広上淳一(京都市交響楽団 常任指揮者)・最高の音楽を 我が街で
58歳 観客を熱狂の渦に巻き込むスタオルで知られています。
8年前に、京都市交響楽団 常任指揮者に就任して以来、広上さんと京都市交響楽団のコンビは急成長を続けファンを増やし、昨年日本のクラシック音楽界では最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
しかし、京都市交響楽団と出会う前の広上さんの指揮者人生は、波乱万丈、多くの挫折や苦しみを乗り越えてきたからこそ見えてきたものがあると広上さんは語ります。
最高の音楽を身近なところで楽しんでもらいたいという広上さんに、どんな音楽を目指すのか、遠回りしたからこそ辿りついた思いを伺います。
京都市交響楽団の第12代常任指揮者に就任したのが8年前、定期会員の数は2.5倍以上増え、定期公演のチケットは15か月以上完売が続いた事もありました。
多くのお客さまに受け入れて頂きたいという気持ちは強かったと思います。
素晴らしい音楽を伝えたい、分かち合いたいと言う気持ちで演奏しようと言う気持ちの積み重ねがこうなったのかと思います。
2014年3月 マーラーの交響曲第一番の「巨人」、京都で行ったものとプログラムと全く同じものを東京のサントリーホールで行って評判になった。
2015年 最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
こういう風にしようと思わなかったから、力まなかったから、よかったのかもしれない。
心の中で大事にしていたのは、100人近くあるそれぞれの団員の特殊な人たちだけを見るのではない、皆平等に、全員に愛情を注ぎたかった。
裏切らない、絶対に恰好を付けない、自分が間違ったときには直ぐ言う様にしている、貴方たちのことを信頼していますよという事を、時間をかけて裏切らないで生活していれば、自然と相手も信じてくれるようになる。
貴方たちの潜在能力はあると言う事は就任数カ月後に一言、言ったことがある。(リップサービスではなくて)
それまでは誉められたことはなかったようだ。
駄目な時には一切コメントしない、旨く行った時は誉める、それを続けてきました。
それが楽しいと思える仕事場になってきたのではないかと思う。
彼等の中に自信が芽生え始めたのかなあと言うのがあり、ある時期にポーンと上がった。
成果がでたのは4年目、地力がついて、音のクオリティーが変わって、ポカミスが無くなり、音楽が高いクオリティーでうねる様になった。
毎回来てくれるお客さんの反応が違ってきて、拍手が違ってきて、お客さんの数が増えてくる。
ステージ上からも反応が判る様になる。
大学4年の時に、コンクールに駄目もとで受けて、ファイナリストの メンバーが大野和士
十束尚宏 山下一史、小田野宏之であったり、全員が学生で集まって、5人でろくでなしの会を作った。
プロの道を目指そうと思った時に、名古屋フィルハーモニー交響楽団で若い副指揮者の公募があった。
全国から応募があり、佐渡裕さんもいて、2人残って、私が受かった。
しかし、車の運転をしたことのない様な人がF1レースに出る様なもので練習にならなかった。
1年間で首になり、先生から電話があり、コンクールに参加してみないかと言われて、第一回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールがオランダのアムステルダムであり、優勝してしまった。
最初で最後のチャンスだと思っていた。
賞金は無かったが、ヨーロッパ各地の名だたるオーケストラとの共演が約束されていた。
必死、孤独、評価との戦いだった。(上手くいかないと外国では一回で終わり)
1991~95年まで主席指揮者をつとめたスウェーデンのノールショピング交響楽団、やる気がある、一緒に勉強しないかと言われる。(熱血教師)
3~4年目にはワースト2と言われていたオーケストラが注目されるようになった。
この時の体験が後のオーケストラの失敗の要因にもなってしまう。
その後リンブルフ交響楽団で主席指揮者を担当するが、ここは熱血教師は通用しなかった、伸びたくないというメンタルだった。
一番勉強になったのは国によって全然メンタルが違う、サウンドの揺れ方が違う、同じやり方が通用しない、引き出しをいっぱい持っていないと通用しないことが判った。
2001年 43歳の時に休業宣言。
マネージャーとの金銭トラブル、自分の能力の限界と無理をしている、キャリアーに対する執着が強すぎた。(有名になりたい、輝きたい、成功したい、キャリアーを積みたい)
自分自身に自信が無くなって、結婚して子供ができて、随分夫婦喧嘩もした。
原因は家庭を顧みず、出世しか考えなかった。
自分の中でいろいろ考えた末に、休業宣言した。
何もしないと役に立たない、皿洗いしながら生活をすると貯金通帳からお金減ってゆき、半年休んで少しづつ再開しました。
真面目にちゃんと指揮をすることができればいいんじゃないあと思って、国際音楽コンクールの事を思いだして、純粋に音楽がしたいという思い、やりなおしたいと思った。
出てきた言葉が感謝、家族へ、指揮をさせてもらうことへ、呼んでくれると言うことへの 感謝です。
2006年アメリカ コロンバス交響楽団音楽監督に就任。
始まったとたんに凄いオーケストラだと思った。
むこうもこれは音楽家だと思ったそうだ、ものの2分とかからなかった。
2年で辞任、労使交渉の対立があって、私の首を条件に、オーケストラを残してもらう事になる。
2008年 京都市交響楽団の常任指揮者に就任。
欲の無さが幸いした。
最高の音楽はブランドでは決まらない、心が伴っていればどこの場所で、どの様な形であってもあるんではないかと思います。
最高の音楽は、どんなオーケストラでも、名もない学生オーケストラでも、いいものは良いし、やわらかな心で音楽を作り、聴衆はやわらかな心で受けとめる、一緒の空間のことを言うんではないでしょうか。
聞いて下さる方が大事です。
お伝えしたいことは、人間万事塞翁が馬という事と、何が起こるか判らないから最後まで挑み続けてほしいということと、転んでもただでは起きない、そういう気持で頑張って行きたい。