に行く
今村昌平、北村和夫 大西信行(劇作家) 小沢昭一等が集まった
小沢は俳優座養成所 北村は文学座養成所に同時に行っていた 私は堅くて兼ねてはいけないと言う様な事で 素人で芸を楽しむことは良いけど
それに成ると言うことは特に母はうるさかった 大変さを知っていたので
早稲田を出て1年間は先生(英語)をやった
志とは違って 決心を固めて、両親は許してくれて昭和27年文学座に入る