2016年7月26日火曜日

柴田久美子(看取りの家)    ・大切な人が旅立つ時に

柴田久美子(看取りの家・なごみの里代表理事)・大切な人が旅立つ時に
日々の暮らしのなかで私達は親兄弟や親しかった人達といつかお別れする時が来ます。
余命何カ月ですと、担当医師から告げられた時、旅ゆく人が残された時間を幸せな最期を過ごす様にと、私たちは考えます。
しかし、その気持ちはあっても仕事があったり、様々な事情からそれがかなわない人達があると思います。
旅立つ人が幸せな人生だったと思えるように、御手伝いをするお仕事、看取り師の柴田さんに伺います。

家族の方々が凄い緊張感でピーンと張った空気感があるが、そこに同じような緊張感をもって、はいると家族の心を和らげる事ができないので、目標としてはモナリザの微笑みをもって、春風のようにそこに行く、それが私達の役割だと思っています。
5年前に離島を離れて本土に来た時に、看取り師と名乗って、看取りという瞬間を皆さんに大事にしてほしいということで、名乗ったんです。
今全国に152名います。
看取り師になるための研修があります。
話すことができないとか、歩く事が出来ないとか、そういう体験を4泊5日でして、当事者意識を身につけてもらって、看取り学を学んでいただきます。
介護をするのではなく、その人の最後、余命告知をされた時などに、病院に帰りたいと言うと、そこのプロデュースをする、訪問の先生、看護士、ヘルパー、ボランティアの人など、メンバーを組織して、その方がきちんと最後まで、最期を迎えられるようなプロデュースする。
最後は腕の中で呼吸をするのが、私達の思いで、ご家族にしてもらう。

穏やかな御顔で旅立って行かれます。
仲好し時間と呼んでいるが、和解をするところまで沿わせていただく。
いきなり抱かれると言う文化は無いので、手を握る、ほほに触れる、身体を抱くという段階を私達と一緒にしてゆきます。
小さなお子さんを亡くされると自然に抱きますが、年齢が上がってくると、暮らしの中でいろんな衝突があったりして抱く事が出来なくなってしまう。
亡くなる方はみんな笑顔です、柔和な顔で亡くなって行きます。(こちらも深い笑顔で対応します)
私がこの活動に入ったのは25年前ですが、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸でも最後の1%が幸せならばその人の人生は幸せなものに変わる」とおっしゃったが、この言葉に突き動かされて、看取りの世界に入りました。

小学校6年の時に、父が胃がんで余命3カ月と宣告されて亡くなってゆきました。
父は自宅で沢山の人に囲まれて、最後の時に私の手を握って「有難う 久美ちゃん」と言いながら目をつぶるんです。
初めて人の死を見たので、長い時間手を握っていたら、冷たくなって硬くなってゆく、母が指を一本ずつ離してくれた。
泣き続けて、それが私の初めての看取りでした。
その時に父の部屋の空気が凄く輝いていて、障子の桟がくっきり見えて、その空気感を再体験したいという思いでした。
高校卒業して大阪に行き、「ユダヤの商法」(藤田 田著)に魅せられて、YMCAを卒業するとファーストフード店で働きました。
子育て、妻、主婦などに完璧主義でありたくて、追い詰められてゆく。
眠れず持っていた睡眠剤を多量に飲んでしまい、店の人が発見して、緊急入院しました。
会社をやめる決心をして、離婚をしてでてゆくか、というところまで追いつめられました。
何故人間って生きているんだろうと思って、マザー・テレサに導かれて、「愛こそが生きる意味だ」という彼女の声を聞きました。
そして看取りの世界に入りました。

最初、隠岐島の老人の介護。
誰もが決まった様に病院に運ばれてくることへの疑問、自分もそうなると思って、最後は自分らしく
亡くなって行きたいと思いました。
自分の好きなところで、好きな音楽を聞きながら、自分の好きな香りの中で、亡くなってゆく、それが私の人生そのものを完成させると思っていました。
入ったが出来ていないことが判った。
600人の人口の一番少ない島です。
豊かな自然と温かい人情がありました。
「人間は治る時が来たら治るから、柴田さんそんなにあわてなくて良いよ」と、言われました。
自然治癒力、その考え方に驚きました、手を合わせる思いでした。
身寄りがない、介護力が無いと島を出て行かなくてはいけない人達がいて、一人でも良いからその人達を抱いて送りたいと思いました。
4年間ヘルパーとして、働きましたが(抱くというまでには行きませんでしたが)、その間にも島を出てゆきました。

ガンになり、治ったら看取りの家をしますと、マザー・テレサに誓って手術を受けました。
手術が成功したので、看取りの家でこの世界に入りました。
今は岡山市で在宅で、エンジェルチームと共にやっています。
一番つらかったのはパーキンソン病を持った74歳の女性、最後は看取りの家でという覚悟をして医療にはかかりませんという事で、身体の機能が低下、家族と本人と私で毎朝、どうしたい、どこで誰に抱かれてどんなふうにと、毎日質問していました。
娘さんが帰った後に、呼吸困難になり、「ここでいいですね」と聞いたら、「病院ね」とはっきり言った。
その後救急車がきて、娘さんに替ってもらった。
その後亡くなられるが、「病院ね」という言葉が最後の言葉となり、娘さんは聞いていない。
葬儀に参加したが、娘さんから香典を私にぶつけられたがお悔やみを言って帰って行った。
毎日確認しながら来たが、それを覆した、どんな形が良かったのか判らなかったが、娘さんの気持ちを考えると辛かったと思います。

60歳の女性のガン患者、幸せに最後を送りたいとの娘さんの要望。
余命1カ月で、離婚していて父方に息子さん、娘さんが一緒に暮らしていた。
自分の墓が無くて、当人は心配していた。
亡くなる前日、息子さん、娘さんに二人で替り番こに手を握ってさすってくださいと言って、翌朝抱かれて旅立っていきました。
息子さんは警察官で、非番の時も交番に行っていて、母の死を受け入れたくないという思いだったが、きちっと立ち会って御別れをした。
彼は素晴らしい警察官になるであろうという弔辞を読まれた。
手を握る、抱いてあげる、家族と一緒にそれをすることによって命そのものを次の世代に渡してゆく、という事をさせて頂いている。(丁寧に御見送りする)
家族にきちんとした死生観をつたえる、死を家族がどうとらえるかで、大きな差がつく様に思う。
臨終がすべてではなくて、臨命終時、そこから命の引き渡しが始まります、といって、冷たくなるまでずっとそこにいて触れて頂く、それが命そのものを受けとる、命そのものを受けとることによって生きる元気や勇気が湧いて来る。

老いて動けなくなって、抱いてあげた人に抱かれる。
母が抱いた皆が、今度は皆が母を抱いてあげる、それが命を繋いでゆくということ。
今、5か所の研修所(北海道、関東、岡山、長崎、石川)があり、殆ど毎月行っています。
179支部があります。
家族はどうしたいという事を聞けないので、先ず最初はその御手伝いをします。