保阪正康(ノンフィクション作家) ・60年安保の時代 第31回
昭和35年 5月から6月にかけて新安保条約
昭和27年までは占領されていて、昭和27年4月28日に独立、昭和35年60年安保反対運動迄が政治の季節だったと言える。
そのあと経済の季節にはいる。
安保改定、岸内閣
岸信介氏 東条内閣の時に商工大臣を務める。
戦後、東京裁判の時にA級戦犯容疑者に擬せられるが訴追されなくて、釈放された後、占領時には政治活動ができなかったが、その後政治活動に入る、官僚として有能で有ったために、自由民主党の一大派閥を形成してゆく人物。
昭和32年2月に石橋湛山内閣を次いで組閣される。
政治スローガンは自主憲法の制定、自主外交など、独立国を目指す色彩が強かった。
藤山愛一郎さんは外務大臣、藤山コンツエルンの指導者で経済界の大物でした。
東条内閣には批判的な人だった。
藤山さんが日米安保条約の改定の前面に立つ事になる。
「ダレス長官と会見、安保条約の日本の自主性について話をしてきて、再検討しようと言う事になる。
岸総理に出席してもらい、討議する話し合いを始めた。」(藤山外務大臣の記者会見)
国内治安の重視も検討、デモなどに力で対応・・・警察か職務執行法改正案
文化人が判りやすい言葉で反対し、成立しなかった。
これが安保反対運動と連動してゆく。
新安保条約の交渉
昭和26年9月にサンフランシスコ講和会議の最終日に吉田茂が、司令部で密かに日米安保条約を結び、余りにも日本がアメリカにおぶさっているので、相互的な関係(5分ー5分)になろうと言うことが狙いだった。
実質的にはアメリカ主導の安保条約は変わらない。
極東の範囲、日本の防衛の細かいことは問題にしなかったのが、新安保条約だった。
調印が昭和35年1月19日 ホワイトハウスで岸総理、アイゼンハワー大統領が調印する。
安保条約特別委員会で新安保条約の法的な不備を細かく野党が突く。
政府の答弁が一貫していなかった。(極東の範囲など)
国民の間に不安感が起きてくるが、岸内閣が強硬採決をする。
国民の間に不信感があっと言う間に広がってくる。
昭和35年5月19日~6月23日
5月19日、20日 衆議院本会議で自民党の単独採決をするが、野党が採決させまいと、議長を軟禁状態にしたり、議長の道をふさいだり物理的な行動をして議場が混乱する。
議会政治を無視して新安保条約を通そうとすること、おかしいのではないかと、国会運営の形の場で批判が強まった。
新安保条約が承認される。 参議院で審議が終わらなくても6月18日に自然成立することになる。
反対運動が加速度的に広がる。
6月4日 国民会議統一行動で560万人参加。
6月10日 ハガチー事件 ハガチー秘書がアイゼンハワー大統領の訪問の調整をしようという事だったが、羽田でデモ隊に囲まれて、ヘリコプターで脱出、大統領の訪日は無理だと言う事になってゆく。
6月15日に全国でデモが行われ580万人が参加することになる。
樺美智子さんが亡くなる。
尖鋭化した学生デモ隊が国会に入ろうとして警官隊と衝突する。
6月18日、19日 新安保条約が自然承認される。
学生のデモは行き過ぎではないかと新聞社7社が報道する、15日を境に運動は鎮静化してゆく。
後藤田さんは、あのデモを放って置いたら大変なことになると言っていた。
6月23日 新安保条約が発効されて、その日に岸首相が退陣、池田勇人首相が誕生することになる。
経済優先策を取る。