アラン・ウエスト(日本画家) ・“心の肖像画”を描く
アメリカ、ワシントン出身 53歳 画家を目指してアメリカの大学で勉強していたウエストさんは、1982年来日しました。
その時日本画の画材と出会い、日本画を勉強しようようと決意、本格的な受験準備を始め、1990年東京芸術大学大学院に入学、加山又造教授のもとで日本画を勉強しました。
1992年に東京芸術大学の修士課程を終え、その後狩野派の技法を取り入れながら、日本画の世界を深めていきました。
描くのは自身の心の肖像画だというウエストさん、西洋画から日本画に辿りつき、独自の世界を切り開いてきた画家としての人生、そこから描き出される世界とはどんなものか、伺いました。
毎日和装です。
絵を床に寝かして描きますので足を広げて描かなければいけないので、ももひきが理にかなっています。
アトリエは午後は解放しています。
展示場所と作業場所はすだれで隔てています。
仕事の8割は注文制作です。
「浅田の松」 2.4m×2.4m 料亭の大広間に飾られています。
金澤の本家の浅田松太さんの御父さんが働いていて、料亭の1階で火事が発生して、2階の表側の窓に、迎え松があって、御父さんはその松を伝わって降りていけて、松のおかげで命が救われた。
子供が生まれて松太という名前を付けたが、迎え松を描いてほしいとの依頼があり、父を救ったのと、本人の名前の由来、お客さんを迎える迎え松の役割も果たしてほしいという事でいくつかの意味合いがあります。
1962年 ワシントンDCの出身。
ワシントンDCは政治だけを置くことになり、街作りが綺麗、原生林をそのまま残す様にしたので、ヨーロッパ的に思われる。
4~5歳のころの植物デッサン帖があります。
8歳のころの先生が、これからの人生を決めるのには8歳のタイミングはいいと言われて、画家を目指しました。
カーネギーメロン大学の芸術学部絵画科を目指す。
50倍の競争でした。
作品を50点提出するように言われて、作品がいっぱいあったので、その中からいい作品を持っていったら先生が吃驚して、今まで50点持ってきたのは始めてかもしれないと言われました。
入学したら、画家として提供したいのは純粋な美なので、大学に入るとモダニズムでないとアートじゃないという発想で相当先生方から批判されました。
斬新さを大学からは求められた。
そんな中で疑問を感じるようになりました。
高校の時は油絵をやっていたが、植物を描くのにはもっと液体的な絵具がほしいと思っていた。
思考錯誤して新しい絵具画材を発明したつもりでしたが、展覧会で或る人からこういう技法だと確か昔から日本でも使っていた気がするんだけれどと言われて、それが頭の片隅にあった。
日本に行けば手がかりになると思って、1982年日本に来る。
動物系のタンパク質はうさぎの方を使っていたが、日本に来たら、三千本膠(さんぜんぼんにかわ)があり、鹿のたんぱく質で、うさぎは匂いが臭いが、鹿は匂いが臭くなかった。
鹿にかわは透明度が高く、絵具が光って見え、素晴らしい材料った。
帰るつもりでいたが、画材の出会いの為に住みつくしかないと思った。
岩絵の具は色褪せしない、色の深み、きらめき、透明感の美しさも魅かれました。
これらを使う事によって、ようやく自分の表現が自由にできるということが大きかったです。
東京芸術大学を受験することにする。
加山又造先生の作品にあこがれていました。(いろんな表現を取り入れていました)
東京芸術大学では実技試験で先生の前で実際に描く様になっている、人物デッサン。
カーネギーメロン大学では嫌というほどデッサンの勉強をしたので、非常に役に立ちました。
20分ギリギリで作品が出来、10分の休憩後戻ってくると、新しい紙に入れ変えてもらっていなかった。
この一つのポーズで一枚の紙で4時間かけて描くという事になっていて、非常にびっくりしました。
一回目は落ちまして、二回目は聴講でもどうですかと言われて入りました。
先生から、聴講生を勧めたのは何故かというと、君はどういう絵描きか見たかったと言われました。
1年後に正式に合格しました。
付き合っていた女性の父親から芸大に入ることが前提だと言われていて、に同時にプロポーズしました。
加山先生は戦争中ににかわまで配給がありました。
藤田嗣治先生はにかわの配給の採配をする先生だったので、芸大にちゃんと行きとどく様に見てくださった。
ドーサ液を作る時ににかわを溶かしてミョウバンを入れるが、ミョウバンの分量が判る様になるには、ちょっとだけ舐めると旨味がでてくるというので判るんです。
肉の配給の時代でタンパク質はなかなか手に入らない。
加山先生はその場で、にかわこのうまみ にかわが食べたい、でも食べれば絵が描けない、ハングリー精神の空腹感をもってにかわを使って絵を描いていたという、一つの場面を教えていただいた時、熱意と感謝の気持ちを持って、絵を描く大切さを学びました。
写実的に書けば書くほど虚しくなる、心で感じるものを絵を通して感じてもらえればと思っていましたので、豊かな線が引っ掛かりではないかと考え、細い線が急に太くなったり細くなったリすると、炎のように動いてみえてて、生命感が表現できたらなと思っていて、線を表現するのには狩野派の筆法を取り入れる大切さがあると思って、昔の書類をもって色々勉強しました。
筆は穂先を軽く触れるか、強く押すかによって、線が太いか細いか決まるが、当たりが無いのでふわーっとした感覚で細い線か太い線か昔の人は判っていた。
デッサンをする時に被写体を見ているので、筆の穂先を見ていられないので、20年前から鉛筆、ボールペンを使わないようにして、必ず筆を使ってやっています。(矢立てを常に持っている)
普通に肖像画を描くと、表面的なことしか目立たない、人の優しさ、身ぶり手ぶり、接し方とかそういうのは、きそ?(基礎)(聞き取れず)であると思うので、植物を使う事によってその人のらしさがでてくるのでは無いかと思っている。
作品を渡す時の御客様を見るのが何より幸せなので、お客様が持ってくる課題、楽しみ、面白みを受け続けることがなによりです。