野田あすか(発達障害のピアニスト・母恭子) ・あなたはあなたのままでいい
33歳 あすかさんは子供のころから人とコミュニケーションがうまくとれず様々な戸惑いや苦しみを感じてきました。
高校時代はいじめにも会い、憧れの国立宮崎大学でも過呼吸の発作などから退学をせざるをえませんでした。
自分を傷つける自傷行為も何回かありその原因が広汎性発達障害と判ったのはあすかさんが22歳のときでした。
そんなあすかさんの心の支えになったのは幼いころから続けてきたピアノでした。
数々のコンクールでグランプリや輝かしい成績を収め、4年前遂に念願のソロリサイタルも成功させました。
あすかさんのピアノに心の音を吹き込むきっかけになったのはピアノの恩師田中幸子先生の「あなたはあなたのままでいいのよ」という言葉でした。
初めて自分を肯定してくれたこの言葉はあすかさんに新たな生きる勇気と自分の心を音楽で表現する力を与えてくれました。
演奏会の前日ピアノの練習場であすかさんとお母さん(恭子さん)に伺いました。
あすか:ピアノを弾く時は優しい気持ちで弾きます。
4歳からピアノをやってきました。
母:あすかは子供のころ、優等生でした。
得意な教科は音楽、数学 理科 苦手な教科は美術、体育、社会、 5と2がはっきりしていました。
夫が待ちに待った女の子だったので宝物の様に育ててきました。
あすか:学校のチャイムの始まりと終わりが同じだったので授業が始まりなのか、終わりなのか判りませんでした。 違う音にしてほしい。
母:こだわりと集中力は人一倍強かったです。 ピアノがあすかだと思っています。
あすかは自分の心をつたえるのが苦手ですが、ピアノで伝えることは人一倍得意です。
自分の気持ちを優しくして、優しい気持ちをつたえようとする、その思いは本当にこの子でないとできないと思います。
あすか:お母さんの気持ちが機嫌のいい時と悪い時と音で判る、お母さんがいるからしゃべると怒られます。(笑)
始まりが違います。 機嫌が悪い時は高さがG音一個ずれます。機嫌のいい時は普通です。
母:小学校のころからのあこがれの大学だったので、合格した時には涙を流しながら喜びました。
過呼吸が月に1回から1週間に1回、そして毎日の様に過呼吸を起こしていました。
*あすかさん、苦しかった? 覚えてない?
うん。
*病院に入院したと言うのは覚えているでしょう。
あすか:何となく。
*病院にいた時はピアノ弾いていたの?
あすか:先生がカギを締めるまでは。 駄目と言われても私がピアノを弾くから。
*ピアノが原因だと言われたが、お医者さんたちはそういう風に診たんですか?
母:今は広汎性発達障害という風に診断がでていますが、当時は乖離性障害の方が頻繁に出ていて、何が原因でかえり現象が起こすのかという事で、ピアノではないかとか、私が厳しかったので私が原因ではないかとか、原因追求する為にピアノから離したんです。
このピアノが原因だとしたという事で、鍵を閉めてピアノから離そうとされました。
*乖離性障害とは?
母:ストレスを感じた時に自分が自分で無くなる現象が起きるんです。
中学2年の時に髪の毛をしらない間に抜いたり、過呼吸、リストカット、2階から飛び降りて骨折もしました。右足が不自由になりました。 左足を使います。
努力家で集中力がすごいので、毎日毎日物凄い時間ピアノを弾いています。
12時間とかずーっとピアノを弾いていて飽きないです。
ピアノと一緒に生きている、ピアノに支えられて、ピアノに助けられました。
あすかが元気でいられるのは本当にピアノとともに生きてきたからだと思います。
*「手紙 小さいころの私へ」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
どういう気持ちを込めて作ったのですか?
あすか:あれは小さいころの私に、今の私が手紙を書いたのが歌詞になっていて、内容は私が小さいころに周りに助けてくれた人がいたかもしれないが、自分の気持ちを言っても嫌われると思ったからいわなくて、嘘ついたりして、すごく悪い子だったから、今の私はピアノを弾いて気持ちを伝えられるようになったから、そんなに頑張らなくても周りに味方がいるという風に、小さい頃の私に言いたくて書いて、聞いている人もきっと同じ様にうまくいかなくて苦しんでいる人がいたら、救われるといいなと思いました。
*あすかさん 歌も凄い上手ですね。 声学も勉強したの?
あすか:ううん、歌の授業を受けようとしたけれど、下手だから受けなくていいと先生に言われました。
あすか:20歳超えてから田中先生に会いました。 最初怖い先生とおもいました。
母:宮崎大学からどうしても音楽の勉強をしたいという事で、地元の私立の短期大学に長期履修生として転校しました。
*初めは怖かった先生がとっても好きになった原因は?
