坂田有三(白線ムジカ代表・指揮者) ・嗚呼(ああ)!青春の寮歌
寮歌は旧制高校の寮生を中心に生徒自らが作り、みんなで歌った歌で若者たちの青春の思いが込められています。
全寮制が建前だった旧制高校は明治19年から昭和25年まで、およそ70年間続き、卒業生はおよそ22万人と言われています。
昭和25年旧制山口高校最後の卒業生だった坂田さんは高校時代は山口高校合唱団や市民合唱団に熱中していましたが、合唱や音楽に詳しいことから高校の先輩から寮歌祭に駆り出されるようになりました。
坂田さんは寮歌祭に参加して他の学校の寮歌を知るにつれて、多くの素晴らしい寮歌があることに驚きます。
寮歌祭を重ねるにつれて、世界的にも珍しい寮歌を伝えていこうと云う機運が盛り上がり、歌唱リーダーとして白羽の矢が立ったのが坂田さんでした。
会の名前は旧制高校のOBの白線クラブから取り、「白線ムジカ」、3000曲あると言われる寮歌を探し録音しています。
93歳を最高齢に選抜メンバー7~8人が高齢者施設を訪れ、寮歌、童謡、唱歌、演歌までみんなで楽しく歌っています。
寮歌の保存に取り組み20年、坂田さんに伺いました。
声をだす前に軽いストレッチを行います。
筋肉をほぐして血液を循環させないと良い声は出ない。
現在85歳。
旧制高等学校、明治時代に第8高等学校ができて、大正時代に4つできてその後、順次に出来て38校が旧制高校として存在してきた、全寮制です。
最初の寮歌は明治34年の「春爛漫の花の色」(第一高等学校)
寮歌は約3000曲作られたがその半分は記念祭(寮の文化祭)の為の歌。
歌詞(文系の生徒)を募集して、作曲(理系の生徒)を募集して、毎年寮歌が作られてゆく。(1年にいくつも作られる)
琵琶湖周航の歌、北帰行、豪気節・・・など、著名な歌が残っている。
当時は合唱などにのめり込んでいて、寮歌はあまり歌っていなかった。
父は本来は家業を継いで長唄の家元をやるべき立場だったが学者の道に入って、福島高校から山口高校と、後に山口大学の学校に行き、山口との縁が出来ました。
邦楽系のリズムも身について行きました。
合唱活動に長らく首を突っ込んでいて、寮歌について自分で関心を持ったのは、平成5年ぐらいからです。
平成6年に山口高等学校の開校75周年の行事があり、山口高校の寮歌50曲、全曲を録音してカセットテープにして皆に配布するという事を実行委員会が企画して、録音の為の練習、録音作業を先輩から頼まれました。
その時から本当のかかわりが始まりました。
当時の寮歌の録音としては質の高い録音ができたと思っています。
「鴻南に寄する歌」 大正8年に山口高校ができて、第一回生が東大に進んだ。
彼らが第一回東大文甲会で本郷に集まって即席で作詞、作曲したといわれる。
それを母校に寄贈した寄贈歌です。(大正13年)
映画監督の山田洋次さんが私の一年後輩で、昨年制作した「母と暮らせば」の中で「鴻南に寄する歌」 の一番を歌う場面がでてきますが、その時に歌の指導しました。
全寮制が背景にあって、記念祭という行事をやって、それにリンクした形で生徒が作詩、作曲した曲が毎年毎年作られたという事は世界的にも類例がない。
きちんとした音楽として良い曲は、残してゆく事が意味の有る事ではないか、と考えてそういう活動をやってきました。
おととし、旧制高校寮歌名曲選 140曲を網羅して楽譜、歌詞、解説まで含めた本を出版しました。
昨年、3月から8月にかけて140曲を録音してCDとして完成して、届ける状態になりました。
寮歌を音楽としてきちんと残すには、プロの活動と繋がりをもちたいと思っていましたので長野先生に協力していただいて、出来ました。
寮歌の伝承をどうやって行ったらいいか、寮歌伝承の集いを企画して、今年で5回目になります。
大学の合唱団とのつながりを持って、寮歌コンサートができないものかと考えています。
年に数回、施設に行って歌っています、少しでも元気になって頂きたいと思っています。