カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(2)
映画TV業界の最高峰 ハリウッドで成功する道のり,波乱万丈の人生について伺いました。
もともとはダンサーだった。
女は結婚して子供を産んで家庭を守ると言う様な時代でした。
昭和8年生まれ。
子供時代はおてんばでしたので、6歳6月6日には習いごとをさせると言う事で、日本舞踊をやって、そのうちタップダンスを最初に広めたジョージ・堀が姉を見染めて結婚して、タップダンスをするようになり、学童疎開をするようになりました。
富山県のお寺に行きました。
お寺で1週間に一遍ショーをやると豆をもらえるので、タップダンスをやりました。
終戦後、進駐軍慰問をして、ベビーチームのAクラスで10円もらえた。
東京駅に20台位ならんでいて、服が無いので兵隊さんの恰好をしたバンドが集まったり、私もベビーチームでバイオリン1丁でタップダンスを踊りました。
行くところ行くところ楽屋が無くて、男は倉庫に、女の人は床屋に入れられたりしました。
面白い場面がいっぱいありました。
14歳から16歳頃にはプロのダンサーになっていました。
16歳の時に映画を見てショックでした、踊れないといけないということが判り、そしてバレエ、アクロバット迄習いました。
日本文化施設で世界を回った時は日本舞踊ができてアクロバットができるのは私一人でしたのでイギリス、スイスから廻ってその帰りにアメリカで、15分持たないとアメリカでは認められなかったので、日本舞踊とジャズを歌って、アクロバットをやって、必ず雇ってくれました。
最終的にはアメリカのラスベガスのソロダンサーになりました。
主人とは香港で出会いました。
戦艦サンパブロで撮影があり、メイクアップ・アーティストとして主人が来ていました。
クラブで出るたびに同じお客さんたちで、どうしても会いたいと言うお客がいて、一緒に食事をして、2週間目に「こんにちは赤ちゃん」の歌があり、歌の内容を説明したら、僕の子供を生んでくれと言われてしまい、有難いけど結構ですと2週間断り続けていたら、スティーブ・マックイーンが来て、彼は本当にいい人だから、頼むから結婚してほしいと言われました。
そのうち香港で暴動が起きて、戒厳令がでていたことを知らないで、出て行ったら銃で囲まれて、イギリスの兵隊が来て、日本人として証明する人がいないかと言われて、外国人が来ると言う事は危険な行為であったが、ビルが駆けだして来てくれて、私の婚約者だと言ってくれて、命を賭けて来てくれたんだと言う事を感じて、その1週間後に母親にも内緒で、戦艦サンパブロの艦上で結婚しました。
仲人がスティーブ・マックイーン、ロバート・ワイズ(サウンドオブミュジックの監督)が父親代わり、赤い絨毯を敷いてくれて、音楽があり、三三九度の盃もやりました。
ロスにきてみると詰まらないので、ラスベガスに戻って、彼が金曜日に来て、日曜日の晩に帰ってくることを毎週やってくれました。
そのうちに舞台上で足の靱帯を切ってしまいました。
1年間車椅子でした。
主人がロケーションに連れて行ってくれて、「スター」という映画の時に、ボディーメイクができるかと言われて、出来ると言って、組合に入って、主人が死んでからメイクアップが本気になりました。
映画でもTVでも休みなしでやっていました。
TVをやったお陰でエミー賞をもらいました。
その頃おにぎりを持って行くと、皆が欲しがり(俳優、メイクアップの人たちなど)、教えてくれればやると言う人がいて、運転手まで欲しがるので大きな釜を3つを使って、玄米、白米、ゴマ、ゴマ塩だとかでつくって、その叔父さんが日本のご飯を作ると言う事で売れっ子になってしまった。
そのうち周りも作るになってしまった。
アメリカでは自分の分野ではユニオンで決められているので、威張れる。
私は臨機応変に合わせてやり好感をもたれた。
「フラッシュダンス」 4人のダンサー(男のダンサーもいた)を一人に見せる。
1983年 主役はジェニファー・ビールス 監督が飛んだり跳ねたりさせた。
プロのダンサーになるという夢を抱きながら、昼は製鉄所で溶接工、夜はキャバレーとなる近所のバー、マウビーズでセクシーなダンサーをしながらダンスの練習に励む18歳の女性のサクセスストーリー。
あんなに疲れた仕事は無かったが面白かったし、やり甲斐もありました。
母が来てくれたが、病気になり、1週間病院で、今日退院という時に肺炎になり亡くなりました。
凄くつらかったが世界中の人が親を亡くしているんだと、みんなも悲しいんだと思った時に、ぱちっと切り替えられました。
トラブルのない人はいません、みんなも苦労しているんです、みんな笑っている、負けていられないと思ったら笑顔しかないです。
兄が亡くなり、母が亡くなり、主人が亡くなり、お葬式を3つもやりました。(58歳の時)
凄くつらい時期に仕事、友達に救われました。(アメリカ人は本当に優しい)
アメリカではあらゆる国から苦労して来ている人が多いので、すごく心配する、友達を大事にします。
アメリカでは悪口を言わないことを覚えました。(良い人だろうが悪い人だろうが人のことは関係ない)
私は新1世で、ロスで青森県人会の会長を8年やっています。
沖縄が一番多くて、3000人ぐらいいます。(温かい方の県が多い)
7年前、青森からねぶたを呼びました。
アメリカ人が大騒ぎして、あらゆるTV局が映しに来ました。
去年は3月に作る人を呼んで、アメリカで作って、アメリカ一世、ねぶた一世で大騒ぎで、ハリウッドパレードがあり全米に放送される。
はねと(跳ねる人)、叩く人を3台のバスに乗せて、連れてって、順番が来るまで待たしたり大変なんです。
アメリカ人の子供が一緒になって「ラッセラー、ラッセラー」と言って騒ぎます。
本物のねぶたを見たいと言う事でアメリカ人が青森に来るようになりました。
「2世ウィーク リトル東京」(カリフォルニア州ロサンゼルスにある日本人街「リトルトーキョー」で毎年8月に催される祭)
日本人は真面目、頑張るというのは逸話にあるぐらい。
戦前の人達が頑張ったお陰です。(戦争で虐げられましたが)
あなたみたいな人が勲章をもらってほしいと言って来たが、勲章というものに反感をもっていたが、領事さんが今までやってきた仕事を作成してくれて、日本の政府に申し込んでくれて、領事館推薦は私一人です。
感謝しています。
親は根っこ、貴方は木の芽、根っこに水をやらないと貴方は花咲かないの、それはお金ではなくて、親を思って電話一本で親は喜ぶ。
有名になった人は大概親孝行ですよ、親を大事にする、女性を大事にする、男だったら女を大事にしてください。
「ありがとう」と口だけでなく思えて言える人、「ごめんなさい」と自分の非を認めて素直に謝れる人
これはうちの母が言いました。
「ありがとう」、「ごめんなさい」を言う人はいちばん最高です。(今からでも遅くはないです。)