あすか:私のいろんな障害を聞いて、皆がどうしようとか思っているのを見て私は少しさびしくて、田中先生は判っていても判っていなくても一緒だったから、この先生は病気ではなくて私のピアノだけを見てくれていると思った時に大好きと思いました。
「貴方は色々あるかもしれないけれども、貴方のピアノは私は大好きだから、貴方は貴方のままでいいんだよ」と言ってくれました。
*それを聞いた時はうれしかった?
あすか:うん、吃驚した。
*自分でリサイタルをやったのは最近ですよね? やりかったの?
あすか:やりたかったけれども無理だと思った、準備とか人を集めたりとかできないから。
一人でホールで弾いてお客さんが一人もいないのはさみしい。
母:前から開きたいと言っていたが、1時間~1時間半の曲を一人で弾くのは体力もですが、覚えられないので無理だと思ったが、色々な方の協力ででき上った時には本当にうれしかったです。
コンサートを開く事で自信につながったので、この自信は本当に大きかったです。
*広汎性発達障害が判ったのはいつごろですか?
母:22歳の時です。
ずーっと病院にも通っていたし、入退院もしていたので、ウイーンに短期留学していて、向こうで倒れてウイーンの国立病院に運ばれて夫婦が迎えにいったが向こうの先生から言われました。
発達障害の名前さえ知らなくて、治らないと言われた時にはショックでした。
それから毎日の様に夜中に夫婦で色々な話し合いをしたが、一番大きな心配は私たちが生きている間はいいのですが、一人になった時に生き抜く力があるのだろうかとか、これから一人で行くにはどうしたらいいのかとか、それには結論が出ないんですね。
それが一番辛かったです。
*発達障害と判った時にあすかさんはどう思いましたか?
あすか:良かったと思った。 今までいろんなことを皆と同じようにできるように努力してきましたけれど、なかなか皆と同じようにできないことがいっぱいあって、私はみんなよりがんばってないんだとおもって、もっともっと頑張ったができないことがいっぱいあって、できないことがある障害だと言われた時に、私の努力もそこまでやらなくても、良かった、こんなに頑張っていたものでと思った。
気が楽になりました。
*リサイタルが終わった時田中先生は何とおっしゃいました。
あすか:なんか言いたそうに褒めてくれた。(笑)
「上出来です」と言ってくれました。でもその前に「宿題はありますけど」、と言った。
そこ何かあるでしょう。
母:リサイタルが終わって涙が出まして、花束をあすかから貰ったんですが、あすかに私が「いい先生に出会って良かったね」といったら、あすかがぽろぽろ涙を流しながら「そうだよ、いい先生に出会って良かったよ、大学も社会も私を全部知っていたけれど、この先生だけは私を受け入れてくれた」という一言に本当に涙が出ました。
あすかの一番苦しい時は、一人でいろいろ乖離現象と闘っていた頃、何かみんなと違うのではないかと比べていた時が一番苦しかったと思う。
気がついてあげられなかったことが残念でした。
この子の優しい音を聞いていると、苦しさと一緒にあるから、優しい音が出されるのではないかと思い、そのサポートをするのが親の役目ではないかと最近では感じています。
自宅で7名ぐらい生徒を教えています。
あすか:でも辞めようかと思っています。 演奏活動を一生懸命頑張っていきたくて。
私がレッスンを休んでしまうと小さい子はやる気が無くなってしまうので、最初から毎週レッスンしてくれる先生に預けることが丁寧だと思いました。
*あすかさんの経験を、同じような悩みを持っている方々に講演などで話をされているそうですね?
母:あすかの音を聞いていただきたい。 音楽を伝えたいそのサポートの方に回ろうと思います。
よりあすかが輝く様に、そういう講演をしたいと思います。
*ピアノを通してどんなことを聞く人に判ってほしい? 伝えたいですか?
あすか:どんな人にもほっとしてもらいたいです。聞いて、今日も頑張ろうと思ってほしいです。
これからも はい 弾き続けます。
母:演奏活動をしてゆく中で、心と心のふれあい、自分の音が相手につたわった喜びを感じ始め出したので、それを沢山の人に知ってほしいと思います。
どんな障害の方でも生きる力になること、何か生きる力はあすかの場合はピアノだったので、そういったものを探して一緒に頑張っていけたらいいなと思っています。
「生きるためのメロディー」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
あすか:私が初めて作った曲で、人がそれぞれ違うんだよという事を題にしていて、みな親も違うし、生活も違うし、障害のあるかないかも違うし、いろいろ違うけど一人ひとりみんな一生懸命生きていて、一人ひとり違ってそれでいいと言うのを歌にしました